
徒花の棘 【創作大賞2026ミステリー小説部門】
あらすじ
八坂紗雪は、女子校の教員。彼女は担任を受け持つ生徒、春日野一花に異常な執着を向けられ、その対処に頭を抱えている。さらに、二十年以上交際を続けている恋人、伏見律との関係にも不安を抱き、悶々とした日々を送っていた。
ある日、紗雪は春日野の保護者から家庭訪問を強く求められる。恐る恐る応じる紗雪だが、春日野宅で信じがたい出来事が発生し、その心は大きく揺さぶられ、人生の歯車が狂っていく。
愛されるとは何か。愛されなかった者は、どのように生きて行けばよいのか 満たされるとは何か。紗雪は春日野にその人生を振り回されながら、最期には自らの人生をこう結論付ける。
「徒花のような人生だった」
徒花。咲いても実をつけることが叶わない花。どれだけ美しい花を咲かせても、何も残すことができない——
この仕事をしていると、春風に愛された少女にたくさん出会う。
まるで春そのもののような輝かしい笑顔で、入学式に来る生徒。彼女は春風に愛されている。まだ肌寒い四月に、暖かい空気を纏って入学してくる。
逆に、まったく春風に愛されなかった少女もいる。そういう子も大体わかる。暗くて冷たい空気を纏って入学してくる。彼女の周りだけ、空気が二月で止まってしまっている。
春風に愛された少女がクラスのヒエラルキーを握るかと言われるとまたそれは違うし、逆もしかり。
今日から十一月。薄手のブラウスでは少し肌寒い。
山手女子学院中学校・高等学校。朝読書の時間は誰一人として声を発さないような学校だ。
私が担任をしているのは、中学一年一組。
チャイムと同時に、騒がしい教室に足を踏み入れる。
「おはよー、席ついてねー」
教卓に日誌を置きながら、生徒たちを一瞥。空席は、教卓の目の前の席だけだ。
春日野一花の席である。
山手女子学院には主席で入学していたはずだ。学費全額免除、特待生。入学式で溌溂と代表挨拶をしていた彼女を回想する。まさしく彼女も、春風に愛された少女だ。
一年一組の天才児であり、問題児でもある彼女。四月から十一月の今日まで、遅刻をしなかった日は一度もない。出席簿に「春日野 遅刻」とメモしていると、廊下からバタバタと足音が聞こえてくる。
「やっばーい! ぎりぎりセーフ!」
「アウトねー」
ガラガラとけたたましくドアを開けて、春日野が教室に入ってきた。そして近くの生徒にいじられている。毎朝この調子だ。別に遅刻してくるだけならそこまで手は焼かないのだけれど、別の要素で私は彼女に大変困らされている。
「ほら春日野さん、席に着きなさい」
「えー、堅いなー、紗雪っちー」
春日野は頭の後ろで手を組み、お気楽に唇を尖らせた。
「八坂先生、でしょ?」
「にしても綺麗な名前だよね、八坂紗雪せんせ、って」
「はいはい、ありがとう。早く座りなさい」
「えー」
春日野は周囲の友人に「ありえん」など愚痴をこぼしながら、席に着いた。
教師が偉い存在だとは思わないし、生徒にとってはなるべく親しみやすい存在でいたいと思っている。
そうはいっても、春日野はあまりにも距離が近すぎて困る。だが、なぜか彼女はほかの先生にはきちんとした態度で接している。つまり、私に原因があるということ。
けれど、ただ「なめられている」とは違うような気がする。まるで甘えられているような、そんな態度を取られている。教師をやってもう十二年になるが、このような生徒とは今までに出会ってこなかった。
ホームルームを終わらせ、授業の準備をしようと思っていた矢先。春日野が近づいてくる。
「せんせ」
「何……ってちょっと……」
春日野は唐突に腕を絡めてきた。べっとりとまとわりついてくる。やんわりと振り払うが、まるでひっつき虫のように離れない。
「離れなさい」
「なんで?」
「なんでって……」
今度は強く振り払う。だが、やはり離れない。
「いいじゃん。ね?」
猿のように長い腕。猫なで声で私にささやく。
「……とりあえず、私も授業があるから。昼休み、第一音楽室に来なさい」
「え!? せんせと二人っきり!? やったあ!」
「じゃなくて、お説教!」
「ふふ、せんせと二人っきりなら、お説教ですらご褒美だよーん」
春日野は私にまばゆいウィンクを飛ばし、さっさとロッカーの方へ去って行った。私は教卓に取り残されている。
「八坂先生?」
教室のドアの方に、一条が立っていた。数学の男性教師で、中肉中背で容姿も普通。年齢も私より数個下の三十路……といった具合だが、山手女子学院に彼より若い男性教師はいないため、生徒に「イケメン」ともてはやされている。
「あ、ごめんなさい」
私は慌ててプリント類を適当にまとめ、教室を出て行こうとするが、雑にまとめられた紙の束は一気に暴れ出す。
「あっ!?」
プリントの雪崩が起こった。たちまち床に崩れ落ちてしまう。
「大丈夫ですか?!」
一条はすかさず駆け寄り、プリントをまとめてくれた。そして、小声で耳打ちされる。
「春日野がまた遅刻の言い訳を? 彼女は学習面では完璧だというのに……」
「ええ……」
「大変ですね……。さ、お気をつけて」
「ありがとう。お願いします」
一条に礼を言いながら、ダッシュで教室を飛び出す。普段、生徒には口酸っぱく廊下を走るなと言っているのに、私はいつも廊下を全力疾走している。
第一音楽室に駆け込むと同時に、チャイムが鳴る。私は慌てて授業を開始した。
四限を終えて昼食を搔っ込み、第一音楽室に向かって春日野を待とうとする。
だが、そこにはもう既に春日野がいた。ちょこんと椅子に座っていた。優雅に文庫本を読んでいる。大きな窓から、外の景色がよく見える。もう十一月。秋も深まり、紅葉も美しく色づいている。冬の足音も聞こえてきた。
「せんせ」
私の存在に気が付くなり、春日野はくるっと私の方を向いた。
「寒くない?」
「寒いよ」
「暖房くらいつければいいのに」
私がピアノのそばで空調を操作しようとすると、春日野は私の腰に抱き着いてきた。私の腰がすっぽりと、春日野の腕に包まれてしまう。
「ちょっと!」
「いいのー。こうすればあったかい。てかせんせ、腰細いね」
「いいから離れて!」
私は必死で春日野を引き剥がす。細い腕に反して、その若い力はものすごい。
なんとかして引き剝がし、私と春日野は対面で、机をはさんで椅子に座った。
「……その、ね? 最近距離が近すぎない?」
春日野が何を考えているのか、相変わらずよくわからない。くっきりとした二重の線に縁取られた大きな黒目は、キラキラと輝いている。世界のときめきを集めているかのように、キラキラと。
「だめ?」
「当たり前でしょ」
「なんで? せんせも私も、女の子じゃん」
女の子。呪いのようなその言葉に、ぞわっと鳥肌が立つ。「女の子」なんて言葉は、三十五の女に使ってはいけない。それに、私は少女のころからその言葉に何度苦しめられてきたことか。『自立した女性として社会に貢献するために……』約二十年前から、嫌と言うほど聞かされてきた言葉がよみがえる。
「女の子である前に、先生と生徒だよ」
私はそう諭すが、春日野は呆れたように笑い、机に跨った。スカートがめくれて、水色の下着が見えてしまう。せめてスパッツを穿いてほしい。慌てて目を逸らすが、春日野はなぜか得意げ。彼女は私を見下ろす姿勢になった。
「わかってないね。せんせがせんせになったのは、せいぜい生まれてから二十二年後。私だって、ここの生徒になったのは、生まれてから十二年後。対して私もせんせも、女の子であることが決まったのは、私たちが生命として存在し始めたその瞬間からなんだよ」
演劇じみた話し方でそう述べると、春日野は私の下っ腹に手を置いた。私の中の小さな部屋——一生誰も入居しないであろう部屋——が、そっと温まっていく。
「……よくわからない」
「女の子だからくっつく」という概念を私は嫌っている。思わせぶりな態度を取られているようにしか思えないし、それに何度も惑乱させられてきた。
「じゃ、帰るね」
「待ちなさい!」
机から降りて、音楽室から出て行こうとする春日野を慌てて引き留める。
「まだ話すことがあるっていうの? ま、私はせんせと一緒にいられるの、嬉しいけどさ。でも悪いけど、私にもやることがあるんだよねえ」
ドアを開ければ、冷たい空気が入り込む。確かに、特に引き留める理由が見当たらなかった。
「ないなら、帰るね。ばいばい」
春日野は風のように去ってしまった。私はただ立ち尽くしている。昼休み終了のチャイムが鳴り響き、私は仕方なく次の授業の準備をした。
「お疲れですか?」
放課後、デスクで盛大にため息を吐いていると、一条が私に話しかけてきた。
「まあ、ちょっとね」
「春日野ですか?」
「うん……ほんと、春日野は大変……」
「親御さんはどのような方なのですか?」
一条はPCをカタカタと打っている。進路保護者会の資料を作っているようだ。2019年3月卒業者、合格実績。国公立。東京大学、二名。一橋大学、一名、横浜市立大学、五名……。
「親……そういえば、一度も会ったことない」
年の離れた兄が東京で働いていて、春日野を養っていると聞いた。面談にも兄が来ていたはずだ。
「そうなんですか?」
「うん。お兄さんが春日野を養っているらしい。でも、そのお兄さんも滅多に帰ってこない。だから春日野は実質一人暮らしってさ」
「多分、愛情不足なんだと思います。八坂先生のことをお母さんとして見ているのかも」
確かに、思い当たる節はたくさんあった。いつも甘えるようにして私に絡んでくる。
そう考えると、あの天真爛漫な少女の表情が、だんだんと寂しげに思えてきてしまう。笑っていながら、泣いているように思えてくる。
「そっか……」
一条は、次々に合格実績を打ち込んでいく。私立。早稲田大学、四名。慶應義塾大学、二名。上智大学、五名……。華々しい大学名。
「とりあえず、春日野のことはよく見ておいた方がいいと思います。大変な時はいつでも相談してくださいね。できる限り力になります」
一条はメモに彼のラインIDを走り書きして、渡してくれた。
「ありがとう、後輩なのに頼っちゃってごめんね」
私はそのメモを一瞥すらせず、適当にポケットに突っ込む。
「いいんですよ、八坂先生」
三歳年の差はあれど、この学校の教員は大半が五十歳以上であるため、一条とは親しくしている。プライベートは、不明。そもそも教員はそういう人が多い。
「八坂先生、ちょっといいかな?」
後ろから突然校長が話しかけてきた。校長は温和なおじいちゃんとして生徒に親しまれている。
「はい」
「明日、春日野さんの御宅に家庭訪問してくれないか?」
私は動揺した。まさか音楽室での出来事が問題になったのだろうか。かたくなに学校と関わることを拒んでいる両親が、家庭訪問を突然望むだなんて。しかも、先ほどあんな話を聞いた後だったので、私は冷静を保とうとするものの、冷や汗がダラダラと流れ出す。
「どなたからご連絡が? 確か、春日野さんのことはお兄様が……」
恐る恐る尋ねると、校長は苦い顔をして頷いた。
「お母様から……」
「お母様!? これまで一切こちらとの接触がなかったのに……」
「かなりご立腹のようで、明日必ず来い、と……」
「しかし、明日は合唱祭についての会議が」
音楽科の教諭である私は、合唱祭の責任者を任されている。それを欠席するわけにはいかないが、春日野の両親を放っておくわけにはいかない。慌てていると、校長は余裕の笑みで言った。
「ほかの音楽科の先生に任せればいい。それよりも、八坂先生は春日野さんの対応が第一だ」
笑っていられる案件ではない。保護者の機嫌を損ねるなど、山手女子学院ではあってならないのだ。だが校長は私を安心させるための笑みを浮かべ続ける。
「ありがとうございます……」
どうも、心の中に黒いものが渦巻いていく。春日野が私に対して向けている感情が何なのか、私は必死に模索した。だが、わからない。何も、わからない。
記憶の中に存在する春日野の柔らかな笑顔が、途端に物悲しい笑顔へと変貌していく。何者かにぐちゃぐちゃに捏ねられているかのように、顔の造形が崩れていく。美少女ではなくなっていく。吐き気を催すほどの寒気に、私はブランケットを羽織った。
「八坂先生、大丈夫ですか? 家庭訪問、同行しましょうか?」
一条が私にそう提案するが、彼を巻き込むわけにはいかない。尤も、なぜ怒らせているのか、見当もつかないが。
「いや、大丈夫……」
「僕は大丈夫ですから、お帰りになってはどうでしょう? 作業、手伝っていただいてありがとうございました」
「あ、ありがとう。ごめんね……」
私は退勤した。もう既に十九時半を回っていた。
山手女子学院から私の自宅までは二十分もない。同棲している律が、体力のない私に配慮して私の職場から近い物件を借りてくれたのだ。
律はまだ帰宅していないようだった。
三つ年上の律は、誰もが知る大企業の人事をしていて、最近係長に昇進したらしい。しかも、横浜国立大学を出ている。何もかもが私とは違う。
私は私立音大——一応、名の知れている音大ではある——のミュージカルコースを卒業して、その後音楽科教員になった。特に将来の展望はなく入学した。ただ音楽を、ミュージカルを心から愛していた。だが、そのような動機で入学したことは大間違いだった。
大学では、才能あふれる学友との出会いがあった。国際的なコンクールで顕著な成績を収めた子、有名な舞台に出ていた子。確かに刺激的ではあったが、同時に自分の平凡っぷりに落ち込む日々だった。そして皆、「ミュージカル俳優になりたい」と口をそろえて言っていた。
だがそんな優秀な学友たちでさえ、夢を叶えられたのはほんの一握り。成績の良い数名が有名劇団に所属できたくらいで、あとはフリーターをしながらミュージカルのオーディションを単発で受けたり、実家に帰って金持ちの男と結婚したり、まったく違う職業に就いたり。
音楽教育に興味がなかったわけではないけれど、私が音楽科教員になった理由は、何となく保険で取った教員免許を生かすべきだと思ったからという、なんとも安直で浅慮な理由である。とはいえ、公立の音楽科教員はかなり狭き門であるため、教員採用試験には落ちてしまった。そして温情で拾ってくれた母校である山手女子学院に着任。そのまま、十二年。
私は山手女子学院の、良妻賢母的な教育が心底嫌いだったけれど、ここしか就職先はなかったのだ。
対して律は、高校時代から将来に対するビジョンを思い描き、それに向かって行動してきた。私に見合うような人間ではないのである。そして、私を溺愛している。幸せだと思うと同時に、律のことが心配になるのだ。きっと、もっといい女性と一緒になるべきである。もう二十二年も交際しているのに、まだこんなことを思ってしまう。本当は律のことを愛していないのではないかとも思ってしまうが、律なしの人生など考えられなかった。
夕食の準備をしていると、その人は帰ってきた。
「紗雪、ただいま」
顔を見た瞬間に愛おしさが込み上げてくる。二十二年経っても、十年以上同棲していても、まるで付き合い立てのような雰囲気。私は律のことが心から好きだ。やっぱり離れるだなんて考えられない。
「おかえり! ご飯あるから、座って待ってて」
「いいよ、手伝うよ」
律はそう言って、洗面所へ手を洗いに行った。椅子にかけられた律のジャケットは、もうずいぶんくたびれている。
律との出会いは私にとっては刺激的で、かつ絶望でもあった。律に出会ったことで、私は少女を失ってしまったのだから——。律を愛していることには間違いないが、愛憎のような感情も共存している。蛇口から水滴がぽた、と落ちる音が、やけに大きかった。
「この鮭、なかなかに脂乗ってると思わない?」
「わかる」
他愛もない会話を交わしながら、律のことを観察する。爪が短くなっている。どこかいい匂いがするし、私を見つめる視線が、どこかギラッとしているような気がする。
今日もなんだろうな、と私は納得し、とりあえず食べ進めることにした。
予想通りと言うべきか、風呂上り、髪を乾かすのもそこそこに私はベッドに連れ去られた。着たばかりのルームウェアは簡単に脱がされてしまい、私は律のすべてに屈服させられてしまった。
律はまだ風呂にすら入っていなくて、スーツのまま。硬い生地が私の素肌に触れて、心地悪いけど、それがおかしくて、愛おしかった。
私が中学一年生の時、律は高校一年生だった。
性に対して退嬰的な態度を貫いてきた私は、律に誘われるままに様々なことを経験した。
私はまさしく、春風に愛された少女だった。山手女子学院は第一志望。セーラー服に身を包み、ローファーに足を突っ込んで、にぱにぱと笑っていた。四月の朝はまだ冷え込んでいたけれど、私だけは春風に抱きしめられていたので、ちっとも寒くはなかった。
私は少女を謳歌していたし、これからもずっと、大人になるまでは少女でいられるのだろうなと思っていた。だが、少女と女の境界線は、曖昧なようではっきりとしていた。律との出会いが、その境界線を越えるトリガーとなった。
実感は伴っていなかったものの、当時から自分が女であることは自覚していた。そして、その体が繁殖に用いるためであることも、第二次性徴を通じてなんとなくわかってきていた。だが律に出会い、その常識がすべてひっくり返されてしまった。
唐突に私の中から律の指が抜け、すべてが終わった。何かが足りない、と毎回思うものの、それ以上を求めるのは不可能である。と言うより、求めることができたとしても、きっといらないのだと思う。律の股間を見やっても、スラックスに包まれたそこはどこまでも平で、性器の存在を感じさせない。
律も私と同じく、山手女子学院の出身である。ただ緩くもなく厳しくもない部活を求め、なんとなく演劇部に入部し、そこで律に出会った。
律はその頃から、すらりと背の高い麗人だった。女子校では、基本的にボーイッシュな上級生にファンがつく。だけれど、律はどちらかと言うとフェミニンで、なんとも言えないフレッシュな色気を放っていた。でも、下級生にはモテていた。
高校演劇の大会に、中学生は出ることはできない。中学生は中学生でまた演劇の大会があったけれど、そちらは地区大会も無冠で終わってしまうほどに弱小だった。対して高等部の方は、ほぼ毎年県大会に進んで優秀賞を取り、五年に一度くらいは関東大会に出場できるといったレベルでそこそこ強く、私は早く高校生になりたいなどと思っていた。
だがそんなことを思う度に、私の心は削れていった。高校生になってしまえばもう、律はそこにいない。そのことが、なぜだかすごく辛い。当時の私は、それが恋だと認めたくはなかった。それが恋ならば、この雌としての変貌を遂げていく体はいったい何なのか、あまりにも辻褄が合わなかったのだから。
だが鋭敏な知能を持つ律には、なんでもお見通しだった。
私が彼女に恋をしているということも。
夏の暮れの頃、私は律の家に遊びに行った。じめっとした空気の中、空は藍色に染まっていた。夕方だというのにあまりに暗い色をしていたものだから、明日にでも世界は終わるんじゃないかと思っていた。私と律は冷房の効いた部屋で、同じベッドの上で昼寝をしていた。
「紗雪、暑くない?」
「はい、暑いです」
「脱いじゃえば?」
私にとっての初めての感覚。ドキドキと胸が高鳴り、少しだけ気持ち悪くなるような、感覚。それが私にとっての目覚めで、そして純粋な少女時代の終わりを示していた。その時私は、少女を失い、女になってしまった。
羞恥とは裏腹に、私の指は、どんどん私のすべてを脱がしていく。
私が下着姿になると、律もそのようにした。私は子供っぽいスポブラだというのに、律は、百貨店で売っているような、まるでドレスのような淡い色のブラジャーを着用している。それ以降私は、ランジェリーショップの前を通るたびに赤面するようになってしまった。
私は安心していた。まだ少女でいられるのだ、と。私はまだこのような下着は着けない、と。
でも下着なんて、所詮はお飾り。人間は何も身に着けてないときにこそ、本性が現れる。
ゆっくりと上下する、律の豊満な双丘――。
それはいつの間にか、私の目の前から消えていた。律は私の上に、まるで毛布のように覆いかぶさっていた。ふわふわとしていて、暖かい。けれど、火傷してしまいそうなほどに熱い。
当時の私は既視感を覚えていた。小学三年生の頃、金曜ロードショーで観ていた洋画。男女が裸で、このようにしていた気がする。一緒に観ていた母は慌ててチャンネルを変え、「早く寝なさい」となぜか私を叱った。
その答え合わせを、憧れの律と共にするだなんて……。
互いに下着しか身に着けていないので、必然的に肌が触れ合う。そのぬくもりが、心地よい。下着すら邪魔になってきていた。すべてを捨てて、生まれたままの姿で触れ合いたいと、律のもっと深いところまで触れたいと思った。
もう隠すことはできなかった。
誰かに話したくてたまらなかったけれど、誰にも知られたくなかった。夏が来るたびにそのことを思い出してしまう。
三十四歳になっても、あの夏のことは鮮明に思い出せる。すべての少女が、思い出しては赤面するような夏を送れたらいいな、などと思う。何も恋慕や情事に限らず、若いうちに少しくらい小っ恥ずかしいことを経験しておいた方がいい。
年を取って恥にまみれるより、よっぽどいい。
「せんせ、今日おうちに来てくれるんでしょ?」
翌朝、朝のホームルームが終わるなり、春日野が喜々として私に抱き着いてきた。私は呆れて、彼女を引き剥がす。
「行くけど、親御さんとお話しするだけだよ?」
「いいの。うふふ、楽しみ」
実にご満悦な春日野を横目に、ため息を吐く。放課後が怖くてたまらない。
『春日野一花。2007年3月30日生まれ。頭脳明晰、成績優秀ではあるが、少々人間関係を構築することが苦手であり……』
彼女の小学校から送られてきた調査書を思い出す。私は不幸なことに、春日野の家に向かっている。永遠に家に着かないでほしい、なんて思っていたが、一時間もしないうちに到着してしまった。
洋光台駅から、徒歩六分。おそらく築10年にも満たない一軒家だった。山手女子学院の中ではあまり金持ちではないとは思うが、中流家庭の家といった感じで、美しい白の外壁に小さな庭までついている。
インターホンの前に立つが、どうしても押したくない。何を言われるのか、恐怖でたまらない。やっぱり一条についてきてもらえばよかった。いや、それはあまりにも情けない。
自問自答しながら臆していると、玄関のドアが開いた。ああ、こんなことならさっさとインターホンを押せばよかった。反射でぎゅっと目を瞑る。何を言われるのか、怖い。
「せんせ、どうしたの?」
拍子抜けした。玄関を開けたのは、春日野だった。私はほっと息を吐く。とりあえず第一関門はクリアだ。
「とりあえず入りなよ、せんせ」
春日野に案内され、リビングに通される。照明や家具は小粋な洋風で、インテリアには相当こだわっているようだ。
紅茶を勧められるが、いつまで経っても春日野の母親は出てこない。春日野は私の目の前に座って、ニコニコと私を見つめている。
「ねえ、お母様は?」
恐る恐る尋ねると、春日野はきょとん、と目を丸くした。
「え、いないよ?」
「え?」
「せんせは、演劇部だったんだっけ?」
急に話題を変えられて困惑しながらも、私はうなずく。
「私の演技力、さすがだと思わない? 校長先生、ほんとにママだと思っちゃった」
だとしたら、春日野は私を欺いたということになるのか。彼女の行動はいつも予測できないけれど、私は疲労と呆れ、少しの安堵にへなへなと倒れ込む。
孤独な彼女に歩み寄りたいとは思っているものの、私にも仕事は山ほどあるし、今日だって残業はほぼ確定である。
「じゃあ帰るよ」
「帰らせない」
「はあ?」
春日野に背を向けて、玄関へと歩み出したその時。
「えっ!?」
頭からぬるいお湯がかけられた。状況が理解できずに固まっていると、上品なアールグレイの香りが鼻腔を絶望の匂いで満たしていく。
「ねえ、どういうこと!?」
普段は生徒に対して大声を出すなんていうことはしないのに、つい感情的になってしまった。春日野の肩を揺さぶって叫ぶ。だが春日野は、今にも吹き出しそうな顔をしている。手には、空になったティーカップ。
「何よその顔は!」
「ははっ、ははは!」
「ねえ!」
私はこんなにも怒っているというのに、春日野は愉快そうにケラケラと笑う。火に油を注ぐとはこのことか、私は自分でもよくわからないくらいにヒートアップしていた。
「ふざけないで!」
「だってせんせ、そんな紅茶まみれの恰好で怒ってても、面白いだけなんだもん! ははは!」
怒鳴り散らしたところで、自分の服がアールグレイまみれで、このまま外に出ることも、律の待つ家に帰ることもできないという冷徹な現実を思い知らされた。私は少々気まずくなって口をつぐむ。
「お風呂入る?」
春日野は心を読んだかのように……いや、待ってましたと言わんばかりに、そう言った。勝ち誇った笑みを浮かべている。私を拘束するために紅茶をかけたということに察しはついていたが、私は大人しく彼女の思惑に嵌ることにした。
「……お借りします」
脱衣所に通された。ジャケットは汚れてしまったので、軽く手洗いしてもらう。幸い、ブラウスは無事だった。
「じゃ、シャンプーとかは自由に使っていいよ。お化粧もちゃんと直せるし、ドライヤーもあるから心配しないでね」
春日野は脱衣所を出ていくと思っていたが、甘かった。
彼女は一向に退室せず、そこに居座っている。服を脱ごうにも脱げない。視線で出ていけと圧をかけるものの、何がおかしいのかという顔をして、春日野はそこから動かない。
「ねえ、」
「早く脱ぎなよ」
私が出ていけと言おうとしたその時、春日野は衝撃的な言葉を口にした。理解できない。私がただ驚いて彼女を見つめていると、彼女は私のブラウスに手をかけ、もう一度言った。
「早く脱ぎなよ」
言葉の意味とは裏腹に、無邪気な声色。神経の一つ一つがぞわっと冷たくなっていく。
拒否したいのに、体が動かない。恐怖か、怒りか、悦びか。悦びだとは思いたくはないものの、特に嫌悪感はなく、甘んじてそれを受け入れてしまっている。彼女の手が、私を蹂躙する律のそれに重なる。
ブラウスのボタンがすべて外され、はさっと肩から落とされる。今着ているキャミソールは、律との記念日の前夜に買ったものだった。淡い水色のキャミソール。中学生の私のような色。春日野の色とは少し異なる。きっと春日野の色は、淡い水色に一滴だけ黒い水を垂らしたような色。視覚的に影響は出ないが、確実に濁ってしまっている。そんな色。そんな底知れない闇をこらえて、春日野の瞳は私を捉える。
キャミソールまでまくり上げられ、同時にスラックスを落とされる。下着姿になった私を恍惚と見つめる春日野。その視線は、私の中心に注がれていた。女としてのすべてがそこに集約されているように感じられる、胸の谷間に。
柔らかな肉が押し寄せているそこ。波みたいだ、と私は思う。ブラジャーという防波堤に守られなければ、衰えを知った私の乳房はあっという間に流れて行ってしまう。
戻らないと。私の理性がそう叫んでいるが、それはすぐ本能に圧殺された。
下着は自分で脱いだ。解放された乳房は、自由気ままに流れ出す。私の中の女がドロドロと溶けだして、心臓ごと融解されそうになっていく。生徒とはいえ、律以外の誰かに体を暴かれているという罪悪感に押しつぶされそうになる。
「綺麗な体してるよね、せんせ」
深厚な感情が湧き出ていく感覚がする。春日野は蜂蜜のような声で、手つきで、私の肌をまじまじと味わう。
いけないことをしている自覚はあったが、その手に舐め回されてはどうにもできない。
「ほら、早く入りなよ」
一通り私の体を弄んだ後、春日野は私のことを突き放した。
妙な羞恥に襲われながら髪を洗っていると、「せんせ、入るね」という声が聞こえてきた。
「ちょ、ダメだって!」
私は慌ててドアを塞ごうとするが、無駄だった。春日野は堂々と浴室に入ってきた。
少しの恥じらいもなく、その瑞々しい体を見せつけるようにして、私の目の前に立つ春日野。ちょうど引き締まった腹が目の前にくる。目線をゆっくり上にやれば、わずかに膨らんだ乳房の上に、私を見下ろす顔。下から見ても、可愛らしい顔。相当な美少女だ。私は何も知らないふりをして髪を洗い流す。
私の抵抗や羞恥の表情が面白かったのか、春日野はにやりと笑い、浴槽に入って私を見つめた。髪を洗い終わったので上がろうとすると、まるで河童のように私を浴槽へ引きずり込んでしまう。
向かい合って浴槽に浸かる。二人で入ってもまだ余裕があるほどに広い浴槽だ。
「これ」
春日野が唐突に私の鎖骨付近を指さした。赤紫の痣。昨晩の愛の跡。
私は慌てて隠すが、春日野は冷静に問うた。
「これつけられて、嬉しい?」
「まあ……」
嬉しいか、嬉しくないか、その二択ではよくわからない。皮膚をすりむいたら血が出る、程度の、ごくごく当たり前のこととしか捉えていなかった。律と交わる際には毎回キスマークを付けられる。ただの通過儀礼。
「結婚したい?」
結婚。私はその言葉が怖い。二十二年も交際していたら、周りからなぜ未婚なのかと問い詰められる。そのたびにやんわりとあやふやな返事をしてきた。多様性という言葉が市民権を得始めている昨今だが、やはりカミングアウトに対する抵抗は強い。SNSでも、さもすべての人間が異性愛者であるかのように語られる場面を散見する。
世界はどこまでも窮屈で、寛容などとは程遠い。
でも、寛容と窮屈は両立するものであるとも、最近は考えている。
今の時代は逆に生きにくいのかもな、とも思う。
「したいよ、でも……」
いち生徒である春日野にこんなことを吐露していいのかという迷いはあった。だが、なぜか今は化けの皮がゆっくりと剝がれて行ってしまう。お湯のせいでふやけていく。
「できない」
律の、スラックスに包まれたどこまでも平らな股間を想起する。そして目線を下にやり、自分の股間を見下ろす。そこにあるのは、役立たずのクリトリスだけ。ただの快楽のための器官。決して未来を紡ぐことはない。
「女の子が好きなの?」
「……そう」
律=女の子、という公式はどうしても結びつかない。律は、出会ったときにはもう既に少女ではなかったような気がする。それだけ大人びて見えた。大人、それも教師になった今では、十六歳なんてまだまだ赤子と変わらないと思っているのに。
「その体、何のためにあるんだろう」
春日野は純粋に、私に疑問を呈した。だが、答えられなかった。
役立たずのクリトリスをもう一度見つめる。子を産まない女に価値はない、と言った言説は何度も目にしてきたし、なぜ毎月血を流さなくてはならないのだとも思っている。だが、改めて現実を突きつけられてしまうと、どうも憂愁に閉じ込められる。
「わかんない……わかんないよ、そんなの」
生徒の前で泣きたくはなかったが、春日野の前ではそれも不可能だった。
涙がぽろぽろと零れ落ち、お湯に溶けだす。春日野はそんな私を黙って見つめていた。なぜ泣くのかわからない、とでも言うように。
これ以上春日野の前にいたくない、と浴槽を出ようとするが、やはり春日野に抑えられてしまった。再び向き合った春日野。その表情は、妙に幼く見えた。
「満たしてあげたい」
私の下腹部に、春日野の手が置かれる。昨日そうされたように。昨日はじんわりと暖かかったが、今日は猛烈に熱い。彼女は私の耳元に顔を持っていき、吐息交じりに呟いた。
「せんせは、私を愛してくれる?」
近頃私は、春日野に憂き身を窶している。春日野のことばかり考えてしまっているし、彼女に悩まされている。
家庭訪問から二週間が経ち、今日は日曜日。律が急にディナーの予約を取った。みなとみらいのホテルだ。綺麗めのワンピースを久しぶりに引っ張り出す。なんだか似合っていない。
彩り豊かな前菜に、まろやかなバッカラ・マンテカート。上品な味のイタリアン。幼少期からこういった店にはよく来ていたが、やはり律と来る方がいい。
ワインに口付けしながら、向かい側の律を見つめる。彼女もワインを飲んでいた。長いまつ毛を伏せて。﨟󠄀たけた面差し。もう四十が近いというのに艶麗で、魅力的な女性だ。恋人補正が入っているのかもしれないが、それを抜きにしても美しい。
窓際の一番いい席だった。一面ガラス張りの窓の外には、海が広がっている。コスモワールドの観覧車や、ビル群も見える。煌びやかな眺めだ。幼少の頃は静かな葉山あたりに住んでいて、当時の私にとって夜とは、ひたすらに静かな恐怖だった。輝く夜景は、私の憧れだった。夜景は、確かに人間の労働の上に成り立っているけれど、そこに孤独はない。だから好きだ。
デザートにはストロベリームースが出た。しつこすぎない甘さに、なめらかなくちどけ。
「律、なかなかセンスあるね……」
律はわずかに含み笑いを浮かべた。だが、その顔はなぜか少しだけ強張っている。いつもは柔らかく上がる口角が、今日は堅苦しく弧を描く程度に収まっていた。
船がゆっくりと目の前を横切っていく。汚い東京湾を見て楽しいのだろうか、とも思ったけれど、大抵の人間は海には見向きもせずに夜景を眺めている。海より輝くものが、そこにあるのだから。夜の海はただただネオンの光を映し出すだけで、自発的に光ることはなく、穏やかな闇が広がっている。
「ありがと」
だいぶ間があいた。律の頬は紅潮している。そんなに酔っているのだろうか。ワインを数杯飲んだだけだ。彼女は酒に弱いというわけでもないのに。
「どうしたの? お水頼む?」
「いや、大丈夫……」
律はこちらには目もくれず、外を眺めていた。かたくなに私とは目線を合わせようとはしない。
不審に思いながらも律を見つめていると、彼女は私の手を取って、そっと握った。
「満たしてあげたい」
『満たしてあげたい』
律の言葉の後に、春日野の言葉が私の頭で響く。女盛りの律の声に、少女である春日野の声が重なる。傲慢な春日野の声が私を支配していく。
なぜこんな時に春日野のことを思い出しているのか、自分でも理解ができなかったし、悲しかった。目の前では私との一生を誓おうとしている麗人が何かを話している。大きな瞳が潤み、形の整った唇が必死に動いている。きっと、愛の言葉を囁かれている。
でも、聞こえない。
春日野の言葉が、ずっと反響して邪魔する。律が私を抱きしめた瞬間、一滴の涙がこぼれて、律のシフォン素材のブラウスにしみこむ。悲しみの涙だ。律の言葉を受け止められなかったことに対する、悲しみの涙だ。
律は私に今夜、永遠の愛を契る提案をした、らしい。
この右手の薬指にはめられたダイヤモンドの指輪以外に、その夜を証明するものはなくなってしまった。記憶のすべてが春日野に支配されてしまっていたのだから。
けれども、愛の契りというのは嬉しいものだ。
法律上の結婚はできないものの、私は一昨日をもって、律の配偶者となった。
私は律に出会って、様々なものを手に入れたし、逆にそれ以上のものを失った。それ相応の対価は払ってもらうつもりだった。それがこの愛の契りを結ぶというかたち。対価どころか、私にとっては大きな、人生の褒美。
憂鬱な月曜が少しだけ明るい。私は軽い足取りで教室へと向かった。もう十一月も終わりに近づき、冬の気配も感じる。空は鉛色で、どんよりと重い。
だが正直、そんなことはどうでもよかった。私は人生の褒美を手に入れたのだから。
「おはよう、皆!」
自分でも驚くほどに声が明るい。教室に入ると、生徒の一人が「あっ!」と私を指さす。
「八坂先生、指輪してるー!」
一人がそう言うと、わらわらと生徒たちが集まってきた。
「えー、ほんとだ!」
「すごい!」
「いいなー、でも先生可愛いもんね」
生徒たちのきらめく瞳。女子校に通う彼女たちにとって、恋愛ましてや結婚など、相当遠いものらしい。私の相手が同性だということは黙っておいた。
「はいはい、ありがとう。席ついて」
生徒たちはピンク色の熱気を保ったまま席に着く。
今日も春日野は遅れてきているようだ。教卓の前の最前列。今日も一個だけ、空席。
廊下から騒がしく足音が聞こえてきたと思ったら、今日もチャイムと同時に春日野が入室。
「ぎりぎりセーフ!」
「アウトだよー」
いつものやりとりを聞き流しながら、春日野に着席を促す。その最中に、ある生徒が春日野に声をかけた。
「ねえ一花ちゃん、八坂先生結婚したんだよ!」
私も満足げに右手を見せる。幼い春日野への自分なりの境界線、そして報復のつもりだった。だが、彼女の反応は思っていたものとは違った。いや、それどころではない。様子がおかしい。
いつも挑発的に細められている目が、目玉が零れ落ちそうなほどに見開かれている。そして私の方をじっと見つめて、動かない。手に持っていたトートバッグが、床に落ちる。中に入っていたであろうステンレス製の水筒が、けたたましい音を立てる。よく見ると、手が震えていた。
驚いたような表情だが、口元は歪んでいて、悲しそうにも見える。
『せんせは、私を愛してくれる?』
また、春日野の声が響く。
周りの生徒たちが「一花ちゃん?」「どうしたの?」などと声をかけるが、びくともしない。
開け放たれた窓から、風が飛び込んでくる。教室の空気がさらに冷え込む。
——ああ、もう冬だ。
一瞬時が止まったような気がした。冷たい空気が教室を駆け巡る。
その刹那、春日野は床に倒れ込んだ。教室中に生徒の悲鳴が響く。目の光が消えていく。言葉にならない喘鳴と共に、口からは泡が吹かれる。口元は悲し気に歪められ、まるで泣き出す直前の幼女のようだ。
「みんな落ち着いて!」
騒ぎを聞きつけたのか、隣のクラスから一条が飛び込んでくる。
「八坂先生、救急車を要請します。先生はここにいてください」
その言葉に礼も言えず、どうしたらいいのかもわからず、私はただその場に立ち尽くしていた。
救急搬送先の病院に駆けつけたのは、春日野の兄だった。当然と言うべきか、両親は現れなかった。
「今までのご無礼、なにとぞお許しください」
談話室で、深々と頭を下げられてしまい困惑する。
春日野は命には別状はなく、意識も戻り、今は病室で休んでいるようだ。
「い、いえ。お若いのにご令妹を養って、御多忙でしょう。お忙しいところ申し訳ございません」
春日野の兄、雄介。二十六歳で、大学卒業後は東京で働いている。激務で家に帰る暇がなく、東京でほぼ一人暮らし。
「妹を養うのは当然のことと存じております。両親は妹が生後まもないころに蒸発しました。いえ、蒸発したのは母親で、父親はもっと前、僕の幼少期に蒸発しました。そこからは親戚の家に住んでいたのですが、まあそこも居心地が悪くて。妹のために、両親と住んでいた家を買いなおして、そこに彼女を住まわせています」
聡明な口調で雄介は語った。私はただ黙って、俯いて聞いていた。恵まれた家庭で育ち、私立学校の教員として十二年。見てきたのは幸せな家庭ばかり。十二年も、私は何を見てきたのだろう。春日野そして雄介の境遇に胸を痛めた。
「ですが、広い家に一人と言うのは、孤独を育てるだけでした。だから、八坂先生はじめ、様々な方にご迷惑をおかけしてしまった……」
手をぐっと握る雄介。よく見ると爪を立てていた。何も言えない。私も手を握り、こっそりと爪を立てる。自分への戒めだ。右手の指輪。律との堅い愛の契りが、今では春日野を殴り殺した凶器のように感じられてくる。ダイヤモンドが氷のように冷たく感じられる。
「先生は、学校へとお戻りください。ありがとうございました」
雄介は柔らかく笑って、談話室のドアを開けた。
「しかし……」
「僕がいるので」
私は不安定な心を落ち着かせるようにぐっと頷く。そしてタクシーを呼びつけて学校に戻った。
だが、私の心にはあの冬の風がまとわりついている。凍ったように離れない、冷たいあの風。
私の愛の契りが、彼女に悪影響を与えてしまったのだろうか。そう考えると、寒気が止まらなくなった。
春風に愛された少女が、その後も世界に愛されるとは限らない。
もう少女を抱擁する春風がいなくなった時。春風に愛されていた少女の一部は学校に行けなくなってしまうことも、多々ある。
毎朝の空席。あの日から、その意味が変わった。騒がしい足音はもう聞こえない。
空虚の中で生きている。やっぱり身が入らない。春日野は確かに難しい生徒だが、いざいなくなってしまうと、喪失感を覚える。
あの純粋な笑みを思い出す。きゃぴきゃぴと笑う春風に愛された少女。春風が去っても幸せそうだった少女。きっと彼女はもう、世界に愛されることはない。
今日の授業はすべて終わり、もう生徒たちは帰宅している。私は自分の足元を見つめて、職員室に帰る。仕事は山ほどあるのに、気が向かない。
「八坂先生!」
ぼんやりとしていた頭が、校長の叫びで覚醒する。いつもは温和な校長が、血相を変えてこちらに走ってきた。
「ど、どうされました!?」
「校長室に来てほしい……」
校長室に着くと、そこには教頭と学年主任がいた。重苦しい雰囲気がのしかかる。皆、悲しそうな、動揺したような面持ちだ。私は恐る恐るソファに腰かける。校長は話始めようとするが、なかなかその気にもなれないらしく、何度か深呼吸をした。
「春日野一花さん、いるね?」
話を切り出したのは、教頭だった。しびれを切らしたのだろう。
「は、はい。最近はお休みしていますが……」
「先ほど、お兄様から連絡があった」
やっと口を開いた校長の声は、震えていた。泣いているようにも聞こえる。
最悪の事態を察した私の体を、冷たい空気が締め付ける。窓は開け放たれていて、冬の風が刺し込んできた。
春日野一花は、もうこの世に存在していなかった。
春日野はあの倒れた日の翌日に、自室で縊死したらしい。買い物から帰った兄によって発見された。
警察による検視の結果、自殺と断定。
私は正直なところ、この言葉に心当たりがあった。あの家庭訪問の日、一緒に入浴した際に言われた言葉。今でも脳裏に焼き付いている。律にプロポーズされた時も、頭の中で響いていたその言葉。
でも、私は何も言わなかった。大問題になること間違いなしだ。あの出来事は墓場まで持っていきたい。
クラスの生徒には死因を伏せて、春日野が亡くなったということだけを伝えた。根拠のない噂まで流れ出す。女子中学生の好奇心をなめてはいけない。釘を刺しても刺しても、噂というのはめぐるものだ。
棺桶に収まった春日野の顔は、口角が不気味な弧を描いていた。
それから私は体調を崩すようになった。教え子の自死という出来事は、大きな傷となって私の中に残った。志を持って就いた職業ではないが、それなりに責任と誇りをもって教員として走り抜けてきたつもりだった。
あれからクラスに、噂と同時に悲愁も立ち込めるようになった。学校を休みがちになる生徒も増えた。メンタルケアには最大限の注意を、と思っていた。だが、多感な少女たちにとって、クラスメイトの死と言うのは衝撃的である。思春期の彼女たちの自他境界はとても曖昧で、友人と同一化を望む生徒まで存在するのだから。いくら手を尽くそうと、春日野が死んだという事実だけで、生徒たちはどこまでも落ち込むことができてしまう。
気づけば年も明けて、厳寒の一月になっていた。年が明けても春日野の死を引きずってしまい、仕事に身が入らない。冬休み明けから、不登校の生徒がさらに増えた。
自己嫌悪に陥りながら帰宅すると、珍しく律が先に帰っていた。
「おかえり」
「……ただいま」
部屋が暖められていて、ほっと息を吐く。律は何も言わずにキッチンに向かい、温かいシチューを出してくれた。彼女は不器用でそこまで料理は得意ではない。だけど、彼女の手料理は、いつだって温かい。真心のこもったなめらかなクリームシチューを味わい、思わず涙腺が緩みそうになる。
「最近、顔色悪いじゃない?」
律にそう言われてドキッとする。律の前では極力明るく振舞っていたつもりだったが、やはり虚勢を張っているようにしか見えなかったらしい。私はスプーンを置いて俯く。律は私の頬を包み込んで、私と目を合わせた。十六歳の時と変わらない、若々しい瞳。私は今、どんな瞳の色をしているのだろう。
「もう、二十二年も一緒にいるんだよ?」
律は三十八歳、私は三十四歳。私たちはともに少女を乗り越え、青年を乗り越えてきた。結婚や出産を急かされる年齢になったが、それでも二人で何とか周囲の声をはねのけて生きている。
律以外に、私の本当の理解者はいないと言っても、過言ではない。
なんで私は、この人に隠し事をしてしまうのだろう。
律が柔らかく目を細める。その目はずるい。見つめられると、私の中のすべてが洗い出されて行ってしまう。
私は律の胸の中に飛び込んで、ばれないようにこっそりと泣いた。でも、すぐにばれた。そっと頭を撫でられる。こういう時に、言葉はいらない。言葉は時に邪魔なのだから。律の泣き顔は見たことがないのに、私の泣き顔は見せてばっかりだ。
ずるい。理不尽なことは承知だが、ずるい。私はぽかっと律の胸を叩いた。彼女が柔らかい笑みを漏らす。
春日野の死も、律がいれば乗り越えられるような、そんな気がした。でもその安堵は、次の瞬間に打ち砕かれた。
「そのシチュー、おいしいでしょ? 後輩にレシピをもらったの」
「後輩?」
「うん。最近、中学生の妹さんが亡くなって大変っていうから話を聞いてあげて。その流れ」
私の第六感がピクリと反応した。
「中学生?」
「そう。また中学生なのに……。遺書にはね、『満たしてあげたい』とだけ書いてあったらしいよ。何も動機がわからない、って泣いてた。可哀想に……」
目の前が真っ暗になった。
手の震えが止まらない。なぜ、なぜそれを遺書に書いたのだろう。私はその言葉に心当たりしかない。今は亡き春日野への恐怖が増大していく。もしこのことが露見したら、私は、私は……。
「大丈夫? 残しても大丈夫だよ」
律が何も知らない顔で私をのぞき込む。私は消えてしまいたい衝動に駆られ、寝室に駆け込んで布団をかぶった。
三月になると、未知のウイルスが世界中を支配した。また臨時休校により、生徒たちは学校から姿を消した。
そして私も、三月三十一日付で山手女子学院中学校・高等学校を退職した。
やはりあれから体調は元に戻らず、頭痛や神経痛などが続いた。その後、律がリモートワークになったのと同時に、退職。律からの勧めだった。お金なら心配しなくていいから退職しなさい、と彼女は言った。
しばらく入院もしたが結局体調不良の原因はわからず、心因性のものとされ心療内科通いに。結局そこでも特に診断は下されず、私はできるときに簡単な家事をこなす、ということを続けて日々を過ごしていた。
夏を迎えてもやはりその状況は続き、仕事を探そうにも体調が邪魔をした。短時間なら出かけられることが増えたものの、五時間も六時間も働く、なんていうことはまだできそうにない。
でも私は今日、珍しく人に会うことになった。三時間で帰る、という律からの条件つきで。
横浜駅の近くのバーに入ると、そこには一条がいた。
「お久しぶりです、八坂先生」
仕事帰りなのか、スーツを着て彼はカウンターで飲んでいた。私を見るなり優しい笑みを浮かべる。それは私の教員時代と変わらない。
「もう先生じゃないよ、私」
「ではなんとお呼びすればよろしいでしょう?」
一条に「八坂先生」以外の呼び方で呼ばれるのを想像する。どれもしっくりこない。やっぱり「八坂先生」のままでいいか、と訂正しようとすると、一条から思わぬ言葉が出てきた。
「紗雪さん、でどうでしょう」
「紗雪……」
「あれ、お名前違いましたっけ。確か八坂紗雪さん、ですよね」
「そうだけど……」
「なら、決まりで。紗雪さん」
なれなれしい呼び方に度肝を抜かれる。私は生まれてこの方、男性に下の名前で呼ばれたことがない。そもそも、小中高と女子校で、音大でも七割が女子だった。同年代で仲がいい男性は、一条だけと言っても過言ではない。
着席し、彼があらかじめ注文してくれたのであろうジンを一口飲む。
「そういえば、手紙読みましたよ。だから今日お誘いしました」
手紙。だが私は、手紙なんて彼に出した覚えはない。訂正しようとした私の喉は凍り付いたかのように動かず、私はジンを一気にあおった。
「い、いえ」
辛くてアルコール濃度の高いジンを味わいながら、一条と他愛もない話をする。
「そういえば紗雪さん、ご結婚されていたんですか?」
だいぶ酒も回ってきたころ、一条は私に問うた。薬指にはめてある指輪を見たのだろう。あれから律と結婚指輪も買った。シルバーのごくシンプルな指輪で、私と律のイニシャルが刻印してある。
「ああ、これは……」
普段なら適当な嘘でお茶を濁すこともできた。だというのに、口が勝手に動いてしまう。
「私、レズビアンなの。だからこれは、事実婚というか、なんというか……」
やってしまった。なぜこんなことを。酒が回っていると、どこまでも語ってしまいそうになる。激しい後悔に苛まれる。
「そうだったんですね」
彼はそれだけ言って、あとは何も聞かなかった。
少しずつ、視界の輪郭が曖昧になっていく。さすがに飲みすぎただろうか。体中が熱い。酒のまわりきった体では、もう何も考えられなかった。
次に目覚めたときは、一条の車の後部座席に座っていた。
激しい眩暈と吐き気に襲われる。酒にはそれほど弱くはないものの、体調が優れないとこうなってしまうらしい。
「無理に誘ってごめんなさい。最寄りまでお送りします」
運転席には一条が座っていて、水のペットボトルを差し出してくれた。
「ありがとう。新杉田まで頼める?」
「わかりました」
時計を見ると、店に入って飲み始めてからまだ一時間半しか経っていない。
あの手紙は何なのか。疑問と恐怖は尽きない。
一条から渡された水を飲むことはできなかった。
バックミラー越しに私を観察する一条の視線は濁っている。浴室で私を見下ろした春日野のそれに、あのとき音楽室で私を射すくめた春日野のそれに、ひどく似ている気がした。
九月になると、いったんは快調に向かった体調は、違う方向に悪化していった。生理が止まり、食欲がわかなくなった。律に通院を勧められるが、もはやそのような気力もない。
また律はリモートワークからオフィス勤務に復帰し、私は一人家に取り残されることとなった。それはひどく孤独で、希死念慮を加速させた。
春日野も、このような気持ちだったのだろうか。一人だというのに、部屋は広い。確かに孤独を育てるだけだ。気晴らしや自立を目的に、簡単なデータ入力や事務作業の仕事を始めるが、長くは続かず結局また時間だけが過ぎ、すっかり秋も深まっていく。
気付けば十一月になっていた。あの時から一年が経とうとしている。あの子が死んだ、冷たい冬が来る。もう渇いた笑いしか出てこない。
体調はこの時になって急に回復した。何なら食欲も増して、少し太ってしまったように思う。
私はフルリモートの事務の仕事を始め、ぎりぎり自立できるだけの収入を得た。とはいっても、やはり律に頼りっきりである。大企業に勤める彼女に依存しなくてはならない自分の状況が、急に恥ずかしく感じた。
いつも通りデータを入力し、資料を作成し、家事をして一日を過ごした。もうすぐ春日野の一周忌か。墓参りに行かなくては。花と夕食を買いに行こうとして立ち上がる。
その瞬間、下腹部に激痛が走った。締め付けられるような、下腹部の痛み。私は立っていられなくなって床に倒れ込んだ。頭を思いっきり打ってしまうが、今は腹痛の方が痛くて、もはや気にならなかった。
床に倒れ込んで、怪獣のようなうめき声をあげながら痛みに耐える。救急車を呼んだ方がいいのかもしれない、とも思うが、スマホはテーブルの上にある。立ち上がる余力もない。
涙と洟水と涎で顔がぐちゃぐちゃになる。ひたすらに痛みに耐えて、ただ生きるために息をしていると、玄関から音が聞こえた。それは私にとって希望の光だった。
律だ。律は私を見るなり駆け寄って、背中をさする。そして何を言わずとも救急車を要請した。
気が付けば私は病衣に着替えさせられて、ベッドに寝かされていた。清潔だが古い、白い壁が目に入る。下腹部の痛みに邪魔されて起き上がれない。とはいえ、だいぶ痛みは落ち着いていた。どうやらここは病室のようだ。
しばらくすると、律と医師が入ってきた。医師は律と同い年くらいの、落ち着いた雰囲気の女性医師だった。律は血相を変えた顔で入室し、私の顔を見るなりほっとしたのか、その場に崩れ落ちかける。
「八坂紗雪さん、ですね?」
「はい」
「気分は悪くないですか?」
「多少痛みはありますが、だいぶ落ち着きました」
女性医師はうなずきながら、カルテらしき資料を一瞥する。不思議そうに首を傾げながら、次は私の腹部に視線を落とした。
「強い下腹部痛は、子宮の収縮が原因ですね。特に問題はないでしょう」
淡々と女性医師はカルテに何かを書き込む。律は再度、ほっとしたようにため息を吐いている。だが、次の言葉で、私たちの二十三年の関係は終わりを告げることになる。まさかこんなに呆気なく終わるだなんて、思っていなかった。けれど、そのくらいに重大な事案だった。
「それより赤ちゃんが心配ですね」
柔和な笑みを浮かべていた律の表情が硬直する。私も何が起こったのかわからなくて呆然とする。
「妊婦健診を受けられていないということは、もしかして気が付かなかったということですか……?」
女性医師も焦ったような顔をして私に問う。私は何回も首を縦に振る。
「……なるほど、わかりました。後ほどご説明いたしますので、もう少し休まれていてください」
一礼して、女性医師は部屋を出て行った。
恐る恐る律の方を見る。ハンカチで顔を覆って、しゃくりあげている。
ああ、泣いているのだ。律はハンカチを外して顔を見せる。顔は真っ赤で、メイクがぐちゃぐちゃになっている。大粒の涙がボロボロと頬を伝う。
二十三年も付き合っていて、初めて律の泣き顔を見た。それも、こんなタイミングで。
「違う、律、違うの……」
必死に否定する。本当に心当たりがない。けれど律は、首を横に振って立ち上がる。そして、小さく呟いた。
「今まで無理させてごめんね」
律は部屋を出て行ってしまった。一切私を責めず、ただただ自責の念に駆られて。
「愛してる」
小さく呟く。でも、もう彼女は聞いていない。
私は紛れもなく律を愛している。今も、この瞬間ももちろん愛している。けれど、もう失ってしまった。なぜこんなことになっているのか、理解が追い付かない。とめどなく涙が溢れだす。あの少女を失った夏も、こそばゆいような秋も、泣くように愛しい冬も、そしてきらめきに溢れた春も。律とすごした季節の、その一つ一つが私の生きた証だった。だが今、そのすべてが失われた。
私の、律と生きてきた二十三年のすべてが、否定された。
女性医師からは、現在妊娠二十三週であり、堕胎はもうすでに不可能であること、健診を受けていないためハイリスク出産になる可能性があることを伝えられた。心当たりはないとはいえ、なぜここまで気が付かなかったのか、自分でも不思議である。
一泊入院した後、ダメ元で家に帰るが、やはり律の荷物はすべてなくなっていて、彼女自身もそこにはいなかった。机の上には、札束とメモが置いてある。
「きっとあなたもやっぱり、男性と結婚して子供をもうけて、普通の幸せを歩みたかったんだと思う。私にそれを邪魔する権利はない。幸せになってね」
普通の、幸せ。
私にとっての普通の幸せは、律と一生を共にすることだった。それ以外は考えられなかった。世間の普通より、私の普通がよかった。律がよかった。
机の上に置かれている札束を数える。十、二十、三十……百。百万。札束の下にもメモが置いてあった。「出産費用にでもどうぞ。母子ともに健康でありますように」。メモ用紙のところどころに、涙が落ちたような跡がある。私は万札を床に叩きつけた。散らばる一万円札。律はいつだって自分の幸せより私の幸せを考える人だ。彼女はどこに行くのだろう。どんな人と一生を共にするのだろう。もしくは、私のせいで一生孤独なのだろうか。ああ、この人はどこまで善人なのだろう。私にはもったいなかった。けれど、私には律しかいなかった。
私はホームセンターに赴き、縄を買う。もう生きている意味などない。父親すらわからないお腹の子と共に、眠ってしまおう。ドアノブに縄をかけて首を吊ろうとする。だがやはり本能は死を拒んだ。いや、私が死を拒んだ。本当は死にたくない。けれど、死ぬしかない。律もいない、妊娠しているのに相手もわからない、子供をどうしたらいいのかもわからない。
どうすれば、どうすればいいのだろう。
暗黒の日々が過ぎていく。何度も腹を殴る。でも、私もお腹の子も、驚くほどに健康だった。そして、分娩時間も六時間という超安産。主治医となった女性医師に「高齢出産の初産としては異例」とまで言われた。
私は2021年3月30日、女の子を出産した。してしまった。
娘は、私にとって恐怖の対象だった。赤子らしい産声は確かに上げた。だが、生後すぐの赤子としては信じられないほどに目は開いていたし、口はきりっと真一文字に結んでいた。まるで仙人のような貫禄まで持ち合わせていた。私を見下すかのような傲慢な黒目は、ひどく見覚えがあって困った。
娘には椿姫と命名した。
春の光を拒み、冬の終わりに血のような紅い花を咲かせる寒椿。
椿姫は、確実に乳児の時から大人の言葉を理解していた。わざと喋らないのではないかと疑うほどに聡明な表情をしていたし、一切泣かなかった。興味を持ったのは絵本ではなく私の持っている新書だった。
しかも生後十か月で立ち上がってからすぐ、自分でトイレに行けるようになった。同じころに、スプーンどころか箸まで使いこなしていた。
驚くほどに早い発達。私は娘が怖かった。医師や保健師に相談しても、そう言った大人たちの前でだけ、赤子らしく喃語をあうあうと発し、にこにこと笑い、よちよち歩きをする。
恐怖で今すぐに捨ててしまいたいなどと思いながらも、ひたすらに義務感で育てて二年。音楽学についての論文を読み漁る椿姫。だが、なぜか喋らない。言葉は理解していても、喋らない。きっと喋ることができないわけではないのだと思う。何か思惑があって、わざと喋らないのだろう。
椿姫と公園を散歩する。桜が咲き誇る町の情景を眺める。きっと今年も、たくさんの春風に愛された少女が生まれたことだろう。希望しか持ち合わせていない、春風に愛された少女が。
椿姫の後ろ姿は幼い。その短くて丸々と太った脚を必死に動かして、とてとてと走る。特別なケアなどしていないというのにサラサラな長い髪。椿姫は公園の行き止まりにぶち当たった。深緑の葉の隙間から、赤黒い椿の花弁が生えている。
椿姫は椿の樹に駆け寄り、そっと手で花を包み込む。そして、小さな声で「椿だ」と呟いた。初めての発語。子供らしい、明るい言い回しではない。ぐっと抑え込んだ、何かを悟ったような声色だった。甘く、昏く、懊悩させられてしまいそうだ。
「ねえ、椿姫……」
私に視線をやる椿姫。幼女にあるまじき、何かを見据えた瞳。
「あなたは、誰なの?」
私が疑問を投げかけると、椿姫は破顔した。待ってましたと言わんばかりに。
「私の父親は、まぎれもなく一条」
「え……?」
理解ができずに困惑する。私は一条と肉体関係になったことは一度もない。ただの同僚、それ以上でもそれ以下でもない。椿姫の父親が一条だなんて、ありえるはずがない。
「今時、処女受胎なんてあると思う?」
舌足らずな幼女の発する「処女受胎」という単語を滑稽に感じながらも、私はひたすらに困惑を超えて混乱していた。
「飲みに行ったでしょ。私を産む前の七月辺り」
なぜ生まれる前の記憶があるのか、その肥大した知性に私の脳髄が焼かれていく。
「まさか、そこであなたを孕んだとでも思っているの? 確かに飲みすぎて意識は失っていたけど、一時間くらいだったし……」
「一時間もあれば十分すぎるってわからない? 一条の車で目覚めて、送ってもらったんでしょ? それに、その飲み会を仕込んだのも私。私は前世で自殺する前日、一条の住所に、あなたになりすまして手紙を出したの。『もっと仲良くなりたいです。もしお時間あればお会いしませんか?』って。わざわざ手紙で送ったし、半年以上経っても印象深かったんだろうね。ちょうどコロナも落ち着いてきたころだし、一条も男だからすぐにあなたを誘ってくれた。そしてその間にできた生命に、私が転生してきたってわけ」
流暢にペラペラと語る椿姫。なぜ彼女は一条のことを知っているのだろう。なぜ私のことを知っていたのだろう。自殺というのも、身に覚えがある。そして何より、椿姫の不敵な笑みに見覚えがある。何も考えていなさそうで、全てを完璧に支配している、濁った瞳。
「あ、あなた、まさか……!」
——すべて仕組まれていた。
あの子は、自分が首を吊る前から、私を犯させるための男を配置し、自分がその腹に宿るための周期すら完璧に計算して、あの世へと旅立ったのだ。
何もかもが繋がってしまった。
律を我が家から永遠に追放したのは、他ならぬこの、私の腹を破って出てきた赤子だ。
「やっと気が付いた? 八坂紗雪せんせ」
ぞわっと全身に鳥肌が立つ。
「春日野……一花……」
私は戦慄した。
あの時自ら命を絶った少女は、今私の娘として生きている。
「満たしてあげたい」と私の下腹部に手を当てた13歳の少女は、今、本物の私の「娘」として、私の人生のすべてを乗っ取りに帰ってきたのだ。
「律を……私の幸せを返してよ!」
地の底から湧き上がってくるような怒りは、脳に達する前に口から出て行ってしまった。全身が憤慨している。そして、悲しんでいる。涙が溢れだす。三十五歳の女が、幼気な幼女相手に怒鳴り散らかしている。客観的に見たら相当醜い。けれど、そうせざるを得なかった。
もし外に吐き出せず内部で怒りが爆発してしまえば、私の心は、私自身は、今ここで粉々になってしまう。
「その体、なんのためにあるんだろう」
あの時、風呂場で言われた言葉だ。
「私を産むためだよね、そうだよね。子どもって、愛してもらえるんでしょ?」
私にはもう何も聞こえなかった。椿姫の存在のすべてが、鬱陶しいし憎たらしい。今すぐにでも殺してやりたい。そう思うくらいには、もう私の中身はスカスカで死んでいるも同然だった。
「満たされた……でしょう? そうでしょう? 娘だよ、私。可愛いでしょう?」
「うるさい、どっか行って!」
「お腹を痛めて産んだ子なのに、満たしてあげたのに!」
嗚咽を漏らし、顔を覆いながら、椿姫から必死に逃げる。怒りを通り越して、怖くてたまらない。春日野はどこまで私に執着するのか。律という最愛の人を奪い、私に寄生する椿姫が気持ち悪くて仕方がない。
「せめて私を、娘として抱きしめて」
頭から氷水を浴びせられた気がした。私の怒りが一気にクールダウンしていく。
その声は震えていた。春日野のことをふと思い出す。両親が蒸発し、家にただ一人取り残されていた少女を。娘として愛されることが叶わなかった、春風に愛されていても孤独だったあの少女を。孤独のまま息絶えたあの少女を。
ゆっくりと振り返ると、椿姫は泣いていた。その背後に、セーラー服姿の春日野がゆっくりと浮かび上がる。霊だろうか。彼女も同様に泣いていた。そして、こちらに腕を伸ばしている。
私は慌てて二人に駆け寄り、同時に抱きしめる。セーラー服のスカートが、花弁とどうかして溶けて行く。代わりに、その場には椿の花弁が舞い落ちる。春風のように優しく、椿姫の体を包み込む。
「徒花みたいな人生だったけど、せんせに会えてよかったし、せんせに抱きしめられて幸せだった」
ゆっくり、ゆっくり噛み締めるように椿姫は呟いた。
それ以降、椿姫の語彙力やその他の能力は一気に低下し、ただの二歳の幼女へと戻った。私のことを「ママ」と呼び、文字などは読めなくなり、年相応のアニメを見るような子供となった。
二か月後、春が終わり、陰鬱とした梅雨を迎えるころ。
椿姫は死んだ。キッチンで死んでいた。包丁を胸に突き刺して、鮮血を大量に流して。血海の上には、なぜだか大輪の椿が、無数に咲き誇っていた。赤も白もあるし、枝まで生えている。体の内部から自生しているのかもしれない。
顔は痛みの中で死んだとは思えないほどに穏やかで、口元は不敵な笑みを浮かべていた。春日野のようだ、と思った。
血まみれの椿姫を抱きしめ、そっと額にキスをする。
私は赤の椿を摘んだ。そして、口に押し込む。白の椿も摘んだ。そして、口に押し込む。それを何回も何回も繰り返す。段々苦しくなってくる。息ができなくなってくる。苦しくなってくる。息ができなくなってくる。息ができない。そのまま、視界がどんどん暗くなって、体中に力が入らなくなってくる。
苦しい時を超えれば、あとは楽になる。ふわふわと感覚がなくなり、私は目を瞑って、どこか冷たい場所に横たわっていた。目を開ければそこにあるのは、天国か、地獄か、そのどちらでもないのか。
徒花のような人生だった。何も成し遂げられなかった。
春風に愛されていたことだけが、私の人生の中で唯一否定されなかったことで、それ以外はすべて徒花のようなものだった。純粋な少女だった日々も、音大で苦しんでいた日々も、教師としてもがいていた日々も。——律と過ごしていた日々も。
そのすべては否定された。だが、春は毎年来る。毎年、私は春風に守られていた。それだけは否定されまい。
そして、私の人生を大きく捻じ曲げた椿姫……春日野一花を末代まで呪い、末代まで愛し続けたいと思う。
完