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プレリュード神戸 ——父の遺したもの

    友人である建築家の古田義弘さんから、ある日、一冊の短編小説集「バラード神戸」を渡された。
    「田中さんの新しい本です。読んでみてください」
    この本の挿絵は、古田さんご自身が描かれた神戸の街並みスケッチだ。

    田中良平さんは、古田さんを介して何度かお会いしたことがある神戸在住の小説家で、以前から氏の小説は読ませていただいていた。ご自身では「小説家と言われるのは気恥ずかしい」と仰る、控えめな方である。

    ——何か、私なりの読後感を返さなければいけない。
    そう思いながら、私はページをめくり始めた。
    終戦直後の神戸が、そこにあった。
    私が生まれる前の神戸の街を、田中さんの文章は、まるで映画のように映し出していく。
    私は神戸で生まれ育ったが、戦後十五年あたりから先の記憶しか持たない。それでも、田中さんの描く三宮や元町、家族とよく行ったメリケン波止場。小説に登場する喫茶店やバー、ホテルは、世代や建物が変わっても、物語の中に息づく風情として街のあちこちに留まっている。
    だからなのかもしれない。この街並みの中にいたに違いない、若い父の姿が目に浮かんだ。
    父のことを思い出すことは、めったにない。

    父は、大正十四年生まれ。神戸の旧家の長男だったが、家のしきたりを嫌って若くして家を飛び出し、家督を弟に任せたと聞いている。詳しい経緯は、息子の私も知らない。
    終戦のとき二十歳。戦後の混乱の中で、神戸の建設土木機材商社の創業を手伝い、近畿一円に支店と営業所を持つ会社へと育て上げ、私が知っている頃には常務取締役だった。
    身長一八五センチ、当時としては珍しい長身の大男である。
    見渡す限り人の頭がひしめき合う当時の三宮そごう百貨店で、母が買い物をしている間も、父は一人で広い売り場をうろうろしていた。黒山の人だかりの中で、どこにいても頭一つ抜き出ていたので、探しまわる必要はなかった。

    「父さんのロレックス、どうしたんだろう」
    ある日、母にふと尋ねたことがある。父が亡くなってから、しばらく経った頃だった。
    「お兄ちゃんが、病院でもらってたよ」
    ——出し抜かれた、と思った。
    私と兄とで毎日交代で父の看護をしていた、その間に、父が病院に持って行ったたった一つの愛用品が、いつの間にか兄の手に渡っていた。
    その事実を、母はあっさりと告げた。私はそれ以上、何も聞かなかった。父も兄も、私も、声を上げない。それが我が家の作法だった。

    学生時代、家に遊びに来た友人にこう揶揄われたことがある。
    「お前、お父さんと話す時、敬語になってるぞ」
    家族のはずなのに、私は父に敬語を使っている。怖いというのとは違う。
    なぜか自然にそうなってしまうのだ。
    一歳違いの兄も敬語であったかどうかわからないが、私たち兄弟が父と長く会話を交わしている記憶は一度もない。

    家は、私が幼稚園の頃まで須磨の海岸の前にあった。太陽族と言われる若者が集まり、モーターボートやオートバイを目の前で乗り回していた。そこに家を構えたのは、おそらく父の好みだったのだろう。
    その後、家族は、父の祖父が遺した六甲山中の別荘へ住まいを移した。隣家まで二百メートル離れた、茂みに覆われた、まさに森の中の家である。猪はもちろん、兎や狸、夜になると梟がホーホーと鳴いていた。檜造りの門をくぐり、睡蓮で水面が覆われた池の脇を二十メートルほど進むと、カイヅカイブキに囲まれた家屋が現れた。
    県道から家の前まで、細い沢に沿った道は細く、車は入れない。父は県道沿いの二百メートル手前にある駐在所の脇に、いつも車を停めさせてもらっていた。駐在所だから安全だ。
    縦にヘッドライトが二つ並ぶ、縦目のセドリックだった。

    父は凝り性な男で、車にも、釣り道具にも、ゴルフ道具にも、持ち物全てに拘りがあった。
    よく部下たちと夜釣りに出かけ、メバルやアイナメ、港の鰻を釣ってきた。釣って持ち帰った魚は自分で捌いていた。
    ゴルフにもちょくちょく行っていた。しかしゴルフが上手いという話は聞いたことがなかった。

    普段は家族にすら口をきかない父も、釣り道具とゴルフ道具のことになると饒舌だった。自分の手にした道具を、誇らしげに語る——子供心にも、その姿はどこか可笑しかった。

    ある日、父が居間でゴルフクラブの手入れをしていた。私が何で叱られたのかは、もう覚えていない。父は手にしていたクラブで、私の頭をコツン、と軽く叩いた。コツン程度だったのに、頭から血が流れ出た。父はその瞬間、黙り込んだ。怒鳴ることも、慌てることもせず、ただ黙り込んだ。
    父が動揺している姿を、私はあのとき初めて見たのかもしれない。

    その森の家で、一歳違いの兄と私は、野生児のように育った。毎日、二人でネザサの茂みをかき分け、コナラやヤマツツジの林の中を走り回った。裏にあった竹藪で筍を掘ったり、その竹を切って手製の弓矢を作り雉を狙った。ヤマモモやアケビを採って食べたり、クワガタを数十匹と捕え、日が暮れるまで山を這い回った。
    ある時、兄弟そろって何か悪さをしたのだろう、何をしたかはもう覚えていないが、夜中に父の手で雪のちらつく森の中へ放り出されたことが何度かある。詫びを入れようにも家に入れない。その内に、母がそっと家に入れてくれた。
    父の声でも、説教の言葉でもなく、ただあの森の冷たさだけが、今も身体の奥に残っている。

    父は、洒脱な男だった。

    私が五歳くらいの頃、なぜか三宮のバーに連れて行ってくれたことがある。場所もどこか分からない。記憶が正しければ、店の名前は「マン」だったか。
    きれいな女性たちの注目を私が一人占めし、バナナが高級で病気の時にしか食べられなかった時代に、見たこともない細長いグラスに入った本物のフルーツジュースが出された。父は誂えのブレザーを着て、オールドパーのロックグラスを片手にしていた。
    家族では、生田神社の前にある洋食屋の「もん」によく出かけた。舶来の重厚な空気を纏った店だ。
    その重たい扉の向こうは、子供の私にとってまったくの別世界だった。
    選ばれた大人だけがその扉を押すことができるのだという、独特の威圧感があった。私はきまってエビフライ、兄はいつも小牛肉のローストを注文した。

    闇市の喧騒と、洗練された異国情緒。その入り混じった神戸の街を、長身の大男は誂えのブレザーで闊歩していたに違いない。
    田中さんの小説の背景に、そんな若い父の姿がエキストラのようにごく自然に映り込んでくるのは、私の中にこうした記憶があったからだろう。

    その父は、息子たちに仕事の話を一切しなかった。会社を継げ、という言葉も、一度として聞いたことがない。
    私は大学を出て、大手メーカーに就職し、技術者として海外を行き来する日々が続いた。
    兄は役所に入り、研究者の道に進んだ。
    父は私たち兄弟の道について、何も言わなかった。許したのでも、勧めたのでもない。ただ、何も言わなかった。

    業界の付き合いも、嫌っていたようだった。会社の取引先や業界団体との宴席にはほとんど顔を出さなかったそうだ。
    一方で、銀行や保険会社、仕入先の担当者とは親しくしていたらしい。気を遣う場所が嫌だったのかもしれない。
    部下たちには慕われていたし、友人も多かったと聞く。それでも、人付き合いそのものを進んで広げる人ではなかった。

    父はある時期、勤めていた商社を退き、自らの手で会社を立ち上げた。建設仮設機材のリース会社である。
    当時、ゼネコン各社が自前で抱えていた足場や囲いを、必要な時だけ貸し出す。
    いずれ時代はリースへと切り替わるという、父の先見の明であった。

    だが借金を避けた父は、好機の時代に機材を増やし切れず、後発の同業他社に規模で抜かれていった。それでも会社の名前だけは、業界の中で広く知られていた。

    会社が少しずつ稼ぎ出した頃、父は自前の事務所を建てた。
    それまで事務所は、今にも崩れそうな古い木造アパートの一階で、父の部屋は、空き地の一角に置かれた建設現場用の仮設プレハブだった。
    新事務所の建設を発注する際、父は——お客でもある建設会社の中から——一社だけを選んだ。
    同じ時期に事務所を建てたライバルのレンタル会社は、複数の建設会社にJVを組ませた。それが普通の判断である。
    けれど父は、一社だけを選んだ。その会社とは、当時のことを知っている人がほとんどいなくなった現在も、なお深い縁が続いている。

    経営は決して楽ではなかったらしい。私が高校生だった頃、授業料を、父は現金ではなく小切手で持たせた。わずか数千円のことだ。当時の私は小切手を見たこと自体が初めてで、何か自慢げな気持ちで学校へ出かけた。
    父の手元にその日、現金がなかったのだと知ったのは、ずっと後になってからである。

    父が七十三歳のとき、検査のために一泊だけ入院した。その夜、病院からただならぬ様子で電話が入った。父が病室で転倒し、頸椎を骨折したというのだった。
    兄と私が病院に駆けつけたとき、父はベッドの上で頭を固定されていた。兄は動物が専門だが、生理学の博士号を持っている。慌てた様子は微塵もなく、医師が使った薬剤のリストを静かに目で追っていた。やがて父の呼吸の様子を見て、淡々と医師に異常を指摘した。担当の医師は検査中心で、専門医ではなかったらしい。
    喉を切開して人工呼吸器をつけたい、と提案された。
    兄と私は病室の外で短く相談し、それを断った。父は心臓ペースメーカーをすでに入れていた。その上に喉を切り、機械でつないだ姿は、私たちが知っている父ではない。
    あのそごうで人ごみの上に頭一つ抜き出ていた大男、誂えのブレザーでオールドパーを傾けていたあの男を、私たちは機械で延命させたくはなかった。
    口数の少なかった父が、初めて私たち兄弟に、「それで良い」と話しかけてくれたと感じた瞬間だった。
    一ヶ月後、父は息を引き取った。

    それからしばらくして、銀行の代表と父の会社の従業員代表が、私のところへ来た。兄ではなく、私のところへ。
    後を継いでほしい、ということだった。
    迷いがなかった、と言えば嘘になる。当時、メーカーでの仕事は脂が乗っていて、米国での開発組織を束ねる役目も期待されていた。技術者として国際的な現場の真ん中にいた。
    地方の建設業界に身を移すなど、考えてもみなかった。だが、従業員の熱心な説得と、社員と取引先を守らねば、という思いに、最後は押された。引き受けると決めた。
    不思議なことに、不安は記憶にない。あったのは「私にできないことはない」という、根拠のない自信のようなものだった。
    新しい現場へ飛び込むことを、自分は怖がらない——そのことに、その時の私は気づいていなかった。
    その後二週間、妻は口をきいてくれなかった。

    直属の上司だった役員に相談すると、理解を示してくださった。「君が今やっている開発製品が軌道に乗るまでは、月火木金は出てこい。水土日は自由にやれ」。四ヶ月間、私は二足のわらじを履いた。

    水曜と土日に父の会社へ出社して、私は愕然とした。
    電話の応対は悪い、社員は挨拶もまともにできない、営業職はそれぞれが個人商店のように動いていた。机の上のキーボードの横には、お菓子とドリンク、乱雑に置かれた書類の山。指導や育成という言葉が、ここには存在しないと思うほどだった。とんでもない会社を引き継いだものだ、と思った。
    だが課題を洗い出し、優先順位をつけ、アクションに落とし込むのは、メーカーで鍛えられた私の仕事そのものだった。すぐに動き始めた。
    外部の講師を呼び、毎朝「おはようございます、〜でございます」の唱和をさせたりもした。あの頃に書き出した課題リストは、たしか三百項目を超えていた。

    ところが、業界を歩き始めた私は、思いがけない場所で、父の足跡と次々に出会うことになる。

    最初に呼び出されたのは、競合関係でもある父がかつて勤めていた商社だった。
    会長と社長を務めていたのは、二人とも、父が独立する前の部下だった人々である。私が小学校の3・4年生の頃、父が姫路勤務になり、山の家から通えず、家族で会社の上階に暮らした時期がある。二人は、オフィス横の資材置き場で、私とキャッチボールをし、逆立ちの練習に付き合ってくれたので、子供の頃から知っていた。
    会長と社長は、私を頻繁に呼び出した。引き継いだ会社の資料を持って行かされた。
    書類を広げては、経営の基本から、業界のこと、付き合い方、判断のしどころを、丁寧に教えてくださった。
    父の会社とは、規模で言えば桁違いの大きな会社だ。本来であれば、競合相手の若造を呼び出して指導する義理など、何もない。それでも、二人はそうした。

    ある日、社長は開口一番、こう言った。
    「学君は、賢かったのに、こんな会社を継ぐとは馬鹿になったな」
    口の悪い、けれど優しい方であった。私はその一言を、今でもはっきりと覚えている。父からは、一度も聞いたことのない言葉だった。「賢い」も「馬鹿になった」も、父は息子の前では決して口にしなかった。

    しかしそれは、後になって分かるのだが、
    父は、自分の元部下たちに息子たちのことを、陰で自慢していたのだ。
    「兄はどこの大学を出て国の機関で家畜病の研究者としてイギリスやメキシコで活躍している、弟はあの大学を出て、一世を風靡したカメラの開発をして、アメリカでアップルやマイクロソフトと仕事をしている」と。
    きっと母から仕入れた、兄や私の近況を、父なりに膨らませて部下たちに語っていたのだろう。
    無関心だと思っていた、あの父は、そんなことまで家の外では話していたんだ。気心の知れた人たちとだけ行く、馴染みのバーで、饒舌に話す父の姿を想像すると、思わず口元が綻んだ。

    私が就任してすぐに、大阪の、ある同業レンタル会社の社長が、わざわざ姫路にまで来てくださった。その方は、規模はさほど大きくないが、業界の全国組織にも詳しい方だった。
    「いっしょに東京へ行こう」、私を全国団体の中で紹介してくださった。私はやがて、その団体の専門部会の委員になった。
    その社長は、父の会社のことを「私の兄貴分の会社」と呼んでいた。

    父の縁は、業界の経営者たちだけにとどまっていなかった。
    足場のレンタル業は、高い建物の周りに足場を組み上げるための鳶職とは切っては切れない関係だ。
    協力関係にあった鳶職の親方には、就任後度々呼び出された。ほとんどが酒の誘いだ。背中に刺青を入れた、前の会社では、決して出会うことがない方だ。
    姫路の「灘のけんか祭り」にも誘い出された。おそらく、私の器を測っていたのだろう。
    幸い私も父から受け継いだ大酒飲みの類、御影のだんじりを曳いているだけあって、祭りには詳しい。あっという間に気に入っていただき、職人たちからも信頼も得た。親方は、私という男よりも、父の築いた関係が、息子の代になっても続いていくのか、それを心配していたのだろう。父は、鳶にも慕われていた人だったのだ。

    業界とはまったく別の場所でも、私は父の影と出くわした。
    ある夜、姫路の魚町のクラブに、会社に出入りする保険屋さんと連れ立って入ったときのことだ。その保険屋さんも保険業を営み出した頃に父に随分世話になったと言って、私を招待してくれたのだ。
    魚町は、企業接待によく使われる姫路屈指の飲み屋街である。クラブのマネージャーが、私のところに静かにやってきて、こう言った。
    「お父様には、本当にお世話になりました。お父様は、いつもお一人で、静かに飲んでいらっしゃいました。そこへ取引先の建設会社の方が入ってこられると、何も仰らず、その方々のお代をそっと払って、先にお帰りになっていました」
    私はその言葉を、反芻した。
    父が、姫路の店で、一人で飲んでいた。取引先が入ってくれば、声をかけることもせず、黙って勘定を済ませて、先に帰る。
    それが、この大男の人付き合いの形だった。挨拶を交わすのが照れくさかったのか、見られたくなかったのか、それとも、それが父にとって最も自然な形だったのか。私には、今でも分からない。

    父が亡くなって間もなく、女性の顧問税理士が、私に告げた。
    「お父様から、ご自分に何かあったときのために、二千万円をお預かりしておりました」
    驚いた。父はその金のことを、家族の誰にも話していなかった。

    後継者を息子と決めていたわけではない、むしろ息子が継ぐとは思っていなかったであろう父が、なぜそれだけの金を、見えないところに置いていたのか。
    冷静に考えれば、答えはおそらくこうだ。
    自分がいなくなったら、その金で会社を整理してくれ。
    それが父の意図だったのだろう。父は息子の承継を当てにしていなかった。誰かに迷惑をかけずに会社を畳めるよう、信頼できる税理士に静かに備えを託していた。

    その金は、結果として、私が継いだあとの一年を支えた。税理士は、亡き父に代わって親身に経営に立ち入り、業界に疎い私を導いてくれた。
    父は、息子のために金を残したのではない。父は自分の終わりを、自分なりに静かに準備していた。
    けれども、その準備は、結果として、息子の始まりを支えていた。

    父は、業界団体との付き合いを嫌っていた。声を上げる場が、性に合わなかったのだろう。それでも父の周りには、いつも、言葉を介さずとも人が集まってきていた。
    私は、前職の経験から、広いネットワークを持つことの意味を知っていた。父の歩まなかった道を、私は歩いた。
    様々な団体に私を紹介してくださった方、経営の基本から教えてくださった方、業務のノウハウを細かく仕込んでくださった方、職人の世界へ橋を架けてくださった方、仕事の枠を超えて支えてくださった税理士——。
    父が遺した人とのネットワークが、いつしか私のネットワークの中心になっていた。

    当時の日本の建設産業は、バブル崩壊からの長い後退の只中にあった。阪神大震災の特需も収まり、ゼネコンの大型倒産が相次いでいた。このままでは父の会社の先もない。
    私は元来、海外を舞台にしてきた技術者である。日本の地方の建設業に閉じこもる気はさらさらなかった。胸の中にずっとあった構想を実行に移した。ベトナムに設計事務所を設立した。
    二〇〇一年の春、私はホーチミンに降り立った。建設不況の日本から、まだ何の足場もない異国の街へ。その第一歩を踏み出すときも、父が黙って育ててきたものが、私の背中を押していた。

    それから四半世紀が経った。引き継いだ父の会社は、社員が挨拶を交わせるようになっただけでなく、売上も従業員数も大きく増えた。電話の応対も気持ちが良いと取引先に褒められることもある。
    私自身は今、神戸とホーチミンを三、四週間ごとに往復し、生活の半分をベトナムの 路地裏 (hẻm)の中で送っている。
    ベトナムの hẻm で日が暮れる頃、近隣の親父たちが路上の縁台に腰掛け、氷を入れたジョッキでビールを飲み交わしている。その輪の端に座って、私もジョッキに氷を浮かべる。
    あの森の家で口数の少なかった父が、もし戦後の混沌の神戸ではなく、サイゴンへ来ていたら、こういう場所で誰よりも頭一つ抜き出して、ジョッキを傾けていたのではないか——、
    あるいは、何も言わずにただ静かにグラスを手に取っていただけかもしれない。

    父は、私に何も渡さなかった。
    仕事の話も、人生の助言も、私には届かなかった。
    腕時計は兄のものになった。
    けれど。
    父の生き方そのものが、気づかぬうちに、私の足元を支えていた。

    田中さんの短編集を読み終えたとき、私はようやく気づいた。
    直接話せなかった父にずっと語りかけられていたのだ、と。
    父が一度も口にしなかった「会社を継げ」を、私は引き受けることで返した。
    三〇年近くが経った今、当時からの社員はもう二人しか残っていない。

    父は「よくやった」と言ってくれるだろうか。

    いや、きっと言わないだろう。

    今は、足跡を通じて、聴くことしかできない。敬語のままで。

     
     
    人里離れた六甲の森の中の別荘で育つ。デジカメ開発者から、父の死により、建設機材リース会社を承継。2001年にホーチミンを訪れて以来、障がいを持つ孤児達が自立するための職業教育センター設立に奔走し、合わせて設計会社と専門学校を創業した。絵と開高健を愛する神戸っ子、サイゴン25年目。

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