
18貫、オバマ大統領を安倍晋三が連れて行った銀座の鮨カウンター──すきやばし次郎
赤身が、付け台の上に置かれる。握り手は何も言わない。
数寄屋橋の交差点から地下へ降りた、十席だけのカウンター。ここでは前菜も、つまみも、品書きもない。席につくと、握りがいきなり始まる。赤身、中トロ、大トロ──マグロの三段が続き、白身、光りもの、煮蛤、穴子と進んで、最後に玉子焼きで終わる。およそ二十貫。すべて、職人がひとつずつ握って、客の前の付け台に直接置く。
2014年4月23日の夜、この十席に、当時のアメリカ大統領バラク・オバマが座った。連れて行ったのは、当時の内閣総理大臣・安倍晋三である。
すきやばし次郎とは
東京・銀座、数寄屋橋。交差点に面した塚本素山ビルの地下一階に、その店はある。
開いたのは1965年(昭和40年)。小野二郎、当時40歳。静岡県の天竜(現在の浜松市天竜区)に生まれ、七歳で料理店に奉公に出て、東京で修業を重ね、1951年に鮨職人になった。独立して構えたのが、この「すきやばし次郎」だ。
カウンターは十席ほど。テーブル席はない。メニューも一種類しかない。「おまかせ」──その日の仕入れと、半世紀以上の経験で組まれた握りのコースを、出された順に食べる。それだけの店だ。
2008年、ミシュランガイド東京で最高評価の三つ星がついた。以後、十二年連続で三つ星を保ち続ける。2019年には、小野二郎が「ミシュラン三つ星を持つ最高齢のシェフ」としてギネス世界記録に認定された。九十歳を超えて、なお現役の握り手だった。
世界にこの店の名を広めたのは、2011年のドキュメンタリー映画『二郎は鮨の夢を見る』(デヴィッド・ゲルブ監督)でもある。鮨を握ること一筋に生きる老職人の姿は、海外でカルト的に支持された。オバマ大統領が来店した2014年は、その映画の余韻がまだ世界に残っていた頃だ。
現在、本店は長男の小野禎一が父とともに切り盛りしている。そして2019年11月、ミシュランガイドは本店を掲載対象から外した。理由は「一般客の予約ができなくなったため」。星を失ったのではなく、星の評価が届かない場所へ行った、という言い方のほうが近い。
名物:おまかせの握り、約二十貫
この店には、いわゆる「江戸前」の仕事が、握りの一貫ずつに畳み込まれている。
赤身は、漬けにする。マグロを醤油の地に沈め、味を入れてから握る。中トロ、大トロと脂の段が上がっていくその入口に、漬けの赤身が置かれる──順番そのものが、設計だ。煮蛤や煮穴子には、煮詰めたツメが刷かれる。光りものには酢と塩の時間が、白身には寝かせの時間が、それぞれ計算されて入っている。客が箸を取る頃には、仕事はとっくに終わっている。
シャリは小さめで、人肌に近い温度で握られる。ネタとシャリの温度差を消すことに、この店はこだわってきたという。だから握りは、付け台に置かれた瞬間が食べ頃になる。会話で間を置くと、設計が崩れる。出されたら、すぐ口へ運ぶ──それがこの十席の作法だ。
そして最後に、玉子焼きが来る。すきやばし次郎の玉子は、すり身を加えてカステラのように焼き上げる甘いタイプで、二郎氏は「これがうまく焼けるようになって、ようやく職人として一人前」と語ってきた。コースの最後の一貫が、握り手の修業の総決算になっている。
握りはおよそ二十貫。席について三十〜四十分で終わる。短い。けれど、その三十分のために、仕入れと仕込みに一日が費やされている。
なぜ、この一軒が「寿司外交」の舞台に選ばれたのか
2014年4月23日、国賓として来日したオバマ大統領を、安倍首相は銀座のこのカウンターへ連れて行った。非公式の夕食会。報道によれば、会食はおよそ一時間半に及んだ。
同席したのは、日本側が谷内正太郎・国家安全保障局長、佐々江賢一郎・駐米大使ら。米側がライス大統領補佐官、キャロライン・ケネディ駐日大使らと伝えられている。十席のカウンターに、日米の要人が肩を並べて座った計算になる。

卓に出た酒も記録に残っている。広島・東広島市西条の賀茂鶴酒造がつくる「ゴールド賀茂鶴」。桜の花びらをかたどった金箔が浮かぶ大吟醸で、西条は灘・伏見と並ぶ酒どころだ。鮨は江戸前、酒は安芸西条──土地の違う二つの仕事が、銀座の地下で同じ夜に出会っている。
会食のあと、オバマ大統領は安倍首相に「今まで食べた中で最高の寿司だ」と語ったと報じられた。
会食研究の目で見ると、面白いのはここからだ。国家元首をもてなす場として、ふつうなら格式ある料亭か、迎賓館か、ホテルの宴会場が選ばれる。広い個室、大きな円卓、隔てられた静けさ──「機密」と「格」を満たす場所がいくらでもある。にもかかわらず、選ばれたのは十席のカウンターだった。
カウンターの鮨は、客と握り手が一枚の付け台を挟んで向き合う。仕切りがない。料理が出てくるまでの間も、握りの所作が目の前で進む。それは「もてなす」というより「同じ仕事場に招き入れる」に近い構造だ。料亭の格より、職人の手元を選んだ。寿司外交、と当時呼ばれたその選択は、店の業態そのものがメッセージだった、とも読める。
18貫を、半分残した?──二つの報道のあいだ
ひとつ、当時の報道がきれいに割れた論点がある。オバマ大統領は、出された鮨を「どれだけ食べたか」だ。
来店直後、一部の海外報道は「コースの半分で箸を置いた」と伝えた。共同通信は「食べたのは十四貫」と報じた。「大統領は鮨が口に合わなかったのではないか」という見立てが、一時、世界を回った。
決着がついたのは、半年以上あとだ。2014年11月、本店を切り盛りする長男・小野禎一が日本外国特派員協会で口を開く。オバマ大統領には十八貫を出し、「お出ししたものは全部召し上がっていただいた」。完食だった、と。「半分残した」「二貫しか食べなかった」といった報道を、彼は明確に否定した。
二十貫前後のコースのうち、大統領の前に置かれたのは十八貫。その十八貫は、すべて空になった。これが、店の側が記録として残した数字である。
なぜ最初の報道は割れたのか。会食は非公式で、店内に記者は入っていない。付け台の上で何が起きていたかを直接見た者は、ごく限られていた。だから人数分の伝聞が、別々の数字になって出てきた。
報じられた数字と、当事者が後から出した数字が食い違うとき、信を置きたくなるのは後者のほうだ。十四貫なのか、十八貫なのか。半分なのか、完食なのか。十席の地下で、その夜、付け台の上を本当に何貫が往復したのか──それを正確に知るのは、握った側だけだ。
もし今夜、江戸前を食べるなら
正直に書く。すきやばし次郎の本店は、いま一般客が予約を取れる店ではない。ミシュランの掲載が外れたのも、その理由による。だから「今夜行く」候補には、なりにくい。
それでも、この一軒が教えてくれる江戸前の楽しみ方は、別の鮨屋でなぞれる。
まず、カウンターの「おまかせ」を一度、最後まで体験してみること。前菜から始まる会席ではなく、握りがいきなり出てくる構成。出された一貫を、間を置かずに口へ運ぶ。温度が設計の一部だと知ったうえで食べると、同じ一貫の味が変わる。
順番にも目を向けたい。赤身から入り、脂の段を上がり、煮蛤や穴子のツメ仕事を経て、最後に甘い玉子で締める。この起承転結は、すきやばし次郎だけのものではなく、江戸前の握りが長い時間をかけて磨いてきた「流れ」だ。一貫ずつではなく、コース全体の構成として味わうと、鮨は物語になる。
そして、映画『二郎は鮨の夢を見る』を観てから鮨屋へ行く。握り手の手元の意味が、少しだけ分かるようになる。それが、この十席が世界に残した一番手軽な贈り物かもしれない。
行ってみたい方へ
すきやばし次郎 本店(すきやばしじろう)
東京メトロ 銀座駅 C6出口すぐ/数寄屋橋交差点
📍 東京都中央区銀座4-2-15 塚本総業ビル B1F
📞 03-3535-3600
🕐 月〜金 11:30〜14:00/17:30〜20:30、土 11:30〜14:00(日・祝休)
🍣 おまかせコースのみ(握り約20貫・席について30〜40分)
💰 おまかせ 40,000円前後〜(時価・仕入れにより変動)
⚠️ 現在、本店は一般のご予約が大変取りにくい状態が続いています。来店を検討される場合は、最新の予約状況を必ず店側にご確認ください。
🎬 関連:ドキュメンタリー映画『二郎は鮨の夢を見る』(2011年・デヴィッド・ゲルブ監督)
※店舗情報は公開情報に基づく参考値です。予約方法・営業状況は変動するため、訪問前のご確認を推奨します。
データ
舞台: すきやばし次郎 本店(東京都中央区銀座/1965年創業・小野二郎)
会食: 2014年4月23日(水)夜・日米首脳の非公式夕食会(いわゆる「寿司外交」)
主賓: バラク・オバマ(当時・アメリカ合衆国大統領/在任2009〜2017年)
ホスト: 安倍晋三(当時・内閣総理大臣)
同席(報道): 日本側=谷内正太郎・国家安全保障局長、佐々江賢一郎・駐米大使ら/米側=ライス大統領補佐官、キャロライン・ケネディ駐日大使ら
会食時間(報道): 約1時間半
供された酒(報道): ゴールド賀茂鶴(大吟醸/賀茂鶴酒造・広島県東広島市西条)
オバマ大統領の言葉(報道): 「今まで食べた中で最高の寿司だ」と安倍首相に語ったと報じられた
「何貫食べたか」の経緯: 来店直後、「半分で箸を置いた」(一部海外報道)「食べたのは14貫」(共同通信)などの報道が出たが、2014年11月、長男・小野禎一が日本外国特派員協会で「18貫を提供し、すべて召し上がった(完食)」と説明し、これらの報道を否定した
店の評価: 2008年からミシュランガイド東京で三つ星(12年連続)/2019年11月、一般客の予約ができないことを理由に掲載対象外に/小野二郎は「ミシュラン三つ星を持つ最高齢シェフ」としてギネス世界記録(2019年)
※本記事は、政治資金収支報告書を一次資料とする通常の「センセイ飯」記事とは異なる特別編です。会食の事実関係は当時の報道に基づき、各項目に「報道」と帰属を明示しています。報道間で食い違いのあった点(食べた貫数)は、その経緯ごと記載しました。店舗情報は公開情報に基づく参考値であり、訪問前のご確認を推奨します。
センセイ飯とは: 国会議員の政治資金報告書を一次資料から読み込んで"選ばれ続けた店"だけを紹介する、日本各地の実用グルメガイドです。今回は趣向を変えて、「大人の会食文化」という研究領域から、日本でいちばん有名な一夜の会食──国家元首を銀座の十席へ連れて行った、その店を取り上げました。