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教皇庁に犁曞指定されたゞャンヌ・ダルク䌝本䜜の基盀ずなった文献に぀いお䞊巻・むントロダクション

⚠これたで「次章を曎新するたで最新分を無料で公開」ずいう圢でお届けしおきたしたが、本ペヌゞ本章をもちたしお完蚳・完結です。

䞊巻の冒頭の「むントロダクション」は、その圧倒的なボリュヌムず難解さから、これたで公開を控えおいたした。

Introduction前眮き・抂論ずいう䜍眮づけでありながら、日本語蚳でなんず䞇文字を超えるずいう、どの本線チャプタヌよりも長い内容です。初読の方にはハヌドルが高すぎるず刀断し、離脱を防ぐために非公開ずしおいたした。ですが、本線をここたで読み進めおくださった「猛者」の皆様なら、きっず読み応えを感じおいただけるはずです。

本曞の基盀ずなる文献の玹介や考察が䞭心ずなっおおり、むしろ「あずがき」ずしお読んだ方がしっくりくるかもしれたせん。満を持しお公開したす。


アナトヌル・フランス著「ゞャンヌ・ダルクの生涯Vie de Jeanne d'Arc」完蚳プロゞェクト。原著は1908幎発行。

▌総合目次・リンク集なぜ、21䞖玀に『ゞャンヌ䌝』を完蚳するのか

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⚠字数が倚い57,000字ため、蚳者の裁量で小芋出しを぀けおいたす。

0.1 1431幎の凊刑裁刀蚘録 

 筆者の最初の矩務は、この歎史曞の出兞を明らかにするこずだ。

 ラノェルディ、ブション、J・キシェラ、ノァレ・ド・ノィリノィル、シメオン・リュス、ブヌシェ・ド・モランドン、MM・ロビダヌル・ド・ボヌルペヌル、ラヌリヌ・ダルク、アンリ・ゞャダヌル、アレクサンドル・゜レル、ゞェルマン・ルフェヌノルポンタリス、L・ゞャリ、その他倧勢の研究者たちが、ゞャンヌ・ダルクの生涯に぀いお様々な文献を発衚し、解説しおいる。

 読者には、それ自䜓が膚倧な文献を構成しおいる圌らの著䜜を参照されたい。[2]

 私はこれらの文曞に぀いお、改めお文献孊的・文孊的な分析を詊みるこずはせず、ただ、私がそれらをいかに利甚するこずにしたか、を簡朔か぀抂括的に瀺すにずどめる。

 それらは、第䞀にゞャンヌを有眪に至らしめた裁刀、第二に幎代蚘、第䞉に圌女の埩暩裁刀、第四に曞簡、蚌曞、その他の文曞である。



 たずはじめに、ゞャンヌに有眪刀決を䞋した裁刀[3]においお、歎史家は豊富な宝の山を手に入れた。

 ゞャンヌの尋問蚘録は、どれほど现かく研究しおもしすぎるこずはない。
 それは、ドンレミや圌女が通過したフランス各地から集められた、他には残されおいない情報に基づいおいる。

 1431幎の裁刀官たちがゞャンヌの䞭に芋いだそうずしたのは、偶像厇拝、異端、魔術、および教䌚に察するその他の眪であったこずは、蚀うたでもない。
 圌女の王シャルル䞃䞖を蟱めるために、ゞャンヌを砎滅させようず目論み、その蚀動のひず぀ひず぀に悪を芋いだし、それゆえに、圌女の生涯に関する入手可胜なあらゆる情報を調査した。

 乙女ラ・ピュセルの答匁が極めお高い䟡倀を持぀こずは、呚知の事実である。それらは英雄的なたでに誠実で、その倧郚分はきわめお明晰である。

 ずはいえ、そのすべおを文字通りに解釈しおはならない。

 ゞャンヌは、ボヌノェ叞教もゞャン・デスティノェ怜事も自分の裁刀官ずしお絶察に認めなかったため、圌らの前で真実のすべおを話すほど単玔ではなかった。
 圌らに「すべおを知るこずはできないだろう」ず譊告した点は、圌女の非垞に率盎なずころであった。[4]

 ゞャンヌの蚘憶が奇劙なほど䞍完党だったこずも認めなければならない。
 法廷曞蚘官が、ゞャンヌが週間前の尋問で蚀った回答を正確に芚えおいたこずに驚いたこずは筆者も承知しおいる。[5]

 そういうこずもあり埗るだろうが、ゞャンヌがい぀も必ず同じこずを述べおいたわけではない。䞀幎の歳月が過ぎた埌、ゞャンヌは自分の生涯における重芁な出来事のいく぀かに぀いお、おがろげな蚘憶しか留めおいなかったこずもたた事実である。

 結局のずころ、絶え間ない幻芚のせいで、ゞャンヌは真実ず虚停を区別するこずができなくなっおいた。



 裁刀蚘録公匏蚘録・正本に次いで、ゞャンヌの凊刑間際のいく぀かの発蚀が『尋問報告《アンフォルマシオン》information』ずしお付蚘されおいる。[6]

 この尋問蚘録には、法廷曞蚘官たちの眲名がない。
 それゆえ、法的芳点からすれば、この蚘録は圢匏を欠いおいる。しかし、歎史史料ずしお芋れば、その信憑性は疑いようがない。

 私の考えでは、実際の出来事は、この非公匏な報告曞に曞かれおいる内容ず倧きく異なるものではないだろう。

 この文曞には、ゞャンヌの二床目の撀回異端の再犯に぀いお蚘されおいるが、この撀回に぀いおも疑いの䜙地がない。なぜなら、ゞャンヌは死ぬ前に聖䜓拝領を受けおいるからだ。[7]

⚠死ぬ前に聖䜓拝領を受けおいる異端者ずしお凊刑される堎合、聖䜓を受けるこずは蚱されないが、ゞャンヌは教䌚の蚱しを埗お聖䜓拝領を受けおいる。これは、圌女が䞀床「撀回した自分が異端だず認めた」ずいう事実を蚌明する重芁な蚌拠ずなる。

 この文曞凊刑間際の尋問報告の信憑性は、埩暩裁刀のずきに異端審問の䞍備を指摘した人々でさえ決しお吊定しおいない。[8]

0.2 圓時の幎代蚘アラン゜ン公の幎代蚘 

 第二に、圓時の幎代蚘䜜家たちは、フランス偎もブルゎヌニュ偎も、いずれも雇われの身報酬をもらっお執筆するお抱え䜜家であり、どの倧貎族にも幎代蚘䜜家がひずりは仕えおいた。

 トリンガンTringantは、「私の䞻人は幎代蚘に名前を茉せるために金を䜿わなかった、だから䞻人の名は幎代蚘から省いた」ず述べおいる。[9]

 ラ・ピュセルが登堎する最も叀い幎代蚘は、アラン゜ン家に仕え、ゞャン公の家什だったペルスノァル・ド・カニヌPerceval de Cagnyである。[10]

 それは1436幎、すなわちゞャンヌの死からわずか6幎埌に䜜成された。
 しかし、これは圌自身の手によっお曞かれたものではない。

 カニヌ本人の告癜によれば、圌は「これほどの事柄、あるいはその半分にも満たない重芁な事柄を曞き蚘すのに必芁な、分別も蚘憶力も胜力も、半分すら持ち合わせおいなかった」からである。[11]

 この幎代蚘は、䞹念な仕事をする曞蚘官の手によっお曞かれた。

 アラン゜ン家に雇われおいるお抱え幎代蚘䜜家が、䞻人アラン゜ン公ずラ・トレモむナ卿ずの間に生じたラ・ピュセルをめぐる䞍和に぀いお、囜王に極めお䞍利なむメヌゞで衚珟しおいるずしおも驚きはない。

 しかし、曞蚘官はゞャン公アラン゜ン公の家臣の口述を元に執筆しおいるはずで、ラ・ピュセルが「矎しい公爵」ず呌んだ䞻人ずずもに成し遂げた歊勲に぀いお、これほど䞍正確で曖昧な蚘述をするだろうか。

 この幎代蚘は、1431幎の異端刀決が芆されるずは誰も思っおいなかった時期に曞かれ、その䞭でラ・ピュセルは「超自然的な力を䜿った」ず芋なされおいる。ゞャンヌの行いは聖人䌝の手法で蚘録されおいるために、あらゆる真実味を倱っおしたった。

 さらに、ペルスノァル・ド・カニヌが著したずされる幎代蚘の䞭でラ・ピュセルを扱っおいる郚分は簡朔で、各章が数行皋床から成る27章で構成されおいる。

 キシェラは、これが珟存するゞャンヌ・ダルクの幎代蚘の䞭で最良のものだず考えおいる[12]が、実際、他の幎代蚘はこれ以䞊に無䟡倀なのかもしれない。



 ベリヌ地方の王章官だったゞル・ル・ブヌノィ゚Gilles le Bouvierは、1429幎圓時は43歳で、ペルスノァル・ド・カニヌよりもいくぶん思慮深く、日付の混乱が倚少あるものの、軍事行動に぀いおより詳しく把握しおいる。

 しかし、圌の蚘述はあたりに芁玄されすぎお、倚くを語っおはくれない。

0.3 圓時の幎代蚘ゞャン・シャルティ゚の幎代蚘 

 サンドニの唱詠官だったゞャン・シャルティ゚Jean Chartier[14]は、1449幎にフランスの幎代蚘線纂の職に就いた。200幎埌の時代17䞖玀だったら宮廷歎史家ず呌ばれおいただろう。

⚠唱詠官precentor聖堂に所属する音楜䞻任叞祭。聖歌隊を先導する䞻唱者。

 圌の職分は、ゞャンヌの死に関する蚘述から察するこずができる。「ゞャンヌはゞャン・ド・リュクサンブヌルの呜什で長い間幜閉されおいた」ず述べた埌、圌はこう付け加えた。

「リュクサンブヌルは圌女をむングランド人に売り枡し、圌らむングランド人は圌女をルヌアンに連行しお過酷に扱った。そしお、長い幎月の埌、圌らは暎君の意志によっお、裁刀もなしに、圌女をルヌアンの町で火刑に凊した。圌女が送っおいた生掻ず芏埋、すなわち、善良なカトリック教埒にふさわしく、毎週告解し、聖䜓拝領しおいたこずを考えれば、それは残虐な仕打ちだった」[15]

 ゞャン・シャルティ゚は、「むングランド人は圌女を裁刀なしで焌いた」ず述べおいるが、これは明らかにルヌアンの代官バむむBailieが裁きを䞋さなかったずいう意味だ。

⚠代官Bailie䞭䞖フランスの地方行政・叞法の責任者。

 教䌚裁刀のこずや、䞀床目の背教lapseず二床目の背教relapseずいう二぀の眪状に぀いお、ゞャン・シャルティ゚は䞀蚀も述べおいない。「善良なカトリック教埒を裁刀なしに火刑に凊した」ず蚀っおむングランド人を告発しおいるのである。

 この事䟋幎代蚘の蚘述は、1431幎の有眪刀決がシャルル王の政府をいかに深刻に混乱させたかを蚌明しおいる。

 しかし、䞍郜合だからずいっおゞャンヌの裁刀を隠蔜するような歎史家を評䟡すべきだろうか

⚠補足ゞャン・シャルティ゚が幎代蚘線纂の職に぀いたのは埩暩裁刀より前のこず。ゞャンヌの有眪刀決はフランス史の汚点になり埗たため、わざず曞かなかった可胜性がある。なお、詩人ずしお名高いアラン・シャルティ゚の兄匟ずいわれる。

 ゞャン・シャルティ゚は極めお意志が匱く、軜薄だった。圌は聖カタリナの剣の魔力を信じ、ゞャンヌがその剣を折ったずきに力を倱ったず信じおいたようで[16]、きわめお子䟛じみた寓話を蚘録しおいる。

 それにもかかわらず、1450幎頃に曞かれたフランス王の公匏幎代蚘が、オルレアン解攟、ロワヌル川流域の芁塞蚎䌐、そしおパテヌの勝利においおラ・ピュセルが重芁な圹割を果たしたず垰しおいるこずは興味深い。囜王が「この乙女ラ・ピュセルの助蚀により」[17]ゞアンで軍隊を線成したいきさ぀を語り、ゞャンヌが戎冠ず聖別を成し遂げさせた[18]ず明蚀しおいるのである。

 これこそが、シャルル䞃䞖の宮廷で支配的だった芋解に違いない。
 私たちが突き止めなければならないのは、「その芋解が誠実か぀劥圓なものだったのか」、「フランス王は『ラ・ピュセルのおかげで王囜を手に入れた』ずするこずで自分が有利にはなるず考えたのか」ずいうこずだけである。

 ゞャンヌはカトリック教䌚の銖脳たちから異端者ず芋なされたが、フランス陣営では尊ばれおいた。もっずも、それは王族や軍の指導者たちよりも、むしろ䞋局階玚の人々の間でのこずだ。

 1440幎の反乱プラグリヌの乱の埌、囜王は埌者の指導者たちの功瞟を称えようずはしなかった。

 このプラグリヌの乱[19]の最䞭、ブルボン公、ノァンドヌム䌯、ラ・ピュセルが「矎しい公爵」ず呌んだアラン゜ン公、さらには慎重なデュノワ䌯たでもが、略奪者たちず手を組み、むングランドずの戊いでは芋せたこずのない熱意をもっお、囜王に戊いを挑む姿が目撃されおいた。

0.4 圓時の幎代蚘オルレアンの『籠城日蚘』

 『オルレアン籠城日蚘Le Journal du SiÚge』[20]は1428幎から1429幎に蚘されたもので間違いない埌䞖の創䜜ではないが、珟圚䌝わっおいるのは1467幎の版バヌゞョンだ。[21]

 ゞャンヌがオルレアンに来る前の蚘述は、埌から加筆された。この加筆者はあたりに皚拙で、ゞャンヌがシノンに到着したのは月日だったにもかかわらず月ずし、ブロワ出発の日を4月末ではなく3月10日朚曜日にしたりず、加筆者の䞍手際が芋られる。

 4月28日から5月7日たでの日蚘は、幎代蚘ずしおの䞍正確さが少なく、日付の誀りは写本垫のせいかもしれない。

 しかし、日付に割り圓おられた事実は、ずきどき財務蚘録ず矛盟し、しばしば奇跡的な芁玠を含み、ゞャンヌの䌝説がかなり誇匵されたこずを物語っおいる。
 䟋えば、レ・トゥヌレル砊の橋の厩萜に関しお、曞蚘官が犯した誀蚘を、包囲戊の目撃者籠城日蚘の䜜者に起因させるこずは到底䞍可胜である。[22]

 P・シャルパンティ゚ずC・キュむサヌルによる版の97ペヌゞに蚘されおいる、垂民ず軍人の関係に぀いおの蚘述は堎違いな感浮いおいるがある。おそらくは、最埌の週に生じた深刻な䞍和の蚘憶を消すために、そこに挿入されたのだろう。

 月日以降、この日蚘はもはや日蚘であるこずをやめ、前述したシャルティ゚やベリヌの著䜜、あるいは埩暩裁刀の蚘録から借甚した話の抜粋ずなる。

 ゞャルゞョヌの包囲でゞャン・ド・モンテスクレヌルMessire Jean de MontesclÚreメヌトル・ゞャンず呌ばれる火砲の名手が蚎ち取った「倪った倧柄のむングランド人」の゚ピ゜ヌドは、明らかに1446幎のゞャン・ドヌロンゞャンヌに仕えた埓階士の蚌蚀から匕甚された話だが、この匕甚でさえも䞍正確だ。

 なぜなら、ゞャン・ドヌロンは圌が蚎たれたのはオヌギュスタン修道院の戊いであるず明蚀しおいるからである。[23]

0.5 圓時の幎代蚘『ラ・ピュセルの幎代蚘』

 あたかもヒロむンの䞻芁な幎代蚘であるかのような『ラ・ピュセルの幎代蚘La Chronique de la Pucelle』[24]ずいうタむトルの幎代蚘は、トロむアのプリアモス王たでさかのがる『フランス貎族の事瞟Geste des nobles François』ずいう歎史曞から借甚した内容だ。[24]

 しかも、その抜粋がなされたのは、原本に倉曎ず加筆が加えられた埌のこずだ。それは、1467幎以降におこなわれた。

⚠補足『フランス貎族の事瞟』は1467幎に加筆倉曎された。『ラ・ピュセルの幎代蚘』は加筆倉曎郚分が反映されおいるため、1467幎以降に著されたずいえる。

 たずえ『ラ・ピュセルの幎代蚘』が、包囲戊の最䞭にオルレアンに閉じ蟌められたクゞノの䜜品䞀説によるずクゞノCousinot単独ではなく叔父ず甥、あるいは父ず息子による共䜜だず蚌明できたずしおも、この幎代蚘の内容が、ゞャン・シャルティ゚の幎代蚘ずオルレアンの『籠城日蚘』、さらに埩暩裁刀の蚘録から倧郚分を曞き写しおいるずいう事実に倉わりはない。

 著者が誰であろうず、この『ラ・ピュセルの幎代蚘』は䜜者に名声をもたらす代物ではない。

 たったく気づいおないのか、同じ話を繰り返した䞊に、異なる矛盟した状況を付け加えるようなストヌリヌの捏造者を、高く評䟡するこずはできない。

 しかも、『ラ・ピュセルの幎代蚘』は、パリで敗北した埌、王がベリヌに垰還したずころで唐突に終わっおしたう。

0.6 圓時の幎代蚘聖史劇『オルレアン包囲戊』

 『包囲戊の聖史劇Le MystÚre du siÚge』[25]は、幎代蚘に分類するべきだ。
 実際、この䜜品は察話圢匏による韻文の幎代蚘だ。䞀郚の人々が詊みたように、1435幎に曞かれた䜜品だず断定できるならその叀さだけでも非垞に興味深いものだろう。

 線纂者たち、および圌らに続く䜕人かの研究者たちは、この䞇行におよぶ詩を、オルレアン垂解攟の呚幎に挔じられた『ある聖史劇ミステヌルmistaire』[26]ず同䞀芖しおきた。

 圌らは、以䞋のような状況から結論を導き出しおいる。

壮倧な茶番劇や聖史劇を䌁画するこずを奜んでいたゞル・ド・レ元垥は、1434幎9月から1435幎8月たでシャルル公オルレアン公の郜垂に滞圚し、そこで巚額の費甚[27]を投じた。

1439幎に垂は公費で「ゞル・ド・レ卿の所有物だった暙準旗standardず暪断幕bannerを賌入したが、それらは圌がレ・トゥヌレル砊の匷襲ずむングランド軍から奪還する様子を挔出するために䜿甚したもの」だった。[28]

 こうした蚘述を根拠に、1435幎あるいは1439幎の5月8日に、オルレアンで「包囲戊」を䞻題ずし、「ラ・ピュセル」をヒロむンずする劇が䞊挔されたこずを蚌明・断定するのは䞍可胜である。

 しかし、もし「レ・トゥヌレル砊を匷襲する様子」ずいう蚀葉を、野倖劇ペヌゞェントや他の嚯楜ではなく聖史劇を指すものず解釈し、1435幎の「あるミステヌルmistaire聖史劇」が、むングランド軍によっお仕掛けられ解攟されたあの包囲戊の再珟を指しおいるず考えるならば、私たちは『包囲戊の聖史劇Le MystÚre du siÚge』にたどり着く。

 だがその堎合でも、珟圚たで䌝わっおいるテキストの聖史劇かどうかを怜蚌しなければならない。

ゞル・ド・レの関わり

 この䜜品に登堎する140人の圹柄の䞭には、ゞル・ド・レ元垥が含たれおいる。
 このこずから、この聖史劇は、1440幎10月20日にナントの橋䞊で執行されたあの刀決によっお終了した蚎蚟ゞル・ド・レの凊刑裁刀よりも前に執筆、䞊挔されたず結論づけられおきた。

 実際、あれほど䞍名誉な死を遂げた埌で、マシュクヌルの吞血鬌ゞル・ド・レの異名がオルレアンの人々を解攟するために戊う姿を挔出するこずが可胜だろうか、ずいう疑問が投げかけられおいる。

 ラ・ピュセルず青髭⚠童話『青髭』はゞル・ド・レがモデルの英雄的な行動を、いかにしお同列で挔じるこずができたのか この問いに答えるのは難しい。

 なぜなら、ゞル・ド・レがおこなった残忍な所業が、圓時の粗野で野蛮な時代にどこたで蚱容され埗たのか、私たちには到底わからないからである。
 おそらく、珟圚私たちの手元にあるテキスト自䜓をもっず厳密に調べれば、それが1440幎より前のものか埌のものかを瀺す内郚蚌拠が芋぀かるだろう。

原兞ず埌䞖の぀ぎはぎ

 1439幎7月14日、オルレアンの私生児はデュノワ䌯に叙せられた。[29] 『聖史劇』の䞭で圌がこの称号で呌ばれおいる以䞊、この日以前に曞かれた可胜性はありえない。

 デュノワ䌯ず呌ばれる箇所は倚いが、奇劙なこずにそれらはすべお台本の最初の䞉分の䞀に集䞭しおいる。その埌、䜜䞭でデュノワが再登堎するず、圌はなぜか再び「私生児」ず呌ばれおいる。

 この事実から、1862幎の線纂者研究者たちは、蚀語、文䜓、韻埋のいずれにおいおも他ず䜕ら倉わるずころはないにもかかわらず、「もずもずあった原兞に『行の前曞き』が远加された」ず結論づけた。

 しかし、残りの郚分を「1435幎あるいは1439幎に曞かれた」ず断蚀しおよいのか 私はそうは思わない。

 たずえば、台本の䞇行目ず䞇行目で、ラ・ピュセルはタルボットに「おたえは囜王の兵の手によっお死ぬだろう」ず告げおいる。

 この予蚀は、実際の出来事の埌に曞かれたに違いない。これは明らかに、あの尊倧な指揮官タルボットの死を暗瀺しおいる。ならば、このセリフはタルボットが死んだ1453幎以降に曞かれたはずだ。



 たた、包囲戊から幎埌に曞かれた䜜品なら、著者はゞャンヌを貎族出身の什嬢にしようなどず考えもしなかっただろう。

 『包囲戊の聖史劇MistÚre du SiÚge』の䞇行目以降、ポワティ゚の審議で第䞀議長から家族に぀いお尋ねられる堎面では、ラ・ピュセルに次のセリフが圓おられおいる。

「父の屋敷に぀いおはバル地方にございたす。父は良家の生たれで、身分もきわめお高貎で、善良か぀忠実なフランス人でございたす」[30]

 このセリフを曞くには、ゞャンヌの家族が貎族に叙されおから長い幎月が経っおいたはずだ。初代ゞャンヌの兄匟が死に絶えたのは1469幎のこずである。

 その銬鹿げた自負に迎合しなければならなかったデュ・リス家ずいう倧所垯が誕生しおいなければならなかった。

 デュ・リス家の子孫は、みずからの血筋を叔母に結び぀けるだけでは満足できず、善良な蟲民だったゞャック・ダルクゞャンヌの父をバルの旧貎族に結び぀けようず画策しおいたのである。

⚠わかりにくいので補足ゞャンヌの功瞟を讃えお貎族になったが、䞀族の子孫はさらに出自を盛り、ゞャンヌ以前から貎族の血筋だったず䞻匵した。

 ゞャンヌが「父の屋敷」に蚀及しおいる箇所は、同じ聖史劇の䞭の別の堎面ず矛盟しおいる。

 それにもかかわらず、この長倧な䜜品は、党䜓的に䞀貫した内容に芋受けられる。

 この䜜品はどうやら、ルむ11䞖シャルル䞃䞖の息子時代に、「包囲戊」ずいう䞻題にかなり詳しいオルレアン垂民の手によっお線纂されたようだ。

 著者が䟝拠した史料に぀いおは、これたで以䞊の詳现な研究が必芁だろう。
 この著者は、珟圚知られおいる内容ずは倧きく異なるオルレアンの『籠城日誌Journal du siÚge』を知っおいたように芋える。

 この『聖史劇』は、15䞖玀終盀の30幎間のどこかでレ・トゥヌレル奪還を蚘念しお制定された祝祭で挔じられたのか

 䞻題、文䜓、そしお粟神のすべおがふさわしく調和しおいる。

 しかし、月日のオルレアン解攟を祝うために䜜られた詩が、その解攟を月日ずしおいるのは奇劙だ。聖史劇の著者は、ラ・ピュセルに次のようなセリフを語らせ、このように衚珟しおいるのである。

「幎にオルレアンがいかにしお解攟されたかを思い出しお。そしお、それが月の日であったこずも忘れないで」[31]



 ラ・ピュセルに぀いお蚘したフランス偎の䞻芁な幎代蚘䜜家たちは以䞊だ。

 埌䞖の著者や、圌女の生涯の特定゚ピ゜ヌドにしか觊れおない著者に぀いおは、ここで匕甚する必芁はない。圌らの蚌蚀に぀いおは、事実を詳现に怜蚎する際に䜵せお吟味するのが最善だろう。

 『祝祭創蚭の幎代蚘La Chronique de l'établissement de la fête』[32]や、ラ・ロシェルの曞蚘官による『ラ・リレヌションLa Relation』[33]、およびその他の圓時の文曞から埗られる情報を脇に眮くならば。もし私たちがゞャンヌ・ダルクに関する知識をフランスの幎代蚘䜜家たちだけに頌っおいたずしたら。

 ゞャンヌに぀いお知るこずは、私たちが釈迊釈迊牟尌Sakya Muniに぀いお知るのず同皋床のものであっただろうずいうこずを、今や理解できるのである。

⚠わかりにくいので補足キリスト教文化圏のペヌロッパ人にずっお、仏教や釈迊のこずはわかりにくい。同様にゞャンヌのこずも、偏った文献や蚌蚀だけでは圌女の党貌を理解するこずはできない。

0.7 圓時の幎代蚘ブルゎヌニュ掟の幎代蚘コルドリ゚、モンストルレ、パリ垂民の日蚘、他

 ブルゎヌニュ掟の幎代蚘䜜家たちからゞャンヌ関連の情報を芋぀けるこずは期埅できないだろうが、圌らは、ある皮の有益な情報をもたらしおくれる。

 ブルゎヌニュ掟の幎代蚘䜜家たちの䞭で最も叀いのはピカルディヌの曞蚘官で、䜜者䞍明のある幎代蚘を著した。パリのコルドリ゚修道院に唯䞀の写本があるこずから『コルドリ゚の幎代蚘La Chronique des Cordeliers』ず呌ばれおいる。[34]

 その内容は、倩地創造から1431幎たでの䞖界史である。ピ゚ヌル・シャンピオン氏Pierre Champion[35]は、モンストルレが䞊蚘の幎代蚘を利甚したこずを蚌明した。

⚠゚ングラン・ド・モンストルレEnguerrand de Monstreletリュクサンブヌル家に仕え、幎代蚘Chroniqueずいえばこの人ずいうくらい著名な幎代蚘䜜家。

 このピカルディヌの曞蚘官は、様々な事柄を知っおおり、諞々の囜家文曞にも通じおいたが、事実ず日付に぀いおは奇劙なほどに混同しおいる。ラ・ピュセルの軍歎に関する知識は、フランス偎および民衆に広たっおいた情報を根拠にしおいる。

 圌が蚘述したボヌルノォワヌルからの飛び降りはある皋床の信憑性が認められおきたが、もし曞かれおいる内容がすべお正確なら、「ゞャンヌが狂乱あるいは絶望のあたり塔の頂䞊から身を投げた」説は吊定される。[36] 実際、ゞャンヌ自身の蚌蚀ずも䞀臎しない。

 モンストルレ[37]の幎代蚘は「芥子マスタヌド壺よりも口からよだれを垂らしおいる」[38]ずはいえ、ゞャン・シャルティ゚の幎代蚘に比べれば知恵の泉である。

⚠芥子《マスタヌド》壺よりも口からよだれを垂らしおいる盎蚳するず「芥子壺マスタヌドポットの瞁から䞭身が垂れおいる」で、「愚か者が刺激を求めおよだれを垂らしおいる」様子を意味する。ラブレヌの毒舌が冎え枡る慣甚句。

 モンストルレは『コルドリ゚の幎代蚘』を参照する際に、内容を敎理し盎しお、事実を順序立おお提瀺しおいる。圌がゞャンヌに぀いお知っおいたこずは、極めおわずかだった。

 圌は、ゞャンヌが宿屋の召䜿いservantだったず信じおいた。
 モンテピペワの戊いにおけるゞャンヌのためらいに぀いお、たった䞀蚀しか述べおいないが、他では芋るこずのできないその蚀葉は極めお重芁である。

 たた、モンストルレはコンピ゚ヌニュの戊いでゞャンヌに䌚っおいる。あいにく、圌女が圌にどんな印象を䞎えたのか、圌はそれを自芚しおいなかったのか、あるいは語るこずを望たなかったかのいずれかである。



 ワノラン・デュ・フォレステルWavrin du Forestel[39]は、フロワサヌル、モンストルレ、マチュヌ・デスクシヌいずれも著名な幎代蚘䜜家の増補加筆を線纂したが、圌はパテヌに居合わせおいながら、そこでゞャンヌを芋るこずはなかった。

 フォレステルは、ただ䌝聞によっおのみゞャンヌを知っおおり、それも挠然ずしたものでしかなかった。

 それゆえ、ロベヌル・ド・ボヌドリクヌルがゞャンヌを教化しお、「神の摂理に導かれおいる」かのように振る舞う方法を圌女に授けた、ずいう蚘述はさほど重芖されおいない。[40]

 その䞀方で、フォレステルはオルレアン解攟盎埌の戊いに関しお有益な情報を䌝えおいる。



 ブルゎヌニュ公の顧問官で、金矊毛階士団の王章官長でもあったルフェヌノル・ド・サンレミ[41]は、ゞャンヌが捕らえられたずきおそらくコンピ゚ヌニュにいた。圌はゞャンヌを勇敢な少女ず評しおいる。

 ゞョルゞュ・シャトランGeorges Chastellainが著した䜜品は、ルフェヌノル・ド・サンレミの蚘述を匕甚しおいる。[42]



 『パリの䞀垂民の日蚘Le Journal』[43]の著者ずされる人物は、カボシャンCabochienの曞蚘官だったこずが刀明しおいる。圌は、パリ倧孊の博士や教授たちがゞャンヌに぀いお話しおいるのを小耳に挟んだ皋床しか知らない。

 しかも、圌は非垞に䞍勉匷で、そのこずは残念である。この人物は、感情ず蚀葉の力匷さ、憀怒ず慈悲の情熱、そしお民衆ぞの深い共感においお、圓時の人々の䞭で比類のない存圚だからである。

⚠カボシャンCabochiensブルゎヌニュ無怖公が、王匟殺害に反発する政敵アルマニャック掟を排陀するため、食肉業者組合ギルドカボシャンず結蚗しおパリで暎動を扇動した。カボシュの乱たたはカボシャン蜂起ず呌ばれる。

⚠補足共感力ず熱意の面でかなり文才があるが、根拠䞍明の聞きかじった皋床のこずしか曞いおいない。

0.8 圓時の幎代蚘むタリアずドむツの商人たち

 フランスでもブルゎヌニュでもなく、むタリア由来のある文献に蚀及しおおかなければならない。

 ゞェルマン・ルフェヌノルポンタリス氏Germain LefÚvre-Pontalisがみごずな博識で泚釈を付蚘しお出版された『アントニオ・モロゞヌニの幎代蚘Chronique d'Antonio Morosini』[44]である。

 この幎代蚘、より正確に蚀えばそこに玍められた曞簡集は、歎史家にずっお非垞に䟡倀あるものだ。しかし、それはそこに蚘されたラ・ピュセルがやったこずの真実性のためではない。それどころか、それらはすべおが想像䞊のものであり、䌝説的なのである。

 『モロシヌニの幎代蚘』では、ゞャンヌに関する事実のひず぀ひず぀党おが、誀った性栌づけをされ、停りの光の䞋に提瀺されおいる。それにもかかわらず、モロゞヌニの通信盞手たちは、思慮深く鋭敏なノェネチア商人たちだった。

 これらの曞簡は、有名だが未知の存圚だったドモワれルDemoiselle未婚の若い女性、ここではゞャンヌのこずをめぐっお、あるものは階士道物語から、たたあるものは『黄金䌝説』から暡倣された、おびただしい数の架空のゞャンヌ䌝が、キリスト教䞖界党䜓にどのように広たっおいたかを明らかにしおいる。



 もう䞀぀の史料、『ドむツ商人゚ベルハルト・ド・ノィンデックEberhard de Windeckeの日蚘』[45]も同様の珟象を瀺しおいる。なお、これもゞェルマン・ルフェヌノルポンタリス氏によっお良心的か぀賢明な校蚂版が出版されおいる。

 ここに蚘されたラ・ピュセルに関する事柄で、信憑性のある話など䞀぀もない。ゞャンヌが登堎するや吊や、その名を䞭心に民話が䜕床も繰り返される。゚ベルハルトは明らかにそれらを語るこずを楜しんでいる。

 かくしお、これらの善良な倖囜の商人たちから、私たちが知るこずができるのは、「ゞャンヌはその生涯のいかなる時期においおも、寓話を通しお以倖には知られおいなかった」ずいうこずだ。そしお、もし圌女が倚くの人々の心を動かしたのだずすれば、それは圌女が行く先々で湧き起こり、圌女に先んじお道を䜜った無数の䌝説が広たったこずによるものだったずいうこずである。

 そしお実際、最初からラ・ピュセルを包み蟌んでいたたばゆいばかりの䞍明瞭さ、圌女の姿を隠しながらも、よりいっそう圌女を印象的にしおいた光り茝く神話の雲の䞭には、深く考えさせられる材料がある。

0.9 1456幎の埩暩裁刀蚘録知性なき蚌蚀にショックを受ける

 第䞉に、埩暩裁刀はその芚曞、鑑定意芋consultations、そしお蚌蚀者123人による宣誓蚌蚀140件によっお、非垞に䟡倀のある史料集を圢成しおいる。[46]

⚠鑑定意芋《コンシュルタシオン》consultations、裁刀に際しお法孊者や神孊者が提出した専門的な「鑑定意芋曞」。

 ラネリヌ・ダルク氏M. Lanéry d'Arcが、博士たちの芚曞ならびにアンブラン倧叞教の論文意芋曞ずハむンリッヒ・フォン・ゎルクムHeinrich von Gorcumの提題および『フランスのシビュラSibylla Francica』の党文を出版したこずは賢明だった。[47]

 1431幎の凊刑裁刀蚘録からは、むングランド偎の神孊者たちがラ・ピュセルに぀いおどう考えおいたかを知るこずができる。

 しかし、もしテオドヌル・ド・レリスThéodore de Leliisずポヌル・ポンタヌスPaul Pontanusの議論および埌の埩暩裁刀に含たれる諞意芋がなかったら、むタリアやフランスの博士たちがゞャンヌをどのように芋おいたかを、知るこずはできなかっただろう。

 むングランドが勢力を誇っおいたずきに断眪され、フランス軍が勝利を収めた埌に名誉を回埩した䞀人の少女に぀いお、教䌚党䜓の総意ずしおどんな芋解を持っおいたかを究明するこずは重芁である。

 ドンレミ、ノォヌクルヌル、トゥヌル、オルレアン、パリ、ルヌアン、リペンで聎取された、あらゆる階局——聖職者、諞䟯、隊長、垂民、蟲民、職人——から集たった蚌人123人によっお、倚くの事柄が解明されたのは間違いない。

 しかし、圌らの蚌蚀は、奜奇心を満足させるにはほど遠いず認めざるを埗ない。それにはいく぀かの理由がある。

 第䞀に、圌らは教䌚管蜄暩の範囲内にある䞀定の事実を立蚌するこずを目的ずしお䜜成された尋問リストに回答したからである。裁刀を䞻導した聖なる異端審問官は探求心を持っおいたが、珟圚の私たちの奜奇心ずは別物だ。これが、私たちの芳点からすれば「蚌蚀が䞍十分」ず感じる第䞀の理由である。[48]

 しかし、理由は他にもある。

 蚌人たちの倧半は、あたりにも単玔で、掞察力に欠けおいるように芋える。
 あらゆる幎霢、あらゆる階局にわたるこれほど倚くの老若男女がいるのに、明晰な刀断力を備えおいる人がいかに少なかったかを知るのは、嘆かわしいこずである。

 圓時の人間の知性は、あたかも黄昏に包たれおいるかのようで、䜕事もはっきり芋るこずができなかったかのようだ。

 蚀葉だけでなく思考もたた、䞍思議なほど幌皚だ。

 この暗黒時代を少し知るだけで、たるで幌児たちの䞭にいるかのような気分になる。貧困ず無知、そしお果おしない戊争が、人間の心を荒廃させ、道埳的な粟神を蝕んでいた。貎族や富裕局の、寞足らずで切り蟌みの入った滑皜な衣服は、䞍条理で貧しい趣味ず知性の匱さを露呈しおいる。[49]

 これらの矮小な心の最も顕著な特城のひず぀は、その軜薄さである。圌らには泚意力がなく、䜕も蚘憶にずどめない。

 圓時の著䜜を読めば、誰もがこのほが普遍的な貧匱さにショックを受けずにはいられない。

 これら140件の蚌蚀のすべおを、たじめに取り扱えるわけでは決しおない。䟋えば、オルレアン公の䌚蚈士ゞャック・ブヌシェの嚘は、次のように蚌蚀しおいる。

「倜、私はゞャンヌず二人きりで眠りたした。圌女の蚀葉にも行動にも、悪いずころは䜕䞀぀ありたせんでした。圌女は完党に玔朎で、謙虚で、貞淑でした」[50]

 圓時歳だったこのお嬢さんは、添い寝の盞手が玔朎で、謙虚で、貞淑であるこずを、いくぶん早熟な掞察力で認めた。

 ずはいえ、この皋床ならそれほど倧した匊害はない。

 しかし、最も信頌できるず期埅される目撃者によっお、いかに時ずしお欺かれるこずがあるかを瀺すために、修道士パスケレルの蚌蚀を匕甚しよう。[51]

 修道士パスケレルは、ゞャンヌの埓軍叞祭である。実際に芋た者、知っおいる者ずしお語るこずが期埅される人物であるが、圌は、囜王がシノン城でラ・ピュセルに謁芋する以前に「ポワティ゚で尋問があった」ず時系列を䜍眮づけおいるのだ。[52]

 他にも、月日には救揎軍党軍がすでにオルレアンに入っおいたこずを忘れお、パスケレルは「日金曜日の倜になっおも、救揎軍の到着を埅っおいた」ず思い蟌んでいる。[53]

 これらの事実誀認から、この哀れな叞祭の蚘憶力がいかに圓おにならないかを刀断できる。

 しかし、圌の蚌蚀における、最も重倧な過倱は「奇跡の捏造」だ。

 修道士パスケレルは、救揎物資の茞送隊がオルレアンに到着したずき、ラ・ピュセルの特別な介入によっお、艀はしけ荷船を川䞊ぞず運ぶために、圌以倖には誰も芋おいない「ロワヌル川で突然の氟濫が起こった」ず䞻匵しおいる。[54]

0.10 1456幎の埩暩裁刀蚘録デュノワの奇劙な蚌蚀

 オルレアンの私生児こずデュノワの蚌蚀[55]もだいぶ期埅倖れな内容だ。

 デュノワが圓時最も知的で思慮深い人物の䞀人であり、優れた語り手であるず考えられおいたこずは知っおいる。実際、オルレアンの防衛ず戎冠匏の遠埁で、圌はかなりの胜力を発揮した。

 デュノワが蚌蚀した内容が、通蚳ず曞蚘官の手によっおひどく損なわれたか、あるいは圌に仕える叞祭が代理で蚌蚀したかのどちらかだろう。

 圌は「敵の倧軍」に぀いお、オルレアン垂の防衛を任され、包囲軍の実際の兵力を知っおいるはずの叞什官ずいうより、倧聖堂の叞祭や毛織物商人のような蚀葉遣いで語っおいる。

 月28日の兵站茞送に関する蚌蚀は、ほずんど理解しがたい内容だ。

 たた、デュノワは、ゞアンを出発した行軍の最初の宿営地がトロワだったこずさえ述べるこずができない。[56]

 他にも、戎冠匏の埌にラ・ピュセルず亀わした䌚話に぀いお蚌蚀する際、デュノワはゞャンヌの兄匟たちがフランスで圌女ず共にいたにもかかわらず、あたかもドンレミで埅っおいるかのように圌女の口に語らせおいる。[57]

 奇劙な倱策ずいえば、デュノワはゞャンヌが幻芖を芋おいたこずを蚌明しようずしお、むしろ、この若い蟲民の少女が巧みな挔技者にすぎず、「貎族たちの芁求に応じお、亡きリュむス博士の「゚ステル」旧玄聖曞に登堎するナダダ人女性のような恍惚状態を再珟しお芋せた」ずいう、䞍利な印象を抱かせるような話を語っおいる。[58]

0.11 1456幎の埩暩裁刀蚘録結論ありきの蚌蚀

 筆者は、本文䞭の埩暩裁刀を扱った箇所においお、法廷曞蚘官人および法廷執行吏マシュヌ叞祭、ならびにむザンバヌル・ド・ラ・ピ゚ヌルずマルティン・ラドノニュの䞡修道士の蚌蚀に぀いお、私芋を述べた。[59]
 これらの魔女を火刑に凊し、神の埩讐を果たす者たちは、ゞャンヌを断眪したずきず同様にゞャンヌ埩暩のためにも熱心に働いた。

 倚くの堎合、たたしばしば重芁な出来事に関しお、目撃者たちの蚌蚀は真実ず真っ向から察立しおいる。

 䟋えば、オルレアンの毛織物商人ゞャン・リュむリ゚Jean Luillierは、委員たちの前に進み出お、あ぀かたしくも「守備隊はあれほどの倧軍の包囲に持ちこたえるこずはできなかった」ず力説しおいる。[60]
 しかし、最も信頌できる史料によっお、この蚌蚀は誀りだず蚌明されおいる。オルレアンを攻囲しおいたむングランド軍は、実際は非垞に匱く、物資も倧幅に欠乏しおいたのだから。[61]

 二審埩暩裁刀の蚌蚀は、その堎に合わせお取り繕っおいるこずが明らかだったり、あるいは党く真実に反しおいる堎合さえあるが、私たちは虚停を蚌蚀した者だけでなく、その蚌蚀を受理した者たちをも非難しなければならない。
 郜合のいい蚌拠を匕き出すために、埌者はあたりにも狡猟だった。
 これらの虚停の蚌蚀は、異端審問凊刑裁刀の蚌蚀ず同皋床の䟡倀しかない。
 特定の事柄に぀いお、蚌人の考えず同じくらい裁刀官の考え意図を代匁しおいる可胜性がある。

 この堎合、裁刀官が最も立蚌したかったのは、ゞャンヌが教䌚ず教皇に぀いお語ったずきにそれを理解しおいなかったこず、そしお圌女が「戊う教䌚」に埓うこずを拒んだのは、「戊う教䌚」ずはピ゚ヌル・コヌションずその仲間たちのこずだず信じおいたからだ、ずいうこずであった。

 ようするに、ゞャンヌをほずんど癜痎であるかのように瀺す必芁があった。教䌚の蚎蚟手続きでは、このような方法が頻繁に採甚された。

 さらにもう䞀぀、ゞャンヌをむノサン無垢な者、すなわち知性を欠いた少女ず芋なすための、非垞に匷い理由があった。

 この二床目の裁刀埩暩裁刀も最初の裁刀ず同様、政治的な動機によっお開始されたものだった。その目的は、ゞャンヌがフランス王の救揎に駆け぀けたのは、悪魔の教唆によるものではなく、倩の啓瀺によるものであるず知らしめるこずにあった。

 したがっお、ゞャンヌの䞭に神の知恵があるず認めるために、ゞャンヌ自身には䜕の知恵もなかったず瀺さなければならない。

 尋問官たちは、぀ねにこの点を匷調しおいた。
 あらゆる機䌚に、圌らは蚌人たちから、「ゞャンヌは単玔玔朎だった、非垞に単玔だった」ずいう䟛述を匕き出した。ある者は「玔朎な矊飌いの嚘Una simplex bergereta[62]」ず蚀い、別の者は「圌女は非垞に単玔で無知Erat multum simplex et ignorans」[63] ず蚀っおいる。

 無知だったにもかかわらず、この無垢な少女は町を解攟し、あるいは奪取し、歊装した兵を率いるために神から遣わされたのだから、ゞャンヌの䞭には軍事的な才胜が備わっおなければならない。戊いにおいおも、倩から授かった力ず助蚀を発揮しなければならない。

 それゆえ、ゞャンヌが誰よりも戊いに長けおいるこずを立蚌する蚌蚀が必芁だった。

 マルグリット・ラ・トゥルルドはこの件に぀いお断蚀をしおいる。[64]
 アラン゜ン公は、「ラ・ピュセルは槍ランスを振るうこず、軍隊を統制するこず、戊列を敷くこず、倧砲を準備するこず、いずれにも優れおおり、叀参の隊長captainsたちも圌女の倧砲を配眮する巧みな技量に驚いた」ず述べおいる。[65]
 公爵は、これらの才胜はすべお奇跡によるもので、栄光は神のみに垰せられるべきであるこずを十分に理解しおいる。
 なぜなら、もし勝利の功瞟がゞャンヌ自身のものだったなら、圌はこれほどたでに語るこずはなかっただろう。

 そしお、もし神がこれほど倧きな䜿呜を遂行させるためにラ・ピュセルを遞んだずすれば、それは、神がこの少女のうちに他の䜕よりも奜たれる矎埳を芋出したからに違いない。単に「貞節だった」ずいうだけでは䞍十分で、圌女の貞節さは奇跡的なものでなければならず、その貞節ず飲食における節制断食は聖なるものぞず高められなければならなかった。

 それゆえ、蚌人たちは飜きるこずなくこう述べるのである。

「圌女は貞淑だった、ずおも貞淑だった」
Erat casta, erat castissima

「この発蚀者は、あの少女より貞淑な女性はいないず信じおいる」
Ille loquens non credit aliquam mulierem plus esse castam quam ista Puella erat

「圌女は飲食も貞節だった」
Erat sobria in potu et cibo

「圌女は食べるずきも飲むずきも貞節だった」
Erat sobria in cibo et potu

0.12 1456幎の埩暩裁刀蚘録操䜜された蚌蚀

 これほどの玔朔・貞淑をもたらした「倩䞊の源」に぀いお、ゞャンヌが特異な免眪特暩を備えおいたず蚌明される必芁があった。この点に぀いおは、膚倧な蚌蚀がある。

 ゞャン・ド・ヌむペンポン、ベルトラン・ド・プヌランゞ、ゞャン・ドヌロンずいった無骚な軍人たち、たたデュノワ䌯やアラン゜ン公ずいった倧貎族たちが進み出お、「ゞャンヌが男の肉欲を刺激するこずはなかった」ず宣誓した䞊で蚌蚀しおいるのである。

 この状況は、これらの叀参の隊長たちを驚きで満たしたらしい。圌らは若い頃の粟力を自慢しながら、䞀床だけ、あるひずりの嚘によっお若者の情熱が冷たされたこずを䞍思議に思っおいる。

 圌らにずっおそれは極めお䞍自然で、人間には䞍可胜なこずに思えるのである。

 ゞャンヌが圌らに䞎えた効果に぀いおの䟛述は、聖マルタがタラスコンの怪物を瞛り䞊げた話を思い起こさせる。
 デュノワはその蚌蚀においお、奇跡に非垞にこだわっおいる。
 圌はこの奇跡を、人間の理性にずっお最も理解しがたいものであるず指摘する。

 もしデュノワがこの少女を欲したり求めたりしなかったずすれば、この特異な事実ゞャンヌに性欲を感じなかったに぀いお説明が぀く理由はただひず぀、ゞャンヌが聖なる存圚であり、「神なるものres divina」であったからだ、ずいう。

 ゞャン・ド・ヌむペンポンずベルトラン・ド・プヌランゞは、自分自身の「唐突な《《䞍胜》》」に぀いお語るずき、圌らは遠回しな蚀葉遣いを甚いお、互いに圱響を受けおいるかのようにたったく同じこずを蚌蚀しおいる。

 さらに、王の銬䞁であるゎベヌル・ティボヌGobert Thibautは、行軍䞭にこの「神の恩寵」に぀いお倚くの話を聞いたず蚌蚀しおいる。しかし、その恩寵はアルマニャック掟[67]には効いたが、むングランド人ずブルゎヌニュ人には効果がなかった。少なくずも、ピカルディヌの階士ずルヌアンの仕立お屋ゞャノタンずいう人物のゞャンヌに察する振る舞いからそう信じざるを埗ないのである。[68]

⚠ゞャンヌが持぀「神の恩寵」仲間の階士たちには有効性欲抑制だったが、敵には効かなかったずいう、「党掟的な奇跡」の滑皜さを指摘しおいる。

 このような蚌蚀は、明らかに裁刀官たちの考え意図に沿ったもので、いわば自然的な事実ずいうよりも神孊的な事実に基づいおいる。

 異端審問最初の裁刀の調査では、ゞャン・ド・ヌむペンポンやベルトラン・ド・プヌランゞの蚌蚀ように、同じ文蚀で曞かれた宣誓䟛述曞が倚数存圚する。

 その䞀方で、埩暩裁刀ではそのような蚌蚀裁刀の目的に沿うように誘導された蚌蚀は皀であるこずも認めなけならない。

 理由の䞀぀は、蚌人たちが時間をかけお、それぞれが異なる地域で聎取を受けたからであり、もう䞀぀の理由は、ゞャンヌの敵察者が代理人を立おなかったため、あえお䜜為的な手続きをする必芁がなかったからでもある。

 埩暩裁刀の蚌蚀は、ゞャン・ドヌロンのものを陀いおすべおラテン語に翻蚳されたこずは残念である。この過皋フランス語あるいは方蚀からラテン語ぞ翻蚳される過皋で、思考のこたかい陰圱が䞍明瞭になり、蚌蚀から本来の味わいが奪われおしたった。

 時ずしお、曞蚘官は「ある蚌人の䟛述がその前の蚌人ず同じだった」ず述べるだけで枈たせおいる。

 オルレアン包囲戊の終結に぀いお、垂民党員があの毛織物商人ず同じ蚌蚀をしおいるが、圓の商人自身が、町が解攟されたずきの状況を十分に把握しおいたわけではなかった。
 同様に、ゎヌクヌル卿は短い宣誓の埌、デュノワず同じ蚌蚀をしおいる。デュノワの蚌蚀は、二人の蚌人に共通しおいるのが奇劙に思えるほど、際立っお個人的なこずを述べおいるにもかかわらず、である。[69]

 たた、ある皮の蚌蚀は、途䞭で打ち切られたように芋える。
 修道士パスケレルの蚌蚀は、パリの堎面で突然終わる。もしフス掟に宛おたラテン語の手玙の結びに圌の眲名がなければ、私たちは「善良な修道士はラ・ポルト・サントノレサントノレ門攻撃の盎埌にラ・ピュセルのもずから離れた」ず思い蟌んだだろう。
 これほど長い䞀連の質疑応答の䞭で、シュリヌからの出発や、ラニヌに始たりコンピ゚ヌニュで終わった遠埁に぀いお、パスケレルが䞀蚀も語らなかったなどずいうこずが、果たしおあり埗るだろうか。[70]

 したがっお、私たちはこう結論づける。この膚倧な蚌蚀を研究するにあたり、倧きな刀断力を働かせなければならない、それがゞャンヌの生涯のあらゆる状況を解明しおくれるず期埅しおはならない。

0.13 その他の文曞裁刀蚘録から埗られない有益な情報源

 第四に。ラ・ピュセルの歎史のいく぀かの点に぀いおは、圓時の䌚蚈垳簿、手玙、蚌曞、その他の真正の文曞からのみ、正確な情報を埗るこずができる。

 䟋えば、シメオン・リュスSiméon Luceによっお出版された蚘録、リヌル城ゞャンヌの父が旧領䞻の姪から借りた城の賃貞借契玄曞は、ゞャンヌが育った環境に぀いお教えおくれる。[71]
 ふた぀の裁刀蚘録も幎代蚘も、1412幎から1425幎にかけおドンレミ村で起きおいた悲惚な状況を明らかにしおくれなかった。

 たた、オルレアンに保管されおいる芁塞の䌚蚈蚘録[72]およびむングランド行政圓局の文曞[73]は、この郜垂の防衛偎ず攻囲偎、双方の兵力をおおよそ掚定するこずができる。
 これらの文曞は、幎代蚘䜜家ず埩暩裁刀の蚌人たちの蚘述のあやたりを蚂正するこずを可胜にしおくれた。

 17䞖玀にロゞ゚が耇写したランスの公文曞通の曞簡からは、トロワ、シャロン、そしおランスがいかにしお囜王に降䌏したか、その経緯を知るこずができる。
 これらの曞簡は、ゞャン・シャルティ゚による「諞郜垂の開城」に関する蚘述がいかに䞍正確か、たた、この件に関するデュノワの蚌蚀がいかに䞍十分であるかがわかる。蚌人デュノワの性栌を考慮すればなおさらそうだ。[74]

 〜件の蚘録が、゚ヌヌ川ずオワヌズ川における䞍幞な遠埁ゞャンヌが捕らわれたコンピ゚ヌニュ包囲戊の䞍明瞭な郚分に぀いお、かすかな光を投げかけおいる。

 ロビダヌル・ド・ボヌルペヌル氏M. Robillard de BeaurepaireがセヌヌアンフェリュヌルSeine-Inférieureの公文曞通で発芋したルヌアン聖堂参事䌚の登蚘簿、参事䌚員聖職者たちの遺蚀曞、その他諞々の文曞は、ふた぀の裁刀におけるいく぀かの誀りを蚂正するのに圹立った。[75]



 これらの文曞以倖にも、歎史家にずっおすべおが貎重な文曞の断片かけらを、私はどれほど倚く列挙できるだろうか

 これは、虚停たたは改ざんされた蚘録——䟋えばギヌ・ド・カむむGuy de Caillyの貎族の特蚱状のような——を譊戒すべき理由のひず぀である。[76]

 これらの史料の兞拠根拠を怜蚌する䜜業は急ぎ足だったが、本質的なこずは䜕ひず぀抜け萜ちおいないず思う。

 ようするに、ラ・ピュセルは生きおいた時代でさえ、《《寓話を通じお》》以倖にほずんど知られおいなかったのである。
 ゞャンヌに関する最叀の幎代蚘䜜家たちは、批評的な粟神をたったく持っおいない。圌らは、ゞャンヌにた぀わる䌝説を事実ずしお語っおいるのだ。

 最も信頌できる文曞は、ルヌアンの凊刑裁刀、公的な䌚蚈蚘録、いく぀かの曞簡、公的・私的な諞々の蚌曞である。埩暩裁刀もどんな方法で、どんな理由で行われたかを垞に念頭に眮くならば、歎史家にずっお有甚な資料である。

 こういう蚘録によっお、私たちはゞャンヌ・ダルクの生涯ずその性栌に぀いお、かなり正確な知識を埗るこずができる。

0.14 その他の文曞ゞャンヌが芋た幻芖ものを怜蚌する手がかり

 これらすべおの兞拠を研究した結果、埗られた顕著な事実は「ゞャンヌは聖人だった」ずいうこずである。

 圌女は、15䞖玀の聖なる属性をすべお備えた聖人だった。
 圌女は、幻芖を䜓隓したが、それは芋せかけでも捏造でもなかった。
 圌女は、自分に語りかける「声」が、人間の唇から生じたものではないず本気で信じおいた。その声はたいおい、圌女に明瞭に語りかけ、圌女が理解できる蚀葉で話しおいた。

 圌女は、森の䞭や鐘が鳎っおいるずきにその声を最もよく聞いた。
 圌女が目撃したその姿は、たばゆい背景に散る火花のような、無数の小さな圢のようなものだったずいう。

 その䞀方で、別の圢の幻芖を芋おいたこずも間違いない。圌女は、「聖ミカ゚ルをプリュドムprud'homme぀たり埳高き勇者の姿で、たた聖カタリナず聖マルガリヌタを王冠を戎いた姿で芋た」ずみずから語っおいるのだから。
 ゞャンヌは、圌らが自分に挚拶するのを目撃し、ゞャンヌは圌らの足にキスしお圌らの甘い銙りを吞い蟌んだ。

 これらを「聎芚、芖芚、觊芚、嗅芚の幻芚」ず蚀わずしお、䜕ずいえばよい

 圌女の感芚の䞭で最も圱響が匷かったのは聎芚だ。
 圌女は「私の『声』が珟れる」ず衚珟し、時にはそれを「私の評議䌚」ず呌んだ。呚囲が隒がしくなければ、圌女にはその「声」がはっきりず聞こえた。
 圌女はおおむねその「声」に埓うが、時には抵抗するこずもあった。

 これらの幻芚が、本人が䞻匵するほど明瞭なものだったかは怪しい。
 なぜなら、ゞャンヌはそれができなかったか、あるいはしたくなかったのか、ルヌアンの裁刀官たちに察しお、それらに぀いお明確で正確な説明を䞀床もしなかったからだ。
 圌女が最も詳现に説明した倩䜿は「王冠を持っおきた倩䜿」だったが、埌に圌女は「その倩䜿は想像の䞭で芋たにすぎない」ず告癜しおいる。

 ゞャンヌがこうしたトランス状態に陥るようになったのは䜕歳ごろからだろうか 正確な時期は分からないが、おそらく子䟛時代の終わりだろう。もっずも、ゞャン・ドヌロンによれば、圌女は「子䟛の状態」から完党に脱华するこずはなかった。[77]

 玔粋に歎史的な文曞に基づいお医孊的蚺断を䞋すこずは垞に危険を䌎うものだが、䜕人かの科孊者が、この少女に芖芚ず聎芚の誀認を匕き起こした病理孊的条件状態を定矩しようず詊みおいる。[78]

 近幎の粟神医孊の急速な発展を鑑かんがみ、この病理孊の分野が珟圚到達した段階を熟知し、自らもたた重芁な貢献をしおいる著名な科孊者に意芋を求めた。
 私は゜ルボンヌ倧孊教授のゞョルゞュ・デュマ博士に、ゞャンヌの症䟋に぀いお科孊が遡及的蚺断を䞋すために十分な資料が存圚するかどうかを尋ねた。
 博士は私の問いに察し、䞀通の手玙で回答を寄せた。それは本曞䞋巻の付録ずしお掲茉しおいる。[79]

⚠䞋巻『付録G・デュマ博士による医孊的な所芋』参照。

 私には病理的なテヌマを扱う資栌がないが、ゞャンヌ・ダルクの幻芚に぀いお、文献の研究から瀺唆された考察をするのは、筆者の職分文筆家に属しおいる。この考察は、限りなく重倧な意矩を持぀。
 私は、それを本曞の目的ず性質によっお芏定される範囲内に留めるよう、现心の泚意を払う぀もりだ。

0.15 その他の文曞各時代の幻芖者たちの比范

 神聖な䜿呜を蚗されたず信じおいる幻芖者たちは、ある特城によっお、他の霊感を受けた人々ずは区別される。

 この皮の神秘家たちを研究し、それぞれを比范しおみるず、非垞にこたかな点にたで類䌌性が芋぀かる。圌らの蚀動の䞭には、完党に䞀臎するのものさえある。

 実際、幻芖者たちの行動を支配する信念がいかに匷力であるかを認識するに぀れ、同じ神秘的な存圚によっお突き動かされた人間ずいう機械マシヌンが、避けられない䞀埋性をもっおその機胜を果たすのを芋お、私たちは驚きを犁じ埗ない。

 ゞャンヌは、こうした宗教的な人々のグルヌプに属しおいる。

 この点に関しお、圌女をシ゚ナの聖カタリナ[80]、コルビヌの聖コレット[81]、ケルアンナの蟲民むノ・ニコラゞック[82]、革呜教䌚の霊感を受けた女性シュれット・ラブルヌス[83]、その他倚くの預蚀者幻芖者や巫女女幻芖者たちず比范しおみるこずは興味深い。これらの人々は皆、互いに䞀族のような類䌌性を備えおいる。

 䞉人の幻芖者が、特にゞャンヌず密接な関係にある。

 時代が最も叀いのは、ゞャン二䞖シャルル䞃䞖の曜祖父に語る䜿呜を垯びおいたシャンパヌニュ地方のノァノァスヌルvavasourで、この聖なる男に぀いおは、本曞の䞭で十分に述べおいる。

 二人目はルむ14䞖に語る䜿呜を垯びおいたサロン地方の蹄鉄工で、䞉人目はルむ18䞖に語る䜿呜を垯びおいたマルタンずいう名のガラルドンGallardon地方の蟲倫である。

 幻圱を芋お、それぞれの王にしるしを瀺したこの蹄鉄工ず蟲倫に関する論考は、本曞の䞋巻・巻末付録に収めおいる。[84]

⚠『付録近䞖フランスの預蚀者ルむ14䞖に謁芋したサロンの蹄鉄工フラン゜ワ・ミシェル』および『付録近代フランスの預蚀者ルむ18䞖に謁芋したガラルドンの蟲倫むニャス・トマ・マルタン』参照。

 性別の違いはあるものの、ゞャンヌ・ダルクずこれら幻芖者人の間には、非垞に密接か぀重倧な類䌌点がある。それは、ゞャンヌず圌女の仲間の幻芖者たちの本質そのものに内圚しおいる。䞀芋するず、埌者幻芖者人ずゞャンヌを倧きく隔おおいるように芋える盞違点は、矎孊的、瀟䌚的、歎史的なものであり、ひいおは倖的で偶発的なものにすぎない。

 もちろん、圌ら人ずゞャンヌの間には、倖芋ず運呜においお際立った察照性が存圚する。

 ゞャンヌがどんな時も発揮しおいた魅力は、圌ら人にはたったくなかった。そしお、圌ら人が惚めに倱敗した䞀方で、ゞャンヌが力を増し、䌝説の䞭で倧茪の花を咲かせたこずは事実である。

 しかし、同じ皮グルヌプに属する最も尊い個䜓ず、最も哀れな「なり損ない」の双方においお、起源の同䞀性を蚌明する共通の特城を認識するこずは、科孊者の矩務である。

0.16 その他の文曞思想家に歪曲されたゞャンヌ像

 珟代19䞖玀〜20䞖玀初頭の自由思想家たちは、その倧半が超越䞻矩に染たりきっおいるがゆえに、圌らはゞャンヌの䞭に、この皮の女預蚀者の行為を決定づける自動性無意識の反応や、絶え間ない幻芚の圱響を認めないばかりか、宗教的粟神の瀺唆さえも認めようずしない。

⚠超越䞻矩transcendentalism物質䞻矩や合理䞻矩に察抗する、粟神性を重芖する考え方。目に芋える物質的な珟実䞖界よりも、それを超越した霊的・粟神的な䞖界を重芖する。論理的な思考や科孊的なデヌタよりも、個人の内なる声や魂のひらめきを倧切にする。

⚠補足自由思想家たちは「自分は合理的だ」ず蚀い぀぀も、心のどこかで「ゞャンヌは特別な䜿呜を持った英雄だ」「圌女の背埌には䜕か厇高な粟神がある」ずいう超絶䞻矩的神秘䞻矩的な芋方を捚おきれない。本曞の著者アナトヌル・フランスはもっず培底した珟実䞻矩・科孊的芖点で、ゞャンヌを「神聖な存圚」ずしお芋るのではなく、「幻芚や心理的な自動症無意識の反応ずいう医孊的・心理孊的な珟象」ずしお冷培に分析しようず詊みおいる。

 ゞャンヌが聖性ず敬虔さによっお成し遂げたこずを、圌らは理知的な熱狂によっお成し遂げられたず芋なしおいる。

 こうした傟向は、優秀で博孊なキシュラQuicheratにも顕著に珟れおいる。圌は、ラ・ピュセルの敬虔さの䞭に、たったく無意識のうちに折衷䞻矩的な哲孊を玛れ蟌たせおいる。

⚠ゞュヌル・キシュラJules Quicheratゞャンヌ・ダルク研究で知られる歎史家、考叀孊者。

⚠折衷䞻矩的哲孊eclectic philosophy過去のさたざたな哲孊唯物論、芳念論、キリスト教神孊などの察立を避け、それぞれの良い郚分を組み合わせお調和させようずする、19䞖玀に隆盛を誇った孊説。

⚠補足著者アナトヌル・フランスは、䞭䞖の玔粋な信仰心・宗教芳の䞭で生きおいた本来のゞャンヌに、近代の道埳や哲孊を混ぜ合わせお「愛囜的な英雄」ずしお再定矩したキシュラを批刀しおいる。

 この点には匊害がないわけではない。

 そのために自由思想の歎史家たちは、ゞャンヌの知的胜力を滑皜なほど誇匵し、圌女に軍事的才胜を垰するずいう荒唐無皜な挙に出おしたう。その䞊、15䞖玀の玠朎な奇跡良い意味でのを、䞀皮の理工孊ポリテクニック的な珟象にすり替えおしたった。

 珟代のカトリックの歎史家たちは、ラ・ピュセルを聖女に祭り䞊げる際、科孊者よりも圌らの方がはるかに自然の理こずわりず真実に近いのである。

 残念ながら、トレント公䌚議16䞖玀半ば以来、教䌚の聖性の抂念は鈍化し、正統掟の歎史家たちは時代ずずもに移り倉わるカトリック教䌚の倉遷を研究しようずはしない。
 それゆえに、圌らの手にかかるず、ゞャンヌは聖人ぶった偏屈な人物になっおしたう。

 あたりにそうであるため、あらゆるゞャンヌ・ダルク像の䞭で最も奇劙に歪曲されたものを探そうずするず、

  • キリスト教囜フランスの奇跡的な守護者

  • 将兵たちの守護聖人

  • サン・シヌル士官孊校の暡範生埒

  • ロマンあふれる女性叞祭ドルむド

  • 共和政䞋の囜民衛兵の霊感ある女性兵士

  • 共和囜の愛囜的な砲術家

 もし、む゚ズス䌚の神父が「教皇至䞊䞻矩のゞャンヌ・ダルク」を創䜜しおいなかったら、これらの䞭からもっずも歪曲されたゞャンヌ像を遞ぶのにどれほど窮したこずであろうか。[85]

⚠教皇至䞊䞻矩ultramontane教皇が宗教のみならず政治䞊も絶察的暩嚁を有するずいう䞻匵。察立抂念は、ガリカニスムガリア䞻矩。

⚠補足シャルル䞃䞖の功瞟のひず぀「ブヌルゞュの囜璜尚曞」はガリカニスムガリア䞻矩を確立した。他ならぬゞャンヌが教皇至䞊䞻矩なわけないだろうがずいう皮肉。

0.17 その他の文曞ゞャンヌの奇跡は本圓に䞍可胜だったか

 ゞャンヌは誠実だったかずいう点に関しお、私は䜕の疑いも持っおいない。ゞャンヌが嘘぀きだったず疑うこずはできない、圌女は自分の䜿呜を「声」から授かったず固く信じおいた。

 しかし、ゞャンヌが無意識のうちに誘導されおいたかずいう点に぀いおは、芋極めるのがより困難である。

 シノンに到着する前のゞャンヌに぀いお、刀明しおいるこずは極めお少ない。
 ゞャンヌはある皮の圱響を受けおいたず考えるのが劥圓だろう、他の時代のあらゆる幻芖者がそうであるように、衚舞台に姿を芋せない正䜓䞍明の指導者が圌らを導いおいる。ゞャンヌの堎合もそうであったに違いない。

 ノォヌクルヌルで、ゞャンヌは「王倪子が王囜を神に委蚗されお封土ずしお領有しおいるen commende」ず語っおいるのを目撃されおいる。[86] こういう特殊な甚語・思想を村の人々から孊んだはずがない。ゞャンヌは、自身が創䜜したのではない、誰かがゞャンヌのために捏造した予蚀を口にしおいた。

⚠委蚗en commende教䌚甚語で「修道院の管理を還俗者に委蚗する」こずを意味する。䞀般人、特にゞャンヌのような無孊な少女が、こういった専門甚語を口にするこずに違和感がある。著者アナトヌル・フランスは、ゞャンヌに特殊な思想や専門甚語を教え蟌んだ教䌚関係者がいるず掚枬しおいる。

 ゞャンヌは、王倪子シャルルの倧矩に忠実で、戊争の終結を䜕よりも願っおいた聖職者たちず芪しく亀流しおいたのだろう。修道院は焌かれ、教䌚は略奪され、瀌拝は途絶えおいたのだから。[87]

 平和を切望しおいた信心深い人々は、トロワ条玄が平和を確立できなかったのを芋お、むングランド人の远攟に望みを蚗した。

 そしお、この若き蟲民の嚘に぀いお驚くべき、たた類いたれな点――聖職者や修道士を連想させる点――は、圌女がみずから銬に乗っお戊堎ぞ赎き、戊うよう召呜䜿呜を受けたを感じたこずではない。
 むしろ、䞡囜の貎族も、䞡党の兵士も、戊争がい぀か終わるこずなど予期もせず、望んでもいなかった時期に、「倧きな憐れみ」をもっお、王の勝利ず戎冠によっお戊争終結が間近だず告げたこずにある。

 ゞャンヌが倩䜿から蚗されたず信じ、みずからの生涯を捧げた䜿呜は、間違いなく䞊倖れお驚異的なものだっただろう。だが、前䟋のない行いではなかった。男女を問わず聖人たちが、人類の営みの䞭で達成しようずしおきたこずず䜕ら倉わりないのだ。補足ゞャンヌがやったこずは、その他の聖人たちず倧差ない

 ゞャンヌ・ダルクが登堎したのは、カトリックの偉倧な時代の衰退期だった。圓時の聖人・聖性ずは、䞀般的にあらゆる皮類の奇行や狂気、幻想を䌎っおおり、そういう垞軌を逞した振る舞いが䟝然ずしお人の心を支配する力を発揮しおいた。

 自分自身の心の衝動ず、粟神《マむンド》の恩寵に埓っお行動するずき、圌女はいかなる奇跡を起こすこずができようか

 13䞖玀から15䞖玀にかけお、神のしもべたちは「驚くべき仕事奇跡」を成し遂げおいる。

 聖ドミニコは聖なる憀怒に駆られお火ず剣で異端を根絶した。アッシゞの聖フランチェスコはさしあたり「枅貧」を瀟䌚制床ずしお確立した。パドノァの聖アントニりスは貎族や叞教の匷欲ず残虐さから商人や職人を守った。聖カトリヌヌは、教皇をロヌマに連れ戻した。

 それゆえに、聖なるひずりの乙女が、神の助けを埗お、䞍幞なフランス王囜に、神自身に定められた王暩を再興し、聖なる民を救枈するために死の淵から救い出された新たなペアシュ王を、戎冠匏ぞず導くこずは、果たしお䞍可胜なこずだったのか

⚠ペアシュ王Joash旧玄聖曞『列王蚘』に登堎するむスラ゚ル王。ヘブラむ語で「ダハりェが䞎える」の意。

0.18 その他の文曞珟代の科孊ず䞭䞖の宗教は同じ

 1428幎圓時、信心深いフランスの人々はゞャンヌの䜿呜をこう考えおいた。
 圌女はみずからを「神の啓瀺を受けた敬虔な乙女」ず衚珟した。
 圓時はその䞻匵に、信じがたい矛盟などひず぀もなかった。

 ゞャンヌが「私の䞻である聖ミカ゚ルから戊争に関する啓瀺を受けた」ず告げたずき、アルマニャック掟の兵士やオルレアンの垂民に勇気をもたらした。
 それは、1871幎の冬補足参照にロワヌル川を行軍しおいたフランス軍に、無煙火薬や改良型の倧砲を送り蟌んだ共和掟の技垫がもたらした勇気に匹敵する倧きな自信である。

⚠1871幎の冬前幎から続く普仏戊争はナポレオン䞉䞖の廃䜍で決着が぀くかず思われたが、フランスが敗北による領土割譲を拒吊したため、パリが包囲されおしたう。1月、パリ砲撃のさなか、プロむセン王はノェルサむナ宮殿でドむツ皇垝に即䜍。1月28日、䞡囜は䌑戊協定に眲名。

⚠補足なお、パリ垂民は敗戊・講和を認めずに蜂起し、革呜自治政府パリ・コミュヌンを暹立したが、ノェルサむナ政府軍に鎮圧された〜月。1871幎のフランスは、普仏戊争ずパリ反乱を経お第䞉共和政ぞず移行する激動の幎だった。

 1871幎圓時の人々が「科孊」に期埅したこずず、1428幎圓時の人々が「宗教」に期埅したこずは同じものだ。
 それゆえ、オルレアンの私生児がゞャンヌを起甚したのは、ガンベッタがフレシネの専門知識を頌りにしたのず同様に、極めお自然なこずだった。

⚠レオン・ガンベッタLéon Gambetta普仏戊争圓時、気球でパリから脱出し、ロワヌル川流域で臚時政府を暹立。王政・垝政・共和政が次々ず入れ替わり混沌ずしおいたフランスが穏健掟共和政に進む原動力ずなった。

⚠シャルル・ド・フレシネCharles de Freycinetガンベッタに芋蟌たれお察ドむツ軍郚隊を次々ず送り蟌んだ科孊者。第䞉共和制で銖盞を期務めた䞊、アカデミヌフランセヌズ䌚員に遞出されおいる。

0.19 ゞャンヌの起甚法

 フランス陣営がゞャンヌを非垞に巧みに起甚した点に぀いお、これたで十分に研究されおこなかった。

 ポワティ゚の聖職者たちは、ゞャンヌの信仰ず道埳に぀いお長々ず審問をおこなう䞀方で、圌女を䞖に知らしめる圹割を果たした。

 これらのポワティ゚の聖職者たちは、䞖俗に疎い修道士などではない。正統な囜王の議䌚を構成する人々であり、倧孊を远攟されたメンバヌであり、政治に深く関わり、革呜によっお立堎を危うくし、財産を奪われお没萜し、所領を取り戻したいず匷く願っおいた。

 圌らを統率しおいたのは、囜王評議䌚の䞭で最も怜悧な人物、ランス倧叞教公にしお囜王の宰盞倧法官ルニョヌ・ド・シャルトルだ。圌らはその儀匏匵った慎重な審問によっお、驚きに満ちた人々の奜奇心、興味、そしお垌望をゞャンヌに匕き寄せた。[88]

 オルレアン垂の防衛胜力は、城壁、塹壕、倧砲、兵員、資金で成り立っおいた。他方、むングランド軍はこの町を包囲するこずも攻撃しお占領するこずもできずにいた。圌らの堡塁砊の間を、茞送隊や郚隊が通り抜けおいた。

 ゞャンヌは匷力な揎軍ずずもに町に入った。
 圌女は牛、矊、豚の矀れを連れおきた。
 町の人々は、圌女を䞻神の䜿いであるず信じた。

 その䞀方で、包囲偎の兵士ず資金は乏しくなっおいた。
 圌らは銬をすべお倱っおいた。新たな攻撃を仕掛けるには皋遠く、自分たちの砊を長く維持するこずはできそうもない。

 月末の時点で、オルレアンの前にいたむングランド人は4000人、あるいはそれ以䞋だった。䌝わっおいる話によるず、兵士たちは日々脱走し、脱走兵の䞀団が村々を略奪しお回っおいたから。

 察照的に、この町オルレアンは6000人の歊装兵ず匓兵、3000人を超える町民の守備隊に守られおいた。

 サン・ルヌでは英軍400人に察し仏軍1500人、レ・トゥヌレルでは英軍400500人に察し仏軍5000人がいた。オルレアンからの退华によっお、ゎドンむングランド人に察する蔑称はゞャルゞョヌ、ムン、ボヌゞャンシヌの小芏暡な守備隊を運呜のもずに芋捚おた。[89]

 パテヌの戊いは、圓時のむングランド軍の状態を物語っおいる。それは戊いずいうより虐殺に等しく、ゞャンヌが到着したずきには勝者の残酷さを嘆くこずしかできなかった。

 それにもかかわらず、囜王は善良な町々に宛おた手玙の䞭で、勝利の䞀端をゞャンヌの功瞟ずした。明らかに、王宀評議䌚は、自軍の「聖なる乙女」を称揚するこずに重きを眮いおいた。

 しかし、ゞャンヌ起甚をすすめた者たち、すなわちルニョヌ・ド・シャルトル、ロベヌル・ル・マ゜ン、ゞェラヌル・マシェずいった面々は本心でどう思っおいたのだろうか

 圌らは確実に、ゞャンヌを包みこんでいた幻想が「どこから来たのか」に぀いお論じる立堎ではなかった。

 たた、教䌚関係者の䞭にも無神論者がいたずはいえ、倧倚数の人々にずっお「倧倩䜿ミカ゚ルの出珟」は驚きではなかった。圓時は、奇跡ほど自然圓たり前に思えるものはなかったのである。

 しかし、奇跡ずは間近で芳察するほど消えおしたうものだ。
 そしお、圌らの目の前に、そのラ・ピュセルがいた。

 圌らは、ゞャンヌがいかに善良で聖なる存圚であっおも、超自然的な力を行䜿しおいないこずに明らかに気づいおいた。

0.20 ゞャンヌの起甚法

 歊装兵や䞀般の民衆は、ゞャンヌを神の乙女、王囜の救枈のために倩から遣わされた倩䜿ずしお歓迎した。
 䞀方で、善良な貎族たちは、ゞャンヌが呌び起こした信頌の感情を利甚するこずだけを考えおいた。圌ら自身は、ゞャンヌが人々にもたらした信頌の感情をほずんど共有しおいなかった。

 ゞャンヌがこの䞊なく無知であるこずを芋抜き、おそらく実際の圌女よりも知胜が䜎いず芋なしおいた圌らは、圌女を思い通りに操る぀もりだった。

 だが、圌らは、それが必ずしも容易でないこずにすぐ気づいたに違いない。ゞャンヌは聖人であり、聖人ずは埡しがたいものだからだ。

 王宀評議䌚ずラ・ピュセルの本圓の関係はどうだったのだろうか 私たちにはわからない。それは氞遠に解決しない謎である。

 ルヌアンの裁刀官たちは、ゞャンヌが聖ミカ゚ルを称する䜕者かから手玙を受け取っおいるず確信しおいた。[90]

 ゞャンヌの単玔さが、時に利甚されたこずもあっただろう。

 ランスぞの進軍が、フランスで圌女に提案されたのではないず信じるに足る理由がある。だが、王囜の宰盞でありランス倧叞教であるルニョヌ・ド・シャルトルが、祝犏されたサンレミの叞教座ぞの埩垰ずその恩恵職録を享受するこずを切望しおいたこずは間違いない。

 戎冠匏の遠埁䞀連の行軍は、実のずころ、軍事力を背景ずした亀枉にすぎない。その目的は、善良な町々に、平和を奜む聖なる王の姿を瀺すこずにあった。もし戊うこずが目的だったなら、この軍事䜜戊はパリかノルマンディヌに向けられおいたはずだ。

0.21 ゞャンヌの起甚法軍事的才胜の実態

 1456幎の尋問埩暩裁刀では、〜人の蚌人——隊長、行政官、聖職者、そしお誠実な未亡人ひずり——が「ゞャンヌは戊いの技術に粟通しおいた」ず蚌蚀した。圌らは、圌女が誰よりも巧みに銬を操り、槍ランスを振るったず口をそろえた。
 たた、ある請願官maître des requêtesは、圌女が鞍の䞊に座っおいられる時間の長さで軍隊を驚かせたず述べおいる。

 ゞャンヌにこのような資質が備わっおいたこずを吊定するこずはできない。たた、トロワの前で倜間の軍事行動をおこなった際に、デュノワが圌女の勀勉さず熱意を賞賛したこずに぀いおも異論はない。[91]

 だが、この少女が軍の線成ず指揮に長けおおり、ずりわけ倧砲の扱いに熟緎しおいたずいう意芋に぀いおは、にわかには信じがたい。それを確蚌するには、決しお理性的な人物ずはいえないあの哀れなアラン゜ン公よりも信頌できる人物の蚌蚀が必芁だろう。[92]

 埩暩裁刀で述べられた蚌蚀は、ゞャンヌに察する奇劙な矎化を十分に説明しおいる。

 ゞャンヌの軍事的才胜は神に由来するず理解されおいた。それゆえに、軍事的才胜が個人の資質ずしお過剰に賞賛されすぎる恐れはなく、いくぶん無分別に神がかり的に耒めそやされるようになった。

 結局のずころ、アラン゜ン公がゞャンヌを「優れた砲術家」ず衚珟したのは、極めお控えめな衚珟だった。

 早くも1429幎には、シャルル䞃䞖偎の人文䞻矩者ヒュヌマニストがキケロ颚荘重兞雅なの蚀葉を借りお、「圌女の軍事的栄光はヘクトル、アレクサンダヌ倧王、ハンニバル、カ゚サルに匹敵し、あるいは凌駕する」ずたで断蚀しおいる。

「トロむアよ、ヘクトヌルを回想しお喜ぶなかれ。
 ギリシャよ、アレクサンダヌに歓喜するなかれ。
 アフリカよ、ハンニバルに歓喜するなかれ。
 むタリアよ、カ゚サルずすべおのロヌマの将軍たちに誇るなかれ。

 ガリアフランスは、叀より倚くの英雄を有しおいるが、
 この䞀人の「乙女」あるのみで満足しおいる。
 もし、あえお自らを誇り、歊勲の誉れを比べるこずが蚱されるなら、
 他囜に勝るず称するであろう」[93]



 実際のゞャンヌは、぀ねに祈りを捧げ、぀ねに恍惚状態だった。敵を芳察するこずもなければ、道地理を知るこずもなく、亀戊する兵士の数にも泚意を払わず、城壁の高さも塹壕の幅も考慮に入れなかった。

 今日でさえ、将校たちがラ・ピュセルの軍事戊術に぀いお議論しおいるのを耳にするこずがある。[94]

 ゞャンヌの戊術は単玔だ。それは「男たちが神を冒涜したり、ふしだらな女たちず亀わったりするのを犁じる」こずに尜きる。
 圌女は、男たちが眪を犯せば滅がされるが、恩寵の状態で戊えば勝利を埗るず信じおいた。危険を恐れなかったずいう点を陀き、それがゞャンヌの軍事知識のすべおだ。[95]

 圌女は、誇りず優しさを䜵せ持぀勇気を瀺した。男たちよりも勇敢で、䞍屈で、気高く、その点では男たちを導くのにふさわしかった。

 そしお、これほどの英雄的粟神が、これほどの無邪気さず結び぀いおいるこずは賞賛に倀する、皀有なこずではないだろうか。



 実際、䞀郚の指導者、ずりわけ王族の諞䟯たちは、ゞャンヌ以䞊に倚くを知っおいたわけではなかった。

 圓時の兵法は、぀たるずころ銬術に集玄されおいた。戊列を率いおの合流進軍、兵力の集䞭、組織的に蚈画された戊圹、倧きな成果を目暙ずする長期的な尜力ずいった抂念は、たったく知られおいなかった。

 軍事戊術ずは、蟲民の策略の寄せ集めず、階士道の芏則にすぎなかった。

 略奪者や隊長、傭兵たちは皆、その道の駆け匕きを心埗おはいたが、敵も味方も匁えず、圌らの唯䞀の望みは略奪だった。
 貎族たちは名誉や称賛を重んじおいるように芋えるが、実際のずころ、圌らも自分の利益しか考えおいなかった。

 アラン・シャルティ゚は圌らに぀いおこう語っおいる。

「圌らは『歊噚を取れ』ず叫ぶが、金のために戊っおいる」[96]

0.22 ゞャンヌの起甚法

 戊争は人生ず同じくらい長く続いたため、熟慮の䞊で行われた。
 重装兵、階兵や歩兵、匓兵、クロスボり兵、そしおむングランド人やブルゎヌニュ掟ず同様にアルマニャック掟も、さしたる熱意を持っお戊っおいたわけではなかった。

 もちろん圌らは勇敢だったが、甚心深くもあり、それを認めるこずを恥じおはいなかった。

 サンドニの唱導者にしおフランス王の幎代蚘を線纂したゞャン・シャルティ゚は、ある日、フランス軍がラニヌ近郊でむングランド軍ず遭遇したずきのこずを次のように語っおいる。

「そこでの戊いは激しく熟烈なもので、フランス軍の数はむングランド軍よりもわずかに䞊回る皋床にすぎなかった」[97]

 こういう無知な人々は、人間の実力は誰もが互角だず考え、䞀察䞀で戊うこずの危うさを認識しおいた。

 圌ら無知な人々の粟神は、革呜期や垝囜期の人々のようにプルタルコス叀代ロヌマ時代のギリシア人哲孊者で著曞『英雄䌝』で知られるを糧ずしおいたわけではなかった。

 圌らを錓舞するために、ベルトラン・バレヌルの『カルマニョヌル』やマリヌゞョれフ・シェニ゚の歌、ナポレオンの䞻力・倧陞軍グランアヌミヌの公報ずいった、囜家的な熱狂を生み出すプロバガンダ装眮もなかった。

⚠カルマニョヌルcarmagnolesもずもずはフランス革呜䞭に流行した有名な革呜歌ずダンスを指すが、革呜粟神を高めるために矎化・誇匵された熱狂的な戊況報告挔説をこう呌ぶようになった。

⚠ベルトラン・バレヌルBertrand BarÚre de Vieuzacフランス革呜期・恐怖政治の時代に掻動した公安委員䌚の委員。軍事的な報告を倧げさに食り立お、敗北や平凡な出来事さえも栄光の䌝説に䜜り倉え、英雄的な物語を倚数創䜜。ルむ16䞖の裁刀では「革呜の朚は王の血を泚ぐこずでしか成長できない」ず猶予なしで凊刑する颚朮を䜜るこずに寄䞎した。「囜王殺し」「共和囜の神話補造工堎」の異名を持぀。

⚠マリヌゞョれフ・シェニ゚Marie-Joseph Chénier革呜政府のお抱え詩人・劇䜜家ずしお、兵士の士気を高めるための愛囜歌や賛歌を倚数創䜜。

⚠倧陞軍グランアヌミヌGrande Arméeの公報垝政時代の䞻力軍。この軍の宣䌝機関こそがナポレオンの英雄譚を生み出した原点ずいえる

 圓時、なぜこれらの隊長や歊装兵たちは、他の堎所ではなく特定の堎所に行っお戊ったのか、ずいう疑問が浮かぶのは圓然のように思われる  。

 なぜなら、圌らは獲物人の財産・報酬を求め、それがある堎所に匕き寄せられおいたからだ。

⚠補足15䞖玀圓時、兵士の愛囜心を高めるプロバガンダの仕組みは存圚しない。囜や掟閥に関係なく、人々が戊う目的は「生蚈を立おる」ためだった。兵士の仕事堎は戊堎であり、仕事がたくさん芋蟌める堎所に矀がった。

0.23 ゞャンヌの起甚法むングランドが䞍幞な理由

 この絶え間ない戊争は、決しお悲惚なものではなかった。「ゞャンヌ・ダルクの䜿呜」ず称される期間、すなわちオルレアンからコンピ゚ヌニュに至るたでの間玄幎、フランス軍が倱った兵力はわずか数癟人にすぎなかった。

 むングランド軍の被害のほうがはるかに甚倧だった。なぜなら圌らは敗走する偎で、逃げる際には、身代金を取る䟡倀のない者を皆殺しにするのが勝者の慣習だったからだ。

 しかし、戊闘そのものが皀であり、したがっお敗北するこずも皀で、戊闘員の数もわずかだった。フランスにいたむングランド人は、ほんの䞀握りにすぎなかった。圌らは、ただ略奪のためにのみ戊っおいたず蚀っおもよい。

 戊争によっお苊しんだのは戊わない人々、぀たり垂民《ブルゞョア》、叞祭、蟲民たちだった。

 蟲民はひどい苊難に耐えおいた。それゆえ、ひずりの蟲民の嚘ゞャンヌが階士道党䜓を通じお類を芋ないほどの、戊いにおける䞍屈さ、粘り匷さ、熱意を瀺したこずは、十分に考えられるこずなのである。

 だが、むングランド人をフランスから远い出したのはゞャンヌではない。

 圌女はオルレアンの解攟に寄䞎したが、戎冠匏の遠埁によっおノルマンディヌ埁服のチャンスを倱わせ、その結果、フランスの最終的な救枈をかえっお遅らせおしたった。



 1428幎以降のむングランドの䞍幞は、簡単に説明が぀く。

 平和なギュむ゚ンヌで蟲業、商業、航海に埓事し、財政を敎えたおかげで、むングランドが繁栄させた地域の人たちは圌らに匷く愛着を抱いおいた。

 しかし、セヌヌ川やロワヌル川の流域では、事情がたったく異なっおいた。そこではむングランド人が根を䞋ろすこずは決しおなく、人数があたりにも少なかったため、その地を掌握するこずは぀いにできなかった。

 埁服地を自分のものにしようずするならば、その土地を耕やさなければならないが、むングランド人は芁塞や城に閉じこもり、必芁な耕䜜を十分にしなかった。
 圌らは埁服地を荒廃させたたた攟眮し、傭兵たちのなすがたたに委ね、その傭兵たちによっお土地は略奪され、食い぀ぶされた。

 圌らの駐留軍フランスに駐留するむングランド軍は驚くほど少人数で、みずから埁服したにもかかわらず、いわば囚われの身だった。

 むングランドは「長い牙を持っおいた貪欲さの比喩」が、その牙は「雄牛フランスの比喩」を飲み蟌むこずができなかったのだ。

 クレシヌおよびポワティ゚の戊いの埌、「むングランドはあたりにも小さく、フランスはあたりにも倧きい」ずいうこずがはっきりずわかった。

 むングランドはノェルヌむナの戊いで勝利したのを最埌に、内玛で匱䜓化した。人手も資金も䞍足し、さらにりェヌルズ、アむルランド、スコットランドずいった囜々を服埓させなければならない状況䞋、䞍安定な幌君ヘンリヌ六䞖の治䞖においお、むングランドがもっずうたくやれた可胜性があっただろうか

 1428幎圓時、フランスにいたむングランド人はほんの䞀握りに過ぎず、勢力を維持するためにブルゎヌニュ公の揎助を頌りにした。だが、そのブルゎヌニュ公もやがお圌らを芋捚おお、圌らにあらゆる灜厄が降りかかるこずを願うようになった。

0.24 ゞャンヌの起甚法英仏の盞容れない気質

 むングランド人は、新たな土地を攻略する手段も、すでに埁服した土地を平定する手段も、同様に欠いおいた。

 圌らの君䞻たちが芁求した䞻暩そのものの性栌や、圌らが䞻匵した暩利の本質は、䞡囜に共通する制床に基づいおいたため、被埁服者フランスの同意および忠実な協力ず芪愛の情がなければ、埁服地を組織化するこずは困難だった。

 トロワ条玄は、フランスをむングランドに埓属させたのではなく、䞀方の囜を他方の囜に結合合䜵による連合王囜させる取り決めだった。

 このような統合は、ロンドンに倧きな䞍安をもたらした。
 䞋院は、むングランドが新王囜英仏連合王囜の単なる孀立した䞀地域になるのではないかずいう懞念を隠さなかった。[98]

 そもそも、フランス偎はトロワ条玄に同意しなかった。䞡囜を結合させるのはもはや手遅れだった。この「しっぜのある茩ク゚むングランド人に察する蔑称」[99]ず戊い続けた長い幎月の間に、フランス人はむングランド人を憎むようになっおいたのだから。

 そしおおそらく、互いに盞容れないむングランド人の気質ずフランス人の気質がすでに存圚しおいたのだろう。

 アルマニャック掟をサラセン人むスラム教埒、異邊人䞊みに恐れおいたパリでさえ、ゎドンむングランドに察する蔑称[100]が埗られた支揎は、きわめお䞍本意なものだった。

 私たちを驚かせるのは、むングランド人がフランスから駆逐されたこずではなく、远い出すたでに時間がかかり過ぎおいるこずである。

 この遅れは、若い聖人ゞャンヌが解攟の仕事においお圹目を果たさなかったこずを意味するのだろうか 決しおそうではない。

 ゞャンヌはもっず気高くおもっず優れたもの、ようするに自己犠牲ずいう圹割を果たした。圌女は「至高の勇気」の暡範を瀺し、思いもよらぬ、魅力的な圢で英雄的資質ヒロむズムを発揮した。

 「王の倧矩」ずは実のずころ「囜民の倧矩」だったが、ゞャンヌは぀の方法でその倧矩に貢献した。圌女を幞運をもたらす存圚ず信じおいた味方の兵士たちに自信を䞎え、圌女を悪魔ず思い蟌んでいたむングランド人に恐怖を䞎えたこずである。

0.25 シャルル䞃䞖の政府は非難されるべきか

 優れた歎史家たちは、1428幎圓時の倧臣や隊長たちがラ・ピュセルを劄信・埓属しなかったこずを蚱せずにいる。

 だが、圌らの蚀い分は、圓時、アンブラン倧叞教がシャルル王に䞎えた意芋曞ずはたったく異なり、それどころか倧叞教は「人間の理性に基づく手段を攟棄しないように」ず王に勧めおいる。[101]

 領䞻や隊長たち、ずりわけ「老将ゎヌクヌルはゞャンヌを劬んでいた」ずいう話がしばしば繰り返されおきた。[102]

 しかし、そのような䞻匵は、人間の本性に察する無知をさらけ出しおいる。

 圌らの嫉劬の察象はゞャンヌではなく、圌らはお互いを劬み、足を匕っ匵り合っおいた。実のずころ、この感情こそが、圌らがラ・ピュセルに「戊争の指揮官」ずいう称号を䞎えるこずを容認させた嫉劬の正䜓である。[103]

⚠補足王に仕える貎族や隊長たちは、互いに盞手の䞋に立぀こずを嫌ったため、無害な第䞉者貎族でも隊長でもない蟲民の少女であるゞャンヌを担ぎ䞊げたに過ぎない。

 たた、ゞャンヌを砎滅させるために共謀したず蚀われる、囜王ずその隊長たちによる秘密の陰謀に぀いお、私はその蚌拠をひず぀も芋぀けられなかった。

 䞀郚の歎史家にはそれらが極めお明癜に芋えるようだが、私はどれほど努力しおもそれを発芋できない。

 䟍埓長のラ・トレモむナ卿は高朔な人栌など埮塵も持ち合わせず、倧法官のルニョヌ・ド・シャルトルは冷酷な人物だった。
 だが、私の泚意を匷く匕いたのは、ラ・トレモむナがアラン゜ン公から「この貎重な乙女を欲しい」ず求められたずきに譲らなかったこずず、ルニョヌ・ド・シャルトルが圌女を利甚するためずはいえ手元に匕き止めたこずである。[104]

 私は、ゞャンヌがシュリヌで囚われの身だったずいう意芋には賛同できない。

⚠補足シュリヌずは、最埌の戊いずなるコンピ゚ヌニュぞ旅立぀前にいた堎所。シャルル䞃䞖ずその家臣団がゞャンヌを劚害しおいたず考える人たちの䞻匵のこず。

 ブルゎヌニュ掟に捕らわれるたでゞャンヌを起甚しおいた倧法官ルニョヌ・ド・シャルトルのもずぞ赎いたずき、圌女はラッパ吹きを埓え、旗を掲げながら堂々ず旅立ったず私は考えおいる。

 聖なる少女ゞャンヌが去った埌、ルニョヌ・ド・シャルトルは聖痕を持぀矊飌いの少幎を起甚した。この事実は、王の敵ず戊っお叞教区を取り戻すために信心深い人物を利甚する手法を、圌が埌悔しおいなかったこずを蚌明しおいる。



 優れた歎史家のキシュラや高朔なアンリ・マルタンは、1428幎圓時の政府を非垞に厳しく非難しおいる。

 圌らに蚀わせれば、それは裏切りに満ちた政府だった。

 圌らがシャルル䞃䞖ず偎近たちに突き぀ける非難を䞀蚀で衚すなら、「圌ら自身埌䞖の人々ず同じようにラ・ピュセルを理解しおいなかった」ずいうこずに尜きる。

 しかし、そのような理解を埗るには400幎の歳月が必芁だ。

 ゞャンヌ・ダルクに関しお、キシュラやアンリ・マルタンのような啓発された芋解に到達するためには、300幎にわたる絶察王政、宗教改革、フランス革呜、共和制ず垝制の争い、そしお1848幎の感傷的な新カトリック䞻矩、それらすべおが必芁だったのである。

⚠1848幎の感傷的な新カトリック䞻矩le néo-catholicisme sentimental de 48二月革呜の埌、厳栌なカトリック信仰ず情緒的なロマン䞻矩を融合させようずした思想的・宗教的な朮流が生たれた。著者アナトヌル・フランスは、人々がゞャンヌを「民衆の魂を䜓珟する神秘的・愛囜的な英雄」ずしお情緒的・ロマン䞻矩的なフィルタヌを通しお神栌化したこずを、皮肉を蟌めお「感傷的」ず蚀っおいる。

 ロマンチストな歎史家も、芖野の広い叀文曞孊者も、これらすべおの茝かしいプリズム歎史を通り過ぎおゆく無数の茝きずそれに続くフィルタヌを通しおゞャンヌ・ダルクの姿を芋おいる。

 哀れな王倪子シャルル、ラ・トレモむナ、ルニョヌ・ド・シャルトル、トレヌノ卿、老将ゎヌクヌルなど圓時の人たちに察しお、数癟幎かけお圢䜜られたゞャンヌ像を芋るように芁求するのは酷なこずだ。圌ら圓時の関係者にあたりにも倚くを求めすぎおいる。[105]

0.26 シャルル䞃䞖の政府は非難されるべきか

 しかしながら、次の事実は䟝然ずしお残る。これほどたでにゞャンヌを利甚しおおきながら、囜王評議䌚は圌女を救うために䜕もしなかった。

 ゞャンヌを芋捚おたずいう䞍名誉は、評議䌚党䜓が、そしお評議䌚だけに責任があるのだろうか
 本圓に介入するべきだったのは誰か
 それはどのような方法で
 シャルル王は䜕をすべきだったのか
 身代金を申し出るべきだったのか

 いかなる察䟡を払おうずも、ゞャンヌの身柄がシャルル王に匕き枡されるこずはなかっただろう。
 歊力で奪還するなどずいうのは、単なる子䟛の倢物語にすぎない。仮にフランス軍がルヌアンに入れたずしおも、そこにゞャンヌの姿はなかったはずだ。りォリック䌯は虜囚を安党な堎所に移送するか、あるいは川に沈めお凊刑する時間がいくらでもあったのだから。身代金も歊噚も圹に立たなかっただろう。



 しかし、だからずいっお手をこたねいおいる理由にはならない。裁刀の執行者たちに働きかけるこずはできたはずだ。

 疑いなく、圌ら裁刀の執行者はみなゎドンむングランド人の偎に぀いおいた。あのカボシュ掟の䜿埒ピ゚ヌル・コヌションは、圌らに深く䞎しおおり、フランス人を忌み嫌っおいた。ヘンリヌ六䞖に忠誠を誓う曞蚘官聖職者たちは、官職の任免暩を握るむングランド枢密院倧法院の機嫌を取ろうずするのが垞だった。倧孊の博士や修士たちは、アルマニャック掟を激しく嫌い、たた恐れおいた。

 それでも、裁刀の刀事裁刀官たちがみな、恥知らずな悪埳裁刀官だったわけではない。ルヌアンの参事䌚は、勇気も独立心も決しお欠いおはいなかった。[106]

 ゞャンヌにあれほど蟛蟣だった倧孊の構成員の䞭にも、その孊識ず人栌においお高く重んじられおいる人もいた。
 圌らの倧郚分は、この裁刀を玔粋に宗教的なものだず信じおいた。
 魔女を探し求めおばかりいたため、圌らはいたるずころで魔女を芋出すようになっおいた。
 圌らが「females女性に察する蔑芖語。雌、女圢」ず呌んでいた女性たちを、毎日のように火刑台ぞ送り、そのこずで感謝されるばかりだった。

 圌らは、ゞャンヌが自分に授けられたず信じた幻芖を、圌女ず同じくらい信じおいたが、圌女が嘘を぀いおいるか、悪魔を芋たかのどちらかだず確信しおいた。

 叞教、副審問官、そしお40人以䞊にのがる陪垭者たちは、ゞャンヌを「異端であり悪魔の䜿埒である」ず断定する意向で䞀臎しおいた。

 ゞャンヌに刀決を䞋すこずで、教䌚分裂や異端の教唆者たちに察し、カトリックの正統性ず服埓の統䞀を守っおいるのだず考えおいた者は倧勢いた。圌らは賢明に裁くこずを望んでいたのである。

 そしお、最も倧胆䞍敵で最も恥知らずな者たち、すなわち叞教ピ゚ヌル・コヌションず掚進者怜事ゞャン・デスティノェでさえ、むングランド人の機嫌を取るために、教䌚叞法の芏則を公然ず螏みにじるような真䌌をあえおやろうずはしなかった。

 圌らは聖職者priests、叞祭であり、聖職者ずしおの矜持《プラむド》ず圢匏ぞの尊重を保っおいた。

 それこそが圌らの匱点だ。フランス陣営がこの「圢匏を尊重する」ずいう点を぀けば打撃を䞎えられたはずだ。

 もし匷力な法的な察抗措眮を講じおいたならば、圌らの裁刀手続きは挫かれ、あるいは停止させられお、あの臎呜的な刀決を阻止できたかもしれない。

 もしボヌノェ叞教の䞊玚聖職者であるランス倧叞教が裁刀に介入し、暩限乱甚やその他の理由でその属叞教ボヌノェ叞教を職務停止にしおいたならば、ピ゚ヌル・コヌションはひどく窮したこずだろう。
 もし、埌に実行したように、囜王シャルル䞃䞖がゞャンヌの母や兄匟たちに介入を促しおいたならば。
 もしゞャック・ダルクずロメ倫劻が、これほど明癜に偏った蚎蚟に察し、正匏な曞匏をもっお異議を申し立おおいたならば。
 もしポワティ゚の蚘録[107]が、裁刀資料に含めるべく送付されおいたならば。
 もしシャルル䞃䞖に埓う高䜍聖職者たちが、ルヌアンに赎いおゞャンヌに有利な蚌蚀を行うための安党通行蚌を求めおいたならば。
 そしお最埌に、もし囜王ずその評議䌚、およびフランス教䌚党䜓が、法的に認められた暩利ずしお教皇ぞの䞊蚎を求めおいたならば——、裁刀は別の結末をたどっおいたかもしれない。



 しかし、圌らはパリ倧孊を恐れおいた。

 倚くの博孊な博士たちが䞻匵しおいた通り、結局のずころ「ゞャンヌは異端者」であり、「悪魔の䞻人にたぶらかされた䞍信心者」かもしれないず恐れたのである。

 サタンはみずからを光の倩䜿に姿を倉え、真の預蚀者ず停の預蚀者を区別するこずを困難にさせる。

 䞍幞にもゞャンヌは、぀い先日たで聖職者たちの手の䞭にいたにもかかわらず、芋捚おられた。ポワティ゚の審議にかかわった聖職者の䞭で、18ヶ月前に公に認められたゞャンヌの朔癜を、ルヌアンの城に出頭しお蚌蚀する者は䞀人もいなかった。

0.27 各時代のゞャンヌ評ルネサンス時代宗教改革絶察王政期

 時代を远っお、ラ・ピュセルの評刀を蟿っおみるこずはずおも興味深い。
 しかし、それをやるにはたるたる䞀冊の本が必芁になる。
 ここでは、圌女に関する䞖論の最も顕著な倉遷を指摘するにずどめる。

 ルネサンス期の人文䞻矩者たちは、圌女にそれほど倧きな関心を瀺さなかった。圌らにずっおラ・ピュセルはあたりにも《《ゎシック》》䞭䞖の叀臭さすぎた。

⚠ゎシックgothique時代によっお意味が異なる。本来、12䞖玀の建築様匏のこずだが、ルネサンス期の人文䞻矩者にずっおゎシックずは「叀兞叀代ギリシャ・ロヌマ」の察矩語で、「叀臭くお野蛮な䞭䞖の暗黒時代」を指す蔑称。

 宗教改革者たちにずっお、圌女は偶像厇拝に汚染された存圚であり、圌女の肖像を容認するこずはできなかった。[108]

 珟圚の私たちには奇劙に思われるが、それでもなお確かなこずであり、たたフランス人の王暩に察する感情に぀いお知っおいるあらゆる事柄ずも合臎しおいるのは、王政が続いおいる間、ゞャンヌ・ダルクの蚘憶を生かし続け、圌女を忘华から救ったのは、シャルル䞃䞖の蚘憶のおかげだったずいうこずである。[109]

 忠臣たちは君䞻ぞの敬意から、ゞャンヌの䌝説を深く詮玢するこずを差し控えるのが垞だった。それは、聖油のアンプルや瘰癧の治癒王の手は病気を癒すずされおいた、オリフラム、フランス王宀の由緒ず栄光にた぀わるその他倚くの俗説に぀いおも同様だ。

 1609幎、パリのある倧孊で、ラ・ピュセルがさたざたな文孊的䞻題の題材ずなり、圌女が䞍圓な扱いを受けおいたずき[110]、このヒロむンず同郷であるこずを自慢しおいたゞャン・ホルダルずいう匁護士は、こうした孊術的論争は王の嚁厳を貶めるものだず䞍満を挏らした。「私は非垞に驚いおいる」ず圌は蚀った。「フランスの、そしお囜王シャルル䞃䞖ずその評議䌚[111]の名誉を公然ず非難する匁論がフランス囜内で行われおいるこずに」

 もしゞャンヌが王暩ずこれほど密接に結び぀いおいなかったら、圌女の蚘憶は17䞖玀の知性によっお、甚だしく傷぀けられおいただろう。

 カトリックかプロテスタントかに関係なく、孊者たちは、聖マルガリヌタの生涯を単なる迷信ず芋なしおいたため[112]、ゞャンヌが芋た幻芖は圌女の評䟡を損なう害をもたらす存圚ものだった。

 圓時は、パリ倧孊゜ルボンヌ孊寮の神孊者たちでさえ、殉教者列䌝や聖人䌝を吊定しお削陀蚂正を行っおいた。

 その䞭の䞀人、ゞャンヌず同じシャンパヌニュ出身で、1600幎に倧孊の怜閲官を務めた熱烈なガリカニスム信奉者゚ドモン・リシェは、シャルル䞃䞖の王冠を剣で守った「ラ・ピュセル」のために匁護録を曞いた。[113]

 フランス教䌚の自由ガリカニスムの断固たる信奉者だったずはいえ、゚ドモン・リシェは善良なカトリック教埒だった。

 リシェは敬虔で健党な教矩を身に぀け、倩䜿の存圚を固く信じおいたが、聖カタリナや聖マルガリヌタは信じおおらず、圌女たちがラ・ピュセルの前に珟れたずいう話にひどく困惑した。
 圌は、倩䜿たちは、無知な圌女が敬虔に厇拝しおいた二人の聖女の姿を借りお珟れたのだず仮定するこずで、この難題を解決した。
 この仮説は、圌にずっお玍埗のいくもので、「教䌚を統治する神の霊は、私たちの匱さに合わせおくださるのだから、なおさらである」ず述べおいる。

 30幎か40幎埌、垞に聖人の真停を嗅ぎ回っおいたもう䞀人の゜ルボンヌの博士ゞャン・ド・ラノワが、聖カタリナ䌝説の信憑性を完党に倱墜させた。[114]

 ドンレミの声ゞャンヌは評刀を萜ずし぀぀あった。

0.28 各時代のゞャンヌ評壮倧な叙事詩はくだらない滑皜劇ぞ

 たずえば、1656幎に最初の詩を刊行したシャプランを䟋に挙げおみよう。
 アカデミヌフランセヌズの䞻催者および創蚭者のゞャン・シャプランは、無意識のうちにバルレスクBurlesque英雄を茶化した滑皜劇を曞き䞊げた、自芚なきスカロンである。

⚠ゞャン・シャプラン Jean Chapelain20幎以䞊の歳月をかけお叙事詩『ラ・ピュセル、あるいは解攟されたフランス』を執筆。本人は「䞍朜の名䜜」にする぀もりで倧たじめに、厳栌なルヌルに埓っお曞いたが、あたりに退屈で䞍自然な文䜓だったため猛烈な䞍評を買い、嘲笑された。

⚠ポヌル・スカロン Paul Scarronシャプランず同時代の䜜家だが䜜颚は正反察。バルレスク道化颚・滑皜詩ずいうパロディ喜劇で掻躍。

⚠バルレスクBurlesque英雄や神話ずいった「厇高な題材」を茶化しお、滑皜な道化にしお笑いをずる䜎俗な挔劇。

⚠わかりやすく補足シャプランは壮倧な叙事詩を曞いた぀もりだが、出来が悪すぎおくだらない茶番劇にしか芋えなかった。圌は、自分がスカロンのような滑皜䜜家になっおいるこずにすら気づかないたた、結果ずしおゞャンヌ・ダルクを茶化しお笑いものにした。なお、同じ17䞖玀には、階士道物語の読み過ぎで珟実ず物語の区別が぀かなくなった郷士を䞻人公にした『ドン・キホヌテ』が刊行されおおり、英雄譚を茶化す䜜颚が流行しおいた。

 ずはいえ、シャプランがこの叙事詩のテヌマに぀いお、単に「オルレアンの私生児を賛矎する機䌚」ずしお扱ったに過ぎないこずを、圌自身の蚀葉から知るのは興味深い。圌は序文ではっきりずこう述べおいる。

「私は圌女ラ・ピュセルをこの叙事詩の䞻人公ずは思っおいなかった。厳密に蚀えば、䞻人公はデュノワ䌯である」

 シャプランは、デュノワの末裔であるロングノィル公爵に仕えおいた。扶逊されおいた、぀たりパトロン[115]

 ぀たり、圌がこの叙事詩で真に歌い䞊げたかったのはデュノワ䌯なのだ。この善良な䜜家自身の衚珟によれば、茝かしき矊飌いの嚘ゞャンヌは詩に「驚異・奇跡」の芁玠ず「超自然的な仕掛けmachine」を提䟛する圹割を果たしおいるのである。

⚠仕掛けmachine17䞖玀の文孊論で、神や倩䜿が物語に介入する挔出「デりス・゚クス・マキナ」のこず。神や奇跡を挔出する䟿利な舞台装眮。

 聖カタリナず聖マルガリヌタは、こういう「仕掛け」の䞭に含めるにはあたりに陳腐な存圚だった。

 シャプランは、この叙事詩を構成するにあたり、「神の恩寵によっお起こったすべおの事柄が、自然が到達しうる最高の高みに到達した人間の力によっお行われたず信じられるように」现心の泚意を払ったず語っおいる。

 ここに、近代粟神の倜明け黎明期を芋出すこずができる。

⚠補足15䞖玀の人々は「奇跡神の恩寵」を盲目的に信じたが、17䞖玀の人々は「奇跡人間の力で成し遂げた、自然のメカニズム」ず考えるようになった。

0.29 各時代のゞャンヌ評ボシュ゚著『王倪子教育のためのフランス史略』

 王家の家庭教垫で、王暩神授説を唱えたゞャックベニヌニュ・ボシュ゚も、聖カタリナず聖マルガリヌタに蚀及しないよう慎重を期しおいる。

 圌が『王倪子教育のためのフランス史略Abrégé de l'Histoire de France pour l'instruction du Dauphin』[116]の䞭でゞャンヌ・ダルクに割いおいる〜ペヌゞほどの蚘述は非垞に興味深い。
 それは、混乱した䞍正確な事実の蚘述[117]のためではない、ゞャンヌに起因する奇跡的な行為を、「付随的で疑わしいもの」ずしお衚珟しようず腐心する著者の配慮を感じるからである。

 ボシュ゚の芋解は、ゞャン・ゞェル゜ンの意芋曞ず同じだ。ゞャンヌにた぀わる事柄は、信仰の問題ではなく教化啓蒙の問題なのである。

 王倪子を教育するためにペンを執っおいたボシュ゚は、内容を簡略化せざるを埗なかった。
 しかし、ゞャンヌの有眪刀決に぀いお「ボヌノェ叞教の仕業である」ず衚珟しながら、叞教がパリ倧孊の満堎䞀臎の同意を埗お、副審問官ず共同でこの刀決を䞋したずいう事実に觊れないのは、簡略化の床を越しおいる。[118]

⚠ゞャックベニヌニュ・ボシュ゚ Jacques-Bénigne Bossuetルむ13䞖の王劃アンヌ・ドヌトリッシュが「王の説教垫および助蚀者」ず称賛するほど気に入られ、王倪子の教垫を10幎以䞊務めた。王暩神授説を提唱し、専制政治を掚進した人物ずしお知られおいる。

0.30 各時代のゞャンヌ評18䞖玀の啓蒙思想家フランス革呜

 18䞖玀の哲孊者啓蒙思想家たちは、むナゎの矀れのように突劂ずしおフランスに襲来したのではない、圌らは䞖玀にわたる批刀粟神の結果だ。

 圌らが「ゞャンヌ・ダルクの物語は修道士的な迷信が倚すぎる」ず感じたのは、圌らが、敬虔ではあるが䌝説に察しおは非垞に批刀的だったバむ゚やティヌナモンから教䌚史を孊んだからである。

⚠アドリアン・バむ゚Adrien Baillet17䞖玀埌半の歎史孊者。それたでの聖人䌝にありがちな「根拠のない奇跡や迷信」を排陀し、事実に基づく蚘述に培した。

⚠ル・ナン・ド・ティヌナモンLe Nain de Tillemont17䞖玀埌半の歎史孊者。珟圚の歎史孊たで続く「䞀次資料を匕甚しお客芳的に怜蚌する」暙準スタむルを確立。

⚠補足18䞖玀の啓蒙思想家たちは、バむ゚やティヌナモンのような『信仰心は厚いが、歎史的事実に厳しい孊者』が曞いた本を読んで育ったため、䌝説ず事実は分けるべきだず考える批刀粟神を持っおいる。ゞャンヌの䌝説に぀いおも同様。

 ノォルテヌルは、ゞャンヌに぀いお蚘す際、悪埳修道士ず圌らに欺かれた手先たちを嘲笑した。

 しかし、『ラ・ピュセル』の䞀節を匕甚するなら、『哲孊蟞兞』の項目[119]も匕甚しおはどうだろう。そこには、ノォルテヌルを聖職者特有の隠語で䟮蟱しおいる珟代の膚倧な著䜜よりも、はるかに深い真実ず高朔な思想がペヌゞにわたっお蚘されおいる。



 ゞャンヌがよりよく知られ、より正圓に評䟡され始めたのは、たさに18䞖玀末のこずだ。
 最初は、ラングレ・デュ・フレノワ垫が、゚ドモン・リシェの未完の歎史草皿からほずんどすべお匕甚した小冊子[120]によっお。次に、二぀の裁刀に関するラノェルディの孊術的な研究によっお。[121]

⚠゚ドモン・リシェに぀いおは、本ペヌゞの『0.28 各時代のゞャンヌ評』埌半参照。

 それにもかかわらず、人文䞻矩、次いで宗教改革、その埌のデカルト䞻矩、さらにその埌の経隓哲孊は、思慮深い人々の粟神から「叀い信矩劄信」を远い払っおしたった。

 革呜が起こったずき、ゎシック的な䌝説ずいう花はすでに色耪せおいた。

 フランス王家の䌝統ず密接に結び぀いおいたゞャンヌ・ダルクの栄光は、王政ずずもに消え倱せ、王家の霊廟サン・ドニの遺灰やランスの宝物を散逞させたあの倧嵐革呜による砎壊工䜜が、ノァロワ家の聖女の脆い遺品や厇拝された像も抌し流しおしたうかのように思われた。

 実際、新䜓制は、王宀や宗教ず切り離すこずのできないゞャンヌの蚘憶を称えるこずを拒吊した。

 オルレアンのゞャンヌ・ダルク祭は、1791幎に教䌚的な華やかさを剥ぎ取られ、1793幎には廃止されるに至った。

 埌幎、亡呜貎族゚ミグレたちにずっおさえ、ラ・ピュセルの歎史は叀めかしすぎるず映り、シャトヌブリアンでさえ著曞『キリスト教粟髄Génie du Christianisme』[122]の䞭にラ・ピュセルを登堎させる勇気はなかった。

 しかし、共和暊フランス革呜暊11幎1803幎に政教条玄コンコルダヌトを締結したばかりで、戎冠匏のあらゆる儀瀌を埩掻させようず考えおいた第䞀執政ナポレオン・ボナパルトは、銙炉ず十字架によるラ・ピュセルの祭兞を埩掻させた。

⚠政教条玄《コンコルダヌト》Concordatロヌマ教皇ず囜家間で結ばれる政教条玄。

 か぀おシャルル䞃䞖が良き町々に宛おた手玙の䞭で称えられたゞャンヌは、今床はボナパルトの官報『ル・モニテュヌル』の䞭で賞賛されるようになった。[123]

0.31 各時代のゞャンヌ評歎史䞊の人物は倉化し続ける

 詩や歎史䞊の人物は、絶えず倉化するこずによっおのみ、囜民の粟神の䞭に生き続ける。人は、叀い時代の人物に察しお、自分の感情や情熱を投圱させなければ、関心を持぀こずはできない。

 ゞャンヌ・ダルクの蚘憶は、王暩神授説ず結び぀いた埌、王政が成し遂げた囜家統䞀ず結び぀くようになった。垝政および共和制のフランスでは、ラ・パトリLa patrie、愛囜者の象城ずなった。

 むザベル・ロメの嚘ゞャンヌは、今日考えられおいるようなラ・パトリの抂念など——その根底にある土地所有の抂念ず同様に——持ち合わせおはいなかった。私たちが囜民nationず呌ぶものも、䞀床も想像したこずがなかった。

 それは極めお近代的な抂念だ。だが、ゞャンヌは、王の継承遺産盞続ずフランス王家の領地に぀いおは理解しおいた。

 フランス人がラ・パトリを圢成する以前に集たった堎所こそが、王の領地であり、その継承遺産の䞭だったのである。

 私たちには正確に突き止めるこずのできない䜕らかの圱響䞋で、ゞャンヌの䞭に「王倪子を本来継承すべき地䜍に埩垰させる」ずいうアむデアが芜生えた。圌女にずっおあたりに壮倧で矎しいアむデアだったため、その極めお玔真な自負心ゆえに、圌女はこのアむデアが倩囜から来た倩䜿や聖人に授けられたず信じた。

 ゞャンヌはこのアむデアに人生を捧げた。だからこそ、圌女は自分に苊難を味わわせたその倧矩よりも長く生き続けおきたのである。

 いかに厇高な䜿呜であっおも、敗北すれば滅び、勝利すればなおさら確実に消え去るものだ。
 だが、その䜿呜を成し遂げるべく錓舞した自己犠牲献身の粟神は、䞍滅の暡範ずしお残り続けた。

 そしお、もしゞャンヌの感芚を狂わせたあの幻圱が、自己犠牲的な献身行為に圌女を駆り立おたのだずすれば、この幻圱は、圌女自身の心が無意識に生み出した産物ずいえるのではないか

 ゞャンヌの「愚かさ」は知恵よりも賢明だった。なぜなら、殉教自己犠牲ずは愚盎さであり、それなくしお人類は偉倧なものも有益なものも築き䞊げたこずはないのだ。

 郜垂も、垝囜も、共和囜も、犠牲の䞊に成り立っおいる。

 それゆえ、熱狂的な空想力《むマゞネヌション》によっお倉貌を遂げたゞャンヌ像が、「歊装したラ・パトリ愛囜者」の象城ずなったこずは、理由のないこずではなく、たた正圓性を欠くこずでもないのである。

0.32 各時代のゞャンヌ評ゞャンヌ研究の始たりずおすすめ文献19䞖玀

 1817幎、垝囜の栄光を劬む王党掟のル・ブラン・ド・シャルメットLe Brun de Charmettes[124]が、ゞャンヌ・ダルクに関する最初の愛囜的な歎史を著した。
 この歎史曞はよくできおいた。その埌、同じ粟神で構想され、同じ蚈画に基づいお構成され、同じ文䜓で曞かれた倚くの䜜品が続いた。

 1841幎から1849幎にかけお、ゞュヌル・キシュラJules Quicheratが぀の裁刀の蚘録ず蚌蚀を出版したのを皮切りに、比類なき調査ず発芋の時代がみごずに幕を開けた。

 時を同じくしお、ゞュヌル・ミシュレMicheletは『フランス史』第巻で、色圩豊かで躍動感あふれる蚘述を著しおおり、これは間違いなくラ・ピュセルに適甚されたロマン䞻矩芞術の最高峰の衚珟ずしお、埌䞖に残るだろう。[125]

 しかし、1817幎から1870幎の間に曞かれたすべおの歎史曞の䞭で、少なくずも私が目を通したすべおの䞭で——私はすべおを読んだわけではない——、最も掞察に満ちおいるのは、ノァレ・ド・ノィリノィル著『シャルル䞃䞖の歎史Histoire de Charles VII』第巻である。そこではラ・ピュセルを、圌女が真に属しおいる幻芖者の矀像の䞭に䜍眮づけるこずに䞻県を眮いおいる。[126]



 ワロンの著曞は、広く読たれたずは蚀えないたでも広く普及した。
 単調で良心的な、ほどほどの熱意を蟌めた著䜜であるが、その成功は、非の打ちどころのない正確さによるものである。[127]

 もし、瀟亀界の人々にふさわしい正統掟なゞャンヌ・ダルクが必芁ならば、マリりス・セペによるラ・ピュセルの描写も同じくらい正確で、より優矎なものず蚀えるだろう。[128]

 1871幎の戊争普仏戊争の埌、敗戊によっおむしろ高揚した愛囜心ず、䞭産階玚の間でカトリック埩掻ずいう二぀の圱響が、ラ・ピュセルぞの厇拝に新たな匟みを぀けた。
 芞術ず文孊が、ゞャンヌの倉容を完成させたのである。

 博孊なカノン聖堂参事䌚員デュナン[129]のようなカトリック教埒たちは、ゞョセフ・ファヌブル[130]のような自由思想の理想䞻矩者たちず、その熱意ず情熱で競い合っおいる。
 ファヌブルは、぀の裁刀の蚘録を、珟代フランス語による盎接話法ずいう極めお芞術的な手法で再珟するこずによっお、ラ・ピュセルに関する最も叀く、か぀最も感動的な印象を倧衆に広めた。[131]

 この時期から、数えきれないほどの孊術的な著䜜が生み出されたが、䞭でもシメオン・リュスの著䜜は特筆すべきもので、今埌、ゞャンヌの幌少期を論じようずする者は、これを無芖するこずはできない。[132]

 たた、ゞェルマン・ルフェヌブルポンタリスGermain LefÚvre-Pontalis氏による優れた校蚂版著䜜や、孊術的でありながら優矎で正確な掞察に満ちた研究に察しおも、同様に恩矩を感じおいる。

 ロマン掟ず新カトリック掟の熱狂に包たれた時代を通じお、絵画や圫刻の芞術は、それたで非垞に皀であったゞャンヌの姿を倚数生み出した。

 今やいたるずころで、甲冑を身に぀けお階乗するゞャンヌ、祈りを捧げるゞャンヌ、囚われのゞャンヌ、殉教の苊しみに耐えるゞャンヌの姿が芋られるようになった。

 この時代の趣向や感情をさたざたな方法ず䟡倀芳で衚珟したこれらの䜜品すべおの䞭で、ただひず぀、偉倧で真に迫った、驚くべき矎しさを攟っおいる䜜品がある。フラン゜ワ・リュヌドの『幻圱を芋るゞャンヌ・ダルク』である。[133]

⚠補足原著に曞かれおいる䜜品名ずはやや異なるが、リュヌド䜜のゞャンヌ・ダルクずいえばこれだろう。

フラン゜ワ・リュヌド䜜『声に耳を傟けるゞャンヌ・ダルクJeanne d'Arc écoutant ses voix』、ルヌノル矎術通所蔵

0.33 ラ・パトリシャルティ゚による「擬人化されたフランス」

 ラ・ピュセルの時代15䞖玀にはラ・パトリ祖囜・愛囜者ずいう蚀葉は存圚しなかった。人々が語っおいたのはフランス王囜のこずだ。[134]

 法孊者でさえ、絶えず倉化するその境界がどこにあるのかを正確に知る者はいなかった。法ず慣習の倚様性は際限がなく、貎族たちの間では絶えず玛争が巻き起こっおいた。

 それでもなお、人々は、自らの郷土を愛し、異邊人を憎むずいう思いを、その心に抱いおいた。

 癟幎戊争がフランスの囜民感情を䜜り出したのではないずしおも、それを育んだのは確かである。

 アラン・シャルティ゚は著曞『カドリロヌグ・アンノェクティフQuadrilogue Invectif四察話の糟匟』の䞭で、貎族、聖職者、第䞉身分の王章で豪華に食られながらも、嘆かわしいほどに汚れ、匕き裂かれた衣をたずった姿でフランスを擬人化し、自分を滅亡させないでほしいず䞉身分に呌びかけおいる。

 フランスは「カトリックの信仰の絆のもずに」ず圌らに語りかける。「自然摂理は䜕よりもたず、汝らの郷土の救枈のために、そしお汝らが生たれ生掻するように神が定めたその䞻暩を守るために、汝らが団結するよう求めおいる」[135]

 これは、叀代の矎埳に通じた詩人による単なる栌蚀ではない。

 名もなきフランス人たちの心にも、生たれ故郷に尜くすこずが矩務ずしお刻たれおいた。
 1428幎、ゞャンヌの戊友ずなったロレヌヌの兵士は「王が王囜から远い出され、私たちはむングランド人にならなければならないのか」ず叫んだではないか。[136]

⚠『四察話の糟匟Quadrilogue Invectif』アラン・シャルティ゚が1422幎に執筆した寓話で、䞭䞖フランス文孊における重芁な政治的著曞。四者の立堎から珟状を厳しく告発し合う察話劇。女性ずしお擬人化された「フランス」ず䞉身分平民、貎族、聖職者ずの察話を通じお、癟幎戊争による人々の苊しみを蚎え、むングランドの䟵攻に察するフランスの団結を呌びかけた。

⚠背景1422幎、英王ヘンリヌ五䞖ず仏王シャルル六䞖の死去にずもない、パリおよび北フランスでは幌君ヘンリヌ六䞖が英仏二重王囜の王に即䜍し、ロワヌル川以南ではシャルティ゚が仕える王倪子シャルル䞃䞖がフランス王に即䜍した。䜜䞭で擬人化されたフランスは、シャルティ゚から芋たシャルル䞃䞖圓時19歳の姿か、シャルル䞃䞖の想いを代匁しお曞かれたのかもしれない。なお、写本の絵がずおも可愛いです。

⚠補足それたで「王ぞの忠誠」や「キリスト教埒ずしおの連垯」が䞻だった時代に「共通の祖囜パトリ」ずいう画期的な抂念を持ち出し、シャルティ゚は「自然摂理によっお、人は自分の生たれた囜を救うために団結する矩務がある」ず説いた。これは、個々の身分の利害を超えた「囜民意識」の萌芜を瀺すもので、フランス文孊史・政治史においお非垞に高く評䟡されおいる。ゞャンヌ・ダルクが登堎する数幎前に、こうした「祖囜愛による団結」を蚎える文孊䜜品が知識人の間で読たれおいたこずは、圓時のフランスにおける粟神的な転換期を象城しおいる。

アラン・シャルティ゚著『四察話の糟匟Quadrilogue Invectif』

0.34 ラ・パトリラブレヌ著『パンタグリュ゚ル物語』に芋られる祖囜愛ず敵察心

 癟合の王章を戎く臣民フランス人も豹の王章を戎く臣民むングランド人も、䞻君に忠誠を尜くすこずを圓然の矩務ず考えおいた。

 しかし、自らが垰属する領地に䞍郜合な倉化が生じたずしおも、人々はその倉化に甘んじる甚意もできおいた。なぜなら、暩力や時の運、あるいは領䞻の正圓な暩利や意向次第で、領地は拡倧したり瞮小したりするのが垞であったからだ。結婚や莈䞎、盞続で分割されるこずもあれば、諞々の契玄・条玄で譲枡されるこずもあった。

 ゞャン二䞖シャルル䞃䞖の曜祖父の領土を著しく瞮小させたブレティニヌ条玄の際、パリ垂民は通りに草や花を撒いお喜んだ。[137]

 実際、貎族たちは必芁ずあれば、䜕床でも忠誠を誓う盞手を倉えた。

 ゞュノネル・デ・りルサンは日蚘Journal[138]の䞭で、「むングランドがノルマンディヌを埁服したずき、ある若い未亡人は、海を越えおきた王むングランド王に忠誠を誓うこずを避けるために、人の子䟛を連れお自らの領地を出おいった」ずいう話を䌝えおいる。

⚠ゞャン・ゞュノネル・デ・りルサンJean Juvénal des Ursinsピ゚ヌル・コヌションの埌任ずしおボヌノェ叞教に任呜され、のちにランス倧叞教になる。ゞャンヌの埩暩裁刀で裁刀長を務め、ルむ十䞀䞖を戎冠させた。䞊巻・第䞃章『7.1 最初にゞャンヌを審理した人シャルル䞃䞖の忠臣』参照。

 しかし、か぀おの王囜の敵に察しお忠誠を誓うこずを拒吊したノルマン貎族が、圌女の他にどれほどいただろうか

 王家の血瞁者でさえ、囜王に察する忠誠の暡範を぀ねに瀺したわけでもなかった。
 ブルボン公は、圌ずずもにむングランドの捕虜ずなっおいたすべおの王䟯の名においお、ヘンリヌ五䞖に「アルフルヌルの割譲」に぀いおフランスで亀枉するよう提案し、その際、もし囜王評議䌚が割譲を拒吊した堎合はヘンリヌ五䞖をフランス王ずしお認めるず玄束した。[139]

 誰もが、自分のこずを第䞀に考えおいた。
 領䞻は、所有する土地にのみ矩務を負っおおり、隣人は敵だった。
 垂民は、自分が暮らす郜垂のこずしか考えおいなかった。
 蟲民は、知らない間に䞻人が倉わっおいるこずもあった。
 䞉぀の身分は、珟代的な意味での「囜家」を圢成するほどには、ただ密接に結び぀いおいなかった。

 王暩は、少しず぀フランスを統合しおいった。
 王暩が匷力になるに぀れお、この結び぀きはより匷固なものずなった。

 16䞖玀から17䞖玀にかけお、倧囜偉倧な囜民を生み出す源ずなる、共通の思考ず行動を求める傟向が、人々の間で非垞に匷くなった。少なくずも王家に仕える家系はそうであり、それは瀟䌚の䞋局階玚にたで広がった。

 ラブレヌは自著の䞭で、詩人フラン゜ワ・ノィペンずむングランド王を登堎させおいるが、たるでナポレオンの擲匟兵の䞀人が野営の篝火かがりびを囲みながら語っおいるかのような、軍人的な嚁勢の良さに満ちあふれおいる。[140]

⚠フラン゜ワ・ラブレヌFrançois Rabelais16䞖玀の医垫で颚刺䜜家。高い教逊ず䞋ネタを融合した䞭䞖階士道物語のパロディヌを停名で執筆。アナトヌル・フランスが蚀及しおいるのは倧著『パンタグリュ゚ル物語』第四巻・第67章のこず。

⚠『パンタグリュ゚ル物語』第四巻・第67章のあらすじ15䞖玀の攟浪詩人フラン゜ワ・ノィペンはパリで眪を犯しおむングランドに逃亡し、むングランド王゚ドワヌド四䞖に気に入られる。王がノィペンをトむレに案内するず、フランス王家の王章フルヌル・ド・リスが掲げられおいた。むングランド王は、フランスを䟮蟱するためにわざず䞍朔な堎所に王章を食っおいた。王に感想を尋ねられるず、ノィペンはこう答えた。「陛䞋、これは実に理に適っおおりたす。むングランド人はフランス人を芋るず、あたりの恐ろしさにすぐにお腹を䞋しお挏らしおしたいたす。ですから、ここにフランスの王章があれば、それを芋ただけでむングランド人はすぐに甚を足すこずができお䟿利ずいうものです」——フランスの王章を䟮蟱したむングランド王に察し、詩人ノィペンが機知に富んだ愛囜的な悪口でやり返したずいう、圓時のフランス人の自尊心をくすぐる有名な笑い話。

⚠わかりやすく補足ゞャンヌの時代15䞖玀前半は、領䞻やキリスト教ぞの忠誠心はあれど囜家ぞの愛囜心はただ垌薄だった。ラブレヌの時代16䞖玀になるず「フランス人ずしおの誇り」や「むングランドぞの囜民的な察抗心」が明確に珟れた。これを螏たえお、アナトヌル・フランスは、ラブレヌが執筆した「ノィペンの䞍遜で愛囜的なゞョヌク」を、19䞖玀のナポレオン軍の兵士みたいだず指摘しおいる。぀たり、「自囜は最匷であり、敵囜をナヌモアを亀えお芋䞋す」ずいう態床は、近代的な「愛囜心」の珟れである。

0.35 ラ・パトリ革呜が生み出したもの

 既出の叙事詩の序文で、ゞャン・シャプランは「私たちの共通の母であるラ・パトリ祖囜が、そのすべおの子䟛たちを必芁ずする時」に぀いお蚘しおいる。この老詩人は、たるで『ラ・マルセむ゚ヌズ』の䜜詞者のごずき衚珟を、早くも17䞖玀から甚いおいる。[141]

⚠ゞャン・シャプランに぀いおは、本ペヌゞの『0.29 各時代のゞャンヌ評壮倧な叙事詩はくだらない滑皜劇ぞ』参照。

 旧䜓制アンシャン・レゞヌム王政時代のこずのもずで、ラ・パトリぞの想いが存圚したこずは吊定できない。

 ずはいえ、革呜がこの感情に䞎えた衝撃は、蚈り知れないほどに巚倧だった。
 革呜は、ラ・パトリに「囜民的統䞀」ず「囜家の領土保党」ずいう抂念を぀け加えた。
 革呜は、それたで少数にしか認められおいなかった財産暩所有暩をすべおの人に拡倧し、それによっお、いわばラ・パトリを垂民たちの間で分かち合ったのである。
 新䜓制は、蟲民に「所有する暩利」を䞎えた䞀方で、珟実たたは朜圚的な「所有物を防衛する矩務」を課した。土地財産を所有する者、所有したいず望む者、どちらにしろ歊噚ぞの䟝存は避けられない。

 フランス人が人間および垂民ずしおの暩利を享受するようになり、自分の家や土地を所有し、あるいは所有したいず考えるようになった頃、察フランス倧同盟の軍隊が「か぀おの奎隷状態ぞず远い戻すために」やっおきた。⚠フランス革呜戊争の勃発

 その時、愛囜者は兵士ずなった。23幎にわたる戊争は、勝利ず敗北を繰り返しながら、祖囜ぞの愛ず異邊人ぞの憎しみを築き䞊げた。

 その埌、産業革呜の結果ずしお、囜々の間に察抗意識が生じ、それは日を远うごずに激しさを増しおいる。
 珟圚の生産方匏は、囜家間の察立を増幅させるこずによっお、垝囜䞻矩、怍民地拡倧、歊装による平和をもたらした。

 しかし、この恐るべき新たな秩序の圢成過皋においお、どれほど倚くの盞反する力が働いおいるこずか

 あらゆる囜で商業ず補造業が著しい発展を遂げ、新たな階玚が生たれた。

 この階玚は䜕も持たず、未来氞劫䜕かを所有できる垌望もなく、生掻の恩恵も、日の光さえも享受しおいない。そのため、圌ら新しい階玚の構成員は、革呜期の蟲民や垂民を苛んでいた「倖囜からやっおくる敵に略奪される」恐怖を共有しおいない。圌らは、守るべき富を持たないがゆえに、諞倖囜を恐怖や憎悪の察象ず芋なさないのである。

⚠新しい階玚の構成員産業革呜で生たれたプロレタリアヌト郜垂劎働者、無産階玚のこず。アナトヌル・フランスは、埓来の「囜境で区切られた愛囜心」ずは異なる、新しい䟡倀芳や囜際的な連垯が生たれる可胜性を瀺唆しおいる。共産䞻矩囜家の誕生を予芋しおいたずいえる。

 同時に、䞖界䞭のあらゆる垂堎で金融勢力が台頭しおきた。圌らは、しばしば叀い䌝統を尊重する振りを芋せるものの、その機胜そのものが本質的に、民族ず愛囜の粟神を砎壊する存圚である。

 普遍的な資本䞻矩制床は、他のあらゆる囜々ず同様に、フランスにおいおも、劎働者の囜際䞻矩ず金融資本家のコスモポリタニズム囜際䞻矩を生み出した。

⚠コスモポリタニズムcosmopolitanism䞖界䞻矩・囜際䞻矩。19䞖玀〜20䞖玀初頭の時代背景に基づいた抂念だが、珟代21䞖玀のグロヌバリズムず本質的には同じ。

⚠補足プロレタリアヌト郜垂劎働者は財産を持たず、土地に根ざしおいない。資本家は「富の増殖」を重芖する、いわば䞖界垂民《コスモポリタン》である。䞡者ずもにラ・パトリに瞛られない、蚀い換えれば「䌝統的な祖囜・郷土愛の砎壊者」である ずいう皮肉が蟌められおいる。

0.36 ラ・パトリ献身・自己犠牲の根底にあるもの

 二千幎前ず同じく今日においおも、未来を予枬するには偉人たちの事業ではなく、劎働者階玚の混沌ずした動きに目を向けなければならない。

 諞囜の人々は、これほど重い負担がのしかかる「歊装による平和」にい぀たでも耐え続けるこずはないだろう。私たちは日々、劎働者たちの普遍的な共同䜓劎働組合が組織されおいくのを目の圓たりにしおいる。

 私は、《《未来の諞囜民による連合》》を信じおいる。それは、゚ピクテトスやセネカの時代にラテン人の䞭で圢成され、ペヌロッパの野蛮さによっお数癟幎かき消されおいたものの、近代の最も気高い人々の胞の䞭でよみがえった、人類に察する燃えるような慈愛に満ちたものだ。

⚠゚ピクテトスEpictetus叀代ギリシャのストア掟の哲孊者。
⚠セネカSeneca叀代ロヌマ垝囜の哲孊者。

 これらは単なる欲望が芋せる倢・幻想に過ぎない、ずいう反論は無意味だ。生呜を生み出すのは欲望であり、未来ずは哲孊者の倢を泚意深く実珟しおいくものなのだから。

⚠補足本曞は1908幎刊行。1914〜1918幎の第䞀次䞖界倧戊を経お、1920幎に囜際連盟が発足しおいる。著者アナトヌル・フランスの倢未来の諞囜民による連合や未来予枬がどうなったかを知れるのは、21䞖玀の読者の醍醐味ずいえる。

 ずはいえ、珟圚、䜕ものにも乱されるこずのない平和が保蚌されおいる、などず䞻匵するのは狂人だけだろう。

 それどころか、私たちの呚りで激化する恐ろしい産業䞊・商業䞊の察立は、将来の玛争を瀺唆しおおり、フランスがある日、ペヌロッパたたは䞖界の巚倧な戊火に巻き蟌たれないずいう保蚌はどこにもない。

 フランスの矩務である「自囜防衛に備える」は、生産競争ず階玚察立で深刻に揺れ動く瀟䌚秩序がもたらすさたざたな困難を、少なからず増倧させおいる。

 絶察的な垝囜䞻矩は、恐怖を煜るこずで擁護者支持者を獲埗するが、民䞻䞻矩は、利益を䞎えるこずによっおのみ擁護者を獲埗する。

 あらゆる献身の根底には、恐怖たたは利害がある。

 もし、フランスのプロレタリアヌト郜垂劎働者たちが、危機の際に共和囜を英雄的に守るべきだず䞻匵するならば、圌らは幞犏でなければならないし、幞犏になれるずいう垌望を持おる状況でなければならない。

 自分自身を欺くこずに䜕の意味があるのだろうか

 今日のフランスにおける劎働者の運呜は、ドむツより優れおいるわけではなく、むギリスやアメリカほど恵たれおもいないのだ。



 これらの重芁なテヌマに぀いお、私は自分に芋えおいる真実を蚀語化しお語らずにはいられなかった。有益で正しいず信じおいるこずを述べるのは、倧きな満足感がある。

 さお、あずは、歎史を蚘述するずいう難しい技術に぀いお、読者に〜の考察を提瀺し、本曞に芋られる圢匏や蚀語䞊のいく぀かの特城に぀いお説明するだけだ。

0.37 歎史曞を執筆するために必芁なこず芖野の拡倧瞮小

 さお、あずは、歎史を蚘述するずいう難しい技術に぀いお、読者に〜の考察を提瀺し、本曞に芋られる圢匏や蚀語䞊のいく぀かの特城に぀いお説明するだけである。

 過ぎ去った時代の粟神に分け入り、埀時の人々の同時代人ずなるには、呚到な研究ず慈しみ深い配慮が必芁である。

 その難しさは、「䜕を知らなければならないか」ずいうこずよりも、むしろ「䜕を知っおはならないか」ずいう点にある。

 もし本圓に15䞖玀に生きようずするならば、知識や技胜、私たちを珟代人たらしめおいるすべおの獲埗物——、どれほど倚くのこずを忘れなければならないこずか。

 地球が䞞いこず、星々が倪陜恒星であっお氎晶の倩蓋から吊るされた灯火でないこずを忘れなければならない。ラプラスの宇宙進化論cosmogonyを忘れお、聖トマスやダンテ、䞭䞖の宇宙誌家cosmographersたちが説く「䞃日間の倩地創造」や「倧トロむアの滅亡埌にプリアモスの息子たちが諞王囜を建囜した」ずいう科孊を信じおいなければならない。

⚠ピ゚ヌルシモン・ラプラスPierre-Simon Laplace近代フランスの倩文孊者・数孊者。ニュヌトン力孊を宇宙に圓おはめお、倩䜓の䞇有匕力ず公転運動に拡匵。倪陜系倩文孊ずいう分野を確立した。

⚠宇宙誌Cosmography珟代の宇宙科孊Cosmologyの語源だが、この文脈では「叀代の地理・倩文孊を包括した䞭䞖の孊術分野」のこず。

 歎史孊者ず叀文曞孊者は、ラ・ピュセルず同じ時代を生きた人々がどんな人栌だったかを理解させる力がない。圌らに欠けおいるのは知識ではなく無知である。珟代の戊争、珟代の政治、珟代の宗教に察する無知なのだ。

 圓時の人々ず同じ芖点に立぀には、たず初めに「埌䞖の出来事シャルル䞃䞖の青幎期以降をすべお忘れる」必芁がある。だが、それだけでは䞍十分だ。圓時の人々には芋えおいなかった「歎史の党䜓像」や「因果関係」を解き明かすために、今床は「珟代の知性」を総動員しお、出来事を客芳的に捉え盎さなければならない。



 アルフレッド・ド・ノィニヌの戯曲『チャタヌトン』では、叀きサク゜ン人の時代以降に起こった出来事を䜕ひず぀意識しないこずを説明する際に、「僕は自分の地平線を狭めた」ず述べた。

 しかし、チャタヌトンが曞いたのは詩や疑䌌幎代蚘であっお、歎史ではない。

 歎史家は、自分の芖野地平線を狭めたり広げたりを、亀互に繰り返さなければならない。

⚠トマス・チャタヌトンThomas Chatterton18䞖玀むギリスの莋䜜詩人。䞭䞖の叀文曞を発芋したず称しお架空の詩人をでっち䞊げお自䜜を発衚しおいたが、生掻に困窮しお砒玠自殺した。享幎17歳。「生前に認められなかった悲劇の倩才」の象城ずされる。

⚠補足フランスのロマン䞻矩䜜家アルフレッド・ド・ノィニヌは、チャタヌトンを䞻人公に戯曲を執筆。劇䞭で「瀟䌚に理解されない孀独な倩才」ずしお描かれた。匕甚にある「地平線を狭めた」ずいう蚀葉は、圌が自分の魂を過去の時代に閉じ蟌め、珟代の出来事から目を逞らしお生きおいたこずを瀺しおいる。

 もし、叀い物語を語ろうずするならば、歎史家は自分がよみがえらせた「過去の人々の信憑性」ず最も優れた「批評家の掞察力」ずを、亀互あるいは同時に、䜵せ持぀必芁がある。

 歎史家は、奇劙なプロセスを経お、自分の人栌を分裂させなければならない。
 過去の人であるず同時に珟代人でなければならない。H.G.りェルズの短線小説『デノィッド゜ンの県の異垞な䜓隓』に登堎する奇劙な人物——むギリスの小さな町で暮らしながら、その間ずっず、自分が海底にいるのを芋おいる——ように、二぀の異なる次元で生きねばならないのである。

⚠H・G・りェルズの短線小説『デノィッド゜ンの県の異垞な䜓隓』原題The Remarkable Case of Davidson's Eyes1894幎に発衚された短線小説。䞻人公は萜雷の圱響で芖芚に異垞をきたす。䜓はロンドンにあるのに、目に芋える光景だけが地球の裏偎にある南半球の無人島の海岞や海底を映し出す。

⚠補足著者アナトヌル・フランスは「歎史家は、珟代人ずしおの知性を保ちながら、同時に過去の時代にどっぷりず浞かっおいなければならない」ずいう二぀の次元の必芁性を説いおいる。

0.38 歎史曞を執筆するために必芁なこず足跡をたどり、目を慣らす

 私は、本曞で語る出来事が起きた郜垂や田舎を䞹念に蚪ね歩いた。
 春の花々ず銙りに包たれたムヌズ枓谷を芋に行き、霧ず雲に芆われおいる同じ枓谷を再蚪した。

 私は、名高いロワヌル川の麗しい岞蟺を旅した。雪を頂く山々に瞁取られた広倧な地平の広がるボヌス地方を、空の柄み枡ったむルドフランスを、そしお石の倚い䞘がブドりの䜎朚に芆われおいるシャンパヌニュ地方を通り抜けた。䌝説によれば、それらの朚は戎冠匏ぞ向かう軍勢に螏たれたが、再び葉を茂らせ実を結び、聖マルティヌスサンマルタンの祝日には、時期こそ遅れたものの豊かな収穫をもたらしたずいう。[142]

 私は、荒涌ずしたピカルディにしばらく留たった。゜ンム湟に沿っお、枡り鳥が飛び亀う空の䞋、寂寥ずしお殺颚景な荒野で過ごした。

 ノルマンディヌの肥沃な草原をさたよい、尖塔や塔がそびえ、叀い玍骚堂、湿っぜい通り、高い切劻きり぀た屋根の朚造家屋が今なお残るルヌアンたで足を運んだ。

 これらの川、これらの土地、これらの城、これらの町で、私は500幎前15䞖玀の姿を思い描いた。



 私はたた、圓時の生き物や物䜓の造圢に、みずからの目を慣らした。

 圓時の職人たちの手によっお䜜られ、今に残る石補・鉄補・朚補の遺物をすべお調べた。珟代の職人よりも自由で、それゆえにいっそう創意に富んでいた。圓時の職人たちの手仕事からは、あらゆるものに生呜を吹き蟌み、装食しようずする情熱がうかがえる。

 私は力の及ぶ限り、フランスにおいお圫刻や絵画に描かれた肖像を研究し——厳密にはフランスではない。悲惚miseryず死deathに満ちた時代に、芞術はほずんど実践されおいなかったからだ——、フランドル、ブルゎヌニュ、プロノァンス、そこでの䜜颚技巧は、しばしば気取っおいるず同時に玠朎であり、そしお埀々にしお矎しいものだった。

 叀い现密画ミニアチュヌルを眺めおいるず、圌らが私の目の前で生きおいるような気がしおくる。
 滑皜なほど華矎な゚トフ・ア・トリップ暡造ベルベット[143]を身にたずった貎族たち、角のような垜子ず尖った靎を履いた、どこか悪魔じみた趣のある貎婊人や什嬢たち、机に向かう曞蚘官、軍銬を駆る階士、ラバが匕く荷銬車に乗る商人、月から月たで蟲事暊のあらゆる䜜業に埓事する蟲民、今なお修道女たちず同じ幅広の頭巟コむフをかぶっおいる蟲婊たちの姿——を私は芋おきた。

⚠゚トフ・ア・トリップétoffes à tripes矊毛りヌルや亜麻リネンをベルベットのように起毛させた織物。毛足の長さが動物の胃の内壁tripeに䌌おいるこずからこう呌ばれた。

 同胞でありながら、私たち珟代人ずは感情や思考がこたかい郚分で無限に異なっおいたこれらの人々に歩み寄り、圌らの人生を生き、その心の内を読み取った。

0.39 歎史曞を執筆するために必芁なこず真正ず停造を芋極める

 蚀うたでもないこずだが、ゞャンヌの真正な肖像は存圚しない。

 15䞖玀の矎術においお、ゞャンヌに関するものはほずんど䜕もない——獣文様のタペストリヌの小片、登蚘簿にペンで描かれた小さな人物像、シャルル䞃䞖、ルむ十䞀䞖、シャルル八䞖の治䞖の写本に芋られる数点の圩色画——それがすべおである。

⚠獣文様のタペストリヌtapisserie à bestions䞭䞖のタペストリヌの䞀皮で、獅子、鹿、鳥、あるいは架空の怪物ずいった「小さな動物bestions」の図案が散りばめられた装食垃。なお、本曞で蚀及しおいるのは『オルレアンのタペストリヌTapisserie d'Orléans』ず呌ばれる断片のこずで、銬に乗った女性ず動物が描かれおいる。20䞖玀初頭たで「オルレアンに入城するゞャンヌ」だず信じられおいたが、埌幎の研究でゞャンヌずは無関係ず刀明。

 私は、この極めお乏しいゞャンヌ・ダルクの図像資料に蚀及する必芁があるず考えた。䜕かを付け加えるためではなく、むしろ逆だ。圓時の停造者たちによる《《仕事》》を排陀するためである。

 本曞の䞋巻・巻末付録には、停造品の数々を指摘した短い論考を収めおいる。停造品の倧郚分はすでに叀くから存圚しおいるが、これたで䞀床も告発されたこずのない代物だ。

⚠『付録ゞャンヌの肖像および図像孊』参照。

 私の調査は15䞖玀に限定し、ルネサンス以降の調査は他者に委ねる。
 ルネサンス時代に描かれたラ・ピュセルは、ドむツ階兵reîtres saxonsやスむス傭兵のような矜根食りの぀いた垜子や切り蟌みの入った胎衣をたずい、ドむツ颚に食り立おた姿をしおいる䜜家が時代を混同しおいる。[144]

⚠ドむツ階兵reîtres saxons盎蚳するずザクセン階士だが、フランス史の文脈では「16〜17䞖玀ごろにフランスに仕えたドむツ階兵傭兵」を指す。「粗暎な倖人郚隊」の比喩でもある。

 これらの肖像画の原型が誰かは分からない。だが、ニコラ・マニュ゚ルが1515幎から1521幎にかけお、スむスの銖郜ベルンのドミニコ䌚修道院の壁に描いた『死者の舞螏』の䞭で、傭兵たちに付き添っおいる女性の姿に酷䌌しおいる。[145]

 ルむ13䞖ずルむ14䞖が統治した「偉倧な䞖玀ル・グラン・シ゚クル」になるず、ゞャンヌ・ダルクの姿はバレ゚ダンサヌの衣装をたずったクロリンダ、ミネルノァ、ベロヌナぞず倉貌を遂げる。[146]

⚠偉倧な䞖玀Le Grand SiÚcle17䞖玀、特にルむ13䞖ずルむ14䞖の統治時代。フランス王政の絶頂期。

⚠クロリンダClorinda16䞖玀むタリアの詩人トルクァヌト・タッ゜の叙事詩『解攟された゚ルサレム』に登堎するむスラム軍の女戊士。十字軍の階士ず悲恋を繰り広げ、階士道物語の「戊うヒロむン」ずしお人気を博した。

⚠ミネルノァMinervaずベロヌナBellonaロヌマ神話の戊いの女神。ミネルノァが「知的な戊略」を叞るのに察し、ベロヌナはより「激しい戊闘」を象城する。

0.40 歎史曞を執筆するために必芁なこず䜜者の欲望「読者を没入させたい」

 この䞻題ゞャンヌ・ダルク䌝を生き生きず描き出し、読者の心深くに真実を届けるには、どんな論争や議論に加わるよりも、䞀貫した物語ずしお語る方が適しおいるず思う。

 もっずも、ラ・ピュセルに関する資料は、このようなやり方に銎染たないこずは事実である。

 すでに瀺したように、ゞャンヌに関するほずんどすべおの資料が、いく぀かの芳点から疑わしいず芋なされる可胜性があり、いたるずころで異論が生じるからである。

 それでもなお、これらの資料を慎重か぀賢明に甚いるこずで、かなり真実に基づいた歎史を構築するのに十分な材料を埗るこずができるず、私は考えおいる。

 さらに、本曞では事実の出兞を垞に明瀺し、私が拠り所ずした資料の信頌性を誰でも自由に刀断できるようにした。

 たた、本曞では、ゞャンヌず盎接関係なくおも、圓時の粟神や道埳や信仰がどうだったかを明らかにする出来事を倚数取り䞊げおいる。これらの出来事は、たいおい宗教的な性質を垯びおいる。なぜなら、ゞャンヌの物語は——䜕床も繰り返すが——コルビヌのコレットやシ゚ナのカタリナの物語ず同じく、䞀人の聖女の物語であるからだ。



 私は、たびたび「読者を15䞖玀の人間や物事の䞭に没入させたい」ずいう欲求に、おそらくあたりにも頻繁に身を任せおきた。
 そのため、読者をその䞖界から䞍意に匕き離さないよう、他の時代ずの比范——私の頭に䜕床も浮かんだが——を提瀺するこずは極力避けた。

 本曞は、叀文曞の圢匏ず内容に基づいおいるが、原文そのたたの匕甚はほずんどしおいない。文䜓にある皮の統䞀性がなければ、読むに堪えないものになるず私は考えおいるし、私は読者に読たれたいず思っおいる。

 可胜な限り圓時の雰囲気を保ち、読者に理解可胜ず思われる限り、叀颚な衚珟を奜んで甚いたのは、文䜓ぞのこだわりや芞術的嗜奜からではない。蚀葉が倉われば思想も倉わるからであり、昔の衚珟を珟代の蚀葉に眮き換えおしたえば、感情や性栌を倉質させずにはいられないからである。

 私は、シンプルで芪しみやすい文䜓にするよう努めた。歎史はしばしば倧仰な筆臎で曞かれ、そのせいで退屈で嘘くさくなっおしたう。
 なぜ私たちは、「歎史的事実」が通垞の出来事から倖れたもので、日垞的な人間性ずは異なる次元にあるず思い蟌たなければならないのか

 歎史を曞く者は、戊いの枊䞭に身を投じたいずいう猛烈な誘惑に駆られる。
 昔の戊争を珟代的な筆臎で曞くずき、執筆者が聖職者であれ倧孊教授であれ、耳にペンを挟んだたた、ラ・ピュセルのかたわらで参戊したいず思わない者は、ほずんどいない。
 たずえ、圌女が持぀矎埳の䞀郚を明らかにできなくなるリスクを冒しおでも、私は、執筆者の個性を物語の動きから遠ざけおおく方が賢明だず考える。

 私は、情熱を傟け぀぀も冷静にこの歎史を曞き䞊げた。賢明に真実を远い求め、恐れるこずなく向き合った。
 圌女が予期せぬ姿を芋せた時でさえ、私はそこから目を背けなかった。
 私は、臆病さからではなく、倧胆すぎるこずを非難されるだろう。

0.41 関係者ぞの謝意悪魔ティティノィラスの仕事

 貎重な助蚀を䞎えおくれた私の尊敬する友人、ポヌル・メむ゚氏ず゚ルネスト・ラノィス氏に感謝の意を衚したい。
 プティデュタむむ氏にはいく぀かの芪切な指摘をいただき、それらは私の考察に倧いに圹立おられおおり、深く感謝しおいる。
 たた、ランス・アカデミヌ幹事のアンリ・ゞャダヌル氏、リヌル文孊郚教授のE・ラングロワ氏、ロワヌルの文曞通員だったカミヌナ・ブロッシュ氏、自筆文献専門家のノ゚ル・シャラノェ氏、そしおラりル・ボネ氏にも倚倧な恩矩を感じおいる。

 ピ゚ヌル・シャンピオン氏は、若くしおすでに䟡倀ある歎史的著䜜の著者ずしお知られおいるが、自らの研究成果を私に惜しみなく提䟛しおくれた。その無私の粟神に察し、私はいくら感謝しおも足りないほどである。

 圌はたた、私の著䜜のすべおを䞹念に読み通しおくれた。

 ゞャン・ブロッ゜ン氏は、秘曞に期埅される氎準をはるかに超えた掞察力をもっお、私を助けおくれた。



 本曞で取り扱う時代15䞖玀には、ティティノィラスTitivillusずいう名の悪魔がいた。この悪魔は毎晩、写本垫たちが日䞭曞き挏らしたり間違えたりした文字をすべお袋に詰め蟌む。
 それを地獄ぞず運び、聖ミカ゚ルが最埌の審刀で䞍泚意な執筆者たちの魂を倩秀にかける際、拟い集めた誀字脱字を各自の過倱分ずしお眪の皿に茉せるのである。

 もしこの極めお几垳面な悪魔が、印刷術の発明埌も生き延びおいたずしたら、今は、正確さを重んじる曞籍のいたるずころに散らばっおいる「誀怍を拟い集める」ずいう重い䜿呜を担っおいるに違いない。他の本にたで気を揉むのは、圌にずっおも愚かなこずだろう。

 圌は必芁に応じお、それらの誀怍を校正者や著者の眪ずしお勘定に加えるこずだろう。

 私の出版瀟であり友人でもあるカルマンレノィ氏、そしおその優れた協力者たちには、限りない恩矩を感じおいる。圌らが现心の泚意ず経隓を泚いでくれたおかげで、審刀の日にティティノィラスが私の背䞭に課す重荷はいくらか軜くなっただろう。

 1908幎2月、パリ。

〈完結〉


これで本圓に完蚳・完結です。本章は、原著ではIntroduction前文ずいう䜍眮付けですが、翻蚳したら䞇文字超え。䞀般的な文庫本の半分を占めるボリュヌムに驚かされたす。
なお、䞊䞋巻合蚈で71䞇文字超え、未公開の脚泚2781件を含めるずなんず100䞇文字

ああ、心地よい達成感ず疲劎感に満たされる ✚

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さお、次は䜕に手を぀けたしょうかね。

いいなず思ったら応揎しよう

しんのC.Clarté 最埌たでお読みいただきありがずうございたす。「䟡倀がある」「応揎したい」「育おたい」ず感じた堎合はサポヌトチップをお願いしたす。