
09_季節と身体の感情
まだ名前のない感情
終電を逃した瞬間の、絶望と同時に訪れる奇妙な自由
四季のある国に生きる身体は、季節ごとに違う感情を持つ。
そして都市に生きる身体は、終電という名の締め切りに支配されている。
今回は「季節」と「身体」が交差する場所にある三つの感情。
二十五、衣替再会(ころもがえさいかい)
季節の変わり目に去年の服を出した時の、一年ぶりの再会のような懐かしさ。
十月。
そろそろ長袖の季節だ。
クローゼットの奥から秋冬物を引っ張り出す。
畳まれたニットを手に取る。
あ、このニット。
去年の冬、毎日のように着ていたやつ。
袖口が少しだけ伸びている。
襟元に微かな毛玉。
着てみる。
身体が覚えている。
この温かさ、この肌触り、この重み。
衣替邂逅は、「服に保存された過去の自分」との再会だ。
服は不思議なもので、着ていた時の季節の温度を記憶している。
ニットを広げた瞬間、去年の冬の空気がふわりと立ち上る。
木枯らしの朝、このニットを着て駅まで歩いたこと。
忘年会でビールをこぼしかけたこと。
その時一緒にいた人の笑い声。
服は、着ていた季節のタイムカプセルだ。
面白いのは、この感情が「夏服→冬服」の方向でより強く感じられることだ。
冬服には「包まれる」感覚があるからだろうか。
夏服を出す時にはあまり感じない懐かしさが、冬服にはある。
もしかすると、寒い季節の記憶の方が、身体に深く刻まれるのかもしれない。
衣替えは、年に二回の小さな同窓会だ。
去年の服と、去年の自分に、「久しぶり」と挨拶する儀式。
二十六、花粉背信(かふんはいしん)
春の陽気を楽しみたいのに花粉症が邪魔をする、自然への愛憎入り混じる感情。
三月。
長い冬が終わった。
桜の蕾がほころび始めている。
空は青く、風は柔らかい。最高の季節だった筈。
くしゃみが止まらない。
目が痒い。
鼻が詰まる。
マスクをして、花粉症の薬を飲んで、窓を閉め切る。
春は美しい。
それは間違いない。
でも花粉症の人間にとって、春は「美しい敵」だ。
愛しているのに攻撃してくる。
楽しみたいのに苦しめてくる。
「花粉背信」は、自然との関係が一方的に裏切られた時の感情だ。
冬の間ずっと待っていた。
「春になったら散歩しよう」「花見をしよう」「ピクニックに行こう」。
その計画のすべてが、杉の木の花粉によって妨害される。
杉に悪意はない。
杉はただ子孫を残しているだけだ。
でもこちらの免疫系が過剰反応する。
この感情が複雑なのは、「怒る相手がいない」ことだ。
天気のせいでもない。
誰かのせいでもない。
自分の身体のせいだ。
自分の免疫が、無害なものを敵と誤認している。
つまり、裏切っているのは自然ではなく、自分の身体の方だ。
それでも、薬を飲みながら窓の外の桜を見て思う。
「来年こそは」。
花粉背信は、それでも春を愛することを止められない人間の、不器用な愛情告白でもある。
二十七、終電解放(しゅうでんかいほう)
終電を逃した瞬間の、絶望と同時に押し寄せる奇妙な解放感。
飲み会が長引いた。
時計を見る。
23時52分。
最寄駅までの距離と時刻表を瞬時に計算し、結論を出す。
間に合わない。
胃のあたりがきゅっと縮む。
タクシー代、明日の朝の予定、帰宅後の段取り現実的な問題が一斉に頭をよぎる。
間違いなく、これは災難だ。
なのに。
ほんの数秒後、妙な感覚が胸に広がる。
軽さ。
「もう走らなくていい」という安堵。
「もう間に合わせなくていい」という解放。
終電という締め切りが消えた瞬間、時間の圧力がゼロになる。
さっきまで一秒ごとに追い詰められていたのに、今はどれだけ時間が経っても同じだ。
0時も1時も2時も、もう差がない。
「終電解放」は、選択肢が消えることで生まれる逆説的な自由だ。
終電がある間は「帰れるかもしれない」という可能性に縛られている。
間に合うかもしれない。
急げば乗れるかもしれない。
その「かもしれない」が重荷だ。
でも完全に逃した瞬間、「かもしれない」がゼロになり、重荷も消える。
深夜の街が違って見え始める。
いつもは急ぎ足で通り過ぎるネオンが、今夜はゆっくり眺められる。
コンビニのコーヒーが、いつもより美味しい。
もちろん、明日の朝は大変だ。
でも今この瞬間、終電を逃した自分は、奇妙に自由だ。
都市生活者にとって終電は日常の「最終防衛線」だ。
それを突破してしまった時、防衛すべきものがなくなり、逆に解き放たれる。
終電解放は、都市に暮らす人間だけが味わえる、少しだけ贅沢な絶望だ。
あなたの「まだ名前のない感情」はありますか?
衣替邂逅、花粉背信、終電解放、身体が感じる感情は、頭で考える感情よりも正直だ。
あなたの「身体の名前のない感情」を聞かせてください。
次回は最終回。
「存在と不在のあわい」。
この連載の締めくくりにふさわしい、最も深い三つの感情を名付けます。