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Obsolete P.I. case.2 港の事件

    前回のあらすじ


    1

    その日は、朝からじっとりとした湿気を含んだ曇天が港町を完全に支配していた。

    低い雲がちぎれ雲となって空を覆い、泥を溶かしたような灰色の海からは、潮の匂いに混じって重油と魚の腐敗臭が混ざり合った重い風が吹き抜けていく。古い赤レンガ造りの倉庫街、錆びついたクレーン、そして海鳴りのような軋み。この街はいつでも、急速に近代化していく世界の隅で、ゆっくりと錆びつきながら死を待っているような気怠さに満ちていた。

    港湾地区の最果て、1階にうらぶれたスナックが入った雑居ビルの急な鉄製階段を上がった先。そこに「檜木探偵事務所」はある。

    室内に漂うのは、長年染み付いたタバコのヤニの匂いと、安物のブレンドコーヒーの残り香、そしてジョシュ自身の関節から微かに漏れ出る潤滑オイルの匂いだった。使い込まれた革製のソファはスプリングがへたり、窓際のデスクには、所長でありジョシュの「恩人」でもあるベテラン探偵・檜木源一郎が愛用している灰皿が、主の不在を寂しそうに証明していた。

    檜木は現在、海外の大きな事件の動向を追うために長期の出張に出ており、もうしばらく連絡が途絶えている。留守を任されたジョシュだったが、ここ数日はまともな仕事が入っていなかった。

    ジョシュはトレンチコートの袖を滑らかに捲り上げ、自身の左の手首を見つめた。 人間の皮膚を模したリアルな人工皮膚はあえて施されていない。ソリッドな梨地の銀色に鈍く光るチタン合金のフレーム、精緻に噛み合うギア、そして微細な配線。彼は人間ではない。旧時代の軍事技術を転用され、民間の探偵として登録されたアンドロイドだ。

    人間のように呼吸を必要としない彼の胸部からは、ただ駆動部の熱を逃がすための冷却ファンが、規則正しい電子的なハミング音を静かに響かせている。

    (……内部バッテリーの劣化指数、残り12%。次回の定期メンテナンスでは、メインオイルの全交換と駆動ギアの微調整が必要だ。そのためには、少なくともあと数万ルピアの軍資金が要る。しかし、現在の事務所の銀行残高では、来月の家賃を払うだけで底を突く)

    人工頭脳が弾き出す冷酷な現実の数字に、ジョシュが内部プロセッサで小さく溜息をついた、その時だった。

    カランコロン、と入り口の古びたドアベルが、静寂を切り裂くようにけたたましく鳴り響いた。

    「おい、ジョシュ! いるか! 頼む、助けてくれ!」

    激しくドアを開け放ち、文字通り転がり込んできたのは、煤と機械オイル、そして安タバコの臭いを全身から漂わせた初老の男だった。禿げ上がった頭の汗を、油塗れの汚いタオルで拭いながら、男は怯えたように背後を振り返り、ドアの鍵を二重にガチリと閉めた。

    男の名は本多。この裏通りで、盗品まがいのジャンクパーツを違法に売り捌いている、街の吹き溜まりのような男だ。だが、ジョシュにとっては、不足しがちな交換用パーツや特殊なオイルを裏ルートで融通してくれる、数少ない「取引相手」でもあった。街の連中からは、歩くたびに膝の関節が鳴ることから「クランク」という愛称で呼ばれている。

    「落ち着いてください、本多さん。あなたのメインポンプの鼓動数が毎分140を超えています。それ以上の過負荷は脳卒中のリスクを跳ね上げますよ。椅子のスプリングは死んでいますが、座りますか?」

    「そんな冗談を言ってる場合じゃねえんだよ! 命がかかってんだ!」
    本多はカウンターにしがみつくようにして駆け寄ると、震える手でトレンチコートのポケットから、小さな金属製のパーツを取り出し、木製のデスクの上にコト、と置いた。

    それは、複雑な電子基板が細かく剥き出しになった、親指ほどのサイズの鈍く光るシリンダーだった。

    ジョシュの網膜ディスプレイが、瞬時にそのガラクタを捉える。光学的スキャナーが超高速で表面の結晶構造を解析し、一瞬でその正体を網膜上に映し出した。

    「……シリアルナンバーが特殊な高出力レーザーで、意図的に削り取られていますね。内部のフラッシュメモリには、軍用の高度な暗号化通信プロトコルが組み込まれている。これは……現行の軍用無人ドローンに使われている『自動操縦介入チップ』です。一般の市場に出回るはずのない、一級の違法軍事物資ですが。これをどこで?」

    「やっぱりそうか……! 俺の目に狂いはなかった!」
    本多は顔を青白く歪め、声を限界まで潜めた。 「つい二日前の事だ、見たことのない若い男が『これを言い値で買い取ってくれ』って店に持ち込んできたんだ。一目見て堅気じゃねえ。目が血走ってて、クスリでもやってんのかってくらいガタガタ震えてやがった。だがな、俺が『おい、これどこの出所だ? ヤバい代物だぞ、タダじゃ済まねえぞ』って一言指摘した途端、その男、完全にパニックになりやがってな。このチップを置いたまま、店から脱兎の如く逃げ出しやがったんだよ!」

    「客の素性は?」

    ジョシュの問いに、本多は首を横に振った。

    「名乗りもしねえ。ただ、男が着ていた古い緑のマウンテンパーカーの袖口にな、近くの『潮風アパート』の入居者用ゴミ袋の指定シールが偶然くっついているのが見えた。あの界隈の貧乏人が、港の倉庫かどこかでデカい密輸品から盗み出してきたに違いねえ。いいかジョシュ、俺は絶対にこのヤマに巻き込まれたくねえ。警察や軍の犬どもに嗅ぎつけられたら、俺の命なんて一発で消し飛ぶ。 頼む、その緑のマウンテンパーカーの若造を今すぐ見つけ出してくれ。そして、このヤバいガラクタをあいつの面に叩きつけて、どこから盗み出してきたのかゲロさせろ。あいつ自身の責任で、証拠も残さず完全に片付けさせるんだ。」

    ジョシュは机の上のシリンダーを拾い上げ、重みを感じながらトレンチコートのポケットに収めた。

    「分かりました。ちょうど、事務所の維持費のために仕事を探していたところです。……今回の調査費用ですが、前回のサイバーコア購入のツケと相殺、という形でよろしいですね?」

    「ああ、分かった、分かったよ! 利子も帳消しにしてやる! 背に腹は代えられねえ、頼んだぞ!」

    こうして、小さな街のジャンク屋からの、些細な「ガラクタの返却依頼」が成立した。

    本多の残した「潮風アパートのシール」という、あまりにも心許ない手がかりを頼りに、ジョシュは霧雨の降り始めた街へと繰り出した。

    港のすぐ近く、塩害でコンクリートがボロボロに崩れた「潮風アパート」は、街の最下層の人間たちが身を寄せる、二階建ての古びた木造建築だった。赤錆びた鉄骨の外階段は歩くたびに不気味な音を立て、建物の周囲には、不法投棄された家庭ゴミや中身の腐ったドラム缶が散乱している。

    しかし、シール一枚だけでは、このアパートのどの部屋に男が住んでいるのかまでは分からない。ジョシュはアパートの周辺で、足を使った地道な聞き込みから始めることにした。アンドロイドの計算能力をもってしても、人間の社会に隠れた個人を特定するには、結局のところ泥臭い対話が必要なのだ。

    まず目をつけたのは、アパートの向かいにある、日中から薄暗い赤提灯を下げた大衆酒場の前で、軒下に身を寄せながら煙草を吸っている初老の男だった。

    「すみません。少しお尋ねしたいのですが」
    ジョシュが声をかけると、男はジョシュのトレンチコートと銀色の無機質なフェイスを見て、面倒くさそうに顔を顰めた。

    「なんだよ、お巡りならあっちの交番にいるぜ。俺は何も悪いことはしてねえ」

    「いえ、警察ではありません。緑の、かなり着古されたマウンテンパーカーを着た若い男を探しています。少し猫背で、このアパートに出入りしているはずなのですが、見覚えはありませんか?」

    男は煙草の煙を深く吐き出し、記憶を辿るようにアパートを見上げた。
    「緑の上着ねぇ……。さあな、あの手の貧乏臭い若ん坊なんて、この界隈にゃゴロゴロしていやがる。他人の服なんていちいち覚えちゃいねえよ。ただ、そういや、二〜三日前だったか、夜中に上の階の階段をバタバタとせわしなく駆け上がっていく足音が聞こえたな。安物のスニーカーの音が、やけに響いて耳障りだった記憶はあるが……それだけだ。」

    「そうですか…いや、貴重な情報をありがとうございます。」
    ジョシュの人工頭脳が「安物のスニーカー」「夜中の帰宅」「階段を上がる足音」というノイズ混じりのデータを記録し、男の住居が二階である可能性を弾き出したところで、ジョシュは、アパートの駐輪場で錆びついた原付のエンジンを何度もかけようと、キックペダルと格闘している、若い配達員の青年の姿が目に止まった。

    「少し、よろしいでしょうか」

    「うわっ、びっくりした! なんすか、急に!」
    青年は突然背後に現れたアンドロイドに、目を丸くして飛びのいた。

    「緑のマウンテンパーカーを着た、猫背の若い男性を探しています。このアパートの二階に住んでいると思われるのですが、配達などで見かけたことは?」

    青年は首を傾げ、顎の汗を汚い袖で拭った。
    「あー……緑の上着……。あ、もしかして、いつも目が泳いでる挙動不審な奴のことですか? 名前は知らないすけど、二階の端の方の部屋ですよ。一昨日、荷物を届けに上がった時、廊下ですれ違ったんす。こっちが挨拶しても無視して、なんかブツブツ呟きながら部屋に入っていきました。あのマウンテンパーカー、フードの紐が片方だけちぎれてたから、よく覚えてます。確か……右から二番目か、三番目の部屋だったかな?」

    「フードの紐が片方ない、緑の上着ですね。部屋の番号は分かりますか?」

    「いや、そこまでは……。でも、あのあたりは204号室か205号室あたりっすね。いつもカーテンを真っ黒なやつに閉め切ってて、昼間でも明かりが漏れてない不気味な部屋ですよ。近所じゃ、ヤバいクスリでもやってるんじゃねえかって噂です」

    「助かりました。どうもありがとう。」
    ジョシュは青年にお礼を言うと、アパートの赤錆びた外階段へと向かった。

    男の特徴は完全に一致した。「緑のマウンテンパーカー」「フードの紐が片方ない」「猫背」「挙動不審」。そして部屋は二階の端、204か205。

    ギィ……ギィ……と不気味に軋む鉄骨の階段を上がり、ジョシュは二階の開放廊下を進む。海からの湿った風が廊下を吹き抜け、古いドアがガタガタと音を立てていた。 廊下の奥、204号室の前にたどり着いた。 薄汚れた鉄製のドアには表札もなく、横の窓には、先ほどの青年が言っていた通り、光を一切通さない遮光カーテンが隙間なく閉じられていた。内部からの生活音は一切聞こえない。

    だが、ジョシュの人工頭脳は、これまでの聞き込みデータと、アパートの1階に置かれた錆びついた集合ポストの状況を統合していた。ポストの奥に溜まっていた数日前の公共料金の督促状。そこに記されていた名は」──『守屋 駿(もりや しゅん)』。

    ジョシュは204号室の薄汚れたドアの前に立ち、鉄の指先で静かにノックを刻んだ。その乾いた音が、重苦しい曇天の空へと吸い込まれていく。

    2

    静まり返った廊下に、三度のノックの音が虚しく響くだけだった。

    「……守屋さん。私は檜木探偵事務所のジョシュという者です。ジャンク屋の本多さんの代理で、お届け物にあがりました」

    返ってくるのは、遠くの第四ドックから響く重苦しい貨物船の汽笛の音だけだった。錆びついた手すりを伝って、霧雨が冷たく廊下の床にシミを作っていく。 居留守か、あるいはまだ街を彷徨っているのか。 そう判断し、一度引き返して本多の店にチップを預け直そうと、ジョシュが踵を返しかけたその瞬間だった。

    彼の人工頭脳に組み込まれた、微細な化学物質の分子構造を検知する嗅覚センサーが、予期せぬエラーログを排出した。警告の赤いラインが、彼の網膜ディスプレイの隅で激しく点滅を始める。

    鉄製のドアの隙間、ゴムパッキンが長年の潮風で劣化し、ボロボロに浮き上がった僅かな隙間から、何かが廊下へと漏れ出ていた。

    (──高濃度の鉄分。生体内におけるヘモグロビンの急激な酸化反応。そして、人間の生体組織が機能を停止し、周囲のバクテリアによって変質し始めた際に出る、特有のノイズガス……。これは、血液、そして死臭か)

    アンドロイドの思考回路が、瞬時に最悪の計算結果を弾き出す。 警察や、融通の利かない警備員であれば、ここで異常事態と判断してドアを力任せに蹴破るところだろう。チタン合金で補強されたジョシュの脚力をもってすれば、この程度の腐食した安物の鉄扉など、ラッチごと一撃で吹き飛ばすことは容易だった。

    しかし、ここは薄い合板の壁一枚で隣室と隔てられた、築四十年の木造アパートだ。派手な騒音を立てれば、もし万が一、室内に犯人が潜んでいた場合、反対側の窓から旧市街の路地へと逃走されるリスクがある。何より、師である檜木源一郎から徹底的に叩き込まれた、探偵としての「目立たず、静かに、確実に」という行動のルーティンが、彼のフレームに深く刻み込まれていた。

    「……今は非常事態だ、仕方ないッ…」

    ジョシュはトレンチコートの右手をポケットに入れたまま、周囲の気配をセンサーで警戒しつつ、静かに左手を伸ばした。 人差し指の先端。銀色の金属皮膚が滑らかに、かつ無音でスライドし、中から極細の超硬質チタン製マルチピックが音もなく伸長する。それを薄汚れた鍵穴へと、愛撫するように滑り込ませた。

    カチ、カチ、カチ……。

    人工頭脳が、鍵内部の小さなピンが弾かれる微細な反発力を、コンマ数ミリグラム単位の圧力センサーで計算していく。ピンの摩耗具合、内部に溜まった埃の抵抗。人間なら専門の道具と数分間の緊迫した時間を要する精緻なディスクシリンダー型の鍵を、ジョシュはわずか四秒で完全に攻略した。

    パチリ、と静かな解錠音が、湿った空気の中に溶ける。

    ジョシュは音を立てずにドアノブを回した。トレンチコートの裾が静かに揺れ、彼はいつでも駆動出力を最大へ移行できるよう、全身のサーボモーターの電圧を引き上げながら、薄暗い室内に音もなく滑り込んだ。

    「動かないでください、檜木探偵事務所の──」

    言いかけようとしたジョシュの音声プロセッサが、途中で完全にフリーズした。

    室内は、不気味なほどに静まり返っていた。 部屋の明かりは、切れかかった蛍光灯がチチチ……と弱々しく不規則に点滅している。四畳半ほどの狭い一間。万年床の、汚れた毛布の上で、本多の言っていた通りの「緑のマウンテンパーカーを着た若い男」が、仰向けに倒れていた。

    その胸元から顎にかけては、口から大量に吐き出された鮮血でどす黒く染まっており、男の目は何か恐ろしいものを見たかのように見開かれたまま、色を失った瞳で天井のシミを見つめている。 ジョシュが視覚センサーを通常光からサーモグラフィへと切り替えた。画面に映し出される遺体の表面温度は、すでに周囲の室温(摂氏18度)と完全に同化しつつあった。生体反応は完全にゼロ。心拍、呼吸、脳波、すべてが完全に停止している。守屋駿は、すでにこの世を去っていた。

    ジョシュはすぐさま部屋の窓へと目を向けた。 横に並ぶ二つのアルミサッシの窓。その中央にあるクレセント錠は、いずれも内側からしっかりと締め切られ、上から埃を被った黒い遮光カーテンが隙間なく閉じられている。

    床を走る不審な細い糸も、遠隔操作のための不自然な仕掛けも、アンドロイドの拡大光学レンズには映らない。今入ってきた玄関のドアも、確かに外側からは施錠されていた。 物理的に、犯人が外へ出た後に中から施錠することは不可能な空間──完全なる「密室」が、そこに完成していた。

    「……外からの侵入経路、および脱出経路は存在しない。物理的孤立空間…」

    ジョシュは銀色のフェイスに蛍光灯の冷たい光を反射させながら、静かに呟いた。 ただのガラクタの返却依頼。それがこの瞬間、逃げ場のない底なしの迷宮へと姿を変えた。ジョシュはトレンチコートの内ポケットから通信端末を取り出し、この街の混沌を一身に背負う男の直通番号を呼び出した。

    「おいおいおい、ジョシュ。お前が関わると、どうしてこう一筋縄でいかねえヤバいヤマになるんだ?」

    一時間後。現場に到着した地元のベテラン刑事、池田は、きつく結んだネクタイを不機嫌そうに緩めながら、狭い室内を油臭い靴で歩き回っていた。 彼の後ろでは、青い制服を着た鑑識の人間たちが無言でカメラのフラッシュを浴びせ、床にへばりついて指紋の採取に追われている。

    池田はこの街の裏も表も、人間の腐った部分もすべて見てきた男だ。しわが深く刻まれた顔に、鋭い野獣のような眼光。彼は遺体の状況と、遮光カーテンに閉ざされた窓を交互に見つめ、それからやれやれと言った風に、首の骨をボキボキと鳴らした。

    「争った形跡はねえ。引き出しが荒らされた様子も、金目のものがなくなっている様子もねえな。それに、お前が入ってきた時、鍵はしっかり閉まってた。窓もこの通り、内側からロックがかかってる。鑑識の最初の報告じゃ、外からの侵入の形跡は一切なし、だそうだ。……おいジョシュ、これはどう見てもアレだろ。」

    池田はポケットからヨレヨレの煙草を取り出し、咥えようとして、鑑識の主任に鋭く睨まれ、苦々しくポケットに引っ込めた。

    「ただの自殺、あるいは突発的な自決だ。この界隈じゃ、明日の飯に困って首を吊るか、ヤバいクスリのオーバードーズで死ぬ奴なんて珍しくもねえ。この完璧な密室ってのが、何より本人が自分で命を絶ったっていう、動かぬ証拠だよ。」

    池田刑事は現場の状況だけを見て、経験則からそう結論づけようとしていた。しかし、ジョシュの高性能なセンサーは、その「自殺」という安易な結論に対して、明確な『論理的エラー』を叩き出していた。

    3

    「ただの服毒自殺だろ」

    池田刑事は、守屋駿の遺体から視線を外し、吐き捨てるようにそう言った。
    「完全な密室、外傷もなし、争った形跡もねえ。裏社会のヤバい代物に手を出して、いよいよ逃げ場がなくなって自分で毒を煽った。ミステリーの読みすぎじゃなきゃ、誰だってそう判断する。違うか、ジョシュ?」

    ジョシュは答えない。彼は静かに遺体の傍らに膝をつき、トレンチコートの裾が汚れるのも構わずに顔を近づけていた。 その銀色のフェイスの奥で、人工頭脳がフル稼働している。

    「……いいえ、池田さん、」
    ジョシュの音声プロセッサが、低く平坦な、しかし確信に満ちた音を奏でた。
    「彼は、毒を飲まされたんです。」

    「あ? 何を根拠にそんなことが言える。部屋にはあいつ一人しかいなかったんだぞ?」

    「匂いです。」
    ジョシュは遺体の口元、そして床に広がった吐瀉物を指差した。
    「私の嗅覚センサーが、胃酸と混ざり合った微量な成分を検知しています。これはシアン化ナトリウム、──いわゆる青酸系化合物です。極めて即効性が高く、致死量を摂取すれば人間は数十秒で心停止に至る。」

    「だから、それを自分で飲んだんだろ?」
    池田が呆れたように肩をすくめる。

    「では、肝心の『毒薬の容器』はどこにありますか?」
    ジョシュが立ち上がり、遮光カーテンで薄暗い室内を見渡した。
    「彼が自分の意志で液体、あるいは粉末の青酸ソーダを飲んだのだとすれば、それを入れていた瓶や包み紙、あるいはスプーンといった『容器』が遺体の手の届く範囲にあるはずです。しかし、この狭い部屋のどこを見渡しても、毒物の容器は見当たらない。鑑識の皆さんも、まだそれらしきものは発見していませんね?」

    「それは……」
    池田の言葉が詰まる。確かに、自殺を試みた人間が、毒を飲んだ直後に容器を完全に隠滅してから絶命するというのは、時間的にも物理的にも不可能だ。

    「彼は毒を『何か』に仕込まれ、それとは知らずに胃に流し込んだ。だから容器が存在しないのです。」

    ジョシュの網膜ディスプレイが、室内のログを再スキャンする。 散らかった万年床の枕元、くしゃくしゃになった雑誌の隙間に、それはあった。 透明なプラスチックと銀色のアルミでできた、市販の薬のアルミシート(PTP包装)だ。

    「池田さん。守屋駿について、何か事前の医療データはありますか?」

    「あ? いや、まだそこまでは……だが、確かこいつの雇用記録の健康診断書に、重度の喘息持ちだって記載があったはずだな。季節の変わり目にはよく発作を起こしてたらしい」

    「やはり。」
    ジョシュはピンセットを使い、そのシートを慎重に拾い上げた。
    「これは、発作を抑えるための気管支拡張薬のカプセルです。シートは一箇所だけ破られており、中身が消費されている。守屋駿は、突発的な発作に襲われ、いつも通りこの常備薬を口に運んだ。しかし──」

    ジョシュの視覚センサーが、最大倍率までズームする。 残されている他の未開封のカプセル。そのうちの一つの、プラスチックとアルミの接着面に、顕微鏡レベルの歪みを発見した。

    「……カプセルの噛み合わせが、コンマ数ミリだけ斜めにズレています。さらに、接合部の周囲に、市販の医薬品には絶対に使用されない『安価な瞬間接着剤』の粒子が付着している」

    池田刑事が顔を近づけ、目を細めた。
    「おい、まさかそれって……」

    「ええ。何者かが、あらかじめ守屋駿の常備薬をシートごと盗み出すか、あるいは彼の隙を見て持ち去り、一度カプセルを分解して中身をシアン化ナトリウムにすり替えた。接着剤で綺麗に閉じ直し、未開封に見せかけて戻しておいたんでしょう。」

    ジョシュのロジックが、静かに池田刑事の脳細胞を揺るがしていく。

    「守屋駿は、ただ発作が起きたから自分の薬を飲んだだけです。自分が猛毒を飲み込んでいるとは夢にも思わずに。だからこそ、犯人がこの部屋にいる必要はなかった。犯人は何日も前に『密室の種』を仕込んでおき、守屋駿が自分の手でそれを発動させるのを、安全な場所で待っていればよかったのです。」

    池田刑事は咥えていた煙草をポロリと床に落としそうになり、慌てて手で受け止めた。しわだらけの顔が、驚愕と、ベテラン刑事としての闘志で引き締まっていく。

    「なるほど……。中身をすり替えられてたって訳か。自分で鍵を閉めた部屋の中で、自分の薬を飲んで死んだ。だから完璧な密室になった……」
    池田は帽子を目深に被り直し、ジョシュを睨みつけた。
    「だが、一体誰が? 誰がそこまでして、このコソ泥の若者を殺す必要がある?」

    「それを探るのが、我々探偵と、警察の仕事でしょう?」

    ジョシュはトレンチコートのポケットの中で、本多から預かった「軍用ドローン介入チップ」に触れた。 守屋駿がこの部屋で命を落とす原因となった、あの小さなガラクタ。 事件の引き金はすでに判明している。ならば、次に追うべきは、この被害者がどこでその引き金を引いてしまったのか、その足跡だ。

    4

    「守屋駿の勤務先は、港の第三ドックにある『旭日海運輸入』だ。まずはそこの身辺から洗うぞ。」

    池田刑事の先導で、ジョシュは陰惨なアパートを後にした。 曇天の空からは、いよいよ細かい霧雨が本格的な雨へと変わり始めていた。冷たい雨がジョシュのトレンチコートを重く濡らし、銀色の金属フェイスに小さな雫を作っては、顎のラインへと滴り落ちていく。

    『旭日海運輸入』は、最新鋭の大型クレーンやコンテナが整然と並ぶ、近代的な港湾地区の一角に立派な自社ビルを構えていた。受付を通り、案内された最上階の社長室は、ふかふかの高級絨毯が敷き詰められ、壁には年代物の帆船の模型や精緻な海洋絵画が飾られた、いかにも成功者の部屋といった趣だった。

    「おや、警察の方ですか。それに……探偵さんもご一緒とは……」

    大きなマホガニーのデスクから立ち上がって二人を迎えたのは、仕立ての良いグレーのスーツをスマートに着こなした男──社長の神崎だった。 白髪交じりの短髪を綺麗に整え、その顔には、どこか疲れたような、しかし誠実そうな微笑を浮かべている。

    「守屋くんが亡くなった? ……まさか、そんな。まだ若いのに、一体どうして」
    神崎社長は池田刑事から守屋の死を知らされると、ショックを受けたようにデスクの端にそっと手を突き、本当に気の毒そうに眉をひそめた。

    「彼は確かに、うちの倉庫で働く契約作業員でした。少し遅刻癖はありましたが、現場からは真面目にやっていると報告を受けていたのですが……。生活に困窮しての自殺ですか? 本当に残念だ。うちの会社としても、できる限りの支援はしたかったのですが。何か力になれることがあれば、警察には全面的に協力しますよ。倉庫のシフト表や、彼の勤務態度についての書類など、すぐに用意させましょう」

    「ありがとうございます、神崎社長。お忙しいところ、突然失礼しました。また何かあれば伺います。」

    池田刑事はそう言って、素直に頭を下げた。神崎社長の態度はどこまでも協力的で、一人の若い契約社員の死を心から悼む、絵に描いたような「まっとうな民間企業の経営者」そのものだった。ジョシュの視覚センサーや音声解析プロセッサも、神崎の表情や仕草、声のトーンから不審な点──過度な緊張や嘘の兆候は、一切検知しなかった。

    二人が社長室を退出し、静かな廊下に出たところで、池田刑事が口を開く。
    「神崎社長のところはシロだな。あの手の経営者が、契約作業員の一人の死に個人的に関わってるとは思えねえ。会社の背景としても至って健全、社員想いの良い社長だ。……となると、やっぱり守屋自身の『裏の顔』だな」

    「ええ。」
    とジョシュは平坦な声で同意した。
    「神崎社長には不審な点は見受けられません。追うべきは別の線です。」

    池田刑事は歩きながら、守屋の部屋のゴミ箱から鑑識が回収した、一枚の薄汚れた感熱紙の切れ端をジョシュに提示した。

    「守屋の部屋から出た、古い領収書だ。クランクの店じゃねえ。旧市街にある、別のジャンク屋の枠だな。お前の目で何か読み取れるか?」

    ジョシュがその切れ端に視覚センサーの焦点を合わせ、ミクロン単位でスキャンする。油で汚れてかすれた文字の奥に、奇妙な数列と、悪名高き店の名が刻まれていた。

    「……『シャーク』。旧市街の廃工場跡で違法パーツの密売や盗品売買を行っている、街のゴロツキたちの巣窟ですね。この羅列された数列は、裏社会の暗号通信コードのプロトコルです。」

    「ビンゴだ。」
    池田はコートの襟を立て、雨の降る外へと歩き出した。
    「守屋の奴、クランクの店にあのヤバい軍用チップを持ち込む前に、この『シャーク』ってジャンク屋と何らかの交渉をしてやがった。話がこじれて消されたか、あるいは口封じか。どっちにしろ、あの薄汚い鮫の顎をこじ開けて、ゲロさせるしかねえな。」

    二人が向かった旧市街は、近代的な港湾地区とは対照的な、時間が完全に崩壊して取り残されたような廃墟の街だった。 錆びついた鉄板で補強された古い倉庫、割れた窓ガラス、ネオンの消えかけた怪しげな店舗が並ぶぬかるんだ路地を抜け、一番奥にある崩れかけたレンガ造りの廃ビルへと足を踏み入れる。

    そこが、違法ジャンク屋「シャーク」の店舗だった。

    薄暗い店内には、泥と油にまみれた大型車のエンジンパーツや、出所不明の軍用通信機器などが、乱雑に天井から吊り下げられ、不気味な影を落としていた。

    「おい、誰の許可をもらって入ってきてやがる!」

    奥のカウンターから、片目に深い傷のある、熊のようにガタイのいい大男が姿を現した。彼こそが、この店の主であり、裏社会の仲介人でもある「シャーク」だった。 シャークはジョシュの銀色のフェイスと、池田の警察手帳を交互に見つめ、ペッと床に痰を吐いた。

    「けっ、いつからお巡りさんはお人形遊びにしけ込むようになったんだ?何の用だ。うちはまっとうな中古品しか扱ってねえぞ。とっとと失せな」

    「とぼけるな、シャーク。」
    池田刑事は一歩前へ出て、守屋の領収書のコピーを荒々しく机に叩きつけた。
    「守屋駿。お前のところでこの暗号領収書を切られた若いのが、自宅の密室で毒を飲んで死んだ。お前、あいつが持ち込んだ『軍用チップ』を巡って、何らかのトラブルを起こしてたんじゃねえのか? 正直に吐きな。」

    その名を聞いた瞬間、シャークの片目が僅かに細まり、狂犬のような凶暴な光を宿した。

    「守屋だと? ……ハッ、あのクソガキ、死にやがったか。いい気味だぜ!」
    シャークはせせら笑いながら、ゆっくりとカウンターの裏へと手を伸ばした。
    「だがな、サツの旦那。俺を疑うのはお門違いだ。俺はあいつに裏切られた被害者なんだよ。……おい、お前ら。泥棒猫の仲間が、わざわざ自分から袋小路に飛び込んできてくれたぞ。手厚くもてなしてやれ!」

    シャークが短く口笛を吹くと、薄暗いジャンクの影から、バールや大型のボルトクリッパーを持った、ガラの悪いボディガードの男たちが4、5人、音もなく這い出てきた。彼らの手にある武器には、違法に改造された高圧電流の不気味な火花が散っている。
    「おいおい、これじゃあまるで自白してるようなもんbじゃねぇか。」
    池田刑事が鼻で笑う。

    「なんとでも言いやがれ。最近腕が鈍ってたんだ。少し暴れさせて貰うぞ?……やれ!」

    シャークの冷酷な短い一言が、廃工場の重苦しい空気を切り裂いた。

    5

    シャークの号令を待たずに、薄暗いジャンクの影から四人のゴロツキが地を蹴った。先頭の男が振り下ろしたのは、カスタムされた重いスタンバトン。高圧電流の青白い火花がバチバチと不気味な音を立て、湿った空気を焦がすオゾン臭が鼻腔を突く。

    「ジョシュッ!」
    池田刑事が懐の拳銃に手を伸ばすが、狭い室内での不意打ちだ。人間の反射速度では、肉薄する金属の凶器を躱しきれない。

    だが──ジョシュの人工頭脳にとって、その突進は退屈なほどに緩慢なコマ送りの映像に過ぎなかった。

    (──敵対個体:4。内、電撃兵器保有:2。バール保有:2。池田刑事への到達予想時間:1・2秒。よしっ……)

    ジョシュの網膜ディスプレイに一瞬で無数の幾何学的な軌道線が描かれ、関節のサーボモーターが静かに駆動音を上げた。

    「池田さん、下がって!」

    ジョシュはトレンチコートの裾を翻し、一歩前へ踏み込んだ。 最初の一撃──スタンバトンがジョシュの頭部を狙って横薙ぎに払われる。ジョシュは首を僅かに傾げてそれを紙一枚の差でかわすと、がら空きになった男の懐へ滑り込んだ。 銀色の左手が、電光石火の速さで男の手首を掴む。チタン合金の指先が万力のような力で圧迫すると、ゴロツキは悲鳴を上げてバトンを落とした。ジョシュはそのバトンが床に落ちる前に右手でキャッチし、そのまま男の腹部へと突き入れた。

    「ガ、アッ……!」
    自らの武器から放たれた強烈な電流が身体を駆け巡り、男は白目を剥いて床に崩れ落ちる。

    「この野郎!」
    左右から同時に二本のバールが容赦なく襲いかかる。逃げ場のない挟み撃ち。しかしジョシュは避ける動作すら選択しなかった。

    ガキィン! と、廃工場内に耳を劈くような激しい金属音が響き渡る。

    ジョシュは両腕を交差させ、トレンチコートの袖で直接バールを受け止めていた。衣服の布地は裂けたが、その下にあるソリッドな銀色の装甲は傷一つついていない。バールを振り下ろした男たちの腕に、逆に硬質な金属を叩いた凄じい衝撃波が跳ね返り、彼らの体勢が大きく崩れた。

    「……私は中古品ですが、錆びついてはいませんよ。」

    ジョシュは掴んだバールを力任せに引き寄せ、二人のゴロツキの頭部を正確に激突させた。鈍い音が響き、二人は糸の切れた人形のように重なって倒れ込む。

    わずか数秒で三人が沈んだ。残る一人が恐怖に顔を歪め、カスタムされたボルトクリッパーを滅茶苦茶に振り回しながら後退りする。

    ジョシュは静かにその男へ歩を進めた。トレンチコートの右手をポケットに入れたまま、左手の親指を立て、人差し指を男の眉間へと向ける。 それは、ジョシュの持つ暗殺機能──『指鉄砲』の構えだった。

    「ひ、ひぃっ……!」
    男が恐怖のあまり武器を落とし、頭を抱えてうずくまる。

    ジョシュは引き金を引くように親指を振り下ろした。 カチリ、と小さな機械音が鳴り響き──直後、ジョシュの指先からではなく、彼のボディの排気口から、強烈な爆音と盲烈な閃光が放たれた。アンドロイドの冷却機構を一時的に過負荷させて生み出す、非殺傷の威嚇音響弾。

    ドンッ!!!

    狭い廃工場全体が激しく震動し、凄まじい光と轟音がゴロツキたちの三半規管を完全に破壊した。最後の男も、そして奥で戦況を見ていたシャークも、あまりの衝撃に耳を押さえて床に転がり、激しく悶絶した。

    静寂が戻った店内。 硝煙のような微かな冷却蒸気を体から立ち昇らせながら、ジョシュはゆっくりと手を下ろした。トレンチコートの破れた袖から覗く銀色のフレームが、怪しげなジャンクの光を反射して冷たく輝いている。

    池田刑事が唖然としながら、構えかけた拳銃をゆっくりとホルスターに戻した。
    「おいおい……相変わらず容赦のねえヤツだ。少しは俺の出番も残しておけよ」

    「手荒な真似をしてすみません、池田さん。ですが、これでようやく『話し合い』の席に着く準備ができました」

    ジョシュは、床にへたり込んでガタガタと震えているシャークの前まで歩み寄った。 その銀色の冷徹な瞳で見下ろされると、旧市街を牛耳る「鮫」は、完全に牙を抜かれた哀れな魚のように小さく縮こまっていた。

    6

    「待て! 悪かった、俺の負けだ! 頼むからその指を向けんのはやめてくれ!」

    床にへたり込んだまま、シャークは両手を激しく振って命乞いをした。かつての凶暴な面影はどこにもない。ジョシュの放った過負荷による音響弾で完全に三半規管を狂わされ、視界も定まらないまま、ただ目の前に立つ「銀色の死神」に怯えていた。

    池田刑事が容赦なくシャークの太い腕を後ろに回し、冷たい手錠をガチリと嵌めた。

    「観念しな、シャーク。公務執行妨害に殺人教唆、おまけにこの店のヤバい違法在庫の山だ。お前をこの街のブタ箱の一番深いところに放り込むにゃ、これだけでもお釣りがくるぜ。」
    池田はシャークの胸ぐらを荒々しく掴み上げ、埃っぽい壁に押し付けた。
    「さあ、吐いてもらおうか。守屋駿を自殺に見せかけて殺したのはお前だな? 」

    「ち、違う! 俺じゃねえ! 俺は殺してねえ!」
    シャークは顔を血の気のない白に染め、必死に首を横に振った。
    「確かに守屋の野郎は、うちのシマをかすめてあの軍用ドローンチップを盗み出しやがった。だが、俺があいつを捕まえて絞り上げようとした時には、もう別の『デカい買い手』にブツを流す約束を取り付けちまってたんだ!」

    ジョシュが静かに一歩前へ出た。破れたトレンチコートの袖から覗く銀色のフレームが、薄暗い店内の裸電球に照らされる。

    「その『デカい買い手』とは誰ですか? 守屋さんは誰と取引を?」

    「知るかよ! 連絡はいつも匿名、報酬は海外の裏口座経由だ!」
    シャークは叫ぶように言った。
    「だがな、その買い手の野郎……守屋がチップを持ってクランクの店に現れたって知った途端、完全にパニックになりやがった。チップが警察や他の組織に渡るのを恐れたんだ。だから俺に連絡してきて、『守屋を処分しろ。あいつの喘息の常備薬に仕込め』って、わざわざシアン化ナトリウムの入ったカプセルを直接ここのポストに入れていきやがったんだよ!」

    池田刑事とジョシュの間に、緊迫した視線が交錯する。

    「お前、そいつに命令されて、守屋の部屋に忍び込んで薬をすり替えたのか?」
    池田の問いに、シャークは力なく答えた。

    「 あの買い手の野郎、狂ってやがるんだよ……。守屋の身辺を徹底的に洗わせたらしく、あいつが重度の喘息持ちだってことも、昼休みは大部屋の更衣室が無人になることも、私物バッグのロッカーの番号まで最初から全部掴んでやがった。 大企業の自社ビルだ、セキュリティが厳しくて俺たちゴロツキじゃ入れねえ。だからその買い手は、『会社の定期清掃が入る日の昼、清掃員のふりをして裏口から入れ。警備の巡回ルートと防犯カメラの死角はこっちで全て細工しておく』って、完璧な侵入ルートの指示書まで送ってきやがったんだ。俺は、その通りに動いてロッカーの薬をすり替えただけだ!」

    ジョシュの人工頭脳が、シャークの言葉の信憑性をリアルタイムで解析する。 (音声の周波数、呼吸数、眼球運動のパターン……すべて正常。シャークは嘘をついていない。彼は本当に、ただの『手先』に過ぎない)

    「……つまり、真犯人は守屋さんの勤務実態だけでなく、彼の社内での行動パターン、私物の置き場所まで完璧に把握している人間…いや、把握する手段を持っていた人間ということになります。」
    ジョシュが静かに呟いた。

    「そいつは誰だ、シャーク! 連絡してきた相手の、何か手がかりはないのか!」
    池田がシャークを激しく揺さぶる。

    「だから、顔も名前も知らされてねえって言ってるだろ! 連絡は全部、使い捨ての暗号通信端末だ。ただ……その端末に残ってたログと、俺の口座に金が振り込まれた時の、中継ルートのデータなら、奥のメインPCに残ってる。俺に分かるのはそれだけだ! 本当だ、信じてくれ!」

    ジョシュはシャークを池田刑事に任せ、店の奥にある油塗れのデスクへと向かった。 そこには、何十台ものジャンクパーツを無理やり繋ぎ合わせたような、薄汚い自作のコンピューターが置かれていた。

    「さて…やりますか。」

    ジョシュの右手の指先からデータ転送用のプラグが伸長し、PCのポートへと接続される。 ジョシュの網膜ディスプレイに、膨大な暗号化されたデータストリームが超高速で流れ始めた。裏社会の資金洗浄ルート、偽装されたIPアドレス、何重にも組まれたプロキシサーバー。人間なら解析に数週間を要するサイバーの迷宮を、探偵アンドロイドの電子頭脳が猛烈な速度で解体していく。

    「……偽装を解除。資金の逆探知、完了しました」

    全ての暗号が剥ぎ取られ、最後に残った一本の細い線が、ある「場所」へと真っ直ぐに繋がった。

    画面に映し出されたその発信元の住所、および口座の真の名義人を見た瞬間、池田刑事は息を呑み、ジョシュの人工頭脳は一瞬、完璧な論理の火花を散らした。

    「こいつは驚いた…。」
    池田刑事が、思わず呟いた。

    「だが、あと一つだ。決定的な証拠が足りない。」
    一歩先で、犯人の尻尾を掴める距離に行ける。その歯痒さに池田刑事の奥歯が鳴った。
    「いいえ、もしかしたら…」
    ジョシュの瞳は外に止めてある、一台の車を捉えていた。
    「一つ、確認したいことがあります。」


    7

    激しい雨が、輸入会社の社長室の広いガラス窓を叩いていた。
    「旭日海運輸入」その社長室には、昼間とは打って変わって、張り詰めた沈黙が満ちている。

    「……夜分遅くに、一体何の真似かね。警察の捜査に協力は惜しまないと伝えたはずだが、こんな時間に押し入ってこられては困る。明日にしてくれないか?」

    デスクの後ろで、神崎社長は不機嫌そうに書類から目を上げ、眼鏡を外した。その表情には、昼間見せた穏やかな微笑はなく、大企業のトップとしての威圧感だけが漂っていた。

    「悪いな、神崎社長。だが、ホカホカの特大のネタが手に入っちまってな。夜明けまで待つなんて、せっかちな性分じゃねえんだ。」
    池田刑事がずぶ濡れのトレンチコートのまま、ふかふかの絨毯を踏みしめて前へ出る。その隣には、銀色のフェイスにオフィスの蛍光灯を冷たく反射させたジョシュが、静かに佇んでいた。

    神崎は鼻で笑い、背もたれに深く寄りかかった。 「守屋くんの事件かい? だから、彼は自殺だろう。それとも、私の会社が彼を追い詰めたとでも言いたいのかね。労働基準監督署にでも駆け込めばいい。」

    「いいえ、神崎社長。彼は自殺ではありません。遠隔操作による密室殺人です。」
    ジョシュの平坦な音声プロセッサが、静寂を切り裂いた。

    「密室殺人? 馬鹿馬鹿しい。仮にそうだとして、私に何の関係がある。私は彼が死んだとされる時刻、政財界の人間が百人も集まる豪華なレセプションパーティーに出席していた。多くの人間が私を見ている。完璧なアリバイがあるんだよ。」

    「ええ、あなたの言う通り、あなたがパーティー会場でシャンパンのグラスを掲げていたその瞬間、守屋さんのアパートには、誰も侵入していませんでした。」
    ジョシュは一歩、デスクへと近づいた。
    「窓もドアも、内側から完璧に施錠されていた。なぜなら、彼自身の『手』で、死の引き金を引かせたからです。」

    ジョシュは懐から、あの細工された常備薬のアルミシートの写真をデスクに滑り込ませた。

    「あなたは社長という立場を利用し、守屋さんの雇用記録から彼が重度の喘息持ちであることを知った。さらに部下に命じて彼の社内での行動パターンを完全に監視させ、私物ロッカーの番号まで把握した。 横領の疑惑があるとか理由をつけてね。その上で、下請けのジャンク屋である『シャーク』を脅して偽のカプセルを作らせ、自社のセキュリティシステムを内側から一時的に改ざんして、彼を清掃員として更衣室へ手引きした。……完璧な遠隔殺人計画です、神崎社長。」

    神崎の眉が、ピクリと僅かに跳ね上がった。

    「守屋さんは、あなたが海外から密輸した軍用のドローン介入チップを、それとは知らずに倉庫から盗み出した。しかし運良く、守屋はあなたが利用している違法ジャンク屋のシャークの元に持っていた。上手く行けば回収することができる。しかし残念な事に交渉は決裂。それに気づいたあなたは、チップが外部に漏れるのを恐れ、シャークに口封じを計画し命じた。……シャークの供述、および彼のPCから検出された裏口座の資金洗浄ログは、すべてあなたのプライベート口座、そしてこの執務室の暗号通信端末へと真っ直ぐに繋がっています。」

    神崎の顔から、完全に表情が消えた。彼はゆっくりと眼鏡をデスクに置き、冷酷な、低く濁った声で吐き捨てた。

    「……フン、状況証拠ばかりだな。そんな電子データなど、いくらでも偽造できる。下請けのゴロツキが、自分の罪を私になすりつけるために嘘をついているだけだと言ったらどうする? 大企業の社長である私の言葉と、裏社会のゴミ溜めにいる男。直接関わりがあったのならまだしも、この二人の言葉、裁判所はどちらを信じると思うかね?」

    神崎は勝ち誇ったように冷たく笑った。
    「私をこの部屋から連れ出したいなら、もっと言い逃れのできない、決定的な証拠を持ってくるんだな。それが無いなら、私の弁護団が君たちを破滅させることになるぞ。」

    「ああ、そう言うと思ってな、神崎社長。」
    池田刑事がニヤリと、獣のような笑みを浮かべた。彼は内ポケットから、タブレットを取り出した。

    「これは、さっきシャークのところから押収した動画だ。」

    神崎の目が、初めて大きく見開かれた。

    「お前がトカゲの尻尾切りにしようとした『シャーク』の野郎、お前と同じでよっぽど他人を信用してないらしくてな。……あいつ、お前からの指示が記録された通信データだけじゃなく、お前が直接『毒入りのカプセル』をあいつの店のポストに入れていった時の、映像を持ってやがった。ジョシュが気づいて初めて確認したらしいが、これを見てシャークも驚いていたぜ。
    まさか、自分と手を組んでいた正体不明の男がテレビでよく見る清廉潔白な大手企業の社長だったなんてな。」
    タブレットに映し出された動画には、変装こそしているものの、シャークの店のポストへと滑り込むように近づく神崎の姿が冷酷に記録されていた。変装用の帽子が風で一瞬だけ浮き上がり、街灯の光がその白髪交じりの横顔を、これ以上ないほど鮮明に照らし出す。

    神崎の顔が、急速に土気色へと変わっていく。

    「バカな…外に監視カメラなんてなかったはず……。」

    神崎の喉から、言葉にならない掠れた悲鳴が漏れた。 彼は完璧主義者だった。警察のデータベース、街頭の防犯カメラ、社内の警備ログ、そのすべてを机上の計算で完璧に支配したつもりだった。だが、彼が「ゴミ溜めの人間」と見下していたシャークが、自らの身を守るために仕掛けていた泥臭い『牙』にだけは、どうしても思考が及ばなかったのだ。

    「上ばかり気にして、文字通り足元をすくわれましたね。」
    ジョシュの冷徹な声が、神崎の鼓膜を容赦なく叩き、続いて池田刑事が畳み掛ける。

    「シャークは自分の身を守る為に、ドライブレコーダーを密かに監視カメラ代わりに使っていたのさ。お前が上ばかり気にしていたおかげで、こうしてはっきり顔を捉える事ができた。焦って部下を信用せず、直接動いたのが裏目に出たな。これで表向きは何の綻びもない誠実な会社社長であるお前と、どんな悪どいことでも手を染めるゴミ貯めの男。一見接点のない世界の二人の繋がりが露呈しちまったわけだ。」

    「裏社会の人間は、誰も信用しない。それが彼らの鉄則です、社長。」
    ジョシュが冷たく告げた。
    「あなたが完璧なアリバイを作って、きらびやかなパーティーで優雅に見栄を張っている間……あなたが泥をすすらせていた裏社会の仲間は、すでにあなたを裏切り、その首に縄をかけていたんですよ。」

    「あ、あ……」
    神崎はデスクに両手を突き、ガタガタと震え始めた。完璧だった彼の世界が、足元から音を立てて崩壊していく。

    「あなたが優雅に乾杯していたその瞬間、守屋さんは自宅で突発的な喘息の発作を起こし、苦しみながらあなたの仕掛けた毒薬を口に運んだ。……神崎社長。これが、あなたがはるか遠方から安全に引き金を引いた、犯罪のからくりです。」

    池田刑事がポケットから手錠を取り出し、ジャラリと音を立てた。
    「神崎。守屋駿に対する殺人、並びに軍用物資の不法密輸の容疑で逮捕する。」

    窓の外の雷鳴が、社長室を白白と照らし出した。 崩れ落ちるように椅子に深く沈み込んだ神崎は、もう何も言葉を発することはできなかった。完璧に施錠された密室の謎は、人間の醜い裏切りという、最も泥臭い真実によって完全に解体されたのだった。

    8

    数日後。激しい嵐が去り、街にはいつもと変わらない、じっとりとした日常が戻っていた。

    檜木探偵事務所の窓からは、夕暮れ時の寂れた商店街のアーケードが見えた。 遠くの港から流れてくる潮の匂いに混じって、近所の総菜屋が揚げる油の匂いや、家路を急ぐ人々のまばらな足音が、薄暗い室内にまで微かに届いている。かつては賑わっていたこの商店街も、今では半分以上の店がシャッターを下ろしたままだ。

    ジョシュはデスクの前に座り、右手の指先から伸ばした細いドライバーを使って、自分の左手首の駆動ギアを慎重に締め直していた。新しく購入した高品質なメインオイルが、チタン合金のフレームの隙間で滑らかに光っている。今回の報酬で、当面の事務所の維持費と、自分自身のメンテナンス費用はなんとか賄うことができた。

    カランコロン、とドアベルが静かに鳴り、トレンチコートの襟を立てた池田刑事が部屋に入ってきた。その手には、安物のブレンドコーヒーが二つ入った紙袋が握られている。

    「よお、ジョシュ。調子はどうだ?」

    「悪くありませんよ、池田さん。ギアの噛み合わせがコンマ二ミリ改善されました。……そちらは、神崎の件で忙しいのでは?」

    池田はコーヒーの一つをジョシュのデスクに置き、自分用のカップをすすると、ふう、と大きな息を吐きながらへたれた革ソファに腰を下ろした。

    「神崎の野郎、観念して全部吐きやがったよ。軍用ドローンのチップを裏で流して、莫大な利益を得る予定だったそうだ。守屋の奴は、ただの使い捨ての駒のつもりだったが、思いのほか欲を出しちまったのが運の尽きだったな。」
    池田はポケットから煙草を取り出し、今度は誰に遠慮することもなく火をつけた。紫煙が薄暗い室内にゆっくりと広がっていく。

    「完璧な密室を作ったつもりでも、人間の欲と裏切りまでは計算に入れられなかった、ということですね。」

    「そういうこった。お前らアンドロイドの計算式にゃ、人間のそういう薄汚い部分は最初から組み込まれてねえんだろ?」

    ジョシュは銀色のフェイスを少し傾け、湯気を立てるコーヒーを見つめた。彼にはそれを飲むための消化器官はないが、センサーがその温かさと、ほろ苦い香りを正確に計測していた。

    「いいえ。檜木先生から、一番最初に教わりましたよ。」
    ジョシュの音声プロセッサが、微かに、本当に微かに人間のような暖かみを帯びた音を奏でた。 「『どんなに複雑な謎も、最後にそれを動かすのは人間のエゴだ。それを見落すな』……とね。」

    池田刑事は可笑しそうに鼻を鳴らし、煙草の煙を天井に向けて吹き出した。
    「ハッ、相変わらず生意気なロボットだ。……まあ、いい仕事だったよ、ジョシュ。」

    二人の間に、静かで、しかし確かな心地よい信頼の沈黙が流れていた。

    「じゃあな、ジョシュ。またヤバいガラクタが持ち込まれたら、真っ先に俺を呼びな。」
    池田刑事はそう言い残すと、トレンチコートの襟を立てて、ドアベルの音と共に暁の商店街へと去っていった。
    一人残された事務所に、池田の残していった煙草の匂いが、安物コーヒーの香りと混ざり合いながら静かに漂っている。ジョシュは窓際へ歩み寄り、シャッター通りの防犯灯を見つめた。

    人間はエゴで動き、裏切り、そして自滅する。
    だが、時として池田のように、泥にまみれながらも奇妙な信頼をアンドロイドに寄せる人間もいる。
    (……人間というシステムは、やはり、いくら計算しても飽きることがない。)
    ジョシュは静かに目を閉じ、内部の冷却ファンを低速回転へと移行させた。

    窓の外では、商店街の街灯が一つ、また一つと寂しげに灯り始め、夜の帳が静かに降りようとしていた。

    case.2 港の事件──了


     
     
     
    北海道出身、山口県在住。 大人も楽しめる子供向け脚本家を目指して日々奮闘中 度胸試しという言葉が大好き。現在『Obsolete P.I.』執筆中。

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