
絵で読むジャンヌ・ダルク伝:19世紀の豪華挿絵でたどる聖女の物語
1897年にフランスで刊行された歴史絵本『Jeanne d'Arc』(Théodore Cahu 著 / Paul de Semant 挿絵)の美しい挿絵とキャプションを日仏対訳で紹介します。
ポール・ド・スマン(Paul de Semant(1855-1923))の挿絵とフランス語キャプション(日本語訳)で、ビジュアルアートを楽しみながらジャンヌ・ダルクの生涯を読み解きます。
さらに、フランス語学習者向けの語句解説と、歴史背景の解説をつけました。
巻頭イラスト:Frontispiece

Théodore Cahu(テオドール・カユ):
著者。19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した作家で、歴史読み物や軍事関連の著作で知られる。1913年没。Paul de Semant(ポール・ド・スマン):
挿絵画家。繊細さと躍動感を兼ね備えた歴史・軍事イラストで高い人気を誇る。1923年没。
この本は、フランスの愛国心を高めるために出版された、非常に美しく詳細なカラー挿絵が特徴の歴史絵本です。
第一章:ドンレミ村の少女
——幼少期、天啓、ヴォークルールから出発——

幼い頃、ジャンヌ・ダルクは、ブルゴーニュ派の子供たちとの喧嘩で打ち負かされ、血まみれになって帰ってくる村の少年たちの姿を見て、すでに侵略者に対する憎しみを抱き始めていた。
Tout enfant:
「まだほんの子供の頃」「幼少期に」les garçons de son village:
「彼女の村(ドンレミ村)の少年たち」défaits et ensanglantés:
「打ち負かされ、血まみれになって」les enfants bourguignons:
「ブルゴーニュ派の子供たち」
当時、フランス国内はフランス王太子を支持するアルマニャック派と、イングランドと同盟を結んだブルゴーニュ派に分かれて内戦状態だった。ジャンヌの村はアルマニャック派だったが、近隣にはブルゴーニュ派の村があり、子供同士でも激しい喧嘩(小競り合い)があったと。prend déjà la haine de l’envahisseur:
「すでに侵略者(イングランドやその同盟者)への憎しみを抱く」

ジャンヌは大天使ミカエルより「フランスを救え」と使命を授かる。
l’archange Saint Michel:
「大天使聖ミカエル」
ジャンヌが最初にその声を聞き、姿を見たとされる天使。transmettre l’ordre:
「命令を伝える」「託宣を授ける」délivrer la France:
「フランスを救う」「フランスを解放する」
当時、フランス北部がイングランドとその同盟者ブルゴーニュ公の支配下にあり、ジャンヌは、イングランド軍を追い出し、フランスを本来の王の手に取り戻すようにと「声」に命じられた。
13歳頃のある夏の日、父の家の庭にいたジャンヌはまばゆい光と共に「声」を聞いた。声の主はフランスの守護天使ミカエルで、ジャンヌに「信心深くあること」、そして「フランス王を助け、王国を救うために立ち上がれ」と告げた。

1428年5月13日、——ジャンヌの叔父デュラン・ラッソワが、彼女をヴォークルールへ連れて行き、ボードリクール卿のもとを訪ねる。
Durand Laxart(デュラン・ラッソワ):
ジャンヌの母方の親類(正確にはいとこの夫だが、ジャンヌは「叔父」と呼んでいた)。親族の中で最初にジャンヌの使命を信じ、彼女を助けた。Vaucouleurs(ヴォークルール):
ドンレミ村から最も近い、王太子(ドーファン)派の拠点だった町。le sire de Baudricourt(ボードリクール卿):
ヴォークルール駐屯地の守備隊長、ロベール・ド・ボードリクール。ジャンヌは彼に「王のもとへ行くための護衛を貸してほしい」と頼んだ。
ジャンヌは「叔父ラッソワの妻の出産を手伝う」という口実で自宅を離れてラッソワ家に滞在し、そこからヴォークルールへ向かった。初めての本格的な直訴だが、ボードリクール卿はまったく相手にせず、叔父に向かって「この娘を家に連れ帰ってひっぱたいてやれ」と言い放った。

1429年2月25日——ジャンヌは国王に会うため、ヴォークルールを出発してシノンへと向かう。
Vaucouleurs(ヴォークルール):
ジャンヌは一度引き下がったが、再びこの町を訪れて守備隊長ロベール・ド・ボードリクールを説得し、ついに王のもとへ行くための護衛と馬を手に入れた。
le roi(国王):
フランス王国ヴァロワ朝第五代国王シャルル七世のこと。父王の死後、正式な戴冠式をしていなかったため、イングランドが支配する北部では「王太子(Dauphin)」、支持者からは「国王(le Roi)」と呼ばれている。Chinon(シノン):
シャルル七世がいる城および城下町。ヴォークルールからシノンまでは、敵陣(ブルゴーニュ派の領地)を横断しなければならない。
ヴォークルールから旅立つ際、ジャンヌは安全のために男装した。
最初の旅に同行した護衛はわずか数人だった。
第二章:救世主の登場
——シノンでの謁見、ポワティエの審査、甲冑の製作——

1429年3月9日——ジャンヌは、貴族や司教たちがひしめき合うシノン城の大広間に案内される。国王シャルル七世は、正体を知られないよう質素な服を着て兵士たちの中にまぎれていたが、ジャンヌはためらうことなく国王のもとへ歩み寄り、その前に跪いた。
Le château de Chinon(シノン城):
当時、王太子(ドーファン)だったシャルル七世が宮廷を置いていた城。pour ne pas être reconnu(正体を知られないように):
シャルル七世は、ジャンヌが本当に神の使いなら、変装していても自分を見分けるはずだと考え、彼女を試すためにわざと質素な身なりで家臣の中に紛れ込んだ。sans hésitation(ためらうことなく):
ジャンヌは一度も会ったことのない国王を、大勢の群衆の中から即座に見つけ出した。fléchit le genou(膝を折る/跪く):
王に対する敬意を表す動作。

ポワティエにて、ジャンヌはランス大司教の主宰のもと、元老院議員、司教、修道士たちからなる委員会により、自らの神聖な使命について尋問を受ける。ある尋問の際、リムーザン訛りのあるドミニコ会士セガン神父が、彼女に聞こえる「声」は何語を話していたのかと問いかけた。ジャンヌは「あなたの言葉よりも、もっと立派な言葉を話します」と答えた。
A Poitiers(ポワティエにて):
シャルル七世は、ジャンヌが本物かどうかを確かめるため、ポワティエの神学者たちに彼女を審査させた。l’archevêque de Reims(ランス大司教):
ルノー・ド・シャルトル。当時のフランス聖職者の最高位の一人。le père Seguin(セガン神父):
ポワティエ大学の神学教授であったドミニコ会士。l’accent limousin(リムーザン訛り):
フランス中部リムーザン地方の方言。Meilleure que la vôtre(あなた様の言葉よりも立派な/優れた言葉です):
セガン神父が「その声は何語を話すのか?」とリムーザン訛りで尋ねたのに対し、ジャンヌは「(神の使いである声は、訛りの強い)あなたよりもずっと正しいフランス語を話します」と皮肉を込めて言い返した。

国王シャルル七世の甲冑師たちが、ジャンヌの体格に合わせた甲冑一式を製作する。
Les armuriers du roi Charles VII:
国王シャルル七世の甲冑師(武器職人)たちfont:
作る、製作する(動詞 faire の三人称複数形)une armure complète(甲冑一式):
一式の鎧、全身を覆う甲冑。à sa taille:
彼女のサイズに合わせて、彼女の体格にぴったりの

1429年4月27日——ジャンヌはブロワを出発する。彼女はフランス国王の軍勢と共にオルレアンへと進軍し、包囲された街のための補給部隊を率いた。
Blois(ブロワ):
オルレアンの南西に位置する都市。ここでフランス軍が集結し、ジャンヌもここで軍旗を受け取り、兵士たちの規律を正して出撃の準備を整えた。marche sur Orléans:
「オルレアンに向けて進軍する」l’armée du roi de France:
「フランス国王(シャルル七世)の軍勢」un convoi de ravitaillement(補給部隊、食糧輸送隊):
当時、オルレアンはイングランド軍に包囲されて深刻な兵站不足に陥っていた。ジャンヌの最初の任務は、軍事的な攻撃だけでなく、この補給物資を無事に街の中に届けることだった。la ville assiégée(包囲された街):
オルレアンのこと。
第三章:オルレアン入城
——入城、イングランドへの呼びかけ、サン・ルー要塞——

1429年4月29日——夜の8時、ジャンヌ・ダルクがオルレアンに入城する。
Entrée de Jeanne d’Arc à Orléans
ジャンヌ・ダルクのオルレアン入城à huit heures du soir(夜の8時に):
イングランド軍との衝突を避け、群衆による混乱を抑えるために、あえて日没後に入城したが、それでも彼女を一目見ようと、松明を掲げた多くの市民が押し寄せ、熱烈な歓迎を受けた。

武装したジャンヌは、オルレアンの城壁に登り、イングランド軍に対して包囲を解くよう要求する。
armée en guerre:
騎士として鎧を身につけて武装している状態。les remparts d’Orléans:
オルレアンの城壁(防壁)somme(要求する):
「(強く)要求する」「勧告する」「命じる」
法的な、あるいは公式な最後通牒のようなニュアンス。lever le siège:
包囲を解く

デュノワが、ガマシュ卿をジャンヌ・ダルクと和解させる。
Dunois(デュノワ):
「オルレアンの私生児」として知られるジャン・ド・デュノワ。シャルル七世の幼なじみで、当時はオルレアン防衛軍の司令官だった。ジャンヌの戦友の一人。le sire de Gamaches(ガマシュ卿):
フランス軍に仕えるベテラン騎士。当初はジャンヌの指揮下に入ることを「屈辱だ」として激しく拒絶し、自分の旗を捨てて立ち去ろうとした。réconcilie(和解させる):
仲を取り持つ、仲直りさせる。

1429年5月4日——ジャンヌは軍旗を手に馬に乗り、フランス軍が撃退されたばかりのサン・ルー要塞へと向かう。彼女は兵士たちを再び戦場へと引き戻した。要塞は陥落し、イングランド軍から奪取された。
la bastille Saint-Loup(サン・ルー要塞):
オルレアンの東側に位置するイングランド軍の拠点。d’où les Français venaient d’où rejetés:
「フランス軍がちょうど撃退されたばかりの場所」。
ジャンヌが到着する前にフランス軍は一度攻撃を仕掛けたが、失敗して退却し始めていた。Elle les ramène au combat:
「彼女は彼ら(兵士たち)を再び戦闘へと引き戻す」。
ジャンヌは宿舎で休息中に戦いが始まったことを知り、急いで馬に乗って駆けつけ、敗走しかけていた兵士たちを鼓舞して再び突撃させた。emportée et prise:
「(力ずくで)奪取され、占領された」。
第四章:オルレアンの奇跡
——トゥーレル要塞の激戦と負傷、オルレアン解放——

1429年5月7日——ジャンヌが宿泊しているオルレアンの財務官ジャン・ブーシェとその妻が、届いたばかりの魚(アローズ)を一緒に食べようと彼女を引き留める。ジャンヌは『それは夕食まで取っておいてください。一緒に食べるためにイングランド人を一人連れて戻ってきますから』と答え、戦いへと出発した。
Jean Boucher(ジャン・ブーシェ):
史実では「ジャック・ブーシェ(Jacques Boucher)」だが、このキャプションでは「ジャン」となっている。オルレアンの財務官で、ジャンヌがオルレアン滞在中に身を寄せていた家の主人。une alose(アローズ):
ニシン科の魚「アローズ(和名:ニシンの仲間、シャッド)」。当時、川で獲れる非常に美味しい魚として知られていた。je vous amènerai un Anglais pour la manger:
「それを食べるためにイングランド人を一人連れてくる」
ジャンヌの有名な冗談(あるいは予言)で、「今日の戦いでイングランド軍を破り、捕虜を連れて帰ってくるから、その捕虜と一緒に夕食にその魚をいただきましょう」という意味。et elle part pour le combat:
「そして彼女は戦いへと出発した」

1429年5月7日——オルレアンの総督が、出撃のためのブルゴーニュ門の開放を拒否する。ジャンヌはその門を力ずくで打ち破らせた。
Le gouverneur d’Orléans(オルレアンの総督):
ラウル・ド・ゴクール卿。彼は前日までの激戦で兵が疲弊していると考え、これ以上の攻撃は危険だと判断して出撃を止めようとした。la porte de Bourgogne(ブルゴーニュ門):
オルレアンの東側にある門。ここを通ってトゥーレル要塞のある橋の方へ向かう。refusant de faire ouvrir(開けることを拒む):
総督は門に立ちふさがり、兵士たちが外に出るのを阻止しようとした。la fait enfoncer(それを打ち破らせた):
「enfoncer」は「押し入る」「打ち破る」という意味。ジャンヌは総督の制止を振り切り、熱狂する市民や兵士たちと共に、力ずくで門を開けさせて(あるいは壊させて)戦場へと向かった。

1429年5月7日——トゥレル要塞への突撃でフランス軍を率いていたジャンヌは、はしごを登っている最中に、首を貫通する矢を受けて負傷する。
entraînant les Français à l’assaut:
「フランス軍を率いて(鼓舞して)突撃させる」la bastille des Tournelles(トゥレル要塞):
オルレアンを包囲していたイングランド軍の最も強固な拠点。en montant à l’échelle(はしごを登っている時に):
城壁を乗り越えるための攻城梯子(はしご)を登っていた。une flèche qui lui traverse le cou(彼女の首を貫通する矢):
史実では「首と肩の間(鎖骨のあたり)」とされるが、このキャプションでは「首(le cou)」と書かれている。

1429年5月7日——ジャンヌは傷の手当てを済ませると、フランス軍を率いて再びトゥレル要塞へと引き返した。撃退されたイングランド軍は拠点を放棄し、包囲を解いた。彼らが要塞の橋を渡っていた際、オルレアン側のボンバルド砲から放たれた砲弾が橋を破壊し、イングランド軍の指揮官ウィリアム・グラスデール卿は部下たちと共に堀へと転落し、溺死した。
Jeanne, après avoir pansé sa blessure:
ジャンヌはこの日の戦いの最中、肩(あるいは胸の上部)に矢を受けて負傷したが、手当てをして戦線に復帰した。la bastille des Tournelles(トゥレル要塞):
オルレアンの街を守る要衝となっていた橋頭堡。Les Anglais refoulés:
「押し戻された/撃退されたイングランド軍」lèvent le siège(包囲を解く):
これにより数ヶ月にわたるオルレアン包囲戦が終結した。bombarde(ボンバルド砲):
中世後期に使われた初期の大砲の一種。sr William Gladesdale(ウィリアム・グラスデール卿):
当時のイングランド軍の指揮官の一人。フランス側の記録では「グラシダス(Glacidas)」の名でも知られている。se noie(溺死する):
重い鎧を身にまとっていたため、橋が壊れて水に落ちた彼らは浮かび上がることができず、溺死した。

オルレアンの包囲を解いたイングランド軍は、フランス軍の追撃を受ける。フランス軍は遅れをとった兵士(落伍者)たちを討ち取り、荷物(輜重)を奪い取った。
Les Anglais ayant levé le siège d’Orléans:
「オルレアンの包囲を解いたイングランド軍」
1429年5月8日、イングランド軍はついに撤退を開始した。poursuivis par les Français:
「フランス軍によって追撃される」les traînards(落伍者):
「(軍列から)遅れた兵士たち」
撤退の際、本隊に追いつけなかった兵士たちのこと。s’emparent des bagages(荷物を奪う):
この文脈での「bagages」は軍隊の「輜重(しちょう)」のこと、つまり食料、武器、略奪品、備品などを積んだ荷馬車の列。
第五章:王を導く道
——ジャルジョー、パテーの戦い、トロワの降伏——

1429年5月13日——シャルル七世はトゥールにて、ジャンヌを出迎える。
vient au-devant de:
「~を迎えに行く」「~を出迎えに来る」
通常は臣下が王のもとへ参上するが、王自らがジャンヌを迎えに動いた。このことは、オルレアン解放という功績がいかに絶大であったかを象徴している。Tours(トゥール):
ロワール川沿いの都市。オルレアンでの勝利の後、ジャンヌはここで国王と合流した。
オルレアンを救った「オルレアンの乙女」として凱旋したジャンヌを、シャルル七世は最大の敬意をもって迎えた。記録によると、ジャンヌは王の前に跪こうとしたが、王は彼女を立ち上がらせ、深く感謝の意を示したと伝えられている。

1429年6月12日——ジャルジョーの戦いの最中、ジャンヌの右側にいたアランソン公は、イングランド軍のボンバルド砲の真正面に位置していた。ジャンヌは彼に「そこをどいてください、愛しき公爵様。危険です」と告げた。公爵がその場所を離れるやいなや、代わってそこへやってきたリュード卿が、飛んできた砲弾に当たって戦死した。
la bataille de Jargeau(ジャルジョーの戦い):
オルレアン解放後、ロワール川沿いの拠点を奪還するために行われた激戦の一つ。le duc d’Alençon(アランソン公):
ジャンヌが「美しい公爵(le beau duc)」と呼んでいた戦友のひとり。beau sire(美しいご主人様):
ジャンヌがアランソン公に対して使っていた親愛の情を込めた呼びかけ。le seigneur de Lude(リュード卿):
ジャン・ド・リュード。アランソン公が退いた場所に不運にも入ってしまい、命を落とした。un boulet(砲弾):
当時は石や鉄の弾を飛ばす大砲が使われていた。

ジャンヌ、イングランド軍からボージャンシーの街を奪還する。
reprend:
「奪還する」「取り戻す」la ville de Beaugency(ボージャンシーの街):
ロワール川沿いにある戦略的に重要な都市。aux Anglais:
「イングランド軍から」

1429年6月18日——パテーで捕虜となったタルボット卿が、ジャンヌとアランソン公の前に連行される。アランソン公が「今朝の時点で、このような事態になると予想していたか?」と問うと、タルボットは「それが戦の常(時の運)というものだ」と答えた。
Lord Talbot(タルボット卿):
ジョン・タルボット。イングランド軍の猛将として恐れられた指揮官だが、パテーの戦いでフランス軍に大敗し捕虜となった。le duc d’Alençon(アランソン公):
ジャン・ダランソン。フランス軍の総司令官で、ジャンヌが「美しい公爵(le beau duc)」と呼んでいた戦友のひとり。Ce dernier lui dit:
「後者(アランソン公)が彼(タルボット)に言った」C’est la fortune de la guerre:
直訳すると「それが戦争の運命だ」
なじみのある日本語だと「戦のならい」「時の運」といったニュアンス。勝負は時の運であり、負けたことを潔く受け入れる騎士道精神を感じさせる言葉。

1429年7月10日——ジャンヌはランスに向けて進軍する。トロワの街が開城を拒んだため、ジャンヌは総攻撃の準備を整え、堀の中に粗朶(そだ)を投げ込ませた。すると直ちに、街は降伏を申し出た。
Troyes(トロワ):
シャンパーニュ地方の主要都市。当時はイングランド・ブルゴーニュ派の強い影響下にあり、フランス国王軍の通過を拒んだ。fait jeter des fascines dans le fossé:
「堀の中に粗朶(そだ)を投げ込ませた」fascines:粗朶(そだ/ファシーヌ)
木の枝を束ねたもの。これを城壁の周りの堀に大量に投げ込んで堀を埋め、兵士が突撃できる道を作る。demande à capituler:
「降伏を申し出る」
第六章:栄光の戴冠式
——ランスでの戴冠、父との再会——

1429年7月15日——ジャンヌはシャルル七世と共にランスに向けて進軍する。シャロンの司教が、街の鍵を国王に献上する。
Jeanne marche sur Reims:
「ジャンヌはランスに向けて進軍する」
パテーの戦いでの勝利後、ジャンヌはシャルル七世を正式な国王として戴冠させるため、伝統的な戴冠式の地であるランスへの行軍を強行した。L’évêque de Châlons(シャロンの司教):
シャロン(現在のシャロン=アン=シャンパーニュ)の司教。ランスの手前に位置するこの都市はイングランド・ブルゴーニュ派だったが、王の軍勢が近づくと抵抗せずに門を開いた。apporte au roi les clefs de la ville:
「街の鍵を国王に届ける(献上する)」
街の鍵を差し出すことは、その街が支配者として王を認め、忠誠を誓って門を開放することを意味する。中世時代の重要な象徴的儀式。

1429年7月17日——ランスにおける国王シャルル七世の戴冠式。
Sacre:
「戴冠式」または「聖別式」
フランス王が即位する際、神の承認を受けた正当な王であることを示すために、聖油を塗られ冠を授かる極めて重要な宗教的・政治的儀式。Reims(ランス):
パリの北東にある都市。初代フランス国王クローヴィスが洗礼を受けた地とされ、歴代フランス王は伝統的にこの街のノートルダム大聖堂で戴冠式を行う。Charles VII(シャルル七世):
ついに正当なフランス国王として認められた。

戴冠式の後、ジャンヌは自分を一目見ようとドンレミからはるばるやってきた父と再会し、抱き合った。父の祝福を受けた彼女は、ドンレミの村人たちの税を永久に免除するという国王の勅書を父に手渡した。
Après le sacre(戴冠式の後):
1429年7月17日の式典の直後。son père(彼女の父):
ジャック・ダルク。当初はジャンヌに猛反対していたが、戴冠式に合わせてランスを訪れて父娘は再会し、和解した。venu exprès de Domremy:
「ドンレミからわざわざ(そのために)やってきた」un acte du roi:
「国王の勅書(公文書)」exemptant à tout jamais d’impôts:
「永久に(一切の)税を免除する」。
シャルル七世が「望む褒美は何でも与える」と言った際、ジャンヌは、故郷の村の免税を願い出た。この特権は、1789年のフランス革命まで約360年間にわたって実際に守られ、ドンレミ村の納税記録には「ジャンヌ(La Pucelle)ゆえに、なし(Néant)」と記録され続けた。
第七章:暗転と試練
——パリ攻撃の失敗、折れた剣、コンピエーニュでの捕縛——

ジャンヌは規律を乱した兵士を懲らしめる。彼女が剣の腹(平らな部分)で兵士の兜を叩いたところ、剣が折れてしまった。ジャンヌは悲しみ、この出来事を不吉な前兆(悪しき予兆)だと考えた。
châtie un soldat indiscipliné(規律のない兵士を罰する、懲らしめる):
ジャンヌは軍隊内の道徳を非常に重視しており、略奪や罵り言葉、不謹慎な従軍女性たちを厳しく禁じた。coup de plat de son épée(剣の腹での一撃):
斬るのではなく、戒めのために剣の平らな部分で叩いた。L’épée se brise(剣が折れる):
この剣は、サン・カトリーヌ・ド・フィエルボワの教会の祭壇裏から発見された「伝説の剣」だったと言われる。présage de malheur:
「不幸の前兆」「不吉な予兆」

1429年9月8日——パリへの攻撃の際、ジャンヌは軍旗の柄(竿)を使って堀の深さを測っていたところを負傷する。
A l’attaque de Paris(パリ攻撃の際):
戴冠式の後、ジャンヌは勢いに乗ってパリ奪還を主張したが、慎重な国王側との足並みが揃わず、十分な支援がない中での攻撃となった。est blessée(負傷する):
ジャンヌは太ももにクロスボウの矢を受けて負傷した。sonde le fossé(堀を測る(探る)):
城壁を囲む堀に水がどれくらいあるか、渡れる深さかどうかを確認する作業。la hampe de son étendard(軍旗の柄・竿):
ジャンヌは手に持っていた軍旗の竿を杖のように使って、堀の深さを確かめた。

ジャンヌはサン・ドニの墓前に自らの甲冑を捧げる。
dépose:
置く、預ける。あるいは(神聖な場所に)「捧げる」「奉納する」son armure:
彼女の鎧(甲冑)le tombeau de Saint Denis(サン・ドニの墓):
パリの北にある歴代フランス王の墓所、サン・ドニ大聖堂。
聖ドニはフランスの守護聖人。

1430年5月25日——ジャンヌはコンピエーニュ近郊での出撃の際、ブルゴーニュ派に捕らえられる。
25 mai 1430(1430年5月25日):
史実では「5月23日」だが、このキャプションでは「5月25日」と書かれている。est prise:
「捕らえられる」「捕虜になる」les Bourguignons(ブルゴーニュ派):
フランスを二分する勢力で、イングランドと同盟を結んでいた。ジャンヌを捕らえたのは、ブルゴーニュ派に仕えていたリニー伯ジャン・ド・リュクサンブールの軍勢だった。une sortie(出撃):
包囲されている、あるいは防衛している側が、敵を攻撃するために城壁の外へ打って出ること。Compiègne(コンピエーニュ):
パリの北方に位置する都市。ジャンヌはこの街をブルゴーニュ軍の包囲から救うために駆けつけた。

1430年10月——ジャンヌはボーヴォワール城からの脱走を試みる。
essaye de s’enfuir:
「脱走を試みる」「逃げようとする」le château de Beauvoir(ボーヴォワール城):
コンピエーニュで捕らわれたジャンヌは、ここに数ヶ月間幽閉された。

1430年11月——ジャンヌを捕虜としていたジャン・ド・リュクサンブールは、彼女を1万リーヴルでイングランド王に売却する。ジャンヌはルーアンへと連行されるため、護衛に付き添われてカンブレー近郊のボーヴォワール城を後にした。
Jean de Luxembourg(ジャン・ド・リュクサンブール):
コンピエーニュでジャンヌを捕らえたブルゴーニュ派の貴族。la vend pour 10,000 livres(1万リーヴルで売却する):
1万リーヴル(金貨)は王族の身代金に匹敵する極めて高額な金額。イングランド側は、ジャンヌを手に入れるためにこの巨額を支払った。le château de Beauvoir(ボールヴォワール城):
数ヶ月間の幽閉中、ジャンヌはこの城の塔から飛び降りて脱走を試みたが、失敗して負傷した。sous escorte(護衛のもとで):
この場合は「監視付きの護送」というニュアンス。
第八章:孤独な戦いと最期
——ルーアンの裁判、拷問の脅し、火刑——

ジャン・ド・リュクサンブールは、ウォリック卿、スタッフォード伯、そしてウィンチェスター枢機卿を連れて、獄中のジャンヌを訪れる。ジャンヌの返答を聞いたスタッフォード伯は激昂し、剣を抜いて彼女に斬りかかろうとするが、同行者たちが彼を取り押さえ、剣を取り上げた。
Jean de Luxembourg(ジャン・ド・リュクサンブール):
コンピエーニュでジャンヌを捕らえたブルゴーニュ派の貴族。身代金1万リーヴルでジャンヌをイングランド側に売却した。Lord Warwick(ウォリック卿):
リチャード・ボーシャン。ジャンヌの裁判と処刑を監督したイングランド側の責任者。Cardinal de Winchester(ウィンチェスター枢機卿):
ヘンリー・ボーフォート。イングランド王室の有力者で、裁判に強い影響力を持つ。Le comte de Strafford(スタッフォード伯):
ジャンヌの挑発的な態度に激怒し、剣を抜こうとした。veut frapper l’héroïne:
「ヒロイン(ジャンヌ)を打とうとする/斬りつけようとする」le désarment:
「彼の武装を解除する」この文脈では、逆上したスタッフォード伯の手から剣を取り上げて、暴挙を止めたことを意味する。

牢獄にて、ジャンヌは彼女を監視する兵士たちから侮辱を受ける。
est insultée:
侮辱される、罵られる。dans sa prison:
牢獄の中で。par les soldats qui la gardent:
彼女を監視する兵士たち(看守)によって。
ジャンヌはルーアンの城の塔に幽閉されていた。
宗教裁判の被告は教会の監獄に入れられ、女性の看守がつくのが通例だったが、イングランド側はジャンヌを世俗の監獄に入れ、粗暴なイングランド兵たちに監視させた。

ジャンヌ、コーション司教による尋問を受ける。
l’évêque Cauchon(コーション司教):
ピエール・コーション。ボーヴェの司教で、ジャンヌの裁判を主導した人物。イングランド側に強く加担しており、ジャンヌを異端者として有罪にするために執拗な尋問をおこなった。est interrogée:
「尋問を受ける」

1431年5月9日——コーション司教は、拷問具を前にしてジャンヌを脅迫する。ジャンヌは毅然として拒絶し、こう宣言した。「私はすでに申し上げたこと以外、何もお話しすることはありません。たとえ苦痛のために別のことを口にしたとしても、後になって、それは無理やり言わされたのだと申し上げるつもりです」
devant les appareils de supplice(拷問具を前にして):
ジャンヌはルーアン城の大きな塔に連れて行かれ、そこには彼女を自白させるための拷問の道具が並べられていた。la mettre à la torture:
「彼女を拷問にかける」résiste fièrement:
「誇り高く抵抗する」「毅然と拒絶する」si la souffrance me faisait déclarer autre chose...:
「もし苦痛によって(これまでの証言と)別のことを口にしたとしても……」
ジャンヌは、肉体的な苦痛によって無理やり引き出された言葉には何の価値もないと主張した。

1431年5月29日——ジャンヌは公開裁判において、異端者および再犯者として火刑に処される判決を言い渡される。
en audience publique:
「公開の法廷で」「公聴会において」être arse (brûlée):
「arse」は「焼く(ardre)」という動詞の古フランス語。
原文カッコ内の「brûlée」と同じく「焼かれる」という意味。hérétique et relapse(異端者および再犯者):
「relapse(ルラプス)」は宗教裁判の専門用語で、一度異端を認めて悔い改めた者が、再び同じ過ち(異端)を犯すこと。
ジャンヌは教会の指示に従う署名をしたが、獄中で再び男装したことが「再犯」とみなされ、死刑の決定打となった。

1431年5月30日——5月30日の朝、ジャンヌは告解師マルタン・ラドヴニュと廷吏マシューとともに荷車に乗せられる。彼女を罵る700人から800人のイングランド兵に護送されながら処刑場へと連行された。
un chariot:
死刑囚を処刑場まで運ぶための簡素な荷車。Martin Ladvenu(マルタン・ラドヴニュ):
ドミニコ会の修道士で、ジャンヌの告解(懺悔)を聞いた人物。ジャンヌに同情的で、最期の瞬間まで彼女に寄り添い、十字架を掲げ続けた。l’appariteur Massieu(廷吏マシュー):
ジャン・マシュー。異端裁判の廷吏(役人)のひとりだが、ジャンヌに親切に接した人物。conduite au supplice:
「処刑場(苦悶の場)へと連行される」
目的地はルーアンの旧市場広場(Vieux-Marché)。escortée par sept ou huit cents soldats anglais:
「700〜800人のイングランド兵に護送されて」。
大人数の兵士が動員されたのは、民衆による奪還作戦をイングランド側が極度に恐れていたためだと言われる。qui l’insultent:
「彼女を侮辱する/罵る」。

1431年5月30日——ジャンヌ、ルーアンにて火刑に処される。
brûlée vive:
「生きたまま焼かれる」à Rouen(ルーアンにて):
ノルマンディー地方の都市。当時はイングランド軍の占領下にあり、異端裁判と処刑が行われた場所。
終章:不滅のジャンヌ

アルザスとロレーヌの女性たちが、ジャンヌ・ダルクの生家に花冠(花輪)を捧げる。
Les femmes d’Alsace et de Lorraine(アルザスとロレーヌの女性たち):
ジャンヌ・ダルクの故郷ドンレミはロレーヌ地方にある。この挿絵が描かれた時代(19世紀後半〜20世紀初頭)、アルザスとロレーヌはフランスにとって愛国心を象徴的する地域だった。apportent:
持ってくる、届ける、捧げる。des couronnes:
花冠、あるいは(記念碑などに供える)花輪。la maison de Jeanne d’Arc:
ジャンヌ・ダルクの家(彼女の生家)。

ジャンヌ・ダルクの栄誉を称えて建立された諸像。
左側:A PARIS(パリ)
中央:A ROUEN(ルーアン)
右側:A CHINON(シノン)
Statues érigées:
「建立された彫像(諸像)」en l’honneur de:
「〜の栄誉を称えて」「〜を記念して」
この絵本が書かれた19世紀のフランスは、帝政、復古王政、共和政が激しく入れ替わる激動の時代だった。
5回以上の政体転換を経て、19世紀後半から20世紀初頭にかけてナショナリズムが高まった結果、ジャンヌ・ダルクを「愛国者の象徴」「国民的英雄」として再評価するブームが巻き起こり、歴史書から絵本まで関連書籍が多数刊行された。
最後の挿絵(↑)にある通り、パリ1区のピラミッド広場にある黄金の騎馬像をはじめ、オルレアン、ルーアン、ランス、そして故郷のドンレミなど、フランス各地にジャンヌ・ダルク像が建てられた。
こういった活動が実を結び、1920年、ジャンヌは正式に列聖される。
〈完結〉
\あわせて読みたい・活動紹介/
教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝
アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』完訳プロジェクト。原著は1908年発行。
1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録
禁書制度は現在廃止されているが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明している。
▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか
Web小説:『7番目のシャルル』シリーズ
不遇な生い立ちの王が百年戦争に勝利するまでの貴種流離譚。
少年期編:7番目のシャルル、狂った王国にうまれて
※アルファポリス版の表紙画像は離雨RIU(@re_hirame)様からいただいたファンアートを使わせていただいてます。
青年期編:7番目のシャルル、聖女と亡霊の声
※アルファポリス版の表紙画像はPicrew「IIKANJI MAKER」で作成したイラストを加工し、イメージとして使わせていただいてます。
Kindle・書籍情報
未邦訳のパブリックドメインを、note、pixivFANBOX(対訳・挿絵あり)とカクヨム(挿絵なし)で先行投稿。完訳後にリライトして刊行しています。
新刊:アレクサンドル・デュマ著『シャルル七世とその重臣たち』
既刊:ルネ・ダンジュー著『トーナメントの書』
その他、Kindle出版サポート・既刊一覧はこちら。