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【空波企画】読書感想文を書いて、300円チップを受け取ろう🌊📚──ちょっとオトナの読書感想文❤️  mimi編

この記事は、空波さんの企画「感想文」です😊

空波さんの、千葉での豪雨の記事を読みました。 大変だった様子を読んでいて、私も昔のことを思い出しました。

私の故郷も、よく雨が降り、川が氾濫する地域でした。

大雨になると、空の色がずっと重く、大人たちは、何度も川に行って水位を見てました。

子どもながらに「またか」と思いながらも、どこかでそれが日常になっていた気がします。

子どもの頃は、大人たちから 「もうすぐ危ないから、お寺に行こう」 と言われて、お寺へ避難していました。

今日は、危ないと感じると母が、ご飯をたくさん炊いておにぎりを作っていました。

被害が、ひどくなったらいけないので近くの小高い山の上のお寺にみんな集まりました。


雨の音はとても大きく、カッパと長靴を履いて少し水が道路にしみ始めているときに足早でお寺を目指しました。

雨の音と歩きにくさでギュゥギュゥした感触。

子どもだった私は、そこに他の子どもたちも集まっているので、怖いというより、みんなでワイワイしていた記憶があります。

普段は違う地区に住んでいる子と会えたり、畳の上で雑魚寝のように並んだり、持ち寄ったお菓子をみんなで配りあいこしたり。

どこか非日常の「遊び場」のような感覚すらありました。

ただ、大人たちの表情だけは少し緊張していて、その空気だけが子ども心にも残っていました。

水が引いたあとは、畳を上げたり、泥を掃除したり。

玄関先に溜まった泥をスコップでかき出し、家の中に入った水の跡を雑巾で拭き取る作業が続きました。


何回か経験すると、不思議に「大雨がくるとこんなもんなんだ。」って思うようになり、特別それが大変なことなのかどうかもわかりませんでした。


ただ、水が引いてからの作業は子供も参加してるので、大変だな~。嫌だな~とは感じていました。

そして、私が成人した頃、故郷は大きな豪雨災害に見舞われました。


その頃、私はもうそこには住んでいませんでしたが、ほとんどの家で2階近くまで水が来たと聞きました。


ニュース映像で見た町の様子は、知っているはずの風景がまったく別のものに変わっていて、言葉を失いました。

牛も、車も流され、町の中がまるで川のようになり、移動するためにボートまで出たそうです。

道路と川の境目が消え、どこが道だったのか分からないほどだったと聞きました。


あの場所が、そんな姿になるのかと想像するだけで胸が痛みました。 水は、恵みでもあるけれど、本当に怖い。


田んぼを潤し、作物を育て、人の暮らしを支えてきた存在である一方で、一度牙をむけば生活そのものを奪ってしまう。


その両面を、私は故郷の経験を通して何度も見てきた気がします。

その、大きな水害があったおかげで、国や県が動いて川の幅が広がりました。今では、大雨が来ても、心配して水位を見に行く人は少なくなったと思います。


ここまでの、水害にならないと動いてくれないことに、いら立ちと不満を持ちました。


空波さんが、今回経験されたことは、もしかして再び起きるかもしれない。
それまでに、行政はどう対処するのか?って考えました。


最近は、昔から水害の多かった地域だけではなく、どこで大きな被害が起きてもおかしくないように感じます。


気候の変化なのか、雨の降り方そのものが変わってきているのか、素人の私には分かりませんが、「想定外」という言葉を耳にする機会が増えたことだけは確かです。


そんなことを考えていたら、以前、仕事で関わった八女出身の高齢者から聞いた話を思い出しました。


実はこの話、私はずっと、いつか自分の記事に書きたいと思っていました。


でも、なかなか書き出すきっかけがありませんでした。

重さのある話であるほど、どう言葉にすればいいのか分からず、時間だけが過ぎていきました。


空波さんの豪雨の記事を読んだ時、子どもの頃の水害の記憶と、この八女の話が自分の中でつながって、 「ああ、今なら書けるかもしれない」 と思いようやく記事にすることができました。


【本当はどうだったのだろう。気になって、AIの力も借りながら、公開されている八女の資料や郷土資料を2時間近く調べました。

ここからは、確認できた事実と、今も地域に残る伝承を分けながら書いてみたいと思います。】


江戸時代、現在の八女市には、中島内蔵助という庄屋がいたと伝えられています。(当時の久留米藩から、土地を改良するよう命じられたと伝えられています。)


何度工事をしても洪水で堰が壊れ、土地に水を引くことができなかった。


人々の暮らしは安定せず、田畑は荒れ、村は水と戦い続けていたといいます。

そこで内蔵助は、神のお告げがあった。枕元に出てきたと村人に話した。

「翌朝、左結びの草履を履いてきた者を人柱にする」 と村人たちに告げたそうです。


翌朝、村人たちは皆、右結びの草履を履いてきた。


誰もが自分ではないことを願いながら、それでも約束の場に集まったのだと思います。

けれど、一人だけ左結びだった人がいた。 それが、言い出した中島内蔵助本人だった。

そして、自ら人柱になった。

「その姿を見た村人たちは、『この人の命を無駄にしてはいけない』と奮起し、再び工事に力を尽くしたと伝えられています。」


私はこの話を初めて聞いた時、とても強く心に残りました。


恐ろしさと同時に、どこか現実離れしたような静けさも感じました。


本当に、伝えられている通りのことがあったのか。 気になって調べてみました。


自ら人柱になったという部分については、当時の記録で完全に証明されているわけではなく、地域に残る伝承として扱われていました。


でも、この話は、ただの昔話として消えてはいません。


中島内蔵助の墓や顕彰碑が今も残り、命日とされる10月17日には墓前感謝祭が行われています。


長い年月の中で形を変えながらも、地域の人々の中で「忘れない」という行為が続いてきたこと自体が、この話の重みなのかもしれません。


地域の学校でも長く語り継がれ、中島内蔵助をたたえる行事が行われてきました。

今も子どもたちが、山ノ井堰や中島内蔵助について学んでいます。


何百年もの間、一人の人の名前が残り、地域の人たちが伝え続け、手を合わせ続けている。


私は、その事実にとても惹かれます。 史実なのか、伝説なのか。


それだけでは片づけられないものが、そこにはあるような気がします。


水に苦しみ、水とともに生きてきた地域だからこそ、残ってきた話なのかもしれません。


人の記憶は曖昧でありながら、それでも必要なものだけを残していくのだと思います。


空波さんの記事を読まなければ、子どもの頃のお寺への避難も、泥のついた畳も、故郷を襲った豪雨災害も、そして中島内蔵助の話も、こんなふうに一つにつながらなかったかもしれません。


ずっと書きたかった話を、やっと書けました。


昔も今も、水の怖さは変わらない。


そして、その怖さの中で人がどう生き、何を守ろうとしたのか。 それを語り継ぐことにも、きっと意味があるのだと思います。


空波さんへ
この江戸時代の伝承されている話をこうして出せるきっかけを作ってもらえてありがとうございます。


感想文には、なってないかもしれませんが、みなさんにこの中島内蔵助さんのことを知ってもらえる、その当時の話をできたこと嬉しかったです。


この感想文はここの記事からです。👇

空波さんの企画です。👇👇👇👇


昔過ぎました。

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