
07_人間関係の隙間
まだ名前のない感情
「じゃあね」と言った後に同じ方向に歩き出す、あの気まずさ
人間関係は、言葉と沈黙の隙間にこそ本質がある。
今回は、人と人の間に漂う、繊細で少しだけ滑稽な三つの感情。
十九、名忘恐(なぼうきょう)
何度も会っている人の名前を忘れ、もう聞き直せない段階に達した時の綱渡りの恐怖。
職場の廊下で会う人がいる。
もう十回以上は挨拶を交わしている。
向こうは自分の名前を知っている。
「あ、○○さん、おはようございます」と呼んでくれる。
自分は、その人の名前を覚えていない。
最初の二、三回なら聞けた。
「すみません、お名前もう一度いいですか?」で済んだ。
でも十回挨拶を交わした今、それはもう言えない。
言えば「この人、十回も会って名前覚えてなかったのか」と思われる。
だから毎回、名前を呼ばずに切り抜ける。
「おはようございます!」名前なし。
「お疲れさまです!」名前なし。
相手の名札をちらりと見ようとするが、角度が悪い。
共通の知人との会話から名前を拾おうとするが、機会がない。
名忘恐の本質は、時間が経つほど聞けなくなる不可逆性にある。
人間関係には「名前を聞いていいタイムリミット」が存在し、それを過ぎると永遠に聞けなくなる。
そして、たいてい最悪のタイミングで発覚する。
「この方を紹介してください」と第三者に言われた瞬間、地面が崩れ落ちる。
名忘恐の解決策は一つしかない。
勇気を出して「本当に申し訳ないんですが」と切り出すこと。
相手は笑ってくれることが多い。
なぜなら、相手もあなたの名前を実は怪しんでいる可能性があるからだ。
二十、別同歩(べつどうほ)
「じゃあね」と別れた直後に、同じ方向に歩き出してしまった時の気まずさ。
友人とカフェで会った帰り、店の前で「じゃあね、またね」と手を振った。
互いに背を向ける。歩き出す。
五歩ほど進んで気づく。同じ方向に歩いている。
振り返ると、友人も気づいて苦笑している。
「あ、こっちなんだ」「うん、駅こっちで」。
ぎこちない笑い。
そしてまた並んで歩き始める。
でもさっきの「じゃあね」はどうなるのか。
もう一度別れ直すのか。
それとも駅まで一緒に行くのか。
別同歩の気まずさは、「別れの儀式」を台無しにしたことへの居心地の悪さだ。
人間の別れには様式がある。
目を合わせ、言葉を交わし、手を振り、背を向ける。
この一連の流れが「別れ」を成立させる。
ところが同じ方向に歩くことで、その流れが中断される。
別れたのに、別れていない。
宙ぶらりんの状態。
最も気まずいのは、しばらく並走した後に本当の分岐点が来た時だ。
もう一度「じゃあね」と言うのか。
さっきと同じ儀式を繰り返すのか。
二度目の「じゃあね」には、一度目のような自然さがない。
でも、この気まずさの中に、少しだけ嬉しさがあることも正直に告白しよう。
「もう少しだけ一緒にいられた」という、別れを先延ばしにできた微かな得。
別同歩は、気まずくて、少しだけ温かい。
二十一、返礼螺旋(へんれいらせん)
お土産やお礼の応酬がエスカレートし、終わらせ方がわからなくなった時の焦り。
旅行のお土産を友人に渡した。
すると翌週、友人が「この前のお礼に」と菓子折りをくれた。
その翌月、自分がまた出張先のお土産を渡した。
するとまた友人が。
いつの間にか、「贈り物の応酬」が自走し始めている。
止めたい。
でも、自分が止めたら相手が「最後に贈った側」になり、こちらが「もらいっぱなし」になる。
それは申し訳ない。
かといって、さらにお返しをすれば螺旋は一段上に進む。
これは日本文化の深層に根ざした感情だ。
「お返し」の文化が美しいのは認める。
感謝を形にすることは素晴らしい。
でもその美しいシステムには終了条件がプログラムされていない。
返礼螺旋を終わらせるには、誰かが「もうお互いさまにしましょう」と宣言する必要がある。
でもその宣言自体が、ある種の失礼に感じられる。
「あなたからの贈り物はもう結構です」と言っているように聞こえかねないから。
結局、螺旋は自然消滅を待つしかない。
両者がなんとなく頻度を落とし、なんとなくフェードアウトしていく。
日本的な解決法明言せず、空気で終わらせる。
返礼螺旋は、善意が善意を呼び、善意に追われる皮肉だ。
あなたの「まだ名前のない感情」はありますか?
名忘恐、別同歩、返礼螺旋、人間関係の隙間には、笑えて、少し切なくて、でも温かい感情が詰まっている。
あなたの「人との間の名前のない感情」を聞かせてください。
次回は「買い物と所有の感情」。
お金と物にまつわる、名前のない三つの感情を取り上げます。