
【掌編小説】ロバのパンの思い出 〜「原稿用紙二枚分の文芸賞」応募作〜 ※落選作
わたしが子どもだった頃の昭和30年代、「ロバのパン」というパンの行商がありました。ポニーほどの大きさの木曽馬が引く赤い四輪馬車から「パン売りのロバさん」の童謡が流れると、子どもたちはショーケースに駆け寄り、小遣い銭で買った蒸しパンにその場でかぶりついたものでした。
でも、家が貧乏だったわたしはロバのパンさえ買えませんでした。赤い四輪馬車に近づくものの、売り子のおじさんから声をかけられない程度のところで立ち止まっては、お金があればこんな惨めな思いをすることもないのにと、ぼろぼろの靴のつま先を見つめるしかありませんでした。
あるとき、いつものようにひとりロバのパンの匂いで空腹を我慢していると、木曽馬と目が合いました。その大きな目に吸い込まれるように近づいたわたしに、木曽馬が囁きました。
「お嬢ちゃん、辛抱やで。今は辛抱のときやで」
木曽馬が口をきいたことに驚いたわたしは夢中で走り去りました。それ以来、ロバのパンの四輪馬車に行くことはありませんでした。
時は流れ、ロバのパン売りはすっかり見かけなくなりました。わたしは働くようになり、決して豊かではないものの、いくばくかのゆとりが持てるようになりました。
あるとき、ロバのパンを再現したくなったわたしは、蒸しパンのレシピを見ながら作ってみました。思っていたより簡単にできました。
そのできたての蒸しパンを齧っているときです。木曽馬の声が聞こえました。
「お嬢ちゃん、辛抱やで。今は辛抱のときやで」
どうして木曽馬にありがとうと言えなかったんだろう……涙が止まりませんでした。
スーパーやパン屋で蒸しパンを見るたび、わたしを慰めてくれた木曽馬の、黒瑪瑙のようにきれいだった目を思い出しますーーこの世界にいてもいなくてもいいんじゃないかと腐っていたわたしを引き止めてくれた、もう死んでしまっているだろう木曽馬の目を。
(了)
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