
AIが自然になって嬉しい。でも少し寂しい。
子どもの言い間違いとAIの誤変換。
どちらも成長の証なのに、なぜか名残惜しい。
最近のAIは、本当に自然になった。
日常生活の調べ物や旅行中の相談、文章作成などでAIを使う機会はずいぶん増えた。最近はAIの日本語評価やトレーニングに関わる仕事も少し始めていて、利用者としても関わる側としても、その変化を興味深く見ている。
便利になったし、信頼できるようになった。以前なら違和感だらけだった日本語も、今ではかなり自然だ。
それなのに、ある日ふと、少し寂しい気持ちになった。
子どもの言い間違いが愛おしい
我が家には4歳の息子がいる。
「頑張って」は「ばんがって」。「教えて」は「おせーて」。「特別」は「こーべつ」。「ブレスレット」は「てーかざり」。
つい最近まで、そんな言い間違いにクスッと笑っていた。
でも、どんどん正しく言えるようになるたびに、その“今だけの言葉”が聞けなくなる。
成長しているんだから嬉しいはずなのに、少しだけ寂しい。
私自身も子どもの頃、「山」を「まにゃ」、「りんご」を「がんごん」と言っていたらしい。
当時は当たり前だったその言葉も、もう戻ってこない。
AIの“ちょっと変”にも同じ気持ちになった
そんなことを考えていた頃、AIや音声入力の誤変換を見ていて、なんか似てるなと思った。
「だいたい見当がついた」が「だいたいテントがついた」。
「固有名詞」が「こういう名詞」。
意味は伝わる。だけど少しズレている。
画像生成AIも同じだ。せっかく素敵な絵を描いてくれたのに、画像の中の文字だけが妙な日本語になっていたりする。
「こんばんは」が「こんぼんは」。
そんな“あと一歩”の感じが、どこかかわいかった。
でも最近は、そういう場面がぐんと減ってきた。
便利になったのは間違いない。以前よりずっと使いやすい。
それなのに、「前のあの感じも結構好きだったんだよな」と思うことがある。
この気持ちを画像にしたらどうなるんだろう
そんなことを考えていた時、ふと、この気持ちを画像にしたらどんな感じになるんだろうと思った。
子どもの成長を見守る気持ちと、AIの成長を見守る気持ち。
嬉しいんだけど、少し寂しい。
そんな曖昧な感情だ。
AIについての話だから、モチーフはロボットかなと思った。
そこでChatGPTに、こんな雰囲気の画像を作るならどんな感じになるだろう、と相談しながらアイデアを膨らませていった。
そして生まれたのが、この子だった。

一目見て、「あ、この子かわいい」と思った。
どこか頼りなくて、一生懸命で、少し前まで見ていたAIと重なる。
画像を一枚作って終わるつもりだったのに、気が付くと、この子で何か作りたくなっていた。
感情が形になるまで
特にそこから先、その画像をどうしようというつもりはなかった。
ただ、なんとなく眺めていた。
ChatGPTとやり取りしながら、
「幼顔」
「少し人間っぽい」
「でも明確に機械」
「CRTの緑色の目」
「昭和SF」
「少し寂しい空気」
そんな言葉を並べていった。
後から見返したら、その時のやり取りの一部が残っていた。

今見るとちょっと面白い。
完成したロボットを見ると、この時点でほとんど方向性が決まっている。
何かすごいデザイン論があったわけではなく、「こんな感じかな」「こっちの方が好きかな」と話していただけなのだけれど、その積み重ねで少しずつ形になっていった。
今しか作れない言葉をLINEスタンプにした
気が付くと、このロボットに言葉をかけたくなっていた。
「誤変換へったね」
「前の君も好きだったよ」
「まだ少し変でいてね」
「ちゃんと育ったね」
面白いことに、どれもAIが話す言葉ではない。
AIを見ている人間側の言葉だ。

作りながら思った。
私はAIが成長したことを喜んでいる。
便利になったし、本当に助かっている。
でも同時に、ちょっと変だった頃のAIも嫌いじゃなかった。
子どもの成長を見ている時に感じる気持ちと、どこか似ている気がする。
完成したスタンプはこちら
最終的に24個のLINEスタンプになった。
このスタンプは、AIについて語っているようでいて、実は私自身が感じていた気持ちの記録でもある。
数年後に見返したら、「そういえばこんなこと考えていたな」と思うかもしれない。
でも、その頃には今のAIもまた変わっているだろう。
だから残しておきたかった。
今しか感じられない、この妙なノスタルジーを。
完成したスタンプはこちらです。