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雀ー地球の感覚

    雀ー地球の感覚ー①

    私はオーロラを見たことがあります。オーロラが観察できる地域はいくつもありますが、私が訪れたのはカナダです。今から10年以上前の話です。

    まずは成田からバンクーバーへ飛び、バンクーバーからロッキー山脈を越えたところにあるエドモントンという都市に向かいました。エドモントンでさらに小型機に乗りかえ、1時間ほどすると、フォートマクマレーという街に着きます。

    フォートマクマレーはもとは僻地の寒村だったに違いない場所ですが、その頃にはちょっとした街になっていました。というのは、フォートマクマレーはオイルサンド(砂を含んだ原油)の世界でも有数の産地で、近年オイルサンドから砂を分離する技術が開発されて以来、企業が続々と入り込んできたためです。

    そして、このフォートマクマレーではオーロラを見ることができるのです。

    1週間ほどの滞在でしたが、その間はただただオーロラを見るためだけに過ごしました。そのせいで1日のスケジュールも通常の旅行とはまるで違っていました。オーロラを観察するために深夜まで起きているので、昼は正午前に起き出すのです。

    しかし、昼間に起きていても、フォートマクマレーはオイルサンドで急に発展した田舎街というだけで、観光ポイントなどありません。それに、ホテルの外は零下10℃を下回る寒さで気軽に歩きまわるわけにもいかず、私は空き時間のほとんどをホテルで読書をして過ごしました。

    毎晩、夕食をすませて休憩を取った後、参加者(この旅行は個人が主催するツアーでした)は防寒具を装備してホテルのロビーに集合します。

    スタッフが運転するバンに乗りこみ、郊外に向けてしばらく走ると、夏場はクレーの射撃場になっている敷地に着きます。ここが私たちがオーロラを観察する場所でした。

    冬のことで夜には零下20℃近くまで下がりますし、射撃場には雪が積もっています。もちろん、参加者はずっと戸外で立ち詰めでいるわけではなく、オーロラが見られなかったり疲れた時はストーブを焚いた小屋のなかで休むことができますが、ものすごい寒さに変わりはありません。

    小屋のなかでお茶を飲みながら雑談したり、あるいは眠気のためにただぼんやりしていると、外で夜空の具合を見ていたスタッフが時々、ドアから顔をのぞかせて「Come on!」と叫ぶ。それを聞くと参加者たちはっとして立ち上がり、いそいそと外へ出て行く。

    私たちがフォートマクマレーに滞在していた間、天気は荒れることもなく、夜空はだいたい晴れていました。カナダの田舎ですから星もよく見えましたが、とりたててどうと言うこともありません。

    オーロラという現象については、科学的にもまだ充分に解明されていない点もあるそうですが、遠く太陽から吹き寄せてくるある種のガスが、地球の大気圏に降りてくる際に電気を帯びて発光するのがその正体のようです。

    このガスが地球に降りてくる特定のポイントがいくつかあり、それがつまりオーロラを見られる地域で、またガスの量の多少は太陽の活動によるので、太陽の活発な働きを示す黒点が多く見られる年はオーロラがよく観察されるとも言われています。

    オーロラの発光は電気ですから、オーロラは本当は瞬間的に明滅しているもので、それが発光している時間もガスの量により、姿形も一定していません。

    TVや写真でよく見る虹色のカーテンのような壮麗なオーロラは、とくに大規模に現れたものを映像として固定して捉えたもので、実際のオーロラはもっとはかないものなのです。


    雀ー地球の感覚ー②

    小屋から射撃場に出て、足元の深い雪に気をつけながら空をあおぐと、凍って澄んだ空の底に星々がまたたいている。

    オーロラの動きは意外に速いものです。それがまだ本格的に現れないうちは、空の端に薄い雲のようになってかかっていますが、その白い帯はオーロラの名残りのようなものです。この、空の彼方に広がる薄いオーロラの帯をほかの参加者たちとともにしばらく眺めていると、誰かが小さく声をあげて腕を突き出す。

    つられてその方を見ると、さっきまでは白っぽいオーロラの層でしかなかったものが、異常なスピードで揺らいでいるのがわかります。これは、私たちが普段空に認める現象としては異様な動きで、しかも夜空での出来事ですから、これだけでも驚かされる。

    この帯の振動は、東西四方に散っていてやはり薄い雲のような帯の広がりにもほんの数秒間で伝わり、わずかの間に空全体が光に満たされます。とりわけ美しいのは、オーロラが呼びかわすように光の線によって互いにつながってゆく瞬間で、宇宙の漆黒の生地が切り開かれて、その裂け目から緑色の光線が滝のように流れ落ちてくるように見える。

    しかし、オーロラが私たちを感動させるのは、その美しさのためばかりではありません。

    「たとえばさ、自分が蟻になったとするだろ。蟻になった自分がどこかの家に迷いこんで、部屋の窓辺にたどり着いた時、ふと顔を上げると頭上にカーテンが垂れ下がっている。そのカーテンを想像してごらん。オーロラはそれくらい大きいんだ」。

    オーロラを見た時のことを誰かに説明しようとすると、私は決まってこの比喩を持ち出したものです。オーロラの圧倒的な印象は、私にはその壮大な規模によるものと思われたからです。

    しかもこの比喩にしてからが、ちょっと計算してみると、たんにイメージがしやすいという利点以外には取り柄のないものだということがわかります。

    というのは、かりに蟻の体長が3ミリだとしてカーテンが2メートルだとすると、その対比は1:666です。ところが、人の背丈が170センチとして、オーロラの高さが100キロとすると、その比は1:58823にもなり、正確には蟻とカーテンの比喩のさらに90倍近くのスケールがあるのです。

    これだけの規模の光の帯が、ほんの一瞬で真夜中の空に出現するわけです。私は、人間がこれだけの規模の距離を、とくに垂直方向に体感できる機会はほかにないのではないかと思います。

    たとえば、船に乗って大海原に出ればやはり地球の大きさがわかりますが、海の広さはあくまで水平方向の感覚なので、立体的ではないところに限界があります。

    あるいは、天体観測はさらに遥かなスケールを扱っているかもしれません。しかし私には、天体観測で得る経験は身体的なものというより、もっと抽象的・観念的な経験のように思われます。そこでは感覚よりも想像力が勝っているのではないでしょうか。

    宇宙飛行士のような特殊な場合は別として、おそらくこのオーロラを見た時に感じられる「地球の感覚」が、人間が地球の大きさを体感できる最大のスケールなのではないかと思います。


    雀ー地球の感覚ー③

    しかしながら、私は鈍感なのか、あるいはたんに素直でないからか、私はこの壮大な「地球の感覚」を有意義に生かすことができなかったようです。

    宇宙飛行士が宇宙から帰ってきて、その体験からエコロジーやスピリチュアルな世界観に接近していくという話はよく聞きますが、十数年前に見たオーロラから私がそうした感化を受けたとは言えない。

    それを言えば、かつて私がネパールでヒマラヤを眺めたことも、モロッコでサハラ砂漠の砂丘を歩いたことも同様で、今ではそれらは私の頭のなかに何枚かのおぼろな画像となって残っているにすぎない。

    だから、少し意地の悪い言い方をすれば、旅行とはこうした頭のなかの絵葉書を買って歩く行為にすぎないのかもしれません。

    それでは、これはあくまで私個人のこととして、どうしてこの「地球の感覚」が自分のうちに根付かなかったのだろうか?  この辺りから、環境問題についてすこし書いてみたいと思います。

    19世紀のイギリスの作家、ディケンズが書いた小説に、『荒涼館』という作品があります。かなり長い小説ですが、ロンドンを舞台とした一種の推理小説で非常に面白い作品です。

    このなかに、ジェリビー夫人という滑稽な人物が出てきます。滑稽だというのは、ジェリビー夫人は何人もの子どもを抱えたブルジョワの奥さんなのですが、明けても暮れてもアフリカでの慈善事業に没頭していて、子育てや家事を一切放棄してしまっているからです。

    そのせいで、夫人の娘は下の子どもの世話や家での仕事を押しつけられている。この娘はひどくみじめな思いをしていて、一家を放り出して慈善事業にしか興味を見せない母親を恨んでいる。

    ジェリビー夫人のこの話は、「アフリカでの慈善事業」を「環境問題」に置き換えてみると、今でも面白い諷刺になっていると思います。


    雀ー地球の感覚ー④

    ジェリビー夫人が慈善事業にかける熱意に嘘はないのですが、その本来の義務を放棄してしまっていることで、彼女は結局のところただの偽善者になっている。

    環境問題について考える時、やはり同じジレンマがあると思います。誰でも、公害や環境破壊を示すおそろしい写真を見せられれば眉をひそめますし、手元に小銭があれば募金箱に放り込むー何の目的の募金なのかはあまり考えずーくらいことはするものです。

    しかし、自分の生活のなかで環境問題が占める重要度は下から2番目くらいなのがせいぜいで、普段はまったく忘れている。

    しかも、「いや、自分にとって環境問題は最重要事項だ」、などと真顔で主張すれば、それこそ「ジェリビー夫人的偽善」の嫌疑がかけられることになる。

    さらに、問題は次の点にあります。先に私はジェリビー夫人の熱意に嘘はない、と書きましたが、それは本当なのだろうか?  

    ジェリビー夫人が家事のような基本的な義務を怠っている以上、彼女の慈善事業にたいする打ち込みにもどこか現実逃避の、つまり自己中心的な面があるのではないか。その仕事は結局は空疎なお題目にすぎないのではないか?  そういう疑いが出てくるのです。

    私は、このジェリビー夫人のどうしようもない滑稽さは、彼女の現実にたいするアンバランスな関わり方にあるのだと思います。

    子育てのような身近な仕事と、アフリカでの慈善事業=環境問題のような遠大な課題の間にはギャップがあります。このギャップが見えず、両者の間にバランスを取ることができずに一方だけを取ろうとしている点にジェリビー夫人のおかしさがある。

    環境問題のようなスケールの大きな課題を考える時、このバランスの取りにくさは実は本質的なテーマなのではないかと思います。

    たとえば、今のアメリカの大統領が言っているように、地球の温暖化という現象はもしかしたら本当に誰かが「でっち上げ」たものかもしれない。

    温暖化を示す危機的なデータは山ほどありますが、それとて「フェイクニュース」だと一蹴されてしまえばそれまでかもしれません。

    もちろん、ある程度まともな感覚を持っていれば、温暖化がでっち上げでないことはわかるものです。たいていの人が、最近の天気や季節の巡りはなんとなくおかしいというのはわかっている。

    しかし、「なんとなく」ではやはり頼りない。そして、この「なんとなく」しかわからないというところ、温暖化が「でっち上げ」だと言われると一瞬言葉に詰まってしまうその弱さに、私たちが環境問題にバランスを欠いた対応しか取れない根本的な原因があるのだと思います。

    これは、環境問題についてディケンズのジェリビー夫人と同じあやまちに陥らないためには、私たちは自分の感覚をもっと鋭くして、周囲の環境とつりあいの取れたあり方を考える必要があるということです。

    私たちが環境について考える際、この「私」と「地球」の内的なつながりを見い出すことが何より大切だと思います。


    雀ー地球の感覚ー⑤

    ダライ・ラマの『科学への旅』のなかに出てくる話ですが、15世紀のチベットの思想家タクツァン・ローツァーワはーおそらく瞑想修行を通してでしょうがー日食や月食が起きた際、自分の呼吸パターンが変化することを体験したそうです。

    ダライ・ラマによれば、「私たちの身体の内部にある元素と、外的な世界の自然の元素は極めて密接な関係にあり」、「スケールの大きなマクロコスモスの世界が私たちの身体というミクロコスモスのなかに映し出されている」。

    マクロコスモスとミクロコスモスの照応関係は、今日ではサブカルチャーの世界ですら陳腐なイメージとなってしまいましたが、その実態は依然として謎のままです。とはいえ、そのヒントは無数にあります。

    1987年に亡くなった解剖学者の三木成夫の『生命とリズム』では、このマクロコスモスとミクロコスモスの関係が解剖学や発生学の見地から照明をあてられており、素晴らしい着想に満ちています。

    「私たちの住む地球は実にさまざまな元素から作られています。この中には六価クロムとか、ヒ素、水銀といった人間にとって猛毒の元素も含まれています。ところが私たちのからだを造る細胞を分析してみますと、そういった猛毒の元素もすべて含まれている。

    いいかえれば地球を組織する元素は、すべて私たちの細胞の中にあるということなのです。ただそれらは非常に微量ですから、人体に影響がないだけの話であって、つまり、私たちの細胞の一つ一つはちょうどをモチを小さくちぎったように、小さくちぎられた地球だと考えるよりないわけです。」
    「胎児の世界と〈いのちの波〉」

    あるいは、こういう見解があります。今から3億年前、私たちの祖先は海から上陸して海辺で暮らしはじめ、鰓呼吸から肺呼吸に移っていった。呼吸の歴史はそこから始まるわけですが、呼吸における呼気と吸気の繰り返しは、当時彼らの身体が始終洗われていた波のリズムから来ているのでないか、という推測です(「呼吸の波」)。

    また、面白いのは、7日=1週間という、ユダヤ教の天地創造のサイクルが、太陽系の宇宙リズムに由来があるという説です。

    「おそらく太陽系のどこかに七日の周期があるんでしょうけど、この宇宙リズムとの共振が地球の生物のからだの中で、えんえんと営まれてきたのでしょうね。そして、この内なる七日の波動に耳を傾け、その波頭に「節」をつけたのが、あのユダヤ暦ということになります。」
    「対談  現代の子のリズム」

    このように、「地球の感覚」は確実に私たちの身体に刻み込まれている。ただ、私たちは日頃それをあまり意識しないというだけのことです。

    もうひとつエピソードを挙げてみます。あまりありがたくない体験ですが、瞑想修行をしなくてもテクノロジーを使えば「地球の感覚」を体験できるようです。

    TFT(思考場療法)のキャラハン博士が書いている話で、博士によると、飛行機で長距離を移動した時に起きる時差ぼけは、24時間のリズムが乱れるという理由だけでは説明できないということです。

    「すべての地球の生物は地球の電磁環境から影響を受けている。私は、飛行機で東あるいは西に向かう場合、南北に走る電磁線をものすごいスピードで越えることが、時差ぼけの原因なのではないかと考えている」
    『TFTー〈思考場〉療法入門』

    キャラハン博士がこのアイディアをどこから得たのかわかりませんが、私はあり得る話だと思います。


    雀ー地球の感覚ー⑥

    「森はだんだん少なくなる、河は涸れてゆく、鳥はいなくなる、気候はだんだん荒くなる、そして土地は日ましに、いよいよますます痩せて醜くなってゆく」
    チェーホフ『ワーニャ伯父さん』

    次に視点を移して、環境問題の原点について考えてみます。

    あまり知られていませんが、19世紀ロシアの作家チェーホフは、今日的な意味での環境問題について注意した最初の人間のひとりです。

    彼の環境にたいする問題意識は有名な戯曲『ワーニャ伯父さん』と、その前身にあたる『森の主』のなかに詳しく見られますが、チェーホフの偉大な先輩であり、友人でもあったトルストイにたいする彼の批判にもはっきり潜んでいるものです。

    トルストイが書いた民話に、「人にはたくさんの土地がいるか」という物語があります。この話は子ども向けのアンソロジーにもよく入っているので、知っている人も多いでしょう。

    民話の筋は、貧しい農民であるパホームが悪魔にそそのかされて欲をかき、広い土地を手に入れようとしてかえって破滅するというものです。

    パホームは、1日の間で徒歩で囲った分だけの土地を与えてやる、という約束のもとにしゃにむに走り回り、できるだけたくさんの土地を得ようとしますが、あまりにも走り過ぎたために力尽き、結局は土地を得られないまま息絶える。

    最後に、死んだパホームのために3アルシン(約2メートル)ほどの墓が掘られ、彼はそこに葬られる。つまり、パホームにとって必要な土地は3アルシンに過ぎなかった。

    チェーホフは『すぐり』という短編小説のなかで、この民話に含まれている教訓を批判しました。

    「三アルシンしかいらないのは、死体であって、生きた人間ではないはずです・・・人間に必要なのは、三アルシンの土地でも、荘園でもなく、地球全体、自然全体です。」
    『すぐり』

    今日からすると、このチェーホフのメッセージの方が私たちにはかえってわかりやすく、むしろトルストイの教訓の方が難解かもしれません。

    トルストイの教訓とは簡単に言えばこういうことです。パホームに象徴されるように、人間
    は神や大いなる自然の下ではしょせん小っぽけな存在であって、そういう人間が強欲に走れば罰を受けることになるだろう、と。

    チェーホフはこのトルストイの宗教的な世界観に反対しました。チェーホフ自身は医者で科学の信奉者だったので、彼にはこういう「スピリチュアルな見方」はできなかったのです。


    雀ー地球の感覚ー⑦

    こうした物の見方は、『森の主』や『ワーニャ伯父さん』にも展開されています。

    『ワーニャ伯父さん』には、アーストロフという中年の医者が登場します。アーストロフは善良な働き者というだけでなく、誠実で聡明な人間として描かれています。

    また、私はロシア語はまったくわかりませんが、このアーストロフという名前にはEarth=地球という単語が掛けられているのではないかと思います。

    アーストロフは日々の仕事に忙殺されながらも、休みの時には近隣の森林を保護する活動をしている。彼は過去のデータも取っており、50年前や25年前と比べて、無思慮な伐採が行われたばかりに近年の森がいかに貧弱になってしまったかと嘆いています。最初に引用したセリフはこのアーストロフのものです。

    アーストロフはこうした事態を人類にとっても危険なものと見て、資料を用意して周囲に訴えることすらする。

    しかし、あらためて驚かされることにこれは19世紀のロシアの話であって、当然といえば当然ながら、彼の友人たちはただ面白がってアーストロフの話を聞くだけで、心からの関心を持とうとはしない。

    と言って、アーストロフの存在を周囲が軽んじているというわけでもないのです。優秀な医者としてみんなが頼りにしているのですが、彼の情熱や関心を共有できないでいるだけです。言ってみれば、アーストロフ=地球の人の真価を理解できず、なんとなく使い減らしているわけです。

    しまいには、アーストロフ自身も幻滅や疲労のために自暴自棄になり、酒に酔って騒いだり、若い人妻に言い寄ってみたりして虚しく時を過ごすようになる。こうして、チェーホフを知っている人ならお馴染みの、少しずつ場が崩壊してゆくような仕方で芝居が終わりを迎えます。

    環境の破壊にたいするチェーホフの洞察は、天才というものがどれほど遠くまで見ることができるかという一例ですが、この戯曲が今でも新しいのは、私はこのアーストロフのチェーホフの扱い方にあると考えています。

    今日では、環境問題といえば誰でも一定のイメージを持ち、たとえおざなりな意見でもあっても一言くらいは述べることができます。しかし、私たちの態度は120年前のチェーホフの時代とどれだけ変わっているのでしょうか。

    要するに、チェーホフの芝居に出てくる19世紀の登場人物たちのように、アーストロフの嘆きを結局はただ面白がって聞いているだけなのではないでしょうか。

    だからこそ、『ワーニャ伯父さん』のアーストロフの次の皮肉は現在でも痛烈に響くのだと私は思うのです。

    「なるほど、もしもこんなふうに、森が根絶やしになった跡に、道路が通じ、鉄道が敷けたというのなら、また製粉場や工場や学校が建ったというのなら、そして住民がずっと健康に、ずっと裕福に、ずっと頭が進んだというのなら、私にもうなずけますが、実際はそんな気配は一つもないではありませんか!」
    『ワーニャ伯父さん』


    雀ー地球の感覚ー⑧

    環境問題のどれか一点についてだけでも、自信をもって結論めいたことを述べることができる人がいるでしょうか?

    それは私たちにとって予測できない未来であり、入手できるデータは少なく、それさえも今後の私たちの対応によっていくらも変わっていくはずで、たしかな事はほとんどなにも言えないはずです。

    とはいえ、次のふたつの点は確実だと思います。第1の点は内面的なあり方の問題であり、第2の点は外面的な態度の問題です。

    ひとつめは、「私」と「地球」のつながりの自覚が必要であること。私たちの身体は「小さくちぎられた地球」であり、進化の過程で織りなされた地球のミニチュアであるという自覚がなければ、環境問題についてまともに考えることさえできないと思います。

    ふたつめは、環境問題の責任は人類が果たさなければならないということです。

    人間は3アルシンの土地という分相応を知るべきだ、というトルストイの教訓は決定的に古臭くなっており、チェーホフの言葉のとおり、人類は地球全体を背負う必要がある。

    こうして、環境問題は非常に過酷な課題として私たちの前にあることになります。というのは、環境問題については私たちはもはや「神」や「自然」に頼ることはできないからです。

    それは「自然にゆだねる」といった甘く心地の良いメッセージをはねのけ、私たちに厳しい責任を負わせます。

    おそらくこの点に、スピリチュアルな世界においてすら環境問題がそれほど人気がない理由があるのでしょう。なぜなら、環境問題の難しさは従来の宗教的世界観では解決できないところにあるからです。

    だからといって、私はなにも人はすべからく瞑想修行に励み、真剣に環境問題に取り組むべきだ、などと言いたいわけではありません。私はそんな偉い人間ではない。

    私が注意したいのはもっと些細な、あるかなきかの「気づき」のようなものです。それはたとえば、雀のような存在を気にかけられるかどうか、ということだと思います。

    かつて私たちにとってもっとも身近な鳥であった雀は、50年前と比べて90パーセントも減っているそうです。

    理由としては、雀の巣作りに適していた家屋に従来のような隙間や穴がなくなってしまったこと、田畑が減り、昆虫などの餌が獲れなくなったことがあるそうです。しかしこれらの原因はもっともとして、やはりそれだけではないような気がします。

    私は雀が好きです。その丸くすべすべした形、小さいこと、まばたきのような軽い羽ばたき、その無邪気さ、他愛のなさ、さえずる声のかわいらしさ。

    不思議なことに、これらの雀の性質はすべての動物の赤ちゃんと同じものであって、そのため雀は罪のないものの象徴とも言えます。

    その雀が街から姿を消しても、もはや私たちは気に留めることすらない。裏を返せば、それは私たちの罪の深さを表しているのではないでしょうか。

    私は、雀が姿を消してしまったのは、煎じつめれば私たちが雀のことを忘れてしまったからだと思うのです。これはたんなる文学的な表現ではなく、私はそれこそが真相だと考えます。

    最近では人は鴉はおろか、無害な鳩ですら怖がり、嫌います。そうした反応の仕方に、自然にたいして萎縮した感受性を見たとしても間違いではないでしょう。

    こうした萎縮した感受性を解きほぐし、平凡な生活のなかの「気づき」をより深めること。現実の繊細な肌理にたいする意識を高めること。結局はそれが、自分を取り巻く環境への配慮につながることになるはずです。

    オーロラのような壮大な現象に惹かれるより、雀のような微小でありふれた存在をどれだけ気にかけられるかという点に、私たちが「地球の感覚」にどこまで近づけるかがかかっていると思います。



     
     
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