
変身願望
あらすじ
小学生の悠真は、ある朝、目を覚ますと、家で長く飼われている三毛猫・ミケの体になっていた。
家には悠真の靴もランドセルもスマホも残っている。けれど、家族は悠真を見つけられない。母と父が息子を探すなか、姉の千夏だけが、いつもと違うミケのしぐさに少しずつ気づき始める。
猫の体になった悠真は、自分のいない家を見ながら、姉の進路、友人とのすれ違い、家族が言えずにいたことを知っていく。自分が見られていなかったと思っていた悠真は、自分もまた、大切な人たちのことを見ていなかったのだと気づく。
悠真は猫になったのか。ミケはどこにいるのか。
家族が探していたのは、本当に悠真だけだったのか。
これは、少年と猫と、弟を見失った姉が、もう一度それぞれの場所を見つける物語。
第1章 ウチには僕が生まれた頃からいる飼い猫がいる
ウチには僕が生まれた頃からいる飼い猫がいる。
名前はミケという。
三毛猫だからミケ。姉ちゃんがつけた名前らしい。僕が生まれたとき、姉ちゃんはまだ五歳だったから、たぶんそのまま見た目で決めたのだと思う。
ミケは、たぶん家族の中でいちばん古い顔をしている。
父さんが仕事から帰ってきても、ミケは玄関まで迎えに行かない。母さんがごはんを出しても、少し匂いをかいで気に入らなければ、何も食べずに台所から出ていく。姉ちゃんが「ミケー」と呼んでも、眠いときは耳だけ動かして、目は開けない。
それでも、誰も本気では怒らない。
「ミケはしょうがないねえ」
母さんはいつもそう言う。
僕が同じことをしたら、しょうがなくない。
返事をしないと怒られる。
ごはんを残すと怒られる。
宿題を忘れると怒られる。
朝、なかなか起きないと、布団をはがされる。
ミケは朝になっても寝ている。昼になっても寝ている。夕方になってようやく起きてきて、水を飲んで、またソファの背もたれに飛び乗る。
最近は、その飛び乗り方も前より下手になった。
一回、床の上で後ろ足を踏み直してから跳ぶ。失敗したときは、何もなかったみたいな顔で毛づくろいをする。誰かに見られていると、少しだけ別の方を向く。
ミケにも恥ずかしいことがあるのかもしれない。
そう思うと、ちょっとだけ面白かった。
「悠真、プリント出した?」
朝ごはんの途中で、母さんが言った。
僕は味噌汁のわかめを箸でつまみながら、すぐに返事をしなかった。
「プリントって?」
「昨日言ったでしょ。家庭科の申し込みのやつ」
「あー」
忘れていた。
ランドセルの一番下に入っている。たぶん、算数のノートと漢字ドリルの間で、ちょっと曲がっている。
「今日までだからね」
「分かってる」
「分かってるなら昨日出しなさい」
母さんはそう言って、フライパンを流しに置いた。油のにおいが少し残っている。卵焼きの端っこが皿の上で冷めていた。
テーブルの下では、ミケが僕の足に頭をこすりつけていた。
「ミケ、今こないで」
小さく言うと、ミケは聞こえなかったみたいに、もう一度こすりつけてきた。
母さんはそれを見て笑った。
「ミケは悠真のこと好きだね」
そうなのかな、と思った。
ミケは僕のことが好きというより、僕の足のあたりがちょうどいいだけだと思う。冬は暖かいし、夏は扇風機の風が当たる。宿題をするときも、ゲームをするときも、ミケは僕の近くにいる。
でも僕がミケを撫でようとすると、すぐにどこかへ行く。
好きなら撫でさせればいいのに。
「悠真、牛乳飲んだらもう出なよ。今日、班で何かあるんじゃなかった?」
「別に」
本当はあった。
理科の発表の班で、誰が何を読むかを決めることになっていた。昨日、だいたい決まったけれど、僕のところだけ少し残った。
残ったというより、押しつけられた。
今年のクラスになってから、そういうことが増えた。
四月のクラス替えで、陽太とは別のクラスになった。去年は席も近かったし、休み時間はだいたい陽太といた。別に毎日一緒にいる約束をしていたわけではない。でも気づくと隣にいた。
今年は、休み時間になると陽太のクラスまで行くか迷う。
行けばたぶん話せる。けど、向こうには向こうの友達がいて、ドアのところから呼ぶのが少し面倒くさい。
僕のクラスにも話す人はいる。
でも、去年みたいに、何も言わなくても隣にいられる感じではない。
昼休み、みんなが校庭に行くとき、僕だけ上履きのかかとを踏んで少し遅れる。図書室へ行くほど本が好きなわけでもないし、教室に残るほど用事もない。結局、校庭に出て、誰かのサッカーに混ざる。
混ざるけど、最初からいた人みたいにはならない。
それが、毎日少しずつ疲れる。
「行ってきます」
牛乳を飲み終えて立つと、ミケが僕の椅子に飛び乗った。
僕がいなくなるのを待っていたみたいだった。
「そこ、僕の席」
ミケは丸くなった。
母さんが笑う。
「取られたね」
取られたね、じゃない。
でも、僕は何も言わずにランドセルを背負った。
玄関で靴を履いていると、姉ちゃんが階段から下りてきた。
制服のスカートがいつもより少し短く見えた。髪は半分だけ結んでいて、片方の耳に小さな銀色のピンをつけている。
「千夏、朝ごはんは?」
母さんが台所から聞いた。
「いらない。コンビニで買う」
「また?」
「時間ない」
姉ちゃんはそう言いながら、スマホの画面を見た。親指だけが速く動いている。玄関に置いてあったローファーに足を入れたあと、僕のランドセルに少しだけぶつかった。
「邪魔」
「そっちがぶつかったんじゃん」
「玄関で止まってるからでしょ」
「靴履いてただけだし」
姉ちゃんは返事をしなかった。スマホの画面を伏せるように手で隠して、すぐに鞄へ入れた。
「千夏、今日も遅いの?」
母さんがまた聞いた。
「図書館寄る」
「塾じゃなくて?」
「図書館」
少しだけ間があった。
「進路希望、今週中でしょ」
「分かってる」
姉ちゃんの声が、さっきの僕と同じ言い方だった。
分かってる。
本当に分かっているときも、何も分かっていないときも、家ではその言い方になる。
姉ちゃんは玄関のドアを開けた。外の光が細く入ってきて、廊下の床に白く伸びた。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
母さんの返事が終わる前に、姉ちゃんは出ていった。
僕もあとから外に出た。
門のところで、姉ちゃんはもう少し先を歩いていた。鞄についた小さな金具が、歩くたびに鳴る。僕の足音とは全然違う速さだった。
同じ家から出ているのに、姉ちゃんはもう別の場所へ行く人みたいに見える。
僕は、ランドセルの肩ひもを引っぱり直して、学校の方へ向かった。
学校は、いつも通りうるさかった。
昇降口の前で、六年の男子がボールを蹴って怒られていた。二年生が泣いていて、先生がしゃがんで話を聞いている。僕のクラスの靴箱には、もう半分くらい靴が入っていた。
教室に入ると、僕の席の後ろで、大地たちが消しゴムを飛ばしていた。
「悠真、今日読むとこ決めた?」
大地が聞いてきた。
「何を?」
「理科。昨日言ったじゃん。お前、まとめ読むんだよね」
「え、まとめは大地じゃなかった?」
「俺、実験の説明やるって」
「聞いてない」
「言ったし」
大地は笑っていた。悪いと思っている顔ではなかった。
横にいた中村が、「じゃあ悠真でよくね」と言った。鉛筆を指ではじきながら、こっちを見ないで言った。
よくない、と言いたかった。
でも、言ったところで、じゃあ誰がやるのかという話になる。誰もやりたくないところが、僕に残っただけだ。
「分かった」
そう言うと、大地が「助かる」と言った。
助かる、じゃない。
僕はランドセルを机の横にかけた。中から教科書を出そうとして、家庭科のプリントが少し曲がったまま出てきた。
母さんに言われていなかったら、たぶん忘れていた。
一時間目の前に先生へ出すと、先生は「あ、ありがとう」と言って受け取った。それだけだった。
忘れても、たぶん少し怒られるだけだったのかもしれない。
でも家で怒られるのと、学校で怒られるのは違う。家の怒られ方は体に残る。学校の怒られ方は教室に残る。
どっちも嫌だった。
理科の発表は、思ったより普通に終わった。
僕はまとめのところを読んだ。声が一回だけ裏返った。大地が横で少し笑ったけど、先生は気づいていなかった。
発表のあと、陽太のクラスの前を通った。
陽太は窓際の席で、知らない男子とノートを見せ合っていた。楽しそうというほどではない。でも、そこにいるのが自然そうだった。
僕は声をかけなかった。
放課後、家に帰ると、ミケが玄関のたたきに座っていた。
「ただいま」
言ってから、自分で変だと思った。
ミケは返事をしない。少しだけ目を細めて、しっぽを一回動かした。
靴を脱いでいると、階段の上から姉ちゃんの声が聞こえた。
「だから、そういうこと言ってないじゃん」
電話だった。
姉ちゃんは自分の部屋にいるらしかった。ドアは少しだけ開いていた。僕はランドセルを背負ったまま、階段の下で止まった。
「別に、水野くんのせいにしてないって」
水野くん。
たぶん彼氏だ。
前に一度、家の前まで来たことがある。背が高くて、髪が少し茶色かった。母さんは「同じクラスの子?」と聞いて、姉ちゃんは「そう」とだけ言った。
同じクラスの子にしては、姉ちゃんの声が少し違った。
「今それ決められないって言ってるだけ」
電話の向こうの声は聞こえなかった。
姉ちゃんが息を吐く音だけが聞こえた。
「うん。もういい。切る」
それから、何かがベッドに落ちる音がした。
僕はそっと階段を上がった。
姉ちゃんの部屋の前を通るとき、ミケが僕を追い越して、開いたドアの隙間から中に入った。
「ミケ」
僕は小さく呼んだ。
姉ちゃんの声がした。
「いいよ。入って」
僕に言ったのか、ミケに言ったのか分からなかった。
たぶん、ミケだ。
僕はそのまま自分の部屋へ行った。
宿題を出すためにランドセルを開ける。算数のプリントが一枚。漢字ドリルが一ページ。理科のノートに、先生の赤い丸がついていた。
机に向かっても、なかなか始められなかった。
隣の部屋から、引き出しを開ける音がした。紙をめくる音。ミケの小さい鳴き声。
そのあと、姉ちゃんが言った。
「そこ乗らないで」
ミケは、たぶん机に乗った。
すぐに姉ちゃんが笑うような、怒るような声を出した。
「あんた、どこでも自分の場所みたいな顔するね」
僕は鉛筆を持ったまま、動きを止めた。
それはミケに言っている。
分かっている。
でも、なんとなく、僕も言われた気がした。
夕飯のとき、姉ちゃんはほとんど話さなかった。
母さんが「進路希望、書いたの?」と聞いた。
「まだ」
「早めに出しなさいよ。先生にも相談した方がいいんじゃない」
「相談してる」
「県外の大学は、ちゃんと考えてからにしてね」
姉ちゃんの箸が止まった。
「考えてる」
「お金のこともあるし」
「分かってるって」
また、その言い方だった。
父さんはテレビを見ていた。ニュースの音が少し大きい。誰かがどこかで頭を下げていた。僕には何の話か分からなかった。
「千夏、食べないの?」
母さんが聞いた。
「食べてる」
姉ちゃんの茶碗には、まだごはんが半分くらい残っていた。
僕が同じくらい残したら、母さんは「ちゃんと食べなさい」と言う。でも姉ちゃんには、それ以上言わなかった。
姉ちゃんはもう、大きいからだと思う。
大きいと、言われなくなることが増えるのかもしれない。
それがいいことなのか、嫌なことなのかは分からない。
食後、姉ちゃんはすぐ部屋へ戻った。ミケもついていった。
僕はリビングで宿題の続きをした。算数の最後の問題が分からなくて、何度も消しゴムを使った。紙が少し黒くなった。
母さんは洗濯物をたたんでいた。父さんはテレビを見たまま寝かけている。
僕は、ソファの背もたれを見た。
いつもなら、そこにミケがいる。
でも今日は、いなかった。
姉ちゃんの部屋にいる。
ミケはいいな、と思った。
ドアが少し開いていれば、誰の部屋にでも入れる。
机に乗っても、怒られて終わり。
電話の声を聞いても、何も聞いてない顔をしていればいい。
分からないふりをしても、誰にも責められない。
僕が姉ちゃんの部屋に入ったら、絶対に怒られる。
「勝手に入らないで」
それで終わりだ。
でもミケなら、入れる。
姉ちゃんも、ミケには少しだけ話す。
僕には言わないことを、ミケには言う。
それはずるいと思った。
宿題が終わったのは、寝る時間の少し前だった。漢字ドリルの最後の一行は、かなり雑になった。母さんに見せたら、「もう少し丁寧に」と言われたけど、やり直しにはならなかった。
風呂に入って、歯を磨いて、自分の部屋に戻る。
廊下の向こうで、姉ちゃんの部屋の明かりがまだついていた。
ドアの隙間から、ミケが出てきた。
僕の足元まで来て、顔を上げる。
「いいな、お前は」
小さく言った。
ミケは、僕を見ていた。
何か分かっているような顔だった。でもミケはいつも、何か分かっているような顔をしている。たぶん、実際には何も考えていない。
「僕も猫になれたらいいのに」
口に出してから、少し恥ずかしくなった。
誰も聞いていない。ミケしかいない。
ミケは返事をしなかった。
ただ、僕の部屋に入って、ベッドの下を一回のぞいてから、机の下に座った。
「そこ、寝る場所じゃないよ」
言っても、動かない。
僕はあきらめて布団に入った。
天井の木目が、暗い中でぼんやり見える。隣の部屋から、姉ちゃんが椅子を引く音がした。スマホの通知音が一回鳴って、すぐに止まる。
明日も学校がある。
理科の発表は終わったけど、今度は算数の小テストがある。休み時間に誰といるかも、給食の班で誰の隣になるかも、朝になればまた考えないといけない。
ミケは、そんなことを考えない。
姉ちゃんの部屋に入れる。
母さんに撫でられる。
返事をしなくても許される。
どこにいても、自分の場所みたいな顔ができる。
いいな、と思った。
猫になりたい。
今度は、ちゃんと思った。
ミケみたいになれたらいいのに。
明日の朝、目が覚めたら、学校に行かなくてもよくなっていたらいいのに。
そう思ってから、僕は目を閉じた。
すぐには眠れなかった。
姉ちゃんの部屋の明かりが消える音を聞いた。廊下を歩く足音。階段の方へ行って、すぐ戻ってくる音。たぶん、水を飲みに行ったのだと思う。
そのあと、部屋の戸が少しだけ開いた。
ミケが、僕の布団の上に乗ってきた。
重い。
「ちょっと」
言ったけど、ミケは動かなかった。
布団の上で丸くなって、僕の足のあたりに体を置いた。温かかった。
僕は足を少しだけずらした。ミケは、それに合わせて少しだけ体を丸めた。
そのうち、どこまでが自分の足で、どこからがミケの重さなのか、分からなくなった。
目を閉じたまま、姉ちゃんの声を思い出した。
あんた、どこでも自分の場所みたいな顔するね。
僕は、そういう顔ができない。
教室でも、家でも、姉ちゃんの部屋の前でも。
ミケの喉が、布団の上で小さく鳴っていた。
ごろごろと、低い音。
それを聞いているうちに、僕は眠った。
第2章 手じゃなかった
朝、目が覚めたとき、布団が重かった。
夜にミケが乗ってきたからだと思った。足のあたりにあった重みが、そのまま胸の方まで移ってきたみたいで、息が少ししにくい。
布団から顔を出そうとした。
うまく出せなかった。
いつもなら、腕で布団を押して、肩を起こせばいい。けれど、布団の端がやけに遠かった。中で体をひねると、布が体にまとわりついて、足の場所が分からなくなる。
「ん」
声を出したつもりだった。
でも、喉の奥でひっかかった音は、言葉にならなかった。
もう一度、布団を押した。
押したところが、手じゃなかった。
黒と茶色と白の毛が混ざっていた。細い指がなくて、丸い先が布団の上に乗っている。力を入れると、爪のようなものがシーツに引っかかった。
引っかかったまま抜けなくなって、体が前に転がった。
布団の中で一回転して、鼻の先がシーツにぶつかる。洗剤の匂いが強かった。昨日まではこんな匂い、したかどうかも分からなかったのに、鼻の奥まで一気に入ってきて、くしゃみが出そうになった。
くしゃみをしようとして、変な声が出た。
「ミャ」
自分の声だと思わなかった。
心臓が速くなった。
布団の外に出ようとして、またもがいた。足が四つあるみたいだった。どれを動かせば前に進むのか、最初は分からなかった。右を動かすと左も動く。後ろの足が布団に沈む。体を持ち上げようとすると、背中が丸くなる。
やっと布団の端から顔を出した。
部屋が大きかった。
机の脚が、前より高い。椅子の座面が、壁みたいに見える。ランドセルは床に置いたままだったはずなのに、ずいぶん遠くにある。カーテンの下の隙間から朝の光が細く入っていて、その光の中にほこりが浮いていた。
ほこりの匂いまで分かった。
口を開けた。
「お母さん」
そう言ったつもりだった。
出たのは、さっきと同じような短い声だった。
廊下の向こうで、スリッパの音がした。
母さんだ。
足音だけで分かった。いつもより大きく聞こえた。床板が鳴る音、スリッパの底が少し引っかかる音、途中で一回止まって、また近づいてくる音。
僕はベッドの上で動けなくなった。
ドアが開く。
「悠真、起きなさい」
母さんの声だった。
僕は返事をしようとした。
「ここ」
言いたかった。
でも、口から出たのは小さい鳴き声だった。
母さんは部屋の中を見た。
僕を見た。
見たはずだった。
「ミケ、そこいたの」
母さんはそう言った。
僕は、ベッドの上で母さんを見上げていた。
母さんは少しも声を上げなかった。口に手を当てたりもしなかった。僕の方へ来て、布団を少し持ち上げた。
「悠真、布団ぐちゃぐちゃじゃない」
母さんの手が近づいてきた。
触られる、と思った瞬間、体が勝手に下がった。背中の毛が少し立ったような感じがした。
母さんの手は、僕の頭の上を通って、布団の端を直した。
「もう。ミケまで乗ってたら、そりゃ起きないよ」
起きてる。
そう言いたかった。
僕はベッドの上で口を開けた。
「起きてる」
細い声が出た。
母さんは笑った。
「はいはい。ごはんあとでね」
違う。
ごはんじゃない。
僕はベッドから降りようとした。けれど、床が遠かった。いつもなら何も考えずに降りている高さなのに、今は落ちるみたいに見える。
母さんはもう部屋を出ようとしていた。
「悠真、早くしなさいよ。遅れるからね」
ドアが半分閉まる。
僕はあわててベッドの端まで行った。爪がシーツに引っかかる。後ろ足が滑る。体が傾いて、そのまま床へ落ちた。
落ちた、と思った。
でも、思ったより痛くなかった。
四つの足が、勝手に床を受け止めていた。少しだけ体が沈んで、それからすぐ立っていた。
自分の体なのに、自分より先に動いたみたいだった。
ドアの隙間から廊下へ出る。
床が近い。
廊下の板の線が、目の前に長く続いている。昨日まで気にしたことのなかった小さな傷や、角にたまった白いほこりが見えた。階段の方から、朝ごはんの匂いがした。味噌汁。焼いたパン。父さんのコーヒー。姉ちゃんの髪につける何か甘い匂い。
全部がいっぺんに来た。
僕は鼻をひくつかせた。
ひくつかせようとしたわけじゃない。勝手に動いた。
階段の上で止まる。
下が遠い。
段が一枚ずつ、変な高さで並んでいる。昨日まで走って降りていた場所なのに、今は一段目から少し怖かった。
下から姉ちゃんの声がした。
「今日、雨降る?」
「午後からじゃない」
母さんが答える。
「傘持ってきなさいよ」
「折りたたみある」
「悠真にも言わないと」
悠真。
僕の名前が出た。
胸のあたりが、ぎゅっとなった。
ここにいる。
僕は階段の上で鳴いた。
姉ちゃんの足音が近づいてきた。階段の下から顔を上げる。
「ミケ、そこ危ない」
姉ちゃんはそう言った。
僕は姉ちゃんを見た。
姉ちゃんは制服だった。髪を結びながら、片手にスマホを持っている。目の下が少しだけ眠そうだった。
「降りられないの?」
違う。
降りられないんじゃなくて、僕は。
そこまで考えて、言葉の続きがなかった。
姉ちゃんは階段を二段上がってきた。手を伸ばす。
僕は逃げなかった。
姉ちゃんの手が、脇の下に入った。
体が持ち上がる。
「うわ、重」
姉ちゃんが言った。
いつもなら、そんな持たれ方をしたら怒る。やめろよ、と言う。けれど声は出ない。足が空中で少し動く。しっぽらしいものが、勝手に揺れた。
しっぽ。
その感覚に気づいた瞬間、頭の中が一瞬まっ白になった。
姉ちゃんは僕を抱えたまま階段を降りた。
胸のところに、姉ちゃんの制服の布が当たっていた。洗剤と、少しだけ汗と、昨日の部屋の匂いがした。姉ちゃんの心臓の音も聞こえた。速いのか遅いのかは分からない。ただ、近かった。
「ミケ、最近ほんと重い」
姉ちゃんはそう言いながら、リビングのソファに僕を下ろした。
そこはミケの場所だった。
僕の場所じゃない。
でも、体はすぐにソファの上で丸くなろうとした。柔らかいところに足が沈むと、安心する。背中を低くして、前足をそろえそうになる。
違う。
僕は人間だ。
そう思って、体を起こした。
テーブルの上には朝ごはんがあった。僕の茶碗もある。箸もある。牛乳のコップもある。昨日と同じ場所だった。
でも椅子には誰も座っていない。
僕の席だけが空いていた。
「悠真、まだ?」
姉ちゃんがトーストをかじりながら聞いた。
「起こしたんだけどねえ」
母さんは台所で皿を洗っていた。
起こした。
起きてる。
僕はソファの上からもう一度鳴いた。
父さんが新聞を下ろした。
「ミケ、朝から元気だな」
違う。
父さん、僕だよ。
ソファから飛び降りようとして、足が少しすべった。床に降りて、テーブルの下へ行く。僕の椅子の脚に体がぶつかった。
母さんの足元まで行って、見上げる。
エプロンの裾が揺れていた。水の音がうるさい。蛇口から出る水が、昨日よりずっと強く聞こえる。
僕は母さんの足に前足をかけた。
「こら、ミケ。今だめ」
母さんは膝で少し僕をどけた。
痛くはなかった。
でも、どかされた。
僕はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
姉ちゃんが椅子から立ち上がった。
「悠真、ほんとに起きてないの?」
「見てきてくれる?」
「やだ。遅れる」
姉ちゃんは鞄を持った。スマホを確認して、少しだけ眉を寄せた。画面には誰かの通知が出ていたけれど、僕の場所からは読めなかった。
姉ちゃんは玄関へ向かった。
僕は追いかけた。
足が勝手に速く動いた。床を蹴る感覚が軽い。ランドセルを背負っているときよりずっと速く、でも目線は低くて、姉ちゃんの膝から下だけが近かった。
玄関で、姉ちゃんがローファーを履く。
僕はその足元に座った。
「なに」
姉ちゃんが見下ろす。
僕は鳴いた。
行かないで、と言いたかったのか、僕を見て、と言いたかったのか、自分でも分からなかった。
姉ちゃんは少しだけしゃがんだ。
「今日、ついてくる?」
冗談みたいに言った。
僕は姉ちゃんを見た。
ついていけるなら、ついていきたかった。
学校には行きたくなかったのに、姉ちゃんの学校なら行ってもいい気がした。姉ちゃんがどこで何をして、誰と話して、どうして昨日あんな声で電話をしていたのか、見たかった。
でも、玄関の外は明るすぎた。
車の音がした。知らない犬の吠える声が遠くから聞こえた。風の匂いが入ってきた。外が、部屋よりずっと広くて、僕は一歩も動けなかった。
姉ちゃんは僕の頭を一回だけ撫でた。
「留守番してな」
そう言って、ドアを開けた。
外の光が入る。
姉ちゃんの鞄の金具が、小さく鳴った。
ドアが閉まる。
僕は玄関に残った。
下駄箱の下の暗いところに、ほこりと、昔なくした消しゴムが見えた。青いカバーの、小さいやつ。去年、探しても見つからなかった消しゴムだった。
こんなところにあったんだ、と思った。
見つけたのに、拾えなかった。
僕の手は、もう消しゴムをつかめなかった。
消しゴムは、下駄箱の下の奥にあった。
前なら指を伸ばして取れた。爪の先で引っかけることもできたと思う。けれど、今は前足を入れても届かなかった。届いたとしても、つかめない。押すことしかできない。
僕は何度か前足を伸ばした。
爪が床に当たって、かり、と音がした。
消しゴムは動かなかった。
「ミケ、何してるの」
母さんの声がした。
振り向くと、母さんが洗濯かごを持って立っていた。かごの上には、昨日僕が着ていたTシャツが入っていた。青い、胸に小さな恐竜の絵があるやつ。
それを見た瞬間、喉の奥が詰まった。
僕の服だ。
僕は玄関から動いて、母さんの足元へ行った。Tシャツに前足をかけようとしたら、母さんが少しだけかごを上げた。
「こら、洗濯物に乗らない」
違う。
それ、僕の。
そう言いたかった。
母さんは僕をまたいで、階段を上がっていった。
僕も追いかけた。
今度は階段を上る方だった。下りるよりは怖くなかったけど、一段ずつ体を持ち上げるのが変だった。前足を置いて、後ろ足を運ぶ。途中でしっぽが手すりに当たる。自分の後ろに何かある感覚に、まだ慣れなかった。
母さんは僕の部屋に入った。
僕もドアの隙間から入った。
ベッドの布団はぐちゃぐちゃだった。枕は床に落ちていた。机の上には、昨日の鉛筆と消しゴムのかすが残っている。ランドセルは開いたまま、算数の教科書が少しはみ出していた。
母さんは布団を直しながら言った。
「もう、出たなら出たでいいけど」
出てない。
僕はここにいる。
母さんの足元で鳴いた。
母さんは振り返った。
「ミケ、悠真の部屋好きだね」
好きとかじゃない。
僕の部屋だ。
そう思ったのに、部屋の匂いが少し違っていた。
昨日までここで寝ていたはずなのに、鼻の奥に入ってくるのは、自分の匂いというより、布団とほこりと鉛筆と、ミケが夜に乗っていた場所の匂いだった。
僕の匂いがどれなのか分からなかった。
母さんは枕を拾い、布団の上に置いた。ランドセルには触らなかった。机の上のプリントにも触らなかった。
「帰ってきたら片づけさせないと」
母さんはそう言った。
帰ってきたら。
じゃあ、母さんは僕が外にいると思っている。
でも、僕の靴は玄関にあったはずだ。ランドセルもここにある。学校に行くなら、どっちも必要だ。
母さんは、そういうことに気づかない人じゃない。
僕は急いで部屋を出た。
階段を下りるのは、さっきより少しうまくなった。一段目で体が沈んで、二段目で足がすべりかけたけど、爪が木に引っかかった。痛くはない。むしろ、引っかかると安心した。
玄関に戻る。
靴箱の前に、僕のスニーカーがあった。
昨日履いたままの向きで、少しだけ斜めになっている。右のひもがゆるんでいた。
やっぱりある。
僕はその靴の前に座った。
これを見れば、母さんも分かるはずだった。
でも、母さんは下りてこなかった。
洗濯機の音がし始めた。水がたまる音。かごを置く音。リビングで父さんが椅子を引く音。
父さんはまだいた。
僕は玄関からリビングへ戻った。
父さんはネクタイを締めながら、テレビの天気予報を見ていた。食卓の上には、僕の茶碗がまだ置いてある。ごはんは入っていない。牛乳のコップも空だった。
「お父さん」
言いたかった。
鳴いた。
父さんは下を見た。
「ミケ、腹減ったのか」
父さんは台所へ行って、棚からミケのごはんを出した。銀色の袋を開ける音がした瞬間、体が勝手に反応した。
匂いがした。
魚みたいな、油みたいな、濃い匂い。
嫌だと思った。
でも、鼻がその方へ向いた。足も一歩動いた。
違う。
食べたくない。
いや、少し食べたい。
父さんが小皿にごはんを入れる。茶色っぽい粒が、ぱらぱらと皿に落ちた。
「ほら」
床に置かれる。
僕は近づいた。
近づいただけ。
匂いが強すぎて、口の中に水が出た。舌が出そうになる。顔を近づけると、粒の一つ一つの形まで見えた。
食べたら、もっとミケになる気がした。
僕は顔をそらした。
父さんが笑った。
「なんだよ、いらないのか」
いらない。
でも、少しだけ匂いをかいだ。
父さんは鞄を持って玄関へ向かった。途中で、僕のスニーカーの前を通った。
見た。
絶対に見た。
でも何も言わなかった。
「行ってくる」
父さんはそう言って出ていった。
僕はリビングに残った。
家の中が急に静かになった。
洗濯機の音だけがしている。母さんはどこかで掃除機を出している。姉ちゃんも父さんもいない。僕の席には誰も座っていない。僕のランドセルは二階にある。僕の靴は玄関にある。
でも、誰も探していない。
僕はソファの下にもぐった。
暗かった。
ここはミケがよく入る場所だった。前は、どうしてそんな狭いところに入るのか分からなかった。でも、入ってみると落ち着いた。上から見られない。足音だけ聞こえる。誰がどこにいるか、音と匂いで分かる。
母さんがリビングに来た。
掃除機の音がした。
大きすぎる。
僕は耳を伏せた。体が小さくなる。音が床から腹に伝わってくる。掃除機がソファの前を通るたびに、心臓が跳ねた。
前はこんな音、何とも思わなかった。
母さんがソファの下をのぞいた。
「あ、いた」
掃除機の音が止まる。
「そこ、掃除したいんだけど」
僕は出なかった。
母さんはため息をついた。
「ミケも悠真も、朝から手がかかる」
ミケも、悠真も。
別々に言った。
僕はソファの下で固まった。
母さんは僕のことを忘れていない。
忘れていないのに、探さない。
じゃあ、僕は何なんだろう。
掃除機がまた鳴った。
僕はソファの下のさらに奥へ下がった。背中に布の裏側が触れた。ほこりが鼻について、くしゃみが出た。
「ミャッ」
自分の声が、ソファの下で小さく響いた。
母さんが笑った。
「はいはい、分かった。そこはあとでね」
何が分かったんだろう。
何も分かってない。
でも、母さんはそう言って掃除機を別の場所へ動かした。
午前中は長かった。
僕は何度かリビングを歩いた。台所へ行って、水の皿を見た。透明な水が入っている。顔を近づけると、自分の顔が少し映った。
丸い顔。
三角の耳。
白と黒と茶色の毛。
ミケだった。
そう思った瞬間、体が後ろへ下がった。水の皿が少し揺れて、床にこぼれた。
「ミケ、こぼした?」
母さんが台所に来た。
僕は水の皿から離れた。
母さんは雑巾で床を拭いた。僕の方を見て、「もう年なんだから、ちゃんと飲みなさいよ」と言った。
年。
ミケは年寄りだ。
僕は小学生だ。
なのに、母さんは僕に向かってそう言う。
いや、母さんはミケに言っている。
僕が勝手に聞いているだけだ。
昼前、電話が鳴った。
家の電話だった。
母さんが出る。
「はい。……あ、お世話になってます」
学校だ。
僕は台所の入り口で止まった。
母さんの声が少し変わった。
「え?」
胸の奥が冷たくなった。
やっぱり、学校から電話が来た。
僕が来ていないから。
母さんは言う。
「いえ、出ましたけど……」
出てない。
僕は出てない。
母さんは少し黙った。
「ランドセル? ……え、ちょっと待ってください」
母さんの足音が階段へ向かった。
僕も追いかけた。
二階へ上がる。母さんは僕の部屋に入る。ランドセルを見る。開いたままのランドセル。机の横にある。どう見ても、学校には行っていない。
母さんはしばらく黙った。
電話の向こうで先生の声がしている。何を言っているかは分からない。でも、早口だった。
母さんが言った。
「すみません、確認します」
電話を切った。
部屋が静かになった。
母さんはランドセルを見ていた。
僕はドアのところにいた。
母さんがゆっくり振り返った。
僕と目が合った。
「ミケ」
母さんは僕の名前じゃなくて、ミケの名前を呼んだ。
それから、少しだけ変な顔をした。
怒っているわけでも、驚いているわけでもない。何かを思い出そうとしている顔だった。
僕は動けなかった。
母さんは一歩近づいた。
「悠真、どこ行ったの」
その言い方は、僕に聞いているみたいだった。
僕は口を開けた。
ここ。
ここにいる。
喉の奥から、細くて頼りない声が出た。
母さんはしゃがんだ。
手が伸びてくる。
今度は逃げなかった。
母さんの指が、僕の頭に触れた。少しだけ震えていた。
「……ミケ?」
また、その名前だった。
でも今度は、いつもの呼び方と少し違った。
僕は母さんの手に頭を押しつけた。
自分からそうした。
すると母さんの指が、毛の間に入った。額のあたりを撫でる。耳の後ろ。首のところ。そこを撫でられると、体の力が抜けそうになる。
やめて。
そう思った。
もっと。
そうも思った。
母さんはすぐに手を離した。
立ち上がって、もう一度部屋を見た。ランドセル、机、ベッド、枕、床。
「どこ行ったの、ほんとに」
母さんの声が小さかった。
僕は返事をした。
けれど、声は部屋の中で小さく折れただけだった。
母さんは振り向かなかった。
ベッドの下をのぞいて、机の引き出しを開けて、カーテンの裏に手を入れた。
「悠真、ふざけてるなら出てきなさい」
ふざけてない。
ここにいる。
僕は母さんの足元まで行った。前足を出して、母さんの靴下に触れた。爪が少しだけ引っかかった。
母さんが下を見た。
「ミケ、ちょっとどいて」
そう言って、僕を横へ押した。
力は強くなかった。
でも、僕は簡単にずれた。
床の上を少しすべって、机の脚に背中が当たった。痛くはなかった。痛くはなかったけど、体の中が変なふうに縮んだ。
母さんは机の上のノートを見た。
昨日、僕が最後に使った漢字ドリル。
開いたままの筆箱。
丸くなった消しゴムのかす。
母さんは、ドリルを閉じて、表紙の名前を見た。
「……学校、行ってないじゃない」
母さんの声が低くなった。
僕はもう一度鳴いた。
それが返事だと、母さんに分かってほしかった。
でも母さんは、スマホを取り出していた。画面を何度か押して、耳に当てる。
「もしもし。……あ、すみません。悠真なんですけど」
父さんにかけているのかと思った。
でも、話し方が少し違った。
「学校から連絡があって。はい。家にはいないみたいで」
家にいる。
僕は母さんの前をうろうろした。
足元にまとわりつけば、気づくかもしれないと思った。
母さんは僕をまたいで、部屋を出た。
「靴はあるんです。ランドセルも。だから、外に出たとは思えないんですけど」
階段を下りる母さんの後を追った。
まだ一段ずつしか下りられない。母さんの足は速くて、途中で見失いそうになった。
リビングに入ると、母さんは電話を耳に当てたまま、テーブルの下をのぞいた。ソファの裏、カーテンの後ろ、台所の隅。
「はい。すみません。もう一度、家の中を探してみます」
母さんは電話を切った。
すぐに、別の番号にかけた。
「お父さん? 悠真がいない」
その言い方を聞いた瞬間、僕の足が止まった。
母さんは、今度はちゃんと焦っていた。
「学校から電話があった。来てないって。靴もランドセルも家にあるの。……分かんない。朝、起こしたときは部屋にいると思って」
朝、僕を見た。
でも、母さんの中では、僕は部屋にいると思われただけだった。
「とにかく戻れる? ……うん。分かった」
電話が切れる。
母さんは少しの間、スマホを握ったまま立っていた。
僕はその足元にいた。
母さんの足の指が、靴下の中でぎゅっと曲がったのが見えた。
「悠真」
今度は、リビングに向かって呼んだ。
「悠真、いるなら返事しなさい」
僕は鳴いた。
母さんは顔をしかめた。
「ミケ、静かにして」
静かにできなかった。
僕は鳴き続けた。
自分でも、こんなに声が出ると思わなかった。短くて、細くて、少し裏返ったような声。何回鳴いても、僕の名前にはならない。
母さんは両手で顔を押さえた。
「なんで、こんなときに」
こんなとき。
僕は鳴くのをやめた。
母さんは玄関に行き、ドアを開けた。外の音が一気に入ってきた。車。風。遠くの犬。隣の家の門が閉まる音。
僕は少し後ろに下がった。
母さんは外へ出て、左右を見た。
「悠真!」
道路に向かって呼ぶ声は、家の中で聞く声より大きかった。
僕は玄関のたたきまで行った。
外へ出ようとした。
でも、足が止まった。
光が強い。
アスファルトの匂いがする。
土と、タイヤと、知らない人の靴の匂い。遠くのどこかで犬がまた吠えた。体の奥が勝手に硬くなった。
母さんが振り返った。
「ミケは出ちゃだめ」
そう言って、僕の前でドアを閉めた。
がちゃん、と音がした。
僕は玄関の内側に残された。
母さんの声が外で遠くなる。
「悠真ー!」
何度も呼んでいる。
僕は、ドアの前に座った。
向こう側に行きたいのか、行きたくないのか、自分でも分からなかった。
外に出れば、母さんの足元に行ける。
でも、出たらもう戻れない気がした。
家の中では、僕はミケだった。
外に出たら、ただの猫になる。
それが怖かった。
しばらくして、母さんが戻ってきた。
ドアが開いて、母さんの足が入ってくる。外の匂いも一緒に入ってきた。母さんは僕を見て、一瞬だけ止まった。
「……そこにいたの」
僕は見上げた。
母さんの顔は、さっきより白かった。
「悠真は?」
僕に聞いているみたいだった。
僕は口を開けた。
鳴いた。
母さんはしゃがんだ。
「ねえ、ミケ」
母さんの手が伸びて、僕の背中に触れた。さっきよりゆっくりだった。毛を撫でるというより、そこに何かを確かめるみたいに、指が背中の上で止まった。
「朝、悠真の部屋にいたよね」
いた。
僕は母さんの手の下で、じっとしていた。
「ミケ、見た?」
見た。
ずっと見てる。
母さんは僕の顔を見た。
目が合った。
そのとき、ほんの少しだけ、母さんの顔が変わった。
何かに気づきかけたみたいな顔だった。
僕は動かなかった。
口を開けたら、また違う音が出てしまう。
だから、何も言わずに母さんを見た。
母さんのスマホが鳴った。
母さんはびくっとして、僕から手を離した。
「はい。……あ、先生。すみません。まだ見つからなくて」
母さんは立ち上がった。
僕の上から、母さんの手の温度が消えた。
「はい。警察……ですか。……はい。分かりました」
警察。
その言葉を聞いたことはある。
悪い人を捕まえるところ。迷子になったときに行くところ。学校で先生がそう言っていた。
僕は悪いことをしていない。
迷子でもない。
家にいる。
電話を切った母さんは、リビングの椅子に座った。
座ったというより、落ちたみたいだった。
僕はその足元に行った。
母さんの膝に前足をかける。
今度は、どけられなかった。
母さんは僕を抱き上げた。
急に床が遠くなった。
胸のところに押しつけられる。母さんの服から、洗剤と汗と、少しだけ油の匂いがした。母さんの呼吸が、僕の耳のすぐそばで動いている。
「どこ行ったの」
母さんが言った。
僕は、母さんの腕の中で顔を上げた。
ここ。
そう言いたかった。
でも、母さんは僕を抱いたまま、僕ではないどこかを見ていた。
僕は母さんの服に爪を立てないように、前足を丸めた。
喉の奥で、勝手に音が鳴った。
ごろごろと、小さく。
そんな音を出したくなかった。
でも止め方が分からなかった。
母さんは、その音に気づいて、僕の背中を一度だけ撫でた。
「ミケは、いるのにね」
その声が、耳の奥に残った。
僕は母さんの腕の中で、何も言えなかった。
第3章 僕の席
父さんが帰ってきたのは、昼を少し過ぎたころだった。
玄関のドアが開く前から分かった。外の空気と一緒に、父さんの靴の匂いが入ってきた。雨はまだ降っていないのに、革の端が少し湿ったような匂いがした。
母さんは僕を抱いたまま、リビングの窓の方を見ていた。
チャイムが鳴ったわけではない。父さんは自分で鍵を開けて入ってきた。
「悠真は?」
最初にそう言った。
母さんは答えなかった。
僕は母さんの腕の中で、父さんの方を見た。父さんはネクタイをゆるめたまま、玄関に立っていた。顔が少し赤くて、額に汗が出ていた。
「靴、あるんだよな」
「ある」
「ランドセルも?」
「部屋にある」
「じゃあ家の中だろ」
父さんの声は、そう言いながら、そう思っていないように聞こえた。
母さんが僕を床に下ろした。
足の裏が床につく。少しだけ冷たい。僕はすぐに父さんの方へ行った。
「お父さん」
鳴いた。
父さんは僕を見た。
「ミケ、どけ」
父さんは僕をまたいで、階段へ向かった。
僕は後を追った。
父さんは僕の部屋を見た。母さんが何度も見た場所を、父さんも同じ順番で見た。ベッドの下、クローゼット、カーテンの裏、机の下。
「いないな」
いないな、じゃない。
僕は机の脚の横に立っていた。
父さんはランドセルを持ち上げた。中を見て、教科書を何冊か出した。算数、国語、理科。給食袋。筆箱。連絡帳。
「今日の時間割、何だっけ」
母さんが部屋の入口から言った。
「今日は、理科ある。あと体育」
「体育着は?」
母さんはクローゼットの下の引き出しを開けた。
僕の体育着袋は、そこにあった。
父さんは何も言わなかった。
部屋の中の空気が、さっきより重くなった。
母さんのスマホが何度も鳴った。学校の先生。父さんの会社。たぶん、警察。母さんは同じことを何度も言った。
「家にいると思っていました」
「朝は部屋にいると思って」
「靴とランドセルは家にあります」
「外へ出た様子は分かりません」
そのたびに、僕は足元で鳴いた。
だんだん、鳴くのが疲れてきた。
声を出しても、誰も僕の言葉だとは思わない。声を出せば出すほど、ただミケが騒いでいるだけになる。
それでも、黙っていたらもっと遠くなる気がした。
午後、知らない人が二人来た。
男の人と女の人だった。玄関で靴をそろえて、母さんに小さく頭を下げた。男の人の靴下から、外の砂みたいな匂いがした。女の人は手帳を持っていた。
僕は階段の下から見ていた。
「猫ちゃん、外に出ることはありますか」
女の人が言った。
母さんは一瞬だけ僕を見た。
「いえ、ほとんど家の中です。たまに庭に出るくらいで」
「今朝は?」
「出してません」
男の人がしゃがんだ。
僕の顔を見た。
「この子はずっと家に?」
母さんは少し黙った。
「たぶん」
たぶん。
僕は男の人を見た。
男の人は僕に手を伸ばさなかった。ただ、僕の目を少しだけ見て、それから立ち上がった。
「お子さんの写真、最近のものはありますか」
母さんがスマホを開いた。
父さんも隣から画面をのぞいた。
僕は足元から見上げていた。
画面は見えなかった。
母さんの指が止まった。
「これ、去年の運動会」
「最近だと?」
「えっと……」
母さんの指が何度か動いた。
なかなか止まらなかった。
父さんが言った。
「この前、家族で撮ったやつあるだろ」
「どれ」
「ほら、正月の」
「ああ」
画面がまた動く。
僕は見たかった。
自分が写っているのか見たかった。
でも、テーブルの上は高すぎた。ジャンプすれば届くかもしれない。でも、今ここで飛び乗ったら怒られる。
いや、ミケなら怒られるだけだ。
僕は椅子の足に前足をかけた。
上がれなかった。
爪が木に当たって、かりかりと音がした。
「ミケ、今はだめ」
母さんが言った。
僕は椅子から離れた。
男の人が、もう一度こちらを見た。
母さんのスマホの画面を見た女の人が、少しだけ声を落とした。
「この写真には?」
母さんが答えなかった。
父さんが言った。
「ミケが写ってるな」
ミケ。
僕はその言葉だけ聞こえた。
正月の写真。
家族で撮ったやつ。
そこに写っているのがミケだけなら、僕はどこにいたんだろう。
そのとき何をしていたんだっけ。
正月。
こたつ。
みかん。
姉ちゃんが年賀状を見て笑っていた。
父さんがテレビの音を大きくして、母さんに怒られていた。
僕は、たぶん、こたつの中に足を入れていた。
いや、こたつの中にいたのはミケだった。
僕はみかんを食べた。
食べたと思う。
でも、みかんの皮の匂いだけが、頭の中に残っていた。自分の手でむいた感じが、思い出せなかった。
午後の間、家の中は何度も人が出入りした。
先生も来た。
担任の先生だった。
いつも教室で見るより、背が低く見えた。靴を脱いで玄関に上がるとき、先生は一度、僕のスニーカーを見た。
「本当に、靴はありますね」
先生はそう言った。
母さんはうなずいた。
僕は先生の足元まで行った。
先生なら分かるかもしれないと思った。毎日、出席を取っている。僕の名前を呼ぶ。声も知っている。字も知っている。理科の発表で、僕がまとめを読んだことも知っている。
僕は先生のズボンに前足をかけた。
先生は少し驚いて、下を見た。
「あ、猫ちゃん」
猫ちゃん。
僕は鳴いた。
先生は苦笑いみたいな顔をした。
「心配してるのかな」
違う。
心配しているのは僕だ。
先生は僕の頭を軽く撫でた。
学校で先生に頭を撫でられたことなんてない。
小さい子みたいで嫌だと思った。
でも、撫でられた場所がじんわりして、体が勝手にその手を追いかけそうになった。
嫌だった。
僕は先生から離れた。
先生はリビングで母さんたちと話していた。
「昨日は特に変わった様子はありませんでした」
嘘だ。
理科の発表で声が裏返った。
大地が笑った。
陽太には声をかけなかった。
家庭科のプリントを出した。
それだけだったけど、僕にはいつもと少し違った。
でも先生にとっては、変わった様子ではなかった。
「友人関係は?」
「大きなトラブルは把握していません。ただ、今年度からクラスが変わって、仲の良かった子とは別になっています」
母さんが僕の方を見た。
たぶん、初めて聞いた顔だった。
僕はリビングの隅に座っていた。
母さんに言っていない。
陽太と別のクラスになったことは知っているはずだけど、それがどういうことかは話していない。
話しても、たぶん困るだけだと思っていた。
先生が言った。
「最近、一人でいることは少し増えていたかもしれません」
一人でいたわけじゃない。
ただ、誰かといるところに、僕があとから入っていただけだ。
その違いは、先生には分からないと思った。
夕方になって、姉ちゃんが帰ってきた。
玄関のドアが開く前に、僕は分かった。
足音が近づいてきた。鞄の金具が小さく鳴る音。朝と同じ。でも、少し急いでいた。
ドアが開く。
「ただいま」
姉ちゃんの声が、途中で止まった。
玄関に、知らない靴が何足もあったからだと思う。
母さんがリビングから出てきた。
「千夏」
姉ちゃんは一瞬で顔を変えた。
「なに」
「悠真が、いない」
姉ちゃんの手から、傘が落ちた。
まだ雨は降っていなかった。折りたたみ傘だった。玄関の床に当たって、軽い音がした。
「は?」
姉ちゃんはそう言った。
怒っているみたいな声だった。
「学校に行ってないって連絡が来て、でも靴もランドセルも家にあって」
母さんの声が少し揺れた。
姉ちゃんは、僕のスニーカーを見た。ランドセルは二階にあるから見えない。けれど、靴だけで十分だったのかもしれない。
「朝、いたじゃん」
姉ちゃんが言った。
母さんが息を止めた。
「見たの?」
「見てないけど」
姉ちゃんはすぐに言い直した。
「声、聞いた気がする。いや、分かんない。朝、ミケが階段にいて……なんで連絡……」
姉ちゃんの目が、僕に向いた。
僕は玄関の端にいた。
姉ちゃんは僕を見た。
いつものように、「ミケ」と言わなかった。
僕は姉ちゃんの方へ歩いた。
姉ちゃんの足元に行く。
「姉ちゃん」
声にしたつもりだった。
鳴き声が出た。
姉ちゃんは少しだけしゃがんだ。手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「ミケ、今日ずっと家にいたの?」
母さんが答えた。
「いたと思う」
「思うってなに」
姉ちゃんの声が強くなった。
母さんは何も言わなかった。
姉ちゃんは僕から目をそらさなかった。
その目が、朝とは違っていた。
猫を見る目じゃなかった、とは言えない。
でも、ただの猫を見る目でもなかった。
僕は、姉ちゃんに向かってもう一度鳴いた。
姉ちゃんの眉が少しだけ寄った。
「……変な声」
そう言って、姉ちゃんは僕を抱き上げた。
朝と同じように。
でも、腕の力が少し強かった。僕の体が制服に押しつけられる。姉ちゃんの匂いがした。外の空気、コンビニの袋、雨が降る前の湿った風、それから少しだけ甘い匂い。
姉ちゃんの心臓の音が聞こえた。
朝より速かった。
「千夏、今はミケと遊んでる場合じゃない」
母さんが言った。
姉ちゃんは、僕を下ろさなかった。
「分かってる」
その言い方は、朝と同じだった。
でも、今度の分かってるは、少し違った。
姉ちゃんは僕を抱いたまま、階段の方を見た。
「悠真の部屋、見た?」
「何度も見た」
「私も見る」
姉ちゃんはそう言って、僕を抱いたまま階段を上がった。
僕は抵抗しなかった。
姉ちゃんの腕の中から、階段の段が下に流れていくのを見ていた。自分で上るより、ずっと速かった。
僕の部屋の前で、姉ちゃんは立ち止まった。
ドアは開いていた。
部屋の中は、さっきまでより散らかっていた。父さんや母さんや先生が探したあとだった。ベッドの下に入れていた漫画が少し出ている。机の引き出しも、完全には閉まっていない。
姉ちゃんは中に入った。
僕をベッドの上に下ろす。
その場所は、朝、目が覚めた場所だった。
姉ちゃんは机の前に立った。
漢字ドリルを見る。筆箱を見る。ランドセルを見る。椅子の背にかかった昨日の上着を見る。
それから、机の右端に置いてある小さなキーホルダーを見た。
黄色いプラスチックの恐竜。
前に僕がガチャガチャで出したやつだった。姉ちゃんが一回だけ「かわいいじゃん」と言って、僕がいらないふりをしてあげた。
でも、姉ちゃんはすぐどこかへしまったはずだった。
どうして僕の机にあるのか、分からなかった。
姉ちゃんはそれを手に取った。
「これ」
小さく言った。
母さんが部屋の入口から聞いた。
「何?」
姉ちゃんはすぐには答えなかった。
僕はベッドの上で、姉ちゃんを見ていた。
姉ちゃんは恐竜のキーホルダーを握ったまま、僕の方を見た。
「ミケ」
今度は名前を呼んだ。
僕の名前ではない。
でも、姉ちゃんの声は、いつものミケを呼ぶ声ではなかった。
「これ、どこにあった?」
僕は答えられない。
姉ちゃんは分かっているはずだった。
猫が答えられないことくらい。
それでも聞いた。
僕はベッドの上から、机を見た。キーホルダーを見た。姉ちゃんを見た。
姉ちゃんは、少しだけ口を開けた。
何か言いかけた。
でも、言わなかった。
母さんが後ろから言った。
「千夏?」
姉ちゃんはキーホルダーを机に戻した。
「何でもない」
その声は、何でもなくなかった。
姉ちゃんは僕をもう一度抱いた。
今度は、さっきより静かだった。
「ミケ、ちょっと私の部屋来て」
母さんが何か言う前に、姉ちゃんは僕を抱えたまま廊下へ出た。
僕は初めて、姉ちゃんの部屋に、自分から入ることになった。
姉ちゃんの部屋は、僕の部屋より少しだけ暗かった。
カーテンが半分閉まっていて、机の上のライトだけがついていた。まだ夕方なのに、部屋の中は夜みたいだった。床には学校のプリントが何枚か落ちていて、ベッドの上には制服の上着と、丸まったカーディガンが置いてある。
姉ちゃんは僕を床に下ろした。
「そこ、動かないで」
言われても、動きたかった。
姉ちゃんの部屋には、僕の知らない匂いがたくさんあった。教科書の紙の匂い。髪につける油みたいな匂い。少し甘い匂い。コンビニの袋の匂い。雨が降る前の外の匂い。あと、ミケが何度も入っている場所の匂い。
僕はベッドの下を見た。
ミケの毛が落ちていた。
前からここに来ていたんだと思った。
姉ちゃんはドアを閉めた。
完全には閉めなかった。廊下の声が聞こえるくらい、少しだけ開けた。
「ミケ」
姉ちゃんが呼んだ。
僕は顔を上げた。
姉ちゃんは机の前にしゃがんだ。僕と目の高さを近づけるみたいにして、さっき持ってきた黄色い恐竜のキーホルダーを床に置いた。
「これ、悠真の机にあった」
知ってる。
僕の机にあった。
でも、昨日そこに置いた覚えはなかった。
僕はキーホルダーに近づいた。
前足で触る。軽い。プラスチックの腹が床に当たって、かた、と鳴った。
姉ちゃんはその音を聞いて、少しだけ息を止めた。
「それ、あんたが持ってたやつだよね」
ミケに言っているのか、僕に言っているのか分からなかった。
僕はキーホルダーを見た。
昔、駅前のスーパーのガチャガチャで出たやつだ。欲しかった青い恐竜じゃなくて、黄色いやつだった。いらないと言ったら、姉ちゃんが「じゃあちょうだい」と言った。
僕は本当は少し惜しかった。
でも、姉ちゃんが欲しいと言ったのが嬉しくて、いらないふりをした。
そのあと姉ちゃんの鞄についていた時期が少しだけあった。でもいつの間にか外されて、どこへ行ったのか分からなくなった。
それが僕の机にあった。
僕は、前足でキーホルダーをもう一度押した。
「ねえ」
姉ちゃんの声が小さくなった。
「悠真、どこ行ったの」
僕は姉ちゃんを見た。
ここ。
何度目か分からないことを、また言おうとした。
口を開ける。
「ニャ」
声が出る。
姉ちゃんは顔をしかめなかった。
笑いもしなかった。
ただ、じっと僕を見ていた。
その目が怖かった。分かってほしいと思っていたのに、分かりそうになると怖かった。
姉ちゃんは手を伸ばして、僕の額に触れた。母さんより指が冷たい。爪が少し長い。頭の上から耳の後ろへ、ゆっくり撫でる。
僕は逃げなかった。
「変な顔」
姉ちゃんが言った。
変な顔じゃない。
僕はいつもの顔をしているつもりだった。
でも、水の皿に映った顔はミケだった。
姉ちゃんのスマホが机の上で震えた。
ぶぶ、と短い音がして、画面が光る。
姉ちゃんはすぐに手を伸ばさなかった。画面だけを見る。
僕も見た。
文字は小さかった。近づけば読めるかもしれないと思って、机の脚に前足をかけた。
姉ちゃんがスマホを伏せた。
「見るな」
反射みたいな言い方だった。
僕はびくっとした。
姉ちゃんも、少しだけ目を伏せた。
「……ごめん。ミケに言ってもしょうがないか」
しょうがなくない。
僕は人間だった。
たぶん。
姉ちゃんは床に座りこんだ。ベッドに背中を預けて、膝を立てる。その膝の間にスマホを置いたまま、しばらく動かなかった。
机の上には、赤い表紙の厚い本があった。英語の問題集。数学のノート。プリントの束。端の方に、半分折れた紙がある。
そこに大きく、進路希望調査と書いてあった。
第一志望のところは、消しゴムで何度も消した跡があった。黒い字の上から、別の字が書かれている。僕の場所からだと、大学の名前までは読めなかった。ただ、県外、という文字だけは見えた。
姉ちゃんはその紙を見ていなかった。
でも、見ないようにしているみたいに、顔をそらしていた。
廊下の向こうから、母さんの声がした。
「千夏、警察の人、もう一回話聞きたいって」
姉ちゃんの肩が少し上がった。
「あとで行く」
「今」
「分かってる」
姉ちゃんはそう答えたけれど、立たなかった。
母さんの足音が少し遠ざかる。
姉ちゃんはスマホを手に取った。画面を見て、すぐまた伏せる。
「今じゃないんだよ」
誰に言ったのか分からなかった。
水野くんかもしれない。
母さんかもしれない。
自分に言ったのかもしれない。
僕は姉ちゃんの膝の近くに座った。
近づきすぎると怒られると思ったから、少しだけ離れたところにした。
姉ちゃんが僕を見た。
「なに、その距離」
僕は動かなかった。
「悠真もさ、そういうとこあるよね」
名前が出た。
僕は耳が動いた。
自分で動かしたつもりはなかった。
姉ちゃんは僕の耳を見た。
「呼ぶと近づかないくせに、こっちが何かしてると近くにいる」
そうかもしれない。
姉ちゃんの部屋に入れないから、廊下にいた。
母さんと姉ちゃんが話していると、階段の途中にいた。
父さんがテレビを見ていると、ソファの横にいた。
近くにいたかったわけじゃない。
でも、遠くに行く理由もなかった。
姉ちゃんは膝の上で指を組んだ。
「昨日も、そこにいた?」
昨日。
電話していたときのことだと思った。
僕は階段の下にいた。
姉ちゃんの声を聞いた。
水野くんの名前を聞いた。
そこにいた。
僕は鳴いた。
姉ちゃんは、少しだけ口を引き結んだ。
「聞いてた?」
答えられない。
姉ちゃんは笑わなかった。
「まあ、猫だしね」
その言い方が嫌だった。
猫だし。
そう言われたら、何もかも終わる。
僕は立ち上がって、キーホルダーの方へ行った。前足で押す。恐竜が床を滑った。
姉ちゃんの方へ。
もう一回押す。
恐竜は姉ちゃんの靴下に当たって止まった。
姉ちゃんはそれを拾った。
指先で、黄色い腹をなぞる。
「これ、まだ持ってたんだ」
前にも聞いたような言い方だった。
姉ちゃんは、恐竜を手の中で握ったまま立ち上がった。
机の引き出しを開ける。
中には、ペンや、古いプリクラや、リップみたいなものや、ぐちゃぐちゃになったイヤホンが入っていた。奥の方に、ミケの古い首輪もあった。赤い布のやつ。今はもう使っていない。
姉ちゃんはその横に、恐竜のキーホルダーを置こうとした。
置く直前で、手が止まった。
それから、引き出しに入れるのをやめて、机の上に置いた。
見えるところに。
「あとで、悠真に返す」
姉ちゃんはそう言った。
僕は机の下から姉ちゃんを見上げた。
返されても、今の僕は持てない。
でも、姉ちゃんが返すと言ったことだけが、体のどこかに残った。
廊下で母さんがもう一度呼んだ。
「千夏」
「行く」
姉ちゃんは返事をして、ドアの方へ向かった。
途中で振り返る。
「ミケ、ここにいて」
僕は姉ちゃんを見た。
ここにいて。
その言葉が、部屋の中に落ちた。
僕は、姉ちゃんの部屋にいていいと言われたことがなかった。
ミケとしてなら、いいらしい。
姉ちゃんは部屋を出た。
ドアは少しだけ開いたままだった。
僕は机の下に座った。
姉ちゃんの部屋の床は、僕の部屋より少し冷たかった。机の上には進路希望調査があって、スマホは伏せられたまま光らなくなっていた。黄色い恐竜が、ライトの下で小さく影を作っている。
リビングの方から、大人の声がした。
母さんの声。父さんの声。知らない人の声。姉ちゃんの声。
「朝、何か見ましたか」
知らない女の人の声だった。
少し間があった。
姉ちゃんが答えた。
「ミケが、階段にいました」
また、ミケ。
でも、姉ちゃんはそこで止まらなかった。
「いつもと違いました」
大人たちの声が、少しだけ止まった。
僕は机の下で、前足をそろえた。
いつもと違う。
それだけで、喉の奥が熱くなった。
僕だと分かったわけじゃない。
何かを分かったわけでもない。
でも、姉ちゃんは違うと言った。
それだけで、僕は初めて、その部屋から出ていかなくてもいい気がした。
姉ちゃんの声のあと、誰もすぐには話さなかった。
僕は机の下で耳を立てていた。
立てようと思ったわけじゃない。廊下の向こうの音が、勝手に耳の奥へ入ってくる。大人たちが息を吸う音。誰かがペンを動かす音。母さんが鼻をすすった音。父さんが椅子の脚を引いた音。
「いつもと違った、というのは?」
知らない女の人が聞いた。
姉ちゃんは少し黙った。
「分かんないです。階段の上で、降りられないみたいにしてて」
「普段は降りられる?」
「降りられます。ミケはもう年だけど、階段は普通に使うので」
僕は、前足を見た。
朝、階段の前で動けなかったことを思い出した。
あれは、ミケなら普通にできることだった。
じゃあ、あのときの僕は、ミケじゃなかったのかもしれない。
でも今、僕はミケの形をしている。
「それ以外に、何か気になったことは?」
「……声」
姉ちゃんが言った。
「鳴き方が変でした」
僕は息を止めた。
「どう変でしたか」
「なんか、呼んでるみたいだった」
母さんが小さく何か言った。聞き取れなかった。
姉ちゃんの声が、少し強くなった。
「いや、分かんないです。猫なんで。ただ、朝からずっと変です」
猫なんで。
その言葉がまた出た。
でも、さっきより嫌じゃなかった。
姉ちゃんは、猫だから分からないと言いながら、変だと言っていた。
僕は机の下から出た。
ドアの隙間まで行く。
廊下には誰もいなかった。階段の下から、声だけが上がってくる。
行こうと思えば、リビングまで行けた。
でも姉ちゃんに、ここにいてと言われた。
僕はドアの前で止まった。
猫なら、そんな約束は守らなくていい。
ミケなら、言われたことを聞かない。
でも僕は動けなかった。
しばらくして、階段を上がる足音がした。
姉ちゃんだった。
ドアが開く。
「出てないじゃん」
姉ちゃんはそう言った。
少しだけ驚いているみたいだった。
僕は姉ちゃんを見上げた。
姉ちゃんは部屋に入り、ドアを閉めた。今度はさっきより少しだけ深く閉めた。廊下の音が細くなる。
「えらいね」
そう言われた。
ミケに言ったのだと思う。
でも、僕は少しだけ嬉しかった。
姉ちゃんはベッドに座った。鞄を床に置いて、制服のリボンをゆるめる。スマホを手に取る。画面を見る。すぐに伏せる。
また震えた。
ぶぶ、と低い音。
今度は無視しなかった。姉ちゃんは画面を見たまま、親指を止めていた。
僕はベッドの下に近づいた。
姉ちゃんの靴下のかかとが、少しだけ汚れている。学校の廊下の匂いがした。僕の学校とは違う匂いだった。チョークの粉じゃなくて、もっと乾いた紙と、制汗剤と、雨が降りそうな湿った制服の匂い。
「今、無理って言ってるのに」
姉ちゃんは小さく言った。
僕はベッドの下から、姉ちゃんの顔を見上げた。
「電話してくるの、なんなの」
スマホがまた震えた。
姉ちゃんは出なかった。
画面を伏せたまま、枕の横に置く。
「悠真がいないんだよ」
その声は、誰かに向けたものではなかった。
僕はベッドのふちに前足をかけた。
上がりたいと思った。
でも、少し高かった。
姉ちゃんが僕を見た。
「上がりたいの?」
僕は鳴いた。
姉ちゃんは、少しだけ迷ってから、僕の脇に手を入れた。体が持ち上がる。朝よりはもう慣れた。でも、持ち上げられるたびに、自分が軽くなったのか重くなったのか分からなくなる。
ベッドの上に下ろされる。
姉ちゃんの布団は、僕の布団より柔らかかった。上に置かれたカーディガンに足が沈む。黒い毛が少しついた。
姉ちゃんはそれを見て、指でつまんだ。
「また毛つけてる」
声は怒っていなかった。
僕はカーディガンの上に座った。
姉ちゃんはスマホを手に取った。今度は短く何かを打った。
画面が少しだけ見えた。
水野、という名前が上にあった。
下の方に、姉ちゃんが打っている文字。
弟がいなくなった。
そこまで見えた。
送信したかどうかは分からなかった。姉ちゃんは画面をすぐ閉じた。
「言いたくない」
姉ちゃんが言った。
僕は鳴かなかった。
「でも言わないと、あとで怒られる」
姉ちゃんは仰向けに倒れた。ベッドが少し沈む。その振動で、僕の体も揺れた。
「彼氏だからって、全部言わなきゃいけないわけじゃないじゃん」
彼氏。
やっぱり水野くんは彼氏だった。
僕は、姉ちゃんの横で丸くなりかけて、やめた。
丸くなると、聞いているだけになってしまう気がした。
姉ちゃんは天井を見ていた。
「悠真ってさ」
名前が出た。
僕は耳だけ動いた。
「最近、なんか変だった?」
聞かれている。
たぶん僕に。
でも、姉ちゃんは天井を見たままだった。
僕は、どう答えればいいか分からなかった。
変だったのは、僕じゃなくて周りだと思っていた。
陽太が別のクラスになった。
大地たちが、いつの間にか班の中で話を進める。
先生は僕が一人でいることを少し増えたと言った。
母さんは知らなかった。
姉ちゃんも知らなかった。
でも、それを変と言うなら、僕は変だったのかもしれない。
僕は小さく鳴いた。
姉ちゃんは横を向いた。
目が合う。
「分かんないよね」
僕はもう一度鳴いた。
分かる。
分かるけど、言えない。
姉ちゃんは手を伸ばして、僕の背中を撫でた。指が毛に沿って動く。さっきより少し乱暴で、でも途中で止まる。
「私、弟のこと全然見てなかったかも」
僕は動かなかった。
見てなかった。
それは、姉ちゃんだけじゃないと思った。
僕も姉ちゃんのことを見ていなかった。
帰りが遅いとか、機嫌が悪いとか、スマホばかり見てるとか、そういうことしか知らなかった。進路希望調査の紙が何度も消されていたことも、水野くんの通知を見て手が止まることも、ミケの首輪の横に僕のキーホルダーが置かれそうになったことも、今日まで知らなかった。
知らないまま、姉ちゃんは楽そうだと思っていた。
大きいから、怒られない。
高校生だから、自分で決められる。
彼氏もいて、友達もいて、家の外に行ける。
そんなふうに思っていた。
姉ちゃんは枕の横のスマホを見た。
「水野くん、県外行くなら同じとこ受ければって言うんだよ」
僕に言っているのか、天井に言っているのか分からない。
「簡単に言うなって感じ」
スマホがまた震えた。
姉ちゃんは今度も見なかった。
「友達は、推薦狙うとか言ってるし。うちのクラス、急にみんな先の話ばっかするし。母さんはお金の話するし」
姉ちゃんの指が、僕の背中で止まった。
「悠真は、給食の話しかしないし」
それは違う。
給食の話ばかりしていたわけじゃない。
でも、家で話すことは、それくらいだったのかもしれない。
今日の給食がカレーだったとか、魚が骨だらけだったとか、隣の席のやつが牛乳をこぼしたとか。
それなら言える。
怒られない。
誰にも困られない。
陽太と別のクラスになってから、休み時間が少し面倒だとは言わなかった。理科のまとめを押しつけられて嫌だったとも言わなかった。教室にいると、自分の席だけ少し借り物みたいだとも言わなかった。
姉ちゃんも、たぶん同じだった。
本当に言いたいこと以外を、毎日少しずつ言っていた。
姉ちゃんは起き上がった。
「ごめん」
小さく言った。
僕に言ったのか、僕じゃない誰かに言ったのか分からない。
ドアの向こうで、母さんが階段を上がってくる音がした。
「千夏、ちょっといい?」
姉ちゃんはすぐに顔を変えた。
「何」
「陽太くんのお母さんに連絡した。今日、陽太くんは学校に来てたって」
陽太。
名前を聞いた瞬間、僕は立ち上がった。
姉ちゃんがこっちを見た。
「ミケ?」
母さんの声が続く。
「悠真、最近陽太くんと何かあった?」
姉ちゃんは答えなかった。
僕を見ていた。
僕はベッドの上で、姉ちゃんを見返した。
言えない。
でも、姉ちゃんの目は、僕が何かを知っていると思っているみたいだった。
「……分かんない」
姉ちゃんが言った。
少し間を置いて、続けた。
「でも、クラス替えしてから、あんまり名前出さなくなった」
母さんは黙った。
「そうなの?」
「たぶん」
「千夏、気づいてたの?」
「気づいてたっていうか」
姉ちゃんは僕から目をそらした。
「なんとなく」
なんとなく。
僕は、ベッドの上で前足を少し動かした。
母さんは部屋に入ってこなかった。廊下で立ったまま、ため息みたいな息をした。
「なんで言わないの、そういうこと」
姉ちゃんの声が少し低くなった。
「言ったら何か変わったの?」
廊下が静かになった。
僕は姉ちゃんを見た。
姉ちゃんは、母さんを見ていなかった。机の上の進路希望調査を見ていた。
母さんは何も言わず、階段を下りていった。
姉ちゃんはベッドに座ったまま、しばらく動かなかった。
それから、僕の方を見た。
「ごめん。今の、悠真の話だったのに」
僕は鳴いた。
いいよ、とは言えなかった。
でも、たぶん怒ってはいなかった。
姉ちゃんは僕の額に指を置いた。
「本当にさ」
声が少しだけ震えた。
「どこにいんの」
僕は、姉ちゃんの手に頭を押しつけた。
ここにいる。
そのつもりで。
姉ちゃんの指が止まった。
ほんの少しだけ、力が入る。
「……ミケ?」
またその名前だった。
でも、今度はその名前の中に、別のものが混ざっている気がした。
僕は、逃げなかった。
姉ちゃんは、しばらくそのまま僕の額に指を置いていた。
僕も動かなかった。
動いたら、何かが切れてしまう気がした。
何が切れるのかは分からない。ただ、姉ちゃんの指の下にあるこの場所だけが、今の僕をつないでいるような気がした。
スマホがまた震えた。
姉ちゃんはそちらを見なかった。
「うるさい」
小さく言った。
誰に向けた言葉なのか分からなかった。水野くんかもしれないし、母さんかもしれないし、この家の中にずっと流れている落ち着かない音全部かもしれなかった。
僕は姉ちゃんの手に頭を押しつけたまま、耳だけを動かした。
下の階では、父さんが誰かと電話していた。
「はい。近所も見ました。学校にも確認してもらってます。……はい、友達の家も順に」
友達の家。
陽太の家にも、きっと連絡が行く。
大地の家にも行くかもしれない。
大地は、どう思うんだろう。
朝、僕にまとめを押しつけた。僕は分かったと言った。それが最後の会話になるのは、少し変だった。
最後じゃない。
僕はここにいる。
そう思うたびに、体が一回り小さくなるみたいだった。
姉ちゃんはスマホを手に取った。
画面を見る。
水野くんからの通知がいくつも並んでいた。文字は全部読めなかった。でも、一番上の短い文だけは見えた。
大丈夫?
姉ちゃんは画面を閉じた。
そのあと、別の画面を開いた。
連絡先を探しているみたいだった。親指が何度か止まり、また動く。
「陽太くんって、どれ」
姉ちゃんが言った。
僕は顔を上げた。
「悠真のスマホ、パス分かんないし」
そう言って、姉ちゃんは立ち上がった。
僕の部屋へ行くのだと分かった。
僕もベッドから降りようとした。床までの高さに一瞬ためらう。けれど、さっきより怖くなかった。体が先に動いて、四つの足で降りた。
姉ちゃんはドアを開けた。
廊下を歩く。
僕もついていった。
「ミケ、来るの?」
姉ちゃんは振り返った。
僕は止まらなかった。
姉ちゃんは何も言わず、僕の部屋に入った。
部屋は、知らない場所みたいになっていた。
ベッドの下の漫画。開いた引き出し。ランドセルから出された教科書。机の上に置かれた連絡帳。母さんたちが探したあとが、全部そのままだった。
姉ちゃんは机の前に立ち、僕の筆箱をどかした。
スマホは机の端にあった。
昨日の夜、充電しようとして、そのまま置いたやつだった。画面は暗い。姉ちゃんがボタンを押すと、ロック画面が光った。
通知が何件かあった。
クラスのグループ。
ゲームの通知。
陽太からのメッセージ。
姉ちゃんの指が止まった。
画面には、短くこう出ていた。
今日学校来てないの?
その下に、もう一つ。
なんかあった?
姉ちゃんはそれを見て、口を閉じた。
「来てたんじゃん」
小さく言った。
たぶん、陽太のことだった。
姉ちゃんは僕のスマホを持ったまま、しばらく考えていた。パスコードを入れようとして、指を止める。
「誕生日?」
僕の誕生日を入れた。
開かなかった。
「だよね」
姉ちゃんは少しだけ笑った。
でも、笑ってすぐ真顔に戻った。
「ミケ、知ってる?」
知ってる。
でも、言えない。
パスコードは、前に陽太と決めた数字だった。ゲームのキャラの誕生日。母さんに見られても分からないようにした。姉ちゃんにも分からない。
僕は机の脚に前足をかけた。
姉ちゃんが僕を見る。
「上がる?」
僕は鳴いた。
姉ちゃんは迷ったあと、僕を抱き上げて机の上に乗せた。
机の上は、いつもより狭かった。鉛筆の匂いが近い。消しゴムのかすが肉球の間に入る。ノートの紙が足の下で少しへこむ。
僕はスマホの前に立った。
画面が明るい。
数字が並んでいる。
押せるかもしれないと思った。
前足を出した。
でも、肉球が画面に触れると、数字が二つ同時に反応した。違う音が鳴る。
姉ちゃんが息を飲んだ。
「え、なに。押した?」
僕はもう一度押そうとした。
今度は、爪が画面に当たっただけだった。
うまく押せない。
人差し指がない。
ただそれだけのことで、僕は自分がどこにも届かないような気がした。
姉ちゃんはスマホを持ち上げた。
「今、開けようとした?」
僕は姉ちゃんを見た。
姉ちゃんの顔が近い。目の中に、机のライトが小さく映っている。
「ミケ」
またその名前。
姉ちゃんは、スマホと僕を交互に見た。
「悠真?」
声が、とても小さかった。
僕は動けなかった。
その名前を、今度こそ自分の方に投げられた気がした。
口を開ける。
「ニャ」
出た音は、やっぱり違った。
姉ちゃんの顔が、少し歪んだ。
泣きそう、とは少し違った。怒りそうにも見えた。笑いそうにも見えた。どれでもない顔だった。
「……違うよね」
姉ちゃんは自分に言うみたいに言った。
「ごめん。変なこと言った」
違わない。
違わないのに。
僕は前足を一歩出した。
スマホの画面に触れる。
また変な数字が押された。
ロック画面が震えた。失敗した。
姉ちゃんは、その画面を見つめていた。
「水野くんの誕生日とかにしとけばよかった」
急にそんなことを言った。
僕は姉ちゃんを見た。
「いや、しないけど。絶対しないけど」
姉ちゃんはひとりで言い直した。
その言い方が少しだけいつもの姉ちゃんで、僕は喉の奥が変なふうに鳴りそうになった。
でも、そのあとすぐ、姉ちゃんのスマホがまた震えた。
姉ちゃんは自分のポケットからスマホを出した。
水野くん。
今度は電話だった。
姉ちゃんは画面を見て、しばらく出なかった。着信音は小さいのに、部屋の中でやけに響いた。
そして、出た。
「もしもし」
声が低かった。
僕は机の上で座ったまま、姉ちゃんを見ていた。
「うん。……うん、そう。弟がいなくなった」
弟。
姉ちゃんは、僕のことを弟と言った。
「分かんない。家の中にはいないって。靴もランドセルもあるけど」
電話の向こうの声は、かすかに漏れていた。水野くんの声は、低くて、聞き取りにくかった。
「だから、私も分かんないって言ってるじゃん」
姉ちゃんの眉が寄る。
「今日会うとか無理。そっちの話、今できない」
少し間。
「受験の話も今しないで」
また間。
「違う。水野くんが悪いとかじゃない。そういう話にしないで」
姉ちゃんは、机の端に手をついた。
「弟がいないの」
その言い方で、部屋の中の空気が止まった。
僕は机の上で、耳を伏せた。
電話の向こうで、水野くんが何か言った。
姉ちゃんは目を閉じた。
「だから、心配してくれるのは分かるけど、今、私の進路とか、そっち行くとか、そういう話されると無理」
また、少し黙る。
「うん。切る」
姉ちゃんは電話を切った。
スマホを机に置く。
手が少し震えていた。
「なんで全部、今くるんだろ」
姉ちゃんはそう言って、椅子に座った。
僕は机の上で、姉ちゃんの手に近づいた。
前足で、姉ちゃんの指に触れた。
姉ちゃんは僕を見た。
「なに」
声が少しだけ柔らかかった。
僕はもう一度、前足を出した。
姉ちゃんの指の上に乗せる。
爪は出さないようにした。
姉ちゃんは、しばらく僕の前足を見ていた。
「ミケって、こんなことしたっけ」
したかもしれない。
していなかったかもしれない。
僕には分からなかった。
ミケは、どんなふうに姉ちゃんに触っていたんだろう。
僕が知らないだけで、ミケはずっと姉ちゃんのそばにいた。姉ちゃんが電話しているときも、進路希望調査を消しているときも、泣きそうになる前も。
僕は知らなかった。
ミケは知っていた。
そう思うと、今の僕がどっちなのか分からなくなった。
姉ちゃんは僕の前足をそっと持ち上げた。
肉球を指で押す。
「やわらか」
僕は引っ込めようとした。
でも、姉ちゃんは強く握っていなかった。逃げようと思えば逃げられた。
逃げなかった。
姉ちゃんは、僕の前足を見たまま言った。
「悠真の手、最近見てないな」
僕の手。
「小さいころはさ、よく変なもの握ってた。石とか、どんぐりとか、ガチャガチャのカプセルとか」
僕は覚えている。
公園で拾った白い石。
虫みたいな形の枝。
駅前のガチャガチャの空カプセル。
いらないと言われても、捨てられなかった。
「この恐竜もそうだった」
姉ちゃんは机の上の黄色いキーホルダーを見た。
「いらないって言って、私に渡したくせに、あとでちょっと後悔してる顔してた」
見られていた。
僕は恥ずかしくなって、前足を引っ込めた。
姉ちゃんは小さく息を吐いた。
「そういうの、見てたんだけどな」
声が下がった。
「見てたつもりだったんだけどな」
僕は、机の上で座っていた。
姉ちゃんの言葉が、どこに落ちたのか分からなかった。
見ていた。
見ていなかった。
見られていた。
見てほしかった。
全部が同じ机の上に置かれているみたいだった。
下の階から、父さんの声がした。
「千夏、先生が帰るって」
姉ちゃんは顔を上げた。
「分かった」
返事をしてから、僕を見た。
「ミケ、下行く?」
僕は動かなかった。
下には先生がいる。
母さんがいる。
父さんがいる。
知らない人たちがいる。
みんな僕を探している。
でも、僕を見るとミケと呼ぶ。
姉ちゃんは少し考えてから、僕を抱き上げた。
「行こ」
僕は姉ちゃんの腕の中で、机の上のスマホを見た。
陽太からの通知は、まだ画面の上に残っていた。
今日学校来てないの?
なんかあった?
返事はできなかった。
姉ちゃんの腕の中で階段を下りながら、僕は初めて、学校へ行きたいと思った。
学校が好きなわけじゃない。
でも、陽太に返事をしたかった。
大地に、まとめはもう読まないと言いたかった。
先生に、僕は一人でいたんじゃないと言いたかった。
それから母さんに、靴とランドセルがあるなら、もう少し僕を見てほしかったと言いたかった。
リビングに入ると、先生が立ち上がった。
「あ、ミケちゃん」
先生はそう言った。
姉ちゃんの腕に力が入った。
僕は先生を見た。
先生は、僕の顔を見て、少しだけ首をかしげた。
「この子、今日ずっと鳴いてますね」
母さんが言った。
「そうなんです。朝から」
先生は、僕の目を見た。
「悠真くん、猫好きでしたよね」
急に、そんなことを言った。
母さんが答えた。
「はい。というか、ミケがずっと家にいるので」
「よく絵に描いてました」
先生が言った。
「図工で。猫の絵だけ、妙に細かく描くんです。ひげとか、足の先とか」
僕は覚えていなかった。
図工でミケを描いたことはある。
でも、ひげを何本描いたかなんて覚えていない。
先生は覚えていた。
母さんは少しだけ驚いた顔をした。
「そうなんですか」
「はい。本人は、別にうまくないって言ってましたけど」
姉ちゃんが僕を抱く腕に、もう一度力を入れた。
僕は先生を見ていた。
先生は、僕のことを全部見ていたわけじゃない。
休み時間のことも、陽太のことも、大地のことも、たぶん半分くらいしか知らない。
でも、僕が猫のひげを細かく描いたことは覚えていた。
それだけで、少しだけ息がしやすくなった。
猫の体なのに。
先生が帰るとき、玄関で母さんに言った。
「何か思い出したら、すぐ連絡します」
母さんは頭を下げた。
姉ちゃんは、僕を抱いたまま廊下に立っていた。
先生が靴を履き、玄関を出る直前、僕の方を見た。
「ミケちゃんも、何か知ってたら教えてね」
先生は少しだけ笑って言った。
冗談のつもりだったのだと思う。
僕は鳴いた。
先生の顔から、笑いが少し消えた。
ほんの少しだけ。
でも、先生は何も言わず、ドアの外へ出ていった。
姉ちゃんは、閉まったドアをしばらく見ていた。
それから、僕の耳元で小さく言った。
「教えたいよね」
僕は姉ちゃんの腕の中で、声を出さなかった。
出したら、またただの鳴き声になる。
だから、姉ちゃんの制服に顔を押しつけた。
姉ちゃんは何も言わず、僕の背中を撫でた。
夜になっても、僕は見つからなかった。
見つからないまま、家の中にいた。
リビングのテーブルには、夕飯が並んでいた。
母さんは作ったけれど、誰もちゃんと食べなかった。
父さんの前には茶碗があった。箸もあった。味噌汁もあった。けれど父さんは、何度もスマホを見て、何度も玄関の方を見た。
母さんは立ったり座ったりしていた。
冷蔵庫を開けて、閉める。
鍋のふたを開けて、閉める。
意味のない動きを何度もしていた。
姉ちゃんは、僕を膝の上に乗せたまま椅子に座っていた。
いつもの僕の席は空いていた。
茶碗も箸も出ていない。朝のコップも片づけられていた。
そこだけ、最初から誰も座る予定がなかったみたいだった。
僕は姉ちゃんの膝の上から、その席を見ていた。
朝は、ミケが僕の椅子に座っていた。
母さんが「取られたね」と言った。
今は、誰も取っていない。
空いているだけだった。
「千夏、食べなさい」
母さんが言った。
「いらない」
「少しでいいから」
「いらないって」
姉ちゃんの声は強かったけれど、体はあまり動かなかった。僕の背中に置かれた手だけが、何度も同じ場所を撫でている。
撫でられすぎて、そこの毛だけ少し寝ている気がした。
父さんが低い声で言った。
「警察から連絡が来るまでは、家にいた方がいい」
「分かってる」
母さんが答えた。
「近所、もう一回見てくる」
「さっき見たろ」
「でも」
「暗くなってから一人で行くな」
父さんがそう言うと、母さんは黙った。
黙ったあと、急に僕の方を見た。
「ミケ、ごはん食べてない」
その言い方が、今この家で言うことじゃない気がした。
でも、母さんは本気で心配している顔をしていた。
僕がいないことと、ミケがごはんを食べないことが、同じ場所に置かれているみたいだった。
母さんは台所へ行って、父さんが出した皿を持ってきた。茶色い粒はそのまま残っていた。
「ミケ」
床に皿を置く。
僕は姉ちゃんの膝の上から動かなかった。
「ほら」
母さんの声が少しだけ震えていた。
姉ちゃんが僕の背中を軽く押した。
「食べなよ」
食べたくない。
そう思ったのに、匂いが来ると、また口の中に水が出た。
お腹が空いていることに、そのとき気づいた。
朝から何も食べていない。
昨日までなら、夕方にはお腹が鳴っていた。
でも今の体は、鳴る前に匂いの方を見てしまう。
僕は姉ちゃんの膝から下りた。
皿の前まで行く。
母さんと父さんと姉ちゃんが見ている。
こんなに見られながら食べたことはない。
給食のとき、前の席の子がこっちを見ることはあっても、家族全員が黙って見ていることなんてなかった。
僕は一粒だけ口に入れた。
硬かった。
噛むと、口の中で魚みたいな匂いが広がった。おいしいのかどうか分からなかった。でも、体は次の粒を食べようとした。
僕はもう一粒食べた。
母さんが小さく息を吐いた。
「食べた」
そんなことで、母さんが少し安心した声を出した。
僕は食べるのをやめた。
安心しないでほしかった。
僕が猫のごはんを食べたことで、何かが普通に戻ったみたいにしないでほしかった。
でも、お腹は空いていた。
僕はまた一粒食べた。
姉ちゃんが椅子から立ち上がった。
「私、悠真の部屋で寝る」
母さんが顔を上げた。
「なんで」
「なんとなく」
「千夏」
「いいでしょ。どうせ寝れないし」
姉ちゃんは僕を見た。
「ミケも来る?」
母さんが言った。
「ミケは下にいさせて。変に動かれると困るから」
「私の部屋にいたって変に動くじゃん」
「そういう言い方しないの」
姉ちゃんは返事をしなかった。
僕は皿から顔を上げた。
姉ちゃんは、僕の方へ手を伸ばした。抱き上げようとして、途中でやめる。
「来るなら来て」
そう言って、階段へ向かった。
僕は皿の前に残った。
まだ少し食べたかった。
でも、姉ちゃんが階段を上がっていく音がした。
一段ずつ、遠くなる。
僕は皿を見た。
それから、階段を見た。
体は、姉ちゃんの方へ動いた。
階段を上がるのは、朝よりうまくなっていた。前足を置いて、後ろ足を引き寄せる。途中で一度、尻尾が壁に当たったけれど、止まらずに上がれた。
二階の廊下では、姉ちゃんが僕を待っていた。
「ほんとについてくるんだ」
僕は鳴いた。
姉ちゃんは少しだけ笑った。
でも、その笑い方はすぐ消えた。
僕の部屋に入ると、姉ちゃんは床に落ちていた漫画を拾い、ベッドの横に重ねた。引き出しを閉め、ランドセルから出された教科書を机の上に並べた。
僕はベッドの上に飛び乗ろうとして、失敗した。
前足だけかかって、後ろ足が床でもがいた。
姉ちゃんが後ろから持ち上げてくれた。
「ミケ、今日ほんと下手だね」
その言葉に、少しむっとした。
下手なのはミケじゃない。
僕が、この体に慣れていないだけだ。
でも、それを言う方法はなかった。
ベッドの上に下ろされると、布団にはまだ僕の匂いがした。
さっきは分からなかった。
でも今は少し分かった。
鉛筆の芯。汗。昨日のパジャマ。洗剤。布団の奥に残ったぬるい空気。そこに、ミケの匂いも重なっていた。
僕の匂いとミケの匂いは、混ざっていた。
姉ちゃんはベッドの端に座った。
「ここで寝たら怒られるかな」
母さんに、という意味だと思った。
僕は布団の上で丸くなりかけて、またやめた。
姉ちゃんは机の上のスマホを見た。僕のスマホだ。まだロックはかかったまま。陽太からの通知も、たぶん残っている。
「パスワード、何にしてんの」
姉ちゃんはそう言って、スマホを手に取った。
また誕生日を入れる。
失敗。
父さんの誕生日。
失敗。
母さんの誕生日。
失敗。
「私の誕生日だったらどうしよ」
小さく言って、入れた。
失敗した。
姉ちゃんは少しだけ鼻で笑った。
「だよね」
そのあと、しばらく何もしなかった。
スマホを机に戻し、僕の漢字ドリルを開いた。最後の一行を見て、姉ちゃんが言った。
「字、汚な」
僕は顔をそらした。
昨日、眠くて雑に書いたところだ。
姉ちゃんはページをめくった。
前のページ。
その前のページ。
丁寧な字もあれば、雑な字もある。
「これ、ちゃんと書けてる日と、そうじゃない日すぐ分かる」
僕は姉ちゃんの手元を見た。
姉ちゃんは笑わなかった。
「私もそう」
机の上に、姉ちゃんが持ってきたらしいプリントが一枚置かれた。進路希望調査だった。さっき姉ちゃんの部屋で見た紙と同じ。端が少し折れている。
姉ちゃんはそれを僕の机の上に広げた。
僕の漢字ドリルの横に、姉ちゃんの進路希望調査が並んだ。
変な感じだった。
僕の机に、姉ちゃんの高校の紙がある。
第一志望の欄には、何か書かれていた。僕には全部読めなかった。でも、地名のところだけ見えた。
この家から、たぶん遠い場所だった。
姉ちゃんはシャーペンを持った。
書こうとして、やめる。
消しゴムを持つ。
消す。
紙が少し黒くなる。
「母さん、お金のことばっか言う」
姉ちゃんが言った。
僕は布団の上で、姉ちゃんを見た。
「お金のこと、大事なのは分かるけど」
シャーペンの先が、紙の上で止まった。
「分かるけど、それだけで決めたら、あとで絶対むかつく」
姉ちゃんは、僕を見なかった。
「水野くんは、同じとこ受ければいいって言うし。友達はもう推薦でって言うし。先生は、今の成績ならもう少し上も狙えるって言うし」
一つずつ、人の名前は出ない。
でも、姉ちゃんの周りにいる人たちが、部屋の中に増えていくみたいだった。
「みんな、勝手に私の行く場所を置いてくる」
シャーペンの先が、かつ、と机に当たった。
「悠真はさ」
また僕の名前。
「最近、何も言わなかったよね」
僕は布団の上で、小さく体を起こした。
「給食のこととか、ミケが変な寝方してたとか、そういうのは言うのに」
姉ちゃんの目は、進路希望調査を見ていた。
「本当に嫌なこと、言わなかったよね」
僕は鳴けなかった。
姉ちゃんの言葉は、怒っているみたいではなかった。
でも、痛かった。
本当に嫌なこと。
陽太と別のクラスになったこと。
大地に押しつけられたこと。
教室に入るとき、どこに目を向ければいいか分からないこと。
休み時間、校庭に行きたくないのに教室にも残れないこと。
母さんに言っても、たぶん「そのうち慣れるよ」と言われそうだったこと。
言わなかった。
姉ちゃんに言うなんて、考えたこともなかった。
姉ちゃんはシャーペンを置いた。
「私も言ってないけど」
そう言って、姉ちゃんはベッドに背中を預けた。
僕のすぐ隣だった。
「だから、同じか」
何が同じなのか、分からなかった。
でも、少し分かった気もした。
姉ちゃんは、自分が行く場所を決められない。
僕は、自分がいる場所を言えない。
二つは全然違うのに、ベッドの上では少し近かった。
下の階で電話が鳴った。
母さんが出る音がした。
姉ちゃんの体が少し固くなった。
「見つかった?」
そう言いかけて、言わなかった。
階段の下から、母さんの声がした。
「はい。……いえ、まだ」
まだ。
姉ちゃんは目を閉じた。
僕は、姉ちゃんの横で丸くなった。
今度は、体に任せた。
丸くなると、背中が温かかった。自分の息が前足にかかる。尻尾が鼻先に触れる。そこに姉ちゃんの手がそっと乗った。
「ミケ」
姉ちゃんが言った。
僕は目を開けた。
「もし悠真が帰ってきたらさ」
帰ってきたら。
「怒る前に、ちょっと待ってって母さんに言っといて」
無理だよ。
僕は鳴いた。
姉ちゃんは小さく笑った。
「無理か」
それから、少し間を置いて言った。
「でも、あんたが一番見てたかもしれないし」
僕は姉ちゃんの手の下で、動かなかった。
見ていた。
たぶん、ミケは見ていた。
僕も、少しずつ見始めていた。
姉ちゃんの進路希望調査。
水野くんからの電話。
陽太からの通知。
母さんの手の震え。
先生が覚えていた猫のひげ。
空いたままの僕の席。
全部、今日になってから見た。
人間だった朝まで、見えていなかったものばかりだった。
姉ちゃんは、僕の布団の上で横になった。制服のままだった。片手だけ、僕の背中に置いている。
その手が少し重かった。
でも、嫌じゃなかった。
僕は目を閉じた。
下の階では、まだ電話の声が続いていた。
僕はいなくなったままだった。
でも、姉ちゃんの手の下にいた。
そのまま、少し眠ったのだと思う。
眠ったというより、音が遠くなった。
下の階の電話の声も、母さんが鼻をすする音も、父さんが何度も玄関を開ける音も、全部が薄い布の向こうに行ったみたいになった。姉ちゃんの手は、僕の背中に乗ったままだった。
重い。
でも、動かないでほしかった。
目を開けると、部屋は暗くなっていた。
カーテンの隙間から、外の街灯の光が細く入っている。机の上の進路希望調査はそのままで、僕の漢字ドリルも開いたままだった。シャーペンが紙の上に斜めに転がっている。
姉ちゃんは寝ていた。
制服のまま、僕のベッドに横向きで寝ている。片手だけが僕の背中に残っていて、指先がときどき小さく動いた。
僕はそっと体を抜いた。
姉ちゃんの手が布団の上に落ちる。
起きるかと思ったけれど、姉ちゃんは起きなかった。
ベッドから降りた。
今度は一回で降りられた。
足の裏が床につく。体が勝手に沈んで、すぐに立てる。
慣れてきている。
そう思って、嫌になった。
部屋のドアは少しだけ開いていた。
廊下に出ると、下の階の明かりがついていた。階段の上から見下ろすと、リビングに父さんと母さんがいた。
母さんはテーブルに突っ伏していた。寝ているのか、起きているのか分からない。父さんは腕を組んで、椅子に座っている。テレビはついていない。時計の音だけがしていた。
僕は階段を降りた。
一段ずつ。
夜の階段は、朝よりずっと静かだった。木の匂いが濃い。壁の角に、昼には気づかなかった小さい傷があった。
リビングに入っても、父さんはすぐには気づかなかった。
僕は父さんの足元まで行った。
父さんの靴下は片方だけ少しずれていた。いつもなら母さんに「ちゃんと履きなさいよ」と言われるやつだ。
僕は父さんの足に前足を乗せた。
父さんが下を見た。
「ミケか」
それだけ言って、僕の頭を少し撫でた。
父さんの手は大きかった。
母さんや姉ちゃんより、ずっと大きい。少し硬くて、指の腹がざらっとしている。
「悠真、どこ行ったんだろうな」
父さんは僕に言った。
本当に僕に言ったのか、何も言う相手がいないから僕に言ったのか、分からなかった。
僕は父さんの足に顔を押しつけた。
ここ。
何度もそう思った。
父さんはしばらく僕の頭を撫でていた。
それから、急に手を止めた。
「朝、俺、靴見たんだよな」
父さんの声が小さくなった。
「玄関にあった。あいつの靴」
僕は顔を上げた。
父さんはテーブルの上を見ていた。そこには、母さんのスマホと、警察の人が置いていった紙と、僕の連絡帳があった。
「見たのに、何も思わなかった」
父さんはそう言った。
母さんが少し動いた。
寝ていなかった。
「私も」
母さんの声は、テーブルに伏せたままだった。
「部屋にいると思った。ミケがベッドにいたのに、悠真もいると思った」
母さんは顔を上げなかった。
「変だよね。見たのに」
見たのに。
二人とも、僕を見た。
でも、見えていなかった。
僕は父さんの足元から、母さんの方へ行った。椅子の脚の間を通る。母さんの足元に座る。
母さんは顔を上げた。
目が赤かった。
「ミケ」
母さんは、僕を抱き上げなかった。
手だけを伸ばして、僕の顎の下に触れた。そこを撫でられると、体が勝手に首を伸ばそうとする。
僕は首を伸ばさないようにした。
でも少し伸びた。
母さんはそれを見て、泣きそうな顔で笑った。
「いつも通りだね」
いつも通りじゃない。
僕は母さんの手から顔を引いた。
母さんの笑いが消えた。
「ごめん」
母さんが言った。
誰に謝ったのか分からなかった。
僕は逃げなかった。
父さんが立ち上がった。
「もう一回、外見てくる」
「暗いよ」
「家の前だけ」
父さんは玄関へ行った。
僕は追いかけた。
玄関のドアが開く。外の夜の匂いが入ってきた。昼より冷たい。湿った土と、道路と、どこかの家の夕飯の残りみたいな匂いが混じっている。
僕は一歩だけ、たたきに降りた。
父さんは僕を見た。
「出るなよ」
言われなくても、出られなかった。
外は昼より暗いのに、昼より広く見えた。
門の向こうに道路がある。道路の向こうに家がある。家の向こうに、もっと知らない場所がある。
もし僕が外へ出たら、ミケとして迷子になる。
悠真としては、もう迷子になっている。
父さんは外へ出た。
ドアは少しだけ開けたままだった。
僕は隙間から外を見た。
父さんが門の前まで行く。左右を見る。少し歩く。街灯の下で立ち止まる。戻ってくる。
それだけだった。
それだけなのに、父さんの背中がいつもより小さく見えた。
ドアが閉まる。
父さんは僕を見下ろした。
「お前、出てないよな」
僕は鳴いた。
出てない。
父さんは苦笑いみたいな顔をした。
「猫に聞いてもな」
その言葉に、何かが胸の中でつまった。
猫に聞いても。
でも、父さんは聞いた。
聞いたのに、答えを待たなかった。
リビングに戻ると、母さんが電話をしていた。
「はい。明日も学校の方で確認を……はい。よろしくお願いします」
明日。
明日になっても、僕はこのままなのだろうか。
学校では、僕の席が空く。
先生が朝の会で僕の名前を呼ぶ。
誰かが僕の机を見る。
大地は何か言うかもしれない。
陽太は、隣のクラスから見に来るかもしれない。
僕の席。
僕はまだ、そこにいるつもりだった。
でも、体はこの家にいる。
しかも、ミケの体で。
母さんは電話を切った。
父さんが椅子に座る。
二人とも、何も言わなかった。
僕はリビングを歩いた。
自分の椅子の下まで行く。
椅子はテーブルにしまわれていた。僕が座るはずだった椅子。朝、ミケが座っていた椅子。今は誰も座っていない。
僕はジャンプした。
前足が座面にかかった。後ろ足で床を蹴る。今度は上がれた。椅子の上に立つと、テーブルの上が少し見えた。
母さんと父さんがこっちを見た。
「ミケ、そこは」
母さんが言いかけて、止まった。
僕は椅子の上に座った。
いつも僕が座っていた場所。
でも、座り方が違った。
足を下ろせない。背もたれにもたれられない。テーブルに肘をつけられない。茶碗も持てない。箸も持てない。
それでも、そこは僕の席だった。
僕は椅子の上で丸くならないように、前足をそろえて座った。
父さんが、僕の椅子を見ていた。
母さんも見ていた。
誰も、すぐにはどけと言わなかった。
母さんの口が小さく動いた。
「悠真」
名前が出た。
僕は母さんを見た。
母さんは、僕を見ていた。
でも、その目が僕を見ているのか、僕の席を見ているのか、分からなかった。
「……ごめん」
母さんはまた言った。
父さんが顔をそらした。
僕は椅子の上で動けなかった。
見つけてほしい。
でも、見つかったら何になるんだろう。
僕がミケの体にいると分かったら、母さんはどうするんだろう。父さんはどうするんだろう。姉ちゃんは、さっきみたいに僕を抱けるんだろうか。
それを考えると、怖くなった。
僕は椅子から降りようとした。
でも、少し高かった。上るより降りる方が怖い。
父さんが手を伸ばした。
「降りられないのか」
僕は動かなかった。
父さんは僕の体を両手で持った。持ち上げるのが少し下手だった。お腹のあたりが変に伸びる。僕は思わず足をばたつかせた。
「悪い悪い」
父さんはあわてて、僕を床に下ろした。
父さんが僕に謝った。
猫に。
僕は床に立って、父さんを見上げた。
父さんは、僕の頭を撫でようとして、途中でやめた。
「変だな」
父さんが言った。
母さんが顔を上げる。
「何が」
「ミケ、こんな顔してたっけ」
僕は息を止めた。
母さんも、僕を見た。
父さんはすぐに首を振った。
「いや、分かんない。気のせいだ」
気のせい。
その言葉で、また遠くなる。
僕はリビングを出た。
階段を上がる。
姉ちゃんのところへ戻ろうと思った。
二階の廊下に着くと、僕の部屋の明かりがついていた。姉ちゃんはまだ僕のベッドにいた。起きていた。
「下、行ってたの」
僕は部屋に入った。
姉ちゃんは、僕のスマホを持っていた。
「怒らないでよ」
そう言ってから、少しだけ笑った。
「いや、猫に怒られても困るけど」
僕はベッドに上がろうとした。
今度は姉ちゃんが先に抱き上げてくれた。
布団の上に乗る。
姉ちゃんは僕のスマホを見せた。
「開いた」
僕は目を見開いた。
どうやって、と言いたかった。
姉ちゃんは画面を少し揺らした。
「陽太くんから電話来て、通知から出れた。ロック解除はできてないけど、通話はできた」
陽太。
僕は姉ちゃんの近くに寄った。
「話したよ」
姉ちゃんはスマホを伏せた。
「陽太くん、泣きそうだった」
僕は固まった。
陽太が泣きそう。
想像できなかった。
「最近、悠真と話せてなかったって言ってた。クラス違うし、声かけようと思ったけど、なんかタイミングなくてって」
僕は布団の上に座った。
陽太も、そう思っていた。
僕だけじゃなかった。
「明日、学校行く前に家寄るって」
僕は姉ちゃんを見た。
陽太が来る。
この家に。
僕のいない家に。
僕は何をすればいいんだろう。
姉ちゃんは、僕の顔を見ていた。
「会いたい?」
僕は鳴いた。
その声は、今までより少し大きかった。
姉ちゃんは、唇を噛んだ。
「そっか」
そう言った。
何がそっかなのか分からない。
でも、姉ちゃんは分かったみたいに言った。
姉ちゃんはスマホを机の上に置き、ベッドの上で膝を抱えた。
「私も、明日学校行きたくない」
僕は姉ちゃんの横に座った。
「でも、行かないと、あとが面倒」
姉ちゃんはそう言って、進路希望調査を見た。
「行きたくない場所にも、行かないといけないんだよね」
それは、姉ちゃんの学校の話なのか。
僕の学校の話なのか。
それとも、もっと先の場所の話なのか。
僕には分からなかった。
姉ちゃんは僕の背中に手を置いた。
「悠真も、そうだったのかな」
僕は目を閉じた。
明日、陽太が来る。
姉ちゃんは学校へ行く。
母さんと父さんは、僕を探す。
僕は、ミケの体で、この家の中にいる。
どこにも行けない。
でも、僕の席はまだある。
学校にも、家にも。
空いたまま。
それが少しだけ怖かった。
空いているなら、いつか誰かが片づけてしまう。
僕は姉ちゃんの手の下で、体を丸くした。
今度は、我慢しなかった。
丸くなると、眠気が来た。
姉ちゃんは、僕の背中をゆっくり撫でていた。
「明日、陽太くん来たらさ」
姉ちゃんが言った。
「ちゃんと返事しなよ」
無理だよ。
そう思った。
でも、姉ちゃんは続けた。
「鳴くだけでもいいから」
僕は目を開けた。
姉ちゃんは、僕を見ていなかった。
机の上の進路希望調査を見ていた。
「私も、ちゃんと返事するから」
それが誰への返事なのか、僕には分からなかった。
水野くんか。
母さんか。
自分の進路か。
でも、姉ちゃんの声はさっきより少しだけまっすぐだった。
僕は小さく鳴いた。
姉ちゃんは「うん」と言った。
僕はもう一度、小さく鳴いた。
姉ちゃんの手は、しばらく背中から離れなかった。
第4章 陽太が来る朝
朝になっても、僕は戻っていなかった。
戻る、という言い方が変だと思った。
僕はずっと家にいる。
でも、みんなが探している悠真は戻っていない。
僕はミケの体で、僕のベッドの上にいて、姉ちゃんの手の近くで丸くなっていた。
窓の外は少し暗かった。雨はまだ降っていないけれど、空が低い。カーテンの隙間から入る光が、昨日の朝より青っぽく見えた。
姉ちゃんはベッドの端で寝ていた。
制服ではなく、いつの間にか僕の部屋に置いてあったパーカーを羽織っている。夜のどこかで着替えたのかもしれない。髪はほどけて、顔の横にかかっていた。枕を使わず、腕を曲げてその上に頬を乗せている。
僕は、姉ちゃんの手の近くで目を開けた。
手の甲に、小さな赤い跡があった。
昨日、何度もスマホを握ったからかもしれない。
それとも、机に手をついたときについたのかもしれない。
僕は鼻を近づけた。
姉ちゃんの手は、少し冷たかった。
舐めようとして、やめた。
ミケなら舐めるのかもしれない。
でも僕は、姉ちゃんの手を舐めたことなんてない。
代わりに、前足をそっと近づけた。
肉球が姉ちゃんの指に触れた。
姉ちゃんの指が少し動いた。
「……ミケ?」
寝ぼけた声だった。
僕は小さく鳴いた。
姉ちゃんは目を開けなかった。
「悠真、帰ってきた?」
そう言ってから、姉ちゃんは目を開けた。
僕と目が合う。
姉ちゃんは、しばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくり体を起こした。パーカーの袖がずれて、手首が出る。スマホを探すみたいに枕元を触って、見つけると画面をつけた。
朝の六時四十七分だった。
通知がたくさんあった。
水野くん。
友達らしい名前が二つ。
クラスのグループ。
姉ちゃんはそれを見て、すぐ画面を消した。
「今日、学校行きたくないな」
姉ちゃんは言った。
僕はベッドの上に座っていた。
「でも、行かないと、余計めんどい」
昨日も同じようなことを言っていた。
行きたくない場所にも、行かないといけない。
僕は学校へ行けない。
姉ちゃんは学校へ行きたくない。
どっちの方が嫌なのか、分からなかった。
下の階から、水の流れる音がした。
母さんが起きている。
いつもよりずっと早い。普段ならまだ台所は静かで、母さんは洗面所か寝室にいる時間だ。今日はもう鍋の音がした。冷蔵庫の開く音。食器棚の扉が当たる音。
何かをしていないといられないみたいな音だった。
姉ちゃんはベッドから降りた。
僕も降りようとしたら、先に抱えられた。
「落ちるから」
もう落ちない。
そう思ったけれど、姉ちゃんの腕の中にいると、下りるより早かった。姉ちゃんのパーカーの中から、昨日とは違う匂いがした。少し寝汗の匂いと、僕の布団の匂い。それからミケの毛の匂い。
僕の部屋の匂いが、姉ちゃんに移っていた。
それが少し変だった。
廊下に出ると、父さんが階段を上がってくるところだった。
父さんは姉ちゃんと僕を見た。
「起きてたのか」
「うん」
「警察から、朝もう一回連絡が来る。学校にも先生が早めに行って確認してくれるって」
姉ちゃんはうなずいた。
「陽太くん、来るんだよね」
「来るらしい。七時半くらいって」
七時半。
僕は姉ちゃんの腕の中で、耳を動かした。
陽太が来る。
昨日、姉ちゃんがそう言ったときから、何度も考えていた。
陽太が来たら、僕は何をするんだろう。鳴くだけでもいいから、と姉ちゃんは言った。
でも、鳴くだけで何が伝わるんだろう。
陽太は、僕が猫になったなんて思わない。
きっと、ミケを見て、かわいそうにとか、心配してるのかなとか言う。
先生と同じように。
父さんが僕を見た。
「ミケ、また千夏といたのか」
姉ちゃんは答えなかった。
その代わり、僕を少しだけ抱き直した。
父さんは何か言いかけて、やめた。
階段を下りると、リビングのテーブルには朝ごはんが並んでいた。
並んでいるだけだった。
トースト。目玉焼き。ヨーグルト。母さんはいつも通りに作ったつもりなのかもしれない。でも、いつもより皿の位置がずれていた。僕の席には何も置かれていない。
昨日の夜と同じだった。
空いている。
僕は姉ちゃんの腕から下ろされると、その椅子の下へ行った。
椅子はテーブルにしまわれたままだった。
上がろうとは思わなかった。
上がったら、母さんがまた僕の名前を呼ぶかもしれない。
呼ばれたいと思った。
でも、呼ばれるのが怖かった。
母さんが台所から振り返った。
「千夏、食べられる?」
「少し」
姉ちゃんは椅子に座った。
僕はその足元にいた。
母さんは僕にも皿を出した。昨日と同じ猫のごはんだった。
僕は匂いをかいだ。
お腹は空いていた。
でも、陽太が来る前にそれを食べるのが嫌だった。食べたら、その姿を陽太に見られる気がした。
母さんは僕を見ていた。
「ミケ、食べないの?」
姉ちゃんが言った。
「あとで食べるんじゃない」
「昨日からあんまり食べてない」
「年なんだから、そういう日もあるでしょ」
姉ちゃんの言い方が少し雑だった。
でも、母さんを遠ざけるみたいにも聞こえた。
母さんは黙って、トーストを皿に置いた。
父さんはコーヒーだけ飲んでいた。新聞は開いていない。テレビもついていない。
家の中に、朝の音が足りなかった。
僕はテーブルの下で、姉ちゃんの靴下の横に座った。姉ちゃんの足が一度だけ僕に触れた。軽く。確認するみたいに。
チャイムが鳴ったのは、七時二十八分だった。
全員が動きを止めた。
母さんが玄関へ向かう。
僕は、勝手に立ち上がった。
姉ちゃんがすぐに言った。
「ミケ」
僕は振り返らなかった。
玄関の方へ行く。
床が冷たい。朝の光が廊下に伸びている。玄関のたたきには、僕のスニーカーがまだあった。昨日より少し奥に寄せられている。誰かが動かしたのだと思う。
母さんがドアを開けた。
外の湿った空気が入ってきた。
陽太が立っていた。
ランドセルを背負っていた。黄色い帽子はもうかぶっていない。六年生だから。手には、クリアファイルを持っていた。
陽太の後ろに、女の人がいた。陽太のお母さんだと思う。前に授業参観で見たことがある。髪を後ろで結んでいて、少し困った顔をしていた。
「朝早くすみません」
女の人が言った。
母さんが首を振った。
「こちらこそ、来てもらってしまって」
陽太は、母さんの後ろを見た。
玄関の中。僕の靴。廊下。リビングの方。
そして、僕を見た。
「ミケ」
陽太が言った。
僕は鳴いた。
思ったより大きい声が出た。
陽太の顔が少し変わった。
「……ミケって、こんな声だっけ」
姉ちゃんが後ろから来た。
「昨日から変なの」
陽太は姉ちゃんを見た。
「千夏さん」
たぶん、何度か会ったことはある。陽太はうちに遊びに来たことが何回かあるし、そのとき姉ちゃんはいつも部屋にいた。廊下ですれ違ったり、麦茶を出してくれたりした。
でも、ちゃんと話すのは久しぶりかもしれない。
「上がる?」
姉ちゃんが言った。
陽太は、お母さんの方を見た。
女の人が母さんに言った。
「少しだけなら。学校にも連絡してあります」
母さんはうなずいた。
「どうぞ」
陽太は靴を脱いだ。
そのとき、僕のスニーカーを見た。
しばらく見ていた。
何も言わなかった。
僕は陽太の足元まで行った。
陽太の靴下から、外の湿った匂いと、学校の廊下の匂いがした。僕と同じ小学校の匂い。上履き入れの布の匂い。校庭の砂。給食の残りみたいな匂い。
胸の奥が、変なふうに痛くなった。
学校の匂いだ。
陽太はしゃがんだ。
僕と目の高さが近くなる。
「ミケ、久しぶり」
久しぶりじゃない。
何度も会っている。
僕は陽太と昨日まで同じ学校にいた。
でも、ミケとして会うのは久しぶりかもしれない。
陽太が手を伸ばした。
僕は逃げなかった。
陽太の手が、僕の頭の上で止まる。触る前に、少しだけためらった。
「触っていい?」
誰に聞いたのか分からなかった。
母さんが「大丈夫よ」と言った。
陽太の手が、僕の頭に触れた。
指が少し震えていた。
「ミケ、あいつどこ行ったか知らない?」
冗談みたいに言ったのに、声は少し固かった。
僕は陽太を見た。
知ってる。
ここにいる。
鳴いた。
陽太の手が止まった。
「今の」
姉ちゃんがすぐに聞いた。
「何?」
「いや」
陽太は僕から手を離した。
「なんか、悠真が返事するときみたいな間だった」
母さんが息を吸った。
僕は陽太を見続けた。
陽太は視線をそらさなかった。
「変なこと言ってすみません」
陽太は母さんに言った。
母さんは首を振った。何も言わなかった。
陽太はクリアファイルを両手で持ち直した。
「これ、昨日の連絡とか、先生が渡してって。あと、今日の分も」
母さんが受け取ろうとした。
でも姉ちゃんが先に手を出した。
「私、預かる」
母さんは少し驚いた顔をしたけれど、止めなかった。
姉ちゃんはクリアファイルを受け取った。
中にはプリントが何枚か入っていた。算数の小テストの範囲。国語の音読。理科のノート。たぶん、いつもなら僕がランドセルに入れて持ち帰るものだった。
陽太はリビングに通された。
僕もついていった。
陽太のお母さんは玄関近くで母さんと話していた。小さい声だった。時々、悠真くん、という言葉だけ聞こえた。
リビングでは、父さんが立ち上がった。
「わざわざありがとう」
陽太は、少し硬い動きで頭を下げた。
「いえ」
普段の陽太は、もっと足を投げ出して座る。僕の家でも、勝手に冷蔵庫を開けたりはしないけど、ソファにはすぐ座るし、ゲームの話を始める。
今日の陽太は、知らない家に来た人みたいだった。
「悠真の部屋、見てもいいですか」
陽太が言った。
母さんと父さんが目を合わせた。
姉ちゃんが先に答えた。
「いいよ。私も行く」
僕はもう、階段の方へ歩いていた。
陽太がそれに気づいた。
「ミケも行くの?」
僕は振り返って鳴いた。
陽太は、少しだけ目を細めた。
「やっぱ変」
姉ちゃんが言った。
「でしょ」
二人の声が、初めて同じ場所に乗った気がした。
階段を上がるとき、僕は先に行こうとして、一段目で少し足を滑らせた。
陽太が後ろから「あ」と言った。
姉ちゃんが手を出そうとした。
でも、僕は自分で上がった。
一段、また一段。
昨日よりうまくなっている。
それが嫌だった。
僕の部屋に入ると、陽太は入り口で止まった。
「うわ」
小さく言った。
散らかっているからだと思った。
でも陽太は、部屋全体を見ていた。
ランドセル。
机。
ベッド。
椅子。
開いた漢字ドリル。
スマホ。
机の上の進路希望調査。
「千夏さんの紙?」
陽太が言った。
姉ちゃんは少しだけ顔をしかめた。
「見るな」
「すみません」
陽太はすぐに目をそらした。
僕は机の下へ行った。
いつもの場所。
一昨日までは宿題をしたり、ゲームをしたり、ただ椅子に座っていた場所。
陽太は僕の椅子に手をかけた。
座らなかった。
「俺さ」
陽太が言った。
「廊下で見たんだよ」
僕は机の下から陽太を見た。
「悠真のこと?」
姉ちゃんが聞いた。
陽太はうなずいた。
「理科の発表のあと。階段のところで。声かけようと思ったけど、こっちも友達といて」
陽太は手の中で、何も持っていないのに何かを丸めるみたいに指を動かした。
「あとでいいやって思った」
僕は、その場所を思い出そうとした。
理科の発表のあと。
階段。
陽太のクラスの前を通った。
陽太はいた。
僕は見た。
窓際の席で、知らない男子とノートを見せ合っていた。
でも、廊下でも会ったのかもしれない。
覚えていない。
「なんて声かけようとしたの?」
姉ちゃんが聞いた。
陽太は少し黙った。
「別に。今日遊ぶ?とか」
僕は、机の下で体を固くした。
そんなことを言おうとしていたのか。
言ってくれればよかったのに。
そう思った瞬間、自分でも嫌になった。
僕だって、声をかけなかった。
陽太のクラスの前を通ったのに、声をかけなかった。
タイミングがないふりをした。
陽太も、同じだった。
「でも、なんか、今さらかなって」
陽太は言った。
「クラス違うだけなのに、なんか変で」
姉ちゃんは何も言わなかった。
僕は机の下から出た。
陽太の足元まで行く。
見上げる。
鳴いた。
陽太が僕を見た。
「……ミケ?」
僕はもう一度鳴いた。
言葉にならない。
でも、さっきよりまっすぐ出せた気がした。
陽太はしゃがんだ。
僕の顔を近くで見た。
「お前さ」
陽太は言いかけて、やめた。
姉ちゃんが息を止めたのが分かった。
陽太は、小さく笑おうとして失敗した顔になった。
「悠真みたいな顔すんなよ」
僕は動けなかった。
姉ちゃんが一歩近づいた。
「陽太くんも、そう思う?」
「いや、分かんないです」
陽太はすぐに言った。
「猫だし」
猫だし。
何度も聞いた言葉だった。
でも、陽太はそこで終わらなかった。
「でも、さっきから、こっちが喋ると返事してる感じがする」
僕は陽太を見た。
陽太の目は赤くなっていなかった。
でも、まばたきが少なかった。
「悠真、なんか言ってた?」
姉ちゃんが聞いた。
陽太は首を振った。
「全然。普通だったと思う」
普通。
先生も、変わった様子はないと言った。
でも、僕にとっては普通じゃなかった。
陽太は床に座った。膝を立てて、僕の机にもたれた。
「ただ、最近あんま話してなかった」
僕は陽太の膝の近くに座った。
「俺、別に避けてたわけじゃないんです」
陽太は姉ちゃんに向かって言った。
「クラス違うと、何話せばいいか分かんなくなって。前は、席近かったし、給食とか掃除とかで勝手に話してたから」
姉ちゃんは床に座らなかった。机の横に立ったまま聞いていた。
「今年は、わざわざ話しに行かないと話せなくて」
陽太は、僕の方を見た。
「わざわざって、けっこう難しいじゃん」
分かる。
僕は強く鳴いた。
陽太がびくっとした。
姉ちゃんが僕を見た。
「今の、返事っぽい」
陽太は黙っていた。
僕はもう一度鳴こうとした。
でも、喉の奥で音が引っかかった。
出そうとすればするほど、細くなる。
陽太は、ゆっくり手を伸ばした。
僕の頭ではなく、前足の近くに手を置いた。
触らない。
ただ、近くに置いた。
「悠真だったらさ」
陽太が言った。
「今、たぶん『そういうのめんどいよな』って言う」
言う。
たぶん、言う。
僕は陽太の手に前足を乗せた。
陽太の指が止まった。
姉ちゃんが、何も言わずにそれを見ていた。
陽太の手は、姉ちゃんより少し温かかった。指に鉛筆の匂いがした。校庭の砂の匂いも。
「……ミケ、こういうことする?」
陽太が聞いた。
姉ちゃんは答えなかった。
僕の前足を、陽太はそっと見ていた。
「悠真、昔さ」
陽太が言った。
「俺が転んだとき、こうやって手の上に手置いてきたことある」
僕は覚えていなかった。
「なんで?」
姉ちゃんが聞いた。
「分かんないです。小二くらいのとき。俺が校庭で転んで、保健室行くの嫌で泣いてたら、隣にしゃがんで、何も言わずに手だけ置いてきた」
陽太は少しだけ笑った。
「意味分かんなかったけど、なんか、それで立てた」
僕は覚えていない。
そんなこと、したっけ。
でも、手の上に手を置く感じだけは、少し分かった。
言葉が出ないとき、そこに置くだけ。
今の僕が、陽太にしていることと同じだった。
陽太は僕を見た。
「覚えてる?」
聞かれた。
僕は、鳴けなかった。
覚えていない。
でも、今はそうした。
陽太は僕の前足の下で、少しだけ指を曲げた。
「覚えてないよな」
そう言って、笑った。
でも、その笑い方は、少し泣きそうだった。
姉ちゃんが、静かにベッドに座った。
「悠真、そういうことするんだ」
「たまに」
陽太が言った。
「変なやつなんで」
僕は鳴いた。
陽太が少し笑った。
「ほら、怒った」
怒ってない。
いや、少し怒った。
変なやつと言われるのは、嫌ではなかった。
陽太に言われるなら。
姉ちゃんが僕を見た。
さっきまでより、少しだけ違う顔だった。
僕が知らない僕の話を、姉ちゃんが初めて聞いている顔だった。
陽太は、僕の前足から手を抜かなかった。
「声かければよかった」
小さく言った。
僕は前足に少しだけ力を入れた。
爪は出さなかった。
陽太はそれに気づいたみたいに、もう片方の手で目の下をこすった。
「学校行きたくねえな」
陽太が言った。
姉ちゃんが少しだけ笑った。
「みんな言うじゃん、それ」
「だって、行ったら悠真の席あるし」
僕は陽太を見た。
「絶対見るじゃん。俺」
陽太は、鼻をすすった。
「でも見ないのも変だし」
僕は、陽太の手に前足を置いたままだった。
僕の席。
家にも、学校にもある。
空いている席。
でも、陽太はそれを見ると言った。
見ないふりをしないと言った。
それが、少しだけ嬉しかった。
姉ちゃんが立ち上がった。
机の上に置いてあったクリアファイルを開ける。プリントを取り出して、陽太に見せた。
「これ、悠真の机に置いておく?」
陽太は首を振った。
「いや、持って帰ってきたやつだから」
「じゃあ、ここでいい?」
姉ちゃんは僕の机の右端を少し片づけた。漢字ドリルを閉じて、筆箱を横へずらす。そこに、陽太が持ってきたプリントを置いた。
一昨日の続きみたいに。
僕の机が、少しだけ学校とつながった気がした。
陽太は立ち上がった。
「もう行かないと」
姉ちゃんがうなずいた。
「ありがとう」
「いえ」
陽太は部屋を出る前に、もう一度僕を見た。
「ミケ」
僕は顔を上げた。
陽太は少し迷ってから言った。
「悠真が帰ってきたらさ」
帰ってきたら。
「今日、学校来なくてずるいって言っといて」
僕は鳴いた。
陽太は、今度はちゃんと笑った。
「あと、俺も声かけるからって」
僕はもう一度鳴いた。
陽太はうなずいた。
たぶん、少しだけ伝わった。
玄関までついていくと、母さんと陽太のお母さんが話していた。父さんもいた。みんな、少し疲れた顔をしていた。
陽太は靴を履いた。
ドアを開ける前に、振り返った。
僕は廊下の真ん中にいた。
「じゃあな」
誰に向けたのか分からなかった。
でも、僕は鳴いた。
陽太は一瞬だけ目を閉じて、ドアの外へ出ていった。
出るとき、陽太は僕のスニーカーをもう一度見ていた。
外の空気が入ってくる。
雨が、少し降り始めていた。
地面の匂いがした。
学校へ行く朝の匂いだった。
陽太が行ったあと、玄関はしばらく開いたままだった。
母さんが閉め忘れたのだと思う。雨の匂いが細く入ってきて、廊下の床を冷たくした。外では、陽太のお母さんの車のドアが閉まる音がした。エンジンの音が少しだけ大きくなって、それから遠ざかっていった。
僕は、玄関の真ん中に立っていた。
陽太がさっき言った声が、まだ耳に残っている。
じゃあな。
あれは、ミケに言ったのか。
僕に言ったのか。
分からない。
でも、僕は返事をした。
鳴くだけでもいいから。
姉ちゃんの言葉を思い出した。
鳴くだけでも、陽太は少しだけ聞いた。
少しだけ、僕の方を見た。
それだけで、昨日よりはましだった。
母さんがドアを閉めた。
外の匂いが急に細くなる。雨の音だけが、ドアの向こうに残った。
「陽太くん、いい子ね」
母さんが言った。
父さんは返事をしなかった。
姉ちゃんは、玄関の上がり框に座っていた。制服のスカートの端を片手で押さえて、もう片方の手でスマホを見ている。
画面が光っていた。
水野くんからのメッセージ。
昨日はごめん。
学校来る?
話せる?
そこまで見えた。
姉ちゃんは親指を置いたまま、少し止まった。
僕は姉ちゃんの膝の近くまで行った。
姉ちゃんは僕を見なかった。
でも、片方の手だけが下りてきて、僕の頭に触れた。撫でるというより、そこにあるものを確認するみたいだった。
「千夏、今日どうするの」
母さんが聞いた。
姉ちゃんは画面を見たまま答えた。
「行く」
母さんが少し驚いた顔をした。
「無理しなくていいのよ」
「無理ってほどじゃない」
「でも」
「家にいても何もできないし」
姉ちゃんの声は、昨日より少し乾いていた。
母さんは言葉を探しているみたいだった。僕には、母さんの足が少しだけ前に出て、また戻るのが見えた。
「何か分かったら、すぐ連絡するから」
母さんが言った。
「うん」
「先生にも、今日は事情を話して」
「分かってる」
また、その言い方。
でも今日の分かってるは、昨日と少し違った。母さんを押し返すためだけの声じゃなかった。自分の中で何かを握っているような声だった。
姉ちゃんはスマホに文字を打った。
今日は学校行く。
帰りは分からない。
今は受験の話しないで。
そこまで打って、送った。
水野くんに。
僕はその画面を見た。
姉ちゃんが、ちゃんと返事した。
それは、昨日の夜に言っていた返事の一つなのかもしれない。
水野くんからすぐに返信が来た。
分かった。
ごめん。
帰り待つ?
姉ちゃんは、少しだけ眉を寄せた。
その返信には、すぐ返さなかった。
スマホを鞄にしまい、ローファーを履く。靴べらを使わずに足を押し込んだから、かかとのところが少し潰れた。
母さんが言った。
「傘」
「折りたたみある」
「雨、強くなるかもしれないよ」
「大丈夫」
姉ちゃんは立ち上がった。
そのとき、僕は体が勝手に動いた。
姉ちゃんの足元に行って、玄関のたたきへ降りた。
冷たい。
外へ続く匂いがした。雨、アスファルト、誰かの傘、車のタイヤ。陽太がさっき立っていた場所の匂いも、まだ少し残っていた。
姉ちゃんが僕を見下ろした。
「ミケ」
僕はドアを見た。
一緒に行きたいと思った。
姉ちゃんの学校へ。
陽太の学校じゃなくてもいい。
姉ちゃんが行く場所を見たかった。
水野くんがどんな顔で姉ちゃんを見るのか。
友達が何を言うのか。
先生が進路希望調査をどう扱うのか。
姉ちゃんが、家の外でどんな声を出すのか。
見たい。
猫の体なら、どこへでも行けるような気がしていた。
でも、ドアが開いた瞬間、僕は動けなくなった。
雨の音が大きかった。
傘に当たる音。道路に当たる音。排水溝へ流れる音。車が水を踏む音。全部が一度に来た。
外は広い。
昨日の夜より、朝の方がずっと広かった。
姉ちゃんはしゃがんだ。
「来たいの?」
僕は姉ちゃんを見た。
行きたい。
でも、足が動かない。
姉ちゃんは僕の頭を撫でた。
「無理しなくていいよ」
母さんが後ろから言った。
「千夏、ミケ出さないで」
「分かってる」
姉ちゃんは僕を両手で持ち上げた。
たたきから廊下へ戻される。
「留守番してて」
昨日の朝と同じ言葉だった。
でも、今日は少し違って聞こえた。
姉ちゃんは鞄を肩にかける。ドアの外へ一歩出る。傘を開く音がした。
透明の傘じゃなかった。黒い折りたたみ傘。骨が一本、少し曲がっている。
姉ちゃんは一度だけ振り返った。
僕を見た。
「陽太くん来たら、ちゃんと返事したじゃん」
小さく言った。
母さんには聞こえていなかったと思う。
「私も行ってくる」
姉ちゃんはそう言って、ドアを閉めた。
がちゃん、と音がした。
僕は玄関に残った。
昨日と同じだった。
でも、昨日より少しだけ違った。
姉ちゃんは、出ていった。
僕を置いて。
それなのに、置いていかれた感じが少しだけ薄かった。
姉ちゃんは自分で行くと言った。
水野くんにも返事した。
僕にも、行ってくると言った。
僕は、玄関の床に座った。
母さんが僕の横を通って、鍵をかけた。
「ミケ、こっちおいで」
僕は動かなかった。
ドアの向こうで、姉ちゃんの足音が遠ざかる。
雨の中で、鞄の金具の音は聞こえなかった。
リビングへ戻ると、父さんが電話をしていた。
「はい。陽太くんは今帰りました。……ええ、本人に変わった様子はなかったみたいです」
本人。
それは陽太のことだと思った。
僕のことではない。
母さんは、陽太が持ってきたクリアファイルをテーブルに置いた。中のプリントを一枚ずつ出す。
算数の小テスト。
国語の音読。
理科のノート。
連絡プリント。
僕は椅子の下から見ていた。
母さんが一枚を手に取って、途中で止まった。
「今日、席替えだったんだ」
父さんが電話を切って、母さんの手元を見た。
「席替え?」
「先生の連絡に書いてある。悠真のクラス、今日席替えする予定だったって」
席替え。
僕は、テーブルの下で体を起こした。
知らなかった。
いや、知っていたかもしれない。
誰かが言っていた。
席替えするんだっけ、と。
でも僕は、ちゃんと聞いていなかった。
席替え。
今の席も、借り物みたいだった。
でも、席替えをすれば、もう少しましになるかもしれないと思っていた気もする。
陽太とは別のクラスだから関係ない。
でも、新しい班になる。
大地と離れるかもしれない。
隣の席が変わるかもしれない。
休み時間の始まり方も、少し変わるかもしれない。
今日だった。
僕がいない日に。
母さんはプリントをテーブルに置いた。
「こういうのも、知らなかった」
父さんは何も言わなかった。
「私、学校のこと聞いてるつもりだった」
母さんは、プリントを見ていた。
「聞くと、別にって言うから」
別に。
何度も言った。
学校どうだった。
別に。
友達と何かあった。
別に。
陽太くんとは遊ばないの。
別に。
便利な言葉だった。
何も話さなくていい。
相手もそれ以上聞きにくくなる。
でも、本当に何もないわけじゃなかった。
父さんが椅子に座った。
「俺なんか、学校のことほとんど聞いてない」
母さんは父さんを見なかった。
「そうね」
その言い方は、怒っているみたいではなかった。
でも、父さんは少し小さくなった。
僕はテーブルの下から出た。
母さんの足元へ行く。
鳴こうとして、やめた。
何を言えばいいのか分からなかった。
僕だって、聞かれても答えなかった。
母さんが知らなかったのは、母さんだけのせいじゃない。
父さんが知らなかったのも、父さんだけのせいじゃない。
でも、僕だけのせいでもないと思いたかった。
母さんは僕に気づいた。
「ミケ」
手が伸びてくる。
僕は少しだけ下がった。
母さんの手が止まる。
「……ごめんね」
また謝った。
僕は謝られるたび、何をしていいか分からなくなる。
母さんが僕に謝っているのか。
いなくなった悠真に謝っているのか。
それとも、自分に謝っているのか。
僕は母さんの手に、前足をそっと乗せた。
母さんが息を止めた。
「ミケ?」
僕は、爪を出さないようにした。
母さんの手は昨日より冷たかった。
朝から何度も水を触ったからかもしれない。
「この子、本当に」
母さんはそこまで言って、やめた。
父さんがこちらを見た。
母さんは僕の前足を見ていた。
「悠真、小さいとき、こういう触り方した」
父さんは黙っていた。
「怒られたあととか、何か言いたいけど言えないとき。袖とか、手とか、こうやって少しだけ触ってきた」
僕は母さんを見上げた。
覚えていない。
でも、言われた瞬間、どこかで知っている気がした。
母さんが台所で洗い物をしている。
僕が後ろから近づく。
服の裾を少しつまむ。
でも、つまんだだけで何も言えない。
母さんが振り向いて、どうしたの、と聞く。
そのあとのことは、思い出せなかった。
母さんは僕の前足を、両手で包みそうになって、やめた。
「ごめん。ミケにこんなこと言ってもね」
またそれ。
ミケに。
猫に。
でも、母さんの手は僕の前足から離れなかった。
父さんが小さく言った。
「写真、もう一回見るか」
母さんは顔を上げた。
「写真?」
「昨日の。正月のやつ」
僕は体を固くした。
正月の写真。
ミケが写っていて、僕がどうだったのか分からなかった写真。
母さんはスマホを手に取った。
父さんも隣に来た。
僕はテーブルの上を見上げた。見たい。でも届かない。
父さんがそれに気づいた。
「ミケも見るか」
冗談みたいに言ったのに、父さんの声は冗談になっていなかった。
父さんは僕を抱き上げた。
昨日よりは少しうまかった。お腹が変に伸びないように、両手で支える。僕は少しだけ足を動かしたけれど、暴れなかった。
テーブルの上が見えた。
母さんのスマホの画面に、写真が出ていた。
こたつ。
みかん。
姉ちゃん。
父さん。
母さん。
ミケ。
ミケはこたつ布団の上で丸くなっている。
僕はいなかった。
胸の奥が、すっと冷たくなった。
いない。
正月の写真に、僕がいない。
でも、変だった。
僕はこの写真を覚えていた。
姉ちゃんが、みかんを三つ重ねて写真を撮ろうとして、母さんにやめなさいと言われた。父さんがテレビを止めないから、母さんがリモコンを取り上げた。ミケがこたつ布団に乗って、みかんの皮を少し踏んだ。
覚えている。
その場にいた。
でも、写真にはいない。
「撮ったの、悠真だったのかな」
父さんが言った。
母さんは画面を見つめた。
「そうかも」
そうかも。
僕が撮ったなら、写っていなくてもおかしくない。
僕は少しだけ息を吐いた。
でも、父さんが次の写真を出した。
同じ日。少し角度が違う。
今度はこたつの向こう側から撮られていた。
父さん、母さん、姉ちゃん。
ミケ。
僕はいない。
撮ったのは誰だろう。
スマホは母さんのものだ。
母さんが写っている。
父さんも写っている。
姉ちゃんも写っている。
じゃあ、誰が撮ったんだろう。
テーブルの上で、みんな黙った。
父さんの手の中で、僕は動けなかった。
母さんが次の写真を出した。
またミケが写っている。
僕はいない。
その次も。
その次も。
ミケは、いつもどこかにいた。
ソファの上。こたつ布団。窓の近く。姉ちゃんの膝の上。
僕は、どこにもいなかった。
「なんで」
母さんが言った。
その声は、僕より小さかった。
父さんは何も言わなかった。
僕は画面を見ていた。
頭の中で、正月の匂いがした。みかんの皮。こたつ。醤油の匂い。姉ちゃんの笑い声。父さんの咳払い。母さんの手。
そこには確かに僕がいた。
いたはずだった。
でも、写真の中では、ミケだけがその場所にいた。
父さんの手が少し震えた。
僕は、父さんの腕の中で鳴いた。
母さんが僕を見た。
今度は、ミケと呼ばなかった。
ただ、僕を見ていた。
その顔が怖くて、僕は目をそらした。
見つけてほしいと思っていた。
でも、見つかり方が、思っていたのと違った。
母さんがスマホをテーブルに置いた。
画面の中で、ミケがこたつの上にいる。
僕は父さんの腕の中にいる。
どちらも、同じ顔だった。
父さんが、ゆっくり僕を床に下ろした。
「……千夏が帰ってきたら、見せるか」
母さんはうなずかなかった。
「見せた方がいいのか、分からない」
父さんも何も言わなかった。
僕は床に立っていた。
自分の足元を見た。
白と黒と茶色の毛。丸い前足。出そうと思えば出る爪。肉球。
僕は、いつから僕だったんだろう。
猫になったのは、一昨日の夜なのか。
朝なのか。
もっと前なのか。
それとも、ずっとミケだったのか。
考えようとすると、頭の奥がぼんやりした。
そのとき、母さんのスマホが鳴った。
画面に、姉ちゃんの名前が出た。
母さんがすぐに出る。
「千夏?」
僕は耳を立てた。
電話の向こうから、雨の音がした。
それから姉ちゃんの声。
「ごめん。今日、やっぱ早退する」
母さんが立ち上がった。
「どうしたの」
少し間があった。
姉ちゃんの声は、いつもより低かった。
「水野くんと話した」
母さんが黙る。
「あと、進路のことも先生と話した」
雨の音が強くなる。
「帰ったら話す」
姉ちゃんはそう言った。
「ちゃんと話すから」
昨日の夜、姉ちゃんが言った言葉を思い出した。
私も、ちゃんと返事するから。
電話の向こうで、姉ちゃんは息を吸った。
「ミケ、いる?」
母さんが僕を見た。
僕は、床の上で動かなかった。
母さんはスマホを少し下げて、僕の方へ向けた。
「いるよ」
姉ちゃんの声が、少し近くなった。
「ミケ」
僕はスマホを見た。
姉ちゃんの顔は見えない。
声だけだった。
「帰るまで、そこにいて」
僕は鳴いた。
今度は、迷わずに。
電話の向こうで、姉ちゃんが小さく息を吐いた。
「うん」
それだけ言って、電話は切れた。
母さんはスマホを持ったまま、しばらく僕を見ていた。
父さんも見ていた。
僕は、逃げなかった。
外では雨が強くなっていた。
姉ちゃんが帰ってくる。
写真の中に僕はいなかった。
でも、電話の向こうの姉ちゃんは、僕にそこにいてと言った。
僕はリビングの真ん中に座った。
そこにいることなら、今はできる気がした。
姉ちゃんが帰ってくるまで、僕はリビングにいた。
そこにいて、と言われたから。
リビングの真ん中に座っていると、家の中の音が全部こっちへ集まってくるみたいだった。冷蔵庫の低い音。時計の針。父さんがマグカップを置く音。母さんが何度もスマホを触る音。
雨は強くなっていた。
窓の外の庭が暗い。葉っぱに雨が当たって、細かく跳ねている。前なら、雨の日は外に出たくないと思うくらいだった。今は、窓の向こうの匂いまで入ってくる。濡れた土。石。植木鉢の下の古い水。
ミケは、雨の日に何を思っていたんだろう。
僕は考えた。
でも、答えは出なかった。
ミケだったら、たぶん何も考えない。
濡れない場所を選んで、寝るだけだ。
そう思ったあと、本当にそうなのか分からなくなった。
もしミケが、ずっと何かを考えていたら。
僕たちが知らなかっただけなら。
僕はリビングの床を見た。
自分の前足がある。
母さんは、僕を何度も見た。
見て、すぐ目をそらす。
また見る。
またそらす。
父さんは、正月の写真をもう一度見ていた。スマホではなく、リビングの棚にあるアルバムまで出してきた。最近はスマホで写真を撮ることが多いから、そのアルバムは少し古かった。
僕が小さいころの写真。
あるはずだと思った。
父さんはテーブルの上でアルバムを開いた。
僕は近づかなかった。
見たい。
でも、見たくなかった。
父さんの指がページをめくる音がした。
「これ、七五三のとき」
母さんが言った。
「千夏のね」
父さんが答えた。
「悠真は?」
「そのころは、まだ」
母さんは途中で言葉を止めた。
まだ。
僕は、七五三の写真に自分がいないのは当然だと思った。姉ちゃんが七歳なら、僕はまだ小さかったはずだ。写っていなくてもおかしくない。
でも、母さんの止まり方が変だった。
父さんが次のページをめくる。
「これ、悠真が生まれた年じゃないか」
僕は耳を立てた。
母さんが何も言わない。
父さんがページを見ている。
僕は、少しずつテーブルの方へ行った。
椅子に上がろうとしたけれど、少しためらった。さっき上がったときのことを思い出す。僕の席。母さんの「悠真」。父さんの「気のせい」。
父さんが僕に気づいた。
何も言わずに、片手を伸ばした。
抱き上げられるのかと思ったら、違った。
椅子を少し引いてくれた。
僕は椅子に前足をかけた。後ろ足で床を蹴る。なんとか上がる。
そこからテーブルの上のアルバムが見えた。
写真には、赤ちゃんが写っていなかった。
病院の写真でも、ベビーベッドでもなかった。
リビングの写真だった。今と同じソファ。少し新しいカーテン。若い母さん。今より髪が長い父さん。小さい姉ちゃん。
そして、ミケ。
ソファの端に座っている。
赤い首輪をしていた。
母さんが、写真の下の日付を指でなぞった。
「悠真が生まれた月」
僕は写真を見ていた。
その月に撮った写真なら、僕が写っていなくてもいい。
病院にいたかもしれない。
寝室にいたかもしれない。
母さんが抱いていないだけかもしれない。
でも、母さんの顔が違った。
父さんがページをめくる。
次も、ミケがいた。
母さんと姉ちゃんが、ソファで寝ているミケを見て笑っている。父さんが撮ったのだと思う。僕はいない。
次。
姉ちゃんがミケを抱いている。赤い首輪。ミケは今より小さい。僕はいない。
次。
食卓。ケーキ。ろうそく。姉ちゃんがピースしている。母さんが笑っている。父さんは写っていない。撮っているのだと思う。ミケがテーブルの下から顔を出している。
僕はいない。
「これ、悠真の一歳?」
父さんが言った。
母さんが、写真の端を触った。
「違う。千夏の誕生日」
「じゃあ悠真の一歳は?」
母さんは答えなかった。
父さんがページをめくった。
何枚も。
何枚も。
ミケはいた。
僕はいなかった。
姉ちゃんは、少しずつ大きくなっていた。髪が伸びたり、歯が抜けたり、制服になったりしている。母さんも父さんも、少しずつ今に近づいている。
ミケも、大きくなっていた。
でも僕は、どこにもいない。
父さんがアルバムを閉じた。
閉じた音が、やけに大きかった。
母さんは立ったまま、テーブルの角を握っていた。
「そんなはずない」
母さんが言った。
声は小さかった。
「だって、いたでしょ」
父さんは何も言わなかった。
「いたよね」
母さんは父さんを見た。
父さんは、少し遅れてうなずいた。
「いた」
その言い方は、僕を安心させるためじゃなかった。父さん自身に言い聞かせるみたいだった。
母さんは僕を見た。
今度は、目をそらさなかった。
「悠真」
名前を呼ばれた。
僕は椅子の上にいた。
母さんは、僕に向かって言ったのだと思う。
でも、自信はなかった。写真の中にいない誰かを呼んだのかもしれない。
僕は鳴いた。
母さんの目から、涙が一つ落ちた。
父さんが急に立ち上がった。
「千夏が帰ってきてからにしよう」
母さんは何も答えなかった。
僕は椅子の上で、前足をそろえた。
写真の中に僕はいない。
でも、母さんは僕を呼んだ。
父さんは、僕がいたと言った。
どっちを信じればいいのか分からなかった。
分からないまま、雨の音だけが大きくなっていった。
姉ちゃんが帰ってきたのは、昼前だった。
玄関のドアが開く前に分かった。
傘の水を払う音。ローファーがたたきに置かれる音。鞄の金具がぶつかる音。それから、濡れた制服の匂い。
姉ちゃんの足音は、朝より重かった。
母さんが玄関へ走る。
「千夏」
「ただいま」
姉ちゃんの声は、思っていたより普通だった。
僕はリビングの入口まで行った。
姉ちゃんは、髪の先が少し濡れていた。制服の肩も濡れている。折りたたみ傘はちゃんと閉じられていたけれど、袋には入れられていなかった。
母さんがタオルを持ってきた。
姉ちゃんはそれを受け取らずに、僕を見た。
「いた」
そう言った。
僕は鳴いた。
姉ちゃんは、少しだけ口元をゆるめた。
「いるね」
母さんはタオルを持ったまま、何も言わなかった。
父さんがリビングから出てきた。
「早退、先生には話した」
「水野くんとは?」
父さんがそう聞いたのは、少し意外だった。
姉ちゃんも、少しだけ父さんを見た。
「別れたわけじゃない」
「そうか」
「でも、進路を水野くんに合わせるのはやめるって言った」
父さんは、うなずいた。
母さんは、タオルを姉ちゃんに押しつけるように渡した。
「拭きなさい」
姉ちゃんは、今度は受け取った。
髪の先を拭く。雑だった。母さんが手を出しかけて、やめた。
「先生とは?」
母さんが聞いた。
姉ちゃんは、廊下に立ったまま答えた。
「県外も受けるって言った」
母さんの顔が固くなった。
姉ちゃんは、続けた。
「奨学金のことも聞いた。推薦じゃなくても、成績で減免あるところもあるって。調べる」
母さんは口を開いた。
でも、姉ちゃんが先に言った。
「お金がかかるのは分かってる。だから、ちゃんと話す。でも、お金の話だけで終わらせない」
廊下が静かになった。
僕は姉ちゃんの足元へ行った。
姉ちゃんは僕を見下ろした。
「ミケ」
それから、すぐに言い直すように、でも言い直しきらないまま、口を閉じた。
母さんが言った。
「千夏、見せたいものがある」
姉ちゃんは僕から目を離さなかった。
「写真?」
母さんが驚いた顔をした。
「なんで」
「なんとなく」
姉ちゃんは、靴下のままリビングへ入った。
母さんが「足、濡れてる」と言ったけれど、姉ちゃんは止まらなかった。
テーブルの上には、アルバムとスマホが置かれていた。
姉ちゃんは椅子に座らず、立ったままアルバムを開いた。
ページをめくる。
僕は椅子の下にいた。
姉ちゃんの指が、写真の上で止まる。
ミケ。
小さい姉ちゃん。
母さん。
父さん。
僕はいない。
姉ちゃんは次のページをめくった。
また、ミケ。
僕はいない。
姉ちゃんは顔を変えなかった。
ただ、めくる速度が少しずつ遅くなった。
「ないんだ」
姉ちゃんが言った。
母さんは、テーブルの横に立っていた。
「でも、いたの」
「うん」
姉ちゃんはすぐに言った。
「いたよ」
母さんの肩が少し下がった。
姉ちゃんはアルバムを閉じた。
「写真にないだけ」
その言い方は強かった。
僕は姉ちゃんを見上げた。
写真にないだけ。
そんな言い方をしていいのか分からなかった。
写真にないなら、いなかったのかもしれない。
僕自身が、そう思いかけていた。
でも、姉ちゃんはそれを許さないみたいに言った。
「写真にないだけで、いなかったことにしないで」
母さんは何も言えなかった。
父さんも黙っていた。
姉ちゃんは、僕の方を見た。
「悠真、写真撮られるの嫌いだったじゃん」
僕は動かなかった。
そうだったっけ。
「撮ろうとすると、すぐ変な顔したり、横向いたり、ミケ持ってきたりしてさ」
姉ちゃんの声が少しだけ早くなる。
「小三の遠足の朝も、母さんが写真撮ろうとしたら、わざとミケ抱っこして顔隠してた」
母さんが息を吸った。
「覚えてる」
小さく言った。
僕は、その場面を思い出そうとした。
遠足。
リュック。
水筒。
玄関。
母さんのスマホ。
ミケを抱く。
抱いた感覚は思い出せなかった。
でも、ミケの毛が鼻に当たってくすぐったかった気がした。
姉ちゃんは続けた。
「だから、写ってない写真があるのは分かる。でも、全部ないのは変」
父さんが言った。
「そうだな」
姉ちゃんはアルバムの上に手を置いた。
「変なら、変なまま置いとけばいいじゃん」
母さんが姉ちゃんを見た。
「どういう意味」
「分かんないことを、無理に片づけないって意味」
姉ちゃんは少し息を吐いた。
「悠真がどこにいるか分かんない。写真にもいない。でも、いたことは覚えてる。ミケが変なのも、変。全部、変。だから、変ってことにしとく」
母さんは黙った。
父さんも黙った。
僕は、姉ちゃんを見ていた。
変ってことにしとく。
それは答えではなかった。
でも、勝手に消されるよりずっとよかった。
姉ちゃんはしゃがんだ。
僕の前に手を出す。
「ミケ」
僕は近づいた。
姉ちゃんの手に、前足を乗せる。
姉ちゃんの指が、少しだけ僕の前足を包んだ。
「悠真が帰ってきたら、写真撮ろ」
姉ちゃんはそう言った。
僕は姉ちゃんを見た。
「絶対撮る。嫌がっても撮る」
僕は鳴いた。
それは嫌だ、と言いたかったのか、分かった、と言いたかったのか、自分でも分からなかった。
姉ちゃんは少しだけ笑った。
「嫌そう」
その言い方は、いつもの姉ちゃんだった。
母さんが、テーブルの向こうで泣いた。
声を出さずに。
父さんがアルバムを閉じた。
僕は姉ちゃんの手に前足を置いたままだった。
そのとき、母さんのスマホが鳴った。
全員がそっちを見た。
学校からか。
警察からか。
陽太からか。
母さんは画面を見て、少しだけ眉を寄せた。
「知らない番号」
父さんが言った。
「出て」
母さんは電話に出た。
「はい」
少し間があった。
「……はい。そうです」
母さんの顔から、色が抜けた。
姉ちゃんの手が、僕の前足を少し強く握った。
「え?」
母さんが言った。
父さんが立ち上がる。
「どこですか」
母さんは、スマホを耳に当てたまま、テーブルに手をついた。
「はい。すぐ行きます」
電話が切れた。
家の中の音が、全部止まったみたいだった。
母さんがゆっくり言った。
「駅の近くで、悠真に似た子を見たって」
僕は息を止めた。
悠真に似た子。
僕はここにいる。
姉ちゃんが僕を見た。
今までで一番、まっすぐに。
母さんは続けた。
「昨日の朝、ランドセルなしで歩いてたって」
父さんが「行こう」と言った。
母さんはうなずいた。
姉ちゃんは、僕の前足を離さなかった。
「私も行く」
母さんが何か言おうとした。
姉ちゃんは先に言った。
「行く」
父さんは止めなかった。
僕は、姉ちゃんの手の下で動けなかった。
駅の近く。
ランドセルなし。
悠真に似た子。
僕じゃない。
でも、僕かもしれない。
僕はここにいる。
でも、写真にはいない。
ミケの体にいる。
だったら、外にいる悠真は何だろう。
姉ちゃんが僕を抱き上げた。
「ミケも連れてく」
母さんが驚いた顔をした。
「だめよ、雨だし」
「置いていかない」
姉ちゃんの声は、静かだった。
「今は、置いていかない」
僕は姉ちゃんの腕の中で、外の雨の匂いを感じた。
外へ出る。
怖い。
でも、姉ちゃんの腕は離れなかった。
父さんが車の鍵を取る。
母さんが鞄をつかむ。
姉ちゃんが僕を抱いたまま玄関へ向かう。
ドアが開いた。
雨の音が、家の中へ入ってきた。
僕は姉ちゃんの腕の中で、顔を上げた。
道路の向こうは、白く濡れていた。
家の外へ出るのは、猫になってから初めてだった。
姉ちゃんの腕の中で、僕は体を固くした。
玄関の屋根を抜けた瞬間、雨の音が一気に近くなる。傘に当たる音、車の屋根に当たる音、道路の水たまりに落ちる音。どれも同じ雨なのに、全部違う音に聞こえた。
姉ちゃんは片手で僕を抱えて、もう片方の手で傘を持っていた。
「千夏、危ないから貸しなさい」
母さんが言った。
「大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょ。ミケ濡れる」
「濡らさない」
姉ちゃんはそう言って、僕を少し強く抱いた。
僕の顔が制服の胸元に押しつけられる。布が少し湿っていた。学校から帰ってきたばかりの匂いと、雨の匂いと、さっきまで家にいた匂いが混ざっている。
車は家の前に停めてあった。
父さんが運転席に乗る。母さんが助手席。姉ちゃんは僕を抱いたまま後部座席に乗った。
車の中は、いつもより狭かった。
雨のせいで窓が少し白く曇っている。シートの布の匂い。父さんの車用の消臭剤の匂い。母さんの鞄の匂い。姉ちゃんの濡れた制服。全部が近い。
僕は姉ちゃんの膝の上で、足をどう置けばいいのか分からなかった。
車が動き出す。
体が後ろへ引っ張られた。
思わず爪を立てそうになって、あわてて引っ込める。姉ちゃんのスカートに穴をあけたら怒られる。そう思ったあと、今怒られることを心配している場合なのか分からなくなった。
「大丈夫?」
姉ちゃんが小さく聞いた。
僕は鳴いた。
大丈夫じゃない。
でも、降りたくもなかった。
家が窓の外で遠ざかった。
僕は振り返った。
玄関。門。濡れた道路。
そこに僕の家があった。
この間まで、外から帰ってくる場所だった。
今は、そこから連れ出される場所になっている。
父さんは黙って運転していた。
母さんはスマホを握っている。画面には、さっきの知らない番号が残っていた。何度も確認しているせいで、同じ光が母さんの手の中で点いたり消えたりした。
「駅前のどこだって?」
父さんが聞いた。
「ロータリーの近く。パン屋の前」
「誰が見たの」
「店の人。警察に貼ってもらった写真を見て、似た子を見たって」
僕の写真。
家の中にはなかったのに、警察には何を渡したんだろう。
学校の写真かもしれない。
集合写真から切り取ったのかもしれない。
僕が写っている写真は、ちゃんとどこかにはあるのかもしれない。
そう思いたかった。
車が交差点で止まった。
ワイパーが動く。
ぎゅっ、ぎゅっ、と、窓の上を行ったり来たりする。そのたびに、外の景色が少し見えて、また雨でにじんだ。
信号待ちの歩道に、何人か人がいた。
仕事に向かう大人。お母さんに連れられて幼稚園に向かう子供。
水たまりを避けながら歩いている男の人。わざと踏んでいたり、傘を傾けて、首の後ろを濡らしている子。
僕も、今日あそこにいるはずだった。
ランドセルを背負って、傘を持って、靴の中を少し濡らしながら、学校へ行くはずだった。席替えのことを考えて、陽太が来るかどうかを気にして、算数の小テストを嫌がっていたはずだった。
でも今は、姉ちゃんの膝の上にいる。
猫の足で、車のシートに爪を立てないようにしている。
信号が変わった。
車が進む。
駅が近づくと、匂いが増えた。
バスの排気ガス。濡れた傘。パン屋の甘い匂い。駅の床の湿った匂い。人の靴。たくさんの足音。僕の知らない人たちの一日が、雨の中で全部動いていた。
駐車場に車を停めると、父さんが振り返った。
「ミケは車に残すか?」
姉ちゃんがすぐに言った。
「連れてく」
「でも」
「連れてく」
二回目は、さっきより短かった。
父さんは何も言わなかった。
母さんも止めなかった。
姉ちゃんは僕を抱いたまま車を降りた。傘を開く。雨の音がまた近くなる。
僕は姉ちゃんの腕の中で、顔だけ外に向けた。
駅前は広かった。
家の前の道路とは全然違う。人が多い。傘がたくさん動いている。バスが止まっている。自転車のブレーキの音がする。どこかで誰かが笑っている。改札の方から、電車が来る音もした。
怖い。
でも、目を閉じられなかった。
僕はここを知っている。
母さんと買い物に来たことがある。
陽太と駅前の本屋に行ったことがある。
姉ちゃんに連れられて、コンビニでアイスを買ってもらったこともある。
でも、今見ている駅前は、前よりずっと大きかった。人の膝ばかり見える。傘の先が近い。水が跳ねるたびに体が縮む。
姉ちゃんは僕を片腕に抱え直した。
「重い」
小さく言った。
僕は少しだけ体を丸めた。
軽くなろうとした。
でも、なれなかった。
パン屋は駅前ロータリーの角にあった。
ガラスの扉の内側に、黄色い明かりがついている。焼いたパンの匂いが、雨の中でも分かった。甘い匂いと、焦げた匂い。バター。袋の紙。レジの近くに置いてあるコーヒー。
店の前に、女の人が立っていた。
エプロンをしていて、髪を後ろでまとめている。母さんたちを見ると、すぐに頭を下げた。
「すみません、急に」
母さんが言った。
女の人は首を振った。
「いえ。こちらこそ、確かかどうか分からないのに」
父さんがスマホを出した。
画面には、僕の写真が出ていた。
僕は姉ちゃんの腕の中から見ようとした。
でも角度が悪くて、画面の光しか見えない。
女の人は画面をのぞいた。
「この子です。たぶん」
母さんの息が止まった。
「いつですか」
「昨日の朝です。八時前くらいだったと思います。店を開ける準備をしていたので」
八時前。
僕が起きたころだ。
いや、僕がミケの体で目を覚ましたころ。
「一人でしたか」
父さんが聞いた。
女の人は少し考えた。
「一人、だったと思います。傘は持っていませんでした。ランドセルもなくて」
母さんが口元を押さえた。
父さんは続けた。
「どちらへ向かってましたか」
「駅とは反対側です。あちらの細い道の方へ」
女の人が指さした。
ロータリーの端から、古い商店街へ続く道があった。車一台分くらいの幅で、屋根のないアーケードみたいな看板が見える。
僕はその道を知っている。
駅前の本屋に行くとき、陽太と一度通った。途中に古いゲーム屋があって、閉まっているのか開いているのか分からない店だった。奥には小さい公園がある。
「声はかけましたか」
母さんが聞いた。
女の人は申し訳なさそうに眉を下げた。
「すぐには。小学生くらいの子が一人で歩いているのは珍しくないので。ただ、雨が降りそうなのに傘も持っていなくて、少し気になって」
昨日の朝は、まだ雨は降っていなかった。
でも空は暗かったのかもしれない。
僕は覚えていない。
昨日の朝、僕は布団の中にいた。
手が手じゃなくなっていた。
母さんがミケと呼んだ。
それなのに、駅前に僕に似た子がいた。
「それで、あとで警察の方が写真を持ってきて」
女の人は父さんのスマホをもう一度見た。
「この子に似ていたと思って」
似ていた。
本人とは言わなかった。
でも、母さんはその言葉だけでも崩れそうな顔になっていた。
姉ちゃんは、ずっと黙っていた。
僕を抱く腕が少しずつ強くなっている。
痛くはない。
でも、息が少ししにくい。
「その子、何か持ってましたか」
姉ちゃんが初めて聞いた。
女の人は姉ちゃんを見た。
「持っていたもの?」
「はい。手に何か」
女の人は目を伏せて、思い出そうとした。
「小さいものを持っていたような気がします。袋ではなくて……キーホルダーみたいな」
姉ちゃんの腕が止まった。
僕も息を止めた。
キーホルダー。
黄色い恐竜。
姉ちゃんが、僕の机の上に置いたやつ。
「色は」
姉ちゃんの声が、少し変だった。
女の人は困ったように笑った。
「すみません、そこまでは。黄色っぽかったかもしれないけど、雨が降る前で暗かったので」
母さんが姉ちゃんを見た。
「千夏?」
姉ちゃんは答えなかった。
僕を抱いたまま、パン屋の前から商店街の方を見ていた。
「行く」
姉ちゃんが言った。
父さんが止める前に、母さんが言った。
「警察に連絡してから」
「連絡しながら行けばいいよ」
「千夏」
「この先なら、私も知ってる」
姉ちゃんの声は落ち着いていた。
落ち着いているけれど、止まらない声だった。
父さんがスマホを耳に当てた。
「俺が連絡する。千夏、先に行くな」
姉ちゃんは、ほんの少しだけ足を止めた。
それから、僕を見た。
「ミケ」
僕は姉ちゃんを見上げた。
「この道、知ってる?」
知ってる。
そう言いたくて鳴いた。
姉ちゃんはうなずいた。
「だよね」
何が、だよね、なのか分からなかった。
でも姉ちゃんは、僕の声を聞いて進む方を決めたように見えた。
父さんが電話をしている間、母さんは女の人に何度も頭を下げた。女の人は「見間違いだったらすみません」と何度も言った。
見間違い。
その方がいいのかもしれない。
駅前にいたのが僕じゃなければ、僕はずっと家にいたことになる。ミケの体になっただけで、外に別の僕はいない。
でも、見間違いじゃなかったら。
僕に似た子が、黄色いものを持って、商店街へ向かっていたなら。
僕は何を見に行くんだろう。
自分の抜け殻。
僕じゃない僕。
それとも、写真の中から消えた僕。
考えると、耳の奥がざわざわした。
姉ちゃんの腕の中で、僕は顔を隠したくなった。
でも、隠さなかった。
商店街へ向かう道に入ると、駅前の音が少し遠くなった。
屋根のない細い道。両側に古い店が並んでいる。シャッターが閉まっている店も多い。八百屋の前には濡れた段ボールが積まれていて、薬局の軒下には赤いのぼりが雨で貼りついていた。
足元に、水たまりがいくつもあった。
姉ちゃんの靴がそれを避けて進む。
父さんと母さんが後ろからついてくる。父さんはまだ電話している。母さんは何度も周りを見ている。
「この先、公園あるよね」
姉ちゃんが言った。
僕は鳴いた。
「悠真、前に陽太くんと行ってた?」
僕はもう一度鳴いた。
行った。
ゲーム屋の前で、陽太がガチャガチャを見つけた。
僕は百円が足りなくて、陽太が貸してくれた。
出たのは、黄色い恐竜だった。
思い出した。
あのキーホルダーは、ここで出したものだ。
駅前のスーパーじゃない。
この商店街の、古いゲーム屋の前だ。
僕は姉ちゃんの腕の中で、体を起こした。
「ミケ?」
姉ちゃんが僕を見る。
僕は前を見た。
道の奥。
シャッターの閉まったゲーム屋。
その前のガチャガチャ。
まだあった。
透明のカプセルが入った丸い機械。雨で少し曇っている。横には、色のあせた恐竜の絵が貼ってあった。
姉ちゃんが足を止めた。
「あれ?」
僕は鳴いた。
姉ちゃんの顔が、少しずつ変わった。
「これ、ここだったっけ」
僕はもう一度鳴いた。
姉ちゃんは、僕を抱いたままガチャガチャの前に行った。
機械の下に、小さな黄色いものが落ちていた。
雨に濡れて、泥がついている。
恐竜のキーホルダーだった。
姉ちゃんの手が震えた。
「なんで」
姉ちゃんの声が小さくなった。
家の机の上にあったはずだ。
少なくとも、昨日はあった。
姉ちゃんが見えるところに置いた。
夜、僕の机にもあった。
それなのに、同じものがここに落ちている。
同じものなのか。
別のものなのか。
僕には分からなかった。
姉ちゃんはしゃがんだ。
僕を抱いたまま、片手でキーホルダーを拾う。
泥を指でぬぐう。
黄色い恐竜。
腹のところに、小さい傷があった。
僕が昔、床に落としてつけた傷と同じ場所だった。
姉ちゃんは、それを見て息を止めた。
父さんと母さんが追いついた。
「どうした」
父さんが聞いた。
姉ちゃんは、キーホルダーを見せた。
母さんが口元を押さえた。
「それ」
姉ちゃんは何も言わなかった。
僕は、姉ちゃんの腕の中でキーホルダーを見ていた。
黄色い恐竜。
家にもあるはずのもの。
ここにもあるもの。
僕があげたもの。
姉ちゃんが持っていたもの。
僕の机に戻ったもの。
駅前で僕に似た子が持っていたかもしれないもの。
全部が、一つの小さな黄色いものに重なっていた。
そのとき、商店街の奥から、金属の音がした。
誰かがシャッターを上げる音だった。
僕はそっちを見た。
古いゲーム屋の隣の、空き店舗みたいな場所。半分だけ開いたシャッターの下に、人の足が見えた。
小学生くらいの足。
スニーカー。
僕のものと同じ色に見えた。
姉ちゃんが、僕を抱く腕に力を入れた。
「悠真?」
声が出た。
姉ちゃんの声だった。
その足が、シャッターの奥へ引っ込んだ。
父さんが走り出した。
母さんが名前を呼ぶ。
「悠真!」
僕は姉ちゃんの腕の中で暴れた。
降ろして。
行かなきゃ。
自分でも、何に向かおうとしているのか分からなかった。
でも、体が勝手に動いた。
姉ちゃんは僕を離さなかった。
「だめ」
低い声だった。
「落ちる」
違う。
行きたい。
僕は鳴いた。強く。喉が痛くなるくらい。
姉ちゃんは、僕を抱いたまま走った。
雨の音。父さんの足音。母さんの声。シャッターの金属音。僕の鳴き声。
全部が商店街の狭い道で跳ね返った。
父さんがシャッターの前に着く。
中をのぞく。
「誰かいるのか!」
返事はなかった。
姉ちゃんも近づいた。
僕は姉ちゃんの腕の中から、中を見た。
暗い店の中。
古い棚。ほこり。段ボール。壊れた看板。奥へ続く細い通路。
小学生の足は見えなかった。
父さんが中へ入ろうとした。
そのとき、奥から何かが飛び出してきた。
猫だった。
濡れた三毛猫。
小さくはない。年寄りにも見えない。
でも、毛の色は僕と同じだった。
その猫は、父さんの足元をすり抜け、姉ちゃんの前を横切った。
僕と目が合った。
一瞬だけ。
その目を、僕は知っている気がした。
猫は雨の中へ走っていった。
姉ちゃんが息を止めた。
僕は、その猫の後ろ姿を見ていた。
ミケ。
そう思った。
でも、今ミケは、姉ちゃんの腕の中にいる。
僕の体として。
じゃあ、今走っていった猫は何だろう。
父さんが店の奥を見ている。
母さんは震える声で、何度も僕の名前を呼んでいた。
姉ちゃんは、走っていった猫の方を見ていた。
「ミケ」
姉ちゃんが言った。
その名前は、腕の中の僕に向けたものではなかった。
僕は鳴こうとした。
でも、声が出なかった。
走っていった猫は、商店街の奥へ消えた。
雨の中に、しっぽだけが一瞬見えて、それもすぐ見えなくなった。
僕は姉ちゃんの腕の中で、喉を動かした。
声は出なかった。
さっきまで、あんなに鳴けたのに。
姉ちゃんは僕を抱いたまま、動かなかった。傘が少し傾いて、雨が僕の耳に当たった。冷たい。耳が勝手に伏せる。
「千夏、濡れる」
母さんが言った。
姉ちゃんは聞いていないみたいだった。
父さんは空き店舗の中をのぞき込んでいた。
「誰かいますか」
声が奥へ入っていく。
返事はない。
店の中には、雨の匂いとは違う匂いがあった。古い段ボール。ほこり。濡れていない木。錆びた金属。それから、猫の匂い。
強い。
今走っていった猫の匂いなのか、もともとここに何匹もいるのか分からなかった。鼻の奥が忙しくなる。僕の体は、その匂いを追おうとしている。
僕は姉ちゃんの腕の中で身をよじった。
「だめ」
姉ちゃんが低く言った。
「行かせない」
その声は、僕を叱っているというより、自分に言い聞かせているみたいだった。
父さんがシャッターの下をくぐろうとした。
そのとき、奥から人の声がした。
「入らないでください」
父さんが止まった。
暗い店の奥から、男の人が出てきた。年寄りというほどではないけど、父さんよりはずっと上に見えた。灰色の作業着を着ていて、片手に軍手を持っている。
「すみません」
父さんはすぐに頭を下げた。
「子どもを探していて。今、ここに誰か入りませんでしたか」
男の人は、父さんと母さんと姉ちゃんを順に見た。
それから、姉ちゃんの腕の中にいる僕を見た。
目が合う。
その人は、少しだけ眉を上げた。
「猫なら通りました」
「猫じゃなくて、小学生くらいの男の子です」
母さんの声が早くなった。
男の人は首を横に振った。
「ここには入ってません。奥も倉庫だけです」
「でも、さっき足が」
父さんが言った。
「シャッターの下に、人の足みたいなのが見えて」
男の人は足元を見た。
「それ、たぶん看板です」
そう言って、シャッターの脇に立てかけてあった古い看板を動かした。
白いスニーカーみたいに見えたものは、看板に描かれたキャラクターの靴だった。色がはげて、雨で濡れて、ちょうど足だけが暗いところから出ているように見えた。
父さんが息を吐いた。
母さんは何も言わなかった。
僕はその看板を見ていた。
さっき、確かに人の足だと思った。
スニーカーだと思った。
僕のものと同じ色だと思った。
でも、今はただの看板だった。
じゃあ、見たものは何だったんだろう。
雨のせい。
暗かったから。
急いでいたから。
そう思えば終わる。
でも、あの足が奥へ引っ込んだのを見た。
僕だけじゃない。姉ちゃんも見た。父さんも走った。
姉ちゃんの腕の力が少し強くなった。
「昨日」
姉ちゃんが男の人に聞いた。
「ここに、小学生くらいの男の子、来ませんでしたか」
男の人は少し考えた。
「昨日?」
「朝です。ランドセル持ってない子」
男の人は、シャッターの内側から商店街の道を見た。
「朝はまだ開けてないからな」
「でも、ガチャガチャ」
姉ちゃんが言った。
男の人は、店の前に置かれた古いガチャガチャを見た。
「これはもう中身ないですよ」
父さんが近づいて、丸いケースの中を見た。
透明のカプセルは入っている。けれど、よく見ると全部空だった。景品は入っていない。機械の上の恐竜の絵も、かなり前のものらしい。
「何年も前から、ほぼ置物です」
男の人が言った。
何年も前。
僕は、その機械の前で陽太と百円を入れたことを思い出したばかりだった。
回すと、カプセルが出てきた。
黄色い恐竜が入っていた。
僕はいらないふりをして、姉ちゃんにあげた。
でも、この機械は何年も前から置物。
じゃあ、どこで出したんだろう。
駅前のスーパーだったのか。
この商店街だったのか。
どちらも覚えている気がする。
僕の中で、二つの場所が同じように重なった。
姉ちゃんは、拾った黄色い恐竜を握っていた。
「これ、ここの景品じゃないんですか」
男の人はそれを見た。
「古いですね」
「ここの?」
「たぶん。ずっと昔、そのシリーズ入れてました」
「ずっと昔って」
「十年以上前じゃないかな」
姉ちゃんの手が止まった。
十年以上前。
僕が生まれた頃。
いや、僕がまだ赤ちゃんだった頃。
「今も同じの、どこかで出ますか」
「分からないです。ネットとかならあるかもしれないけど」
男の人はそう言って、もう一度僕を見た。
「その猫、濡れますよ」
姉ちゃんは、はっとしたように傘を戻した。
僕の背中に、少し雨が当たっていた。毛の表面に水がついて、そこだけ冷たい。
姉ちゃんは自分の袖で、僕の背中を軽く拭いた。
「ごめん」
僕は鳴こうとした。
でもまだ声が出なかった。
父さんが警察にもう一度電話をしていた。
母さんはパン屋の方へ戻って、女の人に何か聞いている。
男の人はシャッターをもう少し上げ、店の中を見せてくれた。
中には誰もいなかった。
棚、段ボール、古いポスター。
床には猫の足跡がいくつかあった。濡れた小さい跡。さっきの三毛猫のものかもしれない。
僕はその足跡を見た。
同じ形だった。
僕の足と。
姉ちゃんも見ていた。
「さっきの猫、どこの子ですか」
姉ちゃんが聞いた。
男の人は肩をすくめた。
「野良でしょう。この辺、何匹かいますから」
「三毛でした」
「三毛もいますよ」
「ミケに似てた」
姉ちゃんが言った。
男の人は、少しだけ僕を見た。
「三毛は似ますからね」
そういうものなのかもしれない。
三毛猫は、どれも同じように見えるのかもしれない。
でも、さっき目が合ったとき、僕は知っていると思った。
あれは、ミケだと思った。
僕が今ミケなら、あの猫は何なのか分からない。
でも、ミケだと思った。
姉ちゃんは、僕の頭に顎を少しだけ乗せた。
「帰る?」
母さんが言った。
その声は疲れていた。
父さんはスマホをしまいながらうなずいた。
「警察には伝えた。店の人にも話聞いてくれるって」
母さんは黄色い恐竜を見た。
「それは?」
姉ちゃんは手の中のキーホルダーを開いた。
雨で濡れて、泥がついている。傷の場所まで同じ。家にあるはずのものと同じ。
「持って帰る」
「でも」
「持って帰る」
姉ちゃんは、それ以上何も言わなかった。
帰り道、姉ちゃんは僕を抱いたまま、商店街をゆっくり歩いた。
父さんと母さんは少し前を歩いている。二人とも何か話していたけど、雨の音でよく聞こえなかった。
僕は姉ちゃんの腕の中から、さっき三毛猫が走っていった方を見た。
道の奥には、小さい公園があった。
雨の中で、滑り台が濡れている。ブランコは動いていない。砂場には青いシートがかかっていた。
僕はその公園を知っている。
陽太と来たことがある。
でも、それだけじゃない。
もっと小さいころ、姉ちゃんと来たことがある気がした。
姉ちゃんがブランコを押してくれた。
僕は怖がって、もっと弱く、と言った。
姉ちゃんは少しだけ強く押して、僕が怒った。
そのあと、ミケが公園のフェンスの外にいて、母さんが「なんでここにいるの」と言った。
ミケが、公園にいた?
違う。
ミケは家の猫だ。
外にはほとんど出ない。
でも、フェンスの外にいた気がする。
赤い首輪をしていた。
僕は姉ちゃんの腕の中で、公園を見続けた。
「行きたいの?」
姉ちゃんが聞いた。
僕は鳴いた。
今度は声が出た。
姉ちゃんは前を歩く父さんと母さんを見た。
「ちょっと公園見てくる」
母さんが振り返った。
「今?」
「すぐそこだから」
「千夏」
「お願い」
姉ちゃんの声が、強くはなかった。
でも、母さんは止めなかった。
父さんが「俺も行く」と言った。
姉ちゃんはうなずいた。
公園に入ると、雨の匂いが土の匂いに変わった。
地面がやわらかい。僕の鼻に、草と砂と古い鉄の匂いが入ってくる。ブランコの鎖が少し錆びていた。滑り台の下に、水たまりができている。
姉ちゃんは僕を抱いたまま、ブランコの前で止まった。
「ここ、来たことあるよね」
姉ちゃんが言った。
僕は鳴いた。
「悠真と」
もう一度、鳴いた。
父さんは公園の入口に立っていた。母さんは傘を持ったまま、滑り台の方を見ている。
姉ちゃんはブランコに近づいた。
「このへんで、ミケ見たことある」
僕は姉ちゃんを見た。
姉ちゃんも覚えている。
「小さいころ。母さんがめちゃくちゃ驚いてた。ミケ、家から出ないのにって」
母さんがこちらを見た。
「そんなこと、あった?」
「覚えてない?」
母さんは眉を寄せた。
「……あった、かも」
父さんが言った。
「首輪、赤いやつか」
姉ちゃんがうなずいた。
「そう」
父さんは公園の外の道を見た。
「ミケ、そんな遠くまで来たのかって話した気がする」
母さんは黙っていた。
僕は姉ちゃんの腕の中で、ブランコを見ていた。
揺れていない。
でも、揺れているところを覚えている。
姉ちゃんが後ろから押す。
僕がやめてと言う。
ミケがフェンスの外で座っている。
母さんが驚く。
父さんが笑う。
それは、写真には残っていないのかもしれない。
でも、三人が少しずつ覚えていた。
写真にないだけ。
姉ちゃんの言葉を思い出した。
写真にないだけで、いなかったことにしないで。
僕は、姉ちゃんの腕の中で小さく鳴いた。
そのとき、公園の隅の植え込みが動いた。
僕はすぐにそっちを見た。
姉ちゃんも気づいた。
三毛猫がいた。
さっきの猫だった。
雨に濡れたまま、植え込みの下からこちらを見ている。体は細い。毛は濡れて、色がさっきより濃く見えた。赤い首輪はしていない。
でも、目が同じだった。
僕は声を出そうとした。
姉ちゃんの腕の中で、体が前に出る。
「ミケ」
姉ちゃんが小さく言った。
その猫が、こちらを見た。
僕ではなく、姉ちゃんを見た。
それから、ゆっくり鳴いた。
短い声だった。
僕の今の声に似ていた。
母さんが一歩近づいた。
猫は逃げなかった。
父さんも動かなかった。
姉ちゃんは、僕を抱いたまましゃがんだ。
「おいで」
猫に言った。
猫は来なかった。
その場で座った。
濡れた地面に、前足をそろえて。
その座り方が、僕と同じだった。
いや、僕がミケと同じ座り方をしているだけかもしれない。
分からない。
僕は姉ちゃんの腕から降りようとした。
今度は姉ちゃんが止めなかった。
そっと地面に下ろされる。
足の裏に、濡れた土が触れた。
冷たい。
体が少し震えた。
でも、僕は前へ出た。
一歩。
もう一歩。
三毛猫は逃げない。
僕とその猫の距離が、少しずつ縮まる。
雨が背中に落ちる。毛が濡れる。耳が重い。土の匂いが強い。姉ちゃんが後ろで息を止めている。
僕は、その猫の前で止まった。
目が合う。
その目の中に、僕が映っていた。
三毛猫。
白と黒と茶色の毛。
濡れた耳。
小さい顔。
僕は、あの猫の目の中でもミケだった。
猫は、僕の匂いをかぐように鼻を近づけた。
僕も、同じようにした。
その匂いを知っていた。
家のソファ。
姉ちゃんの部屋。
僕の布団。
母さんの手。
父さんの足元。
雨の日の公園。
全部が、その猫からした。
僕は、息ができなくなりそうだった。
猫が一歩下がった。
口元に、何かをくわえていた。
さっきまで気づかなかった。
小さい布。
赤い。
首輪だった。
古い赤い首輪。
姉ちゃんが息を飲んだ。
「それ」
猫は、赤い首輪を地面に落とした。
泥の上に、ぺたりと落ちる。
母さんが口元を押さえた。
父さんが小さく、「ミケの」と言った。
僕はその首輪を見た。
家の姉ちゃんの引き出しにあったはずの、古い赤い首輪。
それが、ここにある。
黄色い恐竜と同じように。
家にあるはずのものが、外にもある。
猫は、首輪を置くと、僕をもう一度見た。
その目は、何も教えてくれなかった。
ただ、知っているような顔をしていた。
ミケはいつも、そういう顔をしていた。
僕は鳴いた。
何を聞きたかったのか、自分でも分からなかった。
僕は誰なのか。
お前は誰なのか。
どっちがミケなのか。
悠真はどこにいるのか。
全部を一つにした声だった。
でも、出たのは短い鳴き声だった。
猫は、返事をするように鳴いた。
その声を聞いた瞬間、頭の奥に何かがひらいた。
布団の上の重さ。
僕の足に頭をこすりつけるミケ。
姉ちゃんの部屋の机。
公園のフェンス。
赤い首輪。
黄色い恐竜。
僕の椅子。
それから、知らない記憶。
まだ言葉をうまく話せない僕が、ベビーベッドの中にいる。
その横に、ミケが座っている。
姉ちゃんが「ミケ、赤ちゃん見てて」と言う。
ミケは返事をしない。
でも、僕の布団の端に前足を置く。
その前足が、今の僕の前足と重なった。
僕は後ろへ下がった。
「ミケ?」
姉ちゃんの声がした。
どっちに向けた声か分からなかった。
僕は振り返った。
姉ちゃんが、雨の中でしゃがんでいた。
僕の方を見ている。
その後ろで、母さんと父さんが、赤い首輪と三毛猫を見ている。
三毛猫は、もう一度鳴いた。
それから、植え込みの奥へ入っていった。
逃げるというより、戻るみたいに。
僕は追わなかった。
足が動かなかった。
姉ちゃんが、僕を抱き上げた。
濡れた僕を、制服が濡れるのも気にせず抱いた。
「戻ろう」
姉ちゃんが言った。
誰も反対しなかった。
父さんが赤い首輪を拾った。
泥がついていた。
母さんは、黄色い恐竜を握っていた。
姉ちゃんは、僕を抱いていた。
僕たちは、雨の公園を出た。
僕は姉ちゃんの腕の中から、植え込みの方を見続けた。
もう猫はいなかった。
でも、匂いは残っていた。
僕の匂いと、同じ匂いが。
帰りの車の中で、誰も話さなかった。
父さんは運転していた。
母さんは助手席で、黄色い恐竜をハンカチに包んで持っていた。
姉ちゃんは後ろの席で、僕を膝に乗せていた。
赤い首輪は、父さんのコートのポケットに入っている。
僕は濡れていた。
姉ちゃんがハンカチで何度も拭いてくれたけれど、毛の奥に雨が残っている。体を震わせたくなる。でも車の中でそれをしたら、姉ちゃんの制服に水が飛ぶと思って我慢した。
我慢できている時点で、僕はミケではない気がした。
ミケなら、たぶん何も考えずに震わせる。
でも、ミケだって考えていたのかもしれない。
そう思うと、何も分からなくなる。
車が家に近づくにつれて、僕は少しだけ安心していた。
外は怖い。
駅前も、商店街も、公園も、匂いと音が多すぎた。
姉ちゃんに抱かれていなかったら、僕はどこかへ逃げていたと思う。
でも、家に帰るのも怖かった。
家に帰れば、机の上に黄色い恐竜があるはずだった。
姉ちゃんの引き出しには赤い首輪があるはずだった。
もし、まだあったら。
公園で拾ったものは何なのか。
もし、なくなっていたら。
家の中のものが外へ出たことになる。
どちらでも嫌だった。
家に着くと、父さんが先に車を降りた。
母さんは助手席で少し動けずにいた。ハンカチに包まれた黄色い恐竜を見ていた。
「母さん」
姉ちゃんが呼んだ。
母さんは顔を上げた。
「うん」
その返事は、何に対する返事でもなかった。
玄関に入ると、家の匂いがした。
濡れた体で入ると、家の中の匂いがいつもより強く分かった。洗濯物。朝のトースト。母さんの化粧水。父さんのコーヒー。階段の木。僕の靴。
そして、ミケの匂い。
僕は姉ちゃんの腕から降ろされた。
床に立った瞬間、体が勝手にぶるっと震えた。
水が飛んだ。
「あ」
姉ちゃんの靴下に水がついた。
姉ちゃんは少し笑った。
「やっぱりやるじゃん」
僕は顔をそらした。
母さんがタオルを持ってきた。
いつもなら、濡れたミケを拭くときは「もう、どこ行ってたの」とか言いながらやる。今日は何も言わなかった。タオルで僕の背中を包む手が、慎重すぎるくらい慎重だった。
「痛くない?」
母さんが聞いた。
僕は鳴いた。
痛くない。
母さんはその声を聞いて、少しだけ口を結んだ。
「そう」
分かったみたいに言った。
本当に分かったのかは分からない。
でも、今までの「はいはい、分かったよ」とは違った。
姉ちゃんは、玄関からまっすぐ階段を上がった。
「千夏?」
母さんが呼ぶ。
「見てくる」
何を、とは言わなかった。
僕も追いかけた。
濡れた足で階段を上がると、足跡が残った。小さい、丸い跡。途中で母さんが「あ、ミケ」と言いかけて、やめた。
姉ちゃんは自分の部屋に入った。
僕も続いた。
机の引き出しが開けられる。
姉ちゃんは、奥の方を探った。ペン、古いプリクラ、リップ、イヤホン。いくつかを雑に横へどけて、手を止めた。
赤い首輪がなかった。
僕は引き出しの下から見上げていた。
姉ちゃんは、何度も同じところを探した。奥に手を入れる。横のものをどける。別の小箱を開ける。机の下の袋まで見る。
ない。
姉ちゃんの手が止まった。
「ない」
後ろに来ていた母さんが、小さく言った。
姉ちゃんは答えなかった。
父さんがポケットから赤い首輪を出した。
公園で拾ったもの。
泥が少し落ちて、赤い色が見えている。
姉ちゃんはそれを受け取らなかった。
「今朝まであった」
「見たの?」
母さんが聞いた。
「昨日見た。ミケの古いやつ。引き出しにあった」
僕も見た。
黄色い恐竜を置こうとして、姉ちゃんが手を止めたとき。
赤い首輪は、引き出しの奥にあった。
それが今、公園から戻ってきている。
母さんは何も言わなかった。
父さんは、赤い首輪を机の上に置いた。
姉ちゃんは次に、僕の部屋へ向かった。
僕の机。
そこには、昨日まで黄色い恐竜があった。
姉ちゃんが置いた。
机の右端。ライトの下。
陽太が来たときも、そこにあったはずだった。
姉ちゃんが部屋に入って、机を見る。
恐竜はなかった。
代わりに、陽太が持ってきたプリントが置かれている。漢字ドリル。筆箱。スマホ。進路希望調査。
黄色い恐竜だけがない。
母さんがハンカチを開いた。
泥のついた恐竜が、母さんの手のひらに乗っている。
姉ちゃんは、それを見た。
「同じものが二つあったわけじゃないんだ」
父さんが言った。
誰も返事をしなかった。
僕は机の下に入った。
そこから見上げる机の裏は、昨日までと同じだった。鉛筆の跡。足でぶつけた小さい傷。ガムテープの残り。去年、何かを貼ってはがしたあと。
ここは僕の机だった。
でも、机の上のものが勝手に外へ出ていく。
写真の中から僕がいなくなる。
家の中のものが外に落ちている。
外には、ミケに似た猫がいる。
何が家の中で、何が外なのか、分からなくなる。
姉ちゃんは、恐竜を机の上に置いた。
元あった場所に。
泥が机に少しついた。
母さんが拭こうとして、手を止めた。
「拭かないで」
姉ちゃんが言った。
母さんはタオルを持ったまま止まった。
「今は、そのままにしといて」
姉ちゃんの声は強くなかった。
でも、母さんは従った。
父さんが言った。
「警察には、首輪とキーホルダーのことも話す」
「うん」
姉ちゃんは机の上を見たまま返事をした。
「でも、たぶん説明できないよ」
父さんは何も言わなかった。
母さんが、僕の方を見た。
僕は机の下にいた。
「ミケ」
また、その名前。
でも母さんは、そのあと少し間を置いた。
「悠真」
姉ちゃんが母さんを見た。
父さんも見た。
僕は動けなかった。
母さんは、泣いてはいなかった。
ただ、見ていた。
「どっちで呼べばいいの」
母さんが言った。
それは、僕に聞いているみたいだった。
僕は答えられない。
僕だって分からない。
ミケと呼ばれると嫌だった。
でも、悠真と呼ばれると怖かった。
悠真なら、学校へ行かなきゃいけない。
母さんに怒られる。
陽太に返事をする。
大地に言い返す。
姉ちゃんに、今まで何も見てなかったと言う。
写真に写っていない理由も、説明しなきゃいけない。
ミケなら、何も言わなくていい。
でも、何も伝えられない。
僕は、机の下から出た。
母さんの前まで行く。
前足を上げる。
母さんの手に乗せようとして、少し迷った。
母さんの手は、膝の上で握られていた。
僕は、そこに前足を乗せた。
母さんの指が震えた。
「……悠真」
今度は、はっきり聞こえた。
僕は鳴いた。
母さんの顔が崩れた。
姉ちゃんは、泣かなかった。
ただ、机の端に手をついて、少しだけうつむいた。
父さんは、深く息を吐いた。
そのとき、僕は初めて、家の中に戻ってきたような気がした。
でも、それは元に戻ったということではなかった。
僕はまだ、猫の形をしていた。
母さんの手に置いた前足も、白と黒と茶色の毛に覆われていた。
爪を出せば、母さんを傷つける。
指は広げられない。
鉛筆も持てない。
スマホも押せない。
でも、母さんはその前足をどけなかった。
「お腹すいてる?」
母さんが聞いた。
こんなときに、またごはんの話をするのかと思った。
でも、少し違った。
母さんは、僕に向かって聞いていた。
ミケのごはんを食べるかという意味だけじゃない。
悠真として、何か食べたいかと聞いているようにも聞こえた。
僕は鳴いた。
母さんは少し考えてから言った。
「いつものごはん、食べる?」
いつものごはん。
猫のごはんじゃない。
僕のごはん。
僕はもう一度鳴いた。
姉ちゃんが小さく笑った。
「おにぎりなら食べるんじゃない」
「猫に?」
父さんが言いかけて、止まった。
姉ちゃんが父さんを見た。
「今それ言う?」
父さんは「悪い」と言った。
母さんは台所へ行った。
少しして、小さい皿に、ごはんを少しだけ丸めたものを乗せて戻ってきた。塩もつけていない。海苔も巻いていない。猫に食べさせていいのか分からないから、たぶん何も入れなかったのだと思う。
僕の前に置かれる。
白いごはん。
匂いは薄い。
猫のごはんの方が、ずっと強い匂いがする。
でも、僕は白いごはんを見た。
毎日食べていたもの。
口を近づける。
食べにくかった。
舌で少し取る。米粒が口の横につく。噛む。猫の口では、ごはんがいつもより大きく感じた。おいしい、というより、懐かしかった。
母さんが見ている。
父さんも見ている。
姉ちゃんはしゃがんで、僕の顔を見ていた。
「食べてる」
姉ちゃんが言った。
母さんは、今度は安心したようには笑わなかった。
ただ、息を吐いた。
「悠真、ごはん好きだったもんね」
そんなことを言われたことはなかった。
好きだったのか、自分でも分からない。
でも、給食でごはんの日は、パンの日より少し嬉しかった気がする。
僕は、もう一口食べた。
米粒が鼻についた。
姉ちゃんが笑った。
「顔」
僕は顔を振った。
米粒は取れなかった。
姉ちゃんが指で取った。
「ほんと、何やってんの」
その言い方が、いつもの姉ちゃんだった。
僕は少しだけむっとした。
母さんがそれを見て、泣きながら笑った。
父さんも、ほんの少しだけ笑った。
その笑いは、明るいものではなかった。
でも、家の中で初めて、昨日から止まっていた何かが少しだけ動いた感じがした。
僕は小さいおにぎりを半分くらい食べた。
残りは食べられなかった。
体は、やっぱり猫のごはんの方を欲しがっていた。白いごはんだけでは足りない感じがする。
それが少し悲しかった。
母さんは残ったごはんを片づけなかった。
皿をそのまま、僕の机の近くに置いた。
「あとで食べたかったら」
そう言った。
僕は鳴いた。
あとで食べるかは分からなかった。
でも、そこに置かれた皿は、僕のためのものだった。
ミケのためでもあり、悠真のためでもある。
その曖昧さが、今は少しだけ助かった。
父さんは警察に電話をした。
黄色い恐竜のこと。
赤い首輪のこと。
公園にいた三毛猫のこと。
写真のことは、言わなかった。
言えなかったのだと思う。
電話のあと、父さんはリビングに戻ってきて、しばらく黙っていた。
「一応、首輪とキーホルダーは見せることになる」
姉ちゃんがうなずいた。
「でも渡さない」
「証拠になるかもしれない」
「渡したら戻ってこないかもしれない」
姉ちゃんの声が少し強くなった。
「今、なくしたくない」
父さんは言い返さなかった。
母さんも。
僕は机の横に座って、黄色い恐竜を見ていた。
泥がついたまま。
姉ちゃんが見えるところに置いた。
その横に、赤い首輪も置かれている。
二つとも、家にあるはずで、外にあったもの。
僕が猫になってから、家の中と外が少しずつ入れ替わっている気がした。
夕方近く、陽太から姉ちゃんのスマホにメッセージが来た。
姉ちゃんは僕の前で画面を見せた。
学校行った。
悠真の席、空いてた。
プリント置いといた。
先生が、ミケの絵のこと話してた。
大地が黙ってた。
大地が黙ってた。
それだけが、少し引っかかった。
大地は、よくしゃべる。
授業中も、休み時間も、給食のときも。
僕にまとめを押しつけたときも、笑っていた。
その大地が黙っていた。
どういう顔をしていたんだろう。
僕は姉ちゃんのスマホに前足を伸ばした。
姉ちゃんは画面を下げた。
「返事する?」
僕は姉ちゃんを見た。
したい。
姉ちゃんは、少し考えてから文字を打った。
ミケが見てる。
それだけ打って、僕に見せた。
「これでいい?」
僕は鳴いた。
いいのかは分からない。
でも、それしか言えない。
姉ちゃんは送信した。
すぐに陽太から返ってきた。
ミケに言っといて。
明日も行くって。
姉ちゃんが僕を見た。
「陽太くん、明日も来るって」
僕はスマホの画面を見た。
明日。
明日がある。
僕はまだ戻っていない。
外には別の三毛猫がいる。
写真には僕がいない。
でも、明日、陽太はまた来る。
そう思うと、ほんの少しだけ、前に何かが続いた。
姉ちゃんはスマホを伏せた。
「私も、明日ちゃんと学校行く」
その声は、僕に向けられていた。
「水野くんとも、もう一回話す。進路も、先生に資料もらう」
僕は姉ちゃんを見た。
姉ちゃんは、黄色い恐竜を指先で少しだけ触った。
「悠真が戻ってきても戻ってこなくても、私は私のやつ、止めない」
それは少し冷たく聞こえた。
でも、嫌ではなかった。
姉ちゃんが止まってしまったら、僕のせいになる気がした。
僕がいなくなったせいで、姉ちゃんが進めなくなる。
それは嫌だった。
僕は姉ちゃんの足元に行った。
前足を、姉ちゃんの靴下に置いた。
姉ちゃんは僕を見下ろした。
「何」
僕は鳴いた。
行っていいよ。
そう言いたかった。
姉ちゃんに通じたかは分からない。
でも姉ちゃんは、少しだけ笑った。
「偉そう」
それは通じているようで、通じていないようだった。
夜、僕は自分の部屋で寝た。
姉ちゃんも、また僕の部屋に来た。
母さんは何か言いたそうだったけれど、止めなかった。父さんも、今日は何も言わなかった。
布団の上には、僕と姉ちゃんがいた。
机の上には、黄色い恐竜。
その横に赤い首輪。
さらに横に、陽太が持ってきたプリント。
僕はそれを見ながら、布団の上で丸くなった。
姉ちゃんは床に座って、進路希望調査を広げていた。今度は、僕の机ではなく、床に置いている。シャーペンを持って、何度か止まって、でも消さなかった。
第一志望の欄に、ちゃんと一行を書いた。
僕には、字は全部読めなかった。
でも、昨日何度も消していた場所に、今日は書いた。
姉ちゃんは紙を見たまま、小さく息を吐いた。
「書いた」
僕は鳴いた。
姉ちゃんは、僕を見た。
「見た?」
見た。
僕はもう一度鳴いた。
姉ちゃんは少しだけ笑った。
「じゃあ、証人ね」
証人。
よく分からない言葉だった。
でも、何かを見る役目なら、今の僕にもできる気がした。
猫の体でも。
僕は、机の上の赤い首輪を見た。
それから、黄色い恐竜を見た。
外にいた三毛猫の目を思い出した。
あの猫は、何を見ていたのだろう。
僕が見ていなかったものを、ずっと見ていたのだろうか。
姉ちゃんは進路希望調査を丁寧に折って、鞄に入れた。
その鞄には、黄色い恐竜はついていない。
僕は、それを見た。
いつか、あそこにつけたいと思った。
なぜそう思ったのかは分からなかった。
でも、姉ちゃんが行く場所に、何かを持っていってほしかった。
僕が行けなくても。
僕が戻れなくても。
姉ちゃんの鞄のどこかで、小さく揺れるものがあれば、僕は少しだけ外に出られる気がした。
その夜、姉ちゃんが電気を消す前に、僕に聞いた。
「ミケって呼ぶのと、悠真って呼ぶの、どっちがいい?」
僕は答えられなかった。
姉ちゃんは少し待った。
僕は鳴かなかった。
姉ちゃんは、電気のひもに手をかけたまま言った。
「じゃあ、今は呼ばない」
部屋が暗くなった。
名前がなくなったわけではなかった。
呼ばれなかっただけだった。
僕は布団の上で、しっぽを体に寄せた。
姉ちゃんが床に敷いた毛布の上で横になる音がした。
雨はまだ降っていた。
でも、家の中は昨日より静かだった。
怖いくらいではなく、眠れるくらいに。
僕は、目を閉じた。
第5章 ミケの場所
朝になる前に、目が覚めた。
部屋はまだ暗かった。
カーテンの向こうで雨が細く続いている。昨日より弱い。屋根に当たる音は小さくて、時々、雨どいの中を水が流れる音だけが聞こえた。
姉ちゃんは床で寝ていた。
毛布から足が少し出ている。制服ではなく、昨日の夜に着替えたスウェットだった。スマホは枕の横に置かれていて、画面は暗い。鞄は机の横に置いてある。中には、進路希望調査が入っている。
僕は布団の上にいた。
目を開けた瞬間、自分の体がどこにあるか分かった。
前足。
後ろ足。
しっぽ。
耳。
ひげ。
昨日の朝は、まだどれもばらばらだった。体の使い方がよく分からなかった。布団から出るのも、階段を降りるのも、椅子に上がるのも、全部怖かった。
今は違う。
寝返りを打とうとしたら、体が勝手に丸くなる。立ち上がるときも、前足から静かに起きる。布団から降りるとき、もう下の高さを見ても足が止まらなかった。
慣れている。
それが嫌だった。
僕は、布団の端まで歩いて、床に降りた。音はほとんどしなかった。昨日までは、自分が歩くたびに足音が鳴っていると思っていたけれど、この体は、気をつけなくても静かに歩ける。
姉ちゃんの横を通る。
姉ちゃんは起きなかった。
廊下へ出た。
家の中は、夜と朝の間だった。リビングの明かりは消えている。階段の下だけ、豆電球みたいな小さい光がついていた。母さんか父さんが、夜中にトイレへ行くときのためにつけたのだと思う。
僕は階段を降りた。
一段ずつ。
もう怖くない。
怖くないのが、怖かった。
リビングに入ると、昨日のままのものがいくつか残っていた。
テーブルの上には、アルバム。母さんのスマホ。警察の人が置いていった紙。陽太が持ってきたプリントの一部。コップに半分だけ残った水。
僕の小さい皿も、机の横にあった。
白いごはんは、少し乾いていた。
僕は近づいて匂いをかいだ。
もう食べたくなかった。
昨日は、あれが自分のごはんに見えた。懐かしいと思った。でも今は、匂いが薄すぎた。食べ物として分かりにくい。体が、別のものを探している。
台所の方を見る。
ミケのごはんの袋がある棚。
僕はそっちへ行きかけて、止まった。
食べたくないと思った。
食べたいとも思った。
二つが、同じ体の中でぶつかった。
僕は棚から離れた。
そのまま、ソファの方へ行く。
ソファの下に、暗い隙間があった。掃除機から逃げて入った場所。ミケがよく入っていた場所。
僕は、そこをのぞいた。
ほこりの匂い。古い布の匂い。床にたまった小さい毛。奥の方に、何か白いものが見えた。
前足を伸ばす。
届かない。
もう少し体を低くする。
頭を入れる。肩を入れる。背中がソファの裏に触れる。狭い。でも、入れた。体が勝手に薄くなるみたいに、するっと奥へ進んだ。
白いものは、小さい紙だった。
いや、紙というより、折れた厚紙。
前足で引っかけて、少しずつ手前へ寄せる。爪が使える。昨日までは、爪が出るのが嫌だった。でも、こういうときは便利だった。
厚紙をくわえて、ソファの下から出た。
口に紙の味がした。少し苦い。ほこりっぽい。
床に置く。
見る。
動物病院のカードだった。
ミケの名前が書いてある。
ミケ。
三毛。
メス。
推定年齢。
その下に、日付があった。
僕が生まれた年より、前だった。
僕はカードを見ていた。
ミケは、僕が生まれた頃からいる。
そう聞いていた。
でもカードの日付は、その前だった。
それは別におかしくない。
生まれた頃からいる、というのは、僕が覚えている最初からいる、という意味かもしれない。僕が生まれる少し前からいたなら、それでも合っている。
でも、そのカードの端に、手書きで何かが書いてあった。
保護。
その二文字だけ、母さんの字で書かれていた。
ミケは、拾われた猫だったのかもしれない。
聞いたことがなかった。
いや、聞いたことがある気もする。
雨の日に、玄関の前にいた。
姉ちゃんが拾った。
父さんは最初、飼えないと言った。
母さんがタオルで拭いた。
ミケは全然鳴かなかった。
そんな話を、どこかで聞いた気がする。
でも、それはミケの話だ。
僕の話じゃない。
僕はカードを前足で押した。
裏返る。
裏には、細い鉛筆の跡があった。
姉ちゃんの字だった。
みけ、うちのこ。
ひらがなで書いてあった。
僕は、その字を見た。
姉ちゃんが五歳くらいのときの字かもしれない。
まっすぐ書けていない。
けれど、強く押したあとが残っている。
うちのこ。
それは、ミケのことだった。
僕は何だったんだろう。
母さんが階段を降りてくる音がした。
僕はカードの前に座ったまま、動かなかった。
母さんはリビングに入って、僕を見つけた。
「あ……」
そこで声が止まった。
僕の前にあるカードを見る。
母さんはゆっくり近づいてきた。
しゃがむ。
カードを拾う。
「これ」
母さんの声が、朝の声ではなかった。
「どこにあったの」
僕はソファの下を見た。
母さんもそっちを見た。
「そう」
カードを指でなぞる。
「なくしたと思ってた」
僕は母さんを見た。
母さんはカードを持ったまま、ソファに座った。
まだ髪も整えていない。寝間着の上にカーディガンを羽織っている。いつもの母さんより、少し小さく見えた。
「ミケを拾ったときの」
母さんが言った。
僕は、床に座ったまま聞いていた。
「雨の日だった」
外では、まだ雨が降っていた。
母さんは窓の方を見た。
「千夏が幼稚園から帰ってくるとき、家の前で見つけて。段ボールに入ってたわけじゃないのよ。ただ、玄関の横でじっとしてた」
僕は、その場面を見たことがあるような気がした。
玄関の横。
濡れた毛。
赤い首輪はまだない。
小さい姉ちゃんが、しゃがんでいる。
でも、僕はまだ生まれていない。
見ているはずがない。
「全然鳴かなくてね」
母さんが言った。
「千夏が、うちのこにするって言ったの」
僕はカードの裏の字を見た。
みけ、うちのこ。
姉ちゃんが決めた。
ミケは、姉ちゃんが家に入れた。
僕は、姉ちゃんがつけた名前でずっと呼ばれていた猫になっている。
母さんはカードを膝に置いた。
「そのあと、すぐ悠真が生まれて」
僕は顔を上げた。
母さんは僕を見た。
「ミケ、赤ちゃんのそばから離れなかった」
僕のことだ。
たぶん。
「ベビーベッドの横に、ずっといた。千夏が赤ちゃん見ててって言うと、本当にいるの。猫なのにね」
昨日、公園で見たみたいな記憶と同じだった。
ベビーベッド。
ミケの前足。
姉ちゃんの声。
母さんは、僕の方へ手を伸ばした。
今度は途中で止めなかった。
頭を撫でる。
「だから、悠真が寝てると、いつもミケも近くにいた」
僕は母さんの手の下で、目を細めそうになった。
細めたくなかった。
でも、細まった。
「写真に悠真が写ってないの、変だけど」
母さんの指が、僕の耳の後ろで止まった。
「でも、ミケが写ってる写真の近くには、たぶん悠真もいたんだよね」
僕は母さんを見た。
母さんは、少しだけ笑った。
「そう思うことにする」
姉ちゃんみたいな言い方だった。
変なまま置いておく。
写真にないだけで、いなかったことにしない。
母さんも、少しずつそこへ来ているのかもしれない。
階段の上から、姉ちゃんの声がした。
「母さん?」
母さんは振り返った。
「起きた?」
姉ちゃんが階段を降りてきた。髪が少し跳ねている。スウェットの袖が片方だけ伸びている。
「ミケ、下にいたんだ」
僕を見て、そう言った。
それから、母さんの膝にあるカードを見た。
「それ」
「ミケの病院のカード。ソファの下にあった」
姉ちゃんはリビングへ来て、母さんの隣に座った。
カードを見た瞬間、顔が少し変わった。
「私の字」
「そう」
「汚な」
母さんが小さく笑った。
「五歳くらいだから」
姉ちゃんはカードの裏を指で触った。
みけ、うちのこ。
「私、こんなの書いたんだ」
「書いたよ。絶対なくしちゃだめって言って」
「なくしてんじゃん」
「ソファの下にあっただけ」
母さんの声に、ほんの少しだけいつもの調子が戻っていた。
僕は二人の足元に座っていた。
姉ちゃんは僕を見る。
「うちのこだって」
僕は鳴いた。
姉ちゃんは、母さんからカードを受け取って、しばらく見ていた。
「じゃあ、私がミケを入れたんだ」
「そうよ」
「悠真より先に」
母さんはうなずいた。
「うん」
姉ちゃんは、カードを膝に置いた。
「そっか」
それだけだった。
でも、姉ちゃんの顔は少し複雑だった。
ミケを家に入れたのが自分なら、今ここにいる僕をどう扱うかも、自分と関係がある。そんなふうに思ったのかもしれない。
僕には分からない。
でも、姉ちゃんは僕に手を伸ばした。
「じゃあ、私の責任じゃん」
母さんがすぐに言った。
「そういうことじゃない」
「分かってる」
姉ちゃんは僕の頭を撫でた。
「分かってるけど、ちょっと思っただけ」
母さんは黙った。
姉ちゃんは続けた。
「ミケも、悠真も、私がちゃんと見てなかったなって」
僕は、姉ちゃんの指を見た。
昨日、進路希望調査を書いた指。
水野くんに返事した指。
陽太のメッセージを見せてくれた指。
黄色い恐竜を拾った指。
「でも、今から見る」
姉ちゃんはそう言った。
母さんが姉ちゃんを見た。
「千夏」
「何」
「学校は?」
姉ちゃんは時計を見た。
「行く」
少し間を置いて、言った。
「遅れるけど」
母さんは何か言いかけた。
姉ちゃんが先に立ち上がった。
「昨日、行くって言ったし。進路希望も出す」
そう言って、二階へ上がろうとした。
途中で振り返る。
「ミケ」
僕は顔を上げた。
姉ちゃんは少しだけ迷った。
呼ばない、と昨日言っていた。
ミケとも悠真とも、今は呼ばないと。
でも、今はミケと呼んだ。
僕は嫌ではなかった。
姉ちゃんは言った。
「行ってくるまで、家にいて」
僕は鳴いた。
姉ちゃんはうなずいた。
「よし」
それだけ言って、階段を上がっていった。
家にいて。
その言葉は、昨日より重かった。
外には、三毛猫がいる。
赤い首輪を持ってきた猫。
僕と同じ匂いの猫。
駅の近くでは、僕に似た子が見られている。
黄色い恐竜を持っていたかもしれない子。
家の中には、僕の机がある。
空いた席がある。
母さんが僕に向けて置いた白いごはんの皿がある。
僕は、どこにいればいいんだろう。
姉ちゃんは、家にいてと言った。
だから、今はここにいる。
母さんは台所へ行った。
「ミケ、ごはんどうする?」
その言い方は、また少し迷っていた。
僕は台所の方を見た。
猫のごはんの棚。
昨日の白いごはんの皿。
二つの間で、足が止まる。
母さんもそれに気づいた。
「両方、少しずつにする?」
僕は鳴いた。
母さんは、小さい皿を二つ出した。
一つに猫のごはん。
もう一つに、白いごはんを少し。
並べて置く。
「変だけど」
母さんが言った。
「今は、これでいいよね」
僕は二つの皿を見た。
猫のごはんの匂いは強かった。体はそっちを向く。白いごはんは、ほとんど匂いがしない。でも、見ているといつもの茶碗を思い出した。
僕は、先に白いごはんを一口食べた。
母さんは何も言わなかった。
次に、猫のごはんを食べた。
それも、何も言わなかった。
二つを少しずつ食べる。
どちらかだけにはなれないみたいだった。
食べ終わる前に、姉ちゃんが階段を降りてきた。
制服を着ている。髪はまだ少し跳ねていたけれど、ピンで押さえていた。鞄を持っている。鞄の端に、何もついていない。
黄色い恐竜は、まだ僕の机の上。
姉ちゃんは台所の僕を見て、皿を見た。
「なにそれ」
母さんが言った。
「両方」
姉ちゃんは少し笑った。
「いいんじゃない」
それから、僕の前にしゃがんだ。
「今日、陽太くん来たら、よろしく」
僕は鳴いた。
「水野くんとは、帰りに話す」
鳴いた。
「進路希望は、出す」
もう一度、鳴いた。
姉ちゃんは僕の頭を軽く撫でた。
「返事多いな」
僕は少しむっとした。
姉ちゃんは笑った。
その笑い方は、昨日よりちゃんとしていた。
玄関で靴を履くとき、姉ちゃんは一度だけリビングの方を見た。
「母さん」
「何」
「お金の話、またする」
母さんは手を止めた。
「うん」
「でも、私が行きたいって話からする」
母さんは少しだけうなずいた。
「分かった」
姉ちゃんは父さんにも言った。
「父さんも聞いて」
父さんはリビングの奥から顔を出した。
「分かった」
姉ちゃんは、それで玄関のドアを開けた。
外はまだ雨だった。
でも、昨日より弱い。
姉ちゃんは傘を開く前に、僕を見た。
「じゃあね」
僕は玄関の内側で鳴いた。
今度は、外へ出ようとしなかった。
姉ちゃんは少しだけ笑って、出ていった。
ドアが閉まる。
僕は玄関に残った。
でも、昨日の朝みたいに置いていかれた感じはしなかった。
家にいてと言われた。
僕は家にいる。
それだけだった。
リビングへ戻ると、母さんがテーブルの上を片づけていた。アルバムは棚に戻さず、テーブルの端に置いたままにしている。警察の紙はクリアファイルに入れた。黄色い恐竜と赤い首輪は、僕の机の上に置いたまま。
父さんは会社に電話していた。
「今日も休みます。はい。息子の件で」
息子。
僕は父さんを見た。
父さんは電話しながら、僕の方を見た。
息子と言った。
猫ではなく。
それだけのことなのに、足元が少しだけ温かくなった。
午前中、陽太は来なかった。
学校があるから当然だった。
代わりに、昼休みに姉ちゃんのスマホではなく、母さんのスマホにメッセージが来た。
陽太のお母さんからだった。
陽太が、今日の放課後にまた寄りたいと言っています。
大丈夫でしょうか。
母さんは、それを僕に見せた。
「来てもらっていい?」
聞かれた。
僕に。
僕は鳴いた。
母さんは、返信した。
大丈夫です。ありがとうございます。
その画面を見て、僕は思った。
鳴くだけでも、少しずつ返事になっている。
人間だったときより、今の方が、もしかしたらちゃんと返事しているのかもしれない。
そう思うと、嬉しいような、悔しいような気がした。
昼過ぎ、母さんは僕の部屋に来た。
僕もついていった。
机の上には、黄色い恐竜と赤い首輪。陽太のプリント。僕のスマホ。漢字ドリル。姉ちゃんの進路希望調査はもうない。
母さんは、机の前に座った。
僕の椅子に。
一瞬、嫌だと思った。
でも、母さんはすぐに言った。
「借りるね」
僕は机の下に座っていた。
母さんは、連絡帳を開いた。
昨日のページ。先生の字。今日の連絡。欠席扱いになるのかどうか、何か書いてある。
母さんはペンを持った。
何か書こうとして、止まる。
「何て書けばいいんだろう」
僕に聞いたのか、独り言なのか分からなかった。
母さんはしばらく考えて、短く書いた。
本日も欠席します。
本人はまだ見つかっていません。
ただ、家にはいます。
そこまで書いて、止まった。
家にはいます。
その文字を見て、僕は机の下で息を止めた。
母さんは、ペンを置いた。
「これは出せないね」
そう言って、ページを破ろうとした。
僕はとっさに前足を出した。
母さんの手を押さえる。
爪は出さなかった。
母さんが僕を見た。
「出すの?」
僕は鳴いた。
出せるわけがない。
先生が読んだら、意味が分からない。
警察にも言えない。
変だと思われる。
母さんが困る。
でも、破らないでほしかった。
母さんは、破るのをやめた。
そのページを開いたまま、連絡帳を机の端に置いた。
「じゃあ、これはここに置いておく」
僕は鳴いた。
母さんは少しだけ笑った。
「分かった」
何が分かったのかは、まだ分からない。
でも、母さんは破らなかった。
連絡帳には、家にはいます、と書かれたまま残った。
誰にも出せない返事。
でも、そこには書かれていた。
僕は机の下で、その文字を見ていた。
今の僕に、いちばん近い言葉かもしれないと思った。
本人はまだ見つかっていません。
ただ、家にはいます。
その通りだった。
僕はまだ、見つかっていない。
でも、家にはいる。
放課後になる少し前から、僕は玄関にいた。
誰かに言われたわけではない。
ただ、廊下の向こうから外の匂いが入ってくるたび、体がそっちを向いた。雨は昼過ぎに弱くなって、今は細い粒がときどき落ちるくらいだった。道路はまだ濡れていて、車が通ると水を踏む音がした。
陽太が来る。
そう思うと、じっとしていられなかった。
母さんは台所とリビングを行ったり来たりしていた。父さんは二階で誰かと電話している。警察の人かもしれないし、会社の人かもしれない。
姉ちゃんはまだ帰っていなかった。
学校に行くと言って出ていった。
進路希望も出すと言った。
水野くんとも話すと言った。
ちゃんと返事する、と言った。
僕は、玄関のたたきに降りないようにして、上がり框のところに座っていた。
僕のスニーカーは、昨日より少し横に寄せられていた。誰かが掃除の邪魔にならないように動かしたのだと思う。紐はほどけたまま。右足の方だけ、口が少し開いている。
その中に、学校の砂が残っていた。
僕は鼻を近づけた。
校庭の匂いがした。
ドッジボールの線を引く白い粉。朝の昇降口。濡れた上履き。体育館の床。全部が少しずつ混じっていた。
僕は、靴の中に前足を入れようとした。
入らなかった。
前足は丸くて、靴の中の形に合わない。爪が布に引っかかって、すぐに抜いた。
前は、何も考えずに履いていたのに。
チャイムが鳴った。
僕は立ち上がった。
母さんがリビングから出てくる。
「はい」
ドアを開けると、陽太が立っていた。
昨日より顔が疲れて見えた。ランドセルを背負っていて、手にはまたクリアファイルを持っている。傘は閉じて、左手に持っていた。靴下の先が少し濡れている。
陽太のお母さんはいなかった。
「一人?」
母さんが聞いた。
「はい。家、近いので。母に連絡してあります」
言い方が少し硬かった。
陽太は、すぐに僕を見た。
「ミケ」
僕は鳴いた。
陽太の顔が、ほんの少しだけゆるんだ。
「いた」
その言い方が、姉ちゃんと似ていた。
母さんが少しだけ目を伏せた。
「上がって」
陽太は靴を脱いだ。
また、僕のスニーカーを見た。
今日は、昨日より長く見ていた。
「まだある」
小さく言った。
母さんが何か言おうとしたけれど、やめた。
陽太はリビングには行かず、僕の前でしゃがんだ。
「席替え」
僕は耳を動かした。
「お前の分も、くじ引いたって」
お前。
陽太は、ミケに向かって僕のことをお前と言った。
僕は鳴いた。
陽太はクリアファイルを開けた。
中から、小さい紙を出す。
座席表だった。
手書きで、机の四角がいくつも並んでいる。名前が書いてある。僕の名前もあった。悠真。教室の窓側の、後ろから二番目。
前より、少しだけいい席だった。
窓が近い。廊下から遠い。先生からも少し遠い。陽太のクラスは隣だから関係ないけど、休み時間に窓の外を見れば、校庭が見える場所だった。
「けっこういいとこ」
陽太が言った。
「大地がさ、そこ引いたらしい」
僕は顔を上げた。
大地。
「先生が、悠真の分、誰か引くかって言って。みんな黙ってて。そしたら大地が引いた」
僕は、座席表を見た。
「なんか、変な空気だった」
陽太は紙を持ったまま、玄関の床を見ていた。
「大地、昨日からずっと黙ってる。今日も、給食のとき全然しゃべんなかったらしい。俺は隣のクラスだから聞いただけだけど」
僕は、大地が黙って給食を食べているところを想像した。
うまく想像できなかった。
大地は、牛乳を飲むときも、パンをちぎるときも、だいたい何か言っている。理科の発表のことだって、きっと今日なら笑い話にしていたはずだった。
それが黙っている。
「あと」
陽太は、クリアファイルからもう一枚出した。
ノートの切れ端だった。
そこには、大地の字で短く書いてあった。
まとめ、ごめん。
それだけ。
僕はその字を見た。
大地の字は、少し角ばっていた。力が入りすぎて、紙の裏まで跡が残っている。
ごめん。
その日、言ってほしかった。
そう思った。
でも、言われたら、僕はたぶん「別に」と言った。
別に。
またその言葉。
何でもないふりをするための言葉。
僕は、紙に前足を伸ばした。
陽太は少しだけ紙を下げた。
「触る?」
僕は前足を乗せた。
紙が少ししなった。
爪を出したら破れそうだったから、出さないようにした。
陽太はそれを見ていた。
「これ、机に置いとく?」
僕は鳴いた。
母さんがリビングから小さく言った。
「悠真の机に置いてあげようか」
僕は母さんを見た。
母さんは、僕に聞いていた。
僕はもう一度鳴いた。
陽太はうなずいた。
「行く?」
僕は立ち上がった。
陽太が笑った。
「やっぱ返事してるよな」
母さんは何も言わなかった。
陽太は階段へ向かった。僕もついていく。途中で一段だけ足が滑ったけれど、すぐ立て直した。陽太が後ろから手を出しかけて、止めた。
「上手くなった」
その言葉が少し刺さった。
上手くなっている。
昨日できなかったことが、できるようになっている。
猫として。
僕の部屋に入ると、机の上は朝とほとんど同じだった。
黄色い恐竜。
赤い首輪。
陽太が昨日持ってきたプリント。
僕のスマホ。
漢字ドリル。
小さい皿。
連絡帳は、開いたまま机の端にあった。
本日も欠席します。
本人はまだ見つかっていません。
ただ、家にはいます。
陽太がそれを見た。
「これ」
母さんが後ろから来て、少し慌てた。
「ごめん、しまい忘れて」
陽太は首を横に振った。
「消さないんですか」
母さんは黙った。
僕は机の下に座った。
陽太は連絡帳を見たまま、少しだけ眉を寄せた。
「家にはいます、か」
母さんは、何も言わなかった。
陽太は僕を見た。
「ミケはいるもんな」
僕は鳴いた。
陽太は、ゆっくり座席表を机の上に置いた。
昨日のプリントの上ではなく、少し横。
新しい場所として置くみたいに。
それから、大地の紙を黄色い恐竜の隣に置いた。
まとめ、ごめん。
黄色い恐竜。
赤い首輪。
大地の字。
机の上に、僕が触れないものばかり増えていく。
でも、全部、僕に向けられていた。
陽太は僕の椅子を引いた。
座らない。
少しだけ迷ってから、床に座った。昨日と同じように、机にもたれる。
「今日、お前の席見た」
僕は陽太の膝の近くに座った。
「空いてた」
分かってる。
「先生が、席替えしても机はそのまま置くって言った。戻ってきたらそこ使えるようにって」
戻ってきたら。
「大地が、机運ぶの手伝ってた」
僕は大地の紙を見た。
「普段なら絶対ふざけるのに、無言で運んでたらしい」
陽太はそう言って、少しだけ息を吐いた。
「なんか、嫌だった」
僕は陽太を見た。
「悠真がいないと、みんな急に悠真のこと考えるじゃん。いるときに考えろよって思った」
陽太の声は少し硬かった。
「俺もだけど」
僕は、陽太の手の近くに前足を置いた。
昨日と同じように。
陽太はその手を見た。
「それ、やめろって」
でも、手を引かなかった。
「泣きそうになる」
僕は、前足を動かさなかった。
陽太は目をこすった。
「昨日、千夏さんに電話したあとさ、母さんに怒られた。泣いてんじゃないわよって」
陽太は少し笑った。
「泣いてないし」
嘘だと思った。
でも、何も言わなかった。
陽太は僕を見た。
「お前、もし悠真だったらさ」
姉ちゃんの声がした。
「言いなよ」
部屋の入口に立っていた。
帰ってきていた。
制服の肩が少し濡れている。髪も湿っていた。鞄を持ったまま、廊下に立っている。
いつ帰ってきたのか、気づかなかった。
陽太が慌てて立ち上がろうとした。
「すみません」
「いいよ。続けて」
姉ちゃんは部屋に入って、鞄を床に置いた。
その顔は、朝出ていくときより少し疲れていた。でも、昨日みたいにぐちゃぐちゃではなかった。
「今の、言いなよ」
陽太は、少し困った顔をした。
「いや、変なことです」
「変なのはもう十分あるから」
姉ちゃんは机の上を見た。
黄色い恐竜。赤い首輪。大地の紙。座席表。
それから、連絡帳。
姉ちゃんは連絡帳の文字を見ても、何も言わなかった。
陽太は、僕を見た。
「もし悠真だったら」
もう一度、言った。
「戻ってきたら、俺、ちゃんと声かけるから」
僕は陽太を見た。
「今さらでも、声かけるから」
僕は鳴いた。
陽太は、唇を少し噛んだ。
「だから、戻ってこいよ」
その言葉で、部屋の空気が変わった。
戻ってこい。
昨日から、みんな「どこにいるの」「帰ってきたら」と言っていた。
でも、戻ってこい、と正面から言われたのは初めてだった。
戻る。
どこへ。
この体から。
家へ。
学校へ。
僕の席へ。
陽太の隣へ。
母さんに怒られる場所へ。
姉ちゃんに、邪魔と言われる玄関へ。
僕は、戻りたいのか分からなかった。
でも、陽太にそう言われて、喉の奥が熱くなった。
僕は鳴いた。
短い声だった。
でも、今までで一番、自分の声に近い気がした。
陽太は、目をこすった。
「ミケの声なのにさ」
小さく言った。
「なんで返事っぽいんだよ」
姉ちゃんは何も言わなかった。
母さんも、入口で黙っていた。
僕は、陽太の手に前足を乗せた。
陽太はそのまま、少しだけ下を向いた。
姉ちゃんが静かに言った。
「陽太くん、ありがとう」
「いや」
陽太は首を振った。
「俺、何もしてないです」
「来た」
姉ちゃんは言った。
「それ、けっこう大きいと思う」
陽太は返事をしなかった。
姉ちゃんは鞄から紙を出した。
進路希望調査だった。
「私も出してきた」
誰に言うでもなく言った。
僕は姉ちゃんを見た。
姉ちゃんは、僕を見返した。
「出したよ」
僕は鳴いた。
陽太が少しだけ笑った。
「ミケ、何でも返事するじゃん」
姉ちゃんが言った。
「一昨日からそう」
「悠真みたいですね」
陽太は言ってから、少し固まった。
姉ちゃんは怒らなかった。
「うん」
それだけ言った。
陽太は、母さんの方を見た。
「すみません」
母さんは首を横に振った。
「ううん」
部屋の中で、しばらく誰も動かなかった。
それぞれが、机の上のものを見ていた。
黄色い恐竜。
赤い首輪。
大地の紙。
座席表。
出せない連絡帳。
全部、僕がここにいるのに見つかっていないことを示しているみたいだった。
陽太は、帰る前に僕の頭を一回だけ撫でた。
「また来る」
僕は鳴いた。
「毎日来るの?」
姉ちゃんの言葉に、陽太は少し考えた。
「じゃあ、明後日来る」
姉ちゃんが笑った。
「土曜だよ?」
「だめですか」
「だめじゃないけど」
陽太は、少しだけ肩をすくめた。
「悠真の席、空いてるの見るだけより、こっち来た方がましなんで」
僕は陽太を見た。
陽太は、その言い方が少し照れくさかったのか、すぐに立ち上がった。
「帰ります」
母さんが玄関まで送った。
僕も行った。
姉ちゃんも来た。
玄関で、陽太は靴を履いたあと、僕のスニーカーを見た。
「これ、紐ほどけてる」
僕は靴を見た。
右足の紐。
昨日からほどけたままだった。
陽太はしゃがんで、その紐を結んだ。
人の家の玄関で、いなくなった友達の靴紐を結ぶ。
変な光景だった。
でも、陽太は普通に結んだ。
一度目はゆるくて、結び直す。二度目はきれいに結べた。
「これで、戻ってきてもすぐ履ける」
陽太はそう言った。
僕は鳴けなかった。
姉ちゃんも黙っていた。
母さんが目元を押さえた。
陽太は立ち上がり、少し困ったように笑った。
「じゃあ」
ドアが開く。
雨は止んでいた。
湿った外の空気が入ってくる。
陽太は外へ出る前に、もう一度僕を見た。
「またな」
僕は、今度はちゃんと鳴いた。
陽太はうなずいて、帰っていった。
ドアが閉まる。
玄関に、結ばれたスニーカーが残った。
僕はその靴の前に座った。
紐がきれいに結ばれている。
履けないのに。
でも、戻ってきたら履ける。
陽太は、そう言った。
姉ちゃんが僕の隣にしゃがんだ。
「戻りたい?」
聞かれた。
僕は靴を見た。
答えは出なかった。
戻りたい。
戻りたくない。
戻れる気がしない。
戻ったら、今見えているものが見えなくなる気がする。
でも、このままだと、靴はずっと履けない。
僕は、姉ちゃんの方を見た。
姉ちゃんは、返事を急かさなかった。
「今じゃなくていいよ」
そう言って、僕の背中を撫でた。
「でも、考えといて」
僕は靴の前で丸くなった。
玄関は少し冷たかった。
けれど、そこから動きたくなかった。
結ばれた靴紐を見ながら、僕は初めて、戻るということをちゃんと考えた。
戻るということを考えると、まず靴が見えた。
陽太が結んだ靴紐。
少しきつそうで、でもほどけなさそうな結び目。
あれを履く。
ランドセルを背負う。
玄関を出る。
学校へ行く。
昇降口で上履きに履き替える。
教室に入る。
席替えされた新しい席に座る。
そこまでは考えられた。
でも、その先がうまく続かなかった。
大地がこっちを見る。
陽太が隣のクラスから来る。
先生が何か言う。
母さんが家で待っている。
姉ちゃんが高校から帰ってくる。
その全部に、返事をしないといけない。
戻るというのは、たぶん、猫の体から人間の体に戻るだけではない。
今まで言わなかったことを、どこかで言うことだった。
僕は、靴の前で丸くなった。
玄関の床は少し冷たい。けれど、靴の匂いと雨の残りの匂いが近くにあって、そこから動きたくなかった。
姉ちゃんはしばらく隣にいた。
何も言わなかった。
そのあと、立ち上がった。
「水野くんと会ってくる」
母さんがリビングから顔を出した。
「今から?」
「近くのコンビニの前。少しだけ」
「夜になる前に帰ってきなさいよ」
「分かってる」
母さんは僕を見た。
「ミケは?」
姉ちゃんは、僕を見下ろした。
「置いてく」
少しだけ間を置いてから言った。
「今日は」
今日は。
その言い方で、僕は顔を上げた。
姉ちゃんは僕の頭に一回だけ触れた。
「さっき、行ってくるって言えたから」
僕は鳴いた。
それが何の返事なのか、自分でも分からなかった。
姉ちゃんは靴を履いた。
今日はローファーではなく、スニーカーだった。制服のままだけど、足元だけ少し変だった。鞄は持たず、スマホだけをポケットに入れている。
ドアを開けると、雨上がりの匂いが入ってきた。
姉ちゃんは一度だけ振り返った。
「すぐ帰る」
僕はもう一度鳴いた。
ドアが閉まる。
今度は、追いかけようとは思わなかった。
外に出たい気持ちは少しあった。
でも、今姉ちゃんが行く場所は、僕が見なくてもいい場所なのかもしれないと思った。
見たくないわけではない。
水野くんがどんな顔をするのか。
姉ちゃんがどんな声で話すのか。
それは見たかった。
でも、姉ちゃんが一人で返事をしに行くなら、僕がいない方がいいのかもしれない。
そう思えたのは、少し不思議だった。
昨日なら、たぶんついていきたかった。
姉ちゃんの部屋に入りたい。
電話を聞きたい。
机の上を見たい。
姉ちゃんが何を抱えているのか知りたい。
そればかりだった。
今は、全部を見なくても、姉ちゃんは戻ってくると思えた。
リビングに戻ると、母さんが台所にいた。
父さんはテーブルで赤い首輪を見ている。スマホで写真を撮って、警察の人に送る準備をしているようだった。
「千夏、行った?」
父さんが聞いた。
母さんはうなずいた。
「水野くんだって」
父さんは「そうか」と言った。
それだけだった。
前なら、父さんは姉ちゃんの彼氏の話なんて聞かないふりをしたと思う。母さんだけが少し気にして、父さんはテレビを見る。そういう感じだった。
でも今日は、父さんも聞いた。
それがいいことなのかは分からない。
ただ、父さんの中にも姉ちゃんの場所が少しできたみたいだった。
僕はソファの上に飛び乗った。
一回で上がれた。
ソファの背もたれに乗ろうとして、途中で止まった。
そこはミケの場所だった。
リビングを見下ろせる。
台所も見える。
玄関の方も少し見える。
階段の音も聞きやすい。
ミケがいつもそこにいた理由が、少し分かった。
家の中で誰がどこにいるか、そこなら分かる。
母さんが台所で動く。
父さんがテーブルで息を吐く。
姉ちゃんが玄関から帰ってくる。
僕がランドセルを投げ出す。
全部、ここから見える。
僕は背もたれの上に乗った。
細い場所なのに、足が勝手に安定した。
前足をそろえて座る。しっぽが横へ垂れる。
見える。
家が見える。
僕が人間だったとき、リビングはただ通る場所だった。ごはんを食べる場所。テレビを見る場所。宿題をさせられる場所。母さんに呼ばれる場所。
でもここから見ると、リビングは少し違った。
母さんは、台所で料理をしながら、何度も玄関の方を見る。
父さんは、スマホを見ているふりをして、母さんの動きに少し反応している。
時計の音が、二人の黙っている時間を埋めている。
ミケは、ずっとこれを見ていたのかもしれない。
僕は、少しだけ体を丸めた。
背もたれの上で丸くなると、家の中の音が下から上がってくる。ミケがよくここで寝ていたのは、寝ていても家の中が分かるからかもしれない。
「そこ好きよね」
母さんが言った。
僕は顔を上げた。
母さんは台所から僕を見ていた。
「ミケ、昔からそこ好きだった」
そう言ってから、少しだけ言い直すように黙った。
僕は鳴かなかった。
そこはミケの場所だ。
でも今、僕がそこにいる。
母さんは、もう何も言わなかった。
父さんがスマホを置いた。
「警察には送った。直接、首輪とキーホルダーを確認したいって」
母さんが「うん」と言った。
「渡すの?」
「一度見せるだけでいいらしい。物はこっちで保管していいって」
母さんは少し安心した顔をした。
僕も、少しだけ安心した。
黄色い恐竜と赤い首輪が、家からなくならない。
それだけで、何かがまだここに残る気がした。
ソファの背もたれで目を細めていると、知らない記憶が来た。
姉ちゃんが小さい。
リビングの床に座って、折り紙を広げている。赤、青、黄色。ミケはソファの背もたれにいて、それを見ている。
姉ちゃんは、折り紙を一枚持ち上げて言う。
「ミケ、どれがいい?」
ミケは答えない。
姉ちゃんは黄色を選ぶ。
「じゃあこれ」
小さい指で折り始める。うまく折れなくて、紙がぐちゃっとなる。姉ちゃんは少し怒って、でも最後まで折る。
たぶん、猫のつもりだった。
黄色い、変な形の猫。
ミケはそれを見ている。
僕は、その記憶を知っているはずがない。
まだ生まれていないか、赤ちゃんだったか、そのくらいのころだ。
でも、今それを見た。
思い出したというより、見せられたみたいだった。
僕はソファの背もたれから降りた。
少し足が震えていた。
「ミケ?」
母さんが声をかける。
僕はリビングを出て、階段を上がった。
姉ちゃんの部屋へ行く。
ドアは閉まっていた。
前足で押すと、少しだけ開いた。猫の体は、こういう隙間に強い。頭を入れて、肩を入れて、するっと入れる。
部屋は空だった。
姉ちゃんの匂いが濃かった。
床に置かれた制服のカーディガン。机の上の問題集。ベッドの横に置かれたコンビニの袋。昨日のままの伏せられたスマホはない。持っていったのだと思う。
僕は机の上に飛び乗った。
前なら怒られた。
今も、姉ちゃんがいたら怒るかもしれない。
でも、見たかった。
引き出しの奥。
赤い首輪があった場所。
もうない。
代わりに、小さい箱が見えた。ふたは閉まっていなかった。中には、古いものがいくつか入っている。
プリクラ。
小さい缶バッジ。
折れたヘアピン。
それから、黄色い折り紙。
僕は息を止めた。
黄色い紙は、ぐちゃぐちゃに折られていた。猫の形には見えない。でも、耳みたいな三角が二つあった。真ん中には、幼い字で「みけ」と書いてある。
さっき見た記憶の折り紙だった。
ここにあった。
姉ちゃんは、ずっと持っていた。
ミケに見せた折り紙。
僕が見たはずのないもの。
今の僕が、見てしまったもの。
僕は前足で箱に触れた。
折り紙が少し揺れる。
その下に、写真があった。
小さい姉ちゃんが、ソファの前で黄色い折り紙を持っている写真。
ソファの背もたれには、ミケがいる。
写真の端に、誰かの指が少し写っていた。
大人の指ではなかった。
小さい指。
僕の指かもしれない。
でも、そのころ僕はまだ小さすぎる。
写真を撮れるはずがない。
いや、撮ったのは母さんで、端に写ったのが僕の指なのかもしれない。
分からない。
僕は写真に顔を近づけた。
指は、本当に少しだけだった。誰のものか分からない。けれど、僕はそこから目を離せなかった。
写真の中に、初めて僕かもしれないものがあった。
顔ではない。
名前でもない。
ただ、端に入った小さい指。
それだけ。
でも、僕はその写真から動けなくなった。
部屋の外で、玄関のドアが開く音がした。
姉ちゃんが帰ってきた。
僕は慌てて机から降りようとして、少し失敗した。後ろ足が箱に当たり、写真が一枚床に落ちた。
しまった。
姉ちゃんの足音が階段を上がってくる。
僕は床に下りた。
写真は床の上に落ちたまま。
姉ちゃんが部屋のドアを開けた。
「……ミケ」
僕は振り返った。
姉ちゃんは、濡れた髪のまま立っていた。傘を持っていない。たぶん玄関に置いてきた。制服の肩がまた少し濡れている。また雨が降りはじめたんだ。
その目が、床の写真に落ちた。
僕は何もできなかった。
姉ちゃんは部屋に入り、写真を拾った。
怒られると思った。
机に乗るな。
勝手に見るな。
そう言われると思った。
でも姉ちゃんは、写真を見たまま黙っていた。
「これ」
小さく言った。
写真の端の小さい指。
姉ちゃんも、そこを見ていた。
「これ、誰の指だっけ」
僕は鳴けなかった。
姉ちゃんはベッドに座った。
写真を持ったまま、しばらく動かなかった。
「私、これ覚えてる」
姉ちゃんが言った。
「ミケに折り紙作った。全然猫にならなくて、怒って」
僕は机の下に座った。
「母さんが写真撮った。ミケがこっち見なくて、何回も呼んだ」
姉ちゃんは、写真の端に写った指を見ていた。
「で、悠真が横から手を出した」
僕は顔を上げた。
「たぶん」
姉ちゃんは、自分で言ってから少し迷った。
「いや、悠真まだ赤ちゃんだった? 分かんない」
分かんない。
でも、姉ちゃんは写真を握ったまま、僕を見た。
「でも、これ悠真の指な気がする」
僕は姉ちゃんを見返した。
姉ちゃんは笑わなかった。
「気がするだけだけど」
それでも、言った。
僕の指かもしれないもの。
僕が写真の中から全部消えていたわけではないかもしれないもの。
それは、折り紙の猫の横にあった。
姉ちゃんは写真を机の上に置いた。
黄色い折り紙も箱から出す。
「これ、まだ持ってたんだ」
自分で少し驚いたように言った。
「捨てたと思ってた」
それから、僕を見た。
「水野くんと話した」
急に言った。
僕は耳を動かした。
姉ちゃんは、濡れた前髪を指で払った。
「別れてない。でも、進路は合わせないってちゃんと話した」
僕は鳴いた。
「水野くん、分かったって言った。たぶん、本当に分かったかは分かんないけど」
姉ちゃんは少しだけ鼻で笑った。
「でも、今日はそれでいい」
僕は机の下から出た。
姉ちゃんの足元に行く。
「友達にも、先に言った。県外も受けるって。推薦の子が、じゃあ資料貸すよって言ってくれた」
姉ちゃんの声は、昨日より軽かった。
全部が解決したわけではない。
それは僕にも分かった。
でも、姉ちゃんの中で、止まっていたものが少し進んだように見えた。
姉ちゃんは、僕の頭を撫でた。
「ちゃんと返事したよ」
僕は鳴いた。
「そっちは?」
僕は姉ちゃんを見た。
そっち。
僕の返事。
陽太に鳴いた。
大地の紙に前足を乗せた。
母さんの手に前足を置いた。
父さんに抱かれた。
連絡帳を破らせなかった。
それで足りるのかは分からない。
僕は、姉ちゃんの足に前足を乗せた。
姉ちゃんはうなずいた。
「やってるか」
少し笑った。
「偉いじゃん」
僕は少しだけ顔をそらした。
褒められると、何をしていいか分からない。
姉ちゃんは写真をもう一度見た。
「これ、机に置いとく」
そう言って、僕の部屋へ向かった。
僕もついていく。
机の上には、黄色い恐竜と赤い首輪と、大地の紙と、座席表と、連絡帳。
姉ちゃんは、そこに写真と黄色い折り紙を置いた。
ミケに作った折り紙。
僕の指かもしれないものが写った写真。
机の上は、少しずつ増えていた。
僕を戻すためのものなのか。
僕がここにいたことを確かめるためのものなのか。
ミケの場所を集めているのか。
分からない。
でも、何もないよりよかった。
姉ちゃんは机の前に立ったまま言った。
「ここ、変な場所になってきたね」
僕は鳴いた。
姉ちゃんは「うん」と言った。
「でも、今はここでいい」
僕も、そう思った。
僕の机なのに、ミケのものがある。
姉ちゃんのものもある。
陽太のものも、大地のものも、母さんの書いた言葉もある。
僕だけの場所ではなくなっている。
でも、だから少しだけ、消えにくい気がした。
夜、父さんが警察に首輪とキーホルダーを見せに行った。
僕は家にいた。
姉ちゃんはリビングで資料を見ていた。母さんは隣で奨学金のページをスマホで調べていた。二人は何度か言い合いになりかけたけれど、昨日みたいにはならなかった。
「それは後でちゃんと計算する」
「だから今ざっくり見てるだけ」
「ざっくりで無理って言われるのが嫌なの」
「無理とは言ってない」
「顔が言ってる」
「顔まで管理できない」
そんな会話だった。
僕はソファの背もたれから二人を見ていた。
ミケの場所。
そこから見ると、母さんが母さんとしてだけではなく、困っている人に見えた。
姉ちゃんが姉ちゃんとしてだけではなく、行きたい場所を守ろうとしている人に見えた。
昨日までなら、二人が言い合っていると面倒くさいと思っただけだった。
今は、どちらにも言葉が足りないだけに見えた。
いや、足りないのは言葉だけではないのかもしれない。
お金。
時間。
経験。
見る力。
いろいろ足りない。
でも、二人とも席を立たなかった。
話をやめなかった。
それを見ているうちに、眠くなった。
ミケは、こういう夜を何度も見ていたのだと思った。
家族が少しずつ何かを言い、何かを言わず、同じ部屋にいて、違う場所を見ている夜。
僕は、ソファの背もたれで目を閉じた。
完全には眠らなかった。
玄関の鍵が開く音がした。
父さんが帰ってきた。
雨は止んでいたらしい。父さんの靴はあまり濡れていなかった。
「どうだった」
母さんが聞いた。
「確認するって。物は持ち帰ってきた」
父さんはそう言って、封筒から黄色い恐竜と赤い首輪を出した。
ちゃんと戻ってきた。
僕はソファの背もたれから降りて、机の方へ行こうとした。
父さんが言った。
「あと、もう一つ」
母さんと姉ちゃんが父さんを見た。
「駅前の防犯カメラ、確認するらしい」
姉ちゃんの手が止まった。
「映ってるかもってこと?」
「場所によっては」
母さんがスマホを握った。
父さんは続けた。
「もし映ってたら、明日連絡が来る」
映っていたら。
駅前の、僕に似た子。
黄色い恐竜を持っていたかもしれない子。
それが映像で見える。
僕は床の上で止まった。
写真に僕はいない。
でも、防犯カメラにはいるかもしれない。
もし映っていたら。
そこにいるのは誰だろう。
悠真か。
ミケか。
僕じゃない何かか。
姉ちゃんは、僕を見た。
「明日」
そう言った。
僕は鳴いた。
明日がまた来る。
戻るのか。
戻らないのか。
探されるのか。
見つかるのか。
分からない。
でも、明日が来ることだけは、もう怖いだけではなくなっていた。
その夜は、なかなか眠れなかった。
布団の上で丸くなっても、すぐに目が開いた。
耳が勝手に動く。
家の中の音を拾う。
母さんが洗面所で水を出す音。
父さんが階段を上がる音。
姉ちゃんがスマホを置く音。
雨のあと、外の道路を車が走る音。
全部、いつもより近かった。
明日、防犯カメラに映ったものが分かる。
そう思うと、体のどこにも落ち着く場所がなかった。
僕に似た子。
その言葉が、何度も頭の中に戻ってくる。
僕じゃないなら、誰なのか。
僕なら、ここにいる僕は何なのか。
ミケなら、外にいた三毛猫は何なのか。
考えようとするたびに、頭の奥がぼやける。
猫の体だからなのかもしれない。
それとも、考えない方がいいことだからなのかもしれない。
姉ちゃんは、僕の部屋の床で寝ていた。
昨日と同じように毛布を敷いて、スマホを枕元に置いている。今日も制服ではなく、ちゃんと寝る服に着替えていた。進路希望調査の控えなのか、学校でもらってきた資料なのか、何枚かの紙が鞄から少しはみ出している。
机の上には、黄色い恐竜。赤い首輪。大地の紙。座席表。折り紙。写真。連絡帳。
そこだけ、僕の部屋じゃないみたいだった。
小さい博物館みたいでもあったし、神社みたいでもあった。
でも、そんな大げさなものじゃない。
ただ、みんなが僕を見失わないために置いたものだった。
僕は机の上へ飛び乗った。
もう失敗しなかった。
自分でそれに気づいて、少し嫌になった。
黄色い恐竜の匂いをかぐ。
泥の匂いは少し薄くなっていた。プラスチックの匂い。姉ちゃんの手の匂い。雨の匂い。昔の匂い。
赤い首輪には、公園の土の匂いが残っている。
それから、知らない三毛猫の匂い。
でも、その奥に家の匂いもあった。
僕は赤い首輪の前で止まった。
昔、ミケがつけていたもの。
今の僕の首には、何もない。
ミケはいつから首輪をしなくなったんだろう。
思い出そうとした。
たぶん、かなり前だ。
赤い首輪がきつくなったからかもしれない。
ミケが嫌がったからかもしれない。
姉ちゃんが外したのかもしれない。
母さんが、もう家から出ないしと言ったのかもしれない。
いくつかの記憶が、どれも本当みたいに浮かんだ。
その中に、姉ちゃんの声があった。
「ミケ、苦しい?」
小さい姉ちゃんではない。
今より少し幼い姉ちゃん。小学生くらい。
赤い首輪に指を入れて、僕の首を触っている。
僕の首。
ミケの首。
そこが分からない。
僕は首輪から顔を離した。
そのとき、姉ちゃんが寝返りを打った。
「……ミケ」
寝ぼけた声。
僕は机の上から姉ちゃんを見た。
姉ちゃんは目を開けていなかった。
少し間があって、もう一度言った。
「悠真」
今度は、はっきり聞こえた。
僕は動けなかった。
姉ちゃんは寝たままだった。
夢の中で呼んだのかもしれない。
どっちを呼んだのか、自分でも分からないまま呼んだのかもしれない。
僕は、机から静かに降りた。
姉ちゃんの近くに行く。
毛布の端に座る。
姉ちゃんの手が外に出ていた。指先が少し冷えている。
僕は前足をそっと乗せた。
姉ちゃんは目を開けなかった。
でも、指が少しだけ僕の前足を包むみたいに動いた。
僕はそのまま、朝までそこにいた。
完全には眠れなかった。
でも、そこから動かなかった。
朝、父さんの電話で目が覚めた。
階段の下から、父さんの声が聞こえた。
「はい。……はい。分かりました。今日ですか」
僕は顔を上げた。
姉ちゃんも起きた。
一瞬で。
「電話?」
僕は鳴いた。
姉ちゃんは毛布を蹴るようにどかして、部屋を出た。
僕も追いかけた。
階段を下りると、父さんがリビングでスマホを耳に当てていた。母さんは台所の入口で立っている。朝ごはんの準備は途中で止まっていた。フライパンは火にかけられていない。食パンも袋のまま。
「はい。家にいます。……ええ。本人確認、ですか」
本人確認。
その言葉に、母さんの指が動いた。
姉ちゃんは階段の途中で止まった。
僕はその足元にいた。
父さんは言った。
「こちらに来ていただけるんですか」
来る。
警察の人が、映像を持ってくるのかもしれない。
僕は、階段の一段目で座った。
座っていないと、足が動きそうだった。
電話を切ると、父さんがこちらを見た。
「駅前の映像、確認できたって」
母さんが聞いた。
「悠真なの?」
父さんはすぐには答えなかった。
「分からないから、見てほしいって」
分からない。
その言葉で、まだ決まっていないことに少しだけ安心した。
でも、決まらないことが続くのも怖かった。
姉ちゃんが階段を下りてきた。
「いつ来るの」
「午前中」
「学校、遅れて行く」
母さんが言った。
「休んでも」
「遅れて行く」
姉ちゃんはそう言って、僕を見た。
「見る」
僕は鳴いた。
見たい。
見たくない。
どちらもあった。
でも、見なければいけない気がした。
そこに映っているのが何でも。
午前中は、やけに長かった。
母さんは何度もテーブルを拭いた。
父さんは同じ資料を何度も見ていた。
姉ちゃんは制服に着替えたあと、鞄を持たずにリビングにいた。
僕はソファの背もたれに上がったり、玄関へ行ったり、机の下に入ったりした。
落ち着かないのは、僕だけではなかった。
チャイムが鳴ったのは、十時を少し過ぎたころだった。
母さんが玄関へ向かう。
僕もついていった。
女の人と、別の男の人がいた。二人とも傘を持っていなかった。雨はもう上がっていたからだと思う。女の人は薄い灰色のファイルを持っていて、男の人は黒い鞄を持っていた。
「お時間いただきます」
女の人が言った。
母さんが頭を下げた。
リビングに通された二人は、テーブルの上に小さな端末を置いた。タブレットだった。黒い画面に、天井の光が映っている。
僕はテーブルの下にいた。
上がりたい。
でも、勝手に上がるわけにはいかなかった。
姉ちゃんが僕を見た。
「見る?」
僕は鳴いた。
姉ちゃんは、少しだけ迷ってから、僕を抱き上げた。
椅子に座って、自分の膝の上に僕を乗せる。
僕の目線が、テーブルの上に近くなった。
女の人がタブレットを操作した。
「昨日の朝、駅前の防犯カメラに映っていたものです」
もの。
人ではなく、ものと言った。
父さんが少し眉を寄せた。
画面が動き出す。
雨は降っていない。
でも、空は暗い。
駅前のロータリー。
パン屋の前。
人が何人か通っている。傘を持っている人、持っていない人。自転車を押す人。
時間が画面の隅に出ていた。
七時五十六分。
僕が家で目を覚ましたころより、少しあと。
画面の端に、小学生くらいの子が映った。
僕は息を止めた。
ランドセルはない。
傘もない。
半袖のTシャツに、短いズボン。
髪は少し寝ぐせみたいに跳ねている。
顔は、はっきり映っていない。
少しうつむいている。
でも、体の大きさ。歩き方。肩の感じ。
僕に似ていた。
母さんが口元を押さえた。
父さんは画面から目を離さなかった。
姉ちゃんの腕が、僕の体を少しだけ強く抱いた。
その子は、右手に何かを持っていた。
小さいもの。
画面では色が分かりにくい。
でも、黄色っぽく見えた。
黄色い恐竜。
僕は、机の上にあるものを思い出した。
画面の中の子は、パン屋の前を通り、商店街の方へ向かう。
そのとき、画面の手前をバスが通った。
大きな車体が、画面をふさいだ。
数秒。
バスが通り過ぎる。
子どもの姿は、消えていた。
代わりに、画面の端に三毛猫が映っていた。
小さい三毛猫ではない。
歩き方は静かで、しっぽを低くしている。
猫は、商店街の方へ走るでもなく、歩いていった。
母さんが小さく声を出した。
父さんが何か言いかけて、言えなかった。
姉ちゃんは何も言わなかった。
僕は、画面の中の猫を見ていた。
あの猫だ。
公園で首輪を置いていった猫。
そう思った。
でも、公園では雨に濡れていた。
この映像では濡れていない。
だから同じ猫なのかは分からない。
映像が止まる。
女の人が言った。
「映像上では、子どもが商店街に入ったところまでは確認できません。バスの影で見えなくなったあと、同じ方向へ猫が移動しています」
同じ方向。
母さんが言った。
「この子は、悠真ですか」
女の人はすぐには答えなかった。
「こちらでは断定できません。服装は、行方不明当日の服装と一致していません」
服装。
僕は、その子の服を思い出した。
半袖のTシャツ。短いズボン。
その朝、僕はパジャマだった。
外へ出るなら、そんな服では出ない。
学校へ行くなら、着替える。ランドセルを持つ。傘も持つ。靴も履く。
「ただ、顔立ちや背格好が似ているため、確認をお願いしました」
父さんが、画面を指さした。
「もう一度、見せてもらえますか」
映像が戻る。
また、駅前。
パン屋。
子ども。
黄色いもの。
バス。
三毛猫。
何度見ても、同じだった。
子どもが消えて、猫が出る。
そう見えた。
でも、バスの影で見えないだけかもしれない。子どもは別の方向へ走ったのかもしれない。猫はたまたま通っただけかもしれない。
全部、そうかもしれない。
女の人も、そういう顔をしていた。
説明できないことを説明しない顔。
姉ちゃんが口を開いた。
「この子」
声が少し乾いていた。
「手に持ってるもの、分かりますか」
男の人がタブレットを拡大した。
画面が荒くなる。
黄色いもの。
輪っかのような部分。
小さい形。
はっきりはしない。
でも、僕には恐竜に見えた。
姉ちゃんは、ポケットから黄色い恐竜を出した。
昨日から持っていたのかもしれない。
家に置いてきたと思っていた。
でも、姉ちゃんは持っていた。
「これに見えます」
女の人は、恐竜を見て、画面を見た。
「似ていますね」
似ていますね。
それだけだった。
姉ちゃんは恐竜を握った。
「商店街で拾いました」
「伺っています」
「でも、これは家にあったものです」
女の人は黙った。
父さんが言った。
「その件は、まだこちらでも整理できていなくて」
整理。
整理なんてできるのだろうか。
僕は姉ちゃんの膝の上で、画面から目を離せなかった。
画面の中の子ども。
僕に似ている。
でも、服が違う。
顔が見えない。
黄色いものを持っている。
バスが通る。
三毛猫が出る。
それを見ている僕は、三毛猫の体をしている。
僕は、どこにいるんだろう。
姉ちゃんが、僕の背中に手を置いた。
いつもの場所。
「ミケ」
小さく呼んだ。
それから、少し間を置いた。
「見た?」
僕は鳴かなかった。
見た。
でも、何を見たのか分からなかった。
母さんが泣きそうな声で聞いた。
「この子を探せばいいんですか」
女の人が答えた。
「はい。引き続き確認します。商店街周辺の映像も当たっています。ただ、現時点でその先は分かっていません」
父さんがうなずいた。
「お願いします」
母さんも頭を下げた。
警察の人たちが帰ったあと、リビングにはしばらく誰も動かない時間が残った。
タブレットはもうない。
でも、映像だけが、まだテーブルの上に残っているみたいだった。
子ども。
バス。
猫。
姉ちゃんは、僕を抱いたまま椅子に座っていた。
母さんはテーブルに手をついている。
父さんは窓の外を見ている。
僕は、姉ちゃんの膝の上から床を見た。
逃げたいと思った。
どこへかは分からない。
ソファの下。
机の下。
姉ちゃんの部屋。
玄関。
家の外。
どこへ行っても、あの映像がついてくる気がした。
「違う」
姉ちゃんが言った。
誰も何も言っていなかった。
でも、姉ちゃんは言った。
「違う」
母さんが顔を上げた。
「何が」
「分かんないけど」
姉ちゃんは、僕を抱く腕を少し緩めた。
「悠真が消えて猫が出てきたって決めるのは違う」
父さんが言った。
「誰も決めてない」
「でも、そう見えた」
母さんは何も言わなかった。
姉ちゃんは続けた。
「そう見えるだけで、そうだったことにしない」
その声は、昨日アルバムを見たときと似ていた。
写真にないだけで、いなかったことにしないで。
今度は、映像に映っただけで、そうだったことにしない。
僕は姉ちゃんを見上げた。
姉ちゃんは僕を見ていなかった。
テーブルの上の何もない場所を見ていた。
「今、ここにいるものも見ないと」
もの。
僕は、その言葉に少しだけ引っかかった。
でも、姉ちゃんはすぐに僕を見た。
「ごめん。ものじゃない」
そう言った。
僕は鳴いた。
いいよ、というより、分かった、に近かった。
母さんが椅子に座った。
「私、怖い」
初めて聞くような声だった。
「悠真を探したい。でも、ミケを見ると、悠真がいる気がする。でも、そんなこと思ったら、悠真を探すのをやめるみたいで怖い」
父さんが母さんの方を見た。
母さんは続けた。
「逆も怖い。悠真を探すって言うと、今ここにいるこの子を、ただのミケに戻すみたいで」
この子。
母さんは、そう言った。
僕は母さんを見た。
母さんは泣いていた。
「どっちも失くしたくない」
父さんは、しばらく黙っていた。
それから言った。
「どっちも、いることにするしかないんじゃないか」
父さんの声は、不器用だった。
「探すのはやめない。けど、この子を見ないのもやめる」
この子。
父さんも、そう言った。
姉ちゃんは、僕の背中を撫でた。
「それでいいと思う」
僕は、三人を見た。
母さん。父さん。姉ちゃん。
みんな、答えを持っていない顔をしていた。
でも、僕を見ていた。
ミケとして。
悠真として。
どちらか分からないものとして。
それが、昨日より少しだけ息ができた。
昼前、姉ちゃんは学校へ行った。
「遅刻するけど行く」
そう言って、鞄を持った。
母さんは止めなかった。
父さんも止めなかった。
姉ちゃんは玄関で靴を履きながら、僕に言った。
「映像のこと、帰ってからまた考える」
僕は鳴いた。
「でも、今は行く」
もう一度鳴いた。
姉ちゃんは、少しだけ笑った。
「ちゃんと返事するね」
僕は玄関の内側に座っていた。
姉ちゃんは、ドアを開ける前にポケットから黄色い恐竜を出した。
「これ、持ってくね」
僕は顔を上げた。
姉ちゃんは恐竜を鞄につけようとして、少し迷った。
それから、まだつけずに、ポケットへ戻した。
「まだ、しまっとく」
僕は鳴いた。
姉ちゃんはうなずいた。
「行ってきます」
ドアが開く。
外は曇っていた。
雨はもう降っていなかった。
姉ちゃんは外へ出た。
ドアが閉まる。
僕は玄関に残った。
でも、今度はすぐにリビングへ戻った。
家にいるために。
母さんが台所に立っていた。
父さんがテーブルで電話を待っていた。
僕の机には、赤い首輪と折り紙と写真がある。
学校には、僕の席がある。
駅前の映像には、僕に似た子と三毛猫がいる。
全部、ばらばらだった。
でも、ばらばらなまま、今日も続いていく。
僕はソファの背もたれに上がった。
ミケの場所。
そこから、家の中を見た。
母さんがこちらを見た。
「そこにいるの?」
僕は鳴いた。
母さんは、少しだけ笑った。
「うん。いて」
僕は前足をそろえて、リビングを見下ろした。
今は、そこにいることにした。
昼を過ぎても、警察からの連絡は来なかった。
父さんは、電話が鳴るたびに画面を見た。仕事の電話だったり、知らない番号ではない営業の電話だったり、母さんのスマホに来た学校からの連絡だったりした。
そのたびに、家の中が少しだけ止まる。
違うと分かると、また動き出す。
母さんは昼ごはんを作った。
作ったというより、出しただけだった。冷凍のうどんを温めて、つゆを入れた。父さんには卵を落とした。自分の分には何も入れなかった。
僕の前には、皿が二つ置かれた。
猫のごはん。
白いごはん。
母さんは、少し迷って、三つ目の皿を出した。
そこに、うどんを一本だけ短く切って乗せた。
「これは、だめだったら残して」
そう言った。
うどん。
僕は皿の前に座った。
猫のごはんの匂いが一番強い。
白いごはんは、昨日より少し冷たい匂いがする。
うどんは、つゆの匂いがした。
人間だったとき、僕はうどんが好きだった。
母さんが忙しい日の昼は、よくうどんだった。冷凍のやつで、たまごを入れると少し嬉しかった。七味は入れない。姉ちゃんは七味を入れて、母さんに「そんなかけなくても」と言われていた。
僕は、うどんに顔を近づけた。
つゆの匂いが鼻に入る。
少しだけ舌を出した。
しょっぱかった。
口の中がびっくりして、すぐ顔を引いた。
母さんが「あ」と言った。
「しょっぱいか」
僕は前足で顔をこすった。
母さんは皿を下げようとした。
僕は、うどんの端を少しだけ前足で押さえた。
下げてほしくない。
食べたいわけではない。
でも、そこに置いてほしかった。
母さんは僕を見た。
「置いとく?」
僕は鳴いた。
母さんは、うどんの皿をそのままにした。
父さんが、向かいの席からそれを見ていた。
「変な昼飯だな」
母さんが言った。
「変でいいの」
父さんは、うどんを少しすすった。
「そうだな」
短い返事だった。
でも、昨日までの父さんなら、そんなこと言わなかった気がした。変なものを変なまま置くことに、少しずつ慣れてきている。
僕は、猫のごはんを少し食べた。
そのあと、白いごはんを少し食べた。
うどんは、匂いだけかいだ。
食べられない。
でも、知っている。
そういうものが、この家には増えていくのかもしれない。
午後、母さんは学校へ電話をした。
僕はソファの背もたれにいた。
「はい。連絡帳は、まだこちらにあります。……いえ、今日は陽太くんが届けてくれて」
母さんの声は、昨日より落ち着いていた。
「はい。席替えのことも聞きました」
席替え。
僕は耳を動かした。
「……そうですか。大地くんが」
母さんは少し黙った。
「いえ、責めるつもりはありません。ただ、もし何か話したいことがあるなら、先生から無理のない形で」
大地のことだ。
母さんが、大地について先生と話している。
僕は背もたれの上で姿勢を変えた。
大地に何を聞くんだろう。
まとめを押しつけたこと。
僕が嫌だったこと。
大地が黙っていたこと。
ごめん、と紙に書いたこと。
大地は、たぶん泣かない。
でも、黙る。
昨日から黙っているらしい。
それを思うと、少しだけ変な気持ちになった。
嫌だった。
でも、大地が全部悪いわけではない。
僕は分かったと言った。
嫌だと言わなかった。
大地は、笑った。
それだけだった。
それだけのことが、僕がいなくなったあとで、急に大きくなっている。
母さんは電話を切った。
それから、僕を見た。
「大地くん、先生に話したって」
僕は母さんを見た。
「まとめを押しつけたの、気にしてるみたい」
僕は鳴かなかった。
母さんは少し迷ってから続けた。
「悠真が戻ったら、話すって」
戻ったら。
その言葉にも、少しずつ慣れてきている。
戻ったら、陽太が声をかける。
戻ったら、大地が話す。
戻ったら、姉ちゃんが写真を撮る。
戻ったら、母さんが怒る前に待つ。
戻ったら、父さんはたぶん、何か言うまで時間がかかる。
戻ったら、の先に、僕の場所が少しずつ作られていく。
でも、戻れなかったら。
そこから先は、まだ誰も言わない。
僕も考えないようにした。
夕方前、父さんは古いビデオのデータを探し始めた。
リビングの棚の一番下に、昔の外付けハードディスクがある。父さんが会社の資料でも探すみたいな顔で、コードをつなぎ、ノートパソコンを開いた。
「写真が変なら、動画ならどうだと思って」
父さんが言った。
母さんは、台所からこちらを見た。
「見るの?」
「見るだけ」
見るだけ。
その言葉は、最近あまり信用できない。
見るだけで、家の中の何かが変わる。
写真を見たら、僕がいなかった。
映像を見たら、僕に似た子がいて、そのあと三毛猫がいた。
それでも、見ないわけにはいかない。
僕はソファの背もたれから降りた。
父さんの横へ行く。
父さんは僕を見た。
「見るか」
僕は鳴いた。
父さんは、椅子を少し引いた。
僕はそこに上がった。
パソコンの画面は明るかった。フォルダがいくつも並んでいる。数字の名前。日付。父さんはその中から、古い日付のものを開いた。
最初に出たのは、姉ちゃんの運動会だった。
小さい姉ちゃんが走っている。
今よりずっと丸い顔。髪は二つに結ばれている。
母さんの声が入っていた。
「千夏、こっち!」
映像の中の姉ちゃんは、カメラに向かって手を振らなかった。走る方を見ていた。隣の子より少し遅くて、でも最後まで走っていた。
父さんが早送りする。
次は、家の中だった。
リビング。
ソファ。
ミケ。
小さい姉ちゃんが、ミケに向かって黄色い折り紙を差し出していた。
僕は息を止めた。
昨日、僕が見た記憶と同じだった。
「ミケ、どれがいい?」
映像の中の姉ちゃんが言う。
今より高い声。
母さんが笑う声がする。カメラを持っているのは母さんらしい。
ミケはソファの背もたれにいて、折り紙を見ている。
黄色い紙が選ばれる。
姉ちゃんが折り始める。
紙がぐちゃっとなる。
僕は画面を見たまま、動けなかった。
ここまでは、見た。
でも、次のところは知らなかった。
画面の端から、小さい手が出てきた。
赤ちゃんの手。
折り紙へ伸びる。
姉ちゃんが叫ぶ。
「だめ、悠真のじゃない!」
母さんが笑った。
「悠真、まだ分かんないよ」
悠真。
映像の中に、僕の名前があった。
でも、顔は映っていない。画面の端に、手だけが入っている。小さい手。指を開いたり閉じたりして、黄色い紙を触ろうとしている。
姉ちゃんが、その手を軽く押し戻す。
「これはミケの!」
ミケは、ソファの背もたれからその様子を見ている。
僕は画面の中のミケを見た。
ミケの目が、少しだけカメラではなく、画面の端の手の方を向いている。
僕の手。
たぶん。
僕の顔は映っていない。
でも、手がある。
声は出ていない。
でも、母さんが悠真と呼んでいる。
父さんが、映像を止めた。
何も言わなかった。
母さんは、台所から出てきていた。
手にふきんを持ったまま、画面を見ている。
「いた」
母さんが言った。
声が震えていた。
「いたね」
父さんが言った。
その声も、少し変だった。
僕は画面を見ていた。
いた。
僕はいた。
でも、ミケもいた。
同じ場所にいた。
画面の中で、小さい僕の手が黄色い折り紙へ伸びている。
ミケはそれを見ている。
姉ちゃんは、これはミケの、と言っている。
僕はそこにいた。
でも、その記憶を、僕はミケの位置から見ていた。
どうしてだろう。
僕の手としてそこにいたのに、僕はミケの見ていた景色を覚えている。
父さんが再生を再開した。
姉ちゃんがぐちゃぐちゃの黄色い折り紙を完成させる。
「できた」
それは猫には見えない。
母さんが「上手」と言う。
姉ちゃんは得意そうに、ミケの前に置く。
ミケは匂いをかいで、少しだけ前足で触る。
画面の端で、赤ちゃんの手がまた伸びる。
ミケが、その手の上に前足を置いた。
姉ちゃんが笑った。
「ミケ、だめってしてる!」
母さんも笑う。
僕は画面の中の前足を見た。
ミケの前足が、小さい僕の手の上にある。
今、僕が陽太や母さんや姉ちゃんにしているのと同じだった。
言葉がないとき、そこに置く。
それは、僕が昔からしていたことではなく、ミケが最初にしていたことなのかもしれない。
僕がミケのまねをしたのか。
ミケが僕に教えたのか。
僕が覚えていないだけなのか。
分からない。
でも、画面の中で、小さい僕の手は動かなかった。
ミケの前足の下で、じっとしていた。
母さんは泣いていた。
父さんは、映像を止めなかった。
姉ちゃんが帰ってきたのは、その映像の途中だった。
玄関のドアが開く音がして、階段ではなくリビングに足音が向かってくる。
「ただいま」
姉ちゃんの声。
母さんはふきんで目を拭いた。
父さんは映像を一時停止した。
「何見てるの」
姉ちゃんがリビングに入ってきた。
制服のまま。鞄を肩にかけている。今日は濡れていなかった。髪もちゃんとしている。顔は疲れていたけれど、昨日よりまっすぐだった。
父さんが言った。
「昔の動画」
姉ちゃんは画面を見た。
小さい姉ちゃん。
ソファのミケ。
画面の端の赤ちゃんの手。
姉ちゃんの顔が止まった。
「これ」
「覚えてる?」
母さんが聞いた。
姉ちゃんは画面に近づいた。
「折り紙のやつ」
僕は姉ちゃんを見た。
「写真だけじゃなかったんだ」
姉ちゃんが言った。
父さんは映像を少し戻して、再生した。
小さい姉ちゃんが「これはミケの!」と言う。
赤ちゃんの手が出る。
ミケが前足を置く。
今の姉ちゃんは、黙って見ていた。
映像の中の姉ちゃんは笑っている。
今の姉ちゃんは笑わなかった。
再生が終わっても、しばらく誰も話さなかった。
姉ちゃんが僕を見た。
「いたじゃん」
僕は鳴いた。
「ちゃんと」
もう一度、鳴いた。
姉ちゃんは床にしゃがんだ。
「よかった」
その一言は、小さかった。
でも、部屋の中で一番はっきり聞こえた。
よかった。
僕は、何がよかったのか分からないまま、姉ちゃんの方へ行った。
姉ちゃんの膝に前足を乗せる。
姉ちゃんは、その前足を見て、ゆっくり指を置いた。
「これ、ミケが先にやってたんだね」
僕は画面を見た。
ミケの前足。
僕の小さい手。
それから、今の僕の前足。
全部がつながっているようで、でも同じではない。
「悠真がミケになったのか、ミケが悠真みたいなのか、分かんないけど」
姉ちゃんは言った。
母さんが少しだけ息を止めた。
父さんも、何も言わなかった。
姉ちゃんは続けた。
「でも、どっちもこの家にいたんじゃん」
その言葉は、変だった。
でも、今の僕には、少しだけ分かる気がした。
どっちもいた。
僕も、ミケも。
一緒に。
同じ家に。
だから、どちらかが消えたら、もう片方だけで説明できなくなる。
僕は姉ちゃんの膝に頭を押しつけた。
姉ちゃんは僕を抱き上げなかった。
そのまま、膝の上に前足を置かせてくれた。
「学校どうだった」
母さんが聞いた。
姉ちゃんは少しだけ顔を上げた。
「進路希望、出した」
「うん」
「先生に資料もらった。奨学金のやつと、県外の大学の学費」
「うん」
「水野くんとは、昼休みに少し話した」
母さんが聞く顔になった。
姉ちゃんは少しだけ面倒くさそうにした。
「別れてないって」
「まだ何も言ってないでしょ」
「顔」
母さんは少し黙って、それから小さく笑った。
「ごめん」
「水野くん、昨日よりちゃんと聞いてた。たぶん」
「たぶん」
「うん。たぶん」
姉ちゃんは、僕の背中を少し撫でた。
「あと、友達にも県外受けるって言った。ひとり、めっちゃ普通に『じゃあ泊まり行くわ』って言ってきた」
母さんが驚いた顔をした。
「誰」
「美咲」
名前は聞いたことがある。
姉ちゃんの友達。たぶん、よく電話している子。笑い声が大きい。前に家に来たとき、ミケを見て「貫禄ある」と言った人。
「まだ受かってないのに」
姉ちゃんはそう言ったけれど、少し笑っていた。
「でも、なんか、言ってよかった」
母さんはうなずいた。
「そう」
「全部決まったわけじゃないけど」
「うん」
「でも、出した」
母さんは、今度はちゃんと姉ちゃんを見ていた。
「出したんだね」
姉ちゃんは少しだけ目をそらした。
「うん」
僕は、姉ちゃんの膝の近くにいた。
姉ちゃんは自分の行く場所を少しずつ決めている。
僕は、まだどこへ戻るのか分からない。
でも、姉ちゃんが進むのを見ても、置いていかれる感じは昨日より薄かった。
姉ちゃんが進むことと、僕が消えることは、同じではないのかもしれない。
その夜、机の上に新しいものが増えた。
父さんが、昔の動画から一場面を印刷した。
小さい姉ちゃん。
ソファのミケ。
画面の端の僕の手。
ミケの前足が、その上に置かれているところ。
少しぼやけている。
でも、分かる。
それを、姉ちゃんが写真の隣に置いた。
「これ、強いね」
姉ちゃんが言った。
母さんが「何が」と聞いた。
「証拠として」
父さんが苦笑いした。
「警察には出せない証拠だな」
「うち用」
姉ちゃんはそう言った。
うち用。
僕は机の上を見た。
黄色い恐竜。
赤い首輪。
大地の紙。
座席表。
連絡帳。
折り紙。
写真。
動画を印刷した紙。
どれも、外の誰かには説明しにくい。
でも、家の中では少しずつ意味がある。
うち用。
それでいいのかもしれないと思った。
全部を外に説明できなくても、家の中でだけ分かるものがある。
ミケの場所は、そういうものをずっと見てきた場所なのかもしれない。
その夜、僕はソファの背もたれではなく、自分のベッドで寝た。
姉ちゃんは床で寝る支度をしていたけれど、母さんが「今日は自分の部屋で寝なさい」と言った。
姉ちゃんは少しだけ迷った。
「でも」
「ミケは悠真の部屋にいるでしょ」
母さんが言った。
「あなたもちゃんと寝なさい」
姉ちゃんは僕を見た。
僕は鳴いた。
行っていいよ。
そう言ったつもりだった。
姉ちゃんは、少しだけ笑った。
「分かった」
その夜、姉ちゃんは自分の部屋で寝た。
僕は僕の部屋で、ひとりで寝た。
いや、ひとりではなかった。
机の上に、たくさんのものがあった。
ミケのもの。
僕のもの。
姉ちゃんのもの。
陽太のもの。
大地のもの。
母さんの字。
父さんが印刷した紙。
それらに見られながら、僕は布団の上で丸くなった。
目を閉じる前、机の上の印刷された紙を見た。
ミケの前足が、僕の小さい手の上にある。
それは、戻るための答えではなかった。
でも、僕がどこにもいなかったわけじゃないと、そこに置かれていた。
僕は、それを見ながら眠った。
第6章 変身願望
次の日の朝、僕は人間に戻っていなかった。
それを確かめるのに、前ほど時間はかからなかった。
目を開ける。
布団の端が大きい。
前足が見える。
しっぽが体の横にある。
耳が、廊下の音を先に拾う。
それだけで分かった。
僕はまだ、ミケの形をしていた。
でも、もう驚かなかった。
ぜんぜん驚かなかったことに、少し驚いた。
部屋は明るかった。カーテンの下から光が入っている。雨は止んでいた。道路を車が走る音がいつもよりはっきり聞こえる。どこかの家のドアが開く音もした。
学校へ行く時間が近い。
僕は布団の上で体を起こした。
机の上を見る。
黄色い恐竜。
赤い首輪。
大地の紙。
座席表。
連絡帳。
折り紙。
写真。
動画を印刷した紙。
そこに、僕が見つかっていないことと、僕がいたことが並んでいる。
不思議だった。
見つかっていないのに、いたことは増えていく。
僕はベッドから降りた。
床に足がつく。
もう失敗しない。
部屋のドアは少し開いていた。
廊下に出ると、リビングから母さんの声がした。
「悠真、起きてる?」
呼ばれた。
僕は廊下で止まった。
今のは、僕に言ったのか。
部屋の中に向かって言ったのか。
それとも、まだどこかにいる悠真に言ったのか。
分からない。
でも、僕は返事をした。
短く鳴いた。
下から足音がした。
母さんが階段の下に来る。
見上げる。
「あ、起きてた」
母さんはそう言った。
ミケとは言わなかった。
僕は階段を下りた。
一段ずつ。
もう怖くない。
母さんは下で待っていた。途中で手を出しそうになって、出さなかった。僕が最後の段まで下りると、少しだけ息を吐いた。
「上手になったね」
僕は少し嫌だった。
でも、母さんはすぐに言った。
「ごめん。そういうことじゃなくて」
僕は母さんを見た。
母さんは、自分でもどう言えばいいか分からない顔をしていた。
「できることが増えるのは、悪いことじゃないよね」
そう言った。
僕は答えられなかった。
できることが増える。
階段を下りられる。
椅子に上がれる。
ソファの背もたれで眠れる。
爪を出さずに、人の手へ前足を置ける。
猫のごはんも食べられる。
増えている。
でも、それは人間としてではない。
母さんは僕の前を歩いて、台所へ行った。
朝ごはんの匂いがした。
トースト。
目玉焼き。
コーヒー。
それから、猫のごはん。
台所の床には、皿が三つ並んでいた。
猫のごはん。
白いごはん。
昨日より薄くしたうどん。
母さんは、少し照れたように言った。
「一応、選べるようにした」
選べる。
僕は三つの皿を見た。
体は、猫のごはんへ向かう。
頭は、白いごはんを見ている。
うどんは、昨日より匂いが弱かった。
僕は、まず白いごはんを食べた。
少しだけ。
それから、猫のごはんを食べた。
最後に、うどんを舐めた。
昨日よりしょっぱくなかった。
母さんは、何も言わずに見ていた。
「悠真は、選ぶの遅かったよね」
母さんが言った。
「アイス買うときとか、ずっと迷ってた」
僕は顔を上げた。
「ミケは、迷わないの。嫌なら食べない。好きなら食べる」
母さんは、目玉焼きを皿に移しながら言った。
「だから今、ちょっと悠真っぽい」
僕は鳴いた。
それは、嬉しいのか嫌なのか分からなかった。
でも、母さんが僕を見て何かを決めつけるのではなく、迷いながら言っているのは分かった。
父さんがリビングに来た。
今日は会社に行く服ではなかった。昨日と同じ、家にいる服。髭が少し伸びている。
「おはよう」
僕に言った。
僕は鳴いた。
父さんは少しだけうなずいた。
それから、母さんに言った。
「警察から、今日も商店街周辺を確認するって」
「うん」
「駅前の子については、まだ分からない」
「うん」
父さんは、僕の皿を見た。
三つ並んでいるのを見て、少しだけ眉を動かした。
「増えてるな」
母さんが言った。
「選べるようにした」
父さんは何か言いかけて、やめた。
「いいと思う」
それだけ言った。
姉ちゃんが階段を下りてきた。
制服だった。髪はちゃんと結んでいる。昨日より少しだけ早い時間だった。
「おはよ」
母さんが言う。
「おはよう」
姉ちゃんはリビングへ来て、僕の皿を見た。
「ビュッフェじゃん」
僕は姉ちゃんを見た。
姉ちゃんは笑った。
「何、怒った?」
僕は鳴いた。
姉ちゃんは、少しだけ安心したみたいな顔をした。
「今日、学校行く」
母さんが「どうしたの」と言った。
「資料室行く。進路のやつ」
「分かった」
「水野くんとは、今日は別に会わない」
母さんは何も言わなかった。
姉ちゃんは父さんの方を見た。
「昨日の動画、スマホに送って」
父さんが顔を上げる。
「あれを?」
「うん」
「学校で見るのか?」
「ううん。持っておきたいだけ」
父さんは少し迷ったけれど、うなずいた。
「あとで送る」
姉ちゃんは「ありがと」と言った。
それから僕の前にしゃがんだ。
「今日は、陽太くん土曜だから来るって言ってたよね」
僕は鳴いた。
「私は学校行くから会えないけど」
姉ちゃんは、僕の額に指を置いた。
「ちゃんと返事して」
僕はもう一度鳴いた。
「あと」
姉ちゃんは少しだけ声を落とした。
「戻りたいか、考えた?」
僕は動けなかった。
戻りたいか。
昨日、玄関で靴を見ながら考えた。
答えは出ていない。
姉ちゃんは、僕の返事を待った。
僕は鳴かなかった。
姉ちゃんは、少しだけうなずいた。
「まだでいい」
そう言って立ち上がった。
「私も、全部まだだし」
鞄を持って、玄関へ向かう。
僕もついていった。
姉ちゃんは靴を履く。
僕のスニーカーは、陽太が結んだまま置かれている。
姉ちゃんは、その靴を見た。
「陽太くん、きれいに結ぶね」
僕は鳴いた。
「悠真より上手い」
僕は少し強めに鳴いた。
姉ちゃんが笑った。
「怒った」
少しだけいつもの朝みたいだった。
玄関のドアが開く。
外の光が入る。
雨は降っていない。
姉ちゃんは一度振り返った。
「行ってきます」
僕は鳴いた。
姉ちゃんは、ちゃんとそれを聞いてから出ていった。
ドアが閉まる。
僕は玄関に残った。
置いていかれた感じは、昨日よりさらに薄かった。
行ってきます、と言われた。
僕は返事をした。
それだけで、少しだけ朝になった。
陽太が来たのは、九時を少し過ぎたころだった。
土曜日だからランドセルはなかった。
パーカーに、ハーフパンツ。手にはコンビニの袋を持っている。
母さんが玄関を開けると、陽太は少し照れたように袋を持ち上げた。
「プリン買ってきました」
母さんが驚いた。
「プリン?」
「悠真、好きなんで」
僕は、上がり框のところから陽太を見た。
プリン。
好きだった。
三個入りの安いやつ。上にカラメルが入っていて、ふたを開けると少しこぼれる。姉ちゃんはあまり好きじゃない。母さんは「甘い」と言う。父さんは冷蔵庫にあると勝手に食べる。
陽太は袋からプリンを出した。
三個入り。
「食べられるか分かんないけど」
そう言ってから、僕を見た。
「猫ってプリンだめですか?」
母さんは少し困った顔をした。
「たぶん、あんまりよくないかな」
「ですよね」
陽太は笑った。
「じゃあ、冷蔵庫入れといてください。戻ってきたら食べるかもだし」
戻ってきたら。
プリンまで、戻った先に置かれた。
僕は陽太の足元へ行った。
陽太はしゃがんだ。
「おはよう」
僕は鳴いた。
陽太は少しだけ笑った。
「普通だな」
普通。
僕は陽太を見た。
「いや、ミケとして普通ってことじゃなくて」
陽太は自分で慌てた。
「なんか、返事が普通」
僕はもう一度鳴いた。
陽太は「ほら」と言った。
母さんがプリンを冷蔵庫に入れている。
父さんはリビングから顔を出して、「ありがとう」と言った。
陽太は「いえ」と返した。
今日は少しだけ、空気が軽かった。
悠真は見つかっていない。
僕は猫のまま。
駅前の映像も、外の三毛猫も、何も解決していない。
でも、プリンが冷蔵庫に入った。
それだけで、戻る場所に何かが増えた。
陽太は僕の部屋に行きたいと言った。
母さんはうなずいた。
僕もついていく。
階段を上がるのは、もう陽太に驚かれなかった。
陽太は僕が一段ずつ上がるのを見て、後ろからゆっくり歩いた。
「前より上手い」
僕は振り返って鳴いた。
「褒めてんの」
そう言われた。
褒められても、嫌だった。
僕の部屋に入ると、陽太は机の上を見た。
「増えてる」
姉ちゃんと同じことを言った。
黄色い恐竜。
赤い首輪。
大地の紙。
座席表。
連絡帳。
折り紙。
写真。
動画を印刷した紙。
陽太は、動画の印刷を見た。
「これ、悠真?」
僕は机の下に座った。
陽太は紙を持ち上げず、机に置いたまま覗き込んだ。
「手だけ?」
僕は鳴いた。
「でも、いるじゃん」
陽太は言った。
簡単に。
「手、あるし」
その言い方が、少しおかしかった。
昨日までなら、それで済む話ではないと思ったかもしれない。
でも陽太は、手があるならいるじゃん、という顔をしていた。
僕は少しだけ力が抜けた。
陽太は床に座った。
「大地、今日来たがってた」
僕は顔を上げた。
「でも、まだ無理って先生に止められたっぽい。いや、先生が止めたのか、母さんたちが止めたのか分かんないけど」
大地が来たがっていた。
「俺に、これ渡してって」
陽太はパーカーのポケットから、小さい紙を出した。
また大地の字だった。
今度は前より少し長かった。
まとめ押しつけてごめん。
笑ってごめん。
席替えのくじ、お前の分引いた。
窓側になった。
戻ってきたら、俺が給食当番かわる。
僕は、その紙を見た。
給食当番。
そういえば、来週は給食当番だった。
白衣を持って帰って洗うやつ。
めんどくさいと思っていた。
大地がかわる。
それが謝罪として大きいのか小さいのか分からなかった。
でも、大地らしいと思った。
僕は紙に前足を伸ばした。
陽太は、そっと机の上に置いた。
大地の紙の横。
まとめ、ごめん。
その隣に、新しい紙。
戻ってきたら、俺が給食当番かわる。
机の上に、大地の場所ができた。
陽太が言った。
「あいつ、給食当番嫌いなのに」
僕は鳴いた。
知ってる。
大地は、白衣の帽子が嫌いだった。髪がつぶれると言っていた。あと、牛乳を配るときに落としそうで嫌だとも言っていた。
「だから、結構ちゃんと謝ってると思う」
陽太はそう言った。
僕は、大地の紙を見ていた。
許すかどうかは、まだ分からない。
でも、戻ったら話せる気がした。
少なくとも、別に、で終わらせない気がした。
陽太は、机の端にあった連絡帳を見た。
「これ、まだ置いてあるんだ」
本日も欠席します。
本人はまだ見つかっていません。
ただ、家にはいます。
陽太は、その文章をしばらく見ていた。
「これ、いいじゃん」
僕は陽太を見た。
「変だけど」
陽太は言った。
「でも、変なまま本当っぽい」
昨日、姉ちゃんが言ったことと似ていた。
変なまま置いておく。
陽太も、少しずつそこへ来ている。
僕は机の下から出て、陽太の手に前足を置いた。
陽太は、今日は泣きそうにならなかった。
ただ、少し笑った。
「それ、もう分かったって」
僕は前足をどけなかった。
陽太は、仕方なさそうにそのままにした。
「戻ったらさ」
また、その言葉。
「給食当番、大地にやらせて、俺らで見てようぜ」
僕は鳴いた。
陽太が笑った。
「性格悪い?」
もう一度鳴いた。
少しだけ、笑ったみたいな声になった気がした。
猫の声だけど。
その日の午前中、陽太は一時間くらい家にいた。
ゲームの話も少しした。
学校の話もした。
大地の話もした。
席替えの話もした。
僕の机にプリンのレシートまで置いていった。
「これも置いとく」
陽太が言った。
「何で?」
母さんが聞いた。
「悠真が戻ったとき、プリン誰が買ったか分かるように」
母さんは少し笑った。
「レシートで?」
「証拠です」
うち用の証拠。
また一つ増えた。
陽太が帰るとき、玄関で僕のスニーカーを見た。
「まだほどけてない」
僕は靴を見た。
結び目は、そのままだった。
陽太は、満足そうにうなずいた。
「よし」
何がよしなのか分からない。
でも、僕も少しだけよしと思った。
陽太が帰ったあと、母さんは冷蔵庫からプリンを一つ出した。
「食べられないけど、見る?」
そう聞かれた。
僕は鳴いた。
母さんはふたを開けて、スプーンで少しだけすくった。
「匂いだけ」
僕の前に近づける。
甘い匂い。
牛乳と砂糖とカラメル。
舌を出したくなった。
でも、母さんはすぐに離した。
「だめ」
僕は少し不満で鳴いた。
母さんが笑った。
「悠真も、だめって言うとそういう顔した」
僕はプリンを見た。
食べられない。
でも、好きだった。
冷蔵庫に残っている。
戻ったら食べる。
戻ったら、がまた増えた。
その日の午後、父さんは仕事の電話を一本だけして、あとは家にいた。
母さんは洗濯をした。
僕の服も洗っていた。
僕が着ていた服。洗濯物の中で、それは普通に揺れていた。
僕は庭の見える窓辺に座っていた。
外へ出たい気持ちは、少しだけあった。
公園の三毛猫。
駅前の映像。
商店街のガチャガチャ。
それらが、家の外にある。
でも今日は、家にいることが必要な気がした。
夕方、姉ちゃんが帰ってきた。
「ただいま」
声だけで、昨日より軽いのが分かった。
僕は玄関へ行った。
姉ちゃんは僕を見ると、しゃがんだ。
「聞いたよ。陽太くん来たんでしょ?」
僕は鳴いた。
「大地の手紙も?」
もう一度鳴いた。
「給食当番かわるって?」
僕は鳴いた。
姉ちゃんは笑った。
「いいじゃん。やらせな」
僕は、少し強く鳴いた。
姉ちゃんは「何、その返事」と言いながら笑った。
その笑い方は、ここ数日で一番普通だった。
でも、完全に前と同じではなかった。
姉ちゃんは靴を脱いで、鞄から黄色い恐竜を出した。
今日は、ポケットではなく、鞄の内側に入れていたらしい。
「持ってった」
僕は顔を上げた。
「つけてないけど」
そう言って、恐竜を僕に見せた。
「でも、持ってった」
僕は鳴いた。
姉ちゃんは少しだけうなずいた。
「まだ、なくすと嫌だからつけない」
それは分かった。
姉ちゃんは、黄色い恐竜を僕の机へ戻しに行った。
僕もついていく。
机の上に、陽太のレシートと大地の二枚目の紙が増えている。
姉ちゃんは、それを見て言った。
「ほんとに変な場所」
それから、黄色い恐竜を置いた。
「でも、いい場所」
僕は机の下に座った。
姉ちゃんはベッドに座る。
「今日、美咲に動画の話した」
僕は耳を動かした。
「全部じゃないよ。弟の昔の動画見つかって、ちょっと安心したってだけ」
美咲。
泊まりに行くと言った友達。
「そしたら、写真より動画の方がいいじゃんって言われた」
姉ちゃんは少し笑った。
「動いてる方が、その人っぽいって」
動いている方。
僕は、画面の中の小さい手を思い出した。
動いていた。
折り紙に伸びて、ミケの前足に止められていた。
顔はなくても、動いていた。
「だからさ」
姉ちゃんは僕を見た。
「戻ったら、動画も撮る」
僕は鳴いた。
嫌だ。
姉ちゃんは笑った。
「嫌そう」
それから、少し真面目な顔になった。
「でも撮る。写真も撮る。声も撮る」
僕は声、という言葉に少しだけ引っかかった。
今の僕の声は猫の声だ。
人間に戻ったら、僕の声が戻るのか分からない。
戻らなかったら。
考えそうになって、やめた。
姉ちゃんは続けた。
「別に、証拠のためだけじゃなくて」
少し間があった。
「忘れないために」
忘れない。
写真に残っていなくても、映像に少ししかいなくても、みんなが覚えている。
でも、覚えているだけでは不安になる。
だから、置いておく。
机の上に。
スマホの中に。
家の中に。
僕は、姉ちゃんの足元へ行った。
前足を乗せる。
姉ちゃんは、もう驚かなかった。
「はいはい」
そう言って、僕の頭を撫でた。
「それも撮っとく?」
僕は鳴いた。
姉ちゃんはスマホを出した。
カメラを向ける。
僕は固まった。
撮られるのは嫌だった。
昔から嫌だったのかもしれない。
だから写真に写らなかったのかもしれない。
でも、今逃げたら、また残らない。
姉ちゃんは僕を見て、カメラを下げた。
「無理ならいい」
僕は、姉ちゃんを見た。
撮られたくない。
でも、残りたい。
二つがぶつかった。
僕は、姉ちゃんの足元から少し下がった。
逃げるのではなく、机の横に座った。
黄色い恐竜と赤い首輪が、画面に入る位置。
姉ちゃんは、僕を見る。
「いいの?」
僕は鳴いた。
姉ちゃんは、ゆっくりスマホを構えた。
僕は動かなかった。
カシャ、と小さな音がした。
その音で、体が少し跳ねた。
でも逃げなかった。
姉ちゃんは画面を見た。
「撮れた」
僕は動かないまま、姉ちゃんを見た。
「ミケみたい」
姉ちゃんが言った。
それから、すぐに付け足した。
「でも、悠真みたい」
僕は鳴いた。
どっちでもある写真。
それが、今の僕にはちょうどよかった。
姉ちゃんは、その写真を母さんと父さんにも見せた。
母さんは泣かなかった。
父さんは、少し長く見ていた。
「いい写真だな」
それだけ言った。
僕は、自分の写真を見なかった。
まだ見たくなかった。
でも、撮られたことは覚えていた。
机の横に座って、黄色い恐竜と赤い首輪の近くで、姉ちゃんに撮られたこと。
それは、写真に残っている。
逃げなかったことも。
その夜、僕は久しぶりに夢を見た。
夢の中で、僕は人間だった。
でも、足元には四つの影があった。
僕は学校の廊下を歩いている。
右手にはプリンを持っている。
左手には黄色い恐竜。
首には赤い首輪がかかっている。
おかしい。
でも、夢の中の僕はそれをおかしいと思っていない。
教室に入ると、僕の席がある。
窓側の、後ろから二番目。
大地が給食当番の白衣を着ている。
陽太が隣のクラスのドアから手を振っている。
先生が黒板に何かを書いている。
母さんが教室の後ろに立っている。
父さんが廊下にいる。
姉ちゃんは窓の外にいる。
みんなが同じ場所にいる。
僕は席に座ろうとする。
でも、椅子の上にはミケがいる。
三毛猫が、前足をそろえて座っている。
僕は言う。
「そこ、僕の席」
ミケは動かない。
僕はもう一度言う。
「そこ、僕の席だよ」
ミケが僕を見る。
その目は、僕の目だった。
そこで目が覚めた。
部屋は暗かった。
机の上のものが、うっすら見える。
黄色い恐竜。
赤い首輪。
写真。
大地の紙。
座席表。
連絡帳。
姉ちゃんが撮った写真のスマホは、ここにはない。
僕は布団の上で、しばらく動かなかった。
そこ、僕の席。
夢の中で言った言葉が、まだ口の奥に残っている気がした。
ミケは動かなかった。
なぜか、怒りはなかった。
僕の席にミケがいる。
ミケの場所に僕がいる。
どちらも本当みたいだった。
でも、同じ椅子にずっと二人は座れない。
それだけは分かった。
僕は、布団の上で体を起こした。
暗い部屋の中で、机の上の赤い首輪を見た。
夢の中で、僕の首にかかっていたもの。
戻るということは、ミケをどかすことなのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥が痛くなった。
ミケは、どこへ行くんだろう。
公園の三毛猫。
映像の中の猫。
ソファの背もたれのミケ。
ベビーベッドの横のミケ。
僕が戻ったら、それらはどうなるんだろう。
僕は、布団の上で小さく鳴いた。
誰も起きなかった。
その声は、部屋の中で消えた。
でも、完全に消えたわけではない気がした。
机の上の赤い首輪が、暗い中で少しだけ見えていた。
朝まで、赤い首輪のことを考えていた。
考えていたというより、目を閉じるたびに、首のまわりが重くなる気がした。
夢の中で僕の首にかかっていたもの。
公園の三毛猫がくわえてきたもの。
姉ちゃんの引き出しにあったもの。
ミケが昔つけていたもの。
それを僕がつけたら、どうなるんだろう。
ミケになるのか。
悠真に戻るのか。
それとも、どちらでもないものになるのか。
分からなかった。
分からないのに、首のあたりだけが、ずっと気になっていた。
僕は布団の上から降りた。
部屋はまだ薄暗い。机の上に置かれたものは、全部少し青く見えた。黄色い恐竜も、赤い首輪も、昼間より色が弱かった。
僕は机に飛び乗った。
音はほとんどしなかった。
赤い首輪の前に立つ。
近づくと、匂いがする。
古い布。
泥。
雨。
公園の草。
姉ちゃんの引き出し。
それから、ミケの匂い。
僕は鼻先で首輪に触れた。
冷たかった。
布なのに、少し冷たい。
前足で押してみる。
金具が小さく鳴った。
ちり、と。
その音で、背中の毛が少し立った。
首輪は軽い。
でも、夢の中では重かった。
僕は前足で首輪を引き寄せようとした。うまく動かない。爪を少し出すと、布に引っかかった。引っぱる。首輪が机の上を少し滑る。
また金具が鳴った。
その音で、姉ちゃんが動いた。
「……ミケ?」
床から声がした。
姉ちゃんは、昨日は自分の部屋で寝たはずだった。
でも、いつの間にか僕の部屋に来ていた。毛布をかぶって、床に横になっている。夜中に来たのかもしれない。僕は気づかなかった。
姉ちゃんは体を起こした。
髪が片方だけ顔にかかっていた。寝起きの顔で、僕と、机の上の首輪を見た。
「何してんの」
僕は首輪から前足を離した。
姉ちゃんは立ち上がり、机の前まで来た。
赤い首輪を見て、僕を見た。
「つけたいの?」
僕は答えられなかった。
つけたいわけじゃない。
でも、確かめたかった。
姉ちゃんは首輪を手に取った。
泥は拭いたはずなのに、まだ少し茶色が残っている。姉ちゃんの指が、金具のところをなぞった。
「これ、ミケがつけてたんだよね」
僕は姉ちゃんを見た。
姉ちゃんは自分で言ったあと、少し眉を寄せた。
「たぶん」
そう付け足した。
たぶん。
この家の中では、最近その言葉が増えた。
姉ちゃんは、首輪を僕の首元へ近づけた。
僕は動かなかった。
冷たい金具が毛に触れる。
その瞬間、体が後ろへ下がった。
自分で下がったというより、体が勝手に逃げた。
姉ちゃんはすぐに手を止めた。
「ごめん」
首輪を机に戻す。
僕は机の端まで下がっていた。
心臓が速い。
つけられそうになっただけで、息が詰まった。
姉ちゃんは、首輪を見たまま言った。
「やめとこ」
僕は何も言えなかった。
「今じゃない」
姉ちゃんは、そう言って首輪を元の場所へ置いた。
元の場所。
黄色い恐竜の隣。
大地の紙の手前。
動画を印刷した紙の横。
そこに戻ると、首輪はまた机の上のものになった。
僕の首にかかるものではなくなった。
少しだけ安心した。
でも、どこかで残念にも思った。
姉ちゃんは僕を見た。
「戻りたいっていうより、確かめたいんだよね」
僕は耳を動かした。
姉ちゃんは僕の返事を待っていた。
僕は小さく鳴いた。
たぶん、そう。
姉ちゃんは「そっか」と言った。
それから、床に落ちていた毛布を拾って、畳まずにベッドの端へ置いた。
「私もそうかも」
何を、と聞けない。
姉ちゃんは机の上の紙を見た。
進路希望はもう出した。
水野くんとも話した。
友達にも言った。
でも、姉ちゃんの机の上には、まだ資料が増えている。学費、奨学金、寮、交通費。母さんが昨日印刷した紙もある。赤い線が引かれて、数字がいくつも書かれていた。
「行きたいって決めたけど、ほんとに行きたいのかは、まだ確かめてる途中」
姉ちゃんはそう言った。
それから、僕の頭に手を置いた。
「だから、まだ首輪はなし」
僕は鳴いた。
姉ちゃんの手が、耳の後ろを少し撫でた。
「その代わり」
姉ちゃんは机の上から黄色い恐竜を取った。
僕が見上げる。
「これは、今日つける」
姉ちゃんはそう言った。
昨日までは、なくすと嫌だからつけないと言っていた。
今日は違うらしい。
姉ちゃんは鞄を持ってきて、ファスナーの横にある小さい輪に恐竜を通そうとした。
金具が少し固い。
爪で開こうとして、うまくいかない。
姉ちゃんは一度舌打ちしかけて、やめた。
「こういうの苦手」
僕は机の上から見ていた。
人間の手でも、できないことがある。
それが少しだけおかしかった。
姉ちゃんは何度かやって、ようやく恐竜を鞄につけた。
黄色い小さいものが、黒い鞄の横で揺れた。
昔、僕があげたもの。
家の机にあったもの。
商店街で拾ったもの。
駅前の映像の中で、僕に似た子が持っていたかもしれないもの。
それが、姉ちゃんの鞄についた。
姉ちゃんは鞄を持ち上げて、僕に見せた。
「どう?」
僕は鳴いた。
いい、という声になったかは分からない。
姉ちゃんは少し笑った。
「微妙そう」
違う。
僕はもう一度鳴いた。
姉ちゃんは、恐竜を指で弾いた。
小さく揺れる。
「持ってく」
その言葉が、部屋の中で止まった。
持ってく。
僕は机の上で、恐竜を見ていた。
僕の何かが、姉ちゃんと一緒に家を出る。
それを思った瞬間、少しだけ体が軽くなった。
全部ここにいなくてもいい。
全部僕の席に置かれていなくてもいい。
姉ちゃんの鞄について、学校へ行く。
水野くんの前にも行く。
友達の前にも行く。
進路資料の置かれた机にも行く。
僕が行けない場所へ行く。
僕は、机から降りた。
姉ちゃんの鞄の下へ行く。
恐竜は、僕の目の高さより少し上で揺れていた。僕は鼻先を近づけた。プラスチックの匂いと、姉ちゃんの手の匂いがした。
「ついてくる?」
姉ちゃんが聞いた。
僕は姉ちゃんを見た。
外へ出るのはまだ怖い。
駅前も、公園も、商店街も、匂いが多すぎた。
でも、恐竜だけなら行ける。
僕は鳴いた。
姉ちゃんは、少しだけ分かったような顔をした。
「じゃあ、これは連れてく」
そう言った。
僕を連れていくのではなく、これを連れていく。
それで、よかった。
朝ごはんのとき、母さんは鞄についた恐竜にすぐ気づいた。
「あ、それ」
姉ちゃんはトーストをかじりながら言った。
「つけた」
「なくさない?」
「なくさないようにする」
「落としたら」
「落としたら探す」
母さんは、それ以上言わなかった。
父さんは、恐竜を見てから僕を見た。
「いいんじゃないか」
姉ちゃんは少しだけ意外そうに父さんを見た。
「父さんがそういうこと言うの珍しい」
「そうか」
「うん」
「じゃあ、珍しいことを言った」
父さんはコーヒーを飲んだ。
姉ちゃんが少し笑った。
僕はテーブルの下で皿を見ていた。
今日も三つあった。
猫のごはん。
白いごはん。
うどん。
でも、昨日より迷わなかった。
猫のごはんを食べて、白いごはんを少し食べる。うどんは、匂いだけかいでやめた。
母さんは何も言わなかった。
選ぶのが遅いとか、猫っぽいとか、そういうことも言わなかった。
食べているところを、ただ見ていた。
姉ちゃんは今日も学校へ行った。
黄色い恐竜を鞄につけて。
玄関で靴を履くとき、僕はいつもの場所に座っていた。陽太が結んだ僕の靴紐は、まだほどけていない。
姉ちゃんはドアを開ける前に、恐竜を一度だけ見た。
「じゃあ、行ってくる」
僕は鳴いた。
今日の声は、昨日よりすぐ出た。
ドアが閉まる。
僕は玄関に残った。
でも、恐竜が一緒に外へ出た。
そのことが、ちゃんと分かった。
午前中、陽太は来なかった。
僕は、自分の部屋に行った。
机の上から黄色い恐竜がなくなっている。
その場所だけ、少し空いていた。
でも、空っぽではなかった。
恐竜があった場所には、小さい跡が残っている。泥が少しついていたところ。母さんが拭かなかったところ。
そこに赤い首輪がある。
折り紙がある。
写真がある。
大地の紙がある。
座席表がある。
連絡帳がある。
恐竜はない。
でも、なくなった感じはしなかった。
出かけている。
そう思った。
人間の僕が学校へ行っている間、机は空になる。
でも、僕が消えたわけではない。
黄色い恐竜も、姉ちゃんの鞄で出かけている。
そう思えば、少しだけよかった。
僕は机の下に座った。
赤い首輪を見上げる。
首輪は、まだ机の上にある。
それは出かけない。
つけない。
今は。
母さんが部屋に来た。
「ここにいた」
僕は鳴いた。
母さんは机の上を見た。
「恐竜、なくなると変ね」
僕は母さんを見る。
「でも、千夏が持っていったんだもんね」
そう言って、少し笑った。
「悠真が学校行ってるみたい」
その言葉で、僕は少しだけ動けなくなった。
母さんは、すぐに気づいたみたいだった。
「あ、ごめん」
僕は小さく鳴いた。
謝らなくていい。
たぶん、そう言いたかった。
母さんは机の横にしゃがんだ。
「私ね」
そう言ってから、少し迷った。
「昨日まで、戻ってきてほしいってことしか考えてなかった」
僕は母さんを見た。
「今もそう思ってる。戻ってきてほしい。人間の悠真で、玄関から入ってきてほしい」
母さんの声が少し震えた。
「でも、そればっかり言うと、今ここにいるあなたを、置いていくみたいで」
あなた。
母さんは、僕をそう呼んだ。
「だから、どう言えばいいのか分からない」
僕は、前足を出した。
母さんの膝に触れる。
母さんは、その前足に自分の手を重ねた。
「戻ってきてほしい」
母さんは言った。
「でも、今ここにいるのも、ちゃんと見る」
僕は鳴いた。
その返事は、自分でも少し弱かった。
母さんはそれを聞いて、うなずいた。
「うん」
何がうんなのか分からない。
でも、母さんは受け取った。
昼前に、電話が来た。
母さんが出た。
僕は机の下からリビングへ走った。
最近、電話の音に体がすぐ反応する。
母さんはリビングで立っていた。
「はい。……え、大地くんが?」
大地。
僕は足を止めた。
母さんは少しだけ僕を見た。
「今から、ですか。……はい、分かりました」
電話を切る。
母さんは僕に言った。
「大地くん、今日来たいって」
僕は動けなかった。
大地が来る。
陽太ではなく、大地。
まとめを押しつけた。
笑った。
ごめんと書いた。
給食当番をかわると言った。
席替えのくじを引いた。
その大地。
母さんは続けた。
「先生と一緒に来るって」
僕は鳴かなかった。
会いたいのか、会いたくないのか分からなかった。
陽太には会いたかった。
大地には、どうすればいいのか分からない。
母さんは僕の前にしゃがんだ。
「無理なら、部屋にいていい」
無理。
そう言われると、逃げたくなる。
でも、逃げたら、戻ったときにもっと言えなくなる気がした。
僕は、玄関の方を見た。
それから、机の上の大地の紙を思い出した。
まとめ、ごめん。
戻ってきたら、俺が給食当番かわる。
大地なりの言葉。
僕は小さく鳴いた。
母さんは、すぐには意味を決めなかった。
「会う?」
僕はもう一度鳴いた。
母さんはうなずいた。
「分かった」
午後、姉ちゃんが予定より早く帰ってきた。
「大地くん来るんでしょ」
玄関に入ってすぐ言った。
母さんが驚いた。
「知ってるの?」
「陽太くんから来た」
姉ちゃんはスマホを見せた。
陽太からのメッセージ。
大地、今日行くって。
たぶん緊張してる。
ミケに言っといて。
ミケに言っといて。
陽太は、もう普通にそう書いていた。
僕は姉ちゃんの足元に行った。
姉ちゃんの鞄についた黄色い恐竜が揺れている。
ちゃんと戻ってきた。
「ただいま」
姉ちゃんは僕に向かって言った。
僕は鳴いた。
「持って帰ってきたよ」
恐竜を指で弾く。
かち、と小さく鳴った。
「落とさなかった」
僕はもう一度鳴いた。
姉ちゃんは笑った。
「今日、友達にそれ何って聞かれた」
僕は耳を動かした。
「弟にもらったって言った」
弟。
「そしたら美咲が、じゃあ落とせないじゃんって」
姉ちゃんは少しだけ肩をすくめた。
「だから落とさなかった」
僕は鞄の恐竜を見ていた。
外へ行って、戻ってきた。
僕の何かが。
ちゃんと。
姉ちゃんはしゃがんだ。
「大地くん、会う?」
僕は姉ちゃんを見た。
また聞かれた。
逃げてもいいということなのかもしれない。
でも、何度聞かれても、答えは鳴き声しかない。
僕は鳴いた。
姉ちゃんはうなずいた。
「じゃあ、一緒にいる」
その言葉で、少しだけ息がしやすくなった。
大地は、先生と一緒に来た。
夕方の少し前。
チャイムが鳴ったとき、僕は玄関にいた。姉ちゃんも後ろにいた。母さんがドアを開ける。
先生が先に頭を下げた。
その後ろに、大地がいた。
紺色のTシャツに、黒いズボン。手には小さい紙袋を持っている。
大地は、いつもの大地より小さく見えた。
「こんにちは」
声が小さい。
母さんが「来てくれてありがとう」と言った。
大地はすぐには中へ入らなかった。
玄関の中を見た。
僕の靴。
廊下。
僕。
目が合った。
大地の顔が少しこわばった。
「ミケ」
そう言った。
僕は鳴いた。
大地は、びくっとした。
先生が大地の背中に軽く手を添えた。
「上がらせてもらおう」
大地はうなずいて、靴を脱いだ。
僕のスニーカーを見た。
陽太が結んだ紐を見る。
何か言いそうになって、言わなかった。
リビングではなく、僕の部屋へ行くことになった。
母さんが先生に聞いた。
「部屋で大丈夫ですか」
先生はうなずいた。
「本人が、その方が話しやすいかもしれないと言っていたので」
本人。
それは大地のことだった。
僕は階段を上がった。
姉ちゃんがすぐ後ろにいる。
大地は、ゆっくりついてきた。
僕の部屋に入ると、大地は机の上を見た。
黄色い恐竜は、姉ちゃんの鞄についたままだったから、机にはなかった。
でも他のものはある。
赤い首輪。
二枚の大地の紙。
座席表。
連絡帳。
折り紙。
写真。
動画を印刷した紙。
陽太のレシート。
大地は、自分の紙を見つけて、顔を赤くした。
「置いてある」
小さく言った。
姉ちゃんが言った。
「置いてる」
大地は姉ちゃんを見て、すぐ目をそらした。
「すみません」
「私に謝るやつじゃない」
姉ちゃんの声は冷たくなかった。
でも、軽くもなかった。
大地は、僕を見た。
僕は机の下に座っていた。
大地は床に正座した。
いつもの大地なら絶対にしない座り方だった。
先生は部屋の入口に立っていた。母さんは廊下にいた。姉ちゃんはベッドの端に座った。
大地は紙袋を両手で持っていた。
「これ」
僕に向けて差し出す。
中には、白衣袋が入っていた。
給食当番の白衣。
「来週の、俺が持って帰ってます」
大地は言った。
「洗うのも、俺がやる」
僕は白衣袋を見た。
そこまでしなくてもいい、と思った。
でも、前の僕なら、そこまでしろよと思ったかもしれない。
「あと」
大地は紙袋の横から、小さいノートを出した。
理科のノートだった。
「まとめのとこ、俺が書き直した」
僕はノートを見た。
僕が読んだまとめ。
押しつけられたところ。
「間違えてたとこあったし、俺が直した。先生にも見せた」
大地の声が少し揺れた。
「だから、戻ってきたら、ちゃんと伝える」
僕は大地を見た。
「ごめん」
大地は言った。
今度は、紙ではなかった。
声だった。
「めんどいとこ、押しつけた。笑った。ごめん」
部屋が静かになった。
僕は動けなかった。
大地が頭を下げる。
床に近いところで。
僕に。
猫の形をした僕に。
僕は、どうすればいいか分からなかった。
許すなら、鳴けばいいのか。
怒るなら、鳴けばいいのか。
どっちでも同じ声になる。
僕は机の下から出た。
大地の前まで行く。
大地は顔を上げた。
目が赤かった。
泣いてはいない。
でも、泣く手前みたいだった。
僕は、大地の手元に前足を置いた。
白衣袋ではなく、大地の手に。
大地の手は、少し汗ばんでいた。鉛筆の匂いと、石けんの匂いがした。
大地は息を止めた。
「ミケ」
その声は小さかった。
僕は前足をどけなかった。
許したのかは分からない。
でも、話は聞いた。
それだけは伝えたかった。
大地の目から、涙が一つ落ちた。
「ごめん」
もう一度言った。
僕は鳴いた。
大地は、その声を聞いて、顔をくしゃっとさせた。
姉ちゃんが何も言わずに見ていた。
先生も、母さんも、廊下で黙っていた。
大地は、手の甲で目をこすった。
「戻ってこいよ」
陽太と同じ言葉だった。
でも、声は全然違った。
陽太の「戻ってこい」は、隣に戻ってこいだった。
大地の「戻ってこい」は、謝らせろに近かった。
どちらも、僕の場所を作っている。
僕はもう一度鳴いた。
大地はうなずいた。
「給食当番、マジでやるから」
その言い方は、少しだけいつもの大地だった。
僕は、ほんの少しだけ声を出した。
笑ったような鳴き声になったかもしれない。
姉ちゃんが小さく笑った。
大地は帰るとき、玄関で僕のスニーカーを見た。
陽太が結んだ紐を見て、少し口を曲げた。
「陽太、こういうの上手いよな」
僕は鳴いた。
「俺、ほどけたら結ぶから」
僕はもう一度鳴いた。
大地は、初めて少し笑った。
「ほどける前提かよ」
そう言って、帰っていった。
先生は母さんに何か話していた。学校でのこと。今後のこと。警察との連携。いくつかの言葉が聞こえた。
僕は玄関の内側で、大地が外へ出るのを見ていた。
大地は一度振り返った。
「また来る」
そう言った。
僕は鳴いた。
ドアが閉まる。
玄関に、僕の靴が残る。
結ばれた紐。
ほどけたら、大地が結ぶと言った。
ほどける前提かよ。
その言葉が、少しだけ部屋の中に残っていた。
僕は、靴の前に座った。
戻る場所が、また一つ増えた。
陽太が声をかける場所。
大地が謝る場所。
母さんが待つ場所。
父さんが見つけようとする場所。
姉ちゃんが写真を撮る場所。
ミケの場所も、そこにある。
ソファの背もたれ。
姉ちゃんの部屋。
僕の布団。
公園のフェンスの外。
ベビーベッドの横。
どちらも、家の中にある。
同じ椅子にずっと二人は座れない。
でも、席は一つだけではないのかもしれない。
そう思った。
その夜、姉ちゃんは鞄から黄色い恐竜を外さなかった。
机の上に戻さず、鞄につけたままにした。
「明日も持ってく」
そう言った。
僕は鳴いた。
その声は、嫌じゃなかった。
黄色い恐竜が、姉ちゃんの鞄で小さく揺れた。
僕はそれを見ながら、布団の上で丸くなった。
戻ることは、全部を元の場所へ戻すことではないのかもしれない。
少しだけ、そう思った。
次の日、警察から新しい連絡はなかった。
駅前の映像に映っていた子どもも、商店街の三毛猫も、それ以上は見つからなかった。近くの防犯カメラには、バスのあとの道が少しだけ映っていたらしい。でも、そこには誰も映っていなかった。
子どもも。
猫も。
父さんがその話を聞いて、しばらく黙っていた。
母さんは「そうですか」と言って電話を切った。
姉ちゃんは学校へ行っていた。
僕はソファの背もたれにいた。
ミケの場所。
そこから見るリビングには、前よりものが少し増えていた。テーブルの端に警察からの紙。棚の上に戻されたアルバム。冷蔵庫には、陽太が買ってきたプリン。玄関には、結ばれたままの僕の靴。
僕の部屋の机には、もっとたくさんある。
黄色い恐竜は、今は姉ちゃんの鞄についている。
だから机の上にはない。
その代わり、赤い首輪がある。
僕は、あれを見るたびに、首のあたりが少し重くなった。
昼過ぎ、母さんが僕の部屋に来た。
僕は机の下にいた。
母さんは、机の上のものを一つずつ見た。触らない。位置も変えない。ただ見る。
「ここ、悠真の机なのにね」
母さんが言った。
僕は机の下から母さんを見上げた。
「いろんなものが置いてある」
僕は鳴いた。
母さんは、少しだけ笑った。
「片づけないよ」
そう言ってから、赤い首輪を見た。
「これだけ、どうする?」
僕は答えられなかった。
母さんも、すぐには何もしなかった。
「ミケのものだもんね」
その言い方は、前より慎重だった。
「でも、今は悠真の机にある」
僕は机の下から出た。
赤い首輪の真下まで行く。
見上げる。
首輪は机の端にあって、少しだけ影になっていた。
母さんが聞いた。
「ここに置いとく?」
僕は鳴かなかった。
分からない。
置いておけば、ミケの場所が僕の机に混ざる。
でも、僕の机に置いたままだと、ミケのものを僕が取っているみたいにも見える。
僕は、机の上には上がらなかった。
代わりに、部屋を出た。
母さんが後ろからついてきた。
階段を降りる。リビングに入る。ソファの前で止まる。
ソファの背もたれを見る。
ミケがいつもいた場所。
僕が最近、よくいる場所。
そこに置けばいいと思った。
でも、自分では置けない。
僕はソファの背もたれに飛び乗って、母さんを見た。
母さんは、少し遅れて分かったみたいだった。
「ここ?」
僕は鳴いた。
母さんはもう一度二階へ上がった。
赤い首輪を持って戻ってくる。
それを、ソファの背もたれの端に置いた。
ただ置くと落ちそうだったから、母さんは少し考えて、背もたれの後ろにある小さい棚の上に置いた。そこならリビングが見える。台所も見える。玄関の方も少し見える。
ミケの場所から見えるものが、だいたい見える。
「ここでいい?」
僕は、首輪の横に座った。
赤い首輪は、僕の首にはかかっていない。
でも、家の中にある。
ミケの場所にある。
僕は鳴いた。
母さんは「分かった」と言った。
それから、少し離れてリビングを見た。
「なんか、いるみたい」
誰が、とは言わなかった。
ミケかもしれない。
悠真かもしれない。
どちらでもないかもしれない。
僕は、首輪の横で前足をそろえた。
そのとき、初めて少しだけ分かった。
戻ることは、ミケの場所をなくすことじゃなくていい。
僕の机に全部集めなくてもいい。
僕の席に全部戻さなくてもいい。
ミケのものは、ミケの場所にあっていい。
僕が戻ったとしても。
その日の夕方、姉ちゃんが帰ってきた。
玄関のドアが開く音がして、鞄の金具が鳴った。
黄色い恐竜の音だった。
僕はリビングから玄関へ走った。
姉ちゃんは、僕を見ると鞄を少し持ち上げた。
「落としてない」
僕は鳴いた。
僕はもう一度鳴いた。
姉ちゃんは少し笑った。
「言われなくても分かってるし」
リビングへ入った姉ちゃんは、ソファの後ろの棚に置かれた赤い首輪に気づいた。
足が止まる。
「移したんだ」
母さんが台所から言った。
「うん。ここがいいって」
姉ちゃんは僕を見た。
「ミケが?」
母さんは少し黙ってから言った。
「この子が」
姉ちゃんは、その言い方に何かを受け取ったようだった。
「そっか」
それだけ言って、首輪の前にしゃがんだ。
赤い首輪に触れないまま、少しだけ頭を下げるように見た。
「ここなら見てる感じするね」
僕は姉ちゃんの横に座った。
「ミケの場所だし」
僕は鳴いた。
姉ちゃんは、僕の頭を撫でた。
「悠真の机は、悠真の場所に戻していけばいいか」
その言葉で、胸の奥が少し動いた。
戻していく。
いきなり全部ではなくて。
少しずつ。
姉ちゃんは、鞄についた黄色い恐竜を指で弾いた。
「これは、しばらく私が持ってく」
僕は鳴いた。
「いい?」
もう一度、鳴いた。
姉ちゃんはうなずいた。
「じゃあ借りる」
借りる。
持っていく、ではなく。
借りる。
それなら、いつか返せる。
返さなくても、借りていると分かっていれば、僕のものは消えない。
夜、陽太からメッセージが来た。
姉ちゃんが読んでくれた。
大地、ちゃんと給食当番してた。
白衣の帽子かぶって、めっちゃ嫌そうだった。
戻ってきたら見せたい。
僕は鳴いた。
姉ちゃんは笑った。
「見たいね」
見たい。
大地が嫌そうに白衣の帽子をかぶっているところ。
陽太がそれを見て笑っているところ。
僕の席にプリントが置かれているところ。
先生が僕の名前を呼ぶところ。
戻ったら見たいものが増えている。
戻るのは怖い。
でも、戻ったら見たいものがある。
その二つは、同時にあった。
寝る前、姉ちゃんは僕の部屋へ来た。
今日は床に寝るためではなかった。
机の上を少し片づけるためだった。
「全部は動かさない」
そう言って、姉ちゃんは大地の紙を二枚重ねた。座席表をその横に置いた。陽太のレシートは、プリントの上に置いた。折り紙と写真は、透明な袋に入れた。
連絡帳は、開いたままだった。
本日も欠席します。
本人はまだ見つかっていません。
ただ、家にはいます。
姉ちゃんはその文字を見て言った。
「これ、そろそろ次のページに行きたいね」
僕は机の下から見上げた。
次のページ。
姉ちゃんは、勝手に書かなかった。
ペンを持って、僕を見た。
「書いていい?」
僕は鳴いた。
姉ちゃんは、次のページを開いた。
そして短く書いた。
家にいます。
戻るかどうか、考えています。
僕は、その文字を見た。
変な連絡帳だった。
学校には出せない。
先生にも見せられない。
でも、僕には分かった。
今の僕に、一番近い言葉だった。
家にいます。
戻るかどうか、考えています。
姉ちゃんはペンを置いた。
「勝手に書いたけど」
僕は、前足を連絡帳の端に乗せた。
姉ちゃんはそれを見て、少しだけ笑った。
「承認?」
僕は鳴いた。
意味はよくわからなかったけど、たぶん間違ってなかった。
姉ちゃんは連絡帳を閉じなかった。
開いたまま、机の真ん中に置いた。
その夜、僕は布団の上で丸くならなかった。
しばらく、前足を伸ばして座っていた。
人間みたいに座ることはできない。
でも、猫みたいに完全に丸くなることも、少し違う気がした。
机の上には、次のページが開いた連絡帳がある。
リビングには、赤い首輪がある。
玄関には、結ばれた靴がある。
姉ちゃんの鞄には、黄色い恐竜がある。
僕は、全部を思い浮かべた。
戻るということは、どれか一つを選ぶことではないのかもしれない。
僕の席に戻る。
ミケの場所を残す。
姉ちゃんの鞄に恐竜を貸す。
陽太と大地のいる教室へ行く。
母さんと父さんに見てもらう。
全部を、少しずつ置き直すことなのかもしれない。
そう思ったら、首のあたりの重さが少しだけ消えた。
赤い首輪は、もう僕の首にはなかった。
リビングで、この家を見ている。
僕は目を閉じた。
その夜は、夢を見なかった。
第7章 あの子の場所
朝、目が覚めても、やっぱり僕はまだ猫だった。
けれど、その朝は、前の日までと少し違った。
手じゃない、と確かめる前に、もう分かっていた。
布団の重さも、床までの高さも、しっぽの場所も、耳が拾う階段の音も、全部、知っているものになっていた。
それが嫌ではなかった。
嫌じゃないことが、少しだけ怖かった。
部屋の机には、連絡帳が開いたまま置かれている。
家にいます。
戻るかどうか、考えています。
姉ちゃんの字。
その横に、大地の紙と、座席表と、動画を印刷した紙がある。黄色い恐竜はない。姉ちゃんの鞄について、今日も外へ行く。
赤い首輪もない。
リビングの、ソファの後ろの棚にある。
僕はベッドから降りた。
階段を下りると、母さんが台所にいた。父さんはテーブルで新聞を開いていたけれど、読んではいなかった。新聞の端を指で押さえて、何度も同じところを見ている。
「おはよう」
母さんが言った。
ミケとも、悠真とも言わなかった。
僕は鳴いた。
母さんは皿を三つ出した。
猫のごはん。
白いごはん。
うどん。
それから、少し迷って、冷蔵庫を開けた。
「プリン、見る?」
僕は顔を上げた。
陽太が買ってきたプリン。三個入りのうち、一つは母さんが開けて匂いだけかがせてくれた。残りは冷蔵庫にある。
母さんは小さく笑った。
「食べるのは、戻ってからね」
戻ってから。
その言葉が、今日は前より遠くなかった。
僕は鳴いた。
母さんはプリンを冷蔵庫から出さず、扉を閉めた。
「うん。取っておく」
朝ごはんを少しずつ食べた。
猫のごはんを食べる。
白いごはんを食べる。
うどんは、今日は食べなかった。
父さんがそれを見て言った。
「選ぶの、早くなったな」
母さんが父さんを見た。
父さんは少し慌てて言い直した。
「いや、悪い意味じゃなくて」
僕は鳴いた。
父さんは、僕の声を聞いて少しだけ笑った。
「分かった」
分かっていないかもしれない。
でも、分かろうとしているのは分かった。
姉ちゃんは、いつもより早く下りてきた。
制服を着て、髪を結んで、鞄を持っていた。鞄の横で、黄色い恐竜が揺れている。そこにあるのが自然に見えた。
「おはよ」
僕は鳴いた。
姉ちゃんは、僕の前にしゃがんだ。
「今日も、学校終わったら資料室寄ってくる。美咲も一緒」
僕はもう一度鳴いた。
「あと、水野くんとはまた昼に話す。ちゃんと」
もう一度、鳴いた。
姉ちゃんは少し笑った。
「返事係じゃん」
そう言ってから、僕の頭を撫でた。
「悠真」
名前で呼ばれた。
僕は、逃げなかった。
姉ちゃんも、言ってから逃げなかった。
そのまま、僕を見ていた。
「戻りたい?」
聞かれた。
前にも聞かれた。
そのときは答えられなかった。
今日も、答えは言葉にはならない。
でも、少し違った。
僕は玄関の方を見た。
陽太が結んだ靴がある。
大地が、ほどけたら結ぶと言った靴。
それからリビングの方を見た。
赤い首輪がある。
ミケの場所に。
最後に、姉ちゃんの鞄を見た。
黄色い恐竜がある。
僕が貸したもの。
僕は、小さく鳴いた。
姉ちゃんはそれを聞いて、少しだけうなずいた。
「そっか」
何がそっかなのか、僕には分からなかった。
でも、姉ちゃんは分かったことにしなかった。
「じゃあ、帰ってきたらまた聞く」
そう言って立ち上がった。
玄関で靴を履くとき、姉ちゃんは鞄の恐竜を一度だけ触った。
「借りてくね」
僕は鳴いた。
「行ってきます」
ドアが開く。
朝の光が廊下に入る。
僕は外へ出なかった。
姉ちゃんが出ていく。
黄色い恐竜も一緒に出ていく。
ドアが閉まる。
僕は玄関に残った。
でも、今日はそのままではいなかった。
僕は、自分の靴の前へ行った。
スニーカーの紐は、まだ結ばれている。
右足の方。
陽太が結んだ結び目。
僕は、その結び目に前足を乗せた。
靴は動かなかった。
履けない。
でも、そこにある。
僕は靴の前に座って、しばらくそのままでいた。
母さんが後ろから来た。
「そこ、好きになったね」
僕は鳴いた。
好きとは少し違う。
でも、ここにいると、戻ることを考えられる。
母さんは僕の横にしゃがんだ。
「今日、学校に連絡するね」
僕は母さんを見た。
「連絡帳は出せないけど。先生には、少しずつ話す。変に聞こえることは言えないけど、悠真のことを、前よりちゃんと見てるってことは言う」
母さんは、靴紐を見た。
「戻ってきたら、学校の話、聞く」
僕は鳴かなかった。
母さんは続けた。
「別にって言われても、もう一回聞く」
僕は少しだけ顔を上げた。
母さんは笑わなかった。
「嫌がられても、聞く」
それは少し嫌だった。
でも、少しだけ安心した。
僕は小さく鳴いた。
母さんは「うん」と言った。
そのあと、陽太が来た。
学校に行く前だった。
ランドセルを背負って、急いでいる顔で玄関に立っていた。
「時間ないから、ちょっとだけ」
母さんが玄関を開けると、陽太はすぐに僕を見た。
「ミケ」
僕は鳴いた。
「プリン、まだある?」
母さんが「あるよ」と答えた。
陽太は少し安心した顔をした。
「戻ってきたら、食べるから」
それから、僕の靴を見た。
紐は結ばれたまま。
「よし」
陽太は言った。
僕は鳴いた。
「何だよ」
陽太は少し笑った。
「戻ってきたら、学校来いよ。今日、席、まだ空いてるから」
僕は陽太を見た。
「先生、机の上にプリント置いてる。大地が毎朝、曲がってないか見てる」
大地。
「めっちゃ真面目にやってるから、ちょっと面白い」
僕は少しだけ鳴いた。
陽太はその声を聞いて、ちゃんと笑った。
「今の、笑ったろ」
笑ったのかもしれない。
猫の声だったけど。
陽太は、僕の前にしゃがんだ。
「戻りたくなったら、戻ってこいよ」
僕は動かなかった。
陽太は続けた。
「戻りたくないなら……」
そこで止まった。
そんなこと、言っていいのか迷った顔だった。
「いや、戻ってこい」
言い直した。
「でも、怒んないから」
僕は陽太を見た。
「たぶん、怒るけど。最初だけ」
その言い方が陽太らしくて、僕は鳴いた。
陽太は僕の頭を軽く撫でた。
「じゃあ行く」
玄関を出る前、陽太はもう一度靴紐を見た。
ほどけてない。
それだけ確認して、学校へ行った。
昼前に、大地からもメッセージが来た。
今度は陽太経由ではなく、先生が母さんへ送ってくれたらしい。母さんが僕に読んだ。
給食当番、本当にやってます。
白衣も持って帰ります。
戻ってきたら、文句言われてもずっとやります。
母さんは読みながら、少し笑った。
「文句言われても、だって」
僕は鳴いた。
文句は言うと思う。
でも、言いながら見ていたい。
大地が白衣の帽子を嫌そうにかぶっているところ。
父さんは午前中、会社に少しだけ連絡したあと、玄関の靴箱を整理していた。
僕の靴は動かさなかった。
それどころか、靴箱の上に小さい布を敷いて、そこに靴を置き直した。
「何してるの」
母さんが聞いた。
「踏まないように」
父さんが答えた。
「あと、見えるように」
僕は廊下からそれを見ていた。
僕の靴は、玄関の端にあったときより、少しだけ特別な場所に置かれた。
神社みたいにするのは嫌だった。
でも、隠されるよりずっとよかった。
父さんは僕を見た。
「履くとき、ここから下ろせばいい」
僕は鳴いた。
父さんは、少しうなずいた。
午後、母さんは連絡帳を開いた。
僕の机の前に座って、昨日のページを見て、それから次のページを開いた。
姉ちゃんが書いた文字。
家にいます。
戻るかどうか、考えています。
母さんはその下に、少し迷いながら書いた。
待っています。
でも、急がせません。
僕は机の下から、それを見た。
母さんの字だった。
姉ちゃんの字の下に、母さんの字。
母さんはペンを置いて、僕を見た。
「いい?」
僕は鳴いた。
いい。
たぶん。
夕方、姉ちゃんが帰ってきた。
玄関のドアが開いて、黄色い恐竜の音がした。
僕は走った。
姉ちゃんは鞄を持ち上げて見せた。
「落としてない」
僕は鳴いた。
「今日、美咲に写真撮られた」
姉ちゃんは靴を脱ぎながら言った。
「この恐竜」
僕は耳を動かした。
「借り物なら返さなきゃねって」
姉ちゃんは僕を見た。
「返す?」
僕は答えられなかった。
返してほしい気もする。
でも、まだ持っていてほしい気もする。
姉ちゃんは笑った。
「まだ借りとく」
僕は鳴いた。
それでよかった。
リビングで、姉ちゃんは進路資料をテーブルに広げた。
母さんと父さんも座った。
僕はソファの背もたれに上がった。赤い首輪の近く。ミケの場所。
姉ちゃんは、県外の大学の資料を一つ出した。
「ここ、受ける」
母さんが資料を見る。
父さんも見る。
「受かったら、家出ることになる」
姉ちゃんが言った。
母さんの指が止まった。
でも、すぐに動いた。
「寮?」
「寮もある。アパートもある。最初は寮がいいかもって先生に言われた」
父さんが学費のページを見る。
「奨学金も調べる」
「うん」
「バイトは最初から入れすぎない方がいい」
「分かってる」
その分かってるは、前より柔らかかった。
母さんは資料を見たまま言った。
「寂しくなるね」
姉ちゃんは少しだけ驚いた顔をした。
お金の話ではなかったから。
母さんは続けた。
「でも、それは私の話だから」
姉ちゃんは何も言わなかった。
父さんも資料を見たまま、少しだけうなずいた。
僕はソファの背もたれから三人を見ていた。
ミケの場所。
家族が、自分の場所の話をしている。
姉ちゃんが出ていく場所。
母さんが待つ場所。
父さんが考える場所。
僕が戻るかもしれない場所。
ミケが見ている場所。
全部が、同じリビングにあった。
話し合いが終わったあと、姉ちゃんは僕の部屋に来た。
僕もついていった。
机の上の連絡帳に、母さんの字が増えていた。
姉ちゃんはそれを読んだ。
「母さん、書いたんだ」
僕は鳴いた。
姉ちゃんはペンを持った。
その下に、短く書いた。
帰ってきたら、写真を撮る。
嫌がっても撮る。
僕は強めに鳴いた。
姉ちゃんは笑った。
「そこは決定」
それから、少し考えて、もう一行足した。
でも、嫌だったら一枚だけにする。
僕はもう一度鳴いた。
姉ちゃんは「はいはい」と言った。
夜、父さんも連絡帳を見た。
しばらく黙っていた。
それから、ペンを持った。
父さんの字は、少し硬かった。
靴は、玄関に置いてあります。
それだけだった。
でも、その一行がいちばん父さんらしかった。
姉ちゃんが横から言った。
「父さん、それだけ?」
父さんは少し困った顔をした。
「これ以上書くと変になる」
姉ちゃんは笑った。
「もう十分変でしょ」
父さんも少し笑った。
僕は机の下で、その連絡帳を見ていた。
家にいます。
戻るかどうか、考えています。
待っています。
でも、急がせません。
帰ってきたら、写真を撮る。
嫌がっても撮る。
でも、嫌だったら一枚だけにする。
靴は、玄関に置いてあります。
全部、学校には出せない。
でも、僕への連絡だった。
その夜、僕は初めて、赤い首輪のあるリビングで眠った。
ソファの背もたれ。
ミケの場所。
首輪の近くで丸くなる。
母さんも父さんも二階へ上がった。姉ちゃんも自分の部屋へ行った。リビングの明かりは消えて、廊下の小さい光だけが残った。
僕は、赤い首輪を見た。
もう、首につけたいとは思わなかった。
それはそこにあればいい。
ミケのものとして。
家を見ているものとして。
僕は目を閉じた。
眠る前に、少しだけ人間の手を思い出した。
鉛筆を持つ手。
靴紐をほどく手。
プリンのふたを開ける手。
姉ちゃんに黄色い恐竜を渡した手。
陽太の手に重ねた手。
大地の紙を受け取る手。
戻ったら、手が使える。
その代わり、前足はなくなる。
でも、前足でしていたことは、手でもできるのかもしれない。
誰かの手に、手を置く。
言葉が出ないときに。
そう思ったら、戻ることが少しだけ怖くなくなった。
朝、目が覚めた。
最初に聞こえたのは、母さんの足音だった。
次に、父さんが新聞を開く音。
それから、姉ちゃんが階段を下りる音。
僕は目を開けた。
リビングのソファの背もたれではなかった。
僕は、自分のベッドにいた。
腕があった。
手があった。
指が、布団の端をつかんでいた。
しっぽはなかった。
耳は、人間の耳だった。
僕は、しばらく動けなかった。
息だけが、ゆっくり出た。
部屋の机には、連絡帳が開いたまま置かれている。
僕は手を見た。
指を開く。
閉じる。
爪は、人間の爪だった。
布団の上に、三毛の毛が一本だけ落ちていた。
僕はそれを指でつまんだ。
小さくて、軽い。
そのとき、階段の下から母さんの声がした。
「悠真、起きてる?」
いつもの朝みたいだった。
でも、全部が違った。
僕は口を開けた。
声が出るか分からなかった。
「起きてる」
少し変な声だった。
でも、言葉だった。
下の階で、何かが落ちる音がした。
母さんの足音が階段へ向かってくる。
父さんの椅子が動く音。
姉ちゃんが「え」と言う声。
僕は布団の上で、三毛の毛を握ったまま、ドアの方を見た。
戻った。
そう思った。
でも、ミケが消えたとは思わなかった。
リビングのソファの後ろには、赤い首輪がある。
姉ちゃんの鞄には、黄色い恐竜がある。
僕の机には、連絡帳がある。
玄関には、靴がある。
僕は、その全部のある家に戻ったのだと思った。
母さんが部屋に入ってきた。
息が切れていた。
僕を見る。
ベッドの上を見る。
僕の手を見る。
顔を見る。
それから、名前を呼ぼうとして、声が出なかったみたいに口を閉じた。
僕は、三毛の毛を握ったまま言った。
「おはよう」
母さんの顔が崩れた。
母さんはベッドまで来て、僕の肩に触れた。両手で、確かめるみたいに。痛いくらいではない。でも、指が震えていた。
「悠真」
今度は、ちゃんと僕の名前だった。
「うん」
返事をすると、母さんはその場に膝をついた。
泣いた。
僕は、どうすればいいか分からなかった。
猫のときなら、前足を乗せればよかった。母さんの手に、膝に、指に。そうすれば、言葉がなくても少しだけ伝わった。
でも今は手がある。
僕は、握っていた三毛の毛を落とさないようにして、反対の手を母さんの手の上に置いた。
母さんは、その手を両手で包んだ。
「冷たい」
母さんが言った。
「そう?」
自分では分からなかった。
手がある。
指がある。
声がある。
それだけで、体の中が追いついていなかった。
廊下から父さんが来た。
部屋の入口で止まった。
母さんの後ろから僕を見て、それから机の上を見た。連絡帳。大地の紙。座席表。写真。動画を印刷した紙。赤い首輪はそこにはない。黄色い恐竜もない。
父さんは部屋に入ってきた。
「悠真」
「うん」
父さんは、それだけで目を伏せた。
近づいてきて、僕の頭に手を置いた。猫だったときより、ずっと大きく感じなかった。人間の体に戻ったからだと思う。
父さんの手は少し重かった。
「靴、玄関にある」
父さんは言った。
最初にそれかと思った。
でも、父さんらしかった。
僕は少し笑った。
声が変に出た。
「知ってる」
父さんは、そこで初めて笑いそうな顔になった。
「陽太くんが結んだままだ」
「うん」
「ほどけてない」
「うん」
それだけの会話だった。
でも、父さんはそれ以上言わなかった。言葉を増やすと、全部違うところへ行ってしまうと思ったのかもしれない。
階段を上がる音がした。
姉ちゃんだった。
部屋の入口で、姉ちゃんは止まった。
制服のリボンが少し曲がっていた。鞄は持っていない。朝、玄関へ行く途中だったのだと思う。
鞄についた黄色い恐竜が、廊下の床に当たって小さく鳴った。
姉ちゃんは、僕を見た。
僕も姉ちゃんを見た。
何か言わなきゃいけない気がした。
でも、何を言えばいいのか分からなかった。
「姉ちゃん」
声にすると、姉ちゃんの顔が一瞬で変わった。
泣くのかと思った。
でも、泣かなかった。
姉ちゃんは部屋に入ってきて、僕の前で立ち止まった。それから、僕の額に指を置いた。
猫のときと同じ場所だった。
「本物?」
「たぶん」
「たぶんって何」
「分かんない」
姉ちゃんは、少しだけ笑った。
その笑い方で、やっと僕も息ができた。
姉ちゃんは僕の手を見た。
「手、あるじゃん」
「ある」
「前足じゃない」
「うん」
姉ちゃんは僕の指を一本つまんだ。
「戻ったんだ」
僕は、自分の手を見た。
戻った。
その言葉は正しい気もしたし、足りない気もした。
「ミケは?」
口に出してから、部屋が静かになった。
母さんも父さんも姉ちゃんも、何も言わなかった。
僕は、手の中の三毛の毛を見た。
「これ、布団に落ちてた」
姉ちゃんが、それを見た。
「見せて」
僕は、手を開いた。
小さい毛が一本、手のひらに乗っている。
姉ちゃんは、それをつままなかった。見るだけだった。
「リビング」
姉ちゃんが言った。
「首輪、見に行こう」
僕はうなずいた。
ベッドから降りようとして、足が少しふらついた。
人間の足の方が、重かった。
立ち方を忘れていたわけじゃない。
でも、数日使わなかっただけで、体が少し遅れた。
姉ちゃんが手を出した。
僕は一瞬だけ迷って、その手を取った。
猫のときは、何度も抱き上げられた。
今は、手を引かれた。
それだけなのに、違った。
階段を下りる。
一段ずつ。
もう怖くないはずなのに、猫の体のときより怖かった。
足が二本しかない。
手すりに手をかけた。
父さんが後ろにいた。母さんが下で待っていた。姉ちゃんは横にいた。
リビングに入ると、ソファの後ろの棚に赤い首輪があった。
そこにあった。
昨日と同じ場所で、家の中を見ているみたいに置かれていた。
僕はその前に立った。
ミケはいない。
ソファの背もたれにも、床にも、窓のそばにもいない。
でも、赤い首輪はあった。
僕は、手のひらの三毛の毛を見た。
母さんが言った。
「探す?」
ミケを、という意味だった。
僕は首輪を見た。
探したい気もした。
でも、どこを探せばいいのか分からなかった。家の中か。公園か。商店街か。映像の中か。僕の中か。
姉ちゃんが言った。
「今は、ここにいることにしよう」
僕は姉ちゃんを見た。
「首輪が」
姉ちゃんはそう言った。
「ミケがいなくなったってことに、今すぐしなくていい」
母さんが小さくうなずいた。
父さんも何も言わなかった。
僕は、三毛の毛を赤い首輪の横に置いた。
軽すぎて、指から離すのが難しかった。
首輪の布の上に置くと、毛はすぐ見えなくなりそうだった。
でも、そこに置いた。
「ここでいい」
僕が言うと、姉ちゃんが「うん」と返した。
その日、学校には行かなかった。
警察にも学校にも連絡した。
母さんは電話で、見つかりました、と何度も言った。どこにいたのかを聞かれて、家にいました、とは言えなかった。父さんが横から代わって、確認中です、混乱していて、と説明した。
嘘ではなかった。
全部は言えないだけだった。
先生とも電話した。
「無理に話さなくていいから」と先生は言った。
「来られるようになったら来てください」とも言った。
陽太からは、すぐにメッセージが来た。
姉ちゃんが読み上げた。
戻ったって本当?
僕は、姉ちゃんのスマホを見た。
指で打とうとした。
手がある。
でも、少し震えた。
姉ちゃんは黙って待っていた。
僕は、ゆっくり打った。
本当。
プリン食べる。
送信した。
すぐに返事が来た。
食え。
あと学校来い。
僕は笑った。
声が出た。
大地からは、陽太経由で来た。
給食当番はやる。
逃げない。
でも白衣の帽子は嫌。
僕は、姉ちゃんに頼んで返した。
見に行く。
陽太から、すぐに大地の返事が転送された。
来んな。
僕はまた笑った。
母さんも少し笑った。
父さんは、冷蔵庫からプリンを出した。
「食べるか」
僕はうなずいた。
ふたを開ける。
指で、ふたの端を持つ。
少しこぼれそうになる。
カラメルの匂いがする。
スプーンを持つ。
それだけのことが、全部、久しぶりだった。
プリンは甘かった。
甘すぎるくらいだった。
でも、ちゃんとおいしかった。
姉ちゃんは向かいで見ていた。
「猫のとき食べなくてよかったね」
「食べたかった」
「だめ」
「今なら?」
「今ならいい」
僕はもう一口食べた。
母さんは、その様子を見ていた。父さんも見ていた。
そんなに見ないでほしかったけれど、今日は言わなかった。
見ていてほしい気もしたから。
夕方、姉ちゃんは鞄を持ってきた。
黄色い恐竜は、まだついている。
「返す?」
聞かれた。
僕は恐竜を見た。
返してほしいと思っていた。
でも、姉ちゃんの鞄についているのを見たあとでは、そこから外すのも違う気がした。
「まだ貸す」
そう言った。
姉ちゃんは少しだけ目を細めた。
「いいの?」
「うん」
「なくさないよ」
「知ってる」
姉ちゃんは恐竜を指で揺らした。
「じゃあ、借りる」
小さく鳴る。
その音は、もう僕だけのものではなかった。
でも、なくなったわけでもなかった。
夜、僕は連絡帳を開いた。
姉ちゃんと母さんと父さんが書いたページ。
家にいます。
戻るかどうか、考えています。
待っています。
でも、急がせません。
帰ってきたら、写真を撮る。
嫌がっても撮る。
でも、嫌だったら一枚だけにする。
靴は、玄関に置いてあります。
僕は、その下に鉛筆で書いた。
戻りました。
それだけでは足りない気がした。
少し考えて、もう一行書いた。
でも、ミケの場所はそのままにしてください。
字が少し震えた。
猫だったときより、鉛筆は持ちやすい。
でも、書くのは思ったより難しかった。
姉ちゃんが横からのぞいた。
「いいじゃん」
僕は連絡帳を閉じなかった。
開いたままにしておいた。
次の日の朝、僕は学校へ行くことにした。
母さんは、まだ休んでもいいと言った。
父さんも、無理しなくていいと言った。
姉ちゃんは何も言わなかった。
ただ、玄関で僕の靴を見ていた。
僕は、陽太が結んだ靴紐をほどいた。
一度、結び直す。
うまくいかなかった。
少しゆるい。
姉ちゃんが言った。
「陽太くんの方が上手い」
「うるさい」
声が出る。
普通の声。
姉ちゃんは笑った。
僕はもう一度結んだ。
今度は少しましだった。
ランドセルを背負う。
少し重い。
猫の体で姉ちゃんに抱かれていたときとは違う重さだった。
自分で持つ重さ。
玄関の上がり框に、母さんが立っていた。
父さんは少し後ろにいた。
姉ちゃんは制服で、鞄を肩にかけている。黄色い恐竜が揺れている。
「一緒に出る?」
姉ちゃんが聞いた。
僕はうなずいた。
玄関のドアを開ける。
朝の光が入ってきた。
外は広かった。
でも、前ほど怖くなかった。
一歩出る。
靴の裏が、地面につく。
自分の足で立っている。
門のところで、姉ちゃんが先に道路へ出た。
「行ってきます」
母さんが「行ってらっしゃい」と言った。
父さんも、少し遅れて言った。
「行ってらっしゃい」
僕も言った。
「行ってきます」
声が、朝の道路に出た。
姉ちゃんの鞄で、黄色い恐竜が小さく鳴る。
家の中には、赤い首輪がある。
ソファの後ろで、たぶん今日もリビングを見ている。
僕は一度だけ振り返った。
玄関の奥は暗かった。
でも、そこに何もないとは思わなかった。
姉ちゃんが少し先で待っている。
「悠真」
呼ばれた。
僕は前を向いた。
「今行く」
そう言って、僕は姉ちゃんの隣まで行った。
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