
家族
家族LINEが朝から動いていて、普段は全く連絡なんて取らないものだから何事かと思ってみれば、また家を買うらしい。
隣の家が売りに出ていたようだ。次に誰かに買われてまた挨拶をして、敷地がどこからどこまでだとかそんなことをとやかくやっていくのが面倒らしい。親父らしい発想である。
休みの母が内見に行った。内見といっても普段外から目にしているので、あまり新鮮味はない。ただ、元から家の中がどうこうというより、隣だからという理由で購入しようという魂胆だから、契約はスムーズだ。
先日、妹が結婚して、その前に姉が結婚して、今年、ようやく実家は両親二人きりになった。正直、二人で住むには持て余した家だと思うが、それでも我々が帰る家である。
隣の家を買って敷地を広げて、あなたたちは寂しくならないのだろうか。ふとそんなことが頭をよぎった。ただでさえ、人が減ったのだから。
そこまで考えて、私はこの考えが過ちである、正確には本質はそこではないことに気づいた。両親はたしかに寂しいかもしれない。ただ、両親が寂しくないか心配する心、それは私自身の寂しさの投影に他ならないということだ。
寂しさは埋め合うものだ。あなたが寂しい、私も寂しい、だから一緒にいたい。しかし、それを簡単に共有することができる人間なんてそうそういやしない。ましてや、好きな人が寂しくないかと夢想するなんて、どれほど傲慢だろう。
家族はそれを簡単に乗り越える。私の寂しさは両親の寂しさにそのまま繋がってしまう。家族になるというのは、居場所になるということだ。居場所とは寂しさを埋める場所だ。その場所があるから、安心して家を離れ、私たちは旅に出ることができるのだ。
家に帰ろう。少しばかり敷地を広げ、やけに広く感じるだろうあの場所に、もう一度。そして、ただいまって一言告げて、母の作ってくれた料理を食べよう。
立派なドラ息子より。