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3-3-1-1. ムガル帝国 新科目「世界史探究」をよむ

    みんなの世界史

    下の記事の補足として、ムガル帝国に関する絵画資料をいくつか紹介しておこう。


    ジェームズ1世がジャハーンギールに謁見!?

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    ジャハーンギール(1569〜1627)に謁見する人々を描いた細密画(1620年頃)− パブリック・ドメイン


    左側には、上から順にスーフィー、オスマン帝国のスルタン、そしてイングランドのジェームズ1世までもが描かれている。もちろんジェームズ1世が直々に謁見したわけではないが、当時のパワーバランスやムガル帝国の伝えようとした世界観がよくあらわれている。

    ムガル帝国はヨーロッパ諸国の東インド会社に対し、帝国内での商業活動を許可していた。当時のインドにはポルトガルが先んじて進出しており、イングランドは後塵を拝していた。ジャハーンギールの死後、イギリス東インド会社はチェンナイ(1639年)を獲得。さらに1661年にポルトガルのカタリナ王女がイギリスのチャールズ2世と結婚する際、持参金としてボンベイ(現ムンバイ)が委譲されることになる。




    サファヴィー朝君主と抱き合うムガル皇帝


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    「ジャハーンギールの夢」(1610年代 )− パブリック・ドメイン

    ムガル帝国ではペルシア語が公用語とされ、サファヴィー朝との交流も盛んだった。


    アクバルの妻はヒンドゥー教徒?

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    ハルカー・バーイー(1542〜1623)はアンベール王国の君主バール・マルの娘。外見から、イスラム教徒ではないことがわかるだろう。
    アクバルは圧倒的多数を占める領内のヒンドゥー教徒支配層との融和策のため、ラジャスタンのヒンドゥー王の娘と、改宗させることなく結婚したのだ。他地域のイスラム国家にはみられないムガル帝国の特色だ。

    ジャハーンギールがヒンドゥーの苦行僧に謁見しているさまを描いた、次のような絵画もある。ジャハーンギールはアクバルの路線を受け継ぎ、武力を用いた改宗や牛を殺すことを禁じた。

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    17世紀の絵画。パブリック・ドメイン、https://collections.lacma.org/node/254736


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