
書く仕事の本質は、場の「空気」を取材することだと思っている
ふとした瞬間に、ある人の声を思い出すことがある。
数年前に取材をさせてもらった、岐阜県の恵那市に暮らす人の声だ。幾分、語りの少ない人だった。質問にはおっとりと答えてくれるけれど、多くを足さない。沈黙を埋めようとしない。彼の纏う、朗らかさと柔和さが、言葉よりも先に伝わってくるような人だった。
その当時、とある旅行メディアからの依頼で岐阜県恵那市を訪れていたわたしは、恵那で出迎えてくれた彼に、その土地を知る意味で、こんなことを尋ねていた。
「恵那、どうですか?」
彼は微笑む。少しだけの沈黙のあと、ささやくような声で、こう返してくれた。
「なんにもないけれど、ね」
その声は、空気に溶け込むようだった。「けれど、ね」の続きは、語られなかった。語れなかったのではなく、きっと、あえて語らなかった。そう感じたわたしの感覚は、その取材から5年が経過した今でも間違っていないと思える。
恵那から東京へと帰る車の中で、言葉にしなかった彼の意思を考えていた。録音データのどこにも、それは入っていなかった。残るものではないけれど、意思がたしかにそこにはあった。
ライターとして独立して、今年で10年になる。
この10年間、ボイスレコーダーを回して、人の話に耳を傾け、メモを取って、写真を撮って、記事を書く。そういう営みを繰り返してきた。取材した人数も、取材数も、数えたことはないけれど、たくさんの人にお会いして、その人数分だけ、話を聞いてきた。

取材のとき、わたしは手書きのメモを取る。相棒はいつも「STALOGY エディターズシリーズ 365デイズノート」で、家でも出先でも、ダラダラとメモを取るのが好きな性分だ。
一時期はデジタルのメモに凝っていた頃もあるし、そのほうが検索性が高く、後々便利だろうという感覚はある。けれでも、手書きに戻ってきてしまったのには、メモに残したい「話者の情報」以外の情報が多分にあるのだろう。
手書きのメモを後から読み返してみると、不思議なもので、その当時、その瞬間の熱量がよみがえってくる。字が大きくなっていたり、筆圧が強くなっていたり、大切なフレーズにグルグルと囲いがあったり。
大急ぎだったのか走り書きになっていたり、立ち話で取ったメモだからか文字が揺れていたり。その乱れ方が、あの瞬間の自分の状態を鮮明に教えてくれるのだ。
それから、メモにはインタビュイーが語ったことを思い出す以外にも役割があって、それが「情景を思い出す」というものだ。
走り書きの余白に書き留めた断片的な言葉、例を挙げると、自分の感情が記されていたり、取材の様子を客観的に書き留めたものだったり。
そういうものが、取材現場の空気をもう一度呼び起こしてくれる。記憶は思ったより早く薄れていくし、自分の記憶力なんてものは有限だ。ただ、手書きの文字がそこに残ることで、少しだけ、ほんの少しだけの情景描写の手助けになることがある。
あと、たまにだけれど、音を記録することもある。
誰にとっても意味のある素材じゃないかもしれないし、記事に使おうと思って録っているわけでもない。無論、誰かに聴かせるわけでもない。
ただ、あの場所の空気を、情景ごと理解したい。そんなときに、録音ボタンへと指が伸びる。帰ってから再生してみると、録ってあるのは音だけのはずなのに、不思議とその日の光や、空気の温度、場に流れていた時間の感覚が戻ってくる。言葉では書き留められなかったものが、数多く残っている。
恵那での取材のときも、何の気なしに自然の音を録音していた。活用できるのかなんてことは考えていなくて、本当にその瞬間に佇んでいた自分のために、録ったものだ。
けれど、帰京後に記事を書き始めて、ふと思ったのだ。「あの録音には、なにが残されているのだろう?」と。そうして聴いて、気づきを得たわたしは、こんなフレーズを記事で登場させている。
「キュンキュンと鳴く鳥たちに呼応するように葉や木々がシャラシャラと揺れる。
その音に合わせて、私は古本のページをファサッとめくる。誰にも邪魔されることのない、私たちだけのアンサンブルだ。
きっと誰にも気づかれていないであろうその合奏は、本来私も持っていたはずの純朴な喜びの感覚を呼び戻してくれていた。」
取材の場には、テキストデータに残るものと、残らないものがある。
発言の内容、固有名詞、プロフィール。これらはメモに残る。一方で、目線の動き方、声色の柔らかさ、会話の温度、沈黙の質。そういうものは、あまりに曖昧で、多くがきっと記録からこぼれ落ちている。
わたしが手書きのメモにこだわるのも、ただ鳥の声を録音するのも、おそらくそういう曖昧さを一つでも多く拾い集めるためだ。テキストデータにならないものを、なんとか手元に引き留めようとしている。それでも引き留めきれないものを、五感という懐に入れて持ち帰ろうとしている。どこかでずっと、そういうことをしてきたのだと思う。
うまく言葉にできないままだったけれど、あえて言うならそれは、「空気ごと取材する」という感覚に近い。その人の発言だけを切り取るのではなく、その人がまとっている気配や、言葉と言葉の間にあるもの、語らないことの意味を、まるごと受け取りに行く、ような。

5年前、恵那に暮らすその人は、「なんにもないけれど、ね」と語った。その姿を、未だにわたしは声のトーン、風景の色、肌に触れる風、そういうもので記憶している。データには残らない、曖昧なもので。
そういう場の空気を集めて、なんとか見えるように記事として届ける。結果として創っているのはテキストデータかもしれないけれど、「この記事は自分にしか書けない」と思える最大の理由が、きっとそれだ。
よくAIの台頭が話題にのぼるし、かくいうわたしもAIが大好きだ。記事をつくるうえでの助けになっているし、大変だった作業のいくつかは、わたしではない頭脳が担ってくれている。
それでも、文章を書く。場を取材して、その空気ごと感じ取って、形にする。その一連の流れにこそ、この仕事の楽しみがあると知ってしまっているから。