
もう一度
祖父が亡くなった。
覚悟はしていたものの、こんなにもスピーディーにあの世に行ってしまうとは思わなかった。
陸上の選手だった祖父は最期まで俊足だったということか。入院してから1週間もせずに駆け足で天国へ行った。
最期の瞬間に何を思ったのだろう。
体を動かすことが好きだった祖父は、動けないベッドの上で何を感じていたのだろうか。
思い返せば祖父との思い出が多い。
子どもの頃、よく自転車に乗って隣町まで行ったり、川に釣りに行ってゴミ袋を釣ったりした。
ゴミ捨て場から拾ってきたホッピングで遊んだのもよく覚えてる。
陸上競技の審判をしていた頃は国立競技場に連れて行ってもらい、写真判定室に入らせてもらったこともあった。
羽田空港で飛行機を見たり、上野のアメ横に行ったりもした。
何よりも一番の思い出は、祖父との"野球"だった。
プラスチックバットで祖父が投げるゴムボールをひたすら打ち返し、走って捕りに行かせるという野球と言うにはあまりにも可哀想すぎる遊びから私の野球は始まっている。
キャッチボールもよくやった。
当時でもう60を過ぎていたにも関わらずコントロールよく捕り易いボールを放っていた。
陸上競技以外にも、かつては鉄砲肩で鳴らしたキャッチャーだったという祖父。今はそれがどれほど凄いことかがよくわかる。
定年になってからも仕事に行き、休日も常に外に居る。とにかく体力のある人だった。
亡くなる前日に仕事の合間を縫って面会に行ってきた。
酸素マスクをつけていてもう会話をすることも出来ず、見聞きすることは辛うじて出来るという状態。
数ヶ月前まで自転車に乗るほど元気だった祖父が痩せ細って、元々小さかったのにより小さくなっていた。
その姿が情けなくて、悲しかった。
もう滑舌が怪しくて何を言ってるかもわからない話すら聞くことが出来ない。
子どもの頃の思い出や、あの頃に始めた野球を今だに続けていることへの感謝などを一方的に話し続けた。
終ぞ会わせてやることができなかった彼女の写真を「これが俺の嫁だ」と見せてあげたりもした。
久しぶりに二人きりだった10分。
どこまで聞き取れて、どこまで見えていたかはわからないが、話し続けていないと間が持たなかった。
黙ったら、終わってしまう気がした。
帰りしなに「生きてたらまた会おうや」と言った。
きっとお互いわかっていた。
温かな左手を握るのもこれが最後だと思った。
時折こちらへ顔を向けたり、目を少し大きく開いたり、口を動かしたりしていたが、昨今の滑舌同様何が言いたいのかはさっぱりわからなかった。
おそらくありがとうだとか頑張れといった類いの言葉を伝えたかったんだろうと思うことにして病室を出た。
人としてあった方が良さそうな感情の一部が欠けている私は、これまで誰かしらが亡くなってもその度にケロリとしていたため大変に薄情な人間だと思われていたに違いないが、この時ばかりはさすがに泣いた。
別に特別何か恩返しをした記憶も無ければ、良い孫だった覚えもない。
どちらかと言えばこの期に及んで泣く資格などないのだ。
それでも泣いた。
私は、祖父が好きだった。
実家にいた頃、祖父は私の野球の結果を毎回訊いてきた。
それを楽しそうに聞いていたのを思い出す。
今も変わらず祖父と同じキャッチャーを守ってる。"鉄砲肩"には程遠い弱肩は輪をかけて弱くなってしまっているが。
もう一度、野球をやってる姿は見せてあげたかったな。
まあ、気が向いたら見に来てくれ。
空に一番近い打球を打ってやるから。
ほんのちょっとホームからレフト方向に風を吹かせてくれればいいよ。
思えば面会に行った日に午前中の仕事が早めに終わったのも、その後のヘルプの仕事の予定がキャンセルになったのも呼ばれていたということなのだろうか。
迷信染みた発想かもしれないが、この手の話はよくあることだ。
命日が私の背番号と同じ日付なのも忘れるなということなのだろうか。
私もご多分にもれず、都合よくこじつけるのが好きだなと思う。
すごく日本人らしい。
「じいみたく真面目に生きる」と約束してしまったのでこれからも真面目に生きようと思う。
じいに似て体力だけはあるから。
じいに似て、頭はあんまり良くないけどな。
庭のみかんがなったら、採りに行くわ。
彼女と二人で。