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ああ、帰ってきた

    「ああ、帰ってきた」

    退院したばかりの叔母が、リビングに一歩入って立ち止まりました。
    75日ぶりの我が家でした。和室のレースのカーテン越しに、やわらかな光が差し込んでいます。そこには、出かける前にはなかった介護用ベッドが、そっと据えられていました。

    叔母は父の妹です。子どもの頃、一時期だけ同じ屋根の下で暮らしたことがあります。私の合唱のコンクールや演奏会にも、よく来てくれました。誰もが知る大企業の本社で働き、定年まで国内営業の事務をしていました。生涯独身で長く一人で暮らしてきました。

    幼い頃の名残で、私は叔母を「おねえちゃま」と呼んでいました。人に聞かれたら少し気恥ずかしい呼び方です。けれどその呼び方はずっと変わりませんでした。

    数年前から変形性股関節症を患い、医師からは手術を勧められていました。それでも叔母は、「もう少し様子を見たい」と言い続けていました。

    ある朝、突然、叔母から電話がかかってきました。

    「秋音ちゃん?」
    「ダメだ……足の骨、折れちゃったみたい……」
    「えっ、どうしたの?」
    「朝、布団から立ち上がろうとして、転んじゃったのよ」
    「大丈夫? 痛いの? 吐き気は?」
    「吐き気はないけれど、動けない……」

    幸い、叔母は首からスマホを下げていました。頭を打った様子はなく、会話も普通にできます。私は父にも連絡し、家から電車で30分ほどの叔母の家へと急ぎました。

    玄関を開けると、布団のそばに座る叔母の姿がありました。

    「大丈夫? 痛い?」

    私はそっと近づきました。叔母は弱々しく頷きます。

    「うん……痛いけど、頭は大丈夫……」

    当時はコロナ禍で、『救急車はできるだけ控えてほしい』と呼びかけられていた時期です。タクシーも考えましたが、右足は少し動かすだけで激しく痛み、立ち上がれません。私は119番に電話をしました。

    所轄の救急車は出払っていて、すぐには向かえないと言われました。

    「家の近くまで来たら、サイレンを鳴らさないで来てもらうことはできますか?」

    即答でした。

    「それはできません」

    電話は一度切れました。20分ほどだったと思います。そのあいだに、保険証や下着などをバッグに詰めました。叔母は足を動かさなければ、痛みは少し落ち着いているようでした。

    やがて折り返しの電話がありました。搬送を終えた遠方からの救急車が、帰る途中で来てくれることになりました。

    しばらくして、遠くからサイレンの音が近づいてきました。マンションの廊下からガラガラとストレッチャーを押す音が近づき、玄関のインターホンが鳴りました。

    二人の救急隊員の方が到着しました。まず、血圧を測りながら、叔母にやさしく問いかけます。

    「お名前わかりますか」
    「今日はどうしましたか」

    叔母の様子を丁寧に確認しながら、メモを取っていきました。

    「立ち上がれないだけなんですが……」
    「このくらいで救急車を呼んでしまって、すみません」

    叔母と私の声が、ほとんど同時に出ました。すると、救急隊員の方は、穏やかな口調で言いました。

    「大丈夫ですよ。こういう時に呼んでいただくものですから」

    ストレッチャーは玄関前の共用廊下にあり、叔母をそこまで運ぶ必要がありました。

    「私がおぶりますね」

    そう言って、一人の隊員の方が叔母をゆっくり背中に乗せました。そして、慣れた様子で静かに立ち上がり、玄関へ向かいました。

    叔母はストレッチャーに乗せられ、マンションの玄関前に停まっている救急車まで運ばれました。そのとき、少し離れたところから様子を見ている住人の方がいました。私はそっと会釈をして、一緒に救急車に乗り込みました。

    初めて乗る救急車の車内は、全体が白かったことしか覚えていません。私はどこに座ってよいかわからず、後ろのドア近くの横向きの座席の端っこに腰かけました。

    救急車に乗れば、すぐ病院へ向かうものだと思っていました。けれど、出発までさらに10分ほど、その場に留まることになりました。搬送先が、なかなか決まらなかったのです。

    やがて、隊員の方が言いました。

    「良かった、前川が引き受けてくれるって」
    「それは良かった」

    前川病院は、この地域ではよく知られた整形外科病院でした。この救急車は、その病院へ患者さんを搬送した帰りに、こちらへ来てくださっていたのです。

    ふと、隊員の方が言いました。

    「今日は朝からずっと出動していて、まだ一度も休んでいないんです」

    その言葉に、私は何も返せませんでした。叔母のそばに付き添い、常にやさしく声をかけてくださるその方の腕。そこにある「救急救命士」の腕章が、ふと目に入りました。

    ◇

    病院に着いてからも、すぐには診てもらえませんでした。救急隊員の方から病院スタッフへの引き継ぎにも、思いのほか時間がかかりました。叔母はストレッチャーに乗せられたまま、検査が始まるまで約1時間待つことになりました。

    私は父に連絡を入れ、叔母のそばのベンチに座って待ちました。やがて、父も病院に駆けつけました。

    レントゲンなどの検査を終え、ようやく診察室へ呼ばれました。叔母は、骨折ではありませんでした。変形性股関節症がかなり悪化していて、「根本的に良くするには、人工関節を入れる手術が必要」と説明されました。

    それを聞いた叔母は、少しも迷いませんでした。

    「手術をお願いします」

    その場で、手術日は2週間後に決まりました。いくつかの書類を前にして、職員の方が私に確認しました。

    「ご家族の方ですか?」

    一瞬、言葉に詰まり、私は答えました。

    「姪です」

    職員の方は私を見てうなずき、そのまま手続きを進めました。コロナ禍のため面会は一切できず、必要な日用品は病院1階の受付に預けることになりました。

    気がつけば、午前中に搬送されたはずなのに、外はすっかり暗くなっていました。

    手続きが終わると、叔母はそのまま病室へ移動することになりました。エレベーターの扉が閉まる直前、ストレッチャーの上に寝かされた叔母の姿が見えました。

    「おねえちゃま、頑張ってね」

    私が声をかけると、叔母は右手を上げ、少し振り返るようにして、手を振りました。

    「ありがとう、じゃあね」

    閉まりゆく扉の向こうで、叔母はいつもの「おねえちゃま」の顔をしていました。

    叔母の入院生活は2か月半に及びました。直接会えない日々が続くなか、叔母からひとつお願いがありました。

    「小さなラジオが欲しいの」

    叔母はクラシック音楽が好きで、ふだんからラジオのFM放送をよく聴いていました。私は家電量販店で名刺大のポータブルラジオを選び、夕方5時の受付ぎりぎりに病院へ届けました。

    翌日、叔母から電話がありました。

    「とてもよく聴こえるわ。ありがとう」

    叔母の日記に、このときのことが書かれていました。

    (叔母の日記より)
    秋音ちゃんに小型ラジオの購入を依頼。
    夕方5時の受付ギリギリ時間に秋音来訪(会えないが)。
    名刺大の東芝製の性能バツグンのラジオ、
    これで音楽もニュースもバッチリ

    日記には、ラジオに添えたポストイットのメモも残されていました。

    手術を終えて1か月ほど経った頃、叔母からLINEが届きました。

    「ソプラノのマリコちゃんのソロリサイタルのチケットがあるんだけど、秋音ちゃんよかったら行ってくれない? 3月18日(土)。封筒に入れて冷蔵庫の扉に貼ってあるから」

    「この日ならいける。いいの?ありがとう!」

    「ああよかった。だってもったいないでしょう。私、マリコちゃんの声大好きなのよ」

    83歳の叔母は、かつて勤めていた会社の企業内合唱団に40年近く在籍していました。私より10歳ほど年下のその歌手を、「マリコちゃん」と呼んでいました。

    3月18日(土)、私はそのリサイタルへ行きました。

    叔母が入院しているあいだ、私は叔母の家の片付けにも通っていました。ベランダの植物は、誰かが水をやらなければそのまま枯れてしまいます。冷蔵庫には生鮮食品がぎっしり入っていました。私は地域のごみ出しの曜日を調べ、少しずつ処分していきました。

    叔母もそれを気にしていたようで、電話のたびに、

    「冷蔵庫の中の物、迷惑をかけてしまって申し訳ないわね」

    と言いました。

    そのたびに私は、

    「大丈夫だからね」

    と答えていました。

    入院後まもなく、マンションの管理人さんにも長期入院になることを伝えました。

    「あんなにお元気だったのに。どうぞお大事に」
    「ありがとうございます。緊急連絡はこちらまでお願いします」

    そう言って、私は自分の携帯番号を伝えました。

    手術までの2週間、叔母は大部屋で過ごしながら、リハビリ室に通っていました。夜になると、電話やLINEが届きました。

    「手術は本当に必要なのかな」

    痛みが和らぎ、身体が少し楽になった分、迷いは強くなっていきました。同室の患者が手術をやめて退院したことも、その揺れを後押ししていました。治療方針の疑問を口にすることもありました。

    その揺れは、遠方の従妹にも伝わり、私たちは何度も連絡を取り合っていました。

    その一方で、高齢の父と私は、手術の同意書への署名のために病院へ向かいました。後に遺された日記には、次のような言葉がありました。

    今日は兄と秋音で手術承諾書提出。
    87才がまたしてもお出まし。
    申し訳ない。元気だとは言うがどんなにお疲れかと……

    ◇

    2月の手術当日。その日のことは、ほとんど記憶に残っていません。朝から雪でした。午後、雪が降り続く中、ただ家で連絡を待っていました。その日のうちに、病院から無事に終わったという連絡を受けました。

    私は、退院後すぐに自宅へ戻るとは思っていませんでした。ところが病院側は、当初から「自宅へ戻る」ことを前提に進めていました。在宅生活の準備を急ぐ必要があり、私は次第に焦り始めました。

    父もまた、「一人暮らしはもう難しいのではないか。今度転んだらどうするのか」と、自宅に戻ることを案じていました。それでも、叔母は自宅に戻ることしか考えていませんでした。父も私も、反対はできませんでした。

    父は、いざという時に知らせるセンサーをつけるよう求めました。私はそれを叔母に伝えましたが、その提案は先送りされました。

    介護保険の認定については、地域包括支援センターへ電話で相談しました。

    「代行することもできますよ。姪御さんで、ここまで一生懸命される方は少ないですよ」

    電話を切ったあとも、その言葉だけが残りました。

    その後、役所へ向かいました。灰色がかった薄暗い庁舎の中で、申請を進めました。

    「役所の人が介護申請の調査で突然来たのよ」と叔母から聞きました。
    手術日から20日後のことでした。調査の日は急に決まったそうで、コロナ禍のため家族は同席できませんでした。

    退院日のわずか1週間前、それまで禁止されていた病院の面会が解禁されました。私は約70日ぶりに叔母に会うため、病院へ向かいました。

    病室のあるフロアでエレベーターのドアが開いた途端、元気そうな叔母の顔が飛びこんできました。叔母はエレベーター前のソファに座り、笑顔で私を待っていました。

    「秋音ちゃん、ありがとう!」

    叔母は傍らに置いていたステッキを使いながら、ゆっくりと立ち上がりました。

    「わあ、歩けるようになったのね。そのステッキ、素敵ね」
    「そうよ、少しずつね」

    叔母の好きなえんじ色のステッキは、チタンでできたドイツ製でした。

    「痛くないの?」
    「どこも痛くないわよ」

    そう言って私を見た叔母は、誇らしげにほほ笑んでいました。

    その2日後の月曜日、介護度の認定通知書が届きました。介護度は、思っていたより重いものでした。私はすぐに地域包括支援センターへ連絡し、ケアマネジャーの木村さんが決まりました。

    退院は土曜日。残された時間は数日だけでした。

    木村さんがすぐに福祉用具会社を手配してくださり、木曜日に自宅マンションで打ち合わせをすることになりました。来てくださったのは、福祉用具会社の支店長でした。壁に手を触れ、足元のわずかな段差まで見落とさず、叔母の生活動線をゆっくり確かめていきます。

    とくに印象に残っているのが、ベランダへの出入り口でした。

    「ここは手すりがあった方がいいですね。部屋からベランダに一歩出るときにバランスを崩して、転倒するケースが多いんです」

    支店長はサッシの前で足を止め、そう言いました。

    そうして、天井と床を突っ張るポール型の手すりを1本設置することになりました。

    ◇

    4月8日、こうして75日に及んだ入院生活を終えて、叔母は退院しました。叔母の自宅マンションのベランダの前には桜並木が広がっています。叔母に桜を見せてあげたかったと思いました。その年の桜は、もう葉桜になりかけていました。

    退院当日の午前中、叔母のマンションには、手配した福祉用具が運び込まれました。手すりやシャワーチェア、そして介護用ベッド。布団を敷いて床に寝る生活にはもう戻れません。病院での生活から大きく変わらないように、簡易的なベッドを1台借りることにしました。

    「普通のタクシーで帰れますよ。車いすではないから」

    退院時は介護タクシーで帰るものだと思い込んでいました。ソーシャルワーカーのその言葉で、私ははっとしました。

    マンションに着いてからも、叔母は自分の足で部屋まで戻っていきました。ドアを開けると、玄関には手すり付きのスロープが取り付けられていました。

    「あらまあ……すっかり変わってしまって……」

    叔母はステッキをつきながら、ゆっくりと部屋へ足を踏み入れました。部屋や洗面所の入り口には、点々と手すりの棒が立っています。叔母は、一つ一つ手で確かめながら、奥へ進んでいきました。

    そして、リビングにつながる和室の前で足を止めました。

    「ああ、ありがたい。いない間にすっかり整えてくれて……ひとりではどうしようもなかった」

    何も置いていなかった和室に、介護用ベッドが据えられていました。

    「座ってみていい?」

    叔母はベッドにゆっくり腰をおろしました。

    「ありがたいわね」

    そう言って、しばらく畳の一点を見つめていました。

    後から見つかった叔母の日記には、この日のことがこう記されていました。

    午後一時退院。もう二度と戻らないぞ! と退院。
    久しぶりの我が家へ。
    兄と秋音の用意してくださったベッドがありがたかった。
    不安でもあるひとり暮らしに戻る。

     
     
    叔母を支えた経験と、暮らしの中でふと心に残ったことを書いています。 中国語全国通訳案内士/1級FP技能士/CFP®としての知識を背景に、 家族として、生活者として考えたことを、ジャンルにとらわれず綴っています。

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