
願いをさがした夜
イリは、なくしものを見つけるのがうまかった。
うまかった、というより、気になってしまうのだった。石段の隙間に落ちた豆。屋台の下に転がった飴玉。誰かの髪から外れた小さな留め具。そういうものを見ると、そのままにしておけない。
親切だからではない。
残ったままになっているものを見ると、そのあとの串がまずくなる。
トマはそれを知っていたので、七夕の川へ向かう途中、イリに銅貨を一枚渡した。
「持ってて」
「自分で持ちなよ」
「去年、俺は川に落とした」
「去年のは石だよ」
「銅貨も石みたいなものだろ」
「全然違う」
イリはそう言いながら、銅貨を受け取った。
自分の分と合わせて二枚。これで串が二本買える。竜が出ても出なくても、串は食べる。竜が出たら見ながら食べる。出なかったら、出なかったねと言いながら食べる。それでいいはずだった。
七夕の夜になると、この街の川には、どこかの誰かの願いが光になって流れてくる。その光を集めると、竜になる。
昔は、橋の上から首を見上げるほどの竜が出たという。尾が三つ下の橋まで届き、川べりの火が全部消えた年もあったという。
イリは、その竜を見たことがない。
去年見たのは、川の中央で細くつながった白い紐だった。大人たちはそれを竜だと言った。言われればそうかもしれないが、イリはその夜、串の味をほとんど覚えていなかった。
今年の川も、坂の上から見た時点で黒かった。
橋に吊られた灯りが水に落ち、赤く伸びている。白い粒はまだ見えない。川べりには人が多かった。出ないかもしれない年ほど、屋台はよく売れる。みんな、竜が出ないことを確かめるためにも、何かを食べる。
「先に買う?」
トマが聞いた。
「場所」
イリは石段の下を指した。
「串が先だろ」
「竜が出たら串どころじゃない」
「出なかったら?」
「それは、串」
「結局いるんじゃん」
イリは答えず、人の間を抜けた。
川の中央では、膝まで水に入った大人たちがいた。光を集めるのに網は使わない。棒も使わない。手で水を寄せる。掻けば散る。待てば流れる。川に入った者たちは、声で場所を合わせ、ゆっくりと水を押す。
イリは石段を下りながら、右手の中の銅貨を確認した。
二枚ある。
そう思った直後、前にいた男が急に立ち止まった。
イリはぶつかりそうになり、体を横へ逃がした。肩が屋台の柱に当たる。握っていたはずの銅貨が、手の中で跳ねた。
一枚が落ちた。
石段を二つ転がり、串屋の板看板の下に入った。
イリは、口の中が一瞬で乾くのを感じた。
自分の銅貨なら、まだよかった。
落ちたのは、トマの銅貨だった。
「何してるの」
トマが後ろから来た。
イリはしゃがんだ。
「落とした」
「どこ」
「看板の下」
トマはすぐに怒らなかった。
それが嫌だった。
「取れる?」
「取る」
串屋の看板は、石段の一番下に置かれていた。太い字で「川串」と書いてある。川で焼いた串ではなく、川で売っている串という意味だと、串屋は毎年説明する。看板の脚は浅い水の中に入っていて、その下に銅貨が見えた。
指を入れれば届きそうだった。
イリは腕を伸ばした。
「おい、そこに手を入れるな」
串屋が言った。
「銅貨が入った」
「あとで拾え」
「トマのだから今」
「焼けるぞ」
「銅貨は焼けない」
「そういう話じゃない」
串屋は火皿の前で串を返した。脂が落ち、火が赤く上がる。その揺れが川に映って、看板の下をちらちら隠した。
イリは火の赤がずれるのを待って、もう一度手を入れた。
指先が銅貨に触れた。
その奥で、白い粒が動いた。
イリは手を止めた。
銅貨の向こう、看板の脚と石の間に、小さな光が三つ止まっている。水は流れているのに、そこだけ回っていた。光は中央へ行けず、看板の脚の内側で何度も小さく跳ねている。
イリは銅貨を取った。
取れた。
でも手を引けなかった。
「取れた?」
トマが聞いた。
イリは銅貨を握ったまま、看板の下を見ていた。
「光がいる」
「川に?」
「店の下」
トマがしゃがんだ。
串屋も振り向いた。
「店の下にあるわけないだろ」
「あるよ」
「願いは川に来るんだ」
「だから、ここで止まってる」
串屋は鼻で笑いかけた。
そのとき、橋の上で声が上がった。
「来た!」
人が一斉に川を見る。
上流から、白い粒が流れてきた。
ひとつ。
ふたつ。
少し遅れて、三つ。
それだけだった。たった三つ。
橋の上で、やっぱり、という声が広がった。川の中央の大人たちは、それでも動いた。手と声で光を寄せる。三つの粒はどうにか集まり、細い白い筋になった。
竜には遠い。
イリは、握った銅貨をトマに返した。
「持ってて」
「もう落とすなよ」
「まだ一回だけだよ」
「一回で十分」
「今は持ってて」
トマは銅貨を受け取り、イリは看板の端を掴んだ。
串屋が声を上げた。
「おい、動かすな」
「光が出られない」
「看板だぞ」
「川をふさいでる」
「店だ」
「川の上に店を置いてる」
串屋は火皿を見た。焼きかけの串が並んでいる。客もいる。石段の下は、今年は店が多い。竜が出ないと思っているから、みんな川へ近いところまで下りている。
イリは看板を引いた。
動かない。
トマが横から手を出した。
「こっち」
二人で持つと、看板は石に引っかかりながら少し浮いた。
浅い水が通った。
看板の脚の内側で回っていた三つの光が、いっぺんに外へ出た。白い粒は石段の足元をすべるように流れ、川の中央へ向かった。
中央の細い白い筋に触れた瞬間、水面が一度打たれた。
小さな音だった。
けれど、橋の上の何人かが黙った。
川に入っていたゴウが振り返る。
「今のはどこから来た」
イリは看板を指した。
「ここ」
ゴウは目を細めた。
「岸に残ってるのか」
串屋は自分の看板を見た。
「他にはもうないさ」
その言葉が終わる前に、豆屋の火皿の下が白く光った。
飴売りの籠の陰にも、二つあった。
橋のたもとに積まれた空箱の下では、白い粒がいくつも回っていた。
光は来ていなかったのではない。
ちゃんと来ていた。
ただ、今年だけ川べりへ下りていた屋台や荷物の下で止まっていた。
ゴウが水の中から声を張った。
「川を空けろ」
最初に動いたのは子どもたちだった。
笑いながら空箱をどける。下から光が出る。豆屋が火皿を持ち上げる。袖に灰がつき、隣の女が叩いて消す。飴売りは籠を抱え、飴を落とし、拾った子どもに怒鳴る前に、その子の足元に光を見つける。
串屋だけは、まだ火皿を動かさなかった。
「串が冷める」
「竜が詰まってる」
トマが言った。
串屋はトマを見た。
「竜と串を並べるな」
「ほら、見てよ」
トマは火皿の下を指した。
そこにも光があった。
七つ。
赤い火の下で、白い粒が逃げ場所をなくしていた。
串屋は少しだけ黙った。
それから、焼きかけの串を全部皿に移し、火皿を持ち上げた。
「誰かこの皿持て。焦がしたら払えよ」
誰も手を出さなかった。
イリが両手を出した。
「持つ」
「熱いぞ」
「持てる」
「落とすな」
「落とした分は払うよ」
串屋はそれを聞いて、ほんの少し口の端を動かした。
イリは火皿ではなく、串の皿を持たされた。重かった。いい匂いがした。空腹が急に戻ってきたが、今は食べられない。
串屋が火皿を三段上へ運ぶと、火の下にいた七つの光が浅い水へ滑った。
白い粒は、迷わず中央へ向かった。
中央の白い筋が、今度ははっきり曲がった。
水の中で、長いものが向きを変えた。
橋の上がざわつく。
「あれ、竜か」
誰かが言った。
ゴウが短く返した。
「まだ」
まだ、だった。
白い筋は長くなっている。だがところどころ細い。岸から来た光が入った場所だけが強く、入っていない場所は水に負けそうになっている。
イリは串の皿を持ったまま、石段の下を見た。
まだある。
火皿をどけた跡。
看板の脚があった跡。
水草の根。
台車の車輪の間。
人が座っていた板の下。
残っているものは、いつも見つけにくい場所にある。
イリは皿をトマに渡した。
「持ってて」
トマはすぐ受け取った。
「熱い」
「落とさないで」
「おまえが言うな」
トマは皿を胸に近づけた。
「落とさないよ」
イリは水に入った。
靴の中へ水が入る。冷たい。石が滑る。けれど、さっき銅貨を落としたときよりは怖くなかった。
足元の光を、水ごと押す。
強すぎれば散る。弱ければ戻る。
イリは銅貨を拾うときと同じように、指先ではなく水の通り道を見た。どこへ逃げるか。どこで止まるか。何が邪魔か。小さいものは、いつもまっすぐ出てこない。
トマが上から声をかけた。
「右の石の裏」
イリは右を見た。
見えない。
「もう少し下」
トマは皿を片手で抱え、もう片方の手で指した。
イリは言われた場所へ手を入れた。石の裏から白い粒が二つ出た。
「いた」
「見えたから」
「すごいじゃん」
「串の皿が熱い」
「頑張って」
「まだ持たせるのかよ」
トマは文句を言いながらも、皿を落とさなかった。
橋の下では、桶が下りていた。誰かが紐をつけ、水を落とす。くぼみに入った光が外へ出る。桶の水が下にいた男の頭にかかり、橋の上から笑いが降る。屋台は三段上へ逃げ、客はそのさらに上へ逃げる。川べりは、さっきまで店と人で埋まっていた場所を、少しずつ川に返していった。
白い筋は、もう筋ではなかった。
低い首ができかけている。
角はまだない。ひげもない。ただ、川の水を押す先端があった。流されているのではない。水の中で、自分の行きたい方を探している。
ゴウが両手を上げた。
「押さえるな。行かせろ」
川に入っていた大人たちが手を引いた。
白いものが、一度沈んだ。
橋の上が黙る。
次に、低い橋の下が白くなった。
灯りではなかった。火の赤さでもなかった。水の中を通る竜の光が、橋の石を下から照らしていた。
橋の向こう側で、首が出た。
短い角があった。
ひげが水を切っていた。
目は見えない。けれど、首が岸へ向いた瞬間、石段にいた人たちは一列ごと後ろへ下がった。
イリは、その場で立ち止まった。
竜だった。
大きくはない。
けれど、小さくもなかった。
低いのだ。
川から離れず、橋を越えず、屋根にも届かない。そのかわり、石段のすぐそばを通る。尾が水を打つたび、火皿を上げたばかりの屋台までしぶきが飛ぶ。
串屋が叫んだ。
「皿を上げろ!」
トマが皿を高く掲げた。
その顔が真剣だったので、イリは笑いそうになった。
でも、竜の体が細くなったのを見て、笑うのをやめた。
下流の低い橋の手前で、竜が止まりかけている。
橋の下に古い台車があった。祭りの荷物を運んだあと、誰かが面倒になって置いたものだ。車輪の間に、白い粒が固まっている。竜の首はそこへ向かうが、台車が邪魔で通れない。
体がほどけかけた。
「台車!」
ゴウが叫んだ。
大人たちが走る。串屋も火皿を置いて走った。豆屋と飴売りが続く。台車は重い。車輪が石にはまって動かない。
イリは足元を見た。
車輪の前に、何かが挟まっていた。
銅貨だった。
さっきトマに返したはずの銅貨ではない。自分の銅貨だった。いつ落としたのかもわからない。水に濡れて、石と車輪の間に引っかかっている。その銅貨の奥で、白い光がいくつも止まっていた。
イリは手を伸ばした。
銅貨には届く。
取れる。
取れば、串は一本しか買えない。いや、自分の分がなくなるだけだ。トマの銅貨は返した。だから取っていい。取るべきだった。
でも、銅貨を引けば、奥の光がまた石の中へ戻る。
イリは手を止めた。
トマが石段の上から見ていた。串の皿を抱えたまま、何も言わない。
イリは銅貨を押した。
取るのではなく、奥へ押した。
銅貨は石の上を滑り、車輪の下で小さく跳ねた。白い粒がそれにつられて動く。イリは水を押した。銅貨がさらに流れ、光の固まりが外へ出た。
そのまま、銅貨も流れた。
イリは追わなかった。
白い光が台車の下から出る。大人たちが台車を持ち上げる。車輪が石から外れる。光は一斉に竜の首元へ入った。
白さが増した。
竜は大きくならなかった。
けれど、はっきりした。
首が首として立ち、尾が尾として水を打ち、体が体として下流へ伸びた。低いまま、速く、川を走る。
水が橋の上まで上がった。
叫ぶ声がした。笑う声がした。怒る声がした。橋の上から誰かの下駄が落ち、桶が転がり、火を守れという声と竜を見ろという声が重なった。
イリは流れていった銅貨の方を一度だけ見た。
もう見えなかった。
そのかわり、竜がいた。
竜は川から離れなかった。空へも上がらなかった。けれど、橋の下を白く照らし、石段の人々を濡らし、屋台の火を細くし、下流の暗い方へ体を伸ばした。
今年の川の長さだけ、走った。
夜明け前、竜はほどけ始めた。
首が水へ近づく。角が薄くなる。尾が最後に一度だけ水を打つ。そのあと、体の白さが川へ戻っていった。光は粒には戻らず、流れに混ざって下流へ行った。
拍手は、すぐには起きなかった。
みんな濡れていたし、屋台は上へ逃げたままだったし、誰かの下駄はまだ見つかっていなかった。
最初に動いたのは串屋だった。
串屋は、トマが抱えていた皿を受け取った。串は一本も落ちていなかった。ただ、二本だけ少し冷めていた。
「冷めたな」
串屋が言った。
トマは皿を渡しながら答えた。
「落としてないよ」
「偉い」
「熱かった」
「そこも偉い」
串屋は串を二本取り、イリの方を見た。
「銅貨は?」
イリは手を開いた。
一枚だけ残っている。
トマの銅貨だった。
「私のは流れた」
トマが何か言いかけた。
イリは先に言った。
「返さなくていいやつじゃない。あとで返す」
「今言おうとしたの、それじゃない」
「でも返す」
「うん」
トマはそこで頷いた。
串屋は二本の串を皿に置いた。
イリは顔を上げた。
「なんで」
「一本は焦げかけ」
「焦げてない」
「じゃあ竜で冷めたんだよ」
串屋はそう言って、二本の串を渡した。
イリは一枚だけ残った銅貨を出した。
串屋は受け取って、看板を見た。
看板の下半分は水に濡れ、「川串」の「串」の字が少し流れていた。
「字が消えた」
トマが言った。
「川だけ残ってる」
イリが言った。
串屋は二人を見た。
「ここで焼くのも危ねえな」
イリは串を一本トマに渡した。
串屋は川を見た。
川にはもう竜はいない。灯りの赤が戻り、橋の下も暗くなっている。けれど、さっき竜が通ったところだけは、まだ水が荒れていた。
ゴウが川から上がりながら言った。
「来年から、下三段は竜の通り道だ」
串屋は舌打ちした。
でも、火皿を下ろそうとはしなかった。
「客が上まで来い」
「来るよ」
イリは串にかぶりついた。
少し冷めていた。
でも、まずくはなかった。
トマが横で、串を見ながら言った。
「銅貨、惜しかった?」
イリは口の中の肉を飲み込んだ。
「惜しい」
「竜出たのに?」
「銅貨は銅貨」
トマは少し笑った。
イリも笑った。
川べりの上の方で、下駄が見つかったと誰かが叫んだ。持ち主が違うと別の誰かが言った。串屋が火を強くし、豆屋が濡れた紙椀を数え、橋の上の人たちがまだ竜の通った水を見下ろしていた。
トマが言った。
「来年も来る?」
イリは、銅貨が流れていった下流を見た。
それから、串をもう一口食べた。
「来るよ」
「銅貨は?」
「二枚持つ」
「また落とすぞ」
「落としたら拾う」
トマは少し笑った。
イリは串を食べながら、石段の下を見た。
店も箱も火皿も、三段上にあった。
川はさっきより広く見えた。
川はまだ少し騒がしかった。
竜はいない。
でも、イリの靴の中には水が残っていて、歩くたびに音がした。