
八十年、繋がる。
この記事はなんらかの政治的・歴史的主張するものではありません。
ひとつの家族のおはなしです。
帰らなかった曽祖父
私の母方の曽祖父は、太平洋戦争で戦死しています。
曽祖母は二十代半ばで未亡人となり、二人の子供(私の祖母と大叔父)を女手ひとつで苦労して育てました。
戦後の世の中を生きていくには、現代っ子の曽孫の私には想像もつかない困難の日々だったと思います。
しかし必死に育てた大叔父は、やっと社会人になった頃に病気で早世。
あの時もっといい医者に早く見せていれば、と曽祖母は後年になっても悔いていたとばあちゃんっ子だった母は言っています。
やがて祖母が婿を取り家をつなぎ、母、そして孫である私が産まれています。
高齢になるまで曽祖母は元気で屋外の仕事を続けていて、会うたびに働き者の手で曽孫の頭を撫で目を細めて喜んでくれました。
そんな曽祖母はもう十年以上前ではありますが、九十代で亡くなりました。
その頃には施設に入っていましたが、働き者の手だったのが嘘のように、まるで深窓のお姫様のように真っ白で綺麗な手になっていたのを覚えています。
私には弟がいますが、ぱっと見ではあまり父には似ていません。
弟は叔父、そして大叔父に似ていると昔から言われていました。
けれども不思議なことに、父と叔父の真ん中に弟を並べると、その中間なことが分かるのです。
これに気がついたのは、曽祖母の葬儀で久しぶりに血縁者が揃った時のこと。
弟が成長し、成人男性になってくると如実に血縁を感じる顔になったことがわかったのです。
じきに大叔父が亡くなった歳に近付いていた弟は、祖母にとっては面影を感じるようになっていたかもしれません。
曽祖父が戦死したのは、ある南方の激戦地でした。
その地の名前で検索をすれば、最初に出てくるのは「玉砕」の文字。
お察しの通り遺骨はもちろん戻りませんでした。
祖母は薄っすらと出征の見送りに行った記憶があるようなのですが、三歳くらいだったのでほとんど曽祖父のことは覚えていないようです。
写真と曽祖母の言葉だけが父親のよすがだったことでしょう。
仏間の写真を見る限りでは、曽祖父は弟、叔父、大叔父に似てはいますがもっとすっきりした面ざしで一番男前かも。
曽祖母は結婚するまで曽祖父に会ったことはなかったと、祖母は言っていました。
祖母も元気ではあるものの、もう八十代になっています。
孫の私もそれなりな年齢であることをお察しください。
令和ならできること
そんな中、戦没者の遺骨をDNAで特定し、遺族に返還したというニュースをいくつか見ました。
それは曽祖父のように南方だったり、被爆者だったり。
古い遺骨でも判明するなんて、現代の科学技術の進歩はすごいのだな…と思いながら検索してみると、厚生労働省の遺骨返還についてのページを発見。
現在でも遺骨採集、返還事業は継続して行われていました。
その中の対象地域のリストを確認すると、なんと曽祖父の最期の地である島も含まれていました。
以前はもう少し厳しい条件が必要だったようなのですが、近年緩和されたそうで、必要な書類を揃えれば、採集された遺骨と遺族とのDNA鑑定を行なってくれるとのこと。
その島の戦没者の数や、採集された遺骨の数などを鑑みると宝くじや雲を掴むような話かもしれません。
それでも、万が一でも億が一でも。
遠い異国の地で帰らぬ人になった曽祖父と、残されて女手一つで苦労をした曽祖母を同じお墓に入れてあげられるかもしれないという期待。
叶ったら、どんなにいいことだろうか。
私は母に相談し、祖母にこの話を切り出すことにしました。
祖母は最初は「今更…」という風に渋ってはいました。
八十年という時間の長さは、色んなことに躊躇する気持ちがあったようです。
絶対に見つかるとは限らないけれど、何もせずに後から「やっておけばよかった…」となるよりはと母と共に話をしたところ、承諾。
母が厚生労働省に問い合わせると、娘である祖母のDNAで申し込みができるとのこと。
その際にひとつ問われたのは、男系の血縁者がいないのかということでした。
具体的に言えば、曽祖父の兄弟の子孫か、息子の血縁者。
一言にDNAといえども、血縁者を特定するには男系である方が望ましいとのこと。(詳しくは厚生労働省のページをご覧ください)
ここで昨今話題の「男系」という意味を、まさか突きつけられるとは。
しかし残念ながら、曽祖父の兄弟の子孫などいたとしても現在は付き合いがなく連絡は今更とれず、先述のとおり息子である大叔父は早世。
子供である祖母が、鑑定するには唯一無二であったのです。
女系の孫にあたる母や、まして曽孫の私では遠いのだと。(不可能ではないようです)
祖母が元気なうちに鑑定を、と思い立てたのはやはりいいタイミングではありました。
母が書類の作成をすることになったので、祖母には役所で取った曽祖父の戸籍謄本のコピーを送ってもらいました。
旧字や手書きの癖などを読み解き、必要事項を拾い集めると、そこには出生地といった基本的な事項だけでなく、曽祖父の戦死までが思っていたよりも細かく書かれていました。
幼子であった祖母の「この島で戦死をした」という記憶以上のことが分かったのです。
どこから出征し、どの島へ向かったのか。何月何日、どの辺りで亡くなったのか。その報せを誰がいつ伝えたのか。
そして、戸主をまだ産まれたばかりの息子(大叔父)にしたというところで記載は終わっていました。
それは、やっと三十歳になろうかという曽祖父の、生きてきた過程でした。
出征のタイミングを考えると、曽祖父が大叔父の誕生を知っていたのかはわかりません。
小さな子供と妻を残して遠い南の島へ行き、帰らぬ人になるまで曽祖父は何を思っていたのでしょうか。
きっと、とてつもなく心残りだったに違いありません。
その先に繋がっている曽孫の私は、ただ「戦死」と聞いていた頃よりも、目の前に曽祖父が一人の人間として感情を持って立っているような心地でした。
やがて厚生労働省から鑑定の手続きを受け付けたという連絡があり、祖母のもとに鑑定キットが送られました。
手順を確認して自身で採取し、返送する手筈です。
祖母は息子である叔父と一緒に暮らしています。
内容が難しければ、叔父に確認するようにと伝えたのですが、祖母は一人で全てやりたいとのことでした。
そこに祖母なりの感情があったように思います。
送付からDNAの鑑定が出るまでは、相当の時間を要します。
まだこれを書いている現時点では、結果が出ていません。
よい結果が出るかどうかは、確率を考えれば本当に難しいことだと思います。
それでも、八十年前の心残りを「手を尽くした」のだと祖母が受け止めてくれればいいなと思っています。