
死んだ妹のインスタを消す理由を、今から全部話します
あらすじ
死んだ妹・有川美緒のインスタグラムは、三年経っても白峰高校に残り続けていた。
体育館の天井、生徒会室のポット、文化祭前の廊下。大したことのない投稿に、母も、後輩も、知らない在校生も、今も「美緒先輩」と話しかけている。
姉の有川千紘は、そのアカウントを消したかった。
けれど、誰も悪いことはしていない。母が見ていることも、後輩が懐かしむことも、現役生がコメントすることも、消す理由にはならない。
だから千紘は、覚えていたパスワードで妹のアカウントにログインし、現生徒会長の子を巻き込んで、学校が見過ごせない投稿を作る。
死んだ妹のインスタを、悪いものにするために。
第1章|最初の投稿
妹のアカウントに入ったのは、私です。
最初の投稿で、現生徒会長の子が疑われました。
その子は何も流していません。
私が、そう見えるようにしました。
私は妹のインスタを消したかった。
でも、消す理由がありませんでした。
死んだ妹のインスタは、ただ残っているだけでした。
母が見て、後輩が見て、知らない在校生が古い投稿にいいねをつける。
誰も悪いことはしていませんでした。
だから困りました。
悪いものにしなければ、消せなかったからです。
妹は、死んだあとも白峰高校にいました。
体育館の天井。
朝練のあとに置かれたコンビニの袋。
生徒会室のポット。
文化祭前日の廊下。
誰かがホワイトボードに描いた、下手な猫。
妹が撮ったものは、どれも大したものではありません。少なくとも、写真だけ見ればそうです。賞を取るような写真でも、特別きれいな景色でもない。
でも、コメントがつきます。
《この体育館見て受験決めました》
《先輩の投稿、試合前に見ると落ち着きます》
《今年も生徒会室のポット空です》
《白峰ってこういう学校なんだなって思った》
妹はもういないのに、誰かがまだ妹に話しかける。
私はそれを三年見ました。
毎日見ていたわけではありません。そんなに熱心ではありませんでした。見ない月もありました。仕事で疲れている日は、母から美緒の話が出ても、適当に返して風呂に入りました。
それでも、通知は来ます。
母のスマホに。
卒業生のグループに。
昔の後輩のストーリーに。
白峰高校の誰かの会話に。
美緒先輩。
妹は、死んでも先輩のままでした。
私は姉なのに、いつも少し遅れて呼ばれます。美緒さんのお姉さん。美緒先輩のお姉さん。美緒ちゃんのお姉ちゃん。
私は白峰高校で、バスケ部のキャプテンをしました。生徒会の会長もしました。妹より先に、体育館の鍵を返し、文化祭の予算を直し、朝礼で原稿を読み、顧問に怒られ、後輩に頼まれ、先生に呼び出されました。
でも、学校に残ったのは妹の方です。
そう言うと、嫉妬に聞こえると思います。
たぶん、嫉妬です。
ただ、嫉妬だけなら、私はもっと早く妹のアカウントを消していたと思います。パスワードは知っていました。妹が高校二年のとき、冷蔵庫の前で小さな声で歌っていた英数字です。
何それ、と聞いたら、パスワード、と妹は言いました。
そんなもの声に出すなと言ったら、妹は、じゃあ忘れるじゃん、と笑いました。
あの子は本当に忘れませんでした。
私も忘れませんでした。
ログインできたとき、最初に出てきたのは最後の投稿です。
大学のベンチに置かれたアイス。紙カップのふちから、少しだけ溶けています。
《夏、早すぎ》
妹はその三日後に死にました。
その投稿のコメント欄に、母が書いていました。
《また食べに行こうね》
母は、書いたことを覚えているかもしれません。覚えていないかもしれません。どちらでも同じです。母にとって、妹のアカウントは消すものではありませんでした。
母だけではありません。
白峰高校も、妹の投稿を嫌がっていませんでした。むしろ、ありがたがっていたと思います。学校の公式アカウントより、妹の投稿の方が学校らしく見えたからです。
先生が見ても困らない。
生徒が見ても嫌にならない。
部活のだるさも、生徒会の面倒さも、少し笑える場所に置いてくれる。
妹はそういうことができました。
私は、できませんでした。
私は予定を組みました。妹は人を集めました。
私は注意しました。妹は笑わせました。
私は終わらせました。妹は残しました。
だから私は、妹のアカウントを消したかった。
ここまでなら、まだ犯罪ではありません。
問題は、消す理由を作ろうとしたことです。
最初に巻き込んだのは、現生徒会長の子でした。
その子は、妹の投稿に何度もコメントしていました。
だから私は、その子なら返事をすると分かっていました。
そこまで分かっていて、送りました。
その子が悪いのではありません。
写真を送らせたのも、封筒の端を残したのも、投稿を消さなかったのも、全部私です。
でも、そのとき私は、まだ自分で終わらせるつもりではありませんでした。
学校が気づく。
母が気づく。
現役生が騒ぐ。
誰かが、死んだ人のアカウントなんて、もう閉じた方がいいと言う。
その言葉を待っていました。
白峰高校から最初に電話が来たとき、私は出ませんでした。
翌日の昼、もう一度電話が来ました。
今度は出ました。
「美緒さんのお姉さんでいらっしゃいますか」
河野先生の声です。
私が三年のとき、生徒会の担当だった先生で、妹のときも同じように担当していました。
なのに、私は美緒さんのお姉さんでした。
「はい」
「妹さんのインスタグラムについて、ご確認したいことがあります」
私は、紙コップを捨てました。
まだ半分くらい残っていました。
「分かりました」
声は普通に出ました。
普通に出せたことを、そのときの私は少しも怖がりませんでした。
第2章|通知を切らない家
母は、夕飯の途中でスマホを見る癖があります。
行儀が悪い、と言えるほど私はちゃんとした娘ではありません。私も仕事のチャットを見るし、宅配の通知も見るし、どうでもいいニュースも見る。だから、母が箸を置いてスマホを手に取ること自体は何も言いません。
問題は、そのあとです。
「また美緒にコメント来てる」
母は、味噌汁の椀を片手に持ったまま言いました。
私は鮭の皮を箸で外していました。外しながら、聞こえなかったことにしようとしました。こういうとき、聞こえなかったふりはあまり意味がありません。母は返事を待っているわけではなく、見せるところまでを一つの動きにしているからです。
「ほら」
スマホがテーブルの上を滑ってきました。
画面には、美緒の投稿が開かれていました。体育館の天井を下から撮った写真です。古い蛍光灯が何本か切れかけていて、端にバスケットゴールの板が写っています。
その下に、新しいコメントがありました。
《今日からキャプテンです。美緒先輩の投稿、試合前にいつも見てます》
知らない子です。
アイコンは、体育館シューズを並べた写真でした。ユーザー名の横に小さく「白峰女バス」と入っています。
「いい子だよね」
母は言いました。
私は鮭の皮を皿の端に寄せました。
「知らない子でしょ」
「知らないけど、美緒のこと知ってくれてるんだから」
「美緒のことじゃなくて、投稿を見てるだけだよ」
母は、少しだけ眉を寄せました。
この顔をされると、私が悪いように見えます。実際、悪いのかもしれません。死んだ妹の投稿にコメントをくれる現役生に対して、「見てるだけ」と言う姉は、たぶん優しくありません。
でも、見てるだけです。
その子は美緒の声を聞いたことがない。体育館の隅で美緒が靴ひもを結び直すところも、試合に負けたあとでタオルを顔に押しつけたまま黙るところも、冷蔵庫の前でパスワードを歌うところも知らない。
写真を見ているだけです。
それでも母は、その「だけ」を大事にします。
「返事してあげた方がいいかな」
「やめなよ」
私はすぐに言いました。
母の指は、もうコメント欄の入力欄に触れていました。
「なんで」
「なんでって、変でしょ。母です、って返すの」
「母ですとは書かないよ」
「じゃあ何て書くの」
「ありがとう、とか」
「誰が?」
母はそこで黙りました。
私は言いすぎたと思いました。でも、言ってしまったあとで引っ込めるほど器用でもありません。母はスマホを自分の方へ戻し、入力欄を閉じました。
味噌汁の湯気はもう弱くなっていました。
「美緒が返事できたらいいのにね」
母はそう言って、椀に口をつけました。
私は鮭を一口食べました。塩が少し強い。母は最近、焼き魚の塩加減をよく間違えます。前はそんなことはなかった。だからと言って、それを美緒と結びつけるのは安すぎます。人は普通に年を取るし、普通に味付けを間違えます。
それでも私は、そういう小さな変化を見るたびに、美緒の名前を思い出します。
鮭の塩が強いだけなのに。
母が少し年を取っただけなのに。
「学校、今度の土曜だっけ」
母が言いました。
「何が」
「白峰の。バスケ部のやつ」
「ああ」
白峰高校の女子バスケ部が、創部何十周年だかで卒業生を呼ぶことになっていました。私にも案内は来ています。郵送ではなく、卒業生のグループLINEです。もう部活の連絡なんて来ないと思っていたのに、誰かが古いメンバーを掘り起こして、招待リンクを貼りました。
私はまだ返事をしていません。
母は行くつもりでいます。
正確には、母が呼ばれているわけではありません。卒業生でもないし、部員でもない。ただ、美緒の母だから、誰かが「よかったら」と言いました。
よかったら。
本当に便利な言葉です。
「行かないかもしれない」
「なんで」
「仕事あるかも」
「土曜でしょ」
「土曜でも仕事ある人はあるよ」
母はそれ以上言いませんでした。言わない代わりに、またスマホを見ました。
私は分かっていました。
母はグループLINEではなく、美緒のインスタを見ています。
美緒のアカウントには、バスケ部の投稿が多いからです。母はたぶん、土曜に行く前に何度も見直すつもりです。体育館の写真。朝練のあとに買った肉まん。顧問の先生のスニーカーだけを撮った写真。引退試合の日に、後輩が作った変な寄せ書き。
美緒の投稿は、泣かせようとしていません。
それが一番腹が立つところです。
泣かせようとしていないから、母は泣かずに見られる。後輩も、知らない現役生も、笑いながら見られる。
私は笑えません。
笑ったら、負けたことになる気がしました。
誰に負けるのかは知りません。
美緒か。
母か。
白峰高校か。
昔の自分か。
そこをはっきりさせないまま、私は三年過ごしました。
夕飯のあと、母は台所で皿を洗い、私はリビングで部活のグループLINEを開きました。
通知は三十七件。
大半は、行ける行けないの返事です。名前の横に、子どもの写真や犬の写真や、結婚式の写真が並んでいました。知らない名字になっている人もいます。私は誰が誰だったか半分くらい分かりません。
《美緒ちゃんのお母さんも来るって》
その一文で、会話が少し賑やかになっていました。
《会いたい》
《美緒ちゃんの投稿、今の子も見てるらしいよ》
《すごいよね》
《お姉さんも来るかな?》
お姉さん。
私はその画面をしばらく見ました。
名前で呼べよ、と思いました。
私の名前を知らないわけではありません。同じ体育館で走って、同じ顧問に怒られて、同じ合宿所でカレーを食べた人たちです。私の代のキャプテンが誰だったかくらい、覚えているはずです。
覚えているはずなのに、美緒の話になると、私はお姉さんになります。
母が台所から言いました。
「返事した?」
「何の」
「土曜の」
「まだ」
「行けばいいのに」
「なんで」
「なんでって、先生たちも喜ぶでしょ」
「誰が」
「河野先生とか」
私はスマホを伏せました。
河野先生。
白峰高校で、生徒会の担当だった先生です。私が三年のときも、美緒が三年のときも、同じように生徒会室へ来て、同じように書類の出し方に文句を言っていました。
私のことも知っています。
知っているのに、会えばたぶん言います。
美緒さんのお姉さん。
悪気はありません。
悪気がないから、訂正する場所がありません。
「美緒のこと、まだ覚えてくれてるのありがたいよ」
母は皿を拭きながら言いました。
「ありがたいでしょ」
私は返事をしませんでした。
「ねえ」
「聞こえてる」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「怒ってるじゃない」
「じゃあ怒ってる」
母は皿を置きました。
こういう会話になると、母は黙ります。母が黙ると、私は自分が悪いことをしたと分かります。分かるだけで、謝るところまでは行けません。
「美緒の話、そんなに嫌?」
母は聞きました。
嫌です。
その一言が出てこないのは、私にも少しは常識があるからです。
死んだ妹の話を母がすることを、嫌だと言ってはいけない。母が妹のアカウントを見ることを、やめろと言ってはいけない。母が現役生のコメントを喜ぶことを、くだらないと言ってはいけない。
言ってはいけないことばかりです。
だから私は、言えることを探しました。
「毎回見せなくていい」
母は、少し笑いました。
「それは、ごめん」
謝られると、余計に困ります。
私は悪者になりたかったわけではありません。悪者にならずに、美緒のアカウントだけ消えればよかった。
その時点では、まだそう思っていました。
母は洗い物を終えて、風呂に入りました。
リビングに一人になると、私は伏せていたスマホを裏返しました。
グループLINEはまだ動いていました。
《美緒ちゃんの投稿、白峰の空気そのままだもんね》
《今見ても笑う》
《生徒会室のポットのやつ好き》
《あれ、まだあるのかな》
ポット。
私はその言葉を見て、美緒の投稿を開きました。
検索しなくても出ます。母がよく見るから、私のおすすめにも出てくる。嫌ならブロックすればいい。通知を切ればいい。見ない方法はいくらでもあります。
いくらでもあるのに、私はそれを選びませんでした。
美緒の投稿は、三年前のまま並んでいました。
体育館。
コンビニ。
廊下。
生徒会室。
文化祭の段ボール。
朝の校門。
私は生徒会室の写真を開きました。
《ポット、今日も空。誰か水入れて。私も入れないけど》
コメント欄に、現役生の名前がありました。
《今年も空です》
その子のプロフィールを開くと、白峰高校の制服を着た写真がありました。顔は半分隠れています。自己紹介欄に「生徒会長」と書いてありました。
現生徒会長。
その文字を見たとき、私は最初、何も考えませんでした。
本当に何も考えていなかった、と言うつもりはありません。たぶん、考える前の場所で、もう選んでいました。
この子なら、生徒会室の写真を持っている。
この子なら、美緒のアカウントからDMが来ても無視しない。
この子なら、学校へ話すところまで行くかもしれない。
そこまで浮かんで、私はスマホを伏せました。
風呂場から、水の音がしました。
母はたぶん、髪を洗っています。母は風呂が長い。昔からそうです。美緒は短かった。私はその中間くらいです。
そういうどうでもいいことは、よく覚えています。
私はノートパソコンを開きました。
仕事用ではありません。家に置いてある古い方です。動きが遅くて、充電器を差していないとすぐに落ちます。
ブラウザでインスタグラムを開きました。
ログイン画面が出ました。
ユーザー名は、覚えていました。
パスワードも、覚えていました。
冷蔵庫の前で、美緒が歌っていた英数字。
えふ、なな、きゅー、びー。
私はキーボードに指を置きました。
ここでやめれば、まだ夕飯のあとの嫌な姉で済みます。
母に少しきつく言った。
妹の話にうんざりした。
グループLINEを見て、勝手に傷ついた。
その程度です。
その程度なら、明日の朝には母も普通に「卵焼く?」と聞いてくるし、私も「いらない」と返せます。土曜の白峰にも、行かない理由を作れます。美緒のアカウントは残るけれど、残っているものを見ないようにする生活へ戻れます。
でも、戻るというのは、続けるということです。
母がまたスマホを滑らせてくる。
知らない後輩が美緒先輩と書く。
河野先生が、美緒さんのお姉さんと呼ぶ。
私は、そのたびに返事をする。
私はパスワードを打ちました。
ログインボタンを押す前に、風呂場の水音が止まりました。
母が出てくる。
私は一度、手を離しました。
画面には、伏せ字の丸が並んでいます。
消せる。
そう思いました。
妹の投稿を。
母が見ているものを。
現役生が話しかけている場所を。
白峰高校に残っている美緒を。
消せる。
私はログインボタンを押しました。
画面が切り替わるまで、数秒かかりました。
数秒のあいだに、母が脱衣所の扉を開ける音がしました。
私はパソコンの画面を少しだけ手前に倒しました。
やましいことをしている人間の動きです。
その動きをした時点で、私はもう、やめる側にはいませんでした。
第3章|オンライン中
ログインできました。
画面が切り替わった瞬間、私は息を止めていたことに気づきました。
プロフィール写真は、体育館の天井でした。美緒自身の顔ではありません。蛍光灯と、バスケットゴールの板と、少しだけ写った青いライン。美緒は自分の顔をアカウントの先頭に置かない子でした。
投稿数は、百二十四。
フォロワーは、二千七百八十九。
私が最後に見たときより、増えていました。
芸能人でもない高校生に対して、その言い方が合うのかは分かりません。でも、数字は増えていました。
美緒がいなくなったあとも、美緒を見つけた人がいる。
それが画面の一番上に出ていました。
「まだ起きてるの」
母の声がしました。
私は反射でノートパソコンの画面を少し倒しました。
「起きてる」
「明日、仕事でしょ」
「すぐ寝る」
母は廊下で足を止めました。洗面所の灯りが、半分開いたリビングの扉から細く入っていました。
「お茶いる?」
「いらない」
「電気、つけっぱなしにしないでね」
「うん」
母の足音が寝室の方へ行きました。
私は画面を戻しました。
インスタグラムの右上に、赤い丸がついていました。通知は八十件以上ありました。美緒が死んだあとについたいいね、コメント、タグ付け、メッセージ。私は順番に見るつもりはありませんでした。
消すために入ったのだから。
右上の三本線を押して、設定を開こうとしました。
そのとき、画面の左下に小さな通知が出ました。
《美緒先輩?》
開いてしまったせいで、既読がつきました。
すぐに次が来ました。
《え、今見てますか》
《すみません、美緒先輩じゃないですよね》
《ご家族の方ですか》
その子は、ちゃんと疑っていました。
当たり前です。死んだ先輩のアカウントが夜に動いて、既読がついたのです。驚かない方がおかしい。
私は入力欄に指を置きました。
《姉です》
そう打って、消しました。
姉です、と名乗るなら、私のアカウントから連絡すればいい。美緒の場所に入って、姉ですと名乗るのは、何かが変でした。
《家の者です》
打って、また消しました。
家の者。
急に古い旅館みたいです。
私はしばらく考えてから、こう送りました。
《いま、古い投稿を整理しています》
嘘ではありません。
嘘ではない言い方を探すことは、嘘をつくときに一番役に立ちます。
相手からの返事は早くありませんでした。
その間に、私は削除画面を探しました。アカウントセンター。個人の情報。アカウントの所有権とコントロール。いくつか押して、戻って、また押しました。
消せます。
手順は分かりました。
でも、最後の確認画面まで行く前に、DMが来ました。
《美緒先輩の投稿、今も見ています》
それだけでした。
私はその一文を見て、削除画面から戻りました。
見ています。
見ていました、ではありません。
今も見ています。
その子にとって、美緒は過去の人ではありませんでした。会ったこともない先輩を、今見ている。体育館の天井や、生徒会室のポットや、コンビニの肉まんを通して、まだそこにいる人として扱っている。
私は、入力欄にこう打ちました。
《ありがとう》
消しました。
私がありがとうと言う場所ではありません。
美緒ならどう返すか、少し考えました。
それも違うと思いました。
私は美緒ではありません。美緒のふりをしたいわけではない。したいわけではないのに、美緒のアカウントに入って、美緒の名前で相手を待たせている。
だったら、もう同じです。
私は別の文を打ちました。
《昔の投稿と比べたいので、今の生徒会室の写真を一枚もらえますか》
送信しました。
送ってから、すぐに後悔したわけではありません。
送信済みの文字を見て、まず思ったのは、文が固い、でした。美緒なら、こんな言い方はしない。美緒ならもっと変なところから頼む。たとえば、「ポットまだ生きてる?」とか、「生徒会室、人間が住める状態?」とか、そういうくだらない入り方をする。
私はそういう書き方ができません。
できたら、もっと嫌だったと思います。
相手から返事が来ました。
《今は学校じゃないので、明日でもいいですか》
私は画面を見たまま、椅子にもたれました。
送ってくる。
この子は送ってくる。
そこまで分かったところで、私はノートパソコンを閉じました。完全には閉じませんでした。画面を少し倒しただけです。
寝室の方から、母の咳払いが聞こえました。
私はスマホを手に取り、母がさっき見せてきた美緒の投稿をもう一度開きました。体育館の天井。コメント欄。現役のバスケ部の子。生徒会長の子とは別の子です。
美緒先輩。
その四文字が、どこにでもありました。
翌日、会社では午前中から会議が続きました。
私はふだん、仕事中に私用のスマホを机の上に置きません。通知が光ると気になるし、そもそも見ていると思われるのが面倒です。でもその日は、キーボードの右側に伏せて置きました。
伏せていても、震えれば分かります。
十時四十一分。
一度、震えました。
会議の画面では、来月の売上予測の表が共有されていました。赤い数字がいくつかあり、課長が「ここは要確認ですね」と言いました。
私は「はい」と返事をして、スマホを裏返しました。
美緒のアカウントにDMが来ていました。
《おはようございます。これで大丈夫ですか》
写真は三枚ありました。
一枚目は、生徒会室の入り口から撮られたものです。手前にパイプ椅子、奥にホワイトボード。文化祭実行委員会と書かれたプリントが、磁石で止められています。
二枚目は、窓際のポットでした。
変わっていませんでした。
白い本体の側面に、細い傷があります。私が三年のときにはもうありました。誰がつけたのかは知りません。美緒の投稿にも、その傷は写っていました。
三枚目は、長机の上です。
ノートパソコン。
ペンケース。
紙コップ。
封筒。
封筒には、進路希望調査と印字されていました。
クラス名は写っていません。名前も見えません。中身も見えません。封筒の端だけです。
でも、十分でした。
私は画面を拡大しました。
会議の音が遠くなったわけではありません。課長の声も、表の数字も、誰かがキーボードを叩く音も普通に聞こえていました。ただ、私の目がそちらへ戻らなくなりました。
追加でメッセージが来ました。
《三枚目、封筒写っちゃってますけど、撮り直した方がいいですか》
この子は、ちゃんと気づいていました。
気づいて、確認していました。
ここで私は、撮り直して、と言えばよかった。
もしくは、三枚目は使わない、と言えばよかった。
そうすれば、その子は何も巻き込まれなかった。私も、まだただの気持ち悪い姉で済んだかもしれません。死んだ妹のアカウントに勝手に入った時点で、もう十分気持ち悪いですが、少なくとも学校に迷惑はかけていませんでした。
私は返信しました。
《大丈夫です。使うところだけ切ります》
会議で名前を呼ばれました。
「資料、後で確認いただけますか」
「はい、見ます」
画面の向こうで、課長が次のスライドへ進みました。
私は美緒のアカウントから送られてきた三枚目の写真を、自分のスマホに保存しました。
昼休み、私は会社のビルの一階にあるコンビニへ行きました。
おにぎりを二つ買うつもりでしたが、店内が混んでいたので、何も買わずに出ました。食べ物を選ぶだけの時間が急に面倒になりました。
外は暑く、ビルの植え込みのそばに立っていると、排気口から生ぬるい風が来ました。
私はスマホを開きました。
写真を編集する画面で、三枚目を出しました。
指で拡大して、机の上だけを残しました。封筒の文字は、全部は読めません。進路、くらいは分かります。希望調査までは、見ようと思えば見えるかもしれません。
切れます。
封筒を切ることは簡単でした。
少し上へずらせばいい。机の端とノートパソコンだけを残せば、ただの生徒会室の写真になります。面白くも何ともない、普通の写真です。
私は、封筒の端を残しました。
意図して残しました。
ここは、間違いだったとは言えません。
見落としでもありません。
指を動かして、残したのです。
投稿画面を開きました。
新規投稿。
写真を選ぶ。
キャプションを書く。
《白峰、まだこういうの机に置いてるんだ》
打って、消しました。
強すぎます。
《生徒会室って三年経っても変わらない》
消しました。
弱すぎます。
《これ、机の上に置いて大丈夫なやつ?》
私はその文を見ました。
美緒は書きません。
でも、人は反応します。
私は投稿しました。
午後六時十二分でした。
会社の給湯室にいました。終業時間を過ぎていましたが、まだ何人かは残っていて、コピー機の近くで誰かが電話をしていました。
私は紙コップを取って、ドリップバッグを開けました。
スマホはすぐに震えました。
母だと思いました。
違いました。
現生徒会長の子からでした。
《これ、私が送った写真ですか》
私は返信しませんでした。
続けて、もう一通来ました。
《封筒写ってます。消してください》
紙コップに湯を入れました。
湯が少し多すぎました。粉が薄く広がって、香りが弱くなりました。
スマホがまた震えました。
《お願いします。消してください》
今消せば、まだ間に合います。
投稿してから一分も経っていません。誰も見ていないかもしれない。見ていても、たいした数ではないかもしれない。削除して、送ってくれた子に謝って、アカウントを閉じればいい。
そういう考えは、ちゃんとありました。
ありましたが、私は画面を閉じました。
コーヒーを一口飲みました。
薄い。
それから、母からLINEが来ました。
《美緒のインスタ、更新されてるけど》
スクショつきでした。
私は、そのスクショを開きました。
母の画面では、私が残した封筒の端が、私の画面よりはっきり見えていました。スマホの明るさの問題か、画像の圧縮の問題かは分かりません。
もう一通、母から来ました。
《これ大丈夫なの?》
私は入力欄に、
《知らない》
と打ちました。
送信する前に、現生徒会長の子から着信が来ました。
インスタグラムの通話です。
画面いっぱいに、その子のアイコンが出ました。
体育館シューズを並べた写真。
私は出ませんでした。
母への返信を送信しました。
《知らない》
すぐに、卒業生グループが動き始めました。
《え、美緒ちゃん?》
《誰かログインしてる?》
《これまずくない?》
《進路のやつ写ってない?》
《学校に言った方がいい》
現生徒会長の子から、またDMが来ました。
《本当に消してください》
そのあと、少し間があって、
《部活のグループで私の名前が出てます》
私はその文を見ていました。
そうです。
そうなるようにしました。
口には出しませんでした。どこにも書きませんでした。けれど、私がしたことはそれです。
その子が送った写真を、妹のアカウントが投稿する。
封筒が写っている。
学校が気づく。
卒業生が気づく。
現役生が気づく。
その子が、送った人になる。
美緒のアカウントを消す理由としては、十分です。
十分にしてしまいました。
七時前、電話が来ました。
登録していない番号です。
私はスマホを見たまま、出ませんでした。
鳴り終わるまで待ちました。
着信が切れると、現生徒会長の子からまたDMが来ていました。
《先生に話します》
私は、そのメッセージに既読をつけました。
それから、美緒のアカウントのプロフィール画面に戻りました。
投稿数は、百二十五になっていました。
第4章|変な投稿だけ
一番多かったコメントは、これでした。
《変な投稿だけ消してほしい》
私はその文を、会社から帰る電車の中で何度も見ました。
変な投稿だけ。
それなら、妹は残ります。
私がしたことだけが消えて、妹はまた体育館と生徒会室とアイスの投稿に戻る。
それでは足りませんでした。
だから私は、投稿を消さずに、ストーリーを開きました。
電車は混んでいました。ドアの近くに立って、片手で吊り革を掴み、もう片方の手で妹のアカウントを操作しました。隣の人の肩が当たるたびに画面を少し傾けました。
見られたくないなら、今すぐやめればいい。
でも、私はやめませんでした。
ストーリーは投稿より軽く見えます。
二十四時間で消えます。
質問スタンプを置けば、相手はコメントより気軽に返します。
美緒はよく使っていました。
朝練の空。
コンビニのくじで当てた変なキーホルダー。
生徒会室のホワイトボード。
文化祭の買い出しで、誰かが両手にガムテープを持っている写真。
妹のストーリーは、だいたいどうでもいいものでした。
どうでもいいから、返しやすい。
返しやすいから、人が集まる。
私は、黒い背景を選びました。
文字だけを打ちます。
《白峰、今どうなってる?》
消しました。
固い。
《今の白峰のこと、少し教えて》
消しました。
聞き取りみたいです。
美緒なら、もっと軽く置きます。返事をする側が、自分から喋った気になれる場所に置く。私はそれができません。
できないまま、こう打ちました。
《白峰、今も変なとこある?》
その下に、質問スタンプを置きました。
《教えて》
投稿する前に、もう一度コメント欄を見ました。
《変な投稿だけ消してほしい》
私はストーリーを投稿しました。
午後七時三十一分。
最初の閲覧者は、現生徒会長の子でした。
すぐにDMが来ました。
《やめてください》
続けて、
《本当に誰ですか》
もう一つ。
《これ以上、今の学校のこと聞かないでください》
その子は正しい。
本当に正しい子でした。
私は返信しませんでした。
質問スタンプに、最初の回答が来ました。
《体育館の更衣室のロッカー、まだ閉まり悪いです》
女子バスケ部の子です。
アイコンは、背番号の入った練習着でした。
次。
《生徒会室のポットまだあります笑》
次。
《文化祭の買い出し、今年も駅前の百均です》
次。
《顧問の先生、また鍵なくしたらしいです》
次。
《朝練、今年から火木になりました》
誰も、大きな秘密を送っているつもりはありません。
更衣室のロッカー。
ポット。
百均。
鍵。
朝練。
その場所にいる子たちにとっては、ただの話です。美緒のアカウントが昔から扱っていた、学校の小さな話です。だから送ったのだと思います。
だから危ないのです。
妹のアカウントなら、現役生が返してしまう。
疑いながらも、懐かしがって、ふざけて、少しだけ本当のことを書く。
知らない誰かが見ているかもしれない場所へ、学校の今を渡す。
私は、それを証明していました。
証明したかったのです。
電車が駅に着きました。
人が降りて、人が乗ってきます。私はドアの横へ押され、画面が胸の前に近づきました。その狭さの中で、私は回答を一つ選びました。
《朝練、今年から火木になりました》
それをストーリーに載せました。
背景は、白峰高校の体育館の写真にしました。
美緒が三年前に投稿していた写真です。
その上に、回答を貼りました。
投稿しました。
すぐに、現生徒会長の子から通話が来ました。
出ませんでした。
もう一度来ました。
出ませんでした。
三回目は、インスタグラムではなく、知らない番号からでした。
私は一瞬、指を止めました。
番号の並びで分かりました。
白峰高校です。
電車の中なので出られない。
そういう言い訳はできます。
私は画面を見たまま、電話が切れるのを待ちました。
切れたあと、留守番電話の通知が出ました。
聞きませんでした。
聞けば、河野先生の声だと分かってしまいます。
私を知っている先生の声です。
私はまだ、画面の中のことにしておきたかった。
卒業生グループが動き始めました。
《ストーリーも上がってる》
《これ誰か入ってるよね》
《朝練の予定って出していいの?》
《現役の子が答えちゃってる?》
《学校に連絡した》
《美緒ちゃんのお母さん知ってるのかな》
それから、少し間があいて、
《お姉さんは?》
私はその文を見ました。
お姉さん。
今も、そうです。
妹のアカウントが変なことをしている。
現役生が巻き込まれている。
学校が電話している。
母が困っているかもしれない。
それでも私は、まず「お姉さん」です。
私は駅で降りました。
ホームの端を歩きながら、ストーリーの閲覧者を見ました。卒業生。現役生。知らない保護者らしいアカウント。白峰高校の文化祭用アカウント。バスケ部の現役生。
増えています。
増えているのを見て、私は安心しました。
最低ですが、安心しました。
これなら、変な投稿だけでは済まない。
改札を出ると、母から電話が来ました。
今度は出ました。
「どこ」
母の声は、家の中ではありませんでした。外の音がしました。車の音と、風の音。
「駅」
「今すぐ帰ってきて」
「帰ってる」
「学校から電話が来た」
「知ってる」
言ってから、しまったと思いました。
母が黙りました。
「知ってるの」
「番号見たから」
「出たの」
「出てない」
「なんで出ないの」
「電車だったから」
「今は」
「歩いてる」
「じゃあかけ直して」
「帰ってからでいいでしょ」
「よくない」
母は、息を吸いました。
「美緒のアカウントが、今の生徒に質問してるって」
「そうみたいだね」
「そうみたいだね、じゃないでしょ」
駅前の横断歩道が赤でした。
私は止まりました。
信号待ちの人たちが、私の横に並びます。仕事帰りの人。部活帰りの高校生。ベビーカーを押す人。誰も私を見ていません。
「お母さん、パスワード知らないよね」
私が言うと、母はすぐには答えませんでした。
「知らない」
「じゃあ、学校にそう言えばいいじゃん」
「あなたは」
横断歩道の信号が青に変わりました。
人が動きました。
私は動けませんでした。
「あなたは、知らないの」
母の声は、怒っていませんでした。
怒ってくれた方が楽でした。
「知らない」
私は言いました。
母はしばらく黙ってから、
「帰ってきて」
と言いました。
電話が切れました。
家に着くまでのあいだに、ストーリーの回答はさらに増えました。
《先生たち、今職員室で話してます》
《生徒会長、顧問に呼ばれたって》
《明日、全校に注意出るかも》
私は三つ目の文を開いたまま、足を止めました。
全校。
そこまで行けば、終わります。
学校は、死んだ卒業生のアカウントが現役生から情報を集めていると説明しなければならない。
母は、残したいとは言えなくなる。
言えなくなるように、私はしている。
分かっていました。
家の明かりはついていました。
玄関を開けると、母が廊下に立っていました。リビングではありません。玄関のすぐ先です。私が帰ってくるのを、そこで待っていたのだと思います。
「入った?」
靴を脱ぐ前に聞かれました。
「何に」
「美緒のインスタ」
「入ってない」
「嘘」
その一言は、思っていたより短く出ました。
私は靴のかかとに指をかけたまま、母を見ました。
「嘘って何」
「今の言い方、嘘」
母はスマホを持っていました。
画面には、美緒のストーリーが開かれています。
《白峰、今も変なとこある?》
その下に、質問スタンプ。
母はそれを私に向けました。
「美緒は、こんな聞き方しない」
私は黙りました。
母は分かっていました。
パスワードでも、ログイン履歴でも、学校からの説明でもありません。
聞き方。
そこでした。
「お母さん、美緒の全部分かるの」
言った瞬間、失敗したと思いました。
母の顔が変わりました。
怒ったのではありません。
悲しんだのでもありません。
本当に、少しだけ分からないものを見る顔になりました。
「全部なんて分からないよ」
母は言いました。
「でも、これは違う」
私は靴を脱ぎました。
そろえるつもりで、片方だけ横を向いたままになりました。
「誰かが乗っ取ってるんでしょ」
「誰かって誰」
「知らない」
「またそれ」
母はスマホを下ろしました。
「美緒のアカウント、学校が一時的に止められないかって言ってる」
「止めればいいじゃん」
「止め方が分からない」
「学校に聞けば」
「家族じゃないとできないって」
「じゃあお母さんがやれば」
「私はパスワードを知らない」
母は、そこで私を見ました。
「あなたは知ってる?」
「知らない」
「美緒、あなたに言ってなかった?」
言っていました。
冷蔵庫の前で。
小さな声で。
歌うみたいに。
えふ、なな、きゅー、びー。
「言ってない」
母は、リビングの方へ歩きました。
私はその後ろについていきました。食卓には、ラップをかけた皿が置かれていました。肉じゃがです。じゃがいもの角が崩れて、煮汁に少し溶けています。
テレビはついていましたが、音は消されていました。
母は椅子に座りませんでした。
「美緒のこと、変なふうにしたくない」
母は言いました。
私は、そこで返事を間違えました。
「もう変でしょ」
母の手が止まりました。
言ってから、戻せないと分かりました。
「死んだ子のインスタに、知らない高校生がずっとコメントしてる。学校も卒業生も見てる。お母さんも見てる。変じゃん」
母は、ゆっくりスマホをテーブルに置きました。
「見たいときに見てるだけ」
「同じでしょ」
「同じじゃない」
母の声は大きくありませんでした。
大きくないのに、私は少し黙りました。
「美緒がいなくなったあと、何が残ってるか分からなかった」
母は、スマホではなく肉じゃがを見ていました。
「服も、部屋も、ノートも、全部こっちにあるのに、何を見ても、美緒がいない方が先に来るの」
私は玄関からリビングへ入ったところで止まっていました。
「でも、あれは違うの。学校の写真とか、くだらない文とか、コメントとか、そういうの見てると、いないっていうより、ああ、こういう子だったって思える」
「だから残したいの」
「残したい」
母は、はっきり言いました。
「変でも、残したい」
私は返事をしませんでした。
返事をすると、私の理由を言わなければならなくなります。
私は見たくない。
私は残したくない。
私は、美緒さんのお姉さんでいるのが嫌だ。
そう言えば、全部が私のものになります。
私が嫌だから消したい。
それでは、足りない。
スマホが震えました。
テーブルの上の母のスマホではありません。
私のスマホです。
白峰高校からでした。
今度は、母の前です。
出ないわけにはいきませんでした。
私は通話ボタンを押しました。
「美緒さんのお姉さんでいらっしゃいますか」
河野先生の声でした。
私は母を見ました。
母も私を見ていました。
「はい」
「夜分に申し訳ありません。妹さんのアカウントの件で、至急ご確認したいことがあります」
「はい」
「現在、在校生数名から、妹さんのアカウントに学校内の情報を送ってしまったという相談が来ています」
母の表情が固まりました。
私はスマホを耳に当てたまま、テーブルの上の肉じゃがを見ました。
「個人情報にあたるものが含まれている可能性もあります。明日の朝、学校として在校生へ注意を出します」
全校。
本当にそこまで行きました。
「ご家族として、アカウントへのログイン状況をご確認いただけますか」
私は口を開きました。
知らない、と言うつもりでした。
言えます。
いくらでも言えます。
でも、母が見ていました。
母は、私が言う前から、私が何を言うか分かっている顔をしていました。
「確認します」
私は言いました。
「明日、学校へ伺います」
河野先生は、少し間を置きました。
「ご来校いただけますか」
「はい」
「ありがとうございます。では、明日午前十時でお願いできますでしょうか」
「分かりました」
通話を切りました。
母は何も言いませんでした。
私はスマホを下ろしました。
美緒のアカウントには、まだ通知が来ています。
ストーリーの閲覧者数は増え続けています。
母が、小さな声で言いました。
「入ったの」
私は答えませんでした。
答えないことは、もう答えでした。
その夜、私は自分の部屋に入り、ドアを閉めました。
ノートパソコンを開くと、美緒のアカウントはまだログインされたままでした。
ストーリーの回答は増えていました。
《明日、全校に注意出るらしい》
《生徒会長の子、泣いてたって》
《誰が動かしてるの》
《美緒先輩のアカウントでこんなの嫌です》
私は画面を見ていました。
嫌です。
やっと、その言葉が出てきました。
美緒のアカウントでこんなの嫌です。
そのためにやりました。
誰かに、そう言わせるために。
削除ボタンはすぐに見つかりました。
ストーリーを消すことはできます。
投稿も消せます。
アカウントも、手順を踏めば消せます。
私は削除しませんでした。
明日の朝、学校へ行く。
河野先生に会う。
現生徒会長の子がいるかもしれない。
母も来るかもしれない。
そこで、誰かが言うはずです。
このアカウントは、もう危ない。
私はノートパソコンを閉じました。
画面が暗くなる直前、投稿数は百二十五のままでした。
でも、ストーリーの閲覧者数だけが、また一つ増えました。
第5章|有川千紘さん
白峰高校の正門には、誰もいませんでした。
午前十時前です。
一時間目の途中なので、校庭も昇降口も静かです。静かと言っても、何も起きていない静けさではありません。職員室の方から電話の音がして、廊下の奥で誰かが早足で歩き、昇降口の掲示板には、今朝貼られたばかりの紙がありました。
SNS上の本校情報に関する注意
一行目だけ読めました。
その下は、小さい文字が並んでいます。在校生のみなさんへ。学校内の写真。個人情報。外部アカウント。確認のない送信。
私が作った文章ではありません。
でも、私が作らせた文章です。
母は掲示板を見ませんでした。
見なかったのか、見たくなかったのかは分かりません。玄関で来校者用のスリッパに履き替え、受付票に名前を書いています。ペンを持つ手が、いつもより少し遅い。
私はその横で、自分の名前を書きました。
有川千紘。
白峰高校の紙に自分の名前を書くのは、たぶん六年ぶりです。
卒業してからも、何度か学校には来ています。美緒の卒業式。美緒が死んだあと、部活の子たちが花を持って集まった日。母がどうしても河野先生にお礼を言いたいと言った日。
そのとき私は、たいてい美緒の姉として来ました。
今日は、自分の名前を書きました。
書いたからといって、自分になれるわけではありません。
事務室の窓が開き、女性の職員が顔を出しました。
「有川美緒さんのご家族の方ですね」
母が先に頭を下げました。
「はい」
私は一拍遅れて、頭を下げました。
ご家族の方。
まだ、その場所にいます。
応接室へ通される途中、廊下の向こうから女子生徒が二人歩いてきました。二人とも、私たちを見ると会話をやめました。
片方の子が、胸の前でスマホを握っていました。
校内でスマホを持っていること自体が、たぶん今はよくないのだと思います。けれど、その子はしまうのを忘れたみたいに持っていました。
私を見る。
母を見る。
それから、視線を落とす。
美緒のアカウントを見ていた子かもしれません。現生徒会長の友達かもしれません。バスケ部の子かもしれません。ただの通りすがりかもしれません。
どれでも同じです。
私はもう、知らない現役生から見られる側になっていました。
応接室には、河野先生と教頭先生がいました。
それから、ソファの端に、現生徒会長の子が座っていました。
写真のアイコンでは分からなかったけれど、実物は思っていたより小柄でした。制服のスカートの上で、両手を握っています。髪は肩の少し上で切られていて、前髪が片方だけピンで留められていました。
その子は私たちを見ると、立ち上がりました。
「すみません」
最初に謝ったのは、その子でした。
私は、何も言えませんでした。
母が言いました。
「あなたが謝ることじゃないでしょう」
その言い方は、母にしては強かった。
現生徒会長の子は、もう一度頭を下げました。謝るなと言われて、謝らずにいられるほど、大人ではないのだと思います。
河野先生が椅子を勧めました。
「お忙しいところ、申し訳ありません」
母が座りました。
私は母の隣に座りました。
河野先生は私を見ました。
「美緒さんのお姉さんにも、確認させていただきたいことがあります」
美緒さんのお姉さん。
その呼び方を聞いて、母が少しだけ私を見ました。
私は見返しませんでした。
河野先生は、机の上に何枚かの印刷を置きました。DMの画面、投稿、ストーリー、質問スタンプの回答。全部、紙にすると急に安く見えます。白い余白の中に、妹のアカウント名と、小さな文字が並んでいる。
画面の中ではあんなに動いていたのに、紙になると、ただの証拠です。
「まず、昨日の投稿についてです」
河野先生は、現生徒会長の子の方を見ました。
「この写真を送った経緯を、もう一度確認します」
その子はうなずきました。
「美緒先輩のアカウントからDMが来ました」
美緒先輩。
その子は、死んだ人の名前を普通に呼びました。
「昔の投稿と比べたいので、今の生徒会室の写真を一枚もらえますかって。最初は変だと思いました。でも、投稿を整理していますって言われたので、ご家族の方か、学校の人が見ているのかなと思いました」
私は指先を膝の上で握りました。
美緒だと思ったわけではない。
妹が生き返ったと思ったわけでもない。
その子は、ちゃんと現実の側にいました。
そのうえで、家族か学校の誰かが見ていると思った。
私が使ったのは、美緒の口調ではありません。
美緒の後ろにいるはずの、大人でした。
「三枚送ってしまいました」
その子は言いました。
「三枚目に封筒が写っていたので、撮り直した方がいいですかって送りました」
河野先生が、印刷したDMを一枚こちらへ向けました。
《三枚目、封筒写っちゃってますけど、撮り直した方がいいですか》
その下に、こちらの返信があります。
《大丈夫です。使うところだけ切ります》
母がその文を見ました。
それから、私を見ました。
「これ」
母が言いました。
私は黙っていました。
「これ、あなたの文じゃない」
部屋が止まったようになりました。
教頭先生が母を見る。
河野先生が私を見る。
現生徒会長の子が、ゆっくり顔を上げる。
私は、印刷された一行を見ていました。
大丈夫です。使うところだけ切ります。
たしかに私の文です。
美緒の文ではありません。
美緒なら、こんなふうには書かない。美緒なら、もっと雑に、もっと軽く、相手が自分で笑ってしまう場所に置く。私はそれができないから、丁寧なふりをしました。
丁寧なふりは、私の癖です。
「お母様」
河野先生が言いました。
母は、私から目を離しませんでした。
「昨日のストーリーも、違いました」
母は言いました。
「美緒は、あんなふうに聞かない」
私は笑いそうになりました。
笑うところではありません。
それなのに、口の奥が少し動きました。
母は、美緒のアカウントを見すぎていました。
見すぎていたから、私より先に分かりました。
「千紘」
母が私の名前を呼びました。
応接室で、母に名前を呼ばれるのは変な感じがしました。
ここでは私は、ずっと美緒の姉だったからです。
「入ったの」
私は答えませんでした。
現生徒会長の子が、言いました。
「美緒先輩のアカウントに入ったの、あなたなんですか」
あなた。
お姉さんではありませんでした。
その子は、私をあなたと呼びました。
それだけで、椅子の座り心地が変わりました。
「違います」
私は言いました。
言えました。
まだ、言えました。
母が息を吸いました。
河野先生は、机の上の紙を一枚めくりました。
「では、この場で一点だけ確認させてください」
河野先生は、声を荒げませんでした。
昔からそういう先生でした。怒鳴るより先に、紙を揃える。紙を揃えて、逃げられる場所を一つずつ減らす。
「昨日の午後七時三十一分、美緒さんのアカウントからストーリーが投稿されています。その後、複数の在校生から回答がありました。そのうち一つ、朝練の曜日に関する回答が、再度ストーリーに掲載されています」
私は黙っていました。
「その投稿は、現在も残っていますか」
「分かりません」
「確認できますか」
「私は、入っていないので」
言いながら、もう遅いと思いました。
言葉が軽すぎます。
入っていない人間は、入っていないとあんなに早く言わない。
現生徒会長の子が、自分のスマホを膝の上から持ち上げました。
「すみません」
河野先生が止めようとしました。
でも、その子は続けました。
「今、送ってもいいですか」
「何を」
教頭先生が聞きました。
「DMです」
その子は私を見ていました。
「このアカウントを見ている人に、です」
河野先生は少し迷いました。
学校として、それを許していいのかを考えている顔でした。
私は動きませんでした。
動けば、それが答えになります。
その子は、スマホを操作しました。
私のバッグの中で、スマホが一度だけ震えました。
誰も何も言いませんでした。
私はバッグを開け、スマホを机の上に置きました。
画面には、美緒のアカウントの通知が出ていました。
《今、ここにいますか》
通知の上に、美緒のプロフィール写真がありました。
体育館の天井。
あの写真は、何度見ても天井です。
人の顔ではない。
私はスマホを机の上に置きました。
現生徒会長の子は、泣いていませんでした。
泣いていないことが、かえってきつかった。
泣かれたら、私はひどいことをした人間になれます。泣いていない相手は、こちらに簡単な役をくれません。
その子は言いました。
「私は、美緒先輩だと思って送ったわけじゃありません」
私はその子を見ました。
「ご家族の方が整理しているなら、変なことには使わないと思いました」
その通りです。
本当に、その通りでした。
「だから、封筒のことも確認しました」
その子の声は、少し震えていました。
「使うところだけ切りますって返ってきたから、大丈夫だと思いました」
私は机の上の紙を見ました。
大丈夫です。使うところだけ切ります。
大丈夫と言ったのは、私です。
大丈夫ではない方へ持っていったのも、私です。
「私が悪いですか」
その子は聞きました。
河野先生が、すぐに言いました。
「あなたが悪いとは、学校は判断していません」
「でも、昨日、部活のグループで私の名前が出ました」
その子は河野先生ではなく、私を見ていました。
「今朝も、知らない人からDMが来ました。なんで送ったのって。美緒先輩のアカウントにそんな写真送るなって」
母が口元に手を当てました。
私は、何か言わなければならないと思いました。
すみません。
ごめんなさい。
あなたは悪くない。
どれも出ませんでした。
「妹のアカウントに入ったのは、私です」
声は、思っていたより小さく出ました。
でも、部屋には届きました。
母は目を閉じました。
河野先生は、紙に置いていた手を止めました。
現生徒会長の子は、まばたきを一度しました。
私は続けました。
「写真を頼んだのも、封筒を残したのも、投稿したのも、ストーリーを上げたのも、私です」
自分で言うと、手順になります。
手順になると、少し楽になります。
料理の説明みたいに、一つずつ並べられるからです。
でも、現生徒会長の子がそこにいる限り、楽にはなりきれませんでした。
「なぜですか」
教頭先生が聞きました。
それは、たぶん必要な質問でした。
でも、私はすぐに答えられませんでした。
消したかったからです。
そう言えばいい。
けれど、その一言では、現生徒会長の子がここにいる理由になりません。
「消したかったんです」
結局、そう言いました。
母が私を見ました。
「美緒のアカウントを」
「うん」
「なんで」
母の声は、家で聞いた声とは違いました。
ここには他人がいます。
先生がいて、生徒がいて、教頭先生がいます。母はその前で、私に「なんで」と聞きました。
私は母に言うのではなく、机の上の紙に向かって話しました。
「残ってるだけだったから」
誰も何も言いませんでした。
「誰も悪いことをしてないから、消せなかった」
現生徒会長の子の目が、少しだけ動きました。
「だから、悪いものにしました」
言ってから、部屋の空気が変わりました。
その言葉は、やっと本当でした。
私はそこで初めて、少し息ができました。
母は、椅子に座ったまま、背中を丸めました。
河野先生は、私を見ていました。
「有川千紘さん」
その名前で呼ばれた瞬間、私は顔を上げました。
河野先生が私の名前を知っていることは、当たり前です。
私はこの学校の卒業生で、生徒会長で、バスケ部のキャプテンでした。名簿にも、記録にも、集合写真にも、私の名前はありました。
でも、先生がその名前を使ったのは、たぶん今日初めてです。
「美緒さんのお姉さんとしてではなく、あなたご自身に確認します」
河野先生は言いました。
「現在も、美緒さんのアカウントにログインできますか」
「できます」
「削除操作も可能ですか」
「たぶん、できます」
「では、今は削除しないでください」
私は、河野先生を見ました。
「え」
「投稿、DM、ストーリー、ログイン状況の確認が必要です。学校としても、在校生が巻き込まれています。保護者への説明もあります。場合によっては、警察にも相談します」
消せない。
私は、その言葉を声に出さずに思いました。
悪いものにすれば、消せると思っていました。
悪いものにしたから、消せなくなりました。
「削除しないでください」
河野先生はもう一度言いました。
「証拠として残す必要があります」
現生徒会長の子が、そこで初めて少しだけ口を開きました。
「消したら、私が送ったことだけ残りますか」
河野先生は、その子を見ました。
「残しません。あなたが確認していたことも含めて、学校で記録します」
「じゃあ」
その子は、私を見ました。
「消して終わりにしないでください」
声は小さかった。
でも、私には十分でした。
消して終わりにしないでください。
私が一番されたくなかったことです。
母が言いました。
「私も、消さない」
私は母を見ました。
「お母さん」
「今は消さない」
母は、机の上の印刷を見ていました。
「美緒のためじゃない」
その言い方で、私は黙りました。
母は続けました。
「この子が何をされたのか、残さないといけない」
現生徒会長の子は、母を見ました。
母はその子に頭を下げました。
深く、ゆっくり。
「ごめんなさい」
その謝罪は、私の代わりではありませんでした。
母自身の謝罪です。
美緒の母としてでも、私の母としてでもなく、今ここで大人として、その子に頭を下げていました。
私は、頭を下げませんでした。
下げられませんでした。
下げたら、そこで何かが終わる気がしたからです。
終わらせるために始めたのに、終わることが怖くなっていました。
河野先生が、今後の確認事項を説明しました。
アカウントのログイン状態。
投稿とストーリーの保存。
在校生への聞き取り。
保護者への説明。
必要なら、警察への相談。
私は返事をしました。
はい。
分かりました。
確認します。
何度も言いました。
言えば言うほど、私は美緒の姉ではなくなっていきました。
学校の応接室で、先生と教頭と母と現役生の前に座り、やったことを一つずつ確認される人間になっていきました。
話が終わるころ、廊下でチャイムが鳴りました。
休み時間です。
応接室の外が急にうるさくなりました。足音。笑い声。誰かを呼ぶ声。扉の向こうで、学校が普通に動き始めます。
現生徒会長の子は、先生に付き添われて先に部屋を出ました。
出る前に、一度だけ私を見ました。
何か言うかと思いました。
でも、その子は何も言いませんでした。
何も言わないまま、廊下へ出ていきました。
母はまだ座っていました。
私はスマホを机の上に置いたままでした。
通知は止まっていません。
美緒のアカウントに、誰かがまたメッセージを送っています。
河野先生が言いました。
「有川さん」
私は顔を上げました。
母も顔を上げました。
同じ名字です。
一瞬、どちらのことか分かりませんでした。
河野先生は、私を見ていました。
「今日は、このあと職員室で記録を取らせてください」
「はい」
私は答えました。
母ではなく、私が。
美緒さんのお姉さんではなく、有川千紘さんとして。
河野先生は、記録用紙の一番上に私の名前を書きました。
有川千紘。
その下に、美緒のアカウント名が続きました。
第6章|今から全部話します
職員室の隣に、小さい会議室がありました。
前に来たときは、進路相談で使っていた部屋です。机が二つ並んでいて、壁際に古いプリンターが置かれています。窓の外には中庭が見えました。二時間目の途中で、誰かの体育の声が遠くから聞こえていました。
河野先生は、記録用紙を机に置きました。
教頭先生は、スマホを一台、机の端に置きました。
「録音してもよろしいですか」
私はうなずきました。
母は、私の斜め後ろに座りました。隣ではありませんでした。さっきの応接室では隣だったのに、この部屋では少し離れて座りました。
その距離を、私は見ました。
何も言いませんでした。
河野先生が言いました。
「では、確認を始めます。有川千紘さん、妹さんのアカウントにログインしたのは、あなたですか」
「はい」
教頭先生のペンが動きました。
「ログインした日時は分かりますか」
「一昨日の夜です。夕飯のあと。母が風呂に入っているとき」
母は動きませんでした。
「使用した端末は」
「家のノートパソコンです。そのあと、自分のスマホでも見ました」
「パスワードは、どのように知りましたか」
私は母を見ませんでした。
「美緒が高校生のときに、声に出していました。冷蔵庫の前で」
河野先生は少しだけ手を止めました。
「それを覚えていた」
「はい」
覚えていました。
忘れたと言えればよかった。
でも、忘れていませんでした。
河野先生は、用紙に何かを書きました。
有川千紘。
ログイン。
妹の発話により知得したパスワード。
知得。
そんな言葉になるのかと思いました。
冷蔵庫の前で、妹がふざけて歌った英数字が、紙の上で急に固くなっていました。
「最初に送ったDMについて確認します」
河野先生は、印刷された画面を一枚置きました。
《昔の投稿と比べたいので、今の生徒会室の写真を一枚もらえますか》
私の文です。
何度見ても、私の文です。
「これを送ったのは、あなたですか」
「はい」
「相手は、二年の藤崎杏奈さんです」
藤崎杏奈。
私はそこで初めて、その子の名前を知りました。
現生徒会長の子。
白峰女バスの子。
体育館シューズのアイコンの子。
私が巻き込んだ子。
それが、藤崎杏奈さんになりました。
河野先生は続けました。
「藤崎さんは、この時点で、妹さんのアカウントを操作しているのが誰か分かっていませんでした。家族、または学校関係者が整理しているものと受け取った、と話しています」
「はい」
「その認識を、あなたは利用しましたか」
利用。
その言葉は嫌でした。
でも、正しいです。
「はい」
母が、そこで小さく息を吸いました。
私は続けました。
「美緒本人だと思わせたかったわけではありません」
河野先生はペンを止めませんでした。
「でも、美緒のアカウントなら、普通の知らない人より信用されると思いました。家族か、学校の人が見ていると思われることも、分かっていました」
「そのうえで写真を依頼した」
「はい」
教頭先生が言いました。
「藤崎さんは、三枚目に封筒が写っていることを確認していますね」
「はい」
「そのときの返信は、あなたですか」
河野先生が、もう一枚の紙を置きました。
《大丈夫です。使うところだけ切ります》
私は、少しだけ目を閉じました。
「私です」
「実際には、封筒の端を残した」
「はい」
「意図して残した」
「はい」
そこは、言い換えられませんでした。
偶然ではありません。
見落としでもありません。
写真の端に、残しました。
「なぜですか」
教頭先生が聞きました。
私は答えませんでした。
河野先生が言いました。
「理由は、あとで聞きます。先に事実を確認します」
先に事実。
その順番がありがたかった。
理由から話すと、また私の話になります。妹の話になります。母の話になります。私が美緒の姉でいるのが嫌だった話になります。
藤崎さんの名前が、また後ろへ押されます。
それは、もうできませんでした。
「投稿文は、これですね」
《これ、机の上に置いて大丈夫なやつ?》
「はい」
「この投稿によって、藤崎さんが写真を流したのではないかという話が部活動内で出た」
「はい」
「あなたは、藤崎さんから削除を求められていますね」
「はい」
「削除しなかった」
「はい」
「その後、ストーリーで在校生に質問した」
「はい」
「質問への回答を、さらにストーリーに掲載した」
「はい」
「その中に、朝練の曜日に関するものがあった」
「はい」
はい。
はい。
はい。
私は同じ返事を続けました。
返事をするたびに、机の上の紙が増えていきます。私の言葉が、私から離れて、河野先生の字になって、教頭先生のメモになって、学校の記録になります。
私は話しているのに、私のものではなくなっていきました。
「ここまでの確認として」
河野先生は、紙を一枚取り出しました。
「藤崎さんが、意図的に校内情報を外部へ流出させた事実はない、という整理でよろしいですね」
私は顔を上げました。
「はい」
すぐに言いました。
その日、一番早く出た返事でした。
「藤崎さんは、封筒が写っていることを確認していた。撮り直しも提案していた。あなたが、大丈夫だと返した」
「はい」
「そのうえで、あなたが封筒を残して投稿した」
「はい」
「ストーリーについても、藤崎さんはやめるように伝えている」
「はい」
「それでも、あなたが続けた」
「はい」
河野先生は、教頭先生を見ました。
教頭先生がうなずきました。
「在校生向けの説明には、その点を入れます」
私は聞き返しました。
「その点」
「藤崎さんを含む在校生に、故意の情報流出は確認されていないという点です。外部から卒業生のアカウントが操作され、学校関係者であるかのような形で接触があったこと。該当生徒への接触や詮索をしないこと。そこまで出します」
私は、机の上を見ました。
該当生徒。
藤崎杏奈さんのことです。
名前は出さない。
でも、守る。
河野先生が言いました。
「では、動機について確認します」
動機。
私は、その言葉を聞いて、首を横に振りそうになりました。
動機ではありません。
理由です。
そう言いたくなりました。
でも、河野先生の紙では、動機になります。
私が何を言っても、学校の記録では、そういう欄に入ります。
「なぜ、美緒さんのアカウントを操作したのですか」
私は机の上のスマホを見ました。
美緒のアカウントは、まだログインされたままです。
通知は切っていません。
ストーリーも、投稿も、残っています。
誰かがまだ見ています。
私は顔を上げました。
「死んだ妹のインスタを消す理由を、今から全部話します」
教頭先生のペンが止まりました。
母が、私を見ました。
河野先生は、少しだけ間を置いてから言いました。
「お願いします」
私は話しました。
妹のアカウントを消したかったこと。
でも、誰も悪いことをしていなかったこと。
母が見ていたこと。
後輩がコメントしていたこと。
知らない在校生が、美緒先輩と呼んでいたこと。
白峰高校に、美緒だけが残っているように見えたこと。
私は、バスケ部のキャプテンでした。
生徒会長でした。
美緒より先に、体育館の鍵を返しました。
美緒より先に、生徒会室で夜まで残りました。
美緒より先に、河野先生に書類の出し方を注意されました。
でも、残ったのは美緒でした。
そう言いました。
言うと、ひどく小さい話に聞こえました。
本当に小さい話です。
人ひとりを疑わせていい話ではありません。
学校を動かしていい話でもありません。
母に嘘をついていい話でもありません。
でも、小さいから消えなかった。
私はそのことも言いました。
「小さいことだと分かっていたので、誰にも言えませんでした」
母は黙っていました。
「美緒のアカウントが嫌だなんて、言えませんでした。母が見ているのも、後輩が話しかけるのも、白峰の子が美緒先輩って書くのも、全部、悪いことではなかったからです」
河野先生は、何も言いませんでした。
「悪いことじゃないから、私の方が悪くなる。だから、悪いものにしました」
自分の声が、そこで少しだけ切れました。
泣いてはいません。
泣けませんでした。
泣いたら、また私の話になります。
「消せるようにするために、悪いものにしました」
教頭先生が、紙に書きました。
私はそれを見ました。
妹アカウント削除目的。
在校生を利用。
意図的投稿。
情報流出の疑いを発生させた。
私の言葉は、そこに入りました。
死んだ妹のインスタを消す理由。
そう言ったものは、紙の上で、動機と経過になりました。
削除の理由にはなりませんでした。
河野先生が、別の紙を出しました。
在校生向け説明案。
さっきまで空欄だったところに、教頭先生が手書きで補足を入れています。
外部からの操作が確認されたため、該当生徒に故意の情報流出はありません。
その一文がありました。
河野先生は、赤いペンで線を引きました。
故意の情報流出はありません。
私はその赤い線を見ました。
この一文のために、私は話さなければなりませんでした。
妹のインスタを消すためではなく、藤崎杏奈さんの名前から、私がつけたものを剥がすために。
「この内容で、藤崎さんと保護者の方にも確認します」
河野先生が言いました。
「その後、在校生と保護者向けに説明します」
「はい」
私は言いました。
「有川さんにも、事実確認書に署名をお願いします」
「はい」
教頭先生が紙をこちらへ出しました。
一番上に、私の名前がありました。
有川千紘。
その下に、美緒のアカウント名。
その下に、操作内容。
さらに下に、対象となった在校生として、藤崎杏奈さんの名前がありました。
私は、その名前を見ました。
やっと、見ることができました。
現生徒会長の子ではありません。
美緒の投稿にコメントした子でもありません。
私が写真を送らせた子でもありません。
藤崎杏奈さん。
その名前の横に、河野先生が赤いペンで書きました。
故意の情報流出なし。
私は、その字が書かれるところを最後まで見ました。
ペン先が紙をこする音が、小さく聞こえました。
書き終わっても、文字は消えませんでした。
当たり前です。
書いたものは、消えません。
消したいからといって、消えません。
そのあと、私は署名をしました。
有川千紘。
自分の名前を書くのに、少し時間がかかりました。受付票に書いたときより、ずっと下手な字になりました。
母は隣で、別の紙に署名していました。
保護者確認。
そこには、母の名前がありました。
母は書き終えると、スマホを出しました。
美緒のアカウントを開くのかと思いました。
違いました。
設定画面を開いていました。
通知。
母はしばらく画面を見てから、私に聞きました。
「これで切れる?」
私は画面を見ました。
美緒のアカウントの通知設定です。
母は、消すのではなく、通知を切ろうとしていました。
「そこ」
私は指で示しました。
母は、通知をオフにしました。
それだけです。
アカウントは残りました。
投稿も残りました。
体育館の天井も、ポットも、文化祭の廊下も、アイスの写真も残りました。
でも、母のスマホには、もう勝手に来ません。
母が見に行かない限り、美緒は母を呼びません。
母はスマホを伏せました。
「今は、消さない」
母は言いました。
「うん」
私は言いました。
「美緒のためじゃないから」
母は、もう一度そう言いました。
今度は、私に向けてではありませんでした。
机の上の紙に向けてでした。
藤崎杏奈さんの名前がある紙に。
私は何も返せませんでした。
会議室を出ると、廊下は昼休みに近い音になっていました。
廊下の向こうで、誰かが笑っていました。
先生が「走らない」と言いました。
その声に、誰かが「すみません」と返しました。
美緒の名前は、そこにはありませんでした。
職員室の前を通るとき、掲示用の紙がプリンターから出てきました。
河野先生が一枚取り、赤字の入った部分を確認しました。
外部からの操作が確認されたため、該当生徒に故意の情報流出はありません。
その一文は、少し硬い。
でも、それでいいと思いました。
軽くなくていい。
面白くなくていい。
美緒らしくなくていい。
藤崎さんを守るための文だからです。
私は廊下の窓から中庭を見ました。
スマホが震えました。
美緒のアカウントではありません。
私のアカウントです。
母からでした。
目の前にいるのに、LINEが来ていました。
《帰ったらご飯食べる?》
私は母を見ました。
母は、私を見ませんでした。
廊下の先を見ていました。
私は返信しました。
《食べる》
送ってから、スマホをしまいました。
美緒のアカウントは、まだ消えていません。
消す理由は、できました。
消せない理由も、できました。
その二つは、同じ日に、同じ紙の上に並びました。
記録用紙の上には、私の名前がありました。
有川千紘。
その下に、美緒のアカウント名。
その次に、藤崎杏奈さんの名前。
藤崎杏奈。
その横に、赤い字がありました。
故意の情報流出なし。
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