
01_日常のすれ違い
まだ名前のない感情
電車で席を譲ろうとして先を越された時のあの気持ち
この連載は全10回です。
日本語にまだ名前のない感情を30個集めて、ひとつずつ名付けていきます。
私たちは毎日、数えきれないほどの感情を経験している。
嬉しい、悲しい、腹が立つ言葉にできる感情は、ほんの一握りだ。
では、言葉にならない感情は、存在しないのだろうか。
ドイツ語には「Schadenfreude(シャーデンフロイデ)」という言葉がある。
他人の不幸を喜ぶ気持ちのことだ。
日本語にぴったり当てはまる一語はない。
ポルトガル語の「Saudade(サウダージ)」は、もう戻らないものへの切ない懐かしさを意味する。
これも日本語では一語にならない。
でも、その感情自体は、私たちの胸の中にも確かにある。
名前がないから見えないだけで、言葉を与えた瞬間、輪郭が現れる。
この連載では、日本語にまだ名前のない感情を30個集めて、ひとつずつ名前を付けてみる。
一、譲空振り(ゆずりからぶり)
電車で席を譲ろうとした瞬間、隣の人に先を越された時の複雑な安堵。
お年寄りが乗ってきた。
よし、立とう。
そう決めて腰を浮かせかけた、その0.5秒前に、隣の若い男性がすっと立ち上がった。
あなたは中途半端に浮いた腰をそのまま座席に戻す。
その瞬間、胸に広がるのは何だろう。
安堵だろうか。いや、純粋な安堵ではない。
「自分も譲ろうとしていた」という事実を誰にも証明できない悔しさ。
でも同時に、座っていられることへの正直なほっとした気持ち。
そしてそのほっとした自分を少しだけ恥じる気持ち。
この三層構造の感情を、日本語は一語で表せない。
善意と怠惰と自尊心が0.5秒の中で衝突する。
バッターボックスに立って、渾身のスイングをしようとしたら、隣のバッターが先にホームランを打った。
そんな空振りの感覚に似ている。
だから、「譲空振り」と名付けたい。
空振りだけれど、振ろうとした心は本物だった。
それでいいのだと思う。
二、未踏喪失(みとうそうしつ)
一度も行ったことのない店が閉店した時に感じる、架空の思い出への喪失感。
通勤路にあった古い喫茶店。毎朝その前を通るたび、「いつか入ってみよう」と思っていた。
ガラス越しに見える琥珀色の照明、カウンターに座る常連らしき老人の背中、メニュー看板の手書き文字。
ある朝、シャッターに「長い間ありがとうございました」と貼り紙があった。
胸がざわつく。でもこれは、思い出を失った悲しみではない。
思い出を作る可能性を失った悲しみだ。
一度も足を踏み入れていない場所に、すでに「いつかの自分」が座っていた。
その架空の自分ごと消えてしまった感覚。
不思議なことに、この喪失感は実際に通っていた店が閉まるよりも深い場合がある。
通っていた店には思い出が残る。
でも通わなかった店には、「ありえたかもしれない時間」だけが残る。
可能性そのものへの喪「未踏喪失」。
私たちは、行かなかった場所のことも、ちゃんと悲しめるのだ。
三、沈黙臨界(ちんもくりんかい)
タクシーの中で運転手との沈黙が限界を超えた瞬間の、話しかけるべきか否かの圧力。
乗車して5分が経った。行き先は告げた。天気の話もした。
「暑いですね」「そうですね」。会話はそこで途切れた。
ここからが長い。
カーナビの案内音声だけが車内に響く。運転手は前を向いている。
あなたはスマホを見るふりをしている。
でも画面の文字は頭に入ってこない。
意識のほとんどが「この沈黙」に向けられている。
話しかければいいのだ。
でも何を?今さら天気の話には戻れない。
かといって個人的な話をするほどの関係でもない。
沈黙を破るための一言が見つからないまま、沈黙そのものが存在感を増していく。
これが「沈黙臨界」だ。
沈黙がある一線を越えると、それ自体がひとつの圧力になり、もはや自然に話し始めることができなくなる。
破るには不自然なエネルギーが要る。
でも黙っていてもエネルギーを使う。
面白いのは、この感情は二人の間にしか発生しないことだ。
一人なら静寂は平和だし、三人以上なら誰かが喋る。
二人きりの密室で、かつ赤の他人同士その条件が揃った時だけ、沈黙は臨界に達する。
あなたの「まだ名前のない感情」はありますか?
譲空振り、未踏喪失、沈黙臨界。
この三つの中に「それ、わかる」はあっただろうか。
もし、あなた自身が感じたことのある「名前のない感情」があれば、ぜひコメント欄で教えてほしい。
次回以降の連載で、名前を付けるかもしれません。
次回は「時間の手触り」をテーマに、三つの感情を名付けます。