
夜空の星に微笑まれる人生
──思い出横丁のラーメン屋さんり ──
一 どこか懐かしい場所
うちの店に初めて来た人は、みんな同じ顔をする。
「どこか懐かしい」という顔だ。
西新宿の思い出横丁。通りの両側にはいろんな飲食店が並んでいるが、ここだけはまだ昭和の面影を残している。煙と、ちょっとした油の匂い。狭い路地に灯る赤提灯。この横丁に足を踏み入れると、どんな人でも時間の流れが少し緩くなる気がする。
店は小さい。表の通り側に三席、左手奥のカウンターに十一席。合わせて十四席しかない。それでも毎日、いろんな人が来てくれる。
二 カウンターの人間模様
大学教授、歌舞伎の裏方の人、テレビで事件のたびに「ああでもない、こうでもない」と解説するコメンテーター……。画面の中では難しい顔をしているのに、ラーメンの前ではみんな同じ顔になる。西新宿という場所柄か、客筋がいいんだよ、とわたしはいつも思っている。
きれいな女性のお客さんが来ると、マスターはこう言うことにしている。「お姉さんは、何を着ても似合うね!」。お世辞でも何でもない、本当にそう思うから言うのだ。
ある夜、一人の紳士が静かに息抜きに来た。ところが、マスターは若い女性のお客さんと楽しく話している。紳士は、「どうして、マスターはこんな若い女性と楽しく話せるのか」と言い出す。
マスターもニヤッとして「僕も男ですからね」と言い返す。紳士は、やがて静かに立ち上がり、「気分が悪い、僕はバーに行く」と言い残して店を出て行った。
やきもちを焼いていたのだ。
ラーメン屋のマスターに、である。
三 思い出横丁の愉快な人々
ある日の営業中、店の前をご年配のおばちゃんが「鍋、鍋を買いにいかなくちゃっ!」と愛嬌を振り乱しながら走っていった。
営業時間中に鍋を買いに行くとはどういうことか、と思わず目で追ってしまった。
後で、「あの人、やくざの組長の奥さんよ」と教えてくれた。
思い出横丁では、走っている人も、のんびりしている人も、みんなどこか素顔のままだ。
欧米からの観光客も多くなった。円高やオリンピックの頃には特ににぎわった。マスターは笑いながらこう言う。「外国の方は大きいからね、店が壊れるんじゃないかと思うよ」と冗談をとばしている。十四席のカウンターは、外国語が聞える。
四 昭和の灯
「千と千尋の神隠し」という映画があった。その場面で、千尋のお父さんとお母さんが豚になってしまう。カウンターで美味しそうに御馳走を食べているあのシーン。紀伊国屋書店で立ち読みしてこの店を知った。映画のシーンの中にいるようで、嬉しくて楽しい出来事だった。
昭和の人気テレビドラマのロケにも使われている。カウンターの真ん中の席から、刑事役の俳優が仕事に向かう、店から出ていくシーン。
ある時、ヨドバシカメラにふらっと寄ったら、大型モニターにマスターの顔がアップで映っていて、さすがに驚いた。東京都がヨーロッパなどに向けの観光CMを撮りに来ていた。日本では流れていないが、どこかの外国の人が、この小さなラーメン屋を目指してやってくるかもしれないと思うと、不思議な気持ちになる。
五 カウンター越しの大学
マスターは、長年カウンターに立っているので、自然と博識になる。
大学教授の講義、コメンテーターの時事論、歌舞伎の裏話、外国からのお客さんが教えてくれる遠い国の話……。わたしはラーメンを作りながら、ただ耳を傾けてきただけだ。
けれど気がつけば、どんな話題が出ても、少しくらいは語れる人間になっていた。
思い出横丁のカウンターは、わたしにとって、世界で一番小さな大学だったのかもしれない。
町内会の集まりに行くと、京王百貨店の社長と小田急百貨店の社長の間に座ることになる。「ラーメン屋の親爺は私だけだよ!」と、毎回笑いながら言う。でも、それでいい。昭和を守っているのは、大きな百貨店じゃない。こういう小さな店が、まだここにあるということが大事なんだと思っている。
六 夜空の星に微笑まれる人生
カウンターに立ち続けて、何十年が経った。渋谷にマンション、思い出横丁に貸し店舖二軒の不動産が残った。派手なことは何もしていない。ただ毎日、同じ場所に立って、自家製麺のラーメンを作ってきただけだ。マスターの堅実な人柄を慕うお客は多い。
世の中には、若い頃の行いが老いた頃にブーメランのように返ってきて、晩年を苦しむ人もいる。権力やお金を持ちながら、人を踏みにじり、見栄を張り続けた人が、年老いてからそのツケを払わされる。そういう話を、わたしは何度も見てきた。
マスターはただ、毎日同じ場所に立っていただけだ。目の前の人を大切にして、手作りラーメンを作って、たまに女性を褒めて、たまに笑わせて。それだけのことを繰り返してきた。
深夜、店を閉めて帰る時、ふと空を見上げることがある。
西新宿の夜空に、星が出ている。
賑やかだったカウンターも、焼きそばの煙も、笑い声も、もう静まり返っている。ただ星だけが、変わらずそこにある。
今日も色んな人が来てくれた。そう思いながら、マスター自転車で行く。
明日も、お客がカウンターに座りに来てくれる。
そして、お客のために自家製!手打ちラーメンを作ろう。
西新宿・思い出横丁 ラーメン屋主人 記