
天使の箱庭~仮面の国~│小説(note創作大賞応募作品)
◇あらすじ◇
幼いエリステアは母親を亡くした日に美しい天使に出会った。
仮面をつけて生活するという風習のあるロルマンド王国の末の王女であるエリステアは大人になり、王族と祈りの場である大祈堂を繋ぐ役目を担っていた。
傍には黒ずくめの姿の側近のサヴィアンがいつもいるが愛想がなく得体のしれない様子に心を許せないでいた。
大祈堂を訪問した日に庶民の少年に出会い、仮面をつけるのが富裕層だけだということ、大祈堂は庶民に開かれていないことを知る。そのことをきっかけにエリステアは様々なことを知りたいと思うようになる。
その後父と兄の協力もあり大祈堂の不正を阻止する。
そして、エリステアが結婚する時に天使の正体が明らかになる。
天使の箱庭~仮面の国~
ある、雨の日だった。
「お母さま……お母さま」
どれだけ泣いたかわからない。
小さい頃の私は泣き虫で、お母さまやばあやを困らせてばかりいた。
けれど寝てしまえば起きてくることは滅多になく、その時ばかりは世話係も気を抜くことのできる時間だったんだろう。
なのに――お母さまが病で里下がりをされていたその時に限って、何故か起き出してしまった。
そして、不安に押しつぶされそうで、誰かに傍にいてほしくて、部屋を抜け出した。
今思えばあの肌に感じた気味の悪さの正体は、忍び寄る不幸を知らせる胸騒ぎというものだったのかもしれない。
「お母さま……?」
キイ……っと扉が開けられる音がしてそちらを見ると、
零れた光がパタパタと何かにさえぎられるように明るくなったり暗くなったりを繰り返した。
心細くて仕方なかった幼い私はそれが危ないものである可能性を考えることもせず、そちらに近づき、扉を少しだけ広く開けて、中を覗き込んだ。
「お母さま?」
何の確証もなく、一つ覚えのように呼び続けたその呼び名を呼ぶと、光をさえぎっていた正体――ローブを着た人物が振り返った。
ゆったりとしたフードをちょうど脱いだところなのか、白くしなやかな指は顔にかかる髪の毛を取り払う。
肩までの銀色の髪に透き通るような白い肌、そして、以前街中にある寺院で見た天使の彫刻のようにすらりと通った目鼻。その美しさに幼いながら目を奪われた。
現実離れした光景に何も言えないで硬直していると、驚いたような顔でこちらを認めた。その形の良い唇がわずかに動く。
「どうして……」
その人物は雨で濡れたフードを慌てて被りなおすと焦った様子で近づいて来る。
「こんな遅い時間に……どうして起きてきてしまわれたんですか」
「あ……」
反射的に叱られていると思い、声が出なくなってしまう。
長い睫毛に縁どられた目がとても真剣にこちらを見つめていたから。
私が何か悪いことをした時――熱湯の入ったポットに手を伸ばした時、だめだと言って叱ったお母さまが、こんな瞳をしていた。
「大丈夫ですから。あなたが怖い思いをすることはありません。あなたはみんなに愛されているんですから。大丈夫です」
幼い私の腕を握り断言するその眼差しは優しくて、精いっぱいの励ましに思えた。
背中に腕が回されると、その腕は思いのほか細く、お母さまよりも小さな体だなと思った。
「さあ、お部屋に戻りましょう」
その美しい人は泣きそうな瞳で笑いかけた。
***
「きっとあれは天使様だったんだわ」
長く伸びたブロンドの髪を侍女のミーナが丁寧に梳いていく。
王女という立場の生活の中で等身大の自分でいられる貴重な時間のひとつだ。
「もう、エリステア様ったらまたですか。でもそんなに美しい方というなら私も見てみたいです。まあ、この国では家族以外の顔を見る機会なんてほとんどありませんけど」
そう言ってミーナはブラシを置き、煌びやかな仮面を手に取った。
百合の紋章が入ったそれをこちらに見せられたのを合図にして、私はいつものように頭を前に少し倒す。
正面から見える瞳の近くには王家の女性を表す百合、サイドには母親の生家の紋章である四葉の刺繡が施されている。
顔の上半分に厚みのある布地が触れるとそのまま、頭の後ろにリボンを結ぶ感覚があり、身支度が整ったのを知る。
顔を上げるとベールを纏ったミーナの姿。ベールの下には装飾のないシンプルな仮面が透けて見える。
この国の女性のいつも通りの姿だ。
「でも、どなたなんでしょうね。この城に出入りする王族の女性なら王女様もお顔を知ってそうなものですけど……やっぱり侍女でしょうか。ちょうど雨に濡れたローブを脱いだところだったということですし、夜中に王族の女性は出歩かないでしょう」
「そう……よね。お母さまが亡くなった日だし、侍女が伝えに来てくれたところだったのかも」
ミーナはまずいことを話させてしまった、といったふうに口ごもるけれど、精いっぱい口元に笑みを浮かべて首を左右に振った。
「良いのよ。その時はとても悲しかったけれど、あの天使様が慈愛の心を伝えてくれたから。もちろん、天使様だけじゃないわ。私は周りの人たちに支えられてここにいる。だから、与えられた愛をみんなに返していきたいの」
そう、私のできることをやっていきたい。
改めて胸を奮い立たせ、今日の予定に思いを馳せるのだった。
***
「――ですので、人類は皆平等なのです。そのことを忘れてはなりません。マナ・レティス」
教壇の上で話し終えると国民の拍手が石造りの大祈堂に響いた。
マナ・レティスと言うのは“愛する聖人レティス”と言う意味だ。この国ロルマンド王国は聖人レティスが天使と作った国だとされている。世界の中心地と言われる大国の首都部から遠く離れ険しい山々に囲まれたこの国は独自の文化を持っているらしい。
外出用のベールの向こうに見える景色は、ステンドガラスが神秘的な光を屋内にもたらし、中央にはこの大祈堂のシンボルでもある大天使の像、そして壁にもいくつかの天使の彫刻が祈堂内を見守るように並べられている。著名な芸術家が作ったとされるそれらはこの空間をこの街で最も特別なものにしていた。
座席には羽根やスパンコールがあしらわれた煌びやかな仮面をつけた者から最低限目の周りを隠すだけのシンプルな仮面をつけた者まで大勢の国民が座ってこちらを見つめている。神にも国民にも見られているようでこの場に立つたびに身が引きしまる思いがする。
教壇を下りると大祈堂の責任者である大司教が聖職者らしい穢れのない白い頭巾をかぶって控えている。
聖職者らしい優雅なしぐさで促されるまま用意された席に座ると、
「上出来です」
反対側の後ろから低くくぐもった声がした。けれど、振り向かない。
今は公務中だし、第一見ても意味がない。
振り返ったところでいつもそこにある人物がいるだけで目新しい情報など何もないのだから。
***
「王女様!今日もありがとうございます。いやはや、王女様の平和を愛する想いはやはり心に響きますね」
「いえ、私の言葉は教典や……普段大司教様が仰っていることを真似たにすぎません」
「いえいえ。王女様が日ごろから愛を胸に抱いてらっしゃるからこそ国民にも伝わるのですよ。皆真剣に聞いておりましたとも。ええ、ええ!」
式典が終わった途端に純白の頭巾の下快活に笑う大司教の口元に苦笑いになる。教会関係者はその立場から純白の仮面と頭巾を被るようにとされていてこの大司教も例にもれずその純白に身を包んでいる。仮面には銀糸で複雑な蔦の刺繍を施しているがそれは個人の趣味によるものなのだろう。
私自身、教会関係の務めを任されることが増えたとは言え、大司教のこの勢いの良い滑らかな舌と身振りには慣れない。
「このように国民の皆さんに分け隔てなく話しかけられる機会は聖堂ならではですね。とても貴重な機会をいつもありがとうございます」
「いえいえ!それよりですね。今度の祭典のことで王女様にご相談があるのですが──」
「大司教」
急に割って入って来た低く響く男性の声に大司教の肩が大袈裟なくらい跳ねる。
「おおっと、側近殿がいらっしゃったのですね。いやはや、いつも気配がない!」
「音楽祭のことでしたら例年通りに。それでは」
「え?……それではまた。本日はありがとうございました!」
黒い頭巾に黒いローブ、そして、口元以外覆われた真っ黒な覆面。厳めしい出で立ちの側近に促されるまま、私は大祈堂を後にした。
***
「~~ちょっと!サヴィアン!」
聖堂の外に出た途端に、沸々としていたものがついに限界を超えた。
いつものことではあるけれど、いつもいつも、どうして自分の側近はこうなのか。
「大司教様は大切な行事の話をされてたのよ!失礼でしょう?教会の話も聞きたかったのに……あんまりだわ」
「……はぁ」
厚めの布で覆われた頭巾の中から盛大なため息が聞こえた。
「な、何?聞こえてるわよ」
「これは失礼」
明らかにわざと聞かせたに違いない。少しも悪びれない様子で謝るとまたスタスタと歩みを進める。
「ちょっと!待ちなさい!私は国民の様子も見たいわ」
「見て、どうするんです」
「それは……見ないと何も始まらないからよ。大祈堂での行事は宮殿内と違って上下がなくいろいろな身分の方が来るからちゃんと向き合いたいの」
「上下のないいろいろな方……ですか」
「そうよ。とても大事なことだと思……っ」
ポスッ、とベールに何かが掠めた。
それが大聖堂の壁に当たると、カラカラ、と音を立てて足元に転がっていく。
「ヤッベ!」
少年の声が聞こえたかと思うと聖堂の参拝客の人波から外れて走っていく後ろ姿が見えた。
「……ふん」
威圧感のある側近が屈んで何かを拾い上げる。
手袋をはめた手にあったのは小さな石だ。
「エリステア様、お怪我は」
「大丈夫です」
「すぐに捕まえさせますので」
淡々とした声音のまま式典の衛兵に目をやるそぶりを見せる。
どんな些事でも迅速に処理する姿勢は助かるには助かるが、子供の悪ふざけくらいで事を荒立てるつもりなんてわかない。
「いえ、それはけっこうです」
「ですが、野放しにすると――」
「こんのっ、ガキ!!」
配置されていた衛兵がさっきの子供を掴み上げていた。
年のころは12くらいだろうか。やんちゃそうな顔をしかめて、逃げようともがいていた。
「エリステア様?」
突如もたらされた違和感に反応が遅れる。
「え?……いえ。離してあげていいんじゃないかと――」
「はーなーせーよっ!」
大きく足を蹴り上げたかと思うと少年は弾みで着地してそのまま路地裏の方へと駆けていった。
「うわぁっ」
衛兵が追いかけようとするが、
「もういい。たかだか子供だ。貴殿の任務は大祈堂を守る任のはずだが?」
「はっ、失礼致しました」
言われるがまま、衛兵はこちらに敬礼をして配置箇所へと戻って行った。
すぐに開放したのは私にとって特別危険がないと判断したのだろうか。
「エリステア様。早く宮殿に戻りましょう」
「え、ええ……さっきの子……仮面をしてなかったわね」
違和感の正体はこれだ。
仮面をしていなかった。
12歳くらいともなると宮殿内では異性の素顔を見ることなんて有り得ない。
仮面を嫌がる小さな子供ならともかく、
大抵は分別がつくような年齢になると『魔除け』と称して仮面をつけるようになるものだ。
「まぁ、そうでしょうね。」
何と言うことでもないように、側近のサヴィアンはそっけなく答えた。
何故石を投げられたのかわからない。
投げたのではなく、事故かもしれない。
そうでなければ理由がわからない。
小石はベールを掠めただけのはずなのに、大きな石をぶつけられたような、そんな衝撃と痛みだ。
***
宮殿に帰って自室に戻ろうとすると、
「おお!エリステア!」
朗らかな声と共にやってきたのは、この宮殿の中で誰よりも豪華な仮面の持ち主――父である国王だ。体格が良く国王らしい威厳のあるお姿で、何人かの側近も連れている。
「お父様!」
「どうだ?今日も大祈堂での挨拶はうまくいったか?」
「ええ。つつがなく終えることができました。私は子供で、ずっと何もできず歯がゆい思いをしてきましたが……今はこんなに大切なお役目を与えていただき嬉しく思っていますわ」
「そうかそうか。本当にエリステアのような優しい子にはああいう務めがあってるようだな。うんうん、平和的で良い良い。次の音楽祭はわしも行くからな。あれは賑やかで良い。エリステアは音楽が好きじゃろ?」
「お父様、お仕事で行くんですから私は好き嫌いは致しません。音楽は……好きですけれど」
「そうかそうか。うん」
仮面をしていても目尻が下がっているのがわかる。宮殿内にいるからか、金糸の刺繍が施されて豪華とはいえ軽い目の周りを覆う程度のものだから頬が嬉しそうに上がっているのもわかる。
国王はとても家族を大事にしてくれている。
歳をとってから生まれた私のことはこれ以上なく可愛がってくれている。
それは宮殿の者ならば誰もが知る周知のことで、娘である私もお父様を見るとついつい笑顔になってしまうのだった。
「サヴィアン、警備面も問題はなかったか?」
そう言ったのは国王の補佐役であるガルニ。
前国王の時代から王に使えている現宮殿には稀少な古参の臣下だ。
お父様である国王からの信頼も厚く、私にとっても身内と言っても過言ではないほど近しい間柄のおじ様だ。
声色からも情に厚い人柄がにじみ出ている。
「ええ、何もありませんでし――」
「国王様。そのことで一応お耳に入れたいことがあるのですが」
気配無く温度の低いくぐもった声がして、
「だめ!」
振り返る。とにかくその先を言わすまいと。
「姫様?」
「あの少年のことなら言わなくていいから」
声をひそめて言うけれど、相手は融通が利かず冷徹な側近だ。
「……。国王様、お話したいことがあるのですが」
予想通りの冷たい事務的な発言はまっすぐお父様の方を向いている。
「ああ、聞こう。今日の式典の様子も聞かせておくれ。ほら、エリスは着替えて来なさい」
お父様が優しくそう言うとサヴィアンはお父様の進む方向に従って付いて行く。
「姫様、あんまりサヴィアンのことを睨まないでやってください。あいつも真面目に務めを果たそうとしてるんです」
「……わかっています」
ガルニは困ったようにはは、と笑った。
いつも気遣ってくれるガルニのような優しい側近もいるのに、私の近くにいる機会の多い側近はどうしてあんなに心が読めない冷たい空気を纏っているのか。
ガルニが外出の伴をしてくれる立場なら良かったのに。
そう思わずにはいられなかった。
***
しばらくしたある日、ミーナを連れて大祈堂にやってきた。
馬車を停めて中に入ると伝令に聞いていたと思われる大司教が両手をもみながら歓迎してくれた。
「いやあ!姫様が改めて来てくださるなんて、なんて素晴らしい日でしょう!」
式典の日のような純白とまでも行かないものの、清潔感のある生成りの頭巾に同じ布で作ったマントを羽織った姿だ。
仮面は式典の時とも違うようだが見目に拘りがあるようで今回は白地に葡萄の刺繍が施されている凝ったものだ。
「式典の日は失礼しました。あわただしく帰ってしまって」
「いえいえいえ!……今日はあの側近さんはいないんですね」
大司教が黒づくめの側近の姿を探すようなそぶりが見えたのでベールから辛うじて見える自分の唇の端をぎゅっと上げた。
「ええ。侍女と参りました」
「なるほど!それは良いですね!」
明るい調子のこの大司教も警戒心の塊のようなあの側近を苦手に思っていたのかもしれない。
弾むように答えて貰ったことで抱いていた緊張が緩まる。
「今日は大祈堂の普段の様子などもお聞かせいただければ嬉しいです」
「それはそれは!やはり王女様は素晴らしいですね!王様の愛情を一身に受けている方というだけのことはある!平民のことをいつも気にかけてくださるのは――」
「お願いします!どうか!少しだけで良いんです!」
甲高い訴えが聞こえ振り向くと必死な顔で扉にすがりつく女性がいた。
門番が両側から女性を支えようとしている。
「何でしょう?」
ミーナが言うけれど大司教は気にする様子もなく、
「王女様が気に留められることではありませんよ。さあ、さあ、こちらへ」
促されるまま応接間に案内され、大祈堂の成り立ちや所蔵物の由来や作者の話を聞くことになった。
「――ですので、王女様がいつも立っておられる教壇の上におわします大天使像は遙か西の風光明媚な村で農家がそれはそれは清らかな天使の歌声を聞いたとかで発掘に至ったのです。運び出すのはもう、大変で!ははは、これはもう執念と言いましょうか、いえ、運命かもしれません。並大抵の想いではここまで運ぶことは難しく――」
「そ、そうなんですね。とても美しくていつも見惚れてしまっていますが……とても大変な思いをされたんですね。ところでその……今日は……この土地のことを知りたいのです。私は物事を知らなすぎると思って。この大祈堂の歴史は、あの、大司教様に以前いただいたご本で読ませていただきました」
大司教の勢いが止まらないのを感じて本題を口にした。
何度か分厚い装丁の本を受け取ったことを思い出す。
毎回有名な絵師に大祈堂や天使の絵を依頼してるなど、誇らしげに語りながら贈与されたこと、忘れようもない。
「読んでいただけて光栄です。あの本の装丁は素晴らしかったでしょう!いえ、ね、私も王族の方に読んでいただくならと素晴らしいものにしたいなと思ってはいたのですよ。あ、でも職人も気合が入ってしまったのでしょうね。いやね、私との仲だからってことで特別に、やってもらったんですよ。とても敬虔な信者でして。そう言えば私との縁だからと言うことで先日は国外からの来客がまた大きな宗教画をこの教会に寄付したいと言ってきましてね――っと」
ドアがノックされ、「失礼」と言って大司教がその場を立つ。
「なんだか自慢みたいなお話ばかりですね」
こそっと耳打ちしてきたミーナの言葉に胸がざわつくのを感じた。
「――いいから扉は閉めておきなさい!っと、失礼。往来でちょっとしたトラブルがあったみたいで。何、仮面もつけないようなごろつきによるいざこざです」
「仮面もつけないような……?」
不思議な響きに意味を計りかねていると、隣でミーナが背筋を伸ばす。
「ごろつき、というのは王女様の前では謹んでいただけませんでしょうか。仮面をつけるのは宮殿界隈だけのしきたりと聞いておりますが」
「侍女殿、これはこれは失礼いたしました。王女様が関わって良い相手ではありませんので少々誇張してしまったかもしれません。どうぞご容赦を。王女様をお守り大切にしたいという気持ちは侍女殿にもおわかりいただけるかと思いますので」
「そのお気持ちはわかりますけれど……」
「それよりも王女様、見ていただきたいタペストリーがあるのですよ。この大祈堂で保護すべきだと何年も前から思っていたのですが、持ち主が手放したがりませんでしてね。大聖堂でならば良い状態で保管できると言うことでご納得いただけたのですよ、はい」
また美術品の話が始まってしまった。
その話には引っかかるものがあるし、聞くほどに考えさせられることもありそうだったけれど、今日のところはこれ以上話していても新しい収穫はない、というミーナとの共通の判断で祈堂を出た。
大祈堂の美術品への執着のようなものが気がかりではあったがその前に一つ、この国に関わる大きな前提を間違っていたように感じたことが私は気になっていた。
見送りを辞退して馬車に乗るまでの短い距離だけミーナと二人きりだった。
「ミーナは知っているの?その……仮面をつけない人がいるということを」
「え?ああ……ええと、昔々親戚のお兄さんが勉強を見てくれた時にそんな話をしてたかなっていう程度ですよ。私も全然わからないんです。私も宮殿育ちですからね」
「そう……」
「あの、気にされないでくださいね。人にはいろいろと事情というものがあるんだと思います。知らないことがあっても当然です。王女様ならなおさら」
「ありがとう、ミーナ」
ミーナの「いえ……」と言った声はベールの布越しには消えてしまいそうなくらい小さくて、
どんな表情をしているのかどうしてか気になった。
大祈堂に来た時に見た、眉間にしわをよせ、こけた顔で、必死に教会の扉をたたく女性。その姿が頭にこびりついて離れない。
コンッ。
何かを踏むような小さな物音に思考が中断される。思わず見ると、いつかの少年がこちらを睨みつけていた。
こちらが目が合ったと思った瞬間走り出す。
少年の黒いもので汚れた足が大きく地面を蹴るのを見た私は、
「姫様!!?」
気づくとその少年を追いかけていた。
***
「な、なんだよ……」
この機会を逃しては大事なことを知る機会を失ってしまう。
そんな予感がして、気づくと無我夢中で少年を追いかけていた。
少年の後ろはいびつなレンガがうず高く積み上げられた壁。
左右には建物が建っているからちょうど袋小路といった具合だ。
まさか追いかけて来られると思ってなかったのか、以前のように大人の隙をついて逃げることも忘れていたみたいで少年は戸惑ったようにこちらをちらちらと見る。
「あの、私、あなたとお話がしたいの」
「はぁ?」
追いかけられて何をとがめられるのかと思っていたであろう少年は素っ頓狂な声を上げた。
「あなたのこと……聞かせて貰えないかしら?」
怖がらせないようになるべく優しく。警戒されないように。
「貰えない、かしら?だ??はっ、上品ぶって、お貴族様に話すことなんてねーよ!俺らみたいなごろつきと話すだけ時間の無駄だと思うけど?」
「そんなことないわ!」
「そんなことないわ、か。はっ。アンタと俺らじゃ住む世界が違うの。わかる?わかんないか~。顔も出せないようなヤツに話すことなんてないよな」
顔も出せないような。
少年のその一言がどこか引っかかる。
何が違うんだろう。
家族以外に顔を見られてはいけない。
それがこの国のしきたりで、城内だけではなく、今まで会って来た全ての人がそれを守っていた。
近しい女性同士ならその限りでないこともあった。
けれど、仮面をつけるのがマナー。そして、災いから身を守るともいわれていた。
だから城内では女性だけでなく、男性もそうだった。
一部兵士などは職務上そうはいかなかったけれどそれでも兜やマスクなどは最大限に『配慮』されたものだった。赤ん坊や小さい子供ならともかく、大人は徹底されているものだと思っていた。
けれど、この目の前にいる少年は素顔だ。
意思の強そうな目に、泥のついた頬、固く引き結んだ口。
そのどれもが心を揺さぶる。
ふと、先ほどの大祈堂の前で見た女性の顔が過る。
(そうか)
「お、おい!?」
後頭部に手を伸ばすと急に顔が軽くなり、弾みで髪留めが取れ、うなじから柔らかい髪が背中に向けて零れ、広がる。
顔を覆っていた布も取ると、視界が広くなった。
こんなに視野が明るい状態で外にいるなんていつぶりだろう。
日の光が柔らかく顔全体を照らしている。
「お話、して貰えないかしら」
口元だけに意識せずに、顔全体でにこりと笑いかける。
仮面をしている時よりも簡単に顔の筋肉が動いた。
肝心の、素顔を晒した相手はと言うと――眼を見開いた少年が何度が言葉を発しよう口を開閉させる。
そしてやっと出た言葉は、
「あんた……こどもじゃん」
思っても見ない方向から飛んできた言葉の刃が、ぐさりと胸に突き刺さった。
***
「偉そうに胸張って歩いてるしそんなゴテゴテした格好してるから大人かと思ってた。ったく、オレ、すっげーダセーじゃん。貴族のガキ相手に石蹴ってたのかよ。あ、石蹴ったってのはそのわざとっていうか、足が当たっただけ、みたいな感じなんだけど……」
「子供じゃないわ……」
「そこかよ!ってかわりーな…なんかすげー落ち込ませた?」
「……」
「お、おーい」
「あ、人に向かって石蹴っちゃだめですよ」
「お、おう。怒るのを忘れるくらいに落ち込ませたみたいでマジでごめん」
石を蹴って来て、追いかけられたら逃げて、さっきまで全力で嫌ってきていたと思うのに今は謝罪してくれている。
きっと悪い子じゃないんだろう。
「なんだか私、外見がこどもっぽいらしいの……お父様にも言われたことあるけれどお姉さまたちはもっとこう大人びた顔をしているのよね。末娘で甘やかされた証みたいで恥ずかしいわ」
「まー、貴族だから甘やかされてはいるだろうけど……アンタ本当に大人だとしたらそうとう童顔なんじゃねぇ」
「うっ」
「なるほどな。そういう秘密があるヤツからしてみたら仮面とか頭巾ってのは偉そうにできていいのか。お前がその顔で偉そうな話したら微笑ましくて笑っちまうよな!はは!」
「……もう良いわ」
「わりーわりー!」
「それより、お話をしましょう」
「いやいや、してんじゃん。ってかなんでそんな話すのにこだわんだよ」
「それは……私が何も知らないんじゃないかって思ったから」
ぎゅっと服の裾を掴む。
今まで気づきもしなかった、事実がここにあるような気がして、今まで見て来たものが壊される怖さが目の前に翳し出されているのではないか。
言いようのない不安に知らないふりをして、少年の眼をじっと見る。
「何を知ってて何を知らないのかはわかんないけど……」
「私、仮面をつけてない人がいること、知らなかったの」
「え、嘘だろ」
「知らないっておかしいことなのね」
「そりゃあまあ……城のしきたりだとかで、貴族と…後は成金とか権力持って偉そうにしてるやつがかぶってるだけのイメージだから。あ、後は祭か。仮装でなら被る」
「か、仮装…!?」
「そう。って、お前、マジで知らなかったのかよ!うそだろー」
そう言うと少年は急に吹き出して――お腹を抱えて笑い出した。
「ひ、ひーっ。やべえ!」
目尻には涙が浮いていて何なら流れそうだ。
「こんな世間知らずいんのかよ……はー腹いてえー!」
「え、お腹?お腹が痛いならお薬を、あ、ミーナなら持っていると思うんだけど……ええと、街には薬屋さんていうのがあるのよね」
「笑いすぎて腹痛いだけだって。もしかして貴族って馬鹿笑いして腹痛くなることもないのか?上品ってのもたいへんだなー」
「そ、そうなのかしら……?でもお腹痛いなら大祈堂に行けば薬が――」
良いアイデアだと口に出した途端、少年の眼が鋭くなる。
先ほどまでもあった、わかりやすい敵意。
「行ってどうすんだよ」
「え?だ、だって、教会は人を助けるところだって――」
「ただし、金があるやつと貴族に限るってね。俺らなんて中に入ることもできねーよ。まあ、他国からの商人とかは何故か入れちまうみたいで薬とかもいっぱいありそうだけどな」
「そんな……教会は誰にでも開けた、平等な場所なんじゃ」
「アンタ、そんなことも知らねーなんて可哀そうだな。俺がいじめてるみたいじゃん」
「う、ううん。すごく、勉強になった。ありがとう。あ、あの、もっといろいろ聞きたいのだけど――」
「うーん、また今度な。暇だったら教えてやるよ。俺アンデリックっていうんだ。お前は?」
「え、えーとエリー……」
「おい!お前そこで何してる!」
突如響き渡った男性の怒声にびくりとする。アンデリックはそのまま飛び跳ねると、積み上げられたデコボコのレンガに足をかけた。
「うわ、また来たのかよ、お前!もう用はないんじゃなかったのかよ……こんな魔王みたいなお目付け役が付きまとってるなんてお前も災難だな。エリー!またな!」
行き止まりに思えた壁をよじ登り、軽い様子でアンデリックは飛び越えていった。
「“また”?」
「エリス様」
疑問をかき消すような重い声の方に振り返ると、
黒い仮面に黒い装束という、それこそ魔王のような陰気を纏った男性がいた。
「サ、サヴィアン……」
咄嗟に自らの仮面をつけるけれど、側近の表情の見えない顔には怒りが張り付いていることを疑いようもなかった。
***
「何故侍女を撒くような真似をしたのですか」
「撒いたわけではなくて……」
「髪留めやベールを取っていたのは?相手にやられたのですか」
「ち、違います!!」
「……わかりました」
顔を見なくてもわかるほどの重々しい雰囲気。この黒い仮面の下はよほど恐ろしい、きっと冷たく責めるような表情をしているのだろう。淡々とした尋問が終わり、サヴィアンは「報告してきます」と廊下を歩いて行った。
こればかりは抗議もできない。
全面的に自分が悪い。
ミーナに罪がないことだけは重ねて伝えておかなければならないなと思いながら、
それでも今日アンデリックと話したことは十分自分にとって意味のある時間だったと思えた。
あまりにも衝撃的な話だった。
鏡の前に座り、仮面を外す。
この顔でアンデリックと話していたのだと思うと不思議な気分だ。
こどもじゃん、と言われたことまで思い出してしまって少し気持ちが凹む。
仮面をしているとは言え化粧はしているはずだったけれど、もう少し目や鼻をくっきりと際立たせる大人っぽい化粧をするべきかもしれない。
横顔を鏡に映してみる。
なだらかな空に浮かぶ雲のような曲線。
昔出会った天使様の横顔はもっとくっきりとした彫刻のような造作をしていたな、なんて思ってしまう。あのような美人とは全く持って違う種類の顔だ。あの天使様がどんな状況で成長していたとしてもこういう凹凸の少ない顔になることは有り得ないだろう。
そして天使と言えば――大祈堂だ。
少ない行動範囲の中で一番清らかな場所だと思っていた。
話し相手が何も知らない王女だと思って大司教は気を抜いていたのかもしれないけれど、それにしてもあの美術品の数々と貧困者を寄せ付けない様子。
――わからない。
アンデリックの立場から見るとあの大祈堂はまるで……まるで教典に沿っていない、人を不平等に扱う、貴族のための施設じゃないか。
カラカラと、何か聞き慣れない音がするのを内側に感じた。
***
――謹慎。
思った通りの結果ではある。
謹慎とは言われていない。
『音楽祭には今年は参加せず、王城内でサロンコンサートでも開いてはどうかな』
そんなお父様の優しい言葉と共に、外に出る機会はなくなってしまった。
急に決まったサロンコンサートの計画で、城内の女性たちは色めき立っている。
叔母やその娘、お兄様の奥様や親しい間柄の貴族夫人なんかが優雅に談笑する。
白粉の匂いのしそうなその空間は私にとっては馴染み深く、けれど、いつもどことない疲れを感じさせるものではあった。
「エリステア様。アリーナ夫人のお抱えのピアニストが素晴らしいというお話なんですけど、こういう機会ですしお招きあそばされてはいかがでしょう?」
「え、ええ、そうですね」
「テリート、ですね!アリーナ夫人にお招きいただいて演奏を聴いたことがあるのですが憂いのある旋律が素敵で……加えて、北国の方らしい整った鼻筋に美しい唇の形をしてらして、ピアノを弾く姿が素敵で胸が高鳴ってしまいましたわ!」
そう割って入って来たのは年若く、今風の大きなリボンを肩にあしらわれたドレスを着た女性、エイラ。
いとこにあたる間柄だけれど、彼女の興味は政治ではなく流行り事のようであまり話が合うような印象は持っていない。
けれどこういうコンサートを開くにあたっては私なんかよりも情報の面でも世間感覚の面でも頼りになるのは間違いなかった。
「北国の方、ですか」
見た目で出身地などがわかるのだろうか、とぼんやりと思う。
「ええ。北国の方って、こう、鼻筋が通って、お顔は小さくて……彫刻のような姿をしてらっしゃったりするでしょう?」
「そうなのですね。エイラ、あなたは物知りですね。北国の方ともお知り合いになられる機会があるのでしょうか」
「ええ、ここだけの話なのだけど、実はあたくし以前北国出身の庭師の男性と――」
「そ、そんなことよりエイラ、そのピアニストはとても素晴らしいのね!」
楽しそうに話出したエイラを彼女の母が止めるように割り込む。
気にも留めていないようにエイラは話の軌道を滑らかに変えた。
「そうそう!最近作った曲が雨夜という曲なんですけど、なんでも北国の悲劇から曲想を得たとかでとても胸に迫るんです!噂によると彼が過去経験した悲劇から始まるんですが、そのさなかで出会った少女への慈しみが込められた旋律が優しくて……その夜に雨が降っていたので曲名を雨夜、とされたとか」
「エ、エイラ……」
エイラの母が困ったような呆れたような声で娘を呼ぶ。
けれど、そんなことよりも、今語られた内容に何か引っかかるものを感じて仕方ない。
「雨の日の夜に、少女……」
そして、悲劇。
点と点が繋がっていくような感覚がする。
けれどそれがどう形作っていくのがわからなくて、
エイラが口にした単語の一つ一つが頭の中を浮遊しているようだ。
薄暗い王城内の廊下の光景がぼんやりと浮かぶ。
違和感があるのは、廊下に備え付けられたランプの高さが今目にするよりも高く、
異様に人気がないということ。
そして、一つの扉の隙間から零れた光。
「ひ、姫様!テーマを決めて、それにふさわしい曲目にしたいですわね」
ぼんやりしていたところに呼びかけられて一気に意識が戻った。
「そうね。この季節ですと……どうしましょう!悩みますわ!」
「主催はエリステア様なんですから、エリステア様に決めていただきましょう?」
「そうね。ね、エリステア様」
「……え、ええ。良いコンサートにできたら良いですね」
仮面で隠されていない口元で笑うと満足したように女性たちはコンサートの計画の話で盛り上がる。
その後も演奏者の話、ファッションの話、どちらかの貴族のご婦人の話。話題はころころと変わって行く。その移り変わりの速さについていくのを諦めて意識が別の方向へ飛んでいきそうになってしまった。
「そう言えばサヴィアン様、今度は医学博士のところに入り浸っているそうね」
急に飛び込んで来たよく知った名前にはっとする。
「医学?体術や剣術もやってらっしゃいましたよね」
「数学博士のところでは修了書を貰ったとかなんとか聞きましたけど」
「え、言語学者の話ではなくて?それなら研究に参加していたという話は聞きましたけど」
「え?」
思いがけない話題の中心人物についつい耳が起き上がる。
「あ、そうですわ、エリステア様。今のお話は本当ですの?」
「ええと……何かいろいろと勉強しているようですけど、私にはよく」
「まあ。でもこれだけいろいろな学問を修めてどうされるんでしょうね」
「それもそうですけど、一人でそんなにたくさんの学問を修めることなんてできます?まさか、何人もいるなんてことはないでしょうけど」
「何人も?」
女性の軽口が何故か耳に留まってしまって、反射的に尋ねてしまった。
「あら、いやですわ。姫様冗談ですのよ。いくらサヴィアン様でも分身はできないでしょうから!誰か他の方がなりすましたとしてもあの黒くて威圧感のあるオーラは他の人には出せません!」
「黒いのはお召し物の色ではなくて?」
ふふふふふ、と上品な笑い声がサロンに響く。
確かに忙しそうにしていて不在のことは多い。
なりすまし、と言う言葉が頭の中に響き渡る。
けれど中身が入れ替わってないだなんて誰がわかるのだろうか。
サヴィは黙っていることも多く、中身を確かめる術なんてない。
「でもこれだけいろんな学問を修めているんでしたら姫様も心強いですわね」
「え、ええ、そうですね」
変なことを考えるのはナシだ。
会話はそれほど多くないとしてもサヴィアンの声や雰囲気が変わって気づかないわけがないほどには近くにいると思いなおす。
想像以上に学問に励んでいたという事実は驚かされたけれど、真面目に書物を繰っている姿は容易に想像がついた。
知らないことばかりの私の傍にいる人が物知りなんて、とてもよくできた話じゃないか。
サロンコンサートの意見を出し合いながらも、先日見た市街での景色を思い浮かべるのだった。
***
「──80年前の侵略を逃れた後はこの街の中は内戦などもありませんでした。侵略のあった時代人々の心の支えになった寺院があったのは西のエリアです。その寺院は質素ながら一般層の住む住宅地に今も残り庶民からの信仰は篤いと聞いています。今の大祈堂は広場に面していて行政の要地でもあり、平和を願う象徴的な意味合いもあり前々王の時代に建設されました。最近よく調べておいでですしご存じかとは思いますが」
「ええ、改めて聞くと考えることもあってとても興味深いわ。ありがとう」
市街地図を広げながら歴史をなぞり説明してくれるのでとても分かりやすい。
王族に生まれて何故市街地のことを知らなかったのか、深く知ろうとしなかったのか、情けない気持ちになった私は勉学の士であるサヴィアンに教えを乞うことにした。
「とてもわかりやすかったです。忙しいところありがとう」
「いえ、姫様のことが最重要事項ですので。それはともかくとして、姫様……まさかこの情報を持ってまた市街に出ようだなんて思っていませんよね」
「えっ」
思ってない――こともなかったため心臓が跳ねる。
「前に姫様が立ち入ったのはあのあたりでも治安の良くない地域です。顔を見られるなど、もってのほかです」
「顔を……ねえ、どうして。どうして顔を見られてはいけないの?」
「は……」
どんなことにでも滑らかに答えていた勉学の師はここで言葉を詰まらせた。
「顔を合わせないとわからないことがあるんじゃないかなって思ったの。市民もみんなお互い顔の見えない生活を送っているんだと思っていたわ。でも違った。それに、市民の人たちの表情ってとても訴えかけられるものがあったわ。サヴィアンも帽子と仮面で頭を覆ってしまったら私が入れ替わっていてもわからないんじゃない?」
「それは――わかりますよ」
「え?」
「顔が見えなくてもわかりますよ。ずっと側にいるんですから」
サヴィアンの低い声が思いのほか身体の奥に響いた。
居心地の悪さに咄嗟に言葉が出なくなる。
「……っ。でも最近は忙しくて不在にしていることも多いじゃない」
「そうですが」
静寂が訪れる。
急に饒舌になったり、無口になったり。
この黒い側近はいつも読めない。
気配がないかと思ったら大きな威圧感を持って現れたり。
「……サヴィアンは、どんな顔をしているんだろう」
「……はぁ」
思わず呟いてしまった疑問はつまらなそうなため息によって打ち切られてしまった。
「それよりサヴィアン、気になっていたのだけど……アンデリック――前に私と話していた市民の少年が『また来たのか』って言ってたのはどういうことだったの?」
「以前式典の日に会った後会いました。危険人物であるか確認しに行くのは当たり前ですから」
衛兵が一度捕まえた後すぐに開放したのはあくまであの場だけの話だったのか。
「ひどいことはしてないわよね?」
「住処を尋ねて話を聞いただけです」
アンデリックの様子からしてそれは間違いではないだろう。
サヴィアンが何か危害を加えていたなら私に対してもあんなに気さくに話してはくれなかっただろう。
共謀者もなく、あの細く華奢な少年が一人で何かできるとは思わなかったのかもしれない。
「なぜ気にするのですか」
「あたり前よ。と、友達なんだもの」
珍しく個人的な感情について聞かれた気がして、ついぎこちなくなってしまう。
「友達……ですか」
「そうよ」
あれだけ顔を見せて気兼ねなく話せて、そういう関係を友達と言うのではないか。
「また会って話したいわ」
それを言うと否定されるだろうな、と思いつつも口にした。
なのに、何も反応はない。てっきりお小言が始まると思っていただけに拍子抜けだ。
感情の見えない黒ずくめの男の様子を窺うけれど、何を考えているか全く見えない。
ころころと表情を変えていたアンデリックとは大違いだ。
それも仮面のせいだろうかと、もどかしいような気持ちがわいてくるのを感じだ。
***
「顔を見せて、ですか」
「ええ」
朝の支度をする前、顔を晒した状態でミーナに頼んでみた。
ミーナは前に世話をしてくれていたばあやの親類で、ミーナ自身そんなに私に顔を見られたくないと思ったことがないからか自然に顔を見せてくれていた。
「かまいませんが……」
するすると頭の後ろのリボンをほどくとミーナの顔が露わになる。
声の通りの溌溂とした印象で自然で太陽が似合いそうなミーナの素顔。
面長の輪郭だから大人っぽく見えるのかな、なんて思いもよぎる。
「エリステア様。あの……じっと見られるのは恥ずかしいですね」
「ごめんなさい。ミーナの顔はとても素敵だなと思って見入ってしまって」
「ええ?恐れ多いですよ。姫様こそ愛らしいじゃないですか」
「愛らしい……子供っぽいのはどうしたらいいのかしら」
アンデリックに言われた『こどもじゃないか』という言葉が頭の中で鳴り響く。
もう物真似でもできそうなくらい、自分の頭の中で何回も聞いた。
「えっ。そういう意味ではないですが。それに、どうして急に悩みだされたのかわかりませんが、姫様ほどの身分の方なら顔を見せるのなんてご家族くらいでしょうから悩むこともないと思いますよ」
「ミーナ」
「はい」
「それはフォローになっていないと思うの」
***
また別の日。
「お父様。お顔を見せてくださいませんか」
「ん?なんだ?仕方ないのう~」
部屋に来たお父様にお願いをしてみた。
桐の紋章の刺繍が入った仮面を外すと記憶の通りの顔が現れる。
優し気な眼差しと、目尻の皺。
その皺の数が増えたような気がした。
そして、何より、
「お父様。お顔の色が優れませんね……?」
「ん?おおう、政務がたまっておってな。さすがエリステアだ。父の体調も気遣ってくれる優しい娘だのう」
お父様の分厚い手が頭を撫でる。
恥ずかしいようなくすぐったいような気持ちになりつつも温かさが心地いい。
「まあ、だが、大丈夫じゃ。ガルニもそうじゃが……サヴィアンが、やはりなかなかに賢いやつでな。政務のやり方のアドバイスも的確なものだからいくつか任せてみることにしてな」
「とても信頼なさってるんですね」
「ああ。釣りの話もできるし、こういうな、こだわって作った飾りボタンにも気づく。ガルニは固いところもあるが、あやつといると笑いも絶えない。あんなに趣味が合って信用もできる奴はおらんよ」
「……お父様。それは本当に、サヴィアンですか」
「ん?ああ、そうだ。お前の世話役としても働いておるだろう。実に有能な男だ」
***
黒い頭巾と黒い装束。
今日も勉強を手伝ってくれているのはサヴィアンだ。
「ねぇ、サヴィアン。暑くないの?」
ミーナにお父様、続けて素顔を見たせいか近くにいるこの側近の服装がいつにも増して気になった。
「ええ」
「私は暑い日は薄い布地の仮面にしたりするのだけれどサヴィアンにそういうのはないの?」
「仕事中の正装はこれと決めていますので。385ページですが――」
結局何を尋ねようとも必要最低限しか喋らない。
勉強の合間に観察してみようとするものの、
衣服に包まれた太い首にがっちりとした身体、そして布越しのくぐもった低い声しか読み取ることはできなかった。
***
「はぁ……素敵でしたわ。暖かな気候に涼を呼び込むような……川のせせらぎのような調べ、素晴らしかったですわね」
サロンコンサートは成功で、内々の催しとは言えホストとしてはほっと安心した。
「エリステア様。テリートは話題の曲もありますがあえて伝統的な曲ばかりというのも宮中らしくてこれはこれで良いものですわね。またこのような機会を企画してくださいな」
「ええ、また機会があれば……」
過去の記憶によく似たモチーフの曲は演奏されなかった。
演奏が終わり夫人たちの輪の中心にいる件の演奏者は金にスパンコールがあしらわれた華麗な仮面の下、微笑みで相手をしている。
その口元は確かに形が良く、鼻梁、顎のラインどちらも彫刻のようだという雰囲気を持っている。
けれど――
仮面を取るまでもなく、記憶の中の『天使様』とは違っていた。
まず、肝心要の性別が違う。ここにいるテリートは細身ではあるし灰ががった長髪を結った中性的な髪型ではあるものの、骨のしっかりしている様子を見てもどう見ても男性だ。
姉妹でもあれば似ているのかもしれない、と思いちらっと聞こうとしたが、過去の悲劇については演奏以外で語りたくはない、と本人に言われてしまった。
アリーナ様曰く、天涯孤独な身の上を可哀そうに思って家に向かい入れたということだった。曲のモチーフになった少女というのはアリーナ様のことなのか想像上のことなのか、わからないけれど、アリーナ様の邸に彼がやってきたのは20年近く前のことだということだったので時期的にも全然違っていた。
「ふう……」
誰にも聞こえないように小さくため息をつく。
気になっていたテリートへの疑惑も解消し、音楽は好きだけれど噂話の飛び交う女性たちの集いはなぜか窮屈な思いになってしまう。そんなことは言えず、口元に微笑みを浮かべて招待客たちを見送る。
「ところでエリステア様。こういったお噂はご存じ?」
「え?ええと……私はあまり世情に詳しくはございませんので」
「そうですわよね。けれどこれはエリステア様のお耳に入れておいたほうが良いかと思いまして。いえ、私もこのような告げ口めいたことは好きではありませんのよ?」
「え、ええ」
「エリステア様のお世話役でもあるサヴィアン様。国の実権を握ろうとしているんじゃありませんの?」
ただでさえ顔の見えない仮面姿。口元に大きな扇をあてて女性は言う。
「今は王と第一王子の世代交代に揺れている時ですわ。黒い噂が泡のように湧いて来る方です。エリステア様もお気をつけあそばせ」
***
世代交代──
それはいつの頃からか耳にするようになった話題だった。
お父様はまだまだ頼もしくはあるものの、第一王子であるギースお兄様は自分の役目をこなし人気も高いため、いつでも王位継承ができるともっぱらの噂である。
とは言えギースお兄様は飄々とした掴めないお人柄でもあるため、本人自身が王位を望んでいるかはわからず、そんな様子であるからかお父様は別の王子や──それこそサヴィアンに王政を支えてもらいたいという願いがあるのではないかと口にする貴婦人もいた。
私にとって知らなかった話ばかりだった。
私にとってのお父様は優しく多くの人に尊敬されている王であったし、対してお兄様のことは、年が離れていることもあって、妹の私のことを愛してはくれていてもどこか遠い存在だった。
お父様とは違い、華美な仮面をつけている方ではなかったけれどその服装や姿勢のスマートさから女性に人気があったということは知っている。
そのくらいの距離感だったある日その人は部屋にやってきた。
珍しくてその知らせが来た時には驚いてしまった。
「エリステア、こうやって直接顔を合わせるのは久しぶりだね。どう、元気をしていた?」
「ギースお兄様、来ていただけて嬉しいです」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。先日のサロンコンサートは妻も楽しんだようだよ。ありがとう」
「いえ……楽しんでいただけたのなら嬉しいですわ……」
すっと顔が曇ってしまう。
こういうときに笑えないのが自分の幼いところだと思う。
「もしかして、自分の意志ではなく、父上の言う通りにサロンコンサートを開いただけだと思っている?」
「え、どうして」
「私も王子だよ。そんなことは山ほどあった。ま、今では父の指示なんて聞かなくなってしまったけどね。そのせいで父上に嫌われていることはエリステアも知っているんじゃないのかな」
「嫌われているんですか」
「知らなかったか。エリステアはまだまだ子供……というか、噂話なんて気にしないたちなのかな」
「こども……」
またこどもと言われてしまった。
今回は顔立ちの話ではないし私よりずっと大人なお兄様相手なのでこれはこれで刺さるところがある。
「私は……子供なのでしょうか」
「そうだね。子供だね。でも気にすることはない。君は子供でいるように父上や周りの人たちに仕向けられてきたんだから」
「……甘やかされてきた自覚はあります」
気持ちが沈むのを堪えて声を絞り出す。
「で、だね。エリステア。成人してから公務に就くことも増えたそうじゃないか」
私の様子を気にかけていないようにギースお兄様は軽やかに言う。
「は、はい。私にできることは僅かですが」
「謙遜しなくていい。……で、何か気になることがあるなら私に話してくれないかな。あ、言っておくけれど父に嫌われてはいるけれど父上に害をなしたいとかそういう気持ちはないからね。安心して」
大祈堂を案内する大司教の派手な様子、そして平民の女性を追い返す様子が頭に過る。
「父上に害を、などとは。それは考えてもみませんでした」
「……エリステア、身内でも疑うことを覚えなければならないよ?」
「……はい」
「別に怒ってるわけじゃないよ。ところでエリステア、結婚の話は出ているのかい?」
「いいえ?……政治に関わることですものね。お兄様も気になりますよね」
急な話題の転換に首を傾げるとお兄様は笑った。
「エリステア、私は君の兄だ。幸せになることを祈っているんだよ」
***
『寄付金の贈呈式に出ては貰えんか』
そうお父様に言わたのは少し前の頃。
寄付金と言う言葉に何故かざわつくものを感じお父様に問うてみたところ怪訝な顔をされてしまった。
ならばと思い前に部屋で話したときのことを思い出しギースお兄様にそれとなく相談してみたところお父様とはまた違った様子で険しい口元をされ、暫くの後、お父様から正式に贈呈式出席の話が出た。
そして、思い立ち、先ぶれも出さずに久々に大祈堂に来ていた。
謹慎が解けたというよりも、お父様からすれば国民に疑いを持たれてはならないという判断だろう。
私が教会関係の仕事を任されているのは政治が絡みにくい王族だからだ。
慎重に務めを果たさなければならない。
侍従に通され大祈堂内部で待つと隣の部屋であわただしくする音が聞こえた。
「贈呈式はしないという話だったんじゃないのか!くそ、第一王子が何か知恵でも回したのか……?まあ、貰った金で例の絵画を買って憂さ晴らしをすればいいが」
ちょうど、髪が円形に茂った頭部が純白の頭巾によって隠されるところだった。
くるりと振り返るとこちらに向かってくる。
「あぁ、もういらっしゃったんですね!よくぞいらしてくださいました!王女殿下!簡易的な式典ではありますがどうぞよろしくお願いいたします」
いつもは社交的なこの振る舞いにいつも勇気づけられ、慣れない役目をこなすことができていたなと思い返す。
この頭巾の下ではこの人はどんな顔をしているんだろう。
そんなことを思ったけれど、市民の表情のように心打つことはないのだろうなと、本日の役目に意識を集中させることにした。
***
「大祈堂におかれましては、日々の慈善活動において、国にとってとても重要な役目を請け負ってくださっていることと思います。この度は寄付によって更なる慈善の輪を広げていただきたく、例年通りのこちらの金額――」
ちらり、と純白の頭巾の方――大司教様の方を見る。
頭巾がこちらに傾いているところからして、斜め上を見ているらしいことだけはわかる。
一呼吸して、書簡の続きに視線を移動する。
「以上のこちらの金額を、本年からは食品での寄付とさせていただきたく、なお、その食品は人々が平等であり対等であるという教会と言う場所を生かして、引き続き貧しい国民たちに分け与えるためのものとする。また、静かな祈りを妨げるものがないように王は一層祈堂を守り、戦いを退けるべく人員をつかわすことも誓う。大祈堂がこれからも民のために清らかで平等に祈りを捧げられる場所であることを願っております」
「は!?」
そこまで書簡を読み、書簡を下ろすと顔を上げた。
私のすべきことは何か。
「大祈堂が開かれた場所でありますように。私自身もこれからも見守り続けていきます。マナ・レティス」
立ち上がった大司教の椅子の音をうち消すかのように、拍手が響いた。
お父様はこの文章を読めばいいから、と書簡を渡した。
お兄様とお父様の間にどういうやり取りがあったのかは知らない。
お父様はもしかするとお兄様のやり方を受け入れつつあるのかもしれない。
今日に関しては私は二人の思惑通りに動いただけ。
自分がしたのは疑問を持ち、相談したこと、そして『見守り続けている』と釘を刺したことだけだ。
そして明日の定例演説でお父様は矛先を自分に向けるのだろう。
私は公務として務めを果たすだけ。
少しの不正も見逃さず私は見守り続け、そして、何かあれば動けるのが身軽な私の特権であり役目だ。
お父様が全ての腐敗を受け入れ、次の世代に交代するというのなら、それが役目なら、ただ、全うしたいと思った。
***
「おのれ……何もわかっていない小娘かと思っていたら余計なことをして……!」
先ほどまで国民と聖職者たちが座っていた椅子は今は空席である。
王女の急な来訪であったためいつものように繋がりのある富裕層や関係者で席を埋めることが出来ず、内々での式典にしようとしていた。けれど、何かと気に食わないところのある王女の黒ずくめの側近がそれを阻止して一般市民を大祈堂内に入れてしまったのだ。
国からの現金支給がなくなるという大事に大司教の心は大きく波立ち、王女が帰ってすぐ大祈堂内にいた者たちを早々に追い出した。
「私の集めた美術品は誰にも渡さんぞ……神が……神がおっしゃっているのだ。この大祈堂に聖なる芸術を集めよと。神よ、私に力をお貸しください」
若い日に留学先で見た宗教芸術に心奪われてから、大司教の心の中には一つの信念が生まれてしまった。
信仰心から生まれた美しい品々こそが尊く、そして人を導いてくれるものだと。
誰もいない大祈堂で大司教は聖職者らしく正しい作法で神に祈った。
***
「今まで現物支給にできなかったのはそれはそれで理由があるってことよね」
「……」
「難しいですね」
「……はい」
馬車が着いたのは古い木造寺院だった。
古より信仰を集めていた西の寺院だ。
顔を隠していない尼僧が、顔を隠していない子供たちと話している。
「まあ!王家の方が見えたわよ!……わざわざこんなところまで来られるなんて……」
尼僧は感極まったように手を合わせている。
「いつも寄付を貰ってはいたけど王女様が来られるなんて感激です。ここはこの街ができて市民によって自然と作られた初めの祈堂です。祈りの場なのです」
雲の切れ間から光が差し込み、古いけれど手入れの行き届いた窓のステンドガラスが輝く。
「綺麗なところですね」
「ええ。特別な場所なんです」
尼僧が優し気に笑う。慈しみに満ちた表情で。
馬車に戻る途中呼び止められた。
「あ、エリーじゃん!」
「エリー?」
となりでくぐもった怪訝そうな声が聞こえたけれど気にしないようにする。
「アンデリック!お元気でしたか?」
「おー!アンタも元気そう……って、顔色とかわっかんねーな!」
ハハハと笑うのにつられて前回のように仮面を取りたくなったけれど背後にサヴィアンの重い気配を感じて手を下ろした。
「こんなところに来るモノ好き貴族なんてそんないねーからエリーだってわかるけどさ、やっぱ顔見ないで喋んのはやりにくいな」
「あ、アンデリック!」
悲鳴のような声が割り入って来て何事かと思うと、
「あれ、あの方――」
以前大祈堂の扉前で見た女性がいた。腕には赤ん坊を抱いている。
「ねーちゃん!なんだよ」
「す、すみません王女様!うちの弟は礼儀知らずなもので。何卒、ご容赦くださいませ。言って聞かせますので」
「は?え、王女さま?」
「え、あの、畏まらないで下さ――」
「こちらは王女殿下エリステア様です。寺院への寄付の大使として参りました。それでは」
「サヴィアン、そのような言い逃げのようなやり方はどうなのですか」
「す、すっげー。マジかよ。貴族かと思ってたら王女とか。まあ、俺らダチだしまた来いよ!ってアイテッ」
「調子に乗るな!すみません、うちの弟が本当に。もうこの子は元気ばっかり有り余ってて」
その後もアンデリックが生意気を言ってはお姉さんが窘めながら謝るというのが続いてさすがに申し訳なくなって今日のところは帰ることにした。
「嬉しい。どんどん視野が広がって、友人もできて、世界が広がっていくようで」
「………あまり動かれても困りますが」
「え?」
「大祈堂での大司教の暴走は目に余るものがありましたし高位聖職者が力をつけすぎるというのは今後の争いの種にもなりかねなかったので火種を消すことを私も王に進言しました。教会関係を王女に任せたのはあくまで象徴としてです。エリステア様以外の王女はもう他家に嫁がれていますし、力のある御兄姉ですと大祈堂側に担ぎ出されて王位争いに使われかねない。あくまで平和的にと考えた結果がエリステア様だったというだけです」
淡々と告げられる言葉に頭の中が冷えていく。
今回自分だけの力で寄付の方法が変わったとは思っていないしそれで全てが解決したわけでもない。
わかっていたことばかりだ。
けれど、サロンコンサート後の忠告が思い出される。冷えていく頭の中に『国の実権を握ろうとしているのではないか』という声が響いた。
「どうして……いつからサヴィアンは王に進言できるようになったの?」
「……」
「どうして王にばかり取り入ろうとしてるの。そんな風だと悪く言う人も出てくるかもしれない……何か企んでるんじゃないかって」
「それは……」
「それは?」
「エリステア様は王に従っているのが最善かと」
ぷつりと、何かが切れた。
そして泣きたくなった。
公務を任されるようになってからずっと付きまとっていた無力感があふれ出してきたのだ。
「……もういい」
生まれて初めて、喧嘩した。
***
初めて喧嘩、というものをしてしまった。
そもそもこれが世に聞く喧嘩というものなのかもわからない。
勝手に周りに流されて膨らんでいた疑念。それを本人にぶつけてしまった。
サヴィアンは普段通り言葉が少なく、何も話さない。
だから、今までと何が違うのかもよくわからなかった。
ただ胸の中がもやもやとする。
そのぐるぐるとした晴れない頭のままお父様に呼ばれた。
サヴィアンは別件で席を外しているが頭の中はサヴィアンとの喧嘩のことでいっぱいだ。
「エリステア、それでいいかね」
「……」
「エリステア?」
「は、はい」
「やっぱり気が進まないか?結婚相手はこちらで決めていいのかね?」
「はい」
興味ないというふうに答えるとお父様があからさまに悲しそうに声を落とす。
顔を見なくてもわかる。
「なぜエリステアは結婚に興味がないんだ。お前の姉たちはもう少し反応があったものだが」
「私はお父様を信用しておりますし政治に関してはまだまだ勉強中の身です。結婚相手などはお父様に決めていただくのが一番ですから。どうぞ、その方で進めてくださいませ」
お父様に従って生きるしかない、そんな呪いのような言葉が思い出された。
お父様や国の役に立てるなら本望だ。
市街を知って、この国のことはさらに好きになった。
だからこの国の役に立つ駒になれるなら、見守りながら役目を貰えるならこんなに素晴らしいことはないのではないか。
「一つだけ……できればですけど、この国から離れるのだけは嫌です」
「あ、ああ。もちろんだ。わかった」
国と国の結びつきのために嫁ぐこともよくある。私の希望は大きなわがままだったのだろう。けれど、お父様は私が他国に嫁ぐことなど最初から考えていなかったように頷いた。
それなら他に条件なんてない。
お父様がおかしな相手を選ぶとは思えないのだから。
***
朝起きてすぐ、いつも通り身支度のためにミーナが部屋に入ってくる時間。
「姫様!エリステア様!!」
「どうしたの、ミーナ」
寝ぼけ眼でミーナを見ると、そこには興奮しきった顔があった。
ミーナは最近、朝の身支度の時間は顔を見せたままでいてくれる。
「サヴィアン様とご婚約って本当ですか!!?」
「え」
***
国から離れるわけでもないならば誰でも良いと言った。
少し考えればわかることだ。
サヴィアンはお父様に気に入られている。
そうなると、婚約者候補に選ばれてもなんの不思議もない。
少し気まずいけれどそのくらいいつかは慣れるか、と思いそうになったところで気づく。
兄がいるものの、私と結婚してしまえばサヴィアンは王家の親戚と言う肩書を得てしまう。
権力を手に入れることが容易になってしまう。
兄たちに能力がないとは思わないが、お父様に気に入られているサヴィアンがすでに様々なことを任されているのは確かだ。
「エリステア様」
響く声に呼ばれ、反射的に身を固くしてしまう。
そこにいたのはやはり、黒ずくめの、サヴィアン。
「何かしら。私今からミーナとの用事があるんですの」
有無を言わさぬようにそう言うと、ミーナを伴って寺院の視察に行くことにした。
***
そして、
「え、知らねーよ。童顔だけどアンタ俺より大人だろ」
とてもひどい言葉で少年に罵られることになっていた。
喧嘩をしてしまっているということを伝えた返事がこれだった。
アンデリックのその言葉に驚いたのはミーナだ。
「え、何でエリステア様が童顔だって知ってるんです?まさか、見ましたか?」
「うん」
「まあ」
アンデリックは黒ずんだクロスを振り回しながらしゃべっている。
西の寺院から帰る途中、靴磨きの仕事の合間で呼び込みをしていたアンデリックを見つけて話しかけたのだ。
「でもあなたも童顔って言われてたんじゃない?」
「はあ?」
「だってあなた14歳なんでしょ。寺院にいたおじさんに聞いたわ」
「え?」
衝撃的な数字を聞いた気がする。
てっきり12歳くらいかと…と、思って改めて見る。
こんなに足は長かっただろうか。
石をぶつけてきたこどもと同じ人物だとはなぜか思えない。
「けど最初に会った時からだとかなり身長伸びてるぜ。エリーはもう伸びないだろ」
「身長は私も姫様も同じくらいだけどね」
と、ミーナが余計なことを言う。
「そっか。じゃあ身長じゃないのか」
「もう!どうしてそんなひどいことを言うの!その話はやめましょう」
「はいはい。ところで大司教さー、前と打って変わって大人しいっぽいんだけど大丈夫かな」
「前と変わったの?」
「ああ。前は飾りだらけの派手な馬車に乗ってたり、しょっちゅう床屋呼んだり、テーラー呼んだりし放題だったみたいだぜ。こっち赤ん坊の病院にもかかれないのにあいつ何やってんだってすっげー腹立ったよ。悪って言っても小物だから叱られると何もできねータイプなのかもな……って、あ、施しとかはいらねぇからな。そんな顔すんな」
「えっ」
思わず顔をぺたぺた触る。
布の質感。ちゃんと仮面はついている。
「顔隠しててもエリーのことわかるようになってきたかも」
にっと笑われるとなんだか恥ずかしくなってしまう。
顔は隠れているはずなのになんとなく少しだけ下を向いた。
「エリー、どうしたん――」
「姫様」
「えっ」
どうしていつもこんなに突然なのか。
サヴィアンがそこにいた。
「ミーナ、帰るぞ」
表情の読み取れない声でサヴィアンはミーナにそう言うと私を帰るように促す。
「え、あ、ああ。それじゃあアンデリック、またね」
ミーナはサヴィアンの威圧感に気圧されているようだけれど納得がいかない。
「え、私は今アンデリックと話しているのに」
「良いから、帰りましょう」
「……わかったわ」
わけがわからないままアンデリックに「また会いましょう」と声をかけるとアンデリックも不思議そうな顔で「またな」と言った。
***
何故有無を言わさず帰ろうとするのか。
もう夫気どりだったりするのだろうか。
唇を引き結んだまま馬車に揺られる。
きっと今の自分は仮面をはずしても仮面と変わらない顔をしている。
***
「この度はおめでとうございます!」
何度も聞いたこの言葉に笑顔で答える。
顔を覆う純白のベールと仮面に純白のドレス。どれもこの日のためだけに誂えられたものだ。
あんな調子の日々がしばらく続いて、けれどどちらともやめるなど言い出さなくて、結び付けた張本人であるはずのお父様すら不安げな顔でこの日を迎えることになってしまった。
こんな時こそ顔を隠す文化が助かる。
「顔を見たことで争いが起きたことがあるとか、諸説あるらしい」
急にぼそりと言われて眉間にしわが寄る。
何故急にこんなことを言い出すのか。
「煩悩が生まれたり邪推が生まれたり。見えるものと中身が違っていることもある」
「ごめんなさい。何を言っているのかわからない」
「アリル様もそれで苦労を……あ、いや、なんでもない」
「お母様?」
急に母の名前が出てきて驚く。そして言いかけてやめたことに私は眉をひそめた。
口が滑るなんてサヴィアンらしくない。
やはり結婚式の日と言うことで緊張しているのだろうか。
ただ、疑念は増えてしまった。
サヴィアンがお母さまの存命中に宮殿につとめていたなんて聞いたことがない。
私ができることは妻としてこの怪しい夫を監視することなのかもしれない。
国家転覆を企む輩から国を守る。
その役目はとても重大なもののはずだ。
***
式は当事者たちの心境など関係なく、滞りなく盛大に執り行われた。
傍で支えてくれていたことは間違いない。けれど、自分自身の何かを信じたい気持ちは大祈堂の一件から信用に足りる感覚なのかと思うようになっていた。
信じていたものが不正を行っていた。
今日から疑念と一緒に暮らすことになる、そのくらいに思っていなければ。
そして式の終わった後は部屋に待機する。
王城の近くの叔母様が使っていた邸宅を譲り受けることになってその一室にいた。
慣れない場所での緊張感のおかげでか気を引き締めて待つことができた。
ガチャ、と部屋のドアが開く。
「!?」
息を飲む音が聞こえた。
それもそのはずだろう。
部屋の明かりは消して、大きなベッドの端で花嫁はとっくに横になっていた。
その背を向けた寝姿に拒絶されたと思ったのだろう。
息を吐く音が聞こえたかと思うと、仮面を取り去り、ばさりと上衣を脱ぐ音がする。
私が寝ているのとは反対側からベッドに横になるのを気配で感じた。
――そのタイミングで素早く起き上がると、サイドチェストに置かれていた手ランプを掴み、暗い寝室の中、夫となったばかりの男の元に近づいた。
「っ!?」
驚き息を呑むのも気にせず、ランプを近づけて言う。
「私はあなたのことを信じていいのか迷っている。だから――」
釘を刺すつもりで言葉を続けようとしたもののそこで続きが言えなくなってしまった。
ゆらゆらとランプの日に照らされたその人の顔は――
「あなた、だったの……?」
灯りがほっそりとした輪郭をなぞる。
誰か腕の良い芸術家が時間をかけ作り上げたかのような彫刻のような横顔。
ランプに照らされた薄い色の瞳には長いまつ毛が縁どられていて、その瞳はもの憂げにこちらの目を捉える。
「いつもの着こんだ姿といろいろ……違いすぎるのよ……」
女性的なその顔は、いつか見た“天使様”その人の顔だった。
呆然としていると、ランプは取り上げられ、サヴィアンはそれをサイドチェストに置く。
そしてサヴィアン──今日夫になった男の両手が私の頬を包み込むように触れる。長い指が頬をなぞる。眠る支度をしていたのだから、当然私の顔にも仮面は着けられていなかった。
「やっと会えた」
感極まったような震える声に疑問符が湧く。
大人になってから素顔を合わせたのはこれが初めてだがその声音には熱が籠りすぎているように感じた。
「やっと?」
「この国の身分の高い人は家族にしか顔を見せられないから。お顔を見たかったんです」
「ええと……」
「この企みがバレたら離されてしまうんじゃないかと。先日はあなたを怒らせるようなことを言ってしまい申し訳ありませんでした。あなたの顔が見たいからと、結婚するために勉学に励んでお父君に好かれるように努力して、そんなのをバレたら気味がわるいですよね」
「ええと、そうかも……でも、どうして?まさかあの小さい私に……?」
恋を、と言いそうになったところでサヴィアンが強めに否定する。
「違います。私はお母君──アリル様のご実家のお屋敷で幼いころから働いていました。北国出身の孤児であった私を領主様やアリル様は受け入れてくださったのです。そしてあの悲しい出来事の日……アリル様が亡くなった日に宮殿に伝令役としてやってきた私は小さなあなたに出会いました。アリル様にはよくしていただいていましたし、その小さな姿に見守りたいと、守りたいと思ったのは本当です。王都では仮面をつけるのが習わしで、私がお側で働けるようになった頃にはエリステア様は仮面をつけた姿になっていました。小さいころのあの涙に濡れていた瞳が忘れられなかったのもあります。けれど顔を見たいと思ったのはひたむきに努力するあなたの姿勢に焦がれてからです。守ろうと思っても自分で道を見つけて飛び出してしまいそうになる、そんなあなたを近くで守りたいと思って……重いですよね」
「……ええ」
「結局あなたに疑われても何しても良いからと強硬手段に出てしまいました。結婚でもなんでもしてしまってから好きになってくれる余地さえ作って貰えたら」
「好き……なの?私を?」
「はい。お慕いしたいましたが伝わっていなかったでしょうか」
「全っ然……いつも怖い顔で見張られているのかと思ってた」
「見張るだなんて。まぁ、危なっかしいのは間違いなかったので目を離さないようにはしていましたが。見守っていたつもりです」
「見守る……??なんでそんなに不器用なの……」
「え?」
「サヴィアンって黒い装束に黒い仮面、おまけに頭巾で全身を覆っていていつも偉そうで怖くて、仮面をとっても絶対いかめしい怖い顔をしていると思ってた」
「はい…」
「仮面を取ったら……ううん、仮面だけのせいじゃないと思う。今日のサヴィアンは昨日までとまるで違うわ。どういうことなの?ごめんなさい、私混乱してる」
「はい。全然ゆっくりで大丈夫ですので。今回は私が焦りすぎてしまったので」
「それは……そうしてくれると助かる」
顔立ち一つでとは思うものの、サヴィアンの顔は焦がれ続けていた天使の顔そのものだった。
大祈堂で見とれていた天使像も、あの幼い日の、優しく抱きしめられた思い出の“天使”に似ているからこそ心惹かれた。
ちらりと見るとそこにあるのは慈しむような顔。
しかしその女性とも見紛うような、それどころか、神秘的な様子ですらあるその顔から出てくる声はいつもより柔らかくあるものの、低い、黒衣の装束を着ているときから聞きなれたサヴィアンの声だ。
「夢……ということではない……?」
「はい、触れるのを許されるのでしたら頬をつねってもさしあげられますが」
「え、嫌です」
「私は異国の血が流れておりますし顔立ちに戸惑いましたよね」
「そ、そうね。他の方の顔を知らないから異国の方というのはわからないけれど……思っていた顔とはちょっと違ったかも……。ところでどうしてそんなに徹底的に姿を隠していたの」
まさか憧れていた思い出の天使様がサヴィアンだったから戸惑ったなどと言えるはずもなく話題を方向転換させた。
幸いサヴィアンは何も感じていないようで自嘲気味に笑う。
「自分は線が細いのでなめられないようにしたい、という一心ですね」
そうかもしれない。芸術家などならともかく、この国では体格の良く、骨格のしっかりした男性が重要な役職についている印象があった。
子供に見られたくないと仮面に頼っていた自分にどこかかぶるところがある。
父王の命じるまま、良いことだと思い教会の仕事をして、何も知らないままに世界は綺麗だと信じていた。
「私はもっとちゃんと世の中を見なくちゃいけないわ」
傍にいたサヴィアンの想いにも全く気付かないでいた。
仮面で隠されたこの国の姿を、もっと深く知りたいと思った。
「それでこそエリステア様です。信用されるように私も努力しますので、これからもお側で支えさせてください」
信じて良いのか迷っていると言った手前どう返事すべきか言葉に詰まってしまった。
人々がサヴィアンについて忠告をして来たのはその得体の知れなさからだったのだろう。
サヴィアンの想いを、そして正体を知ってしまった今となっては、今まで傍にいた不器用な側近を疑って良いのかと言う気になってしまっている。
「こんなに揺らぐなんて自分が情けないわ……」
「ゆっくり行きましょう」
「半分サヴィアンのせいで混乱しているのだけれど……?」
「半分ですか」
「ちょっと、楽しんでない?」
「エリステア様と結婚できて浮かれているかもしれません。大分」
余裕の出てきたサヴィアンの様子に居心地が悪くなって来て上掛けに潜り込んだ。
くすくすと笑うサヴィアンの声が聞こえる。
人の気など知らずに、と私は上掛けに顔を埋めた。
***
数か月後、王は第一王子に王位の継承を行うことを宣言した。
王の在位期間にあった大祈堂との癒着を含むいくつかの疑惑はそれとともに有耶無耶になったように見えた。
次の王は外交の場で特に外国に奇異に見られていた仮面を外すようになったという。
END