
孤島の医師の奇跡|短編小説
流れ着いた木の枝のように頼りなく細い腕。それが自分の腕だ。すぐに痣ができてしまうところも波間を長く漂い朽ちた枝の脆さを連想させる。
この小さい島の中で、駆け回ることも着飾ることもできない自分はこのまま朽ちて消えていくのだと思っていた。
「レネさん、愛しています」
柔和な笑みに知的な瞳でそう言った主治医の言葉に『まさか自分が』と舞い上がってしまったのだろう。
とっくに枯れ果てたと思っていた心は夢見る少女のまま止まっていたのだ。
愛されることがあるなんて。
このまま時が止まっても良いし、心臓が止まってしまっても良い。そう思ったレネは深く頷き、遠方からやってきた医師であるカルニの口づけを受け、腕に触れると、そのまま身体を預けた。
気遣うように行われた行為の末、意識を手放し目覚めて驚いたのは、身体が軽いことであった。
「……?」
不調というわけでもないから首を傾げはするが、何がどうなったのかがいまいち掴めない。
「お身体の具合はどうですか?」
シャツのボタンをいつもより一つだけ外したカルニがそこにいた。
ボタン以外にいつもとの違いはなさそうだが、笑みの柔らかさがいつも以上に見えるのは先ほどまで愛を交わしていたからだろうか。
そう思いレネは頬を赤くして俯く。
「落ち着いたらお散歩にでも行きませんか?……浜辺の方まででも」
「浜辺?」
ぎょっとしてつい顔を上げてしまう。この家の敷地から出ることもほとんどないのだ。身体が弱く、足も心臓もすぐに音を上げてしまうことは主治医であるカルニが知らないはずはない。ましてや初めての行為を行ったあとなのだ。浜辺まではレネにとってはとてつもなく遠く、無理をして行かなければならないところに思える。
「まさか、先生。この島を出るのですか」
浜辺を過ぎると船着き場がある。そう連想してしまったがさすがに短絡的過ぎたのかカルニは困ったように笑った。
「違います。ただ……もう良くなったのではないかと思いまして。もちろん、筋肉が急に増えるとかはないので無理はできませんが」
「え……はい」
何を言い出したのかわからず、レネはカルニを見る。
ベッドに身体を預けたままのレネの手をカルニは握った。
「大事なことを言いますね。……レネさんは、悪魔に呪われていました」
「え?」
「さきほどの行為により祓うことができました。なので、これからは自由に歩いたり駆けたりだってできるんですよ」
にこりとカルニが笑う。
とてもとても慈愛に満ちた表情で。
小さな島だけれど悪魔の話は昔から子供の躾のためだったりで、レネもたくさん聞いてきた。存在するというのも否定するつもりはない。けれど自分が呪われていただなんて初耳だ。
「……先生は呪いを解くために私を……私の身体を……愛してくださったんですか」
呆然と、今溢れてきた気持ちはこれだった。
「……え?」
穏やかだったカルニの表情が曇る。
幼い頃から我慢を繰り返してきたレネの瞳からは涙は溢れない。
愛されたと思った時には喜びで濡れていたのに反対に目が乾いてしまったかのようだ。
レネの様子にカルニの顔が青ざめていく。
「えっ、あの、レネさんのことは勿論愛しています。私は教会で育った関係で悪魔の知識があり……霊力も高かったので」
関係を持てば悪魔を祓えるのはわかっていたとそうカルニは言った。
霊力の高い自分の身体を使えば確実にそれは成功するのだと。
納得はした。けれど、一度落胆した気持ちは簡単には浮き上がってこない。
裏切られた。そんな思いが、救われたという気持ちよりも膨れ上がっていく。
いや、救われたと思った心は今裏切られたのだから救われたのは身体だけだ。
「レネさん、結婚しましょう」
手首をぎゅっと掴むカルニの手は力強い。
この大陸から遠く離れた孤島の中、縁談もなく一人寂しく生きていくしかないと思っていたレネにとって断るという選択肢は持ち合わせていなかった。
レネの身体が良くなったことには島民の誰もが驚いた。そしてカルニを名医と讃え、暫くしてカルニが島を離れると言った時には惜しまれこそすれ、レネがついていくことを不思議がるものは誰もいなかった。愛の力で奇跡が起きたとも言われた。
船旅も辛くはあったが体調を崩すこともなく渡ることができ、大陸に渡ってからは宿をとりながらカルニの向かう道に従った。
カルニは優しかったがその優しさの理由さえ胡散臭く感じられてしまった。
夜には夫婦の触れ合いがあったがレネの心は空虚だった。
そしてたどり着いた場所、そこは何もない、荒地だった。
何か碑が建てられていたが異国の言葉なのでレネには読めない。
「レネさん。ここは私の生まれ故郷です」
にこにこと、出会ったときから今までほとんど崩すことのない笑顔のままで言った。
「ここ……が」
「兵器の実験でなくなってしまったんですが、あの島のように温かなところだったんですよ」
少しの寂寥も滲ませず、カルニは言う。
「私は教会の行事で別の場所にいて無事でした。霊力があったので悪魔に対抗するための戦力として鍛えられていたんですよね。その後医学に目覚めてしまいまして、教会を抜け出して、いくばくかの奨学金を受けることが叶い、なんとか医師になり……でも教会に見つかってしまって。もともとこういう田舎の育ちなものですからのどかなところで医者をするのが合ってるのかもしれないと思ってたどり着いたのがあなたのいた島でした。私は教会に馴染めずあまり信心深くなかったのですが、あなたに出会って、一目で恋に落ちて、あなたの魔を祓うことができて、私の人生はあなたのためにあり、あなたのために生きてきたのだなと知ることができて、今私は幸せでいっぱいなんです」
そんな過去のことなど聞いたことなかった。
カルニは詳細は言わないが少し想像するだけでもとても苦労のある人生だったのではないか。
レネにとってカルニは島の人たちが言うように大陸のエリートの医者が島に来てくれた、それだけだった。
訳ありではないかという噂もあったが目の前の笑顔に惹かれてしまっていたレネにとっては気にすることではなかった。
レネはあの日以来初めて自らカルニに触れた。頬に触れると嬉しそうに目を細める。
「どうしてそんなに笑っていられるんですか」
「癖かもしれませんが……レネさんといると幸せなんですよね。でも私は間違えてしまってレネさんを傷つけてしまったみたいなので、自分語りしてしまいました。すみません。できたら別れないでいてもらえると助かります」
カルニの瞳が不安げに揺れる。
笑顔ばかり見て、勝手に裏切られた気になって、繊細な心を見ようとしなかったのは自分なのかもしれない。
レネはカルニの手に指を絡めた。
「私こそごめんなさい。表面しか見られない、愚かな人間です。先生、私もっと先生のことが知りたいです。ただ……悪魔のことは先に教えてくれても良かったと思いますが」
「あ、はい……悪魔に憑かれているだなんて知ったらショックを受けるかなとか……すみません。レネさんのことを考えられてなかったですね。それにレネさんも私を想ってくれていると思って嬉しくてたまらなくて」
「?」
「……悪魔を祓うのにああいった方法をとる必要が必ずしもあるわけではないんですよね。安全で確実な方法でもありましたが……愛し合っているならと、あの」
「……わかりました」
頬を赤らめしどろもどろになっているカルニを見るに、完全に悪魔祓いという名目で身体を重ねたというわけでもないのだろう。
「すみません。今晩はゆっくり愛させてください。いつも、努力はしているのですが」
「も、もう良いですから。それより……あの、お墓参りさせてもらえないでしょうか。まず」
レネが言うとカルニは微笑む。
「はい……!」
乗り越えるには大きすぎる傷を抱いているのに。
あれだけ不信を感じていたカルニの笑顔の中には、心からの慈愛と自分への愛を感じる。
病床にいて自分ばかりが不幸だと思っていたのかもしれない。
レネは小さく唇を噛み、何もない荒れた村を潤んだ瞳で見つめた。
end