
「名にかけて」が気になる:格助詞「に」の話
(以下、岩国=岩波国語辞典、三国=三省堂国語辞典、
新明解=新明解国語辞典、日国=日本国語大辞典、
明鏡=明鏡国語辞典、旺国=旺文社国語辞典、を表します)
前々から、
「じっちゃんの名にかけて」
という台詞が気になっていた。そこで、
以下のキーワードで、国語辞典を(物書堂アプリで)引いてみた。
「名にかけて」
が、
「名」を引いても「かける」を引いても、
用例ひとつ見つからない。
「にかけて」
ならばと
「にかけて」の用例を検索したら、
新明解8版
▶かける【賭ける】
(B)利益を得るために、大事なものを、失うことを覚悟して差し出す。
「神(に)かけて〔=神に誓って〕」
「命にかけて」
「命〔首〕をかけて」
「名誉にかけて」
という用例が見つかった。どれも出典は不明。
神に誓うんだったら、神を差し出すわけじゃないよね。
大事な何を差し出すの?
名誉ならわかるけど、
それにしても差し出すんなら「名誉を」なのでは?
そして
「命をかけて」は馴染みがあるけど、
「命にかけて」は、違和感。
(「命にかえて」ならわかるけど)
次に、時をさかのぼって、4版で同じ「かける」を引いてみると、
「神(に)かけて」はなく、「命にかけて」もなく、
「命〔首〕を賭けて」と「名誉に賭けて」があった。
それも、「かけて」が漢字の「賭けて」。
そうか、「穴馬に賭ける」っていうあの「に賭ける」なのか?
岩国、三国、明鏡、旺国、日国、大辞泉、大辞林は
ノーヒット。
「かけて」
キーワードを「かけて」に絞ってみたら、
日国に
▶かける
・大切なものを代償にする
「をとこの、『わすれじ』とよろずのことをかけてちかひけれど」(大和物語)
「命をかけて、なにの契りにかかる目をみるらむ」(源氏物語・夕顔)
助詞は「を」。
「神かけて」
「神かけて」で検索すると、大辞泉に用例。
▶誓う
「神かけて誓う」
助詞なし。出典不明。
さきの大和物語の出典に鑑みれば、おそらく
「神をかけて誓う」ということだろう。
「神をかけて」
日国に用例。
「君にもし心たがはばまつらなるかかみの神をかけてちかはむ」(源氏物語・玉鬘)
「神にかけて」
ノーヒット。
ところがここで、意外な伏兵。
「神にかけて誓う」というフレーズを、
英和辞典は軒並み用例として載せているんである。
すべて
swear [ to / by ] God
の和訳。
この和訳は、いったい誰が最初に考えたのだろうか。
「名誉にかけて」
これも、国語辞典は新明解のみ。
それに対して、
英和・仏和・伊和・西和・独和が、続々ヒット。
(英)on my honor
(仏)sur mon honneur
(伊)in mia fede
(西)por mi honor
(独)bei meiner Ehre
――すべて「私の名誉にかけて(誓う)」
これも、さきの英語の和訳に連なる流れだろう。
ワタクシの知る限り、
「~の名にかけて」の初出は、
江戸川乱歩の「怪人二十面相」――1936年。
(それ以前の用例を見たことがない)
(1)「約束は二十面相の名にかけてまちがいありません」
(2)「いつでもとらえようと思えばとらえられるのを、そのまま見のがしてもらったわけですから、二十面相の名にかけて、これほどの恥辱はないわけです」
そして「にかけて」自体、
それまではなかったのではないか。
(7月にかけて、とかいうのは別ね)
なぜならそもそも、
日本人は行為・動作を、個人的・主体的な能動として把えるよりも、自然界に生起し、存在する成り行きとして把える傾向が強かったので、主格を表す助詞を欠くことはあっても、動作の生起・存在する場所については、表現を怠らなかった。従って、「に」は極めて重要な役割を帯びる助詞であり、略されることは極めて少なく、万葉集の中で、表記の簡略な巻々でも助詞「に」は略さずに書いてあることが多い。
だから
「を」が略されるとしても「に」は略されず、
「神かけて」は「神にかけて」ではなく「神をかけて」であり、
したがって「名をかけて」はあっても「名にかけて」は
旧来の用法にはなかった、
と言うべきだろう。
もちろん、
言葉は変化し、進化するものだから、
新たな用法が生まれるのは当然。
とくに、
江戸川乱歩の文章には、
英語(エドガー・アラン・ポーとか)や
フランス語(モーリス・ルブランとか)の影響も、
そしてその翻訳の影響も
あるのだろうと思われ。
ただ、
新たな用法には
慣れるまで時間のかかる人間もいるのでありまして、
ワタクシが、そのひとりなのであります。
(まだ慣れない)