
【創作大賞2026応募小説】「君のいない夏に、花が降るように」
友達で、戦友で、恋人のようで、名前を付けることが最後までできなかった。関係に名前を付ける前に亡くなってしまった春菜。春菜の死後、抜け殻のように日々を生きる良夜に彼女の妹からメールが届く。春菜の妹、夏花は「一か月後に会いませんか」と良夜にメッセージを送っていた。怪訝に思いながらも、春菜の面影を残した夏花に会いたいと良夜は承諾する。
同じ頃、良夜は友人の武司から「花火大会に行かないか」と誘われた。誰かを誘ってもいい、とも。春菜の存在を探し続ける自分に呆れながらも、良夜は夏花に「花火大会に行かないか」と誘う。
大切な人を失った良夜と夏花が、喪失を受け入れて前を向けるようになるまでを描いた小説。
「橘夏花です。桐野良夜さん。一ヶ月後に会えませんか」
葬式以来の少女から、たった一言。春菜の妹、夏花。春菜の葬式以来会っていなかった。はっきり言ってこれといった会話もしなかったのに、なぜ今更良夜に会いたがるのか。その理由を知りたくて、良夜は返信を返した。
「分かりました。会えます。どこがいいですか」
メッセージに気付いたのはシーツの冷たさに目が覚めた日だった。緩慢に動いて、スマホの電源を入れる。表示された数字は午前二時。深夜も深夜だ。良夜は灰色の上着のチャックを上げた。セミダブルのベッドはやけに大きかった。
今、二人でいたなら。ありもしない幻想を思い描く。あの時はあたたかくて、上着なんていらなかったのに。今は上着無しでは直ぐに現実に引き戻されてしまう。最も、上着があっても熟睡できたためしはなかったが。
現実に飽きて目を閉じる。もう一刻でも早く闇に引き込まれたかった。そうすれば、何も考えずにすむのだから。瞼の裏であの少女が満面の笑みを見せている。良夜の前でだけ見せる、子供が母親に向けるような笑顔。絶大の信頼を置いた笑み。あまりに眩しいその表情に、耐え切れなくなって手を伸ばす。自分の胸に引き込んで、抱きしめようとしたところでいつも意識は浮上していく。ああ、今日だってそうだ。
ハッと息を吸う。大きく肩を上下させて、自分が辛うじて生きていることを実感する。少女が、春菜がいないのならば生きている意味なんてないのに。命を絶つ勇気が出ずに一日一日を無駄にしている。春菜が姿を消してから越えてきた一日に、今日も彼女に会わなかったとカレンダーに黒いバツをつける癖は三年が経っても治りはしなかった。
めまいに身体を揺らす。うつ伏せになって回転する世界に耐えながら、良夜は目を瞑って世界に背を向けようとする。こんな時に限って、夢と現の間で相対するのは春菜の見たことがない、指先が凍えるような顔だった。信じたくない、悪夢だと思って忘れようとしてもこの身を刺してくる棘。
高校生の時、春菜と出会った日。慣れない新しい環境、すでにグループができていて馴染めない教室、話題に入りきれないことも数多くあった。いつだって一人で過ごしてきた一年生の秋。体育の授業でハーフマラソンがあった。平均よりも足が早いだけが取り柄の良夜だったが、それが原因で疎まれることもあった。校庭のグラウンドで、良夜は足をくじいて擦りむいた。誰も差し伸べることはなかった彼に、白いハンカチを差し出した少女がいた。それが春菜だった。
砂まみれの、誰ともかかわろうとしない自分に、躊躇うことなく手を差し伸べてくれた人。誰にでも優しい、クラスで一番の人気者の春菜。その心に、大きな心配に揺れ動く瞳に。良夜はすっかり心を囚われてしまった。一目惚れだったのだろう。
一目惚れだったと当時は認めていなかった。そう確信してしまえば最後、良夜のたった一人の友人は陽炎のごとく消えてしまう。結局、自分はあの日恋に落ちたのだと認めたのは春菜が自分の前から姿を消した後のことだった。
初めて春菜が良夜の家を訪れたあの日。良夜に向き合った春菜がはにかんで言葉にした一言が、未だに消えない。
「ねえ、良夜。君は本当にわたしのことが好きなんだね」
照れくさそうに、でもその事実に満足しているのだと、その顔が何よりも証拠だった。目を細めて、胸まである黒髪を揺らして微笑む姿。良夜の部屋は北向きで、建物の陰で日当たりはよくなかった。なのに、春菜だけが暗がりの部屋で光を放っていた。空気中の塵すら春菜の手にかかれば鉱石のごとく輝く。人を好きになれば、世界が明るくなる。失ったあとの暗さに耐えられなくなるほどに。
どうして彼女が亡くなったのか、どれほど考えても良夜は分からなかった。なんで、春菜だったのだろうか。そう考えてしまえば、痛みに身体が持たなくて逃げていた。いや、それすらも考えないようにするための言い訳に過ぎなかった。失った事実を受け入れたくなんてなかった。春菜が亡くなったこと。それが本当か嘘かなんてどうでもいい。ただ、抱きしめた己の腕からすり抜けた事実だけが良夜を縛り付けて生きられなくさせる。
「……そうだよ。春菜だって、知っていただろう」
もういない春菜に向かって呼びかける。
「知っていたのに、どうして僕から離れていったんだ……」
言葉にしてしまえばもう駄目だ。うなだれて、膝をつく。ここはきっと夢のなかだろう。地面は溶けて海になっている。明らかに現実ではない。波に逆らえずに良夜は膝をつく。そもそも良夜に立つ気などさらさらなかった。海は水位を上げていく。頭の先まで浸かってしまえば、身動きが取れなくなる。これもきっと罰だ。春菜の喪失を受け入れることができない自分への、世界が与えた罰。そう考えれば肩の力も抜ける。いつだって理由を欲しがっている自分を厭いながら、良夜は沈んでいく意識に身を任せる。耳の奥でサイレンが遠くから鳴り響いていた。
ぐにゃりと視界が歪んで、目を覚ました時にはいつものベッドの上だった。どこにいたって、結局は同じところに巻き戻されていく。まるでゲームオーバーした時のように。ゲームと違うのは、現実はゲームのように何度もやり直せないところだ。誰にでも平等に、無常に時は流れていく。
日差しが目を刺してくる。起きて一番に朝日を浴びると健康にいいなんて嘘だ。そう春菜に愚痴を零して、彼女がころころと笑って。転がるような笑い声が耳の中でくすぐっていた。
やっぱり、嘘じゃないか。ぽつりと呟いた悪態は誰に聞かれることもなく朝日に消えていった。
眩い輝きに耐えられなくて、思わず目を細めて手で覆う。自分の黒髪が光に照らされてうっすらと茶色のように見える。その瞬間をかつては気に入っていた。なんていったって、春菜も薄い茶色の髪だったから。彼女とお揃いになれる、なんて陳腐な発想をしていた。
頭がずきりと音を立てる。閃光が走るようで、日々訪れるそれは良夜の精神を確かに削っていた。精神の消耗からきているものなのか、自律神経のものなのか、もう良夜には判別がつかない。春菜がこの世から姿を消した日から、自分の身体に愛着を持つことができなくなった。
春菜に出会わなければこんな痛みを知ることなんてなかったのに。純粋だった感情はいつからか醜く腐り落ちたものへと変化していった。それでも、抱えきれずにいながらも、どうしてだか心の奥に留めていた。
適当につけたテレビでは海難事故のニュースが流れていた。悲しげな顔をしたキャスターが、淡々と事実を述べている。なんだか見ているのが嫌ですぐにテレビの電源を消した。リモコンをぐっと握る。良夜の貧弱な握力では当然握り潰せるわけなんかないのに。腹からぐつぐつと沸き起こる自身への果てしない苛立ちが衝動になって、良夜を駆り立てる。
手が赤くなって、びりびりと痛みを自覚してきたところで、リモコンを握る力を緩める。そうだ、朝食の準備をしなければ。ゆっくりと立ち上がって押し入れの中にあるシリアルを取り出す。牛乳なんてものは一人暮らしの家には無い。何もかけずにバリバリとかみ砕く。腹に入って栄養になるなら何でもよかった。
朝食と言えるのか分からないものを食べ終わって、スマホの電源を入れる。そういえば、一通のメッセージが届いていた。液晶画面には電話番号が表示されている。ラインではないということは、良夜の知り合いではない。迷惑メールだったら即座に消そうと考えながら、良夜はメッセージを開いた。
「良夜さん、具体的な日時はいつがいいですか」
いつと言われても、大した友達もいない良夜の予定はほとんど空いている。講義やアルバイトがない曜日を挙げて、君に合わせると返信した。
メッセージを送ってすぐに夏花から返事が届く。どうやら彼女は学校の休み時間にメッセージを送ったらしい。だから午後まで見れなくなるが、気にしないでほしいと書いてあった。随分と律儀な少女だ。まるで、と口にしそうになったところで良夜は口を手で塞いだ。
すぐにスマホを裏返して机に置く。腕を組んで天井を見上げる。
何も貼っていない、新居以来の色を残した天井を見つめても何も考えが浮かばない。
自然とため息がついて出た。あの少女の名前が夏花だったことも、もう随分と記憶の箱に封をして閉じ込めていた。春に夏。親は春夏秋冬にちなんだ名前なのかと思った記憶がある。彼女がどんな顔をしていたかとか、どんな性格をしていたか。考え尽くしても名前くらいしか覚えていない。ずっと自分がいかに春菜しか見ていなかったことを突き付けられる。彼女の姿などこれっぽっちも記憶にない。会う時に思い出せるだろうか。全然覚えていないくせに、ずっと暗い顔をしている少女だと思ったことだけは、何故か心の片隅に残っていた。
スマホのアラームが鳴る。今日は大学の講義がある。夏花は確か、春菜と三歳差だったか。今頃は制服を着ているような高校生なのだろう。そんなことを考えている間に、さらにアラームが鳴り響く。電車の時間まであと五分もない。良夜は慌ててリュックを背負って玄関の扉を開けた。
「どこで会いましょうか」
返信がこないつもりで一応送ったメッセージは、思ったよりも早く返信が届いた。
「喫茶店がいいです」
「よく行っているので」
電車に揺られる中、夏花の返信を見る。おそらく授業休みに隠れてメールを送ったのだろう。短文だった。
夏花の願いはできるだけ叶えてやりたい。良夜は迷うことなくフリック入力していく。
「どこの喫茶店にしましょうか」
返事は来なかった。もう授業は始まっているのかもしれない。良夜のメールの通知が教室で鳴っていたらと思うと申し訳なかった。
返信するかどうか迷っている間に、あっという間に大学の最寄り駅に着く。スマホをリュックにしまって、良夜は電車のドア近くに立った。
良夜の通っている大学はいわゆるマンモス校だ。だから、一人ぐらい休んだって誰にも気付かれないだろうが、馬鹿真面目に良夜は毎日通っている。特に志望していなかった大学なのに。
希望したわけでもない、淡々と変わらない日々。無意味に過ごしているばかりだ。こんな良夜を見たら春菜は何と言うだろうか。大教室の一番後ろで、うつらうつらとしながら日々を無為に消費するだけの自分に。責めてほしかった。詰ってほしかった。何と言ってくれたっていいから、春菜にそばにいてほしかった。この感情は果たして恋なのか。一時の間だけ恋人だった男の、言いようもない独占欲でしかないだろうに。
彼女に告白したわけでもない。不器用で、言葉もろくに伝えられない男の傍にいてくれただけの関係。手を繋いで、口づけをして。それでも満たされることなく深夜に電話をかけ合うような仲。肌の体温すら朧げな癖に、彼女の好きなリップの色だとか。爪を短く切ることが好きだったとか。他愛もないことばかり思い出すことができる。そんな関係を、歳だけとった自分にも表せる言葉は見つからなかった。
それだけの関係を、恋人と呼んでいいのだろうか。良夜の思い込みではないだろうか。友人で、身体の関係はなくて。でも唇の質感は鮮明に覚えていて。何もかもちぐはぐな自分たち。充電の切れかけたスマホに明日の大学のリマインドが鳴った。自分の中の時は止まっていようが、流れていく世界は進みを止めない。それは救いのようで、首元に突き付けられた刃のようでもあった。
三年前、最後に会った日に交わした何でもない一言を思いだす。
「良夜、わたしね、明日家族と旅行に行ってくるの。お土産、楽しみにしててね」
あの時の春菜の言葉に、良夜はどう返しただろうか。確か、そうなんだと至極普遍的な返事を返した記憶がある。だって、それが最後の会話になるとは思っていなかったんだから。
たった今受けている講義はどうも哲学のような内容だった。美しいものは何か、について。その言葉を教授から聞いた瞬間、良夜はメモを取る手を止めた。即座に浮かんだのは春菜の姿。彼女の心だった。容姿はどちらかというと可愛いに寄っていたな、と回想する。美しいと初めて思ったのは、そう、笑顔が失われた日だった。
冷たい肌、頬に手を当てると春菜は目を瞑って良夜の手に擦り寄る。まるで猫のように。普段は優等生然としていた彼女がそのように甘えてくることは珍しかったから、良夜の心に深く刻み込まれていた。
だから、その時のように触れ返してくれると信じていた。信じたかった。いつもみたいに良夜の名前を呼んでほしかった。白い花に囲まれた春菜の無機質な肌には体温がなく、目は固く閉じられている。それでいて、まるで眠っているようだった。今思えば、相当エンバーミングが施されたのであろう。当時はその事実に気付くことができなかった。
そんなこと、とてもではないがリアクションペーパーにもレポートにも書けやしない。美しかった瞬間はいつですかと問われて棺桶に入っていた姿です、なんて言えてたまるものか。結局授業中には一文字も書けなかった。宿題だ。その答えは、いつ出るのだろう。もしかしたら、永遠に出ないかもしれなかった。そうしたら、春菜は忘れられないと思った。それなら、それでよかった。
いつものように講義が終わって、下宿先に帰るだけだった。違ったのは、良夜の唯一とも言える友である武司が話しかけてきたことだ。単純で気のいい男。今、好きな人がいてもうすぐ告白しようと思っているらしい。案の定、良夜へ誘いの言葉を持ってきた。
「なあ良夜、花火大会にでも行かねえか? あと一人必要なんだよ。誘いたい人がいるなら誘っていいからさ」
必要とは何か。良夜にとっては唯一の友だが、人気者の武司にとってはたくさんいるうちの一人だ。自分なんか誘っても何もない。おそらく武司と彼の想い人の二人で行けば恋人になれる確率だって上がるだろうに。彼の恋路を慮って普段の良夜なら断っていた。だが、何せ昔の夢を見たあとだったから、恋しくなったのかもしれない。二人で見たあの花火に勝てなくても、思い出を辿りたかっただけだった。
「……いいよ。何日?」
「えっ、言ってなんだが返事が来るとは思わなかったな。まあ、二週間後だ。メールするからよろしくな!」
「ああ」
適当に返事を返して、すぐに彼とは別れる。風のような男だった。風といっても爽やかなものではなくて、疾風のように辺りを薙ぎ倒していくもの。なのに不快感はないのだから、それは彼の人格がなせるものだろう。
あらかじめ送るつもりだったのか、即座にメッセージがスマホに届いた。花火大会の概要を切り取って、インターネットで検索する。僅かに揺れている心に拭いきれない嫌悪感がある。
いつか見た花火。紺色の、金魚の模様が描かれていた浴衣姿の春菜。名前の通りに春が似合うと出会った当初はぼんやりと考えていたはずなのに。隣にいるようになってからは春夏秋冬のいつだって似合うと盲目になっていたこと。忘れてたまるものかと、一つも零さないように掻き集めていたものが腕の中から零れ落ちていく焦燥感。それが自分を追い立てているものだった。
「夏花さん。具体的な日程はどうしましょうか」
「二週間後の日曜日、近くの喫茶店はどうでしょう」
「大丈夫です。ではその日によろしくお願いします」
「ええ」
事務連絡のような、感情の籠っていないチャット欄。春菜とのチャット欄とは大違いだった。あの子はいつも絵文字を多用していたから、つられて良夜も似合わない可愛い絵文字を使っていた。今となっては無用の長物の絵文字を消そうと思っても、一度金を払ったからには使わなければいけないと思ってしまう。つくづく損な性分の人間だと我ながら実感する日々だ。
何故、自分は夏花の誘いに返事をしたのか。無視することだってできたはずだ。なのに、どうして。背もたれに寄りかかって、天井を見上げる。それは良夜にとって長考するときの癖のようなものだった。春菜に指摘されるまでは気付かなかったもの。言われてからは背もたれに寄りかかるたびに春菜の顔が浮かんだ。単純な人間だ。
きっと、共有したかったのかもしれない。ずっと後悔と自責の念に苛まれてきた良夜は一人だった。肉親を失った夏花と話すことで、自分の抱えていたものを手放したかったのかもしれない。それが、自分が望んでいないことだったとしても。
電車に揺られながら思案していれば、いつの間にか足は下宿先に帰っていた。リュックを肩から下ろした瞬間、スマホがバイブした。電話が来た時はバイブで通知するように設定してあるから、おそらくは良夜の伯母だろう。そしてその予想は当たっていた。
「こんにちは。お久しぶりです、伯母さん」
「そうですね。良夜さんは元気でしたか?」
「……ええ」
会話は続かない。電話での沈黙は気まずいことこの上ない。どちらかが喋り出した方が明らかに早いのに、互いに相手が話すのを待っている。昔からこうだった。良夜も不器用な人間だが、伯母もまた不器用な人だったのだろう。
良夜の母の妹である彼女は、どうやら良夜の母に大層可愛がられていたらしい。姉への恩を返したいという思いから良夜を引き取ってくれた。伯母がいなければ、良夜は大学どころか中学に行けていたのかも怪しい。良夜の人生に刻まれた、恩人の一人だ。ただ、少し付き合い方が分からないだけで。
「大学では、何をしていますか」
「ええと……そろそろゼミを決めないといけない感じで、勉強しています」
勉強しているとは、何だ。抽象的にも程があるだろう。自分の口下手さに閉口しながらも会話を続ける。せめて良夜は伯母といい関係を築きたいと思っていることは伝えたい。
「あのですね、友達に花火大会に誘われたんです」
「良夜さんのお友達? 大学の人ですか?」
「はい。武司って言うんです。何も言わない僕のことを友達って言ってくれる、いい奴です」
図らずも秘密主義者になった良夜のことを変わらず友人だと言ってくれる奴。自己開示なんて一つもしない良夜にも優しい奴。自分はつくづく周りの人間に恵まれている。優しさが行き過ぎて自分をも傷つけてしまいそうな人たちばかりだ。良夜の周りは何故かそんな人たちがたくさんいる。
「良夜さんも大学を楽しんでいるなら、何よりです」
伯母が小さく微笑んだ気がした。そんなことを考えていると、電話越しにチャイムの音が聞こえた。何か、郵便でも来たのだろうか。案の定、伯母は申し訳なさそうな声で話してきた。
「ごめんなさいね。郵便が来ているので、電話を切っていいかしら」
「もちろん。伯母さんも元気そうで良かったです」
「ええ。私もよ。いつでも遊びに来てらっしゃいね」
やっぱり、客観的に見てもいい伯母だ。本当に。いつかは、少しだけ距離を縮めてみたかった。なんて言ったら、甘えていると思われるだろうか。
「いよいよ明日ですね。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
夏花とは駅のモニュメントを集合場所にした。互いに顔もろくに覚えていないだろうから、着ている服などの特徴もメッセージに書いておく。五分前行動が基本の良夜は、先に着いていた。集合時間にはまだ十五分早い。少し早く着き過ぎたかと後悔しかけるが否や、集合場所に着いたとスマホにメッセージが届いた。
スマホから顔を上げる。春菜とよく似た、いや少し違う少女が立っていた。薄い茶色の胸まで切りそろえた髪にこげ茶色の瞳。シンプルな白いブラウスに桃色のロングスカートを履いている。可愛らしいというよりは、麗しいと言った方がいいような気がした。彼女は無表情のまま、良夜の目をじっと見てきた。
「橘夏花です。桐野良夜さんですね」
静かな声だ。人は誰かを責める時、こんな声をするのだろう。彼女に失望されないように、背筋を伸ばす。緊張した声が喉から出た。
「……はい、そうです。夏花さん。お久しぶりです」
「ええ。姉の葬式以来ですね」
「……そうだね」
人々は自分たちを避けていく。当然だ。こんな暗い雰囲気を纏った男女二人組なんて関わりたくないに決まっている。良夜でさえそう思うのだから、ただの通りすがりなら余計にそう感じるのではないか。夏花は避けていく人を気にも捉えずに話を進めていく。
「あの時、私はあなたにひどいことを言いました。謝りに来た、というだけではないのですが、あなたに会いたかったです」
「どうして? 僕はあなたとさして関わりはなかったでしょう」
「ええ。はっきり言って私とあなたの関係は姉を経由したものでしかありません」
随分ときっぱりと物事を言う人だ。元々こんな子だったのかと考える。その答えは出てこなかった。だって、僅かにその姿を覚えているくらいだったから。
「だよね。その認識で合っている」
「私はただ、あなたと話をしたかった。姉を失った私と、恋人を失ったあなたと」
「……恋人じゃないよ」
夏花は大きな目を見開いた。潤んでいる瞳は春菜に瓜二つで、心臓がチクリと痛む。知らぬふりを通して口を開く。
「恋人じゃない?」
「僕たちはそんな名前の付けられるような関係じゃなかったから。友達だったし、戦友だったし……」
「そうなんですか。てっきり、恋人かと」
「みんなからそう言われたよ。春菜が亡くなってから、随分とね」
良夜の言葉に、夏花は眉をわずかにひそめた。どうも彼女はこの世全てを嫌っているような雰囲気を纏っている。厭世的なところがあるようだ。だが、彼女は素直らしい。夏花は小さく謝罪の言葉を吐き出した。
「……すみませんでした」
「ごめん、君に謝らせるつもりじゃなくて。と、とりあえず、どこか入らない? 立ち話もなんだし」
「……そうですね」
これ以上立ち話をし続けると引き際を失いそうだった。良夜と夏花は近くの喫茶店に移動する。コーヒーが看板メニューらしい。コーヒーが好きな良夜からすればよい店だった。
十五分ほど無言で待っていれば、店員にメニュー表を渡される。メニュー表を渡されたあとはすぐに席に着くことができた。はっきり言ってメニューを十分に見られなかったくらいに。良夜は夏花にメニュー表を渡す。
「夏花さん、お代は僕が支払いますからお好きにどうぞ」
「え、なんで奢りになるんですか。私が誘ったのに」
「僕としても恋人の妹、それも年下の高校生に全額払わせるのはあれかと思って……」
げえっと嫌そうな顔を隠さずに夏花は顔に似合った低い声を出す。こんなに表情を出す子だったのか。事実か否か、今は思い出せなかった。
「せめて割り勘じゃないですか?」
声色に苛立ちと疑問が混ざっている。確かに全額良夜が払うのは平等ではなかったかもしれない。ただ、少しくらいかっこつけさせてほしかったところもある。いずれにせよ、本題に入る前に言い争っていては話にならない。話を進めるにはこの話題を終わらせた方が早い。
「……本題に入るためには割り勘にした方がいいね、確かに」
「なら割り勘にしましょう。私は紅茶を頼みます」
「じゃあ僕はコーヒーを頼もうか」
良夜が店員を呼んでコーヒーと紅茶を頼む。春菜と同じ服を着た夏花を見ていると、どうも心がざわついた。夏花が目を吊り上げて髪をざっくばらんに払った。きっと、これから話が始まるのだろう。そしてその予想は当たった。彼女は固い声で話を切り出した。
「では、私から本題を話しましょうか。良夜さん、私は、あなたが姉の恋人だと認めていない」
こわばった顔をした夏花が低い声を発した。断罪のような一言は、良夜の心臓を切りつけた。良夜と春菜は明確な恋人関係ではなかった。それは痛いほど心に刻みつけていたのに、なぜ今更痛むのだろう。
「そう、そうだね。僕だって恋人だとは思っていないさ」
「……何故? どうしてですか? あなたは……!」
声を荒げようとした寸前に意識を現実に引き戻した夏花はテーブルをどんと叩いた。喫茶店の客の視線が突き刺さってくる。夏花は居心地が悪そうだった。良夜は春菜が亡くなった時に、散々追悼の皮を被った好奇心に晒されてきた。夏花もそうなのではないかと思ったが、違うのか。
考えごとをしていると、テーブルに置かれた震えた手が視界に映った。そうだ、答えなければいけない。それが良夜に与えられた罰なのだから。
「僕たちは互いにどんな関係だったか名前を付けることを厭んでいた。だから、友達だとか戦友だとか誤魔化していたんだ。でも……」
息を吸って、吐く。これから口にする言葉は、夏花だけではなく良夜の心をも刺してくるものだと分かっているから。それでも言わずにはいられない。
「こんなことになるなら言えばよかった。君が好きだって、僕は君の恋人だって……僕はいつだって後悔してばっかりだ……」
「良夜さん……」
張り詰めた静寂を破るように、店員が気まずそうに紅茶とコーヒーを運んでくる。良夜の名前を呟いて、夏花は頼んでいた紅茶を一口飲んだ。
「諦めてはいけないんだ」
「あなたは、まだ……立ち直れていないんですね。私が言うことではありませんが」
嘲笑を浮かべる。夏花へではなく、何もできないまま前を向けない自分に。
「みんな、そうなんだろうね。周りは忘れていくのに、僕だけ置いてけぼりだ」
「あなただけではないですよ。良夜さんだけが、不幸なわけじゃない」
「っ……」
良夜は無意識にこの場所から逃げようとしていた。背もたれに背中がぶつかる。ジクジクと感じる痛みが自分の行いを現実だと知らせている。良夜は夏花の話から逃げようとした自分に心底失望していた。
「幸せが逃げたのは、うちの家でもあるんです。あなたは、一人で罪を背負ってたとでも言いたいんですか」
「…………」
「すみません、言い過ぎました」
「母は心を病んで通院しています。父も母を支えるのに精いっぱいで……」
良夜は自分が目を背けてきた事実を真正面から突きつけられて絶句する。見ないふりをしていた。自分だけが不幸だという顔をして、現実から逃げていた。傷ついているのは自分だけではないのに。夏花も、彼女の両親も同じくらい、いやもっと埋められない喪失を抱えていた。
「あなたが家に来ていれば、母だってこんなになっていなかったかもしれないのに」
堪えきれずに夏花は涙を一筋零す。涙は静かに彼女の輪郭を伝う。そしてテーブルに消えていった。良夜は白いハンカチを差し出した。何も模様のない、無骨なハンカチ。それでもいいのだろう。良夜は春菜の代わりになることはできない。できるのは、夏花の話を聞くことだけだった。
「……そうなんだ」
乱暴にハンカチで涙を拭った夏花は、泣いたことを忘れてくれと言わんばかりにきつく目尻を跳ね上げる。
「良夜さん。私はあなたに聞きたいことがあったんです」
「何かな。何でも答えるよ。今の僕には、それしかできることがないから」
良夜の言葉に、何故だか夏花は目を伏せた。視線が合わなくなる。こげ茶色の瞳が見えない。良夜の最大限の誠実な言葉だったはずだが、何か気に障ってしまったことがあったのか。
「あ、あの、夏花さん? 何か体の調子が悪いとか……」
「……いえ、違います。そんなことは、ないです。あの……ただ」
「ただ?」
「良夜さんって、ご両親はいらっしゃいますか?」
思ってもいない質問が良夜に投げかけられる。夏花の思惑が読み取れなくて、眉をひそめながら答える。
「ああ、ええと。母はすでに亡くなっていて、父は単身赴任です。随分長く会ってませんね。最後にあったのは、確か七年前でしょうか」
「……」
夏花の整った顔がみるみる歪む。信じ難いものを見たような、受け止めきれていないような表情。だから、自分の身の上話をしたくなかった。いつだって、話を聞かされた人間は、どう言えばいいのか分からないと雄弁に表情が語っていたから。それでも夏花は対話を諦めないらしい。かすれた声が良夜の耳に届いた。
「その……良夜さんの年齢から逆算して、中学生の時でしょうか。どうやって、生活してきたんですか」
「親戚の伯母の家に居候していました。今は高校も出たので一人暮らししています」
伯母との仲はさして悪くはなかった。でも、互いに家族にはなれなかったのだろう。きっと、どちらも触れ難い親戚の一人でしかなかった。
「そう、なんですか……すみません。さっき、私、あなただけが不幸じゃないって言って……」
「いや、僕が可哀そうな自分に酔っていたのは事実だから、別に気にしてないよ」
「結局、私たちはいつになれば前を向けるのでしょうか。ずっと、生きている心地がしません」
まだ年若い夏花は、きっと苦しんでいるのだろう。前を向けない自分に。姉の年を追い越そうとしている自分に。その痛みは良夜には分からない。ただ、一つだけ彼女に伝えたいことがあった。
「でも、君だけじゃないよ。春菜を忘れていないのは」
「……」
無言のまま、夏花は震えた手でティーカップを手に取った。紅茶をそっと口に含む。初めて聞いた、ホッとした声で呟いた。
「紅茶、美味しいですね。さっき、私が大声を出したから店員さんも気まずそうだったし……」
「ううん。たぶん、こういうこと、よくあるんじゃないかな。そんなに気にしなくてもいいと僕は思うよ」
「でも」
「じゃあ、こうしてみるのはどう? お会計の時に紅茶が美味しかったって伝えるんだ」
「……なるほど。私、そうしてみます」
素直に良夜の言葉を受け取る様子に、思わず頬が緩む。可愛らしかった。きっと、パズルのピースがそのままだったら妹になっていた人。良夜の心の中に、彼女に対する慈愛の感情が確かにあった。
「うん。そうしたらいいんじゃないかな」
「君は紅茶が好きなの?」
「はい。特にアールグレイが好きです。良夜さんはコーヒーがお好きなんですか?」
「そうだね。コーヒーが一番好きだけど、紅茶もよく飲むよ」
「えっ、そうなんですか! 何が好きですか?」
紅茶の話になった途端に夏花は生き生きと目を輝かせた。なんだか、悲しい顔をしているよりずっといいと思った。
「ええと、何が好きかってよりは、匂いがいい紅茶が好きなんだ」
「匂いですか……。フレーバーティーとか、飲んでみませんか?」
「いいんですか?」
「ええ。良夜さんならお姉ちゃんが見込んだ人なんですから」
春菜ありきの信頼。悪くはなかった。他人から見たらさぞ奇怪な関係に見えるだろうが、失ったもの同士。傷を舐め合って生きるわけではないが。彼女を見ていると、自分には価値のないと思っていた明日を意識させられる。
「知ってますか。夏花さん」
「何ですか? 藪から棒に」
「亡くなった人を想うと、その人の周りの花が降ってくるという言い伝え、です」
「……知っています。それが、何です?」
「いえ、あなたに伝えたかっただけなんですから」
良夜の言葉に、夏花は顔を歪める。意味が分からない、と言いたげな表情だった。
「あなたって、よく優柔不断って言われません?」
「……当たってます。どっちつかずな奴とよく言われました」
「申し訳ないですが、想像がつきますね」
「えぇ……君にどう思われているんだか」
「あっ、ええと、ごめんなさい」
「冗談だよ」
良夜がそう言えば、食い気味で夏花の言葉が飛んでくる。一応は姉の恋人だった男に対して容赦がない。まあ、容赦なんてある訳がないか、と勝手に納得する。
「本当にあなたって冗談のたちが悪いとか言われませんか?」
「そもそも冗談を言う相手が今までいませんでしたね」
「すごく失礼なことを聞きますが、良夜さんって、友達とかいるんですか?」
「いや、いますよ」
「えぇ……どんな人ですか」
伯母に伝えた特徴を反芻する。どうすれば久しぶりに会った人に、全く会ったことのない人のことを上手く伝えられるか。良夜は必死に頭を回転させていた。
「ええと、優しくて、誤解されがちだけどいい奴です。名前がちょっとガキ大将みたいなだけで……」
「名前がガキ大将……?」
夏花がひどく混乱している。それはそうだ。こんな説明で理解できる人間がいたら、それは超能力者かと疑うところだ。慌てて説明を追加する。
「ええと、武司っていうんです。漢字は違くて、武士の武に、司るって書くんです」
「ああ、それでガキ大将……」
この人、言葉が足りなすぎると言いたげな視線が良夜に突き刺さる。さすがの良夜でも、自分が口下手な自覚があった。しかも今はもっと口が回らない。失言する前に帰ろうかとすら思った。
「でも、仲は良さそうですね」
「うん、いいんだ。彼はとてもいい奴だから」
「いい奴なんですね」
良夜の言葉を反芻する夏花を見て、良夜の心の奥に光ったものがあった。この光が何なのか分からないまま、良夜は口を閉じては開けることを繰り返していた。
夏花は怪訝な顔をしている。首をかしげるその様子も春菜と似ているなんて考えながら、良夜は口にするかどうか悩んだ言葉をやっと口にした。
「ああ、そうだ夏花さん。……よければ花火大会に来ませんか。僕の友人も来ます。門限までには必ず終わるようにするので、来れたらどうぞ来てみてください」
たった二言。だがこの言葉を発するために良夜は何度も悶々とした。この言い回しでは上手く伝わらないかな、こう言えば来てくれるかな、なんて。来れたら来て、と予防線を張っているくせに。
「いいんですか? お友達と遊ばなくて」
夏花は大きく目を見開いていた。久しぶりに会った姉の恋人、ではないと主張する人間から花火大会に誘われるなんて、思ってもいなかっただろう。
「大丈夫です。友人も何人か連れて来るらしいので」
「じゃあ行ってみます。場所と日時を教えてください」
夏花はあっさりと承諾してくれた。話を進めた良夜は困惑しながらも、武司が送ってくれたチラシをそのまま夏花のメールに転送する。とんとん拍子に話が進んでいくから、どこか良夜は置いてけぼりにされている気がした。話を進めているのは、紛れもない自分だというのに。
良夜は疑問を持っていた。どうして彼女を誘ったのだろう。代替として扱っているわけでもない。なのに、春菜の面影を重ねてしまう。どうしたら、夏花自身を見ることができるのか。その答えを良夜は持ち合わせていなかった。
月日はあっという間に流れていく。大河に投げられた石が瞬く間に削られていくように、話を聞かされた当日に感じた寒気も、棘を削られて丸くなっていた。子供の頃よりも圧倒的に早い世界の流れに戸惑いながらも折り合いをつけていくのが大人なのだろうが。まだ大人になり切れない大学生の良夜はベッドの上でだらだらとゲームの画面をクリックしていた。
もうすぐ家を出る時間になる。半袖のジャケットを羽織って、スマホと財布だけ持つ。何かあった時、身一つの方がすぐに行動に移せる。良夜はその事実を身をもって理解していた。
家の鍵を閉める。閉めたあとにいつも鍵がかかっているかを確認する癖は、小学生の時に教わってからずっと続けている。真面目だね、と微笑まれた時はどこかむずがゆかった。どこに行ったって、何をしたって、春菜の影がちらついて離れない。まるで自分の影に縫い付けられているように。
変わらない足取りは駅のホームまで導く。すぐにやって来た満員電車に乗る。周りは浴衣を着ている男女が多いが、子供連れもちらほらと見受けられる。
春菜と一緒に花火を見た時も、こうして電車に揺られていた。一人だと、話す相手も、笑う相手も、肩に触れる柔らかい髪もない。虚しいと分かっていながらも良夜は春菜の面影を追ってばかりだ。生きているかも分からない相手に執着し続けるのはこれほどに身体が軋むのだと、高校生だった当時の自分に言ってやりたい。お前はこれからずっと過去の幻影に蝕まれ続けるんだ、と。それでもその手を離すなよ、と。あの自分より一回り小さい、仄かに赤らんだ手を。
花火大会の開催地は駅から少し離れているが、最寄り駅は人でいっぱいだ。小さな駅に、溢れんばかりの人がいる。
集合場所に立って、良夜はスマホをいじっていた。集合場所にはたくさんの人が集まっているから、自分がどんな服を着ているかを夏花に連絡する。その方が、合流できる確率が上がるだろうと信じて。
やがて、夏花から集合場所に着いたが良夜がどこにいるか分からない、との連絡が届いた。良夜が動いては永遠に二人は会えないことは容易に想像できる。なので自分が今立っている場所の詳細を送っておく。
五分ほどしたら目の前に硬い表情をした少女が良夜の顔を覗き込んできた。夏花だ。パンプスではなく下駄を履いている。小さな歩幅で良夜のもとにやって来て、ぺこりと頭を下げてきた。
「良夜さん。遅れてすみません」
「いえいえ。僕が早く着き過ぎただけだから」
夏花は浴衣を着ていた。春菜のお下がりの、紺色の金魚の模様が描かれた浴衣。胸の奥がきしりと音を立てる。春菜と違うのは、春菜は髪をお団子にしていたところで、夏花はハーフアップにしていた。リボンが結ばれている。
「夏花さん。浴衣なんですね。似合ってます」
「……あなた、お姉ちゃんにもそう言ってたでしょう」
「……なんで知ってるんですか」
「お姉ちゃんが教えてくれました」
良夜は額を押さえる。自分の他愛ないやりとりが夏花に知られていたなんて、頭から火が噴きそうだ。
「待って夏花さん。もしかしてあれもこれも全部聞いている……?」
「さすがに全部は知りませんが告白された時の言葉なら知ってます」
今度こそ良夜はこらえきれずに肩をがくりと落とした。分かっている。春菜の面影を夏花と共有することができるのは喜ばしいことだ。でも、二人だけの秘密だと思っていたから、困惑と羞恥が良夜に襲い掛かってくる。良夜が無言になって動かなくなったのを、夏花は傷つけてしまったと思ったのか手をあたふたさせながら心配の声を投げかける。
「あ、あの、あれです。お姉ちゃんは嬉しくて私に言ったんだと思います。あの、姉が妹と服を共有するような感じ……」
「うん、分かってる。春菜に悪気が無いのも分かるんだけど、僕としては恥ずかしくて恥ずかしくて……」
「まあそうですよね」
冷静な夏花の相槌が痛い。
「ま、まあ、この話は一旦置いといて。合流しようか。ほら、手を」
「……?」
「あ、ごめん。手を繋いでいた方が迷子にならないかなって」
誓って言うが、良夜に邪な感情はない。かつて恋人のような関係だった人が大切にしていた妹。彼女に傷がついてしまえば、きっと春菜は悲しむだろうから。それに、自分の目が行き届いてない場所に、誰かがいることが良夜は恐ろしかった。誰もが自分の周りにいるはずがないのに、どうしてか心臓がバクバクして、喪失を妄想してしまう。少し震えた手を、夏花が恐る恐る彼女の手を重ねてきた。その軽さに何も言葉が口をついて出てこない。必死に取り繕って声を出す。
「ああ、すみません。どうぞ」
夏花の小さい手を握る。爪に色が塗ってあった。春菜はネイルとかしなかったな、なんていつまでも他者と比べている自分に嫌気がさす。
「ええ、行きましょうか」
冷静に返事を返しながらも、夏花の頬は僅かに赤らんでいた。きっと、提灯の照明のせいだと思い直す。自分たちの関係は失った者同士。それだけなのだから、何も生まれる余地はない。
「夏花さん、ハーフアップなんですね。可愛いですよ」
「……お姉ちゃんが、よくやってくれてたんです。一人じゃ、全然うまくいかなくて」
夏花の重いまつ毛が彼女の潤んだ瞳を隠す。一人っ子の良夜には、姉がいる感覚は分からないが、きっと夏花にも、春菜にもよいものだったのだろう。耳にかけた髪から、赤く染まっている耳が見えた。
「そうか。そうなんだね。僕も、よく春菜から妹の髪を整えていたと話を聞いていたよ」
「……そうなんですか」
「おー! 良夜!」
「やあ、武司」
武司は手を上げたまま固まっていた。良夜と夏花は揃って首をかしげる。
動転している武司はそれでも指さすのをやめて、手を指してきた。配慮は素晴らしいが、そうではない気がする。
「えっ、誰だそこの女の子。お前の彼女か?」
「違います。良夜さんの恋人の妹の橘夏花です」
「ええと……どういう関係で?」
滅多に困惑を口にしない武司が戸惑っている。それはそうだ。恋人の妹なんて、関わりなんてないに等しいだろう。良夜だって、一ヶ月と半月前にはそう信じていた。人間に備え付けられた防衛本能が忘れようとしていたのだ。
「今言った通りだよ。恋人の、妹。それだけ」
「お前、恋人いたんか。今までそんな話聞いたことなかったぞ」
武司の友人が心底驚いたかのように良夜の肩を組んできた。何か追及するような夏花の視線を感じながら、良夜は言い訳を口にする。
「まあ、あんまり話して『リア充爆発しろ』とか言われても困るし……」
「おっと、今俺そう言おうと思ってたぜ」
笑いが集団で起こる。夏花も手を口に当ててクスクスと笑っていた。春菜のような満面の笑みではなくても、どことなく彼女によく似ていた。でも、やっぱり違う。なのに、夏花には笑っていてほしいと良夜はわけも分からず願っている。それはどこか親戚の人間に向けるような感情だった。
もしかしたら義理の家族になっていたかもしれない人。互いに欠けたまま、癒えない傷を抱えて、それでも歩みを止めない人。そんな彼女に対する同情か、同調か。分からないまま、隣に居続けている。
「それじゃ、見に行きますか!」
武司の言葉を皮切りに、武司を中心とした集団は河川敷へ移動していく。花火は河川敷で見る方がムーヴがあるとの武司の一言でそう決まったのだ。河川敷には既に人が大勢いる。集団では居場所がないくらいに。
人が大勢いる場所を良夜はあまり好まない。げっそりとした顔をしていたのが夏花にも伝わったのだろう。心配そうな目線を送られていることが分かる。年下の少女に心配をかけすぎるのはいけない。良夜は夏花を安心させようと軽口を叩いてみた。
「夏花さん、はぐれないように」
「良夜さんこそ、手を離さないでくださいね」
やっと軽口を叩けるようになった良夜と夏花は、人混みの中をくぐり抜けていく。人に押しつぶされそうになりながらも、意地でも夏花の手は離しはしない。一度離してしまった手が、二度と掴めなくなるなんて、そんなことはもう二度と直面したくなかった。
「もうすぐ、武司と合流できるかな……」
「たけし、さんとは?」
「ああ、言ってなかったね。僕の友人だよ。不良みたいな見た目だけど、性格はとてもいい奴だ」
誘っておいて、友人の名前も出さないとは随分とおざなりなものだと自嘲する。さっき会っていたとはいえ、大人数の中では見分けがつかないだろう。武司は量産されたいかにも大学生という風貌なのだから。
「そうだ、良夜さん。私、あなたに言おうと思っていたことがあるんです」
「えっ、なんですか?」
手が離れそうになった。慌てて強く手を握って体を抱え込もうとする。人混みに攫われてしまったら大変だ。馬鹿みたいだ。夏花は高校生で、誰かの庇護がないと生きていけないような子供ではない。なのに、どうして抱き留めようとしたのだろう。
「良夜さん、あなたはお姉ちゃんを助けなかったなんて。言ったらあなたはどうしますか」
不意に問われた、意味の分からない問いへ答えを口にする前に大輪の花火が空に打ち上げられる。チカチカする。黄色、だろうか。随分と白いように感じられた。不良品? いや、そんなわけがない。意識が過去に振り戻される。突っ立ったまま、三年前の思い出が巻き戻
された。
あの日も確か、浴衣を着た春菜の隣に良夜は立っていた。ちょうど三年前。最初の花火が打ち上げられた時、春菜は手を組んで、目を輝かせていた。花火にそれほどに見とれている彼女が愛おしくて、良夜は春菜ばかりをずっと見つめていた。気付けば、春菜が振り向いて目を細めて笑みを浮かべていた。
「良夜、綺麗だね」
「うん、本当に」
「ちょっと、花火のこと言ってるんだよ? わたしを見てばっかりじゃない」
「だって、君があんまりにも綺麗だから。事実を言っているんだ」
「もう、良夜ったら……」
花火の轟音が腹に響く。夏花が良夜に向かって微笑んでいた。
「良夜さん、花火、綺麗ですね」
「…………そうですね」
春菜と同じようで違う言葉を口にしてはにかんだ夏花。笑い方は少し違う。春菜の方が、歯を見せて笑っていた。夏花は静かに微笑む方だ。綺麗だなんて、同じことを言わないでほしい。涙が零れそうになってしまうから。
ああ、確か、その後どうなったのだっけ。ぺちりと良夜の腕を叩く春菜に微笑みかけたのだった。滅多に笑わないものだから、頬が引きつっている気がした。でも、良夜なりの一番の笑顔を春菜には見せたかったから、痛みに逆らって口角を上げる。
「良夜、笑ってる。珍しいね。その笑顔を見れてわたしは嬉しいな」
そう言った春菜は良夜の口角に触れて、きゅっと上げさせる。良夜はなすがままにされていた。それでもよかった。幸せだった。そう信じて疑っていなかった。
失ったものは美化されて、額縁に飾られたままゆっくりと色褪せていく。次第に消えていく春菜の痕跡を一つも取りこぼすまいと地に伏して足掻いていた。
「綺麗……」
夏花が口元に手を当てて称賛の言葉を呟く。その声が春菜の声と重なる。彼女の声は記憶の中にしか存在しないのに、どうして聞こえたのか。花火の音が遠くから聞こえてくる。おかしい。もっと、近くで聞こえるはずでは。
「ほんっとすげーな!」
「お前語彙力なさすぎだろ」
「うるせー」
武司の明快な賛美に彼の友がツッコミを入れる。変わらない、日常。そこに春菜はいない。彼女なら武司とも一緒に笑い合えることができたはずだ。こんな時でも春菜のことばかり考えている自分に嫌気がさしてくるとか、つくづく自分は地に足が付いていない。生きづらいけど、生きたくないと思っても、生きることを諦めきれない馬鹿な自分。くすんだ花火が空に咲く。何故、くすんでいる?
「武司、あの花火くすんでない? あんな色で花火って上げられるの?」
「そんなわけねーだろ、真っ赤だ」
「はあ? あれ、こんなに、色がなかったっけ」
ただ色が付いているだけだ。春菜と見た時のような、胸を焦がす鮮烈な花火ではない。こんな花火では、何も残らないではないか。戻ってくることなんてない、かつて現実だった日々を回想する。あの日々は心臓の一番深いところにしまって、命が尽きるまで二度と取り出さないつもりだった。それくらい、大切だった。陳腐な言葉でしか表せないほどに。
「おい良夜、見てんか? きれーだぜ」
武司の邪気のない言葉に返事を返すことができなかった。世界が白い。そんなはずないのに、花火を間近で見たせいだろうかなんて考えてしまう。一秒一秒が過ぎるごとに、考え事をする余裕すらなくなった。じっとりと汗が体に張り付く。頭がぐらぐらする。喉から迫り上げてくる吐き気が襲ってきて、右手で口を覆う。知らないうちに膝をついて手を地面についていた。意識を失う前に、どうしても夏花に答えを伝えなくてはいけないと、呂律の回らない口を必死に動かす。
「なつか、さん……ぼく、あなたに……」
「おい、おい良夜! 大丈夫か! そこのお前、実行委員呼べ!」
武司と女友達の悲鳴と誰かを呼ぶ声が遠くに聞こえてきた。こんな、滅多に関わることのない自分を心配してくれるのか。ごめんね、返事できなくて。心の内で呟いた言葉はかつて自分が何も知らずに吐いた言葉と同じものだった。薄れていく意識の中、春菜が海の中に立っていた。そんなところにいたら危ないから、良夜が手をひこうとする。けれど、彼女は首を振って一歩も動かない。いや、違う。彼女はもう動けないのだ。そこで、亡くなっているから。
本当は分かっていた。春菜はもういないことに。家族と行った海で、転覆した船で妹を助けて亡くなった。家族の中で亡くなったのは春菜だけだった。その日、良夜は家でスマホゲームをしていた。彼女が溺れて、助けを求めて亡くなったのかもしれないのに。自分はのうのうと生を享受していた。
良夜の胸の中で泣きじゃくっている夏花の姿がパズルのように組み立てられていく。
「お姉ちゃんは私を助けて死んだの! 良夜さんがいたらお姉ちゃんは死なずにすんだのに!」
涙に消えた言葉を、良夜は理解していた。ただ足が少し早いだけの、ヒーローでも何でもないただの人間の良夜。そんな人間が一人いたところで、どうしようもないのに。もしも、ああしていたら。夏花も良夜も同じことを思っていた。異なる地点で、でも最愛の人を失った、欠けてしまった人間。夏花には会えたが、葬式以降会っていない春菜たちの両親は今どうしているのだろうか。
景色が目まぐるしく移り変わる。見渡す限り白い世界で、良夜はぽつりと零す。
「……夏花さん。僕は、春菜と過ごした日々を後悔していないんですよ」
伝えようとして、でも伝えられなかった一言。現実と過去の間にうわ言は消えていく。
春菜が亡くなったこと。忘れていた、いや記憶の果てに封じ込めていたのは人間の防衛本能だったのだろう。別れは何の知らせもなく突然に訪れる。人はそれまで忘れているのだ。時間は有限だということに、今の日々は永遠に続くなどありえないことに。もう会えなくなると分かっていたら、抱きしめて、それから感謝の言葉を頭に思いつく限りいっぱいいっぱい喋って。それから、それからありがとうって出せん限りの大声で叫んで。大好きだって、君に出会えてよかったって、後悔しないように言葉の花束を春菜に送るのだろう。
「……や、りょうや!!」
「……武司?」
「良夜が目覚めたぞ! お医者さん呼んでこい!」
「良夜さん! 心配しました……もう戻ってこないと思った……」
夏花が涙声のまま良夜の手を握り、武司が良夜の背中をバシバシと叩いてくる。その度に貧弱な体が大きく揺れる。白い部屋に、白いベッド。どうやら自分は病院のベッドの上にいるようだ。ご丁寧にも個室にいる。
「お前、倒れてからずっと何も言わないんだ、心配したよ」
彼は武司と仲のいい人だった。良夜とは友達の友達のような関係で、大して話したことはなかったのに、心から良夜を心配してくれている。声色が安堵と恐怖に包まれていた。自分は大層迷惑を掛けてしまっていたようだ。
「ごめんね、迷惑をかけて」
本心からの謝罪を武司と彼の友、武司の想い人、そして涙を必死に堪えている夏花に伝える。
「良夜、迷惑だなんて思うなよ。それを言われた側の人間は悲しむことくらい、分かっとけ」
堪えきれず涙をぽろぽろと零しながら夏花が頷いていた。思いもよらないことを真正面から言われて、良夜は大きく目を見開く。その言葉が、昔自分が春菜に向けたことを思い出したから。
「春菜、風邪を引いているなら学校を休みなよ」
「でも、私がいないと今日の話し合いが進まないんだもん」
「だからと言って、君が倒れてしまったら何にもならないよ」
「でも……」
「でもじゃない。あのね春菜、頑張りすぎて倒れちゃったら、周りの人は悲しむんだよ。どうして自分たちを頼ってくれないのかってね」
「……そう」
そう言ったきり、春菜は黙り込んだ。良夜は強い言葉を使い過ぎたかと後悔しかけていたが、どれだけ優しくコーティングしたって、本質は変わらないのだからさして何も変わらないと結論付けた。春菜は周りを頼らない傾向にある。自分でやる方が信頼できるからって、周りからしてみれば何よりも無力感を感じることなのに、彼女は気付かない。いつか気付いてほしかった。そのいつかは、一生来なかった。
武司は気を遣ってくれたのか、いつの間にかいなくなっていた。病室の椅子に座った夏花は顔を伏せながら、良夜に向かって問いかける。
「橘の花言葉って知っていますか」
「ううん。知らない」
「……ならいいです」
拗ねたような夏花の表情に、思い当たりがなかった。でも、恐らくは自分のせいではある。おずおずと良夜は夏花に向かって声をかけた。
「何か、あったの?」
「いえ、自分の苗字なんて、運命でも何でもないものに意味を見出すのは無駄だと気付いただけです」
「……僕は、無駄じゃないと思うけどな」
夏花は怪訝な顔をした。やはり、良夜の目の前でだけ夏花は感情を表に出す。それは信頼されている証だろうか。思い上がってもいいのか。もしそうなら、良夜も少しだけ前を向ける気がした。
「……何でですか」
「橘の花言葉は分からないけど、生きてる人に必要なのは心の救いだと思うから」
「救い? 私は救いなんて求めていないのに」
「求めてなくても、あった方がずっといいんじゃないかな。笑っていいけどね、僕は春菜のことを考えるたびに、天国の春菜の周りには花が降り注ぐって思ってるんだ」
「……」
また、夏花の顔が歪む。口を必死に結んで、涙を堪えている顔だ。いつだって、良夜は夏花を泣かせてばかりだ。春菜との関係に名前が付けられなかったように、夏花との関係にも既存の関係を当てはめることはできない。でも、それでいいのだと今の良夜は確信していた。
「あの、私、あなたに言いたいことがあったんです」
「何かな? 何でも受け付けるけど」
「別に批判とかじゃないですよ」
夏花は息を吸って、大きく吐いた。キッと見つめたその瞳は久しぶりに会った時と変わらないまま、いやもっと鋭く良夜を見つめていた。
「私、母と話してみます。あなたに会って、そう決めることができました」
「……そうか。よかった。会えるなら、会っておいた方がいいと思うから」
「……もし、もしよければなんですが」
「なんだい?」
緊張して肩が上がっている夏花は、汗をかきながら次の句を告げた。
「あなたと、これからも会うことって、できますか?」
「え、ええと、それは……」
「あの、恋人だとか、そういうのじゃなくて。お姉ちゃんのことを覚えている人がいるってこと。それが私にとっての救いなんです」
救い。救いか。自分が救いになれていたのか。夏花は頬を赤く染めていた。その意味を知らないほど鈍感ではない。過去に生きている良夜では、春菜の記憶を分かち合うことしかできないのに。それ以上を夏花は望むのだろうか。
その時になって、良夜は自分は一人で生きてきたのではなくて、今まで関わってきた全ての人に支えられて生きてきた事に気付いた。きっと、春菜もそうだ。春菜が生きていた事実は変わらない。良夜がいる限り、春菜が忘れられることはない。良夜だけではなく、夏花もいるのだから。
「夏花さん」
「はい、何ですか」
涙ぐんだ声で、それでも必死に言葉を紡ごうとしている夏花の手をそっと握る。壊れないように、優しく。
「残酷なことを言うけど、君は僕にとっての春菜の代わりにはなれないんだ」
「そう、ですか……」
「でも、友人としての夏花さんとなら、いれるよ。なんていったって、僕たちは友達なんだから」
涙を一筋零しながら、夏花は初めてふっと微笑んだ。春菜と似ていない、彼女よりも痛みを抱いた穏やかな笑みだった。
「……あなたはずるいですね、本当に」
「うん、よく言われた」
「お姉ちゃんがそう言っている姿がありありと想像できます」
「ふふっ、そうかな」
「ええ」
何の衒いもないやりとり。久しく忘れていた生への実感。自分が生きていることで、誰かに手を差し伸べられるなら。少しは生きてみようかと思えることができる。不思議なものだ。あんなにもあった彼岸への渇望が、今この瞬間だけは塵のごとく消えていた。
病院の窓から橘の木が見える。もう花は散ってしまっている。花の見頃は初夏だから、じりじりと焦げ付くような真夏には耐え切れないのだろう。
「私、前を向けるかな」
「……きっと、向けると思う。君は強いから」
夏花は良夜の言葉を聞くと、目尻を下げてそっと笑みを浮かべた。言葉はなくても、それが答えだと思った。
ふと、気付かずに手を組んでいた。そのまま胸にそっと押し当てて、散ろうとしている花火に向かって祈りを捧げる。どうか笑っていて。君の周りに花が降り注いでいますように。一人で寂しくないように。盆には君の好きだったトルコキキョウを供えるから。君のもとへまだ駆けつけることはできないけど。言葉にしきれない全ての願いを込めて良夜は手を固く握って目を瞑る。いいんだ。君のところに届くから。そんな確信があった。
「いつか僕が君のところにいくその時まで、君が幸せでありますように」
病院でスマホを使うことを許可された。親戚から連絡が届いていたかららしい。連絡の送り主は伯母だった。誰かが伝えてくれたらしい。武司か、夏花か。それとも病院の関係者か。伯母は良夜の身の安否を心配していた。メッセージによれば、病院にお見舞いに来てくれるとのことだ。もうすぐ退院するから、よければ良夜の家に来てほしいと返信をする。ずっと目を逸らして、向き合ってこなかったけど、今なら変われるかもしれない。
今日も日が昇る。喪失の事実は消えることはない。それでも。何も書かれていないカレンダー。これから一個ずつ、予定を書いていく予定だ。
引き出しから引っ張り出した、古ぼけた手帳には春菜の両親の連絡先が書かれていた。フリックして数字を入力していく。大学生になった時にスマホを買い換えたから、きっと向こうは良夜がかけてきたと気付かないだろう。返事なんて来ないかもしれない。それから、手帳には春菜の電話番号も書いてあった。それも登録しておく。もう使われていなくても、電話がかかってくることがなくても、春菜が確かにいた証だ。
この先続くであろう長い人生。春菜の年齢を追い越してしまった日に襲われた失意も、未だ良夜の身体に纏わりついている。でも、久しく感じていなかった感情がある。春菜がいたから今まで生きてくることができた。そして、これからも生きていける。君の存在が、いつだって僕の道を照らしてくれるんだ、と向こうで会ったらいの一番に言おう。
窓から見上げる空はどこまでも晴れていた。小さく微笑んで、良夜は発信のボタンを押す。