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妖言-絆鬼つなぐおに-改正版(一般向け)

    「俺と逃げよう」

     色男がそう迫ったのは、部屋持ちの遊女である。遊女もまた、そこそこの美女であった。

    「俺は、元陰間だ。年季が明けて行く宛てもなく、恥ずかしながらも夜鷹で食っている。あんたの気持ちは、痛いほど分かるつもりだ。それに、妓の身となりゃ、まだまだ年季も先だろう」

     迫られた遊女は、諦めたような苦い笑いを浮かべた。

    「嘘は、およしよ。夜鷹が、こんなとこに来る金などある訳ないだろう。ましてや、あちきでも買えやしないだろうさ。それに、あんた程の器量じゃ、未亡人が放っておかないだろう」

     男も、同じように苦笑した。

    「流石、部屋持ちだ」

    「花魁どころか、座敷すら持ててやしないんだ。流石なんて付けるんじゃないよ」

     男が黙って俯いたので、妓は続けた。

    「あんた、越中から売られてきた男だろ。……覚えていてくれたんだね」

     男は、はっとした。

    「一緒の人買だったものね。最後に食べた蕎麦も覚えてるよ。あんたは、あちきに殆ど食べさせてくれた。そんな男を忘れられやしないよ」

     男の目から、涙が零れた。

    「あの日を覚えているかい? 同じ越中で売られてきた日は、大雪の夜だった。あんた、俺になんて言ったかなんて、覚えてないだろうね。それでも俺はあんたに心底惚れちまって、ずっとあんたを探していたんだ」

     遊女は、男の涙を袖で拭った。

    「なんて言ったかねえ。あんたとは、沢山話したものねえ」

    「どんなに汚れても、雪が白く思い出せる限り、必ずまた逢おうと」

    「そうかい」

     遊女は立ち上がると、箪笥の引き出しから、片手に収まる程度の小さな木箱を取り出した。更に、懐から小刀を出すと、横に並べて置いた。

    「あんたに、覚悟はあるかい? あるなら、この箱の中に小指を落としな」

     男は、最初からそのつもりだったのであろう。持っていた糸を袂から出すと、左手の小指をきつく縛った。遊女の小刀で、その小指の第一関節から先を切り落とす。思わず漏れた呻き声と共に、男の小指は鮮血と共に木箱に落ちた。

     続いて遊女も同様に左手の小指をきつく縛ると、同じ小刀で、男にならって左小指の第一関節から先を切り落とした。遊女の小指もまた、鮮血と共に箱へと落ちた。

    「これで、あんたは、あちきと死んでくれる訳だ」

    「ああ。生きている限り、俺達には地獄しか無いだろうね」

     遊女は、男に抱きついた。

    「抱いてくれるかい?」

     男は顔を苦痛に歪めながら、首を左右に振った。

    「客に、移されちまったからな」

    「ああ、だから夜鷹なんだね」

     男は、遊女を強く抱き締めた。遊女は囁いた。

    「いいよ。どうせ、二人であの世に行くんだ」

     二人は、互いの温もりだけを確かめるように、長い間そうして寄り添った。

     そして、数日後の早朝。

     妓楼近くの溝川で、男女の抱き合った遺体が上がった。けれど、その男女の左手には小指があったのである。

     遊女が小指を失った事に、妓楼の者達が知らない筈はなかった。遊女達は心中の噂をしていたし、主人や男衆は遊女の足抜けに十分警戒していた。

     そんな時、お海の噂が流れる。

     どうやら、鬼と通ずる歩き巫女が居るようだと。

     勿論、お海はどちらの味方でもない。こんな儲からなさそうな痴話に乗るつもりなどさらさら無かったのだが、どうにも気になって仕方の無い事がある。

    (俺を呼び出して、何をさせる気なのだ)

     時々、噂が捻れて広がり、伝説のようになって、ひとり歩きする事がある。今回も、その類かと思った。

     そんな噂を聞いてみるのも、忍海にとっては一興なのである。

     忍海は、珍しく男の姿で、噂元の妓楼のある遊郭街を訪れた。

    「お兄さん、とんでもない色男じゃないか。あちきを買っとくれよ」

    「お兄さん、私で遊んでいかないかい」

     忍海は鼻で嗤いながら、引手茶屋へと足を運んだ。

    「あそこの妓楼が良いな。金はそこそこ用意したが、花魁は面倒だ。直ぐに話せる部屋持ち程度で良いから、紹介してくれよ」

     忍海が財布と懐刀を茶屋に預けると、預かった茶屋の世話役の男は納得したように引っ込んだ。忍海の財布には、小判が十両程入っている。

     忍海が、出された酒と肴を楽しみながら暫く待っていると、同じ世話役が戻ってきた。

    「お客さん、どうでしょう。部屋持ちと言わずに、せめて昼三など」

     忍海は物臓そうに答えた。

    「面倒な妓に興味は無いから言っているのだ。切見世でも構わぬが、干渉されたくないので、面倒のない部屋持ちでと言っているのだ」

     再び、世話役は引っ込んだ。

    (興醒めしてきたな)

     妓女の匂いに、客引きの声、煌びやかな色の景色。忍海にすれば、吐き気がするような状況である。忌々しい昔を思い出して仕方が無い。鬼の噂をと思って来たものの、後悔した。

    (帰るか)

     忍海は、適当な世話役を呼んだ。先程とは別の男だったが、淡々と告げる。

    「気分が醒めた。帰る」

     忍海が持ち物を返して貰い、引手茶屋を出たところで、最初の世話役が慌てて駆け寄ってきた。

    「お客さん、お待ちください。花魁が、会ってみたいと」

     忍海は、鼻で嗤った。

    「三度も通う気は無いのだが」

    「いえ、初回から遊んでもいいと」

    「ほう」

     ふと妓楼の方に目をやれば、二階の窓の隙間から、熱い視線を感じる。

    「なるほどな。その花魁に、是非ともお目にかかろうかね。ただ、あっちの態度によっては、俺は帰るからな」

     忍海は世話役に案内され、更に妓楼に着くと、下男に部屋へと案内された。

    (嫌な匂いだ)

     昔、過ごした場所に、よく似ている。鼻を突く妓の匂いで思い出した。別の分家の従兄弟と、知り合ったのも妓楼であった。向こうも忍海と同じ嫡男で、年齢も同じだった。従兄弟は毒の訓練で目が殆ど見えなかったが、それすら忘れさせるくらい、普通であった。忍海が一族を飛び出す決心が付いたのも、従兄弟が一族を出たと聞いた為である。

    「霧雨花魁、連れてまいりました」

    「入りなんし」

     下男は襖を開けると、一礼してその場を去った。忍海の目の前には、煌びやかに着飾った花魁がしゃんと座っている。

     忍海は、遠慮なく目の前にどかっと座った。

    「霧雨と言ったかい。見た所、あんたは附廻くらいか」

     花魁は、袖元で顔を伏せながら笑った。

    「そう思われても仕方無いかね。一応、これでも太夫だよ」

    「ほう。初回に、どんな風の吹き回しかい?」

    「あちきだって、たまには自分好みの色男と話したいのさ」

     忍海は、隠していた小判を一枚取り出すと、霧雨の前に置いた。

    「まさか、太夫だとは思わなかったんでな。今は一枚しか持っていない」

     花魁が忍海を睨んだ。

    「なんの真似だい?」

    「俺の出身は、美人だけを掻き集めた里だ。お陰で、美人にはすっかり飽きちまっていてね。話を聞かせて貰いたいだけさ」

     霧雨は、忍海の置いた小判を拾った。

    「情報料ってことかい?」

    「そうさ」

     忍海は、にやりと笑って見せた。そして、霧雨との間に丁度良い距離を保ちながら、着物に焚き込められた独特の香が漂う位置に座り直した。霧雨の鼻腔にその香が届いた刹那、胸が何故か熱くなるような気がした。

    「香かい? 良い匂いだね」

    「俺なりの身嗜みさ。話すだけなら、あんたも楽だろ」

     霧雨には、忍海の纏う空気が不思議と眩しく感じられた。この男に逢ったばかりだというのに、妙に心が乱れる。

    「何が知りたいんだい?」

    「ここの店主が、鬼の歩き巫女を探しているとの噂を耳にしてな。何の為にと興味を持ったのだ」

    「そんな事を知って、どうするのさ?」

    「俺の里にも、鬼ではないが歩き巫女が来た事があるのだ。興味だよ」

     霧雨は、少し間を置いてから口を開いた。

    「逃げた妓女が見つかったんだよ。男と二人、隠れていたんだって。手引きした下男は、旦那に殴り殺されちまった。その男は折檻として桶伏せにされている。妓女の方は、中庭に吊るされているよ。男は身体が弱いらしいから、桶の中で死んでいるかも」

    「なかなか、泣かせる話じゃないか」

    「駆け落ちなんて、出来るはずないのにね。だから、皆心中するのさ」

    「二人で居たら、この世に未練が湧いちまったんじゃないのかい。地獄に仏を見たら、そんな気にもなっちまうのかもな」

     霧雨が話し終えると、忍海は立ち上がって部屋を後にした。

    「霧雨。面白い話だったな。また来るよ」

     霧雨の言っていた中庭だと思われる方へ足を向けると、確かに、素っ裸にされた全身痣と血塗れの腫れ上がった妓が、木から吊るされている。

    「妓、生きているか?」

     忍海が問い掛けても返事は無かったが、代わりに妓は妬ましい目を忍海に向けた。

    (その目、俺は気に入った)

    「妓、助けてやろうか? 幾ら出す?」

     妓は、血の混じった唾を飛ばした。勿論、忍海にまでは届かない。

    「近々、お前の前に鬼の巫女が現れるだろう。一度だけ話す機会があるかもしれない。もし、その機会があったのなら、その恨み辛みを話してみろ」

     忍海は、それだけ告げると妓楼を出た。

     今度は、桶伏せの小窓から中を覗いてみると、これまたぼろ雑巾のような男がぐったりと入っていた。

    「生きてますかい?」

     忍海は茶化すように、桶の中へと声を掛けた。

    「はい」

     蚊の鳴くような声が、返ってきた。

    (こりゃ、いつ死んでもおかしくないな。しかし、ここまでやるかねえ)

     最近、心中や駆け落ちが流行っている所為もあるのかもしれない。見せしめにしては、少々やり過ぎな気もする。

    (俺もおいたが過ぎて、ぼっこぼこにされた事はあるが……これでは、殺すのが前提では無いか)

     忍海としては、店主は勿論、妓女からも金を巻き上げる気、満々である。

     忍海は、一度客として妓楼を出ると、遊郭街の影でお海となり、再び妓楼を訪ねた。男衆が店主へと、お海を繋いだ。

    「本日も、祈祷をさせて頂きに参りました」

    「ちっとも効かんのではないか?」

     店主は、怒り気味である。

    「ええ。とても強力な呪いですから。けれど、その正体が分かりました」

    「呪いだと?」

     店主が怯え、裏声を上げた。

    「先ずは早急に、桶伏せの男を帰してやる事です。あの男が、呪いの根源のようです。殺しては駄目です。殺せば、命を奪われた下男が祟り殺すでしょう」

     店主は男衆に命じて、桶伏せへと向かわせた。

    「中庭に、誰か居ますね? 更に強い恨みを感じるのです。そこは、私が説得しましょう」

     店主は、近くにいた女将と顔を見合わせた。お海が、中庭の妓女の事を知っている理由が分からなかった。中庭は、今は誰も通さないようにしているから、お海が妓を見る事など有り得ないのだ。

     店主と女将は、お海を中庭へと案内した。半殺しにされた妓が、相変わらずぶら下げられている。

    「つりつりですか。これは、良くない。原因は、これですね。この遊郭街中から、つりつりにされた遊女の恨みや怨念が、あの妓女に集まってきております」

     お海が残念そうに言うと、店主は叫んだ。

    「どうすればいいのだ?」

    「先ずは、あの妓女を下ろしてあげてください。それから、私が恨みの念と話をしましょう。それまで、決してその姿を見たり、話を聞いてはなりませんよ。もし、そんな事をしたら、その場で呪い殺されるでしょうから」

     感情を見せず、冷たく微笑んだお海の顔に、その場の者は皆恐怖した。

     店主は男衆に命じて妓を下ろさせると、その場からお海を残して全員退却した。

     十分人払いが済んだ所で、お海は妓に交渉を持ち掛けた。

    「先立って、貴方の大切な殿方は逃がしましたよ。さて、巫女の口利き致しませぬか?」

     妓は、忍海を思い出した。

    「あんたが、鬼の巫女さんかいね。あの人の部屋の下に、私がこっそり貯めた金を隠している。まだ、三両くらいはあるだろう。それを全部持って行けばいい。一緒にある、心中箱だけは残しといておくれ。その金で悪いけどさ、あの人に鰻だけは食べさせてやってくれないか」

    「お代は十分ですね」

     お海は、袂から薬包を出すと、それを妓に見せた。

    「この薬は、貴女の心の臓を止めるもの。運が良ければ、外の世で目を覚ます事になるでしょう。最後に、もう言いたい事は無いのでしょうか?」

    「なら、神様に聞いとくれよ。なんで、あたい等はこんな目に遭わなくちゃいけないんだい。あの人だってそうさ。何も悪い事なんてしていない。身も心もぼろぼろに成り果てても、ただ生きているだけなんだ。こうまでしても、こうまでなっても、生きているだけなんだよ」

     妓から嗚咽が溢れた。

    「あの人に伝えて。待ってる、って」

     この妓の姿が、忍海にとって、ふと懐かしい面影に見えた。

    (俺も、随分と丸くなったものだな)

     お海が妓に薬を与えると、妓は眠るように息を引き取った。

    「ご主人、終わりました」

     お海の一言で、隠れていた店主と女将が飛び出してきた。

    「こちらの妓女が、全ての恨み辛みを請け負って息を引き取りました。ですが、この身体には全ての怨念が取り憑いています。鎮めるには、桶伏せの男の元へ送り届ける必要があるでしょう。送り届けたら、この男女の事は無かったことにするのです。さすれば、少なくともこの妓楼は、全ての呪いから解放されるでしょう」

     店主も女将も大いに喜び、どの道遺体の処理に困るところだったと、早々男衆に支度を始めさせた。

     妓の遺体は裸のまま筵で包まれ、荷物よろしく大八車に括られた。

     お海は店主から最後の代金を受け取ると、耳元で忠告をしてから妓楼を出た。

    「再び阿片に手を出しましたら、また呪いが戻るでしょうから、今度こそお気を付けて」

     ぼたぼたと、店主の足元に汚い水溜まりが出来た。

     お海は鰻を買うと、男の貧乏裏長屋を訪ねた。

    (予想以上に酷いところだな)

     衛生環境も悪ければ、食うに食えない痩せ切った住民が、ぼんやり座っている姿も目にする。

     その中でも特に安い部屋であろう、厠横のきつい悪臭漂う部屋が男の住居であるようだ。

     お海は思わず、鼻を抑えて声をかけた。

    「ごめんください。旅の巫女にございます」

     返事は無いが気配はするので、少しだけ戸を開け覗いてみた。

     部屋に畳は無く、使い古された筵が敷いてあるだけである。

     その上に、筵に包まりながらぼんやり座る男と、無事に届けられた妓の遺体が横たわっていた。妓には、男が着ていたであろう着物が着せてある。

    「巫女の口利き致しませぬか」

     お海に気付いた男が、幽霊の様に顔だけ動かした。目から、はらはらと涙が溢れている。

    「妓楼で、その方と最後に話をしました。その方からの言付けを持って参りました」

     お海は、買ってきた鰻を差し出した。

    「最後に、食べさせてやって欲しいと頼まれましたから、お持ちしました。この方は、貴方様を待っていると、申しておりましたよ」

     お海がにっこり笑うと、男は妓の遺体の上で泣き崩れた。ここまでの体力がまだあったのかと思う程、泣くに泣いた。その姿のせいか、お海は妓に言われた三両を回収する気も無くなってしまった。

    「貴方様に、もし強い想いがあるのでしたら、その方はあの世から戻ってくるかもしれませんね」

     恥も外聞も関係無い、大声で幼子よろしく泣き喚く男をそのままに、お海は裏長屋を出た。

    (後は知らぬ)

     それでも、何故だろうか。妙に清々しい気持ちが、忍海の心に残ったのである。

    (あの男女も長くはないだろうな。それでも、最後くらいは夢を見れたのだろうか)

     裏長屋を抜けて表通りから旅籠の方へ向かう途中、騒がしい声が聞こえてきた。

     どうやらまた、どこかの男女が心中したらしい。

     心中を企て、失敗すれば重罪である。それでも、男女の心中は絶えないでいる。

    (生きるも地獄、死んでも地獄、ならば死んで地獄を選ぶか)

     時代外れの、歩き巫女が居るという。

     本来であれば、神と人を繋ぎ、人を救うのを使命とする。

     しかし、この歩き巫女は、鬼と呼ばれ、鬼と噂された。

     けれど、いつの頃からか。鬼では無く鬼子母神だとの噂も流れ始める。

     本物の鬼か、それとも鬼子母神なのか。

     それは、出逢した者によるのかもしれない。

     越中からの再会を果たし、互いの温もりを確かめた遊女と元陰間ではあるが、互いの小指を入れた心中箱は、妓の方が預かった。そして、金の無い男の代わりに、今夜のお代は自分の借金にするよう、妓は下男に言い付けた。

    「今晩の金くらいは、貯めて来ているよ」

     男は、申し訳無さそうに妓に告げた。

    「あの世にも金が要るだろう。それに、あんたが食べる分の金はあるのかい」

     男の身体が、恐ろしい程やせ細っている事に、妓は心配した。

    「二、三日くらい平気だよ」

    「その金で、蕎麦でも食べて帰りな」

     男は余りの情けなさに、顔を悲痛に歪めた。

    「そんな顔はおよし。こんなあちきを、ずっと想って迎えに来てくれたんだ。地獄に仏でも見た気分だよ。さあ、今日は帰んな。あんたがあの日の事を今でも覚えていてくれてるんなら、あの場所も覚えているだろう。そこで、待っていておくれよ。何れ逢おうじゃないか」

     この日、男は妓に言われて大人しく帰った。唐瘡であると伝えたにも関わらず、愛してくれた妓の心に改めて泣いた。妓の肌の温もりが、切なく身体に残ったままである。

     男は、とぼとぼと妓楼を後にした。呼び込みの声、客の笑い声、煌びやかな遊郭街の風景が眩しく歪む。もう二度と、足を踏み入れる事は叶わないであろう。一生に一度のつもりで、食う物も食わずになけ無しの銭を貯めて来たのだから。

     妓の言う、あの場所が男には分からなかった。告げられた刹那、自分を突き放す為の優しさだと知った。それでも、男は何処かで妓との繋がりを信じたかった。

     遊郭街を抜けた際、二八蕎麦の屋台が目に付いた。男は、蕎麦を一杯注文した。

    (美味いなあ、美味いなあ)

     蕎麦どころか、まともな食事など、何時ぶりだろうか。

     男は蕎麦を食べ終えると、町外れへと足を運び、少し遠くからぼんやりと木戸門を眺めた。

    (通行手形どころか、身元保証も無いのだ。生きてこの土地から抜け出すことすら、叶わぬのだろうな)

     ガラガラと、大八車が木戸門を通過していく。男は諦めて、いつもの川岸へと向かった。

     客を取る為である。妓のお陰で、数回の食事と家賃代くらいは手元に残ったが、それでも稼がなければ生きてはいけない。それに、叶うなら妓と最期くらいは美味しい物を口にしたいと思った。

    (寿司、天麩羅……最後なんだ。屋台じゃなくて、もっと良い物がいいな。そうだ、鰻なんてどうだろうか)

     陰間の時に一度だけ、羽振りの良い客に食べさせて貰ったことがある。

    (あれは、美味かったなあ)

     男は顔こそ器量はあれど、中豚なだけに男の客付きが悪かった。その上、早くして痔に悩まされてしまい、喰うのにぎりぎりの日々を送ってきた。

     ある日、ふらりと気紛れにこの男を買った金持ちの未亡人が、男を哀れに思い、鰻をご馳走したのである。男は、未亡人の優しさと鰻の美味しさに、泣きながら食べた。

     年季が明け、男妾になる事すら適わぬままに。最初は提重をしていたものの、実は不義密通であったと亭主にこっぴどく痛め付けられてしまい、夜鷹とならざる得なくなったのである。

     裏長屋で、厠横の一番安い一室を借りて住んでいる。毎晩筵を抱いては、この川岸で客を待った。

     唐瘡を患ったと気付いたのは、夜鷹を始めてから半年後の事である。今はまだ症状が落ち着いてはいるものの、再びいつ発症するのかが分からない。一度感染すれば、落ち着いてもまた何れ発症すると、陰間時代よく耳にした話である。

     いっその事、死んでやろう。何度、そう思った事か。

     流行りであろうか、遊女と客の心中をよく目にした。遊郭街の溝川で、度々男女の遺体が上がるのだ。いつしか、心中溝と呼ばれるその場所は、妓楼の男衆が必ず見張りに現れる場所となっている。それでも、未だに男女の心中は絶えない。

    (俺には、共に死んでくれる人もおらぬ)

     そう思った時、妓を思い出した。本当に妓が共に死んでくれるとも思ってはいなかったし、寧ろ自分の事など覚えてすらいないと思っていた。

     嘘でも良かった。それが例え偽物でも、入っているのが何処ぞの分からない死体の指でも。妓を信じて死ねれさえすれば良かったのだから、本当に欲しかったのは心中箱である。それを抱いて死ぬつもりで、銭を貯めて妓を訪ねた。妓を探し出したのも、この世の未練を断ち切る為である。自分の居場所も、存在も、何もかも否定したかったから。

     それなのに、妓は男に小指を寄越すよう告げた。これから自分は死ぬのだから、そのくらい構わないと思い、心中箱に言われたままに小指を落とした。続いて、まさかの妓もそこへ小指を落とした。

     男は妓が自分を覚えていることも、妓が目の前で小指を落としたことも予想外であった。そして、心中箱を持ち帰ろうとした男から、妓はそれを取り上げ告げたのだ。

    「これは、あちきが預かっておくよ。この世を恨みながら死ぬには、丁度いいからさ」

     今晩は、老婆が一人釣れた。十六文貰って、最後までした。老婆は、最後に男へ一言告げた。

    「落ちぶれた色男は、儚げで好きさ。また、買いに来るよ」

    「どうも、ご贔屓に」

     更に、老婆と老人の二人の客を取った。老人には尻が良くないと怒鳴られ値切られたが、それでも何とか渋々に十六文払って貰えた。

     この日は客足が悪かったので、男はいつもより早いが長屋に戻って寝た。

     朝になって、激しく咳き込んで起きた。風邪を引いたかもしれないと思い、次の日は休んでゆっくり眠った。妓が妓楼の代金を肩代わりしてくれたお陰で、男は休んでいられるのだ。感謝に涙が溢れた。

     やはり、独りで死のうと決めた時、一箇所だけ妓との思い当たる場所が脳裏を過ぎった。

     男は直ぐに、勘違いだろうと首を振った。それでも、その場所がどうしても気になり他に思い当たらず、どうせ駄目であるならと、黄昏時になって、その場所に足を運んでみた。

     越中から二人連れられ、この土地に初めて足を踏み入れた晩のことである。

     勿論、越中から連れられて来たのは男と妓の二人だけでは無かった。ここまで何人かいたが、それぞれ売り場が決まっていたらしく、早々に買われて行った。

    「お前さん二人は、他の奴等より器量が良いからな。良い店に高値で買って貰うつもりだ。上方から来たと言うから、合わせるんだ。売れるまで、なるべく喋るなよ」

     女衒は二人に、一杯のかけ蕎麦を食べさせながら、そう告げた。二人とも、齢七つの頃である。男は先に蕎麦を啜ると、蕎麦は好きじゃないからと妓に差し出した。その心は、男が女を守ってやらないといけない、そんな使命感だけである。

    「雪が白く見えるうちなら、また逢えるよね」

    「もし俺が先に自由になれたら、あんたを探すからね」

     二人、指切りをした。この時は希望であり、売られてからは絶望の指切りである。日々を重ねる事に、指切りの約束が果たされる事は無いと二人とも諦めた。

    「悪いけど、この場所にみすぼらしい若い男が来たら、毎日弁当を届けてやってくれないかい」

     妓は下男に、地図と銭を渡した。

    「いなかったです」

     と、下男が妓に告げたのは最初の二日だけ。

    「弁当、渡しましたよ。数日前、来た客でしょう。代金を肩代わりしたり、そんなに気に入りましたか?」

    「あの男は、生き別れた私の兄弟みたいなもんさ。見逃しておくれよ」

     この下男は、妓を水揚げしてからずっと妓についている。頭が悪く、妓楼の男衆でも下の方である。妓女にも馬鹿にされてはいるが、聞けば下男も越中から来たと言うので、妓が情で世話を焼いているのである。そんな事を続けているから、妓の借金は減らないし、他の妓女や男衆に目を付けられて客も取れないでいた。

    「花魁にもなれない安い妓にもさ、夢を見せてくれるんだ。そのくらいの価値はあるだろう」

    「それは、あっしの所為ですよ。姐さんは、あっしを見捨てるべきです」

     妓は口元だけ寂しく笑った。

    「同じ故郷の者同士だ。気にするな。あちきが唐瘡で伏せった時、あんたが世話を焼いてくれたから、症状も治まって、今こうして居られるんじゃないか」

     下男は、顔を伏せた。

    「姐さんが、あの男を好いているのでしたら……あっしは、姐さんの幸せを見届けたいです。なんでも、言い付けてください」

    「あんたも、馬鹿な男だね。それじゃ、あんたが殺されちまうよ」

     妓は箪笥から、心中箱を取り出した。

    「これさ、あの男がくれたんだ。あちきの物と一緒に入れている。これだけで、年季まで頑張れる気がするんだ。それまで、悪いけど。あの男に弁当を届けてやっておくれよ」

     下男は頷いた。

     少し前から、この妓楼の店主は阿片売買にも手を出し始めていた。これが、思った以上に儲かるので、何人か下男を雇って、販売の手を広げていたところであった。時には、陰間や遊女にも、その手は伸びた。

     阿片とは、どんなものか。そんなに良いものか。との好奇心が店主の心を動かしたのが、ほんの少し前の出来心。店主の言う悪夢の、呪いの正体である。

     男が妓を思い出し足を運んだのは、最後に二人で夜鷹蕎麦を食べた裏路地である。人気は無く、鬱蒼としていて、少しの密談をするには丁度良い。しかし、通りも裏長屋も直ぐなので、逢い引きするような場所では無い。

     今はもう夜鷹蕎麦は無いし、ただ変わったような変わらないような景色があるだけである。

    「これ、姐さんから」

     妓の居る妓楼の法被を着た下男が、弁当を手に男へと声を掛けてきた。よく見れば、妓が雑用を言い付けていた下男である。向こうも、先日の客だと気付いたのだ。

    「これは?」

    「姐さんが、毎日持って行けって言ったから」

     男は、涙で声が出せなかった。惨めで情けなく、嬉しくて温かい。

    「姐さんは、あんたの為に年季まで頑張る気だよ。あんたも、頑張っとくれよ」

     男は、その場でおいおいと泣き崩れた。その姿には、恥も外聞も無い。

     数日してから、男は血を吐いた。先日からの咳の正体が、労咳であると気付かされた。

     その日、男は弁当を持ってきた下男に、膝を着き額を地面に付けながら告げた。

    「俺は、年季が明けるまで待ってやれなくなってしまった。血も吐いたから、もう長くも無いだろう。弁当はもういい」

     男は、袂から櫛を取り出した。安物の櫛だが、男にとっては精一杯の品である。懸命に貯めた金で、最後に何とか買った。

    「どうしても、何か礼をしたくて。こんな物しか、贈ってやれないのだけれど。俺の事を忘れてくれても構わないから、せめて幸せになって欲しい」

     妓が妓楼から姿を消したのは、この日から数日のうちである。これに手引きした、下男は殴り殺された。店主は、下男を加減無く痛め付けはしたものの、殺すつもりは無かった。

     以来、下男が、夜な夜な悪夢として現れるのだという。

    「祓い屋を呼べ!」

     暴れる店主に、医者が告げた。

    「鬼の歩き巫女の噂をご存じでしょうか?」

    「なんだ、それは?」

    「金で、面倒事を消してくれるそうですよ。どうせ頼むなら、鬼の方が合っているのでは?」

     お海の噂など、この程度である。この程度の方が、忍海にとっても都合が良い。

    「何処にいるのだ?」

    「さあ、鬼ですから。神出鬼没のようです。噂が流れれば、現れることもあるとか」

    「呼べ! 呼んでくれ!」

     医者は知っていた。店主の気狂いが、阿片の所為であると。阿片で儲けているくせに、支払いになると値切りに値切る店主が医者は気に入らなかった。没落してしまえ、鬼に喰われればいいのにと、腹の中で思っていた。だから、お海の噂を教えたのだ。なんせ今日も、難癖付けて診察代を値切ろうとしてきたのだから。

     心中を誓った男女であるが、命を懸けた下男のお陰で、妓は男の貧乏裏長屋の一室に隠れていた。幸いにも畳が無いので、誰か来た時には床板を外してそこに隠れた。

     こうして二人で居ると、元は心中するつもりが未練が湧いて、少々この世が名残惜しくなるものである。

    「豆腐を炊いたんだ。少しは食べられるかい」

     男の身体は、最低限しか動かない。どうせ、間もなく死ぬのだ。無理に心中しなくても良いだろう、互いにそう思い始めていた。

    「吐いてでも食べるよ。こんなに温かい物は贅沢だ」

    「体力付けないとね。さ、身体を支えてやろうね」

    「俺は、今が一番幸せだ。このまま、死んでもいい」

    「馬鹿言うんじゃないよ。心中にも体力がいるだろう」

     妓は男の頭を自分の胸元に抱えると、程良く冷ました湯豆腐を、少しずつ食べさせた。今日は、吐かずに咳き込まずに食べられたので互いに安心した。これなら、明日も生きていられる筈だ。

     妓が隠して持ってきた金で、男には毎日、豆腐や卵を食べさせた。お陰で、少しずつではあるが、男の体力は回復していった。若さも幸いしたのであろう。男女共に、まだ齢二十三である。

    「卵が好きだろう。今夜は卵にしようか」

    「お前は、食べているのかい?」

    「あんたが食べられない分、食べているよ。昨日は天麩羅蕎麦を食べたし、その前は寿司を食べたよ。どうだい? 羨ましいだろう。早く食べられるようにならないとね、連れていってやれないじゃないか」

     妓は嘘を付いた。男の残した冷や飯しか食べてはいない。仮に目の前に豪華な食事を並べられても、男が心配で喉を通りそうもなかった。

    「そうかい。最近、あんまり視界が良くなくてね。あんたと妓楼で会った最後の日から、心中する前に鰻でもと思って金を貯めていたんだ。それでも俺の稼ぎでは刻が掛かるし、何よりこんな身体になっちまって。あんたの分の金しかないんだけど、鰻を食べてきてくれないか」

     妓の目に、堪えきれない涙が溢れた。

    「あんたの分くらい、"あたい"が出すよ。一緒に食べなきゃ意味が無いだろう」

     妓は、思い付いたように続けた。

    「その金で、鰻、買ってきてやるよ。少しくらい食べれるだろ。半分にしよう。あの時の蕎麦みたいにさ」

    「ちゃんと一人前、食べさせてやりたいな」

    「元気になったら、駆け落ちしよう。そしたら、別の土地でやり直すんだ。働けるようになれば、鰻だって何だって食べられるよ」

    「駆け落ちかあ。夢みたいな話だ」

     男が眠ると、妓は裏長屋を出た。早速、鰻の蒲焼を買う為である。

     鰻屋の前で、妓は妓楼の男衆に捕まった。

     少しの刻を置いて、裏長屋の男の部屋に妓楼の男衆がやって来て、男を捕まえた。妓が捕まった事で、男の住まいが特定されたのである。

    「ひでえな」

     男が寝込んでいた所を無理矢理引き摺り、妓楼へと連れて行かれる男の姿を見た野次馬は、口々にそう呟いていた。それでも、この不幸にも哀れな男女の行方が、人々にとっては娯楽の如く気になるのである。それは、忍海にとっても例外ではなかった。

     数日前から、男の姿で遊郭に入り、巫女に化けて妓楼の店主に声を掛けていた最中である。

     最初、店主の部屋に入って早々。お海は、店主の気狂いが阿片の所為だと臭いで気付いた。店主の態度にも少し不満があったので、金を毟れるだけ毟り取ってやろうと決めた。

     そこで、連日の悪夢は殺してしまった妓女を逃がした下男の祟りだと信じ込ませ、祈祷と称しては毎日金を払わせている。何日かに一度、男として霧雨に顔を出す事で、怪しまれない様にもした。同時に、妓楼の様子も探っていた。

     忍海がいつものように妓楼に近付くと、時代遅れの桶伏せがあった。

    (おや?)

     と思い、忍海のまま、霧雨を訪ねた。

     忍海の姿を見た男衆は、いつもの如く、慌てて霧雨へと告げに行った。すると、霧雨はどんなに忙しくても、忍海を迎え入れるのである。

    「ああ、今日こそはゆっくりしてくれるかい?」

    「霧雨よ。そんな事より、外の桶伏せはなんだ?」

    「外の、ね」

     霧雨は、少し間を置いてから答えた。

    「逃げた妓女が見つかったんだよ。男と二人、隠れていたんだって。手引きした下男は、旦那に殴り殺されちまった。折檻として、男は桶伏せにされている。妓女は、ぼろ雑巾みたいにされて、中庭に吊るされているよ。男は身体が弱いらしいから、桶の中で死んでいるかも」

    「なかなか、泣かせる話じゃないか」

    「駆け落ちなんて、出来るはずないのにね。だから、皆心中するのさ」

    「二人で居たら、この世に未練が湧いちまったんじゃないのかい。地獄に仏を見たら、そんな気にもなっちまうのかもな」

     忍海はそれだけ聞くと、霧雨の前を後にした。

    -[完]-

     
     
    個人自由作家。幕末小説中心に、ハード一般向け〜エログロナンセンスまで。受賞・出版・商業連載歴あり。漫画原案・原作経験も。関西拠点で同人誌・即売会参加。AI補助で文章整理も。仕事相談可。

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