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「ある現実」の風景/映画『コンドル』

     映画を観ている者は、自分の日常に対して抱く現実のイメージの向こうに、映画の構成やストーリーの展開などによって作りだされる架空の現実といったもうひとつの現実のイメージを瞬間瞬間に作りあげていく。
     いつのまにか、場面の中の「ある現実」の”その場所”の、冷たい空気を深く吸い込んで、気がつけば主人公の目を通して、”その場所”の薄汚れた裏路地に転がるゴミ箱を見ているのである。先の見えない現実を目の前にした主人公の気分になって。

     原題    Three Days of The Condor  (1975/アメリカ)
     出演者        ロ バ ー ト・レ ッ ド フ ォ ー ド(Robert Redford)
             フ ェ イ・ダ ナ ウ ェ イ (Faye Dunaway)
             マ ッ ク ス ・ フ ォ ン・ シ ド ー (Max Von Sydow)
           ク リ フ ・ ロ バ ー ト ソ ン(Cliff Robertson)
     脚本    ロ レ ン ゾ ・ セ ン プ ル ・ ジュ ニ ア(Lorenzo Semple, Jr)
           デ ヴィ ッ ド ・ レ イ フィ ー ル (David Rayfiel)
     音楽    デイブ・グルーシン(David Grusin)
     監督    シ ド ニー ・ ポ ラ ッ ク(Sydney Pollack)

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     「秋と冬の狭間・・・」主人公の J ・ ターナー( R・レッドフォード ) は、女(F・ ダナウェイ )の部屋の壁に飾ってある写真を見てこうつぶやく。

     ストーリーは、ニューヨークに在る、ある協会に勤務し、世界の様々な言語で出版された本や雑誌の分析の仕事をしている主人公が、ある日職場で突然事件に巻き込まれるところから始まる。その後、主人公は理由もわからないまま、正体の知れないものに命を狙われることになる。
     巻き込まれた事件は、それまでの主人公の日常生活とはあまりにもかけ離れたものであったが、ストーリーは、事件の前となにも変わらない主人公をとりまく日常的な街の風景を背景として、その事件の非日常性を際立たせることなく、静かに淡々と展開していく。その展開の仕方からは、その後も主人公が次々と遭遇する、命を狙われるという非日常的な出来事においても、その過剰な表現によって、出来事の具体的な現実性を損なわせてしまわないように、そこに描かれるその架空の現実の日常性(街の風景と事件の衝撃を内面にかかえる主人公の反応)の枠組みを慎重に形作っているこの映画の、意図というよりも、そこに流れる表現の感性の働きといったものが伝わってくる。

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     公園、高層ビル、アパートの部屋、ビルの裏路地など、この映画の全編を通して、秋の終わりから冬にかけての冷たく透明な大気の向こうに、都会の街とその片隅の薄汚れた身近な景色が映し出されていく。正体の知れないものの影に怯えながら、街の物影に身を潜ませるように、そこをさまよい歩く主人公の姿と、その息づかいを間近に感じさせながら。
     映し出される登場人物たちの姿のまわりには、いつも、そこの冷たく透明な空気が漂っている。目立たないように場面にとらえられた、この秋から冬へと向かう都会の街の空気の、透明で冷たい感触は、登場人物たちの姿、街の建物、街をさまよい歩く主人公の周囲で一日の時間の流れとともに変化する陽光の光と影の具合いなどといったものの、いつもと変わらない現実の、感覚的なイメージの輪郭を、その場面によってその現実に隠された違う質感をともなって、日常の街の風景を背景にして印象的に浮き立たせる。

     おそらく、それとは特に意識することはないが、 いつもまわりにあっていつもと変わらないもの、「街の風景やそこに漂う冷たい空気」といった日常的なものの在りよう(日常性)が、この映画の表現の基調を生み成している。そうした基調は、この映画の表現の感性に抑制的に働き、その架空の現実の輪郭を形作り出している。
     表現の感性は、それが<作品>に実現される際に、その外に在る現実との関わりによって、その枠組みを表現の限界・限度として形作っていく。その関わりによって、架空の現実を、映画の<作品>という完結したイメージとして、この世界に実現することができる。
     この映画の基調に働くこうした感性が、現実との関わりを受けて、その表現としての枠組み(作品という限定性)を形作りながら、そこに現れる架空の現実の輪郭を、リアルなものとして画面に生起させている。
     映画に限らず表現といわれるものが宿してしまう、それを構成している個々の表現的な感性(演技や演出など)の、ときにそうした枠組みの存在を見失うほどの過剰な自意識も、その表現の枠組みの内側に抑制的に織り込んで。

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     事件の後、おそらく、主人公には、それまでと一見何も変わっていないように目に映るまわりの街の風景が、突然先の見えないどこか得体の知れないものとなって立ち現れている。その時主人公は、自身の内面の現実を目にしている。そのために、その奥へと引き込まれているような、体感的な不安と身の危険を、いつも感じさせられながら街をさまよっている。
     このとき、事件の前後でその様相を変えた、主人公の内面の現実といつもと変わらないその外の世界の現実との関係性が、この時の主人公の姿に、不安や危険を孕んだ危うい均衡の人物の像を結んでいる。
     そして、この像は、主人公の姿の軌跡として、その二つの現実を流れる時間、外の世界へと向かう彼の内面に現れる現実の時間と、彼の内面へと向かう外の世界の現実の時間が焦点を結ぶところに描かれる場面が、この二つの現実の関係の物語(ストーリー)を作り上げていく。

     展開するストーリーの瞬間瞬間に、主人公の姿は、まわりの街の風景の、冷たく透明な空気の向こうから、その命を狙う正体の知れないものに見据えられているような、彼の姿にまで長く伸びた、そのものの影に怯える感触の、緊迫した気配を漂わせる人物として場面に捉えられていく。この映画の架空の「ある現実」に息づく人物として、ある必然的な意図を宿す自然でリアルな呼吸を感じさせる、そこの地面に足を着けた、限定された輪郭の人物としての完結した像をそこに結ぶことができている。
     主人公が壁の写真に目にした、「秋」と「冬」といった日常的な季節の時間の流れが、自らの不変的な日常性に思いがけず垣間見せる「狭間」といったものを、日常的なものがその流れを止めた感覚の時空(現実)を、日常とはかけ離れた非日常的なものとしてではなく、日常的なものの内部に日常とは異なるものの存在としてこの映画は実現している。
     観ている者は、いつもの自分の身のまわりの現実に息づく、この映画の場面に映し出される「ある現実」を目にすることになる。「ある現実」のその場所に現れる主人公の目を通して、不確かでどこか得体のしれないものとなった自分のまわりの「ある現実」に立っていることの身体的な重力を、その身体に取り戻しているのである。

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     街の雑踏の方へ歩きはじめた主人公が、不意に、後ろを振り返る。その背後で冬の陽光を受けて、冷たく輝く透明な光と影の街の空気。突然、クリスマスが近づくにぎやかな街の喧噪が途絶え、画面が静止し白黒に反転する。映し出された主人公の顔に落ち入る深い翳り。
     それを背景に、それも冬の冷たい空気の一部で、いつもそこにあるもののような静かで抑えた響きの音楽とともに、エンドロールが流れはじまる。
     この最後の場面の、そこに射し込む冬の陽光に照らされた薄暗い透明感は、そこに映し出された街の物影に立つ主人公の姿に、あらためて、いつもの変わらない街の風景に現れる現実の得体の知れなさを、その輪郭として街の奥行きに冷たく際立たせる。
     エンドロールが終わり、画面から消えたこの場面のうすれる記憶は、その後もつづくであろう主人公の日常の時間を予感させる。日々の生活の床から立つかすかな埃の粒のように、彼の日常の足もとを音もなくいつまでも漂いつづけるであろう不安や怖れといったものを予感させる。

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     映画という表現もまた、それを作り出そうとする者の内面の現実とその外の現実という、それぞれ固有の在り方で存在する二つの現実が、それぞれを限定しながら織り成す<関係>といったものによって、この世界の中で<作品>として現実に成立することができる。
     その基調を構成する、設定や演出、演技、脚本などといった映画における個々の表現の感性が、そのストーリーのどこかで、その<関係>の現れである<作品>としての枠組み(限度)を超えてしまっていると、おそらく、そこでその映画は<作品>として破綻している。ストーリーが描く架空の現実は必然的な連続性を失い、”はじまり”の点と”おわりの点が重なり合わず、どこまでも”円”を結ぶことができないように、この世界に現実的なイメージを完結することができなくなっているのである。
     それは、その映画に表現されているものがどのようなものであったとしても、たとえば、なにかしらの社会的、人間的に重要な意味が解釈され評価されるものであったとしても、そこに表現された架空の現実を、リアリティの感じられない、どこか都合がいい、空々しいものにしてしまう。

     映画が作り出す、架空の「ある現実」のイメージはさまざまである。それは体感的なイメージとして、余韻のようにその映画を観た者の身体に記憶される。その者の日常にとっては異質で得体のしれないものの、予感的ないきいきとした奥行きとひろがりをもつイメージとして。
     映画を観ている者が、その時に居る場所の「ここ」ではない、どこかの「ある現実」の地面を踏んでいたような、この映画でいえば、たとえば、建ち並ぶビルの裏路地で、正体の知れないものの気配に怯えながらその奥の物影にじっと目を凝らしている、そこの冷たく乾いた空気を呼吸する凍える主人公の身体の実感といったものを。

     この映画では、こうした「ある現実」の新鮮な体感的なイメージが、破綻のない完結したかたちの像となって、画面のこちら側まで、観ている者へともたらされてくる。
     観ている者が、そうした完結したイメージを受け取ることができるのは、おそらく、この映画を表現の<作品>として形作る「ある現実」の枠組みと、その<作品>を構成する脚本、演出、演技、撮影、編集、音楽などといった、そこに備わった生来的に限界というものを知らない、それら個々の表現の感性の動きとの間の均衡(その重心の位置がストーリーの展開によって、不可測に変動するような難しい均衡)が、全編にわたって表現の<作品>として破綻することなく保たれているからである。それとは意識させることなく、そこから、この映画に描かれた「ある現実」の日常性の輪郭が描かれていくように、自然な、先の見えないものとして。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門

     
     
    現在について、音楽、映画、文学などの表現について。 思いうかんだことを、書き留めながら考える。

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