
身体を扱えない私は、何も扱えない
口だけの大人が多い。
私も、そうだった。
そんな自分を変えたくて、身体について本気で学び、考え続けた。
これは、理学療法士として過ごした2年間の話だ。
2年前、チアリーダーのトレーナーとして、週に一度チームを見る機会をいただいた。
子供たちの悩みを聞き、動作の改善方法を提案する。
「毎日ストレッチすれば柔らかくなるよ」
「質の高いトレーニングをしよう」
そうやって、私は言葉を渡していた。
——でも、あるとき気づいた。
自分の身体が、その言葉を証明していないことに。
開脚はできない。
Y字バランスもできない。
前屈では、指先すら床に届かない。
誰よりも語っているのに、
誰よりも扱えていなかった。
頭に浮かんだのは、子供の頃に嫌いだった口だけの大人だった。
——私は、それになっていた。
だから、やった。
ストレッチも、トレーニングも、人に言っていることは全部、自分でも試した。
毎日続けた。
時間もかけた。
——でも、変わらなかった。
前屈では手が床につかない。
開脚も広がらない。
Y字バランスなんて、到底無理だった。
やり方は間違っていないはずだった。
むしろ、“正しい方法”は知っているつもりだった。
それなのに、身体は応えてくれない。
力むほど、硬くなる。
意識するほど、動けなくなる。
頑張るほど、遠ざかっていく感覚があった。
そのとき思った。
——身体って、こんなに思い通りにならないものなのか。
違和感を解くために、外に答えを求めた。
軟体の先生。
バレリーナ。
ヨガの達人。
身体を極めた人たちに会いに行った。
話を聞き、動きを見た。
でも、言っていることはバラバラだった。
それでも——
動きだけは共通していた。
力んでいないのに、崩れない。
何もしていないようで、繋がっている。
そのとき思った。
——自分は、何を見ていたんだろう。
そこから、ひとつの仮説にたどり着いた。
——身体は、操作するものではないのかもしれない。
部分をコントロールすると、全体が崩れる。
全体が整うと、部分は勝手に動く。
そこで初めて、「張力」という感覚に気づいた。
身体は、力で動かすものではなく、
張力の中で保たれている。
さらに、その感覚は重力と切り離せなかった。
支えようとするほど、ぶつかる。
逆らうほど、崩れる。
重力に乗れたとき、身体は軽くなった。
頑張るよりも、
何もしていない感覚のほうが動ける。
そのとき理解した。
私は、身体を支配しようとしていた。
でも本当は、
身体は関係をつくるものだった。
そこから、やり方を変えた。
無理に伸ばさない。
力で動かさない。
全身の繋がりを感じながら、
張力の流れを探る。
すると、動かなかった関節が動き始めた。
力を抜いているのに、安定する。
何もしていないのに、コントロールできる。
前屈で手が床に触れたとき、
「伸ばした」ではなく、「繋がった」と感じた。
1年後、倒立が安定した。
でも、それはゴールではなかった。
逆さまになると、ごまかしが効かない。
ズレが、そのまま崩れになる。
だからこそ、全体の関係性がはっきり見えた。
張力が整うと、身体は静かに止まる。
そしてさらに1年後、シンピ倒立ができるようになった。
——でも、達成感はなかった。
残ったのは、
「やっと噛み合った」という感覚だった。
2年前、私は身体を知っているつもりだった。
でも実際は、部分で捉え、操作しようとしていただけだった。
今は少しだけわかる。
身体は、筋肉や関節の集まりではない。
重力の中で、張力が変化し続けている構造だ。
変えようとするほど、崩れる。
コントロールするほど、離れていく。
必要だったのは、技術でも根性でもない。
身体との関係を、つくり直すことだった。
もし今、思うように動けないなら、
それは能力の問題じゃない。
まだ、噛み合っていないだけだ。
整えなくていい。
支配しなくていい。
少しだけ感じてみてほしい。
身体がどこで張り、どこで緩み、
どう重力と関係しているのか。
身体は、思っているよりずっと賢い。
そして関係が整ったとき、
動きは“できる”のではなく、自然と現れる。