
ゴマが目に入っただけです 第4話「恋を労務管理に偽装する男」
【前回までのあらすじ】
黒瀬航平から借りた白いハンカチを返すため、佐藤未央はアイロンを探すところから苦戦していた。きれいに返したい。けれど、その気持ちがただの礼儀なのか、自分でもよくわからない。一方、黒瀬は未央のことが気になりながらも、それを恋ではなく「安全配慮」だと言い張ろうとする。同期の真島は、そんな黒瀬の異変を見逃さなかった。
第4話 恋を労務管理に偽装する男
黒瀬航平は、社内チャットの入力欄を見つめていた。
宛先は、海外営業部の佐藤未央。
本文は、三行目まで書かれている。
《先日の会議資料について、一点確認があります》
《あわせて、前回の出荷フロー改善案について》
《可能であれば、少しお時間を》
黒瀬は、そこで指を止めた。
おかしい。
一点確認、と書いたが、確認したいことは本当に一点か。
出荷フロー改善案について、と書いたが、今それは本当に急ぎか。
少し時間を、と書いたが、その時間で自分は何を確認するつもりなのか。
ハンカチが返ってきた翌日から、黒瀬は妙に落ち着かなかった。
いや、落ち着いていないわけではない。
仕事はしている。
会議にも出ている。
倉庫からの報告も読んでいる。
部下の相談にも乗っている。
ただ、その隙間に、白い紙袋が浮かぶ。
焼き菓子店の小さな紙袋。
中に入っていた、少ししわのある白いハンカチ。
洗って返そうとしてくれた跡。
黒瀬は、入力欄の三行を消した。
そして、もう一度書き直す。
《出荷フロー改善案について、追加確認があります。午後、お時間をいただけますか》
業務上、問題はない。
自然な文面である。
不自然ではない。
不自然ではないが、どこかで誰かが言う声がした。
恋を業務に偽装する男。
黒瀬は送信ボタンの手前で止まった。
「黒瀬」
背後から声がした。
振り返ると、真島亮介が立っていた。
人事総務部の管理職で、黒瀬の同期で、最近では黒瀬の精神衛生上あまり近くにいてほしくない男である。
「何だ」
「今の顔、業務だけじゃないな」
「業務だ」
「業務なら、そんなに送信前に自問自答しない」
「自問自答は仕事にも必要だ」
「それは正しい。でも今のは、少し種類が違う」
真島は、黒瀬の画面を見ようとはしなかった。
代わりに、閉じられたノートパソコンの縁を見て、にやりと笑う。
「閉じたな」
「業務情報だ」
「便利だな、業務情報」
「便利だ」
「まあ、ここでは聞かない」
黒瀬は少し意外そうに真島を見た。
「聞かないのか」
「フロアで詰める話じゃないだろ」
「詰める前提なのか」
「前提だ」
真島は黒瀬の予定表をのぞくように目を細めた。
「今日の夕方、あいてるな」
「予定表を見るな」
「人事総務だからな。社員の予定表はだいたい見えている」
「怖い」
「安心しろ。内心までは予定表に出ない」
「出るわけがない」
「じゃあ、今夜確認しよう」
真島は、打ち合わせを入れるような軽さで言った。
「飲むぞ」
「なぜ」
「昼の社内で聞くと、お前が短い言葉で逃げるから」
「逃げていない」
「逃げてる。お前は、短く整えるとだいたい逃げる」
「仕事がある」
「業務は業務として送れ。飲みは飲みとして来い」
「強引だな」
「同期だからな」
真島は、黒瀬の手元を軽く指差した。
「そのチャットは送っていい。ただし、業務だけにしろ」
「業務だけだ」
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ送れ。俺は見ない。内容も聞かない」
黒瀬はしばらく真島を見た。
「今日は妙に線引きがまともだな」
「いつもまともだ」
「そうだったか」
「人事総務を何だと思ってる」
「変な同期」
「それは否定しない」
黒瀬は、ノートパソコンを開いた。
入力欄を見直す。
《出荷フロー改善案について、追加確認があります。午後、お時間をいただけますか》
業務だけ。
たしかに、業務だけだった。
黒瀬は送信した。
送った瞬間、胸の奥で何かが少しだけ動いた。
真島が横から言う。
「送ったな」
「見ていないんじゃなかったのか」
「送信した気配はわかる」
「超能力か」
「同期力だ」
「存在しない」
「夜、七時。駅前のいつもの店」
「勝手に決めるな」
「出頭命令だ」
「何の」
「業務外監査」
「もっと存在しない」
「でも来るだろ」
黒瀬は返事をしなかった。
返事をしなかったことで、返事をしたようなものだった。
*
その頃、未央は海外営業部で、別の意味で止まっていた。
社内チャットの通知が来ている。
差出人は黒瀬航平。
《出荷フロー改善案について、追加確認があります。午後、お時間をいただけますか》
業務連絡だった。
完全に業務連絡である。
件名も、内容も、句読点も、すべてが業務だった。
なのに、未央は三十秒ほど返信できなかった。
「未央さん?」
田村が声をかける。
「はい」
「どうしました?」
「業務です」
「はい?」
「業務連絡に、業務として返すだけです」
「そうですね」
「なのに、少し魂が必要です」
「また魂が」
田村は、最近その単語に慣れ始めていた。
未央はキーボードに指を置く。
《承知しました。十五時以降でしたら可能です》
普通。
非常に普通。
送信する。
すぐに返信が来る。
《ありがとうございます。十五時半に、第一小会議室でお願いします》
十五時半。
第一小会議室。
未央は、その文字を見つめた。
何もおかしくない。
業務だ。
先週の出荷トラブルの改善案。
部署間連携。
小会議室。
全部、仕事だ。
なのに。
「未央さん、顔色が」
田村が言いかけた。
未央はすぐに顔を上げる。
「コピー用紙ですか」
「いえ、なんか、クリアファイルです」
「透明感が出ました?」
「いえ、中身が見えそうで見えない感じです」
未央は黙った。
「田村さん」
「はい」
「部下が上司を比喩で追い詰めるのは、あまりよくありません」
「すみません」
「でも、成長を感じます」
「ありがとうございます?」
未央は、パソコン画面を閉じた。
「十五時半、黒瀬さんと会議です」
「はい」
「業務です」
「はい」
「以上です」
「はい」
田村は素直に頷いた。
未央は、なぜか少し物足りなかった。
突っ込まれても困る。
でも、まったく突っ込まれないのも、少し困る。
人間とは勝手なものだ。
*
十五時半。
第一小会議室。
未央は、資料を持って入室した。
黒瀬はすでに来ていた。
テーブルの上には、出荷フロー改善案、倉庫連絡テンプレート、先週の再発防止メモ。
完全に業務である。
未央は少し安心した。
少しだけ、残念でもあった。
その自分に気づいて、すぐに心の中で注意する。
佐藤未央。
業務です。
「佐藤さん」
「黒瀬さん。お疲れさまです」
「お疲れさまです」
二人は向かい合って座った。
黒瀬は資料を開く。
「先週の件を受けて、物流企画側でテンプレートを作りました」
「ありがとうございます。見せてください」
仕事は、始まれば強い。
未央は資料に目を通し、すぐに赤ペンを取り出す。
「ここ、“緊急の場合”だと人によって判断が分かれますね」
「たしかに」
「“船便締切当日、または前営業日十七時以降”にした方がよさそうです」
「具体化しましょう」
「あと、この文面だと倉庫側が“保留”をどこまで止めるのか迷うかもしれません」
「出荷作業のみ止めるのか、梱包前で止めるのか」
「そうです」
黒瀬はメモを取る。
未央は資料を指差す。
会話は滑らかだった。
仕事の会話なら、二人は噛み合う。
相手の言葉を受けて、必要なものを足す。
曖昧なところを削る。
責めずに整える。
未央は、それが少し心地よいと感じた。
黒瀬は、余計なことを言わない。
否定も急かしもしない。
ただ、必要なところで言葉を置く。
それが仕事の上では、とてもやりやすい。
問題は、それが仕事の外でも少しやりやすそうに見えることだった。
「佐藤さん」
「はい」
「このテンプレート、海外営業部側の文面も合わせて作れますか」
「作れます」
「では、共同で一枚にしましょう」
「はい」
未央は頷いて、ふと思った。
共同。
仕事でよく使う言葉だ。
共同作業。
共同責任。
共同確認。
なのに今、その言葉が少し違う場所に落ちた。
未央は赤ペンを握り直す。
「佐藤さん?」
「はい」
「大丈夫ですか」
出た。
大丈夫ですか。
未央は反射的に言いそうになった。
大丈夫です。
でも、なぜかその前に、少し止まった。
「……業務上は」
言ってから、自分で驚いた。
黒瀬も、わずかに目を上げた。
「業務上は、大丈夫です」
「業務上は」
「はい」
「業務外は」
黒瀬が言って、すぐに口を閉じた。
踏み込みすぎた。
そう思ったのが、表情でわかった。
未央は、その顔を見た。
謝られる前に、逃げようと思えば逃げられた。
冗談に変えることもできた。
ゴマでも、魂でも、コピー用紙でも。
でも、黒瀬はそれ以上聞かなかった。
言葉を待つのではなく、出口を開けたままにしているようだった。
未央は、赤ペンのキャップを閉めた。
「業務外は、分類中です」
黒瀬は、少しだけ頷いた。
「そうですか」
「はい」
「では、分類が終わるまで、こちらからは急かしません」
未央は、その言葉に少し笑った。
「社内規程みたいですね」
「すみません」
「いえ。助かります」
助かります。
仕事の言葉だ。
でも今のそれは、仕事だけではなかった。
黒瀬は、そこを拾いすぎなかった。
「では、業務に戻ります」
「はい」
未央は資料を見た。
胸の奥で、小さく何かがほどける。
全部言わなくていい。
でも、全部隠さなくてもいい。
その中間があるのだと、少しだけ思った。
*
会議は十六時二十分に終わった。
小会議室を出ると、廊下に真島がいた。
明らかに偶然ではない。
未央は少し目を細める。
「真島さん」
「あ、佐藤さん。お疲れさまです」
「お疲れさまです。人事総務は、廊下にも出没するんですね」
「必要に応じて」
「何の必要ですか」
「社内の空気循環です」
「換気扇みたいですね」
「人事総務は、時に換気扇です」
黒瀬が、横で小さく息を吐いた。
「真島、会議か」
「会議じゃない」
「じゃあ何だ」
「通行」
「通行にしては、立ち止まっていた」
「廊下について考えていた」
「嘘が雑だ」
未央は二人のやり取りを見て、少し笑った。
黒瀬が、仕事中とは違う顔をしている。
真島の前では、少しだけ口調が雑になる。
それが意外だった。
落ち着いていて、何でも静かに受け止める黒瀬航平にも、ちゃんと同期に面倒くさそうな顔をする部分がある。
未央は、そのことに少し安心した。
「では、私は戻ります」
未央が言うと、黒瀬が会釈した。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。テンプレート、こちらで修正して送ります」
「お願いします」
未央は海外営業部へ戻っていった。
背中が見えなくなってから、真島が黒瀬を見た。
「で?」
「何だ」
「業務だったか」
「業務だった」
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ、その顔は何だ」
「顔で判断するな」
「人事総務は顔を見る」
「便利だな」
「便利だぞ」
真島はそれ以上、社内では言わなかった。
ただ、黒瀬の肩を軽く叩いて、ひとことだけ残した。
「七時な」
「覚えていたのか」
「業務外監査は、定時後に行います」
「働きすぎだ」
「残業代は出ない」
「違法だろ」
「存在しない組織だからな」
*
未央は、自席に戻ってから、修正したテンプレートを黒瀬に送った。
文面は簡潔にした。
《先ほどの確認内容を反映しました。ご確認ください》
送信。
一分後、黒瀬から返信が来る。
《ありがとうございます。確認します》
それだけ。
未央は画面を見つめる。
それだけでいい。
それだけがいい。
なのに、少しだけ何かを待っている自分がいる。
何を待っているのかは、分類できない。
未央は、ノートの端に小さく書いた。
業務外、分類中。
書いてから、すぐに消した。
田村が隣から覗き込む。
「未央さん、今、何か書いて消しました?」
「書類上不要な情報です」
「気になります」
「気にしないでください」
「業務外ですか」
未央は田村を見た。
「田村さん」
「はい」
「最近、成長が急です」
「ありがとうございます」
「上司の私生活に踏み込まない成長もお願いします」
「はい」
田村は素直に引いた。
未央は少し笑った。
その時、スマホが震えた。
母からだった。
《ハル、今日は少し元気です。検査は来週になりました》
写真も届いている。
ハルが毛布の上で丸くなっている。
未央は写真を見て、息を吐いた。
来週。
まだ何も決まっていない。
だから、怖い。
でも今日は、少し元気。
その事実だけを受け取ればいい。
未央は返信する。
《よかった。夜、電話します》
送ってから、少し驚いた。
夜、電話します。
自分からそう書いた。
母に対しても、ハルに対しても、いつも「あとで」「時間があれば」「大丈夫」と濁してきたのに。
今日は、電話すると書けた。
未央は、黒瀬との会話を思い出す。
分類が終わるまで、こちらからは急かしません。
あの言葉は、踏み込まれていないのに、支えられた感じがした。
未央は、パソコン画面に戻る。
黒瀬から、再び返信が来ていた。
《修正版、確認しました。こちらで問題ありません。ありがとうございます》
未央は、普通に返信する。
《ありがとうございます。では、この内容で進めます》
送信してから、少しだけ迷った。
そして、もう一文だけ打った。
《分類中の件も、ありがとうございました》
指が止まる。
送るか。
送らないか。
業務チャットで送る内容ではない。
でも、何も言わないと、あの言葉が宙に浮いたままになる気がした。
未央は一度、深く息を吸った。
これは業務ではない。
でも、迷惑でもない。
たぶん。
“たぶん”は確認じゃなくて願望です。
自分の声が頭の中で響く。
未央は小さく笑った。
願望で何が悪い。
送信した。
*
黒瀬は、会議室で資料を確認していた。
チャット通知が表示される。
《ありがとうございます。では、この内容で進めます》
続いて、もう一文。
《分類中の件も、ありがとうございました》
黒瀬は、その文章をしばらく見ていた。
業務チャットである。
社内ツールである。
記録にも残る。
しかし、その一文は、業務ではなかった。
黒瀬は返信欄に指を置く。
何を書くべきか。
大丈夫です。
何でもありません。
お気になさらず。
また必要があれば。
どれも違う。
黒瀬は、短く打った。
《こちらこそ。急かさない約束は守ります》
送信してから、少し考える。
これは重いか。
いや、重すぎるか。
業務チャットで「約束」は強すぎるか。
黒瀬が迷っていると、すぐに返信が来た。
《ありがとうございます。助かります》
続いて、もう一文。
《業務上も》
黒瀬は、その短い追記を見て、思わず少し笑った。
業務上も。
つまり、業務外も。
言っていない。
言っていないが、完全に消してもいない。
黒瀬は返信しなかった。
これ以上、業務チャットで続けるべきではない。
その代わり、ノートの端に一行だけ書いた。
分類中には触れない。
それから、少し迷って、もう一行書いた。
ただし、忘れない。
*
十九時。
駅前の居酒屋は、木目調のテーブルが並ぶ、ほどほどに賑やかな店だった。
うるさすぎず、静かすぎない。
同期同士が少し面倒な話をするには、ちょうどいい。
黒瀬が店に入ると、真島はすでに奥の席に座っていた。
生ビールと枝豆が置かれている。
「遅い」
「定時後に別件が入った」
「業務?」
「業務だ」
「本当に?」
「それは本当に業務だ」
「疑われる人生になったな」
「お前のせいだ」
黒瀬は向かいに座り、ビールを頼んだ。
グラスが届くと、真島が軽く掲げる。
「出荷フロー改善に」
「それならいい」
二人はグラスを合わせた。
一杯目は、ほとんど仕事の話だった。
倉庫との連携。
海外営業部の負荷。
新人の育成。
人事総務部に最近増えている相談。
真島は、意外と家庭の話もした。
妻が最近、観葉植物を増やしすぎていること。
家のリビングが少しずつ植物園に近づいていること。
それでも、枯らさず世話をしているのは結局自分であること。
「それは文句なのか」
黒瀬が聞くと、真島は首を傾げた。
「いや。まあ、半分は」
「半分は」
「でも、帰った時に緑があるのは悪くない」
「そうか」
「そういうもんだよ。人と暮らすと、知らないうちに自分の部屋じゃなくなる」
「不便じゃないのか」
「不便だよ」
「いいのか」
「不便だけど、悪くない」
真島はそう言って、二杯目のハイボールを頼んだ。
黒瀬も同じものを頼んだ。
二杯目の半分を過ぎたころ、真島が切り出した。
「で、業務外は分類中、だっけ」
黒瀬は枝豆に手を伸ばしかけて止まった。
「今か」
「今だ」
「一杯目では聞かなかったな」
「俺は大人だからな」
「そういうところは認める」
「珍しく素直だな。酒が回ってきたか」
「まだだ」
「じゃあ、もう一杯いくか」
「話す前に飲ませるな」
「長くなるだろ」
真島は笑って、焼き鳥の皿を黒瀬の方へ押した。
「何があった」
「何もない」
「何もない男は、業務外は分類中という言葉を持ち帰らない」
黒瀬はグラスを置いた。
「佐藤さんに、大丈夫ですかと聞いた」
「うん」
「業務上は大丈夫です、と言われた」
「うん」
「それで、業務外は、と聞いた」
「踏み込んだな」
「踏み込みすぎたと思った」
「うん」
「だが、佐藤さんは、業務外は分類中です、と返した」
真島は、少し笑った。
「ゴマから分類中に進化してる」
黒瀬は返事をしなかった。
たしかに。
泣いている理由は、ゴマだった。
業務外の状態は、分類中になった。
それは、開示ではない。
でも、完全な遮断でもない。
「それで?」
「分類が終わるまで、こちらからは急かしません、と言った」
「お前さ」
「何だ」
「そういうところは、本当にうまいんだよな」
「そういうところ」
「相手の逃げ道を残すところ」
黒瀬は返事をしなかった。
「でもな」
「まだあるのか」
「ある」
真島はハイボールを飲んでから、少し真面目な声になった。
「逃げ道を残せる男は、時々、自分の入口を作らない」
黒瀬は真島を見る。
「相手が逃げられるようにするのは大事。でも、お前自身が何を感じてるのか、どこに立ってるのか、ずっと曖昧だと、相手は迷う」
「……」
「優しいけど遠い、ってやつだ」
黒瀬の表情が、ほんの少しだけ変わった。
真島は気づいたが、すぐには触れなかった。
「未央さんは、たぶん“平気です”って言いがちな人だろ」
「ああ」
「お前は、それを真に受けられる男だ」
黒瀬は黙っていた。
「だから気をつけろ。平気そうに見える人に、平気なんですねって距離を取ると、相手はずっと平気なふりをする」
「……」
「でも逆に、平気じゃないんでしょうって決めつけてもだめだ」
「難しいな」
「恋愛だからな」
「恋愛ではない」
真島は、そこで一度黙った。
そして、ハイボールを置いた。
「じゃあ、聞くけど」
「何だ」
「未央さんのこと、気になるんだろ」
黒瀬はすぐに答えなかった。
答えない時間が、答えになっていた。
「気になる、という言葉は便利だ」
「始まった」
「気になるには種類がある」
「分類するな」
「分類しないと、誤解が生じる」
「もう生じてるよ」
黒瀬は真島を見た。
酒が少し回っている。
自覚はあった。
普段なら、ここで黙る。
しかし、今日は黙る前に言葉が出た。
「佐藤さんは、こちらが近づくと困る」
「うん」
「でも、放っておけばいいという話でもない」
「うん」
「だから距離を保つ必要がある。ただ、距離を保つというのは、無関心とは違う」
「長い」
「まだ途中だ」
「恋の説明って、途中で止めたほうがいいんだよ」
「恋の説明ではない」
「じゃあ何」
「状況の整理だ」
「それを恋の説明って言うんだよ」
黒瀬は構わず続けた。
「佐藤さんは、仕事では非常に明確だ。判断が早く、言葉も的確で、部下への指示もいい。だが、自分のことになると、言葉が変わる」
「ゴマとか」
「ゴマとか」
「魂とか」
「魂とか」
「アイロンとか」
「アイロンとか」
「分類中とか」
「分類中とか」
真島は、頬杖をついた。
「お前、楽しそうだな」
「楽しいわけではない」
「じゃあ何」
「……目が離せない」
真島は、一瞬だけ茶化すのをやめた。
黒瀬は続けた。
「弱いからではない。かわいそうだからでもない。むしろ、佐藤さんは強い。仕事もできるし、人を動かせる。場も整えられる」
「うん」
「ただ、重いものをそのまま人に渡さない。変な言葉に変換する。ゴマとか、魂とか、分類中とか」
「うん」
「その変換が、たぶん防御でもあり、誠実さでもある」
「うん」
「だから、こちらがそれを雑に扱うと、壊す気がする」
真島は黙って聞いていた。
「でも、尊重しすぎると、遠くなる」
黒瀬は、そこで言葉を止めた。
自分で言って、少しだけ驚いたようだった。
遠くなる。
その言葉は、自分の中に昔からあった。
優しいけど遠い。
誰かに言われたことがある。
言われた相手の顔は、もうはっきり思い出せない。
ただ、その言葉だけが、妙に残っていた。
「黒瀬」
「何だ」
「今のは、だいぶ本音だぞ」
「そうか」
「そうだよ」
真島は、黙って三杯目を注文した。
黒瀬には、薄めのハイボール。
自分には、烏龍茶だった。
「お前は飲まないのか」
「俺は明日、妻を駅まで送る」
「そうか」
「そういう現実があるんだよ、大人には」
「俺も大人だ」
「知ってる。だから薄めにした」
「勝手に決めるな」
「長い説明をもう一回聞くには、これくらいがちょうどいい」
黒瀬は少しだけ笑った。
真島は、烏龍茶を一口飲んでから、声を落とした。
「心配することは悪くない」
「ああ」
「でも、心配は便利なんだよ」
「前にも聞いた」
「何度でも言う。大事だから」
真島は箸を置いた。
「心配だから連絡する。心配だから様子を見る。心配だから近くにいる。心配だから聞く。心配だから助ける」
「……」
「それが本当に相手のための時もある。でも、自分が安心したいだけの時もある」
黒瀬は返事をしなかった。
「未央さんは、たぶん人に頼れない人じゃない」
「そうだな」
「仕事では頼れる。指示も出せる。礼も言える。ハンカチも返せる」
「ああ」
「でも、泣いてる理由はゴマになる」
「……ああ」
「そこに踏み込むなら、相手の逃げ道を塞ぐな」
「わかっている」
「わかってる男は、業務チャットで余韻を送ろうとしない」
「だから余韻じゃない」
「送ろうとしてたのか」
黒瀬は黙った。
真島は勝った顔をした。
「やっぱりな」
「送っちゃいない」
「そこは偉い」
「偉いのか」
「途中で止まれる大人は偉い」
黒瀬は、少しだけ息を吐いた。
「じゃあ、どうすればいい」
「業務があるなら業務をしろ」
「ある」
「本当に?」
「ある」
「じゃあ業務だけしろ。会いたいなら、会いたいを業務に混ぜるな」
黒瀬は真島を見た。
「会いたいとは言っていない」
「言ってないな」
「思ってもいない」
「そこは怪しいな」
「真島」
「何だ」
「お前は、いつからそんなに恋愛マスターになった」
真島は少し考えた。
「結婚すると、毎日ちょっとした人間関係の実装テストがある」
「実装テスト」
「そう。正論が通じない日もある。俺が正しくても、言い方が悪いと全部負ける日がある」
「負けるのか」
「負ける」
真島は真面目に頷いた。
「でも、勝ち負けじゃないんだよな。家に帰って、相手が黙ってるときに、正しさを押しつけても意味がない」
「……」
「人事総務も似てる。人が辞める理由、人が揉める理由、人が壊れる前兆、人が無理してる顔をそこそこ見る」
真島はグラスの水滴を指で拭った。
「恋愛も似てる。だいたい、言い訳が増えた時点で危ない」
「言い訳」
「お前は今、言い訳で稟議書が作れる」
黒瀬は、返す言葉がなかった。
真島は烏龍茶を飲み干した。
「だから、今日の指導事項」
「指導」
「業務チャットは、業務だけ。心配は、相手の負担にしない。会いたいなら、まず自分で認めろ」
「認めたらどうなる」
「知らん」
「無責任だな」
「そこは恋愛労基の管轄外だ」
「結局、その組織は何をしてくれるんだ」
「違反を指摘する」
「嫌な組織だ」
「必要だろ」
「必要かもしれない」
「お、認めた」
真島は少し笑った。
黒瀬は、薄いハイボールを見つめていた。
自分で認める。
それが一番難しい。
「真島」
「何だ」
「恋だとして」
真島は、少しだけ姿勢を正した。
「うん」
「どうすればいい」
真島は、しばらく黙った。
それから、いつもの軽さを少しだけ戻して言った。
「まず、業務に混ぜるな」
「それは聞いた」
「次に、相手を救おうとするな」
「救う」
「未央さんは、助けが必要な時もあるかもしれない。でも、お前が救済者になる話にするな」
「……」
「隣に立ちたいなら、隣に立て。上から手を伸ばすな」
黒瀬は黙って聞いていた。
「あと」
「まだあるのか」
「ある」
真島は少し笑った。
「お前も、少しは困れ」
「困る?」
「そう。完璧に受け止めるな。正解だけ出すな。たまには、どうしていいかわからない顔をしろ」
「それが必要なのか」
「人間同士だからな」
黒瀬は、グラスの水滴を指でなぞった。
どうしていいかわからない顔。
それなら、もう何度もしている。
ただ、外に出していないだけだ。
「わかった」
「本当に?」
「たぶん」
「“たぶん”は?」
黒瀬は少しだけ笑った。
「確認じゃなくて願望です」
真島は声を上げて笑った。
「未央さん語録、完全に感染してるな」
黒瀬は否定しなかった。
その代わり、少しだけハイボールを飲んだ。
恋だとして。
まだ、何も始まっていない。
けれど、もう業務だけでは説明できなかった。
*
その夜、未央は母に電話をした。
ハルの検査のこと。
最近の食欲のこと。
足腰のこと。
母の心配のこと。
未央は、いつものように「大丈夫」を連発しそうになって、少しだけ止まった。
「心配だよね」
そう言った。
電話の向こうで、母が少し黙った。
『うん』
「私も、心配」
言えた。
たったそれだけの言葉なのに、喉の奥が少し詰まった。
母は、何も大げさなことを言わなかった。
『そうよね』
「うん」
『でも、今日はご飯食べたから』
「うん」
『来週、検査してみないとわからないし』
「うん」
『ミオも、ちゃんと食べなさいね』
「食べてる」
『本当?』
「んー、たぶん」
『たぶんは?』
未央は、少し笑った。
「確認じゃなくて願望です」
『何それ』
「会社で流行ってるの」
『あなたが流行らせたんでしょ』
「そんなことは」
『あるでしょ』
母の声が少し明るくなった。
電話を切ったあと、未央はリビングの床に座った。
洗濯物は、今日は少しだけ畳まれている。
全部ではない。
でも、少しだけ。
スマホを見て、社内チャットを開きかけて、やめた。
黒瀬とのやり取りは、もう終わっている。
急かさない約束は守ります。
その一文が、頭の中に残っている。
急かさない。
でも、忘れない。
そんな距離があることを、未央は最近まで知らなかった。
未央は、ソファにもたれて目を閉じた。
業務外、分類中。
まだ分類中。
でも、前より少し、怖くない。
*
翌朝。
始業まで、まだ二十分ほどあった。
物流企画部の島には、黒瀬と真島のほかには誰もいない。
黒瀬のノートの端には、また数行が増えていた。
ゴマを理由に泣く。
近づくと開く。
重いものを持つ時、魂が出る。
アイロンを捨てた。
約束は返す。
業務外は分類中。
急かさない約束は守る。
ただし、忘れない。
黒瀬は、その下にもう一行書こうとして、止まった。
要観察。
いつもの言葉を書こうとして、書けなかった。
観察。
もう、それだけではない気がした。
黒瀬はペンを置いた。
その時、真島が横からノートを覗き込んだ。
「おはよう」
「勝手に見るな」
「お前、机の上で開いてるぞ」
「見るな」
「はいはい。で、今日は何を偽装する予定?」
「何もしない」
「本当に?」
「本当に」
「安全配慮?」
「しない」
「部署横断的管理?」
「しない」
「恋愛感情の稟議?」
「回さない」
真島は満足そうに頷いた。
「よし」
「何がよしだ」
「少し進歩した」
黒瀬はノートを閉じた。
その表紙を指で軽く押さえる。
「真島」
「何だ」
「恋だとして」
真島の顔が、急に真面目になった。
「うん」
「まだ、俺には扱い方がわからない」
真島は、しばらく黙った。
それから、少しだけ笑った。
「それ、昨日よりだいぶ人間っぽいぞ」
「褒めているのか」
「褒めてる」
「雑だな」
「人事総務だからな」
「関係あるのか」
「ある。たぶん」
「“たぶん”は?」
真島が先に言った。
黒瀬は少しだけ笑った。
「確認じゃなくて願望です」
真島は声を上げて笑った。
「未央さん語録、完全に感染してるな」
黒瀬は否定しなかった。
その代わり、閉じたノートの上に、静かに手を置いた。
恋だとして。
まだ、何も始まっていない。
けれど、もう業務だけでは説明できなかった。
※「ゴマが目に入っただけです」は現在、第4話まで公開中です。
続きは今後、形を整えながら展開予定です。