
短編集『境界線』 -林檎-
仕事帰りだった
連日の激務のせいか
私は電車の隅で くたばっていた
気がつくと
電車は動いておらず
あたりはひどく 静かだった
終点
だろうか
…私は 帰らなければならなかった
ところが
揺らぐ視界のその隅で
私は 見つけてしまった
隣の席で眠っていたのは
赤いワンピースを着た 小さな女の子だった
声をかけたが
反応はなかった
少女の前で
私は 立ち尽くしていた
黒い風が 脳を靡いた
体は正直だった
私の額には
汗が滲んでいた
瞼の裏で
あらゆる結末を 思い描いた
車内は暗かった
きっと私は
試されていたのだろう
悪意を 感じた
密室
無人
静寂
それ故の
挑発
だが
私は 帰らなければならない
私が愛してやまない
妻のために
娘のために
息子のために
…大丈夫だ
今日はもう帰ろう
明日も仕事があるんだ
仕事が終わったら家に帰って
そうしてまた仕事に行って
そしてまた帰るんだ
愛する家族の
家族の
かぞくの
か ぞくの も とへ 。
とうに私は
ネクタイを緩めていた
一度鎖で縛ったはずの怪物が
私の中を食い荒らし
破って 出てきそうであった
清貧
純潔
潔白 を謳う
彼女の誘いを 嗅ぎつけてしまった
決して彼女に触れてはいけない
触れたら 最後だ
汗が止まらなかった
涙で視界が歪んだ
歯軋りが空を切った
ああ
麗しい肌の質感に 管を辿る温かい血液に
規則正しく響く鼓動に 整えられた柔らかい爪に
千切りたくなるほどに 艶やかな毛髪に
ぱふっと膨らんだ 真紅の唇に
芳醇な林檎の香りのする みずみずしい彼女に
私の口内は 唾液を分泌していた
果汁で溢れる彼女を
私は貪った
叫んでいたのか
受け入れていたのか
もう 死んでいたのか
そんなことは どうだってよかった
全てが終わった頃には
床も
壁も
座席も
ベトベトになっていた
だが私は最後まで
彼女を 喰いきれなかった
罪悪感ではない
動かない彼女を
私は 卑下していた
私が食べたい林檎は
もっと 青いものだ
陽が差し込む車内
齧りかけの林檎が横たわる車内で
私は ベルトを締めなおした