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【短編小説】 ダイヤモンドの眼差し

     彼女のダイヤモンドの眼差しが、時を巻き戻す。

     西陽が鋭く射し込む中学校の美術室で、彼女は一心にスケッチブックに向き合っていた。

     美術部の顧問は、二時間以上前に石膏スケッチの課題だけ示して出ていってしまった。他の部員は早々に描き上げて帰っていき、部室にはもう私と彼女しか残っていない。鉛を指で擦る音は高らかなチャイムに揉まれ、鉛筆を走らせる音は女子テニス部の黄色い声に掻き消された。

     彼女の横顔に目をやる。鮮烈な陽に彩られて、長い睫毛の輪郭がほのかに光って見えた。

     手元を盗み見ることはできない。しかし、そのスケッチブックにどんな絵が生み出されているのか、私には容易に想像がついた。

     彼女がヴィーナスの石膏像を描けば、線の重なりにたちまち物語が滲む。頬の輪郭に、手を触れたくなるようなまろやかさと、確かな石の冷たさを宿す。彼女の線は、いつだって果てしなく雄弁だ。

     胸の奥に走った痛みを紛らわせようと、私は自分のスケッチブックに向き直る。そこに描かれているのは、石膏の形を写しただけの、ただの黒い線の重なりだった。ぐちゃぐちゃに引き裂きたくなるほど、そこには何の物語もない。美しさもない。ひたすらに、ただの線でしかない。手の中で、折れそうなほど鉛筆を握り締めた。


    「お母さん! 人魚姫だよ!」

     小さな女の子のはしゃいだ声で、私の意識は現在に引き戻された。

     ここは、中学校の埃っぽい美術室ではない。彼女が向き合っているのは大量生産のスケッチブックではない。きつく握り締めた私のてのひらには、鉛筆はない。

     あるのは、左手の小指に嵌めた、イミテーションのダイヤモンドの指輪だけだった。大学生のとき、初めてのバイト代で買った安物の指輪、それだけだった。

     そして、彼女の横顔を見ているのは、もう私だけではなかった。

     彼女は今、オープンしたばかりのショッピングモールにある小ステージで、ライブペインティングをしていた。漆黒の紙の上を走るのは、鉛筆ではなく白い絵の具を含ませた筆だった。もうただの見物人の内の一人に過ぎない今の私は、遠慮せずにその手元を注視することができた。

     穂先から生き生きと伸びる線が、漆黒に人魚の姿を描き出していく。

     段々とステージの周囲に人が集まり始めても、彼女は、ただ一心不乱に筆を動かしている。昔と変わらない、ダイヤモンドのように硬質で、清冽な眼差しが、紙の上を行き来する。

     海の水面から半身を出し、夜空を仰ぐその人魚は、星を映す大きな瞳を与えられ、何かを天に吐き出そうとするように薄く開いた唇を与えられ、あちこちに跳ねた短い髪を与えられた。あるべき線が、あるべき場所に描き足される。人魚の姿だけでなく、心までもが浮かび上がっていく。

     彼女はやがて、パレットに新しい絵の具を出し、新しい筆に含ませた。

     深く、ひと呼吸置く。

     そして、人魚の下瞼の辺りに細い穂先を置き、すっと滑らかに動かす。白と黒の世界の中で、ただ一本だけ煌めく銀色の線が、人魚の頬を伝い落ちる涙になる。

     遠い。とても遠い。果てしなく遠い。彼女は昔、手を伸ばせば届く距離にいた。中学校の美術室は、彼女の絵がどんなに美しくても、私と彼女を対等に扱ってくれた。それが今は――彼女はたくさんの観衆の前で絵を描く一人の画家になり、私はたくさんの観衆の中の一人になった。彼女の輝きに嫉妬する権利が、私にはもう、ない。そのことが、他の何よりも強く胸を貫く。

     彼女の傍らに設けられた作業台に、パレットが置かれた。

     その表情が凪いでいく。彼女は、自分が立っている場所がステージ上だとようやく思い出したのか、見物客を振り向いた途端に慌て出し、作業台につまずきそうになった。最前列の小さな男の子が「だいじょーぶ?」と心配そうに声をかけ、周囲の人々が穏やかに笑う。

     ステージ袖からイベントの進行役らしい男性が出てきて、「サインを」と囁いた。彼女は、「あっ」と慌てて筆を取り、何度も何度も書く位置とバランスを確認してから、時間をかけて、平仮名に月のモチーフを組み込んだサインを入れる。

     男性はにっこりと笑うと、「月城先生に大きな拍手を」と高らかに宣言した。ステージの周りで、明るい拍手が鳴り響く。彼女は居心地悪そうに肩の辺りをもじもじさせながら微笑んでいた。

    「月城先生、この絵のタイトルを教えてください」

     黒いマイクをおずおずと受け取り、彼女は「この、絵は……」とつかえながら答える。

    「タイトル、は……『人魚の月夜』です」

    「素敵なタイトルですね。どのようなメッセージやストーリーを込めたのか、ぜひ教えてください」

     彼女はしばし目を伏せた。場をつなぐように、「テーマなどはありますか?」と、男性が問うた。

    「テーマ……は、夜と、アンデルセンの『人魚姫』です。あとは……見てくださった方の想うことが、全てですし、彼女の――人魚の、彼女自身にも、きっと……心があって、人生があって、大切な存在が、いるはずなので、私からは……」

     マイクが口元から離された。男性の笑みにわずかな困惑が交ざったが、それはすぐに掻き消える。彼は、「では皆さん、もう一度大きな拍手を!」と観衆を煽り、ステージの周囲で弾けた音に満足げに目を細めた。

    「月城先生の作品は、本日の閉館時間までこちらに展示いたしますので、ぜひお近くでご覧ください。この後は月城先生のサイン会もございます! 画集がまだ若干数ございますので、ぜひこの機会に、あちらでお買い求めください!」

     彼がそう言い終える頃には、客は散り散りになっていた。気づけば十数人ほどが残るだけになっており、私も慌ててステージに背を向ける。

     そのとき、背後から女の子の声が聞こえた。

    「月城先生! この絵って、前に雑誌のインタビューでおっしゃっていた、『人魚姫』のお姉さんですか!?」

     熱っぽい口調に、思わず振り向いた。その少女は、かつての私たちと同じ制服に身を包んでいた。分厚い画集を胸に大切に抱きかかえて、ステージ上に立つ彼女を仰いでいる。スタッフの男性が、「お話はサイン会のときに……」と口を挟もうとした。

    「いえ……私の――妹弟子、なので」

     おっとりした静かな声と穏やかな微笑み。だが、男性に向けられた眼差しに、ダイヤモンドのような鋭さが滲んだことを、私は見逃さなかった。男性が「そ、そうですか……」と退散するには十分な気迫だった。

    「どうして、そう思うの?」

     眼差しを和らげ、ステージを降りて、彼女は問う。

    「えっと……月城先生、インタビューで、アンデルセンの『人魚姫』のことを、人魚姫じゃなくて、人魚姫のために魔女に髪を渡してナイフをもらった、お姉さんたちのほうに感情移入しちゃうって、おっしゃっていたので……」

    「うん、言った。でも……それだけ?」

    「絵の人魚の髪が、ばっさり切ったみたいだったのと、あと……泣いているのは、妹の人魚姫が、王子様を殺さないで泡になったからかなって……」

     彼女は笑った。勇者が旅の途中で、同じ志をもつ戦士に遭ったときのように笑った。

    「ありがとう。あなたが思う人魚の人生を……その想いを……ずっと、大切にしてあげて」

    「は、はい……!」

     少女の瞳に、はっとする。そこにもダイヤモンドがあった。これから輝きを増していくであろう原石にしかない、まだ鈍く、まだ青い光が、確かにそこにあった。

    「ありがとうございます!」

     少女はぺこりと頭を下げて、サインを待つ列の最後尾に並ぶ。彼女はその背中を見送ると、スタッフの男性に淑やかな会釈をして、サイン会用の机に着いた。

    「先輩!」

     横から声をかけられる。見ると、そこには焦り顔の後輩がいた。派手すぎないブラウンのアイシャドウの光沢と、ぱっちりした睫毛、トレンドのフェミニンなコーディネート。その姿が、今の私に付された肩書きを思い出させてくれる。

    「もう休憩時間終わってますよ。大丈夫ですか? 具合とか悪かったり――」

    「ううん、平気。ごめんね、すぐ戻るから」

    「本当に平気ですか? 冬物の品出しはバイトちゃんたちに任せてありますし、私たちのことも、もっと頼ってくださいね、チーフ!」

     頼もしく笑ってくれるのが有り難かった。「大変なときはそうさせてもらうね」と答え、店の方へ足を向ける。

     そして、こっそりと、イミテーションのダイヤモンドを右のてのひらで包みこんだ。


     
     
    心に芽生えたささやかな想いを、ひとつずつ掬い上げて大切に綴っていきます。私の紡ぐ言葉が、あなたの瞳に映る世界をより鮮やかに、より優しくする「魔法」になることを願って。童話『春を呼ぶ少女』の電子書籍配信中です。

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