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来世の予定

    序章

    「あーあ、ゴールデンウィーク始まっちゃったなあ。」

    私の言葉に夫は顔を顰めた。

    「なんで『あーあ』なの?」

    「え。終わっていくから。」

    「はあ?」

    今日はゴールデンウィーク初日。夫が有給を勝ち取ってきたので、脅威の12連休だ。今日という始まりの日を指折り数えて待っていた。

    「やめてよそれ。終わりばっか考えるの。今日は今から始まるんだけど。」

    「そんなこと言われても、始まるから終わるんだけど……」

    思わず首を傾げる。まさか終わりを考えずに生きている人がいるとは思わなかった。

    第一章「本」

    「お邪魔しまーす。」

    「どうぞどうぞ〜。」

    身を乗り出して玄関を開けると、強い日差しと蝉の声、汗だくの友達が部屋に入り込む。
    エアコンで冷えた両足を心地よい熱気が撫でた。安アパートのワンルームじゃ、友達を先に通すこともできない。グッと壁を押して身を引くと、友達は汗をハンカチで拭いながら、サンダルを脱いだ。

    「狭くて悪いけど、洗面所はここね。掛かってるタオル、使っていいから。」

    「ありがとう。」

    私は冷蔵庫に待機させていたカルピスを注いで、机に運ぶ。

    「はいこれ、アイス。好みわかんなかったから、4つも買ってきちゃった。」

    鞄ここ置いていい?と聞きながら、手を洗い終えた友達はコンビニの袋を差し出してくる。

    「うわ、まじか。うち冷凍庫無いよ?」

    「えぇ!?」

    友達は冷蔵庫を探して振り返る。
    視線の先には立方体の小さな冷蔵庫がある。

    「……旅館とかでも見なくなってきてるやつだ。」

    「この絶滅危惧種、備え付けだったんだよ。溶けないうちに食べちゃお。」

    私たちは溶けかけのアイスを両手に持ってベロベロ食べた。

    「ああ、こんなつもりじゃ……」

    「言えばよかったね。申し訳ない。」

    口の中はもうヒヤヒヤの甘々で味もよくわからない。ようやくアイスがなくなった頃、友達はポツリと言った。

    「……本棚大きくて羨ましいけど、本はあんまり無いんだね。見ていい?」

    「ああ、この本棚お下がりのお下がりなんだよ。だからやむなくこの大きさ。本は好きだけどあんまり買わないんだよね。お好きにどうぞ。」

    友達はそろりと本へ手を伸ばした。

    「お、桜庭一樹だ。私も好き。」

    「そうなんだ。面白かったよ。人に勧められて買ったんだ。」

    「ハズレないもんね。1番おすすめの小説、私からもお勧めさせてよ。」

    「うん。タイトル送っといて。」

    「はーい。あ、これ最近アニメ化が話題の作品じゃん。」

    「そうそう。これは原作が3巻くらいしか出てない頃に買って、ずっと追いかけてたんだけど最近はもう買ってないなあ。」

    「なんで?」

    「なんか〜、そろそろ終わりが見えてきて?」

    「ああ、先が読めちゃうことってあるよね。うわ、なにこれ。ボロボロじゃん。星新一?好きなの?」

    「ああ、それはお下がりのお下がりなんだよ。お兄ちゃんが先生からもらったんだって。私も好き。繰り返し読んでるよ。読んでみる?」

    「いやいいよ。そんな大事そうなもん。あ、こっちはピカピカの星新一だ。」

    「それね、買うだけ買って読めてないんだ。人生で一回くらい作家を追いかけてみようかと思って買ってみたんだけど、こんなに面白いと、病室で死ぬ前に読まないともったいないと思っちゃって。こっちは貸せないなー。」

    「えぇ?読みなよ。もったいない。お、これまた知らない作家だ。8冊もある。面白いの?」

    「面白かったよ。古本屋で爆安だったの。作家が亡くなってて未完だったから安くなってたみたい。読んでみる?」

    「嫌だー。打ち切りって最悪。めっちゃ悲しい。最後まで読みたい。」

    「そうらしいね。引くほど安かったもん。いいじゃん、終わってないくらい。」

    「え、平気?」

    「うん平気。どちらかと言えば、終わるほうが悲しいな。ずっと続いていて欲しい。」

    「わかるけどわからんわ。終わりを読みたくて読むのに。」

    「まじか。過程が楽しくて読むんだけど。」

    顔を見合わせて笑う。
    友達は本棚から離れると、カルピスをひと口飲んで、ふぅ……とため息を吐いた。

    「で、結局なにが好きなの?エッセイに、ファンタジー、ミステリーに、SF、恋愛……混沌だね。作家も揃ってないし。持論だけど、本棚を見れば人がわかると思っていたからショックだよ。全然わかんない。」

    「うーん、読むのは好きだけど、極論本は嫌いかな。」

    「嘘でしょ。文学研究生……!」

    友達に肩をゆすられながら、されるがままに笑った。

    「私だって、大学に入るまでは本が好きだと思ってたんだよ。アキちゃん達のせい。」


    トントンガチャ

    文学研究室の扉を形式的にノックをして開く。

    「お疲れさまで……」

    え?

    「はあぁぁ、大先生と同時代の空気……!」

    ナオちゃんは古書の入ったジップロックを5cmほど開けて、隙間に鼻を押し当てては恍惚とした表情を見せる。

    我関せずと読書をしているのはトモちゃん。彼女は現代版二宮金次郎だ。いつ見ても本を読んでいる。バスを待ちながら、電車を待ちながら、奇妙な人間がすぐ側にいても。

    トントンガチャっと扉が開く音がして振り返ると、アキちゃんは本をリュックにしまう動作をしながら部屋に入ってくる。

    「お疲れさまでーす。え、なに?」

    「ごめん、なんでもない。みんな、本好きだなあって思ってただけ。」

    余暇の時間まで読みたい読みたいと本に溺れる彼女らをバケモノのように思いながら、私は観念して席についた。
    鞄から読みかけの必読書を取り出す。あともう2割が読めないでいる。


    「私は必読書だって読みたくないね。」

    「じゃあなんで文学部なんかに……」

    「ああ、読むのは好きなんだよ。本は終わるのが惜しいけど、本以外はそうでもないと思わない?例えばほら、このペットボトルのラベルとか。」

    私は汗をかいたカルピスを指差した。

    「『容器は投げ捨てずにリサイクル』って書いてあるの。面白くない?」

    「なにが?」

    「『容器は捨てずに』でもいいのにさ。わざわざ捨てる時の所作が指定されているんだよ。小学生の頃気がついてね。あの時は笑ったなあ。」

    「へぇ、初めて読んだよ。でもこれ、道端にポイ捨てせずに、捨てましょうってだけじゃん。」

    「アハハ、そんなのわかってるよ。でも分別する時だって『捨てる』って言うし、ガコンッって投げ入れたことあるでしょ?
    ……ダメなんだよ。アサヒ飲料だけは、『投げ捨てずに』だからね。気づいたからには、アキちゃんも!今日から!」

    「はいはい。」

    「あ!今どうでもいいと思ったでしょ。違うのに。わざわざ『これが一番いい』って選んだ人がいるってことなのに。」

    「うん、どうでもいいや。」

    「……なら仕方がないかな。でも私はいまだに、カルピスを投げられないんだよね。」

    カルピスにデコピンをぶつける。
    ボンっと音がして机に水が滴った。

    第二章「予定」

    「あーあ。」

    まだ薄暗い早朝、ぼやきながら支度をする。
    夫と息子はまだ寝ている。

    昨日の夜のうちに準備しておいた洋服を着て、昨日の夜のうちに準備しておいたカバンを玄関に持って行く。髪には、1週間前から練習しておいた編み込みを施して、顔にはここ2週間の間に悩みに悩んで決めた色を置く。

    「お、準備万端だね。」

    鏡には目を擦る夫が映っていた。

    「当然。めっちゃ楽しみだったもん。でも、終わっていっちゃうなあ。」

    「今から始まるんだって。」

    「はいはい。」

    付箋だらけのガイドブックを見下ろしながら、楽しみに待つ時間のほうが幸せなんじゃないかと思う。当日が一番に楽しいのは言うまでもないけど、終わってしまうんだもの。
    初めてそう思ったのは、物心ついて初めてディズニーランドに行ったあの日だったと思う。


    「ディズニーランドに連れて行ってやる。」

    「え?」

    父の言葉が信じられなくて聞き返す。
    当時の私は小学校2年生。
    ディズニーランドは夢のような場所だと聞いていて、ずっと行ってみたいと思っていた。

    「ちょっと、言うのが早すぎやって。ユイ、まだまだ先やで。先のこと。」

    母は眉間を抑えて言った。

    「え?まだまだっていつ?いつ連れて行ってくれんの?」

    「1年後や。」

    父は胸を張って言う。

    「1年後……1年後、絶対?」

    「せや。もうチケットもある。」

    「ほんま?!ほんまのほんま?絶対の絶対??」

    「絶対、連れてったる。」

    「絶対やで!絶対やからな!う、うわあ……どうしよう。風邪ひかれへん!」

    1年後の体調を心配する私に父母は笑っていた。
    お母さんは、「今度ガイドブックを買いに行こう。」と私に言ってくれて、ガイドブックを3冊も買って帰った。


    「見て!お母さん!これめっちゃ楽しそうちゃう?」

    「せやなあ。回る順番決めなあかんから、チェックつけといてや。」

    「うん!なあ、全部は回れへんの?」

    「全部は無理やわ。だから、絶対外せへんとこ、時間あったら行きたいとこ、今回は諦めるとこ、全部決めて行くで。お母さんはコレ。コレだけは外せへん。」

    母はパレードやショーに赤丸を付けて、最後にお土産屋さんに丸をつけた。

    「コレなに?」

    「お土産屋さん。こっちページにある……これ、絶対買って帰るねん。」

    母は別ページにあるハンカチにも丸をつけると、舌をペロっと出して笑った。

    「すごい!お土産も見なあかんねや!」

    「せやで。買い忘れたら二度と買われへんで。」

    「私もやる!どうやって見んの?」

    「この下に番号があるから……」

    母に手取り足取り教えられて、ガイドブックの見方を覚えた私は、その日からの1年間、毎日ガイドブックを見て遊んだ。

    やっぱりこっち。いやいや、こっち。何回見てもココだけは絶対行きたい。コレが1番楽しみや。どんな風やろう。絶対楽しいで。めっちゃ楽しみ。

    「ああー!お母さーん!お母さんも一緒に見ようや!」

    「えぇ?またー?もうええて、お母さんは。」

    当日を迎える頃にはガイドブックはボロボロになった。生涯であんなにボロボロになった本は、単語帳以外にない。
    1年間、どんなに楽しいだろうと思って待っていたその日は、1日で終わった。
    当日が楽しかったのは言うまでもない。
    ものすごく濃い、充実した1日だった。

    帰ってからは、ボロボロのガイドブックと、買って帰った光るペンダントを抱いて眠るようになった。
    楽しかった。楽しかった。楽しかったけど、
    終わってしまった。
    グズグズと泣く私に、父と母は「また行けばいいやん。」「また行こう。」と言った。

    「またっていつなん?また1年後?」

    「え。いや1年後はちょっと……3年後とか、5年後とか……?」

    「……そっか。そんな遠いんや。ありがとう。また行こな。絶対やで?」

    「うん絶対。」

    なんでこんなに悲しいんやろ。わかってたのに。終わるってことくらい。
    終わってしまった。


    「ちょっと、やめてよ。俺は休日潰して息子の子守なんだから。せめて楽しそうに出かけて行って。」

    不満気な夫の顔を見て笑う。

    「それはそうだね。安心してよ。120%楽しんでくるから。」

    私は今日までに練った計画表を突きつけて見せる。
    夫はそれを見て苦笑した。

    「それは、チヒロちゃんに見せない方がいいんじゃないかな。引いちゃうよ。」

    「え?どこら辺が?」

    首を傾げながら予定表を睨みつけたところでタイマーが鳴った。

    「あ、もう出発時刻だ。」

    「え?もう?」

    夫は時計を返り見る。眉間に皺を寄せる夫の横をすり抜けて、私は玄関に向かった。

    「45分の猶予を持っての出発だからね。」

    「そういうところ、そういうところ……」

    「じゃ、息子は頼んだよ。行ってきまーす!」


    出発した時には薄暗かった空も、到着する頃には明るくなってきた。
    「早く着いちゃったから、先に開園待ち列に並んでるね。」とLINEを入れて、訳もなく朝日の写真を撮る。

    約束の時間の5分前、友達は人混みをかき分けてやって来た。

    「ごめんお待たせ!ユイちゃん早すぎじゃない?」

    「私、方向音痴だからさ。いつも早めに出るんだよ。」

    「それにしたって早すぎだよ。」

    息の上がっている彼女に、「飲みかけの水ならあるよ。」とペットボトルを見せると、彼女は首を振ってお茶のペットボトルを掲げた。

    「楽しみを待つのは苦じゃないんだ。遊園地とはすこぶる相性がいいよね。」

    「羨ましい。私は待たなくていいなら待ちたくないよ。」

    「え?それ、今日大丈夫?」

    私は周囲を見渡した。ここまでの混雑は、大混雑と言っていいんじゃなかろうか。

    「それな。クリスマス舐めてたわ。」

    「ああ、1年で1番人気のイベントらしいからね。楽しみだね。」

    「私は不安になってきた。」

    肩を落とす彼女に、私は予定表を見せた。

    「大丈夫だよ。混雑も想定済みだから。」

    「わあ!すごい!ありがと……う?パレードの開始時刻って13時じゃないっけ?」

    「うん。絶対見たいって言ってたから、3時間前から最前列で待機しようかと思って。絶対よく見えるでしょ?」

    「……え?」

    「前へ詰めてお進みくださーい。」

    遠くから声がして大行列が動き出した。

    「あーあ、いよいよ始まっちゃうなあ。覚悟はいい?今日は一瞬だよ。」

    私は、予定表を凝視したまま固まる友達の背中を叩いた。

    「ちょ、ちょっと……会議を申請します。」

    「受理しましょう。やっぱり3時間待ちはやり過ぎだった?」

    「ううん、それは人生で一回くらいやっとくわ。今回限りね。それよりこっち、私これが食べたい。」

    「お、いいねぇ。」

    第三章「兄」

    テテテン

    スマホが鳴った。母から着信だ。

    「はいもしもし。珍しいやん。どないしたん?」

    「あ、あんな。えっと、落ち着いて聞いて欲しいんやけど……」

    「うん。なにー?」

    「ひでが、倒れてん。」

    「え?なに?お兄ちゃん?」

    「うん、あんたのお兄ちゃん、脳内出血で倒れてん。」

    「脳内、出血……?」

    母の声は震えていた。
    意味のわからない言葉を噛み砕こうと、脳内出血の4文字を口の中で転がす。
    私は指先の血管が細くなるのを感じた。
    心臓が早く鳴って、口の中が乾く。
    遠くなった指先は、どこか冷静にスマホの画面を叩いた。

    “脳内出血とは”


    「今帰ってきたとこやねん。とりあえず行かなと思って飛び出したけど、面会時間が15時とかで。一旦帰ってきたとこ。」

    「うん。順番に話して?」

    「夜中に頭痛いって、お嫁ちゃんを起こしたんやて。育休中でひでが夜番やってん。私には手術に同意していいかって連絡があって、それで家を飛び出して……」

    明らかに気が動転している母のおかげだろう。バラバラと思いつくまま話す母の言葉を、時系列順にスマホにメモできるくらいには、冷静でいられた。

    「……そう。連絡ありがとうね。また、続報知らせてな。お母さんも休めるときは休んで。倒れんように。」

    通話を切って立ち尽くしていると、部屋を空けてくれていた夫が息子を連れて戻ってきた。

    「電話終わった?」

    「うん。」

    「どうした?なんの連絡?」

    「お兄ちゃんが脳内出血で倒れて半身不随だって。」

    「え。」


    なにかしたい。

    なにができる?

    なにもできない。なにかしたい。

    棒立ちのまま動けずにいる私を見かねた夫は、「週末、帰ったら?」と言ってくれた。

    それだ。

    母にLINEを入れてみると、「母ちゃんは大丈夫だから。」と返事がある。

    私が大丈夫じゃないと言っても伝わらない。
    この時の実家は引っ越したばかりで、まだ段ボールが積み上がっているような状態だった。
    母も自分のことで手一杯だったのだろう。
    私が自分のことで手一杯の状態で行っても、足手纏いだと思い直せた。

    できること、できること……

    数日悩むと、神の存在を思い出した。
    神頼みならできる。やらないよりは幾分マシだろう。


    「私、神社に行ってくる。」

    「えぇ?今日は暑いしやめといた方が……」

    在宅部屋から困惑する夫の声が聞こえてきたが、私は構わず玄関を開けた。
    残暑の厳しい暑さの中、0歳の子どもを保冷剤で冷やしながら歩く。
    地図を見ながら神社を目指した。
    引っ越してからもう3年。挨拶にも来なかった私の願いを、神様が聞いてくれるかなんてわからないけど。

    パンパン

    柏手を打って、重ねた両手に鼻とおでこを擦り付ける。

    お願いお願いお願いお願い……


    1週間ほど神社通いを続けると、続報が入ってきた。
    まず兄は、幸か不幸か一命を取り留めた。当初1番心配されていた右半身の麻痺も引いたらしいが、代わりに「失語症」という後遺症を患ったと言う。

    兄が倒れてから1ヶ月後、私はようやく見舞いに行った。

    電動ベッドに起き上がらせられている兄の顔は、浮腫んでいるように見えた。
    これまでは私のほうが病院の世話になることが多かったので、兄にも私がこう見えていたのかなと思う。
    兄が見舞いに来てくれたときは、いつも気の毒そうにされたが、納得の気の毒具合だ。
    「絶対大丈夫。俺が言うねんから大丈夫や。」と頼もしく笑ってくれた記憶の中の兄が、脳裏にチラついた。

    兄は言葉少なに、辿々しく話す。

    「あ、来てくれまじう。」

    「お母さんやで。わかる?」

    「うん。今日はちょっつ、なしてい……」

    所々不明瞭なのをこちらで補完するに、「今日は暑くてだるい。熱がある気がする。」という内容だった。
    母が「水でも飲みー。」と世話を焼き、冷たい水を飲むと気分がよくなったと表情を緩ませた。

    「ユイ。こんな兄貴でごめん。ごめでな。」

    兄は私に縋るようにして泣いた。
    体格の大きい兄を慰めるように抱き留めたのは、生まれて初めてのことだった。

    「謝ることないよ。お兄ちゃんが生きててくれて、よかったよ。……ほんまに、よかった。」

    そう言っても、兄は謝ることをやめない。

    「なんで謝んねんな。災難やったんやで。なんにも謝ることないって。」

    兄はひたすら謝っていた。

    「親父、ごめん。母ちゃん、ごめん。ユイ、ごめん。ごめんな。ほんまにごめん。」

    最初は、「俺のせいで、こんなことになってごめん」のニュアンスで聞こえていた謝罪の言葉が、「生きながらえてしまってごめん」に聞こえてきて、息が詰まった。
    兄の辛さは想像にも及ばない。
    私にとっての喜びが、兄にとってもそうかどうか、確かめたくもなかった。

    兄は涙を拭くと、リハビリの時間だと言って立ち上がった。
    ゆっくりとだが自立して歩いて行くのを見て、兄の将来が気になった。
    言葉が駄目なら絵でも描いたらどうだろう。

    父はお見舞いの後、「お前も気をつけろ。」と短く言った。
    家族歴がある私の脳卒中発症リスクは、そうでない人に比べて2倍高いという。

    兄は私と4つしか歳が違わない。

    あと、4年で……?

    健康にならなければと決意した瞬間、自分の体重のことを思い出した。


    「み、見て。夢の60kg……」

    私は夫の目の前で体重計に乗って見せる。

    私の体は十月十日を経て、臨月。
    お腹はスイカのように丸く張って、痛いほどに胎動を感じる。
    今か今かと息子の誕生を待つその瞬間に、私は人生で初めて適正体重を手に入れた。

    「……それ、ユイの重さじゃないよ?」

    「わかってるよ。こんな姿になってやっと適正体重という異常さに打ちひしがれているんだよ。」

    そんな会話をした次の日に、息子は生まれた。
    息子を産んだ後の体は、1週間もすると寸分の狂いなく元の体重に戻ってしまった。
    なにがシンデレラ体重だ。こんなもの、なんで病気と診断されないのかわからない体重だ。


    100歳って意外と遠いんだな。
    父も母も、叔父も叔母も、お爺ちゃんもお婆ちゃんも、それなりに元気そうに生きていたから、ずっと気がつかなかった。
    足掻けるうちに足掻かないといけない。
    四肢が元気なうちに鍛えないと。
    顎と胃が許すうちに体重を増やさないと。
    歯があるうちに歯間ブラシ、首腰膝は痛くないうちに労わって、寝られるうちに8時間睡眠。

    もちろん、言うは易し行うは難し。

    最終章「カフェ」

    「苺とチーズのムースを一つと、ショートケーキを一つ。それからアッサムティーのホットを2つお願いします。」

    「ミルクとお砂糖はどうなさいますか?」

    「あ、ミルクだけ……チヒロちゃんも?おけ。2つともミルクだけ付けてください。」

    「かしこまりました。メニューお下げしますね。」

    注文を終えて一息つく。
    ソファ席に深く腰掛けて、少しだけ足をぶらぶらさせた。今日は駅で待ち合わせて、カフェまで歩いた。ここは駅から少しだけ遠かったけど、お気に入りのチェーン店だ。
    軽く息を整えたら、まだなにも置かれていない机に、スマホを取り出して置く。

    「さて、と。次はいつ会う?」

    「え?……っと、来月は月末忙しい。」

    「じゃあ月初めか、再来月だね。」

    半ば強引に来月の予定を立てると、来月の20日に友達の名前を書いて手帳を閉じた。
    今日が終わっていく焦燥を、来月の楽しみが上回り始める。これでやっと今日を始められる。

    「最近調子はどう?」

    「ぼちぼちかな。いい相手もなかなか見つからないや。ユイちゃんは?」

    「あー、兄が倒れたのがビッグニュースかな。それで、健康寿命を伸ばそうと今必死。」

    「お待たせしました。」

    テーブルにケーキが運ばれてくる。
    今日頼んだのは苺とリコッタチーズのムースケーキ。
    全メニューの中から1番好きなケーキを探索中の今、注文するケーキは毎度、「初めまして」のケーキだ。
    程よい甘さと口溶けで、ぺろっと平らげられてしまいそうな人生の味。ムースの軽さが効いていて、足にあった重さも飛んでいく。ソファが柔らかいからか、会話と心まで弾んで、これは美味しい。
    紅茶を啜ると、食器がカチャと鳴る音まで味がするようだ。

    「運動大事だよね。最近やばいわ。在宅で、1日100歩しか歩いてない日あるかも。」

    「それはまずいね。」

    「ね。それなのに私、マラソンを走り切ってみたいって思ってるわ。」

    彼女はショートケーキを突きながら唐突に言った。

    「わかるかも。私も走ってみたいと思ったことある。全然行動には移せてないけど。」

    「え!本当?わかるって言われたの初めて。嬉しい。あ、もしかして、バンジージャンプとかも……?」

    「ああ!わかるよ。人生で一度くらいやってみたいと思ってる。どうせなら知れること全部知ってから死にたくて。まあでも、バンジーは本当に死ぬ前でいいかな。死にそうだし。死ぬ気で飛ぶわ。」


    死を考えると思い出すのは昔、国語の教科書で読んだ『握手』。そこに書かれた、“ルロイ修道士”と“わたし”のことだ。

    「死ぬのは怖くありませんか。」

    “わたし”の言葉が自分に向かって問われる。
    怖い。死にたくない。私、まだ、嫌だ。

    「天国へ行くのですから、そう怖くはありませんよ。」

    “ルロイ修道士”の言葉は当時から納得できるものではなかった。
    神を信じて死ねるだろうか?
    否。私は頂上まで行きたい。
    全部終われば死ねる気がする。


    死ぬ死ぬ言う私のことを彼女は笑う。

    「アハハ!私も、バンジーは優先順位低めだなあ。でもやってみたいよね。肩書を手に入れたいというか、やったことある人になりたい。ああ〜、自信のある人になりたいなあ。」

    同じなようで違うけど、彼女とは同じ方向を向いている。気が合うということで、いいんじゃなかろうか。

    「自信の付け方にしては、かなり強引だと思うけどね。普通は小さな成功経験をたくさん積むとか言うのに、たった一回死線を潜るってのは力技に見える。」

    「たくさんある方法のうちの一つだよ。今1番は日記かな。道中のユイちゃんの話聞いて、私も書いてみたくなった。ユイちゃんは?今は?」

    「え?あー、うーん……とりあえず富士山?かな。富士山には登りたい。これは絶対。」

    私が言うと彼女は笑った。

    「富士山も死にそうじゃない?」

    「ああ、本当だ。じゃあ下山後は温泉に行くよ。」

    「えっ、なんで?」

    私はひと口紅茶を啜る。

    「死の恐怖をも上回る予定を立てれば、楽しく登れそうでしょ?」

    「いや、なんで登るの?」

    「え?……わ!まじだ!」

    じわじわと笑いが込み上げてくる。
    声を殺したまま腹を抱えてヒーヒー笑い合う。

    「ちが、決まってたから。なんでか知らないけど決めてたから、そういうもんだと。」

    1日4食、おやつまできっちり食べる。
    毎日散歩にも行く。日記もつける。
    週に1回はスーパーに行って、月に1度は友達と遊ぶ。
    年に1回は山にも登る。

    そう決めてあって、そうなっていた。

    1年後くらいには家族をもう1人増やして、5年後には社会復帰。
    10年後には家族で北海道旅行に行って、元気なうちに富士山に登る。38年後には免許を返納して、100歳まで生きる。

    そう決めてあるから、うっかりそうできるものだと思い始めていた。

    なんだ。
    決めておけばいいのか。
    “ルロイ修道士”と変わらない。
    来世の予定を決めておけばいいんだ。

    逸る心臓を落ち着けたくて、ポットに手を伸ばす。
    指の先がわずかに震えているのが見えた。
    最後の紅茶を注ぎ切るとカップの中身を飲む前に店員を呼ぶ。

    「すみません。アッサムティーのホットを一つ。ミルクだけ付けてください。」

    「まだあるじゃん。」と小声で言う友達に、「もう無いんだよ。」と返す。

    また平凡な人間に生まれよう。
    人並みに嫌な目に遭いながら、楽しみを見つけて、予定を立てて生きるんだ。


    今日の予定を捌いていく。
    明日も、来世も、そうなるように。

     
     
    毎日、日記を更新中。今日の肌感が伝わると嬉しいです。

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