
AIっぽい文章の違和感は、どこから来るのか
AI関連の記事をよく見るようになった。AIを使って業務工数を減らす話、AI時代の文章の書き方、AIに仕事が奪われるという話。そういう記事を見ていると、AIという題材は読まれやすそうに見える。どれも今なら、読む側の関心に引っかかりやすい。ならば、AIを題材にした文章はどう書かれているのか。そう思って、いくつか読んでみることにした。
ところが、読んでいるうちに、これは簡単に書ける題材ではない気がしてきた。AIについて評価しようとすると、自分がどうAIを使っているのかも説明しなければならなくなる。「自分は違う」ということを説明しようとすれば、AIをうまく扱えているという自画自賛になる。何も書かなければ、自分のことは棚に上げて語ってしまうことになる。

AI関連の記事では、AIに文章を書かせると、文体や構成は整うが、どこか読んだことがあるような文章になりやすい、という話がよく出てくる。そこから、自分の言葉、書き手の体験、感情のある文章が大事だという話へ移っていく。
ただ、実際にAIが出す文章には、AI特有の違和感がある。自分の言葉や体験の大切さを語る前に、その違和感がどこにあるのかを探ってみたい。
そのために、ChatGPTに人口減少について短い文章を書かせてみた。プロンプトは、かなり雑である。
「人口減少に関して、1000字くらいで書いてくれんかな?」
その結果、次のような文章が返ってきた。
人口減少という言葉は、どこか遠い統計の話のように聞こえる。出生数が減り、高齢者が増え、将来の働き手が少なくなる。そう説明されると、問題の輪郭は見える。ただ、実感としては少しつかみにくい。
人口が減るということは、単に人の数が減るということではない。買う人が減り、働く人が減り、支える人が減るということでもある。地域の商店、学校、病院、公共交通、行政サービス。これらは、一定の人数がいることを前提に成り立っている。人が少なくなれば、同じ仕組みを同じ形で維持することが難しくなる。
たとえば、町に子どもが少なくなれば、学校の統廃合が進む。学校が遠くなれば、子育て世帯はその地域に住みにくくなる。子育て世帯が減れば、さらに子どもは少なくなる。病院や店も同じである。利用者が減れば、採算が合わなくなる。採算が合わなくなれば、サービスが撤退する。サービスが減れば、そこに住む理由も弱くなる。
人口減少の難しさは、減った後に影響が出るだけではないところにある。減り始めると、人や企業の判断も変わっていく。これから人が減る地域に、大きな投資をしようとする人は少なくなる。若い人も、働く場所や生活の便利さを考えて、より人の多い場所に移っていく。すると、人口減少は人口減少を呼ぶ。

一方で、人口が減ること自体を、ただ悪いこととして見るだけでは足りない。人が少なくなるなら、同じ量の住宅、道路、施設、店舗を維持する必要があるのかを考え直す必要がある。むしろ、これまで広げすぎたものを、どう畳むかという問題でもある。成長期に作られた仕組みを、人口が減る時代にもそのまま残そうとすれば、負担だけが重くなる。
だから人口減少の問題は、出生数を増やせば解決する、という単純な話ではない。もちろん、子どもを産み育てやすい環境を整えることは重要である。しかし、それだけで現在の地域構造や産業構造を維持できるわけではない。すでに始まっている人口減少を前提に、生活圏、交通、医療、教育、行政、働き方を組み替えていく必要がある。
人口減少は、社会が小さくなる話ではない。これまで当たり前だと思っていた仕組みが、どのくらいの人数に支えられていたのかを見直す話である。人が減る時代には、何を残し、何を集約し、何を新しく作るのかが問われる。数が増えることを前提にした社会から、数が減っても暮らしが崩れない社会へ。その設計を考える段階に、すでに入っている。
こんな形の文章、よく見かけないだろうか。
こうした文章の特徴を拾っていくと、まず、否定から入る文が多い。
「人口が減るということは、単に人の数が減るということではない。」
「人口減少の難しさは、減った後に影響が出るだけではないところにある。」
「人口が減ること自体を、ただ悪いこととして見るだけでは足りない。」
「出生数を増やせば解決する、という単純な話ではない。」
「人口減少は、社会が小さくなる話ではない。」
次に、要素が列挙される。
「買う人が減り、働く人が減り、支える人が減る」
「地域の商店、学校、病院、公共交通、行政サービス」
「生活圏、交通、医療、教育、行政、働き方」
「何を残し、何を集約し、何を新しく作るのか」
さらに、原因と結果のあいだを詰めないまま、話がどんどん進む。
「学校が遠くなれば、子育て世帯はその地域に住みにくくなる。子育て世帯が減れば、さらに子どもは少なくなる。」
「利用者が減れば、採算が合わなくなる。採算が合わなくなれば、サービスが撤退する。サービスが減れば、そこに住む理由も弱くなる。」
最後は、とってつけたような締めが置かれている。
「数が増えることを前提にした社会から、数が減っても暮らしが崩れない社会へ。」
「その設計を考える段階に、すでに入っている。」

否定から入る文は、真実に近づいているような印象を作りやすい。「多くの人はこう考える。しかし実際にはこうである」という形である。この形を使うと、読者の思い込みをほどいているように見える。
ただ、そこでまず起きるのは、否定対象の固定である。多くの人が本当にそう考えているのか。その理解はどの程度広がっているのか。そこを確かめないまま、「多くの人はこう考える」と置いてしまう。
さらに、その後に出てくる「実際にはこうである」も、検証が甘くなる。否定対象を乗り越えた形になっているため、後半の主張まで正しそうに見えてしまう。
列挙は、説明の代わりになりやすい。関係しそうなものを並べると、文章量は増える。話題も広がったように見える。
列挙には必ず漏れが出る。これだけ並べておきながら、あれやこれは入っていないのはなぜか、という話になる。そもそも、すべてを列挙することはできない。さらに、並べたもの同士の成り立ちや重さが違う場合、それらを同列に扱う根拠も問われる。
つまり、列挙は文章を広げるが、説明を深めるとは限らない。説明の代わりに並べているだけなら、文字数稼ぎに見えるうえ、突っ込みどころも増える。
原因と結果のあいだを詰めない文は、論が進んでいるように見せる。出来事と出来事をつなげると、文章には流れが出る。
本来そこで必要なのは、二つの出来事のあいだにあるつながりの強さを確かめることである。どの程度起きるのか。どれくらい強く関係しているのか。他の要因はどこまで関わるのか。
そこを置かないまま次へ進むと、因果を説明したのではなく、話を先へ送っただけになる。文章は進んでいるが、論理が積まれているわけではない。
とってつけたような締めは、結論を出したように見せる。最後に大きな言葉を置くと、文章はまとまったように見える。
締めは最後に置く飾りではなく、本文で積んできたものの回収である。途中で前提を確かめず、列挙したものの違いを処理せず、因果のつながりも詰めていないまま、最後だけ大きな言葉を置いても、本文から出てきた結論にはならない。
だから、とってつけたように見える。結論というより、最後に貼られた標語のようになる。
こうして見ると、AI特有の違和感は、言い回しに出ている。言い回しが、考えの粗さを論説文らしい運びに変えている。
ここまで見てくると、AIの文章に感じる違和感は、AIが書いたから生まれるというより、論理の積み方に出ているように思う。
前提を確かめず、要素の違いを分けず、原因と結果のあいだを詰めず、最後だけそれらしい言葉で締める。そうすれば、AIが書いても、人間が書いても、文章は粗くなる。
逆に、前提を確認し、言葉を分け、因果を詰め、結論までの道筋を積んでいれば、AIを使っていても文章は読めるものになる。
考えが粗い文章は、人間っぽく粗くなることもあれば、AIっぽく粗くなることもある。違っているのは、誰が書いたかではなく、粗さの現れ方なのだ。