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削らずに反応を起こす

    ワダシノブ

    ノートを頻繁に更新することに決めてはや半年。内面をというか思ったことをつらつらと書いてきた。「というか」という単語を自分が多用することも知った。

    続けてみることで気づいたこともたくさんあるし、消えていった感情もたくさんある。書くことへの恥ずかしさは、だいぶ消えた。これを読む人は少しはいるけど、これでは世界は変わらない。という安心感のようなもの。

    (ただ、母には読まれたくないなと思う。なんとなく。読まれたい人なんている?子供の文章はもちろん読みたいけど。隠しているものはそっとしておこうと心に誓う)

    実名で書いているから、書かないこともある。周りの人のことを書くなんて怖くてできない。日本語が読めない人のことは書いてるかも。夫とか。ネタの宝庫夫。いい奴。

    書きたくないことを無理して書いたりもしない。いい話にまとめて恥ずかしくなって消したことも一度や二度ではない。

    話がずれるけど、マンガの手癖、という話になった時に、ストーリーテリングの手癖みたいなのあるよねっとなって面白かった。

    数年前、イタリアに関する4コマを書いたときに「イタリア人ってこんなにいい奴ら!」みたいなステレオタイプのオチをつけたら、「そんな人はいない」とボツになったことがある。たしかに創作だった。自分の中のステレオタイプに逃げるのが手癖のような気がする。

    更新の頻度をあげることを自分に課してからは「毎日一定のクオリティの文章とネタがある人への溢れるリスペクトが劇上がり」だ。

    もちろん、文章なりマンガなりの質が高いからそんな努力の必要ない人もたくさんいると思う。ただ、質の担保がないから量を増やしてみたのだ。(はやりに乗ったのだ)

    ただ、マンガは。。描くのに途方もなく時間がかかる。文章1に対してマンガ10。

    多分、文章ももっと狙いをとか構成を考えられれば、それなりに時間がかかるんだろうなとは思うけど、まだそこまでたどり着かない。年末くらいには、誰かに届く文章が書けるのか。

    ツイッターでたらればさんがこんなことを呟いていた

    https://mobile.twitter.com/tarareba722/status/1016834367371423744

    「自分のこと」や「考えて考えて思いついた話」ばかり書いていると、いずれ自分を切り売りしている感覚になる。でも新しいものを見つけようと外に目を向けたり、誰かと会ったりして、その新要素と自分が混ざり合ってできたものを差し出してゆくと、飽きないし飽きられないし、何より削られない。 https://twitter.com/tarareba722/status/1016834367371423744?s=17

    まさに最近考えていたことだった。

    内面を削るような創作には辿り着いていないけど、自分の考えには飽きる。(マンガを描くのも、「ネーム→下絵→ペン入れ」 と同じ絵の上での作業の繰り返しが多くて飽きる)

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    新しいものを見つけようと(物理的にも精神的にも)外にでていないな。足りない。変わっているものに大しても、同じものとして接しているなとか思う。手癖のように。

    おわり

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    広島出身・イタリア・トリノ在住。イラストとマンガと文章をかいています。インスタで料理を保存してるけど作りません。趣味はスケッチと旅行とスタンドアップコメディをすること。  お仕事→ shinobu.it@gmail.com

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