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5.4.1 教会と修道院 世界史の教科書を最初から最後まで

    現代の日本において、理想の”生き方”ってどんな”生き方”だろう?

    生き方のモデルとなるような、たったひとつの “理想” はあるのだろうか?

    高校生にとって、ちょっと上の世代にとって、親の世代にとって...

    理想の”生き方”は人によっても世代によっても、実にさまざまだよね。


    その背景には、社会の機能が複雑化した分、さまざまな”生き方”が生まれたことがある。
    それだけでなく、情報を伝える技術が発達したおかげで、いろんな”生き方”に関する情報を知ることができるようになったことも大きいね。


    現代に比べると、古代や中世の時代における”生き方”の理想のパターンは、ずいぶんと限られていたと言っていい。

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    例えば、古代ローマ帝国の時代においては、〈ローマの神々が喜ぶような生き方をすること〉〈ローマ人として公職を務め、公共に尽くすこと〉が理想の生き方とされた。

    それが5世紀以降になると、混乱を経た西ヨーロッパ世界では、〈ローマの理想〉に代わる新しい理想がシェアされるようになっていく。



    キリスト教的な生き方


    1つ目はキリスト教的な”生き方”。

    現世における政治的な生き方よりも、〈来世での幸せを願い信仰をつらぬくキリスト教的な生き方〉こそが ”立派な”生き方とされるようになっていったんだ。

    生まれた時には洗礼を受け、クリスチャンネームを授かる。


    一年の節目節目には、キリスト教に関連するお祭りを経験した。


    ◯キリストの受けた苦しみを体験する行事(レント(受難節))


    ◯キリストの復活をお祝いする行事(イースター(復活祭))


    ◯イースターから50日後、聖霊(せいれい)が人々に降りてきたことをお祝いする行事(ペンテコステ(聖霊降臨の日))


    ◯キリストの降誕(こうたん)を待ち望む期間の行事(アドヴェント)


    ◯そして、もっとも有名な「クリスマス」(イエス降誕の記念祭)



    そして結婚や葬儀も、キリスト教の教えに従ってとりおこなわれた。


    一年365日、生まれてから息を引き取るまで、教会のお世話にならなければ「魂の救済」ができないとされたんだよ。

    都会のきらびやかで物質的な暮らしよりも、質素でスピリチュアルな暮らしが理想とされた結果、キリスト教の聖職者たちが修行する機関は、しばしば荒野や山奥に立てられた。
    これを修道院という。


    修道院のスタイルは当初アフリカやアジアの教会で盛んになった。



    ヨーロッパでは、6世紀にイタリアのモンテ=カシノというところでベネディクトゥス(480頃~547年頃)というカリスマ性を持った聖職者がひらいたベネディクト修道会が広まり、メジャーとなる。



    ベネディクト修道会のモットーは「清く貧しく、欲望を抑え、神にすべてを捧げましょう(清貧・純潔・服従)」というもの。この厳しい戒律のもと、田舎で自給自足をするため、修道士たちは1日の活動時間を「お祈り」と「労働」についやした。
    従来奴隷がやるものとされていた「肉体労働」を重んじたことは、当時の西ヨーロッパ人の価値観を大きく変えることになるよ。


    10世紀にベネディクト修道会から分かれたクリュニー修道会は、教会改革運動を起こしたことで知られるね。

    しかし、教皇を輩出するようになったクリュニー修道会は「風が吹けばクリュニーに金が入る」とまで言われ、だんだんと派手な活動が問題に。

    12~13世紀になると、ベネディクト修道会を母体とするシトー修道会が、クリュニー修道院よりも「もっと質素な活動」をかかげて成立。
    ヨーロッパに生い茂っていた原生林を切りひらき、耕地を広げるプロジェクトを展開。


    この時期(いわゆる「大開墾時代」)にヨーロッパでは多くの原生林が破壊されたんだ。

    ほかに13世紀にフランチェスコ(1181頃~1226年)によるフランチェスコ修道会、


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    ジョットの絵画《アッシジのフランチェスコ》
    衣服を貧者に手渡すフランチェスコを描いている。


    ドミニコ
    (1170頃~1221年)によるドミニコ修道会は、商業と都市の活況に合わせ、さかんに町に出て群衆の前で”辻説法”をしたことで知られるよ。


    都市に出るということは食料生産ができないから、寄付にたよるしかない。お金を人々からもらう「托鉢」(たくはつ)という形で活動したことから、托鉢修道会とも呼ばれる。
    しだいに権力者にもみとめられ、国や領地を飛び越えて外交活動に従事した者もいるよ。


    学問もキリスト教に従った


    こうした中世の時代には、学問もキリスト教に合わせた形で発展していった。
    つまり学問は、キリスト教の「真実」、キリスト教にとっての「善」を探し求めるために用いられたのだ。
    『聖書』の教義を解釈するための神学が最高の学問とされたので、『聖書』に関係のない「真理」を探究するための哲学は”邪道”とされ、『聖書』の記述を疑うような自然科学の実験・観察も”神に逆らう行為”とされてしまった。

    西ヨーロッパにおけるキリスト教の”総元締め”はローマ=カトリック教会。
    そのために『聖書』の言葉であるラテン語は、西ヨーロッパ全体の国際共通語(リンガ=フランカ)となっていった。
    現在でも、たとえば動植物の学名がラテン語であるのは、ラテン語が”学問の言葉”であった名残りでもあるんだよ。

    しかし一般の人々はラテン語なんて使わない。
    イングランドでは古い時代の英語、

    フランスでは古いフランス語、

    ドイツでは古いドイツ語などなど、

    地域によって俗語が話されていたよ。

    もちろん、現代のようにひとつの国に「ひとつの国語」があるわけはない。地域によっても、身分によっても、さまざまな言葉が使われていたことが特徴だ。


    ユダヤ人に対する迫害


     古代以来、ユダヤ人はキリストを非難して十字架刑に追いやったという『新約聖書』の理解にもとづき、迫害の対象になってきた。

     中世ヨーロッパでは、ユダヤ人が農業に従事することが禁止され、そのために商業や金融業などを営む者が増えていった。
     いずれも利益や利子をうみだす仕事であることから、キリスト教徒から妬みや批判の対象となり、都市ではゲットーに押し込められるなどユダヤ人の立場はより一層低いものとなっていく。


    史料 中世イングランドにおけるユダヤ人追放(1290年)
     財務府長官および財務府裁判官へ。王(エドワード1世)は、…ウェストミンスターでの議会において、王国内のいかなるユダヤ人も、土地や地代や他の物を担保にして、今後いかなるキリスト教とに対しても、高利にて貸付を行ってはならず、商いと労働によって生計を立てるべきことを定めた。しかるに、ユダヤ人たちはその後、自らの間で悪意に満ちた工夫をこらし、高利貸しの仕様を、彼らが「謝礼金」と呼んだ、より悪しきものに変え、そうした粉飾のもとで、以前のそれの2倍に及ぶ過ちによって、王の臣民を苦しめた。そこで、王は彼らの過ちの故に、またキリストの名誉のために、ユダヤ人を不信な物たちとして、王国より立ち去らせたのである。

    歴史学研究会編『世界史史料5』一部改変(実教出版『世界史探究』)


     1215年には第4回ラテラノ公会議で、ユダヤ人の印として黄色い記章を着用することが義務付けられた。
     14世紀半ばの黒死病では、ユダヤ人が井戸に毒を入れたなどのデマが広がり、追放に発展することもあった。

     規制が強まる一方で、ユダヤ人はヘブライ語を用いた独自の文化を継承し、マイモニデス(1135〜1204)のような大学者も登場する。

     またユダヤ人はイスラーム教徒の世界においても活発な商業活動を支える役目を果たした。





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