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6.3.1 モンゴル帝国の形成 世界史の教科書を最初から最後まで

    9世紀にトルコ系のウイグルという民族の国が滅ぶと、モンゴル高原は、各地に遊牧民グループが点在し、これらをまとめあげる遊牧国家は現れなかった。

    その後、916年に、モンゴル高原東部で農業と遊牧を組み合わせていた遼(契丹(キタイ))が「皇帝」を名乗ると、モンゴル高原の遊牧民たちはいったんこれに従う。



    けれどもこの契丹は、1125年に新興勢力で農業と狩猟を組み合わせて暮らす女真人の金(きん)という国に滅ぼされる。




    すると、遊牧民グループたちに「ここでまとまらなければ、金に自分たちもやられてしまう」という危機感が広まった。

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    そんな緊迫した情勢の中、モンゴル高原東北部のモンゴル人グループの中で、急速に勢力をのばしたのが、テムジンという若者の率いるグループだ。


    圧倒的な騎馬戦術でモンゴル人グループを束ね、周辺の遊牧民グループを従えさせることに成功したテムジンは、1206年に有力者の集まる議会で「遊牧民たちの君主」に選ばれた。

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    この議会をモンゴル語で「クリルタイ」という。
    「遊牧民たちの君主」の称号は「ハン」である。

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    こうしてチンギス=ハン(在位1206〜27年)の称号を手にしたテムジンは、遊牧民グループすべてを、1000戸で1ユニットにまとめる千戸制(せんこせい)というシステムを採用。
    10進法にもとづく明快な分類によって、多数の遊牧民グループをまとめあげようとした。

    チンギス=ハンはこれにはずみをつけ、まだ従っていない周辺の騎馬遊牧民グループの征服に乗り出す。

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    まず、すでにタリム盆地に逃れ、契丹人の西遼(せいりょう)を滅ぼしていた、騎馬遊牧民ナイマン人の国を滅ぼした。


    さらに「シルクロード」(オアシスの道)と草原地帯(ステップの道)を確保しようと西に向かい、イランからイラクにかけて広大な領域を支配していたホラズム=シャー朝(1077〜1231年)を滅ぼした。



    従わないものは、冷酷に対処するのがモンゴル人の流儀。
    その存在は、西アジアや地中海周辺にまで伝わるようになっていた。

    チンギス=ハンはホラズム=シャー朝を滅ぼすと、西北インドにも侵入。


    さらに1227年には黄河上流部のチベット系の国である大夏(西夏)を滅ぼした。

    こうして短期間のうちに広大な領土を築いたチンギス=ハンだったが、遊牧民にとって「土地を支配するという観念」は薄い。



    土地を支配するというよりは、人を支配するという意味合いが強いのだ。

    明確な領域が引かれたわけではなく、水場と草場、都市や主要な交通路などを中心に、遊牧民グループの活動するゆるやかな「場のまとまり」としてとらえられていた。

    そこで、この時代の研究者の中では「国」と表現せずに、「ウルス」(人+国)とする場合もあるよ。


    チンギス=ハンが亡くなると、また議会が開催され、次のハンが選ばれた。
    オゴタイ(オゴデイ、在位1229〜41年)だ。

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    彼の獲得した草原エリア・オアシス商業都市・農耕エリアを含む領域も、モンゴル人に従った遊牧民グループやチンギス=ハンの血筋の家柄に継承されていくこととなった。

    オゴタイは、カリスマ的存在であるチンギス=ハンの後継ぎという地位を利用し、ハンの権力をさらにパワーアップ。
    「ハン」の称号を、「ハーン」(大ハーン)に変更している。
    伸ばしただけでグレードアップするのか(笑)と思うかもしれないけど、まあともかく「ハーン」にしたわけなので、オゴタイ=ハーンと呼んでおこう。うん。



    オゴタイの業績としては、中国東北部で拡大していた女真(じょしん;ジュルチン)人の金(きん;アイシン)を滅ぼし、中国北部を占領したこと。
    遊牧民に中国北部が支配されちゃうなんて、なんだか「五胡十六国」時代みたいになってきたね。
    いよいよ南宋も滅亡までのカウントダウンを迎えることになる。

    さらにモンゴル高原のカラコルムに立派な都を建設。
    農耕民の都のような固定的な建物ではなく、巨大な移動式テントが造営されたんだ。


    そして、チンギス=ハンの長男ジュチの息子バトゥ(1207〜55年)に命じて、ユーラシア大陸の草原地帯を制圧させた。

    それだけじゃない、バトゥはさらに東に進み、東ヨーロッパに侵入。ロシア人のキエフ公国を従えた上に、ポーランド王国とドイツ王国(神聖ローマ帝国)の連合軍と戦い、勝利したんだ。
    1241年に起きたこの戦いをワールシュタットの戦いという。


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    史料 フランチェスコ修道会士による同時代の記録
    …ロシアにいたバトゥは…ポーランドとハンガリーに向かって進み、その地方の境界で軍隊を分割し一万の兵士を自分の兄に委ねてポーランドへ派遣した。その地方では最初、多数の(モンゴル)兵士が、…ポーランド人指揮官により混乱させられ、戦闘で殺された。しかし、…ポーランド人は…思い上がった傲慢さのために互いに妬み合い、惨めにもタルタル(モンゴル)人により殺害されたのである。

    歴史学研究会編『世界史史料4』一部改変(実教出版『世界史探究』)




    これには当時のヨーロッパ世界もびっくり。
    バトゥはその後引き返したので、あやうく「ヨーロッパ征服」とはならなかった。
    しかし、「あいつらは一体なんなんだ!?」「キリスト教徒っていう噂もあるぞ」「イスラーム教徒を倒す“十字軍”の味方チームになってくれるかもしれない」

    ...というわけで、真相を確かめるべくその後ローマ教皇やフランス国王は、プラノ=カルピニやルブルックをカラコルムに偵察要員を派遣している。


    もしかしてもしかすると、ヨーロッパ諸国と同盟して、イスラーム勢力を“挟み撃ち”にできるかもしれないと考えたわけだ。


    さて、オゴタイ=ハーンが亡くなると、オゴタイの長男グユク=ハーン(在位1246〜48年)が即位するけど、その次はチンギス=ハンの末子トゥルイの息子モンケ=ハーン(在位1251〜59年)にハーンの位は移る。

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    モンケ=ハーンの即位に対し、オゴタイ家が不満を抱く中、モンケは自分の弟フラグに西への遠征を命じた。すると、これが大当たり。

    フラグはなんと、アラブ人のカリフの治める伝統のアッバース朝を滅ぼすことに成功したのだ。


    これにはイスラーム教徒たちもビックリ。
    エジプトのマムルーク朝の君主バイバルスは、なんとかアッバース朝を追い払うも、バトゥはイランからイランにかけての領域を支配する君主となっていった。



    このようにしてモンゴル人は、ユーラシア大陸の遊牧エリア・オアシス商業エリア・農業エリアをまたぐ「大帝国」を築き上げていったのだ。

    イラン・イラクの方面は、フラグの国(フラグ=ウルス)、またの名を「イル=ハン国」。

    黒海北岸のロシアから、カスピ海北部、アラル海北部までの方面は、バトゥの国(キプチャク=ウルス)、またの名を「キプチャク=ハン国」。

    中央アジアのタリム盆地・天山山脈一帯は、チャガタイの国(チャガタイ=ウルス)、またの名を「チャガタイ=ハン国」。
    モンゴル高原の東方は、チンギス=ハンの一族が「東方3王家」として支配。
    中国東北部は女真人、タリム盆地の東部はウイグル人に支配させた。

    「モンゴル帝国」とは、これらの領域内の国や民族が、大ハーンの下でゆるやかに連合した国家だったのだ。



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