
富士山の前で、もう一つの山を焼いた
湯気の向こうに、富士山がある。
鉄板の上で、肉とキャベツが崩れかけている。その煙の先に、本物の山が立っている。低く座っているから、ちょうど目の高さで、ふたつが重なって見える。
ひとつは食えるやつで、もうひとつは食えないやつだ。
ここまではバイクで来た。荷物は、積めるぶんしか持てない。後ろにくくれる箱と、足元に挟める袋。それでぜんぶだ。
積めないものは、最初から候補に入らない。椅子も、背の高いテーブルも、ごつい道具も、ツーリングだと自然に消えていく。残るのは、低くて、平らで、小さいものばかりになる。
今日の鉄板も、薄い。畳んだ雑誌くらいの厚みしかない。それを箱の隙間に滑り込ませて、ここまで運んできた。高さのない道具は、こういうときに効く。荷物を減らすというのは、我慢することじゃなくて、低いものを選ぶことだ。
車なら、もっと積める。椅子も、クーラーボックスも、何もかも。それでも僕はバイクにした。持っていけないと最初から決まっていると、そのぶん迷わなくて済む。積めないことが、そのまま身軽さになる。
道のあいだ、富士山はずっと正面にいた。
遠くにいるうちは、雲と区別がつかない。近づくにつれて輪郭がはっきりしてきて、最後はヘルメットの視界をはみ出すくらいに大きくなる。信号で止まるたびに、少しずつ育っていく。
ヘルメットの中は、自分の息の音と、風の音しかしない。手袋ごしにハンドルの振動が伝わってきて、首から下が、だんだん風の冷たさで固まってくる。何時間か、ただそれに耐えているだけの時間がある。それも込みで、バイクで来るということだ。

途中で、肉と野菜を買った。重いものを先に積むと、あとが面倒になる。ツーリングのメシは、行きの道で半分決まっている。
エンジンを切って、ヘルメットを脱ぐ。耳の中で鳴っていた風が、急に静かになる。そこで初めて、来たな、と思う。
ふもとっぱら。平日なのに、それなりに人がいる。
静かなところを想像して来ると、少し裏切られる。隣の声も、車の音も、風に乗って届いてくる。人気のある場所の平日は、だいたいこんなものだ。誰もいない原っぱを独り占め、みたいな絵は、なかなか手に入らない。
それでも、ここに来るのは、空が広いからだ。さえぎるものがない原っぱだと、富士山は裾野から上まで、まるごと立っている。山のいちばん下から見上げられる場所は、案外少ない。
それでも、場所を選んで、テントを張る。地面のなるべく平らで、水の流れた跡がないところを探す。少しの傾きでも、寝るときに効いてくる。長くやっていると、張る前に地面を見るのが癖になる。

張り終えても、すぐには火をつけない。しばらく、ただ山を見ている。何をするでもなく、座って、風を受けているだけの時間が、いちばん長い。来た理由の半分は、たぶんこの時間だ。
地面に腰を下ろす。尻の下で草がつぶれて、土の湿りがゆっくり上がってくる。六月の地面は、見た目より湿っている。
座ると、富士山が目の高さに来る。立っていたときより、近い。背の高い椅子に座っていたら、たぶんこの近さにはならない。低く座るというのは、山と同じ平面に降りることでもある。

火をつける。小さいバーナーの上に、薄い鉄板を載せるだけだ。
鉄板は、使う前に一度、油をなじませる。薄くひいて、煙が出るまで熱して、布で拭く。新しい鉄ほど、この最初の一手間で、あとの焦げつき方が変わる。地味だけど、ここを飛ばすと、たいてい後悔する。
キャベツを刻んで、鉄板いっぱいに敷く。その上に、脂の多い肉をのせる。温まると、下のキャベツに脂が落ちて、湯気と煙が一緒に立ちのぼる。甘いにおいと、焦げるにおいが混ざる。風が変わると、煙はまっすぐ自分の顔に来る。
ねぎとにんにくを足す。香りが立つと、腹がはっきり鳴る。味は、たれを回しかけるだけだ。鉄板の上でたれが一気に泡立って、煙の濃さが変わる。難しいことは、何もしない。外でうまいものは、だいたい手順が少ない。
肉を足して、また足して、崩れる手前まで積む。富士山の前に、もう一つの山ができていく。
わざわざ高く積まなくてもいい。それでも積むのは、目の前に山があるからだと思う。低く座って見上げていると、自分の手元にも、同じ形をひとつ作りたくなる。
低い火だから、鉄板のふちまではなかなか熱が回らない。真ん中で焼けたやつをふちに逃がして、空いた真ん中でまた次を焼く。長くやっていると、その順番を手が勝手に覚えている。火の強いところと弱いところを、目より先に手が知っている。
この鉄板は、薄くて、低い。脚のない、ただの一枚の鉄だ。道具が変わっても、座る高さは変わらない。地べたに合うのは、結局こういう低い道具になる。
焼けた一枚を、立てた膝の上で食べる。焦らずに焼きすぎるくらいが、ちょうどいい。熱い。脂が、唇に残る。
皿は、ほとんど使わない。鉄板から直接、口に運ぶ。行儀がどうとか、外では誰も見ていない。膝が皿の代わりで、地面が椅子の代わりだ。
金属のコップに、紙パックの酒を注ぐ。氷はとっくに溶けて、ぬるい。それでも、煙を吸い込んだ口に流し込むと、ちょうどいい。水のペットボトルも、横に転がしてある。

冷たさが足りないのは、バイクの不便のひとつだ。クーラーボックスは積めないから、氷は道中で溶けていく。それでも、文句を言うほどじゃない。ぬるい一杯にも、それなりの飲み方がある。
昼を過ぎても、することは特にない。肉を焼いて、コップを傾けて、山を見る。それを何度か繰り返しているうちに、影が伸びてくる。
近くにも、同じようにバイクで来たやつがいる。荷物の積み方を見れば、だいたいわかる。声はかけない。お互い、ひとりで来ているのを邪魔しないのが、たぶん礼儀だ。
肉と山を、交互に見る。片方は腹に入っていって、だんだん減る。もう片方は、何をどうしても、減らない。当たり前のことなのに、低い場所から見ていると、その違いがやけにはっきりする。
日が傾いてくると、富士山の輪郭だけが残って、あとから色が抜けていく。山が暗くなる速さと、手元が暗くなる速さは、たぶん違う。先に消えるのは、いつも遠いほうだ。
煙いし、虫も寄ってくる。隣はまだ賑やかだ。完全に静かで、完全に楽な夜は、たぶんない。それでも、ここに座っている。
暗くなってから、焚き火に切り替える。
鉄板を片づけて、火を熾す。炎が上がると、さっきまで見えていた富士山は、もう闇に溶けて見えない。火を見ているあいだは、山のことを忘れている。手のひらと、顔の片側だけが熱くて、背中のほうは、もう夜の冷たさに触れている。
薪が崩れる音と、遠くの誰かの笑い声がする。混んでいる夜なのに、火の前だけは、いつもひとりだ。
夜のあいだに、もやが降りてくる。朝、テントから出ると、富士山の足元が白くぼやけていた。昨日くっきり見えていたぶん、今日は出し惜しみしているみたいだ。
湯を沸かして、温かいものを飲む。もやが晴れるのを待つ気もあったけど、待っていたらきりがない。
テントをたたむと、地面に四角く、草が寝た跡が残っている。一晩、そこに自分がいたという、それだけの印だ。じきに草は起き上がって、跡は消える。
冷えた手で、もう一度バイクに荷物をくくりつける。来たときと同じ重さのはずなのに、帰りの荷物は、いつも少しだけ軽い気がする。食った肉のぶんだろうか。
走り出すと、富士山が後ろに流れていく。食えるほうの山は、もう僕の腹の中だ。
この空気は、文章よりも映像のほうが早い。下に動画を置いておく。
次に、山の前で飯を作ることがあったら。一度、低いところに座ってみてほしい。山が、少しだけ近くなる。
普段の地べたの様子は、動画にまとめています。よかったら、のぞいてみてください。
気に入ったら、サポートで薪代を置いていってください。次の火を焚いて、また書きます。