
友達だねの点滅
初対面の人に、会って5分で「キャリアウーマンですね」と言われたことがある。私の経歴は別にキャリアウーマンではない。会ってすぐのたった一言で、友達の予感は一気に消灯した。そこから逆に、友達になれそうってどんな時に思うんだろう?と考えている。
「自分のことを、この丸だとして」と空中に指で丸を書いたら、向かいに座っている同僚は、フォークを置いて「うぁあ!」と悶絶した。何事かと焦る私に、「続けてください」と胸を抑える同僚。
「え、あ、いやそれで……自分がこの丸だとして、全員にこの丸全部を見せるわけではなくて、例えばこの人にはこの部分、という感じで一部を見せたりするじゃん」と私は続けた。
同僚は、私が空中に丸を描いた時、あまりに自分と同じ感覚を持った人が現れたことに、衝撃を受けたらしい。私が丸を描くまでの間、ご飯を食べながら、あれやこれやと話してきて感じていたシンパシーが、丸を描いた瞬間にいっぱいになって弾けたようだった。そこからは、延々と日々感じることを伝え合っては、お互いに話が止まらなかった。
ご飯に行ったのは初めてだったけれど、もう同僚という域を完全に超えた、友達の会話をしていたな、と帰り道思ったことを覚えている。
そもそも私がご飯に誘ったのは、同僚が仕事について「かき混ぜて、泡立てて、泡が消えるのを見て終わりって感じです」と言ったことがきっかけだった。独特の徒労感を、的確に表した印象的な言葉だった。そんな表現を使う人だったのかと、その言葉がずっと頭に残っていて、ゆっくり話してみたいなと思ったのだ。友達の予感は、あの時に点滅していた。
ある時、友達と「仲良くなれそうな人って、どんな人なんだろう?」という話をしている時に「短歌にしたい部分が同じ人」という言葉が出てきた。
でも、違う部分があるからこそ友達になったりもする。何をどう見るか?という眼差しが同じでも違くても、その眼差しをお互いが良いな、と思えることが大事なのかもしれない。「ある短歌について、同じくらいの熱量で一緒に話すことができる」くらいがちょうど良いのだろうか。
その日は「この短歌がすごくてさ」などと、楽しい話を2人でひとしきり話した後、そのまま大人数の飲み会へと一緒に合流した。
みんな声が大きくて、がははと笑い、誰がどうしたこうしたというゴシップ飛び交う飲み会だった。さっきまで私たち、短歌の話していたんだよなと不思議な気持ちになるほど、違う世界の話。
しっかり気を張り、しっかり笑い、飲み会を終えると夜道には、きれいな満月が浮かんでいた。綺麗だなあと思ったけど、このメンバーの空気で言ってもかなぁ、と口には出さなかった。月をこっそり眺めながら、とりとめもない雑談をして駅に向かって歩く。
すると、後ろにいた私の友達が「わー、月きれい!」と言った。私は、とんでもなくうれしくって、すぐには振り返れなかった。ああ、そういうところがあなたの最高なところなんだよ!友達だねという気持ちの再点滅だった。