
エッセイ ― 海苔弁の話
海苔弁のことを考えていた。
あの弁当の主役は何だろう。
名前からすると海苔のはずだが、海苔が変わっても誰も気にしない。
白身フライとちくわ天が入っていれば、それは海苔弁だ。
でも白身フライが食べたくて買うわけでもない。
ちくわ天が好きで選ぶわけでもない。
どの具材も、単体で「これが食べたい」と思わせる力を持っていない。
それなのに全部揃うと、なんとなく完成している。
海苔弁を選ぶとき、人はたいてい積極的に選んでいない。
「何でもいいけど安く済ませたい」の着地点として、海苔弁がある。
唐揚げ弁当には「唐揚げが食べたい」という欲望が要る。
幕の内には「ちゃんと食べよう」という意志が要る。
海苔弁だけが、何も要らない。
無欲のまま手に取れる。
それで食べ終わると、不満がない。
「まあ、よかった」になる。
期待しなかったから裏切られない、というより、最初から期待という概念が存在していない感じがする。
欲望の解像度を下げたところに、海苔弁はいる。
豪華な弁当が食べたければ他に行く。
みんなそれをわかっていて、それでも海苔弁は何十年も売れ続けている。
「これがいい」ではなく「まあこれでいい」の積み重ねが、需要になっている。
熱狂的なファンはいなくても、離れる理由もない。
受け皿というのは目立たない。
でも受け皿がなければ、こぼれるものがある。
選ばれなかった日も含めて、棚にあり続けることが、誰かの「最悪これがある」を支えている。
そういう存在の仕方が、あると思う。
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