
活字で読みたくなる人の文章・内田樹
スクリーンから情報を摂取する事が多くなると、本で活字に接したくなる。何年か前に読んだ本が、ふと読みたくなり、あの人の文章が読みたいな、と感じる。そんな書き手の一人が、私の場合、思想家・武道家である内田樹(たつる)さんである。
風呂に入りながら、久しぶりに文庫本「だからあれほど言ったのに」を手に取った。ちなみに、私は内田樹さんについては全く詳しくない。数本のエッセイと『武道的思考』を読んだ程度である。味のある、読み応えのある骨太な文章を書く人だなという思いが心の何処かに残っていた。
下記は、その一節であるが、なぜ自分は内田さんの文章が印象に残っていたのだろうと思い、考えてみた。
・ブレずに信念を持ち、心身を鍛え続け、凱風館を建て、活動を続ける内田樹という生き方にたいする憧れのようなもの。
・自分もなんとなく、今の日本の「貧乏くささ」を感じている一方、心のどこかで、自分の生まれ育った日本という社会が「ゆたかさ」を取り戻してほしいと感じている。
・公共財(コモン)の大切さを感じると共に、コモンを取り戻そうとする活動を行う人達を、素晴らしいと思っている。
力強い文章、骨太な文章、エネルギーを持つ(それは読者の深層にある価値観と何かしら共感するものがあるということかもしれない)文章というのは確かに存在すると思う。そのように読者にいつか想起される書き手になれたら、素晴らしいなと思う。
AIに浸食されていくこれからの社会において大切なヒントが、このあたりに隠されているような気がする。
現代日本の際立った特徴は、富裕層に属する人たちほど「貧乏くさい」ということである。富裕層に属し、権力の近くにいる人たちは、それをもっぱら「公共財を切り取って私有財産に付け替える権利」「公権力を私用に流用する権利」を付与されたことだと解釈している。公的な事業に投じるべき税金を「中抜き」して、公金を私物化することに官民あげてこれほど熱心になったことは私の知る限り過去にない。
税金を集め、その使い道を決める人たちが、公金を私財に付け替えることを「本務」としているさまを形容するのに「貧乏くさい」という言葉以上に適切なものはあるまい。
今の日本では、社会的上昇を遂げるということが、より貧乏臭くなることを意味するのである。いや本当にそうなのだ。現代日本の辞書では、権力者というのは公権力を私用に使い、公共罪を私物化できる人のこととなる。そういう身分になることを目標にして、人々が日々額に汗して努力している以上、国が上げて貧乏臭くなるのも当然であろう。私もこの「貧乏臭さ」にうんざりしている。貧しくてもいい。「貧乏臭くない」社会に暮らしたい。それではどういう社会が貧乏臭くないのか。私が敗戦後の日本で見聞きした協和的な町内はそうだった。他人の裕福を恨まない、弱者を見捨てない、私材を退蔵せずに、分かち合う、公共財ができるだけ豊かになるように努力する。言ってみればそれだけのことである。現に、大人たちがそのように振る舞い、それが普通なのだと、子供たちが思うのなら、その社会は、たとえ物質的に貧しくても、「貧乏さ」はない。私はできるなら、そのような社会に暮らしたい。公共財を英語では「コモン(common)」と言う。原義は入会地、共有地のことである。囲いのない森や草原で、そんな共同体が共有し、共同管理する。村人は、そこで家畜を放牧したり、魚を釣ったり、鳥獣を飼ったり、果樹を積んだりする。個人の私財が乏しい村人でも、豊かなコモンを持つ共同体に属していれば、豊かな生活を送ることができる。
ヨーロッパでは、中世からどの国でもコモンに類するものがあった。代表的なのは、フランスの「コミューン(commune)」で、これはカトリックの教区が基本となる行政単位である。構成員100名位の小さなコミュ―ンから、マルセイユのような構成員100万人サイズのコミューンまで様々なものがあるが、どれも行政単位としてのステータスは等しい。コミューンの中心には教会があり、広場を挟んでその向かいには市庁舎があり、市議会が開かれ、市長が選ばれる。ドイツには古代から忠誠までマルクス共同体(Markgenossenschaft)というものがあった。土地は部族共同体で共同所有され、生産方式も強く規制されており、土地の売買は禁止され、収穫物は基本的に共同体内で消費され、木材や肉やワインの共同体外への持ち出しも禁止されていた。土地は誰のものでもなく、それゆえ収穫物が誰かの私財になることもなく、その結果、支配被支配という関係は生じなかった。晩年のマルクスが、あるべきコミュニズム(コミュ主義)、社会を思い描いたときに、その構想の素材はゲルマンのマルク共同体にあったと、斉藤康平は論じている。(「人新世の資本論」集英社新書)
豊かというのは、私財についてではなく、公共財についてのみ用いられる形容詞であるべきだと私は思う。仮にメンバーのうちの誰かが天文学的な富を所有して、豪奢な消費活動をしていても、誰もがアクセスできるコモンが貧弱であるなら、その集団を豊かな共同体と呼ぶことはできない。身分や財産や個人的な能力にかかわらず、メンバーの誰もが等しくコモンからの贈り物を享受できること、それが本質的な意味での豊かさということだ。マルクスはそう考えていたし、私もそう考える。私財の増大よりも、メンバー全員を養うことができるほどに、コモンが豊かなものになることを優先的に気遣う態度のことをコミュニズムと呼ぶのだと私は思う。個人的な定義だから、一般性は要求しないが、それでよいはずである。
貧富は個人についていうものではない。共同体についていうものだ。私たちにとっては本当に死活的に重要なのは、我々の社会内に、どれほど豊かな個人がいるかではなく、我々の社会がどれほど豊かなコモンを共有しているかである。ある社会が豊かであるか、貧しいかを決定するのは、リソースの絶対量ではない。その集団の所有する富のうちのどれほどがコモンとして全員に解放されているかである。
この定義に従うなら、日本だけでなく、今の世界はひどく貧しい。世界で最も裕福な8人の資産総額は、世界人口のうち所得の低い半分に当たる。37億人の資産総額と等しい。これを豊かな世界と呼ぶことに私は同意しない。
しかし、そのことに気づいて、もう一度日本を豊かな社会にしようという努力を始めている人がいる。それは別にGDPをどうやって押し上げるかという話ではない。どうやってもう一度コモンを豊かにするかということである。最近私の周囲でも、私財を投じて、みんなが使える公共の場を立ち上げている人たちをよく見かけるようになった。私自身も10年ほど前に自分で神戸に凱風館(がいふうかん)という道場を建てた。武道の稽古だけではなく、能舞台としても使えるように設計してもらったので、畳の上に座卓を並べてゼミをしたり、シンポジウムをしたり、映画の上映会や浪曲、落語、義太夫などの講演もしている。ささやかではあるけれども、これも1つのコモンだと私は思っている。
そういう細やかなコモンを日本中で多くの人たちが今、同時多発的・自然発生的に手作りしている。そういう人たちの活動は、別に効き耳を立てなくても、自然に耳に入るし、思わぬところで出会う。そして気がつけばずいぶん広がりのあるネットワークが形作られている。この手作りのコミュニズムは、かつてのソ連や中国の共産主義と本質的なところで全く違うものだと思う。というのは、この新しいコミュニストたちは、富裕者や社会的強者に向かって、公共のために私財を供出しろ、公共のために私権の制限を受け入れろとは矯正しないからである。公共を形作るためにまず身を削るのは「お前」ではないし、「奴ら」でもない。それは「私」である。そう思い切ることからしか、豊かな社会は生まれない。同意してくれる人はまだ少ないけれど、私はそう確信している。