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本日の本質 #94 真実と恐怖

    偽りの安心より、本物の恐怖を

    人は無自覚のうちに恐怖を抱き、その恐怖から逃れる過程で真実を見えなくしてしまう。私たちは普段、自らの考えや感情を理解し、それに基づいて合理的に行動しているつもりでいる。しかし現実には、自分がなぜその選択をしているのか、なぜその価値観を信じているのかについて驚くほど無自覚である。一般に、人が真実を見誤る理由は知識不足や思考力不足だと考えられている。しかし本稿で論じたいのは、その背後に恐怖からの回避という別の要因が存在するという点である。むしろ十分に理解できるはずの事柄であっても、人はそれを認めようとしない。本稿では、この現象を恐怖からの逃避という観点から考察したい。人はなぜ自分に都合の良い物語を信じるのか。なぜ認知を歪めるのか。そして、どうすれば真実に近づくことができるのか。その構造を順に見ていきたい。

    真実は往々にして人間にとって不都合なものである。最も分かりやすい例は、人は必ず死ぬという真実だろう。大病を患い、余命宣告を受けた人間が悟りを開きやすいのは、この恐怖と強制的に直面させられた結果である。健康な我々は、人が必ず死ぬことを知っていながら、自分だけは今日死なないという前提で生きている。死に代表されるように、真実とは本来、私たちを安心させるものではない。むしろ自己認識や人生観を揺さぶり、時にそれまで信じてきた前提そのものを崩壊させる。そのため人は真実から目を背ける。しかし正確には、真実そのものから逃げているのではない。真実と向き合ったときに生じる恐怖から逃げているのである。そして、その逃避の結果として、自らにとって都合の良い解釈や物語が生み出される。本稿で扱う恐怖の対象は死ほど根源的なものではない。しかし、恐怖からの逃避が認知を歪め、真実を見えなくするという構造そのものは全く同じである。

    人はしばしば自らの欲望と向き合うことができない。例えば、多くの人は仕事の目的をやりがいや社会貢献、自己実現であると語る。しかし仮に今日、口座に10億円が振り込まれたなら、大半の人は少なくとも一度は現職からの退職を真剣に検討するだろう。同様に、未婚の30代女性が結婚への焦燥感を抱いているにもかかわらず、それを否認することもある。ここで問題なのは欲望そのものではない。金銭や愛情や承認を求めることは極めて自然なことである。問題は、その欲望を持つ自分自身を受け入れられないことである。人は理性的で高潔な存在でありたいと願うがゆえに、自らの欲望と向き合うことを恐れる。そして、その恐怖から逃れるために、本音よりも自己イメージを優先し、自らにとって耳障りの良い物語を信じるようになる。

    そしてまた人は、欲望だけではなく自らの現実と向き合うことへの恐怖から真実を歪める。なぜなら真実を認めるということは、多くの場合、変化を要求するからである。例えば大学進学は建前上は学問のためだと語られるが、多くの人にとっての主要な機能は大卒という社会的資格の獲得にある。しかし、その現実を受け入れるならば、市場価値や競争力の向上という問題とも向き合わなければならない。同様に、子どもを学習塾へ通わせることで教育熱心な親であるという自己像を得ながら、自ら学び続ける努力については問わないこともある。もちろん大学や塾そのものを否定したいわけではない。重要なのは大学や塾の是非ではない。人は本質的な課題と向き合うことへの恐怖から、問題そのものを解決する代わりに、問題に取り組んでいる気分になれる象徴的な行動を選びやすいのである。

    したがって、真実を見るために必要なのは知性よりも勇気である。偽りの安心より、本物の恐怖を選ぶ誠実さである。どれほど知識を持っていても、自らにとって不都合な事実を受け入れる勇気がなければ真実には到達できない。真実と向き合うとは、自らの欲望や怠惰、虚栄心や恐怖を認めることを意味する。そしてその過程では、これまで信じてきた自己像や人生の物語が崩れ去ることもあるだろう。さらに、社会の価値観や常識の多くもまた物語によって支えられている以上、真実を追求する者は周囲との摩擦や孤独を避けることができない。しかし真実を選ぶとは、その代償を引き受けることでもある。勇気とは恐怖が存在しない状態ではない。恐怖を抱えたまま、それでも目を逸らさない態度なのである。

    結局のところ、人が真実から遠ざかる最大の理由は、恐怖から逃げ続けることにある。欲望の否認も、現状維持への執着も、自己正当化も、その根底には見たくない現実との対面を避けたいという自己防衛反応が存在している。しかし恐怖から逃げるたびに、人は真実から一歩ずつ離れていく。短期的な偽りの安心のために、長期的な豊かさを手放しているのである。そして、その構造を理解する上で象徴的なのが、冒頭で触れた死という事実である。人は必ず死ぬ。人はいつ死ぬか分からない。人生は一度きりである。この、最も恐ろしく、そしてまた最も確かな真実と本当に向き合い、死生観を内面化することができれば、人は勇敢にならざるを得ない。死によって照らし出される人生の有限性それ自体は恐ろしい。しかしそれは、それ以外の恐怖を相対化する力を持っている。欲望や現実を認めることへの恐怖は、死を直感した瞬間にその多くが色褪せる。真実への距離を決めるのは知性の高さではない。恐怖と向き合う勇気の大きさ、そしてどこまでも真実に誠実であろうとする精神の問題なのである。

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