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果物を育てる人と食べる人

    人にはポリシーがある。
    大切にしている判断軸がある。
    それは生き方そのものだろう。

    私は動物的。
    過去を忘れて未来を思い描かずに、今を生きる。
    全てを自分中心・自分基準で考えて、自分が良いと思う判断を下す。
    自分で決めた、あるいは納得したことであれば、結果の良し悪しに関わらず受け入れることができるからだ。

    動物的な私とあえて対比するならば、Sは人間的。
    自分ではなく、人や物事との関係性を判断の拠り所にする。
    また、その関係性は今だけでなく将来までも見据えた時間軸の長いものだ。
    そして判断によっては自分の形を変えることも厭わない。

    Sは種をまき、果物のなる木を育てる人だ。
    最終的にその果実を自身で食するかには拘らない。

    私は果物を食べる人だ。
    育てることはしない。
    果物が無くなれば、Sのような人に言い寄って働いてもらう。

    種をまいて果物を育てる人がいないと、私は生きていけない。
    そういう意味でSを支えるのは理にかなっている。

    でも、合理とか非合理に関係なく、私はSを応援したい。
    全肯定してあげたいし、頭をなでてあげたい。
    私からは絶対に見ることのできない景色、考えつくことのできない結論がSには見える。

    時にはSだって、私を見て自身の生き方を疑ってしまうことがある。
    Sも心に小さな動物性を飼いならしているのだ。
    私がSに動物性を押し付けてしまうこともある。
    種をまく意味を軽んじ、果物を食べるだけの即物的な生き方を賛美するかのように。

    それでもSは毎日踏ん張って種をまく。
    たとえ、苦しくて涙が溢れてきても。

    そんな生き方は尊くて愛おしいものだ。
    そしてたぶん、想像よりも儚くて脆い。
    だから消えてなくなってしまわないように支えたいし、守りたい。

    私の目前にいる花咲じいさんが倒れることは国家的な損失であると、半ば本気で思っている。
    いや、これは単なる照れ隠しなのかもしれない。

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