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教皇庁に犁曞指定されたゞャンヌ・ダルク䌝䞊巻・第五章 オルレアン包囲戊1428幎10月12日〜1429幎3月6日

【アナトヌル・フランス『ゞャンヌ・ダルクの生涯』完蚳プロゞェクト】1908幎発行の名著を、膚倧な独自泚釈ずずもに珟代日本語で蘇らせる個人翻蚳プロゞェクトです。継続的な掻動維持ず出版支揎のため、䞀郚を有料公開ずしおいたす。

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【この章のポむント】
- ã‚ªãƒ«ãƒ¬ã‚¢ãƒ³åŒ…囲戊の開始ず指揮官゜ヌルズベリヌ䌯の死
- ã€Œãƒ‹ã‚·ãƒ³ã®æˆŠã„」での敗北ずフランス軍の窮地
- æ•‘䞖䞻「ラ・ピュセル乙女」ぞの期埅

5.1 むングランドの決議攻撃目暙はオルレアン

 ノェルヌむナの勝利1424幎ずメヌヌの埁服以来、むングランド軍はフランスでほずんど進軍しおおらず、フランスにおける実際の領有地はたすたす䞍安定になっおいた。[467]

 むングランド軍が、オルレアン公シャルル䞃䞖のいずこでむングランドの捕虜になっおいるの領地を䟵略しなかったのは、良心の呵責によるものではない。
 ロワヌル川流域では、高貎な身分の者が捕虜になっおいるずきに、その領地ず財産を奪うのは䞍名誉なこずだず考えられおいたが[468]、戊時䞋では手段を遞ばない。

 むングランド摂政ベッドフォヌド公は、アラン゜ン公が捕虜だったずきにその公爵領を奪うこずをためらわなかった。[469]

 実のずころ、善良なシャルル公オルレアン公が賄賂ず懇願によっお、むングランド軍が圌の公爵領を攻撃するのを思いずどたらせおいたのだ。

 1424幎から1426幎たで、オルレアン垂民は金銭を支払うこずで平和を買い続けた。[470]

 ゎドンたちGodonsむングランドを指す蔑称。圌らの口癖「God damn」が由来は戊堎に出られる状況になかったため、そのような協定を結ぶ甚意があった。

 むングランド王家ずフランス王家の血筋を匕く幌い王ヘンリヌ六䞖の時代に、摂政の匟で護囜卿のグロスタヌ公ず、摂政の叔父で倧法官のりィンチェスタヌ叞教ヘンリヌ・ボヌフォヌト倧法官、のちに枢機卿は、幌い王をめぐっお互いに激しく争っおおり、ロンドンの路䞊で流血沙汰を匕き起こした。[471]

 1425幎の終わりごろ、摂政はむングランドに垰囜するず、17カ月を費やしお叔父ず匟を仲裁し、公共の平和を回埩させた。

 さらに、巧みな策略ず粟力的な行動によっお、摂政は、むングランドの同胞たちがフランス埁服を完了するこずを望み、期埅するよう仕向けるこずに成功した。

 1428幎、むングランド議䌚はフランス党土を䟵略する目的で、補助金軍資金を可決した。[472]

オルレアンの眺め、1428-1429VIEW OF ORLÉANS, 1428-1429

 さお、むングランドの将軍ず王䟯の䞭で、もっずも狡猟で、もっずも熟緎し、もっずも歊運に恵たれおいたのは、゜ヌルズベリヌ䌯ずペルシュ䌯の称号を保有しおいるトヌマス・モンタキュヌトだった。[473]

 圌はこれたで長きにわたり、ノルマンディヌ、シャンパヌニュ、メヌヌの戊いで戊果を挙げおいた。

 珟圚、圌はロワヌル川流域の䟵攻に向けお、むングランドで軍を集めおいた。
 匓兵は必芁なだけ集めるこずができたが、階兵ず歊装兵士の顔ぶれは期埅倖れだった。
 わざわざ飢饉で荒廃した土地フランスたで枡っお戊う意志があるのは、卑しい人間だけだった。[474]

 ぀いに、高貎な䌯爵にしおヘンリヌ王の矎しいいずこである圌は、449人の歊装兵士ず2250人の匓兵を率いお海を枡った。[475]

 フランスでは、摂政が城募した階兵400階のうち半分200階はノルマン人で、むングランドの慣習に埓い、階兵人に぀き匓兵人が぀けられた。[476]

 ゜ヌルズベリヌ䌯は兵を率いおパリに向かい、そこで芆すこずのできない決断を䞋した。[477] これたでの蚈画では、攻撃目暙はアンゞェだったが、土壇堎になっおオルレアンを包囲するこずに決定した。[478]

5.2 オルレアンの町城壁ず塔

 ラ・ボヌスずラ・゜ロヌニュ地方の間、フランス王家に忠誠を誓うトゥヌレヌヌ、ブレゟワ、ベリヌの各地方ぞの入り口に、公爵領の郜垂オルレアンがあった。ロワヌル川の湟曲郚に䜍眮しおおり、あたかも匵り詰めた匓に矢が぀がえられおいるかのように、敵に察峙しおいた。[479]

 叞教座、倧孊、広倧な垂堎があり、その鐘楌、塔、尖塔の䞊に、「䞻の十字架」、「町の王章぀の心臓」、「公爵家の぀の癟合王フルヌルドリス」を倩に向かっお誇らしげに掲げおいた。

 曲がりくねった通りや薄暗い路地に沿っお、石造りや朚造の家屋が建ち䞊び、スレヌト屋根の䞋にはオルレアン垂民䞇千人が暮らしおいた。

 そこには、叞法官や財務官、金现工垫、薬剀垫、食料雑貚店、皮革職人、肉屋、魚屋、琥珀のように繊现で、䞊質な衣服、立掟な家、音楜ずダンスを愛する富裕局、叞祭、聖職者、神孊者、孊埒監芖員守衛、倧孊のフェロヌ、写本屋、筆蚘者、圩色垫、画家、庶民が䜏んでいた。孊問はぱっずしないがフルヌトを矎しく奏でる楜士、あらゆる宗掟の修道士——黒修道士ドミニコ䌚、灰色修道士フランシスコ䌚、マチュラン䌚、カルメル䌚、アりグスティノ䌚——、そしお鍛冶屋、暜職人、倧工、船乗り、持垫ずいった職人や劎働者がいた。[480]

 ロヌマ起源のこの町の圢は、皇垝アりレリアヌスの時代䞉䞖玀から倉わっおいなかった。

 ロワヌル川に沿っお南偎ず北偎はおよそ3000フィヌト玄914メヌトルにおよぶ。東西の境界はわずか150フィヌト玄46メヌトルだった。

 町は、厚さ6フィヌト玄1.8メヌトル、堀の䞊から18フィヌト玄5.5メヌトルから33フィヌト玄10メヌトルの高さの城壁に囲たれおいた。
 城壁の䞡偎には34の塔があり、぀の門衚のゲヌトず぀の裏門で貫かれおいた。[481]

 以䞋に、これらの門、裏門、塔の䜍眮ず、包囲戊で有名になった蚭備に぀いお説明する。

 城壁の南東から南西にかけお、次のようなものがあった。

 ロワヌル川に浞かっおいる䞞型の巚倧なヌヌノ塔新塔、La Tour Neuve。
 その他、川岞に぀の塔があった。

 シュノヌは氎面に面しおいる唯䞀の裏門だ。
 ラクロワムフロワ塔は、塔の足元から川に突き出おいる鉀かぎ状の突起物からこう呌ばれる。
 跳ね橋に続く門扉ラ・ポルト・デュポンLa Port du Pontは、぀の塔に囲たれおいる。
 ラブルノォワヌル塔。
 ノヌトルダム塔は、城壁に面しお建おられた瀌拝堂に由来する。
 ラ・バヌルフランベヌル塔は、城壁の南西の角に䜍眮し、川を芋䞋ろしおいる。こちら偎の最埌の塔だ。

 ロワヌル川沿いの城壁には、现長い胞壁城壁や城の最䞊郚に蚭けられた《《凞凹》》郚分ず石造りの手すりがあり、そこから投石するこずができる。敵がはしごをかけお城壁を越えおこようずしたら、石を萜ずしお撃退する。塔ず塔の間は匓の射皋ほどで、門扉で守られおいた。

 西偎には、たず぀の塔があり、次にレニャヌルたたはルナヌルず呌ばれる぀の門塔があった。これは、か぀お隣接する宮殿の所有者だった垂民の名前にちなんだ名称で、1428幎圓時はオルレアン公の財務官ゞャック・ブヌシェがそこに䜏んでいた。

 その埌、もうひず぀の塔が続き、最埌に城壁の北西の角にベルニ゚橋La Porte Bernierがある。こちら偎の城壁は、匓よりも射皋距離の長いクロスボりの時代に築かれたため、塔ず塔の間はクロスボりの射皋距離の間隔で離れおおり、城壁は他よりも䜎かった。

 森に面した北偎には、匓の射皋距離の間隔で10の塔があった。
 番目のサン・サム゜ン塔は、歊噚庫ずしお䜿甚されおいた。
 番目ず番目の塔は、パリ門を挟んでいた。

 東偎にも、北偎ず同じ間隔で10の塔があった。
 番目ず番目はブルゎヌニュ門を囲む塔で、城壁のないサン・テニャン教䌚に近かったためサン・テニャン門ずも呌ばれた。
 最埌は、ヌヌノ塔新塔、La Tour Neuveず呌ばれる倧きな角型の塔で、これでヌヌノ塔は回数えられたこずになる。

5.3 オルレアンの町倧橋ず郊倖

 町からロワヌル川の巊岞ぞず続く、家々が立ち䞊ぶ石造りの橋は䞖界的に有名だ。この橋には、幅の異なる19のアヌチがあった。

 町を出お、門扉ラ・ポルト・デュ・ポンにある最初のアヌチは、ラ・アルヌ゚l'Allouéeたたはゞャックマンルヌスレ橋Pont Jacquemin-Rousseletず呌ばれ、ここに跳ね橋があった。

 番目のアヌチは、现長くお船の圢をした島䞭掲に接しおいた。
 橋の䞊に、聖アントワヌヌに捧げられた瀌拝堂があったこずから、この䞭掲はモットサンアントワヌヌMotte土くれの䞘ず呌ばれ、橋の䞋には、捕獲した魚を生かしおおくために穎のあいた船を係留しおいたこずからモットデポワ゜ニ゚ず呌ばれおいた。

 1427幎、この䞭掲が敵に占領されるのを防ぐために、オルレアン垂民は、番目のアヌチの先に、橋の幅党䜓を占める芁塞「サンアントワヌヌ塔」を建造した。

 11番目ず12番目のアヌチの間にある控え壁バットレスbuttress、橋のアヌチを支える郚分には、石の台座に支えられた「ベルクロワ矎しい十字架」ず呌ばれる金メッキされたブロンズ補の十字架があった。

 18番目のアヌチの控え壁バットレスは延長され、その橋台には、぀の塔を䞞倩井の玄関ポヌチで繋げた小ぶりの城「レ・トゥヌレル」がそびえ立っおいた。

 19番目のアヌチず20番目のアヌチの間には、最初のアヌチず同様に跳ね橋があった。その倖偎にル・ポルトロヌがあり、そこからトゥヌルヌズぞの道が続き、ロワヌル川を越えたオリノェ山地でブロワぞの道に合流した。[482]

 圓時、ロワヌル川の穏やかな氎は、シダ怍物の矀生地ず暫や癜暺の茂みの䞭を流れおいたが、今では航行のために取り陀かれおいる。

 オルレアンから東ぞ2.5マむル玄キロ、シェシヌの䞘の䞊にあるブヌルドン島l'Île aux Bourdonsは、川の现い支流ず、ラ・ボヌス偎のコンブルヌに面した緑の草地ず䞋草のあるシャルルマヌニュ島l'Île Charlemagneずブフ島l'Île-aux-Bœufsからの狭い氎路によっお、゜ロヌニュ川の河岞から隔おられおいた。

 川を䞋るボヌトは、次にサン・ルヌの぀の島に差し掛かり、ヌヌノ塔新塔、La Tour Neuveを迂回しお、右偎の぀のマルティネ島ず巊偎のトワル島l'Île-aux-Toilesの間をすべるように進む。

 そこから橋の䞋をくぐる。この橋は、䞊流偎のモットサンアントワヌヌ、䞋流偎のモットデポワ゜ニ゚ず呌ばれる䞭掲をたたいでいる。

 やがお、城壁の䞋、サンロヌランデオルゞェリルの向かい偎にある、ビシュドルゞュずいう小島ず、もう぀の名前のない小島に到達する。[483]



 オルレアンの郊倖は、フランス王囜の䞭でもっずも玠晎らしい堎所だった。
 南偎の郊倖にはル・ポルトロヌずいう持垫町があり、川沿いにはアりグスティノ掟の教䌚ず修道院が広がり、その先には囜内最高のワむンを生産するサンゞャンルブランのブドり畑が広がっおいた。[484]

 その䞊、゜ロヌニュの荒涌ずした台地ぞ䞊っおいくなだらかな斜面には、激しい湧氎、枅らかな氎流、朚陰の倚い土手、オリノェの庭園ず小川のあるロワレ川が、穏やかで雚の倚い空の䞋で埮笑んでいた。

 東偎に䌞びるブルゎヌニュ門の郊倖は、もっずも倚くの建物が䞊び、もっずも人口が倚い堎所だった。そこには、サンミシェル教䌚ずサンテニャン教䌚があり、特に埌者の回廊は玠晎らしいず蚀われおいた。[485]

 この郊倖を離れお、ロワヌル川の河岞ずブフ島䞭掲の間に広がる砂地の支流沿いのブドり畑を通り過ぎ、分のリヌグほど進むず、サン・ルヌの急斜面にたどり着く。

 さらに東ぞ進むず、川ずオヌタンからパリに向かうロヌマ街道の間に、サンゞャンドブレむ、コンブルヌ、シェシヌの鐘楌が次々ずそびえ立っおいるのが芋える。

 町の北偎には、立掟な修道院や矎しい教䌚、墓地にはサンラドレ瀌拝堂、ゞャコバン教䌚、コルドリ゚教䌚、サンピ゚ヌルアンサントレ教䌚などがあった。

 真北には、パリ街道沿いにラ・ポルト・ベルニ゚の郊倖が広がり、そのすぐ近くには、オヌク、シデ、ブナ、ダナギの深い森に芆われた「オオカミが䜏む陰鬱な町」がある。そこには、薪割りや炭焌きのための小屋があるフルヌリヌ村ずサモむ村が隠れおいた。[486]

 西偎には、ラ・ポルト・レナヌルの郊倖がシャトヌダンぞの道沿いの野原に広がり、ブロワぞの道沿いにはサン・ロヌランの集萜があった。[487]

 これらの郊倖は、非垞に人口が倚い䜏宅地で広範囲に拡倧しおいた。
 むングランド軍の接近にずもない、郊倖の䜏民が垂内城壁内に避難したため、オルレアン垂内の人口は倍増した。[488]

5.4 オルレアンの決意開戊の準備

 オルレアンの䜏民は戊う決意を固めたが、それは名誉のためではなかった。
 圓時、垂民が自分の町を守ったからずいっお、名誉を埗られるこずはなかった。唯䞀の芋返りは、恐ろしい危険を冒すこずだけだった。

 町が陥萜すれば、富裕局や有力者は身代金を払うだけでよく、埁服者は圌らを厚遇したが、䞋玚貎族や貧しい貎族のほうがより倧きな危険にさらされた。

 同じ1428幎、ムランを守るために銬や犬たで食べ尜くしお戊った末に、降䌏した階士たちはセヌヌ川で溺死刑に凊せられた。「貎族は䜕の䟡倀もない」ずブルゎヌニュで歌われた。[489]

 しかし、䞀般的には、高貎な生たれであるこずは呜を救った。
 自衛のために勇気を振るった垂井の人は、死ぬ可胜性が高かった。決たった芏則はなく、䜕人かを䞀床に絞銖刑に凊すずきもあれば、䞀人だけで枈むこずも、党員がやられるこずもあった。銖を切り萜ずしたり、袋に瞫い蟌んで氎に投げ蟌むこずも合法だった。

 同じ1428幎、ラ・むルずザントラむナの䞡隊長はル・マンぞの攻撃に倱敗し、間䞀髪で退华した。
 圌らを助けた垂民は、すでにオリノェに到着しおいたサフォヌク䌯りィリアム・ポヌルず、たもなく到着する予定だった《《最も瀌儀正しい》》むングランド階士ゞョン・タルボットの呜什により、クロワトルサンゞュリアン広堎の石碑の䞊で斬銖された。[490]

 この前䟋は芋せしめずしお、オルレアンの人々に譊告を䞎えるのに十分だった。

 オルレアンの町は総督の支配䞋にあったが、総督の承認を埗お、垂民によっお幎任期で遞ばれた12人の行政官によっお自治運営されおいた。[491]

 これらの行政官は、他の垂民よりも倧きな危険にさらされおいた。
 そのうちの人は、凊刑堎であるサンシュルピス修道院の前を通りかかったずき、領䞻の遺産を守った眪で、幎内にそこで凊刑される可胜性を考えたかもしれない。
 それでも、12人はこの遺産を守る決意を固め、迅速か぀知恵を尜くしお公共の利益のために行動した。

 オルレアンの人々は、䞍意を突かれたわけではなかった。
 圌らは、父芪の代からむングランド軍を泚意深く監芖し、町の防埡を固めおいた。
 圌ら自身、1425幎には包囲攻撃を匷く予想しおいたため、サンサム゜ン塔に歊噚を集め、富める者も貧しい者も同様に堀防を掘り、城壁を築くこずを矩務付けられおいた。[492]

 戊争は垞に費甚がかかる。
 町の幎間皎収の分のを、城壁の維持ずその他の戊争準備に費やした。

 ゜ヌルズベリヌ䌯の接近の知らせを聞いお、圌らは驚異的な゚ネルギヌで迎え撃぀準備をした。

 川沿いを陀いお、城壁には胞壁城壁や城の最䞊郚に蚭けられた《《凞凹》》郚分がなかったが、町の商店には手すりを䜜るための杭ず暪朚があった。
 砲撃から守備隊を防埡するために、城壁の䞊にペントハりス型の砊倖堡を築き[493]、出入り口には朚補の防壁バリケヌドが蚭眮され、開閉を担圓する門番の控え小屋を䜜った。

 城壁の䞊郚ず塔には、倧砲や臌砲を含む71門の火砲を蚭眮したが、カルバリン砲はただなかった。
 町からリヌグ玄15キロ離れたモンマむダヌルの採石堎から石を運び、砲匟を䜜った。
 倚額の費甚をかけお鉛や硫黄を買い蟌み、女性たちが火薬を調合した。
 毎日䜕千本もの矢を䜜っお備蓄した。鉄の䞡端には矢じりず、鳥の矜や矊皮玙で䜜った矜をボルトで留めた。[494]
 朚片を互いに組み合わせお革で芆った倧きな盟パノァも倚数補造された。
 䜏民のために、たた守備隊や王の家臣、そしお傭兵のために、穀物、ワむン、家畜を倧量に買い入れた。[495]

 オルレアンの人々は、町の䞭に軍人が駐屯するこずを拒吊しお自力で守る特暩を持っおいた。職業に応じお、塔の数ず同じ数の守備隊に分けお運甚しおいた。
 長い間、垂民は自力でこの暩利を守り抜き、そのおかげで、略奪や焌き蚎ちなどの被害から町を守っおいた。

 しかし今、オルレアンの人々はこの暩利を攟棄したがっおいた。
 なぜなら、町の人々で構成した䞭隊ず、近隣の村の蟲民だけでは包囲攻撃に耐えられないず悟ったからである。敵に抵抗するには、槍の扱いに熟緎した階兵ず、クロスボりを䜿いこなす歩兵が必芁だった。

 町の総督であるゎヌクヌル卿ず、王の䞭将Lieutenant Generalを務める「オルレアンの私生児」卿が、囜王から兵士ず資金を調達するためにシノンずポワティ゚に行き[496]、その間に、垂民は人組の委員を結成しお、ブルボネやラングドックたで足を運び、町々に救揎を求めた。[497]

 行政官は、フランス王のために近隣の地域を守っおいる歊運に恵たれた傭兵たちに呌びかけた。
 垂の人の䌝什、オルレアンずクヌル・ド・リスの口を通しお、「垂の城壁内には金銀が豊富にあり、2000人の戊士を幎間逊うのに十分な食料ず歊噚を甚意しおいる」こず、そしお「善良で誠実な階士であれば誰でも垂の防衛に参加し、死ぬたで戊うこずができる」ず宣蚀した。[498]

5.5 オルレアンの守護聖人聖ナノェルテず聖゚ニャンの䌝説

 オルレアンの䜏民は神を畏れおいた。圓時、神は倧いに畏怖されるべき存圚であり、たるでペリシテ人の時代のように恐ろしかった。

 貧しい持垫たちは、苊難の䞭で神に盎接蚎えかけるず拒絶されるのではないかず恐れ、聖母マリアや聖人たちの仲介を求めたほうがよいず考えおいた。
 神キリストは母を敬い、あらゆる機䌚に圌女を喜ばせようずした。同様に、神は倩囜で巊右に座っおいる聖人たちの願いを尊重し、圌らが捧げる嘆願に耳を傟けた。
 したがっお、危機が差し迫っおいた堎合は、聖人に祈りず䟛物を捧げお加護を求めるのが慣䟋だった。

 それで、オルレアンの䜏民は、町の守護聖人である聖ナノェルテず聖゚ニャンサンテニャンを思い出した。

 非垞に叀い時代、聖ナノェルテはオルレアンの叞教座に぀いおいた。1428幎珟圚、そこにはスコットランド出身のゞャン・ド・ミシェルが座っおいるが、聖ナノェルテは「䜿埒の埳」のすべおの栄光に茝いおいた。[499]

 もうひずりの守護聖人である聖゚ニャンは、圌聖ナノェルテの埌継者だ。
 オルレアンが珟圚盎面しおいるのず同じ危機に盎面し、町を芋守りながら神に祈りを捧げた。

 以䞋は、オルレアンの人々に知られおいる圌の物語である。



 聖゚ニャンは若い頃、オルレアン近郊で孀独に隠棲しおいた。
 そこで、圓時、町の叞教だった聖ナノェルテが圌を芋぀けた。
 聖ナノェルは圌を叞祭に叙任しお、サンロヌランデオルゞェリルの修道院長に任呜し、信埒たちの統治を匕き継ぐ埌継者に遞んだ。

 聖ナノェルテがこの䞖を去るず、祝犏された聖゚ニャンは、オルレアンの人々の同意を埗お、幌い子䟛の声によっお叞教に遞ばれた。
 なぜなら、神は幌子の口を通しお賛矎されるお方であり、乳飲み子ずしお祭壇に運ばれた子䟛の䞀人に「゚ニャン、゚ニャンはこの町の叞教ずしお神に遞ばれた」ず蚀わせたからである。

 叞教に圚職しお60幎目、フン族がガリアに䟵攻した。
 圌らを率いるアッティラ王は、「我が行くずころは、どこであろうず星が萜ち、倧地が震える。我は䞖界の槌ハンマヌである」ず豪語しおいた。
 行軍の道䞭にある町はすべお砎壊され、今やオルレアンに向かっお進軍しおいた。

 そこで、祝犏された゚ニャンは、ロヌマ軍を指揮する貎族パトリキア゚ティりスがいるアルル垂ぞ行き、この倧いなる危機に際しお救揎を芁請した。
 救揎の玄束を埗お、聖゚ニャンは叞教座に戻ったが、そこはすでに異民族の戊士たちに包囲されおいた。
 フン族は城壁に穎を開け、攻撃の準備をしおいた。
 祝犏された聖人は城壁にのがり、ひざたずいお祈りを捧げたあず、敵に向かっお唟を吐いた。

 神の意志により、唟液の䞀滎に続いお倩空のすべおの雚粒が降り泚いだ。
 嵐が起こり、激しい雚が異民族の野営地に降り泚いだため、圌らの陣地は氎浞しになった。テントは颚の力でひっくり返され、倚くの者が雷に打たれお呜を萜ずした。

 雚は日間降り続いたが、その埌、アッティラ王は匷力な兵噚で城壁を攻撃した。
 䜏民は、城壁が厩れるのを芋お恐怖におびえた。
 抵抗の望みが尜き、聖゚ニャンは叞教服を身に぀けるずフン族の王のもずぞ行き、オルレアンの人々を憐れむよう懇願し、もし人々に過酷な仕打ちをするなら神の怒りが降りかかるず脅した。
 しかし、これらの祈りず脅しは、アッティラ王の心を和らげるこずはなかった。

 叞教は信埒たちのずころに戻るず、「あずは神を信じる以倖に䜕もできないが、救いは必ずあるだろう神は芋捚おない」ず譊告した。

 そしおたもなく、玄束したずおりに、神はロヌマ人ずフランク人によっお町を救った。圌らは倧いなる激戊でフン族に立ち向かった。
 愛する町が奇跡的に救われた埌、聖゚ニャンは䞻のもずで眠りに぀いた。[500]



 それゆえに、むングランド軍によるこの倧いなる危機に際し、オルレアン垂民は聖ナノェルテず聖゚ニャンに揎助ず救枈を求めた。聖゚ニャンが生前に成し遂げた奇跡に基づき、人々は圌が倩囜にいる今、奇跡を起こす力を期埅した。

 この二人の懺悔者はそれぞれブルゎヌニュ門偎の郊倖に教䌚を持ち、そこで聖遺物が厳重に守られおいた。[501]

 圓時、殉教者ず懺悔者の遺䜓は熱心に厇拝されおいた。
 時には、遺䜓から埳を瀺す癒しの銙りが挂うず蚀われおいた。
 宝石で食られた金色の聖遺物箱に玍められ、これらの聖なる遺物によっお成し遂げられない奇跡はないず考えられおいた。

 1428幎8月6日、オルレアンの聖職者たちは聖ナノェルテの聖遺物箱がある教䌚に行き、城壁の加護を埗るために聖遺物を城壁の呚りに運びこんだ。聖遺物箱は町䞭を緎り歩き、その恩恵に預かろうず、すべおの人々があずに続いた。

 月日には、重さ110リヌブル[502]の「トルティス」が聖゚ニャンに捧げられた。
 困った時は、聖人たちの恩恵を埗るためにあらゆる皮類の莈り物、衣服、宝石、貚幣、家屋、土地、森林、池が捧げられたが、倩然の蜜蝋は特に喜ばれるず考えられおいた。
 トルティスずは「蜜蝋の茪」のこずで、その䞊にろうそくが眮かれ、垂の王章を冠した぀の盟型王章゚スカッションが刻たれた[503]。

 こうしおオルレアンの人々は、自分たちの町を守るためにあらゆる策を講じ、尜力した。

5.6 フランスの揎軍ず敵軍むングランドの接近

 各地の傭兵たちが、オルレアンの行政官の呌びかけに応じた。
 最初に町に駆け぀けたのは、以䞋の者たちだ。

 モンタルゞ総督アルシャンボヌ・ド・ノィラヌル。
 ギトリヌ領䞻ギペヌム・ド・ショヌモン。
 ラ・ボヌス男爵ピ゚ヌル・ド・ラ・シャペル。
 ベアルン階士団長レむモン・アルノヌ・ド・コラヌズ。
 アラゎン王囜のドン・マティアス。
 ゞャン・ポトン・ド・ザントラむナ。

 さらに、か぀おオルレアン倧孊の神孊生だったシトヌ䌚セルカン゜ヌ修道院の院長が、远随者の軍団を率いお到着した。[504]

 オルレアンの町を救いに来た友軍は、予想される敵の数ずほが同数になった。
 守備隊防衛者には報酬が支払われ、パン、肉、魚、豊富な飌料が䞎えられ、ワむンの暜も甚意された。

 圓初、䜏民たちは圌らを自分の子䟛のように䞁重に扱った。
 垂民は皆、芋知らぬよそ者をもおなすために協力し、持っおいるものを分け䞎えた。しかし、この協調は長くは続かなかった。

 䞀般垂民ず軍の客人ずの間に友奜的な関係があったずする䌝承がどのようなものであれ、[505] オルレアンの状況は、実際には他の包囲された町ず䜕も倉わらなかった。たもなく、䜏民は守備隊に䞍満を抱き始めた。

 月日、むングランド総叞什官゜ヌルズベリヌ䌯がゞャンノィルに到着した。圌は、行軍の道䞭で40もの町、芁塞化された教䌚や城をいずも簡単に占領した。

 しかし、これは圌の最倧の功瞟ではなかった。
 なぜなら、行軍䞭の各所に眮いおいかれた兵士はわずかだったが、そうするこずで、脱走しそうな䞍良兵士をあらかじめ軍から切り離すこずができたからである。[506]

 ゜ヌルズベリヌ䌯は、ゞャンノィルから人の䌝什をオルレアンに掟遣し、䜏民に降䌏を呌びかけた。

 行政官たちは、この䌝什を䞁重にもおなし、バニ゚郊倖のラ・ポム邞に宿泊させ、゜ヌルズベリヌ䌯爵ぞワむンの莈り物を蚗した。圌らは偉倧な君䞻に察する矩務を心埗おいた。

 しかし圌らは、むングランド軍の駐屯郚隊に門をひらくこずを拒吊し、圓時の垂民の習慣通り、「自分たちよりも匷い者が䞭にいるので門を開けるこずはできない」ず䞻匵した。[507]

 危険が迫っおきた10月6日、叞祭、垂民、名士、商人、職人、女性、子䟛たちが十字架ず旗を掲げお厳粛に行進し、賛矎歌を歌い、町の守護者である倩の神に祈りを捧げた。[508]

 同月12日の火曜日、敵が゜ロヌニュを通過しおいるずの知らせを受けお、行政官たちは兵士を掟遣し、ロワヌル川巊岞の郊倖にある持垫町ル・ポルトロヌの家屋、およびその先にあるアりグスティノ䌚教䌚ず修道院、さらに、敵が宿営したり陣地を敷く可胜性のあるその他のすべおの建物を取り壊した。

 しかし兵士たちは䞍意を突かれた。
 たさにその日、むングランド軍はオリノェを占領しおル・ポルトロヌに珟れた。[509]

 圌らの䞭には、ノェルヌむナの戊勝に貢献し、むングランド軍の花圢ず呌ばれる階士たちが䜕人もいた。

 むングランド王に「いずこ」ず呌ばれるほど寵愛されたポントル゜ン総督でヌセル領䞻トマス・スケヌルズ。
 フォヌコンバヌグ男爵りィリアム・ネノィル。
 ゚ノルヌの官吏でりェヌルズの階士りィリアム・ゲシン。
 ゜ヌルズベリヌ䌯の甥リチャヌド・グレむ卿。

 ギルバヌト・ハル゜ヌル、リチャヌド・パニンゲル、トヌマス・ゲラヌルなど倚数の階士、その他倚くの名士たちだ。

 ノルマンディヌから来た200の槍階兵の䞊には、サフォヌク䌯りィリアム・ポヌルずゞョン・ポヌルの旗がはためいおいた。圌らは兄匟で、りィリアム公の戊友の子孫だった。

 たた、摂政の䟍埓長である階士旗手トマス・ランプストン。
 コンシュの総督で゚ノルヌの代官兌隊長だったリチャヌド・りォルタヌ。
 階士りィリアム・モリンズ。
 フランスではグラシダGlacidasず呌ばれたりィリアム・グラスデヌル埓階士でアラン゜ンの代官。卑しい生たれの男などの旗もあった。[510]

 匓兵は党員が銬に乗っおいた。歩兵はほずんどいなかった。
 牛に匕かれた荷車には、火薬の暜、クロスボり、匓矢、砲匟、あらゆる皮類の銃火噚、マスケット銃、猟銃、そしお倧型の倧砲が積たれおいた。
 むングランド軍の砲手長フィリベヌル・ド・モランずりィリアム・アップルビヌの人が郚隊に同行した。
 たた、鉱倫38人ず芪方が人いた。
 女性も少なからずいたが、䞭にはスパむずしお掻動しおいた者もいた。[511]

 軍隊がオルレアンに到着したずき、道䞭で勝利するたびに脱走者を出しおいたため、倧幅に兵力が枛っおいた。むングランドに垰った者もいれば、フランス囜内を攟浪しお匷盗や略奪を働く者もいた。

 たさに開戊圓日の10月12日、ルヌアンからノルマンディヌの代官ず総督に、゜ヌルズベリヌ䌯の郚隊から離脱したむングランド人を逮捕せよずいう呜什が出された。[512]

 レ・トゥヌレルの砊本塁・本䞞ずその倖塁倖偎に匵り出しおいる副次的な芁塞斜蚭が、オルレアンぞ枡る橋の入り口を塞いでいた。

 むングランド軍は、郊倖のル・ポルトロヌに陣を構え、サン・ゞャン・ル・ブランの䞘の䞊に倧砲ず臌砲を蚭眮し[513]、次の日曜日には砲匟の雚をオルレアンの垂街地に降らせた。町の家々はひどく痛め぀けられたが、死者は人のみ——川岞のシュノヌ裏門近くに䜏んでいたベルずいう名の女性——だった。

 ひずりの女性ゞャンヌの勝利で終結するオルレアン包囲戊は、ひずりの女性の死から始たったのである。

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