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それでも写真は成立する—意味になる前に、確かに存在するもの

    1. はじめに:「いい写真だ」と言い切れないときの違和感


    写真はいつも何かを語っているわけではない。それでも、確かに成立してしまう写真がある。その理由を長いあいだ言葉にできずにいた。そうした違和感は写真と向き合い続けるなかで、少しずつ蓄積されてきた。
     
    写真への誘いには、実にさまざまな入口がある。そしてハマった人が写真を撮る中でますます「上達したい」と思うのはごく当然のことだろう。例えば、写真に関する書籍は技術、写真集、写真論、写真史、エッセイに大別できる。

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    @近所のイタリアン


    かつてはハウツーものが不可欠だったが、成熟したデジカメ時代にあってその位置づけも変わってきた。それに取って代わり昨今増えたのが「映える」写真や「エモい」写真を撮るためのハウツー本だ。前者は一瞬で目を奪われる画を、後者は一瞬で強い感情を呼び起こす画を目的としているのが一般的で、SNS全盛期に合致した書籍であると言える。
     
    もちろん、僕は撮影技術や写真の知識を否定するつもりはないし、「映える」あるいは「エモい」写真を撮ること(現像すること)ができるというのも立派なテクニックだ。それらの写真を観て「キレイだな」とは思う。

    しかし一方で、それらが「いい写真か」と問われたら、少し違うような気がする。その違和感はなかなか言葉で言い表すことがむずかしいが、確かに存在しているように感じられる。今日はそれについて掘り下げてみようと思う。
     


    2. 判断はもっと手前で起きている

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    @近所の神社


    「いい写真だな」という判断は、理解や説明よりも前にすでに起きていることが多い。僕の場合、それはもっともっと即物的で、頭で考える前の身体的なレベルで決めているように感じる。具体的に言うと、その「雰囲気」、「香り」、「温度感(体温)」、「距離感」などである。言葉にすれば曖昧だが、判断そのものは驚くほど速い。
     
    小説や評論を読むとき何とかその意味をつかもうと必死になる。一方で、例えば音楽については事情が全く異なり、歌詞の意味で好き/嫌いの判断材料にはならない。あくまでも先ほど挙げた「雰囲気」、「香り」、「温度感」、「距離感」で自分に合う/合わないかが決めている。

    ほとんど歌詞を覚えていない僕の様子は嫁さんにとっては不思議らしいが、個人的には完全に整合している。なぜなら「理性的にとらえる」ことと「感覚的につかむ」は対立せず、使われる場所が異なるだけだからである。

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    夫婦は赤の他人、だからおもしろい

    他の人に話を聞いたわけではないが、音楽を好きになるとき、必ずしも歌詞を理解しているわけではないのではないか?歌詞はその楽曲を好きになる必要条件にはなるが、十分条件にはなり得ないような感じがする。楽曲全体の手触りや空気が先に身体に届き、歌詞の意味があとから追いついてくることもあれば、結局追いついてこないこともある。それでも、体験としては成立している。
     

    3.ふたつのケース、ふたつの音楽

    3-1.私的な極み:「彼と彼女のソネット」の場合

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    出張とおいしいパンはセット

    頻繁ではないものの、僕が折に触れて聴きかえすのが大貫妙子の「彼と彼女のソネット」(仏語原題 “T’en va pas”)という曲だ。世代ではないが、かれこれ25年は断続的に聴いている。そんなに聴いているのにやはり歌詞を正確に口ずさむことはできないし、ゆえに内容も理解しているとは言いがたい。それでも奇妙なことにはっきりと身体に残っている感触がある。メロディの起伏(のなさ)、澄んだ水に1滴だけ別の色を垂らしたようなコードの濁り、そしてリズムの間などが頭で考えるより先に感知されるものがあるようだ。

    • 言葉が意味を持つ前の「雰囲気」

    • 淡く言葉ならない「香り」

    • 高揚ではない、むしろ冷たい「体温」

    • 近いのに遠い「距離感」
       

    歌詞は覚えていなくても、あるいは理解していなくても、感覚は、歌詞の理解とは無関係に、長く身体に居座り続ける、そんなお気に入りの楽曲だ。
     

    3-2.公的な極み:「カラーフィルムを忘れたのね」の場合

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    誰にも座られなくなった椅子

    ドイツの首相の退任式は実に荘厳だ。グローサー・ツァプフェンシュトライヒ(Großer Zapfenstreich)とよばれる軍楽隊によるその行事は17世紀末が起源らしい。その退任式でアンゲラ・メルケルが「カラーフィルムを忘れたのね」(独語原題"Du hast den Farbfilm vergessen")という旧東ドイツ出身のパンク歌手の楽曲をリクエストしたことは当時とても話題になった。

    メルケルは16年間にわたってドイツを率いた。そしてその間、常に高度な選択を迫られ、考えられないような批判にもさらされてきたことだろう。トランプ、習近平、そしてプーチンを手なずける“猛獣使い”とも呼ばれた。

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    @午後の由比ガ浜

    軍楽隊が「カラーフィルムを忘れたのね」の演奏をはじめるとすぐに彼女は両目いっぱいに涙を溜めていた。もちろん厳粛な国家行事であるため感情は抑制されていたが、とても感情が揺れていたように見えた。そして演奏が終わると湧き出た感情を立て直すべく、口を一文字に結んだ。わずか3分のできごとである——彼女は「この曲は青春時代のハイライト」とだけ言った。僕は全くこの曲について知らなかったが、

    • 分断された東ドイツという時代そのものへの「香り」

    • 瞬間的ではないが、にじむような「温度感」

    • ドイツの国家元首として保たれた絶妙な「距離感」
       


    を何となく感じる。音楽は立場や役割を脱ぎ捨てた場所で、その人の人生の感触を一気に立ち上げる。つまりその人個人の人生が圧縮されている。
     

    4. 私的なものの、不思議な強さ

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    閉店間際の洋食屋@神戸


    前段で取り上げた対極的なエピソードは、一見するとほとんど共通点はない。ひとつは歌詞を正確に覚えているわけでもなく、意味も十分に理解しているわけでもないという私的なエピソードである。そしてもうひとつは長年にわたって重責をまっとうした国家元首が主役のとても厳粛な国家行事のエピソードである。立場も文脈も、そして背負ってきた時間の重さも、あまりに異なっている。
     
    それでもこのふたつのエピソードを並べたとき、僕には無視できない共通項があるように見えてくる。それは「何が起きたか」ではないし、「何を意味しているのか」でもない。あるのは繰り返しになるが「雰囲気」、「香り」、「温度感(体温)」、「距離感」だ。
     

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    @江之浦測候所


    ここで大切なのは感情の共有ではないということだ。メルケルの青春が輝いていたかとか、僕がどんな戸惑いを抱えていたかは他人がそのまま引き受けることはできない。しかし、香りや温度、距離といった感覚の次元になると、話は少し変わってくる。それらは主観的でありながら、身体を通して想像されうる。感覚は意味ほどには共有できない。それでも意味よりも確かに他者を運んでしまう。
     

    5. おわりに:それでも、写真は成立する

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    今のところは失敗作


    写真について語ろうとするとき、僕らはどうしても技術や知識の話になりがちだ。構図、光の具合、露出、ピント、そして機材のスペック。そしてそれらはとても重要な要素であって、「いい写真」の必要条件にはなりうる。だからこそ本を読み漁ったわけだしね。ただし、整っていること、正しいこと、そしてパンチ力があることと何かしら後まで残ることとは同義ではないというのが今の考えだ。
     
    写真を観るとき、あるいは撮る時に僕が大切にしているのは、たぶんもっと手前の感覚だ。それがその場の香りや温度感、そして漂う距離感という、言葉になりそうな、でもまだなる前の雰囲気である。そうしたものを掴めたかどうか——この一点で写真の手ごたえが大きく変わる、そんな感じがする。その手ごたえが何らか残るなら、写真はすでに成立している。
     
    写真は、意味を語らなくても成立する。意味の外側で起きていた出来事の気配が、そこに留められていれば、それで十分なのだ。


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    ■筆者:h_yamada

    このnoteでは機材の優劣や上達の近道よりも、写真とどう向き合い、そしてどんな時間を過ごしているのかを書いていこうと思います。写真の話だけではなく、少し寄り道——ときには回り道もします。

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    h_yamada

     
     
    写真の楽しみ方、あるいは立ち止まり方を考えていきます/名古屋のすみっこ/妻と娘の3人/スイーツ大好き/Instagram:@h_yamada_photo

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