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小説「誰もいない森で巨木が倒れるとき、音はするのだろうか?

    あらすじ
    新潟での出来事をきっかけに、過去の記憶と向き合い始めた知花は、幼い頃に目撃した事件の真実を長年隠してきた罪と向き合う。思い出すこと自体を拒み続けてきた彼女は、やがてその記憶を受け入れ、「生き続けること」を贖罪とする決意を固める。やがて新たな生活を始めるため都内のマンションへと引っ越し、日常を取り戻しつつあった。そんな中、謎めいた存在であるマイルズと再会する。彼に導かれるように車を走らせる知花は、雨の中、見えない何かへと静かに近づいていく――。

      

    誰もいない森の巨木が倒れるとき、音はするのだろうか? 



                1

    「わ、私が… 私がここにいる… その… ちょ、直接の原因というか、理由は、プ、プールの中で… 吐いてしまったことでした…」
     
     六月に入った途端に降り始めた雨は一〇日間連続で降り続いていた。公民館に設置されている年代物の大きなエアコンは、湿気を含んだ空気をゴゥと大きな唸り声を立てて処理していたが、結露した水滴が窓ガラス一面に張り付いていた。
    話し始めたその女性が座る焦げ茶色のパイプ椅子も錆びて歪んでいる上に、座面が破れて中からは黄色いスポンジが露出し、おまけにガタガタと音を立てていた。
    『パス… します』
     誰もが、きっと今日もそう言うだろうと思っていた。
    その日、初めて話し始めたその女性は、太腿の間に挟み込んだ右手の拳を左の掌でしっかりと握りしめ、おどおどキョロキョロする姿は、まるで捨てられた子猫が箱の中で震えながら周囲を覗っているかのようだった。
    彼女は集まった人々の中でも異色の若さだった。しかし、伸びた前髪が額から目までを覆い隠していて表情は覗えず、着古した上下の灰色スウェットスタイルとかすれて消えそうな声が、この場に似つかわしい雰囲気を醸し出していた。
    『いま誰が話しているんだ?』
     彼女の声は聞き耳をたてないと聞き取れないほど弱々しく、そしてその話はたどたどしく、吃(ども)る声が参加者の耳に障った。彼らは一瞬彼女を見てもすぐに視線を元に戻した。それが彼女への配慮なのか、それとも単なる一瞥なのか、彼女はそんな視線を感じつつも俯き加減のまま声を振り絞るように話を続けた。
     
     渡辺(わたなべ)知花(ともか)の頭痛の原因を医学的に特定するのは難しいということだったが、頭痛が始まる前には決まって予兆のようなものが現れた。予兆はお腹の上に重い錘のようなものがのしかかり、同時に不快な倦怠感に包まれた。そして大きな痛みが走ると言うよりは突然訃報が届いたように気分が落ち込んだ。その予兆が始まってしばらくすると、今度はそれが頭痛に変化した。頭の中心に腫瘍か何かあるんじゃないかと思えるほど重くどんよりとした倦怠感を持った鈍痛が、頭いっぱいに膨らむような痛みだった。自宅にあった配置薬を試したが効果はなく、ドラッグストアで購入した薬もまったく効果は見られなかった。町医者にも処方箋をもらったが結果は同じだった。頭痛は彼女が高校二年生の二学期に始まったが、頭痛が始まると勉強どころではなくなった。
     ある日の夜、勉強中に襲ってきた頭痛に、気休めの市販薬を飲むために一階へと降りた。知花はキッチンにもたれて治まらない頭痛に頭を擦っていると、リビングの隅に鎮座するイタリア製ラウンドテーブルに隠れるように置かれたマスカットキャビネットが目に留まった。それは父が札幌支社から栄転する際、記念品としてもらってきたものだった。知花は頭痛の不快感から逃れようと、キャビネットが自宅に届いたときのことを無理やり思い出してみた。
     
    「まあ、あなた、これから引っ越しするのに、どうしてこんなに大きな物もらって来ちゃったの? 昔のブラウン管テレビのテレビ台の、ほら、放射状に伸びる脚にそっくりね。このキャビネットの脚。今どき、変なデザインね~」
    「おいおい、これはアンティークだよ、アンティーク」
    「仕方ないわね… それじゃあ、この大きなテーブルはここに置いていきましょうか?」
    「そうだな~ でも、知花が何て言うか…」
    「このテーブルは背丈が高いから、使いにくいのよね~ もう、いらないでしょ、こんなの」
    「だめ! このテーブルは絶対に持っていく」
     両親が結婚するタイミングで新築された札幌市の社宅には、内覧会で使用したと思われる大きなイタリア製のラウンドテーブルが放置されていた。知花は物心がついた頃から、両親が持て余していたこのラウンドテーブルにとても愛着を持っていた。
     
    そんなことを無理やり思い出しながらラウンドテーブルの下に潜り、キャビネットのフレンチ・ウィンドウを開くと、中にはウィスキーボトルが一本入っていた。ボトルの肩にはホコリが被っていて、手に取ると封が切られただけで飲まれていないボトルのラベルには『Jack Daniel's』と書かれてあった。ボトルを取り出してキャップを開けると、プ~ンと立ちのぼってきた甘く深い芳醇な匂いが頭痛を包んでくれそうな気がした。知花はウィスキーボトルを持ったまま扉を閉じると、忍び足で二階の部屋へと戻った。
    まだ一七歳の知花にとって酒を口にするのは初めてのことだった。父も母もふたりとも酒は一滴も飲めなかった。このウィスキーも会社の誰かからもらったものなのだろう。マスカットキャビネットを記念でもらいウィスキーももらったが、それごとさいたま市にあるこの社宅へと引っ越してきた。
     
     彼女は部屋に戻ると手に持ったボトルのキャップを回し、もう一度ボトルの中の匂いを嗅いでみた。フワッと立ちのぼった甘い香りに、頭痛がスーッと和らいだ。
    「…これ、すごいかも」
    トグッ…
    ボトルを口に運ぶと直接瓶に口をつけ、気をつけながらボトルの底をゆっくりと持ち上げると、中の液体が口に流れ込んだ瞬間、弾かれたような刺激が口いっぱいに広がった。カッと口の中が熱くなり、喉の奥へと流れ落ちた液体が胃の底に着くと胃が踊るように反応した。思わず咳き込んだはずみで無防備に鼻から抜け出た強烈な刺激が直接鼻腔の粘膜に付着して卒倒しそうになった。しばらくすると火の入ったエンジンのように心臓の鼓動がドキドキと速くなり、目の辺りが熱くなってきた。この間に頭痛は遥か彼方へ吹き飛んだように消え去っていた。気付け薬という言葉を耳にしたことがあったが、これこそがまさしく気付け薬だった。これがあれば頭痛など恐れることはない。
     それから頭痛のたびにウィスキーを一口飲むようになった。勉強する集中力も戻ってきた。しかし頭痛を完全に消すために必要なウィスキーの量は次第に増えていった。当初はボトルが空になるまで一ヶ月ほどかかったが、直近ではボトルが空になるまでにかかる期間は数日になっていた。そうなると効能の副作用で酔ってしまう。酔えば当然受験勉強どころではなくなった。
     
    「わ、私は、酔った頭で、中学生の時に出会った水泳のことを考えていました」
     
    小学二年生になる少し前に引っ越してきたさいたま市にはなかなか馴染めず、知花は小学生の高学年になるまで友達を作ることもなく引きこもりのような生活をしていた。中学に上がると例外なく部活動に入らなければならなかった。担任の女性教師は、知花の消極的な様子を見て彼女が顧問を務める水泳部に入部させた。知花には水泳部に入部するという思いは微塵もなく、絶対に受け入れられない選択だったが、既に入部届けの提出期限は過ぎていて、まだ締め切られていない水泳部の他に知花を受け入れてくれる部活動はなかった。家でも駄々をこねて抵抗を試みたが、担任が自宅までやってきて母を説得したことでささやかな抵抗も泡と消えた。
    顧問の教師は、一度も泳いだことのない知花にビート板を握らせてバタ足から練習を始めた。彼女は知花を強引に水泳部に入れた責任を感じていたようで、終始付きっきりで泳ぎ方を教えた。水泳は他のどんな競技とも違い意識的に呼吸しなければならないスポーツだった。水に入っている間ずっと意識して呼吸することが必要で、今までまったく使っていなかった意識的という感覚と新しい筋肉が動き始めると、知花が小学時代から持っていた暗く沈んだ情緒が次第に浮上し始めた。
    今まで外で遊んで体を動かすことなどなかった知花は、一ヶ月以上かけてようやくクロールを覚えると、今度はブレスト(平泳ぎ)、そしてバック(背泳ぎ)、最後はバッタ(バタフライ)を体得していった。泳ぎ方を覚えると泳ぐスピードも早くなった。彼女は半年間かけて四つの泳法をマスターし練習にもついて行けるようになった。
    水泳を通して、普通に元気ある中学生になった知花は、クラスメートや同じ水泳部の仲間たちと自然に会話を楽しむこともできるようになった。自宅でも明るく振る舞うようになり、楽しい三年間はあっという間に過ぎ去った。
    知花はさいたま市内にある県立高校の普通科に入学したが、そこには水泳部がなかった。水泳はプールという大きな設備が必要なので水泳部のある県立高校は珍しく、水泳部のある私立の高校に入学するには彼女の学力では難しかった。
    知花は高校二年生になった頃から、時々急に気分が落ち込むことが起き始めた。当初は気持ちの浮き沈みが生理と関係あるものと漠然と思い込んでいたが、症状が生理と一致するわけではなく、体に感じる不調を第三者に表現することが難しかったため、この症状を誰にも言えずに抱え込んでいた。
    また、授業では社会的出来事に関する意見を討論する場があり、出来事についての賛成派と反対派に分かれて各々意見を述べるのだが、人前で話すのが苦手な知花にとってそれはとても憂鬱な授業だった。教諭が出す課題は、選挙年齢の引き下げ議論や裁判員裁判の是非を討論するものから、過去に起きた事件などを、テレビや新聞以外の情報をできるだけ多く集めて発表するというものだった。
     
    「それでは次回調査発表してもらうのは、一九八八年に起きた東京埼玉連続幼女誘拐殺人事件についてです」
     
    「わ、私は、この課題を聞いた瞬間、む、胸の中で大きくドクンと心臓が鼓動する音が聞こえました。け、嫌悪感を覚え、ペンを持つ手が止まって両手の指が自然に丸まったことを覚えています…」
     
    『嫌だ』
     彼女の中にある嫌悪感が声となってはっきりと言うのが聞こえた。
     自宅に帰ってもこの宿題がまるで進まなかった。あまりにも拒絶する感覚を覚えたので今回は体調不良で宿題が出来なかったことにしようと決めた。
    教諭には体調が悪く宿題ができなかったと話したが授業は参加しなければならない。知花は自分で調べて発表することはなかったが、クラスメートが調査した事件の内容を聞かされることになった。
    教諭は聞いていて気分が良くない言葉には隠語を用いて授業を進めた。殺害という刺激の強い言葉には英語の『kill』の頭文字をとって『K』で表現することになり、教師に指名された生徒が隠語を遣いながら教壇の前に立って発表した。
    「…この事件がきっかけとなり、当時は欧米で採用されていたプロファイリングという捜査方法が初めて日本で採用されるきっかけとなったようです…」
    発表の中では死刑という言葉も、英語の『death penalty』の頭文字をとって、『DP』で表現することになった。クラスメートはインターネット上の情報や当時の週刊誌などを古本屋で手に入れてこの事件を詳細に調査し、その概要を発表した。そして誰かが小児性愛者という言葉を遣うと、教諭はすぐに黒板の前に立った。
    「この小児性愛者というのは、みんな各自で調べてほしいんだけど、これは現代に始まったものではなく、ずっと昔から確認されている。それも調べればわかる。この言葉が意味するものも、おそらくみんなが想像しているものそのとおりだ。これは英語では『pedophilia』と書いてペドフィリアと発音します。以後小児性愛者という言葉を使う場合はこの頭文字の「P」という単語を使って発表することにしましょう」
    『ペドフィリア…』
     心のなかで呟いた瞬間、急激に胃の中に錘を入れられたようになり頭上から倦怠感が降り注いだ。それが体の奥に溶け込むようになくなると今度は頭の中心から外側に向かって響き渡るような鈍くて重い頭痛が始まり、時間をかけてゆっくりと押し広げられるような痛みが頭の中に広がった。
     休み時間に保健室で頭痛薬をもらおうとしたが、保健室には飲み薬は置いてないということで仕方なくベッドで一時間休ませてもらってから教室へと戻った。
    それ以来、度々この原因不明の頭痛に悩まされるようになった。この頭痛のおかげで受験勉強にも集中力が続かないことが増えていった。
     
    「こ、これが、わ、私がお酒を飲み始めた理由です。う、生まれて初めて飲んだウィスキーの味は、き、強烈でした。そしてお酒は、わ、私の頭痛を消し去ってくれました… 最初はたった一口だったお酒も、頭痛を緩和するために必要な量が増えていきました。頭痛は不定期でしたが… お酒を飲みだしてからは、ほぼ毎日、夜に起こるようになりました…」
     
     知花は、受験に失敗して浪人生となり予備校での授業を受けていたが、夜中になると襲いかかるように始まる頭痛を和らげるために飲む酒で、毎日酔いながら中学時代に楽しんだ水泳部のことが頭から離れなくなっていた。
    そしてスイムウェアなどを購入してプールに出かけた。しかし予備校が終わったあとにプールに行けば小学生のスイミングスクールと高齢者のアクアビクス教室で遊泳レーンは二レーンしかなく、そこに大勢のスイマーがトライアスロンレースのように入り乱れていた。それにうんざりして土日の日中に行けば、ほとんどのレーンが開放されていたが、ひとつのレーンに数名ほどが入っているので二五メートル泳ぐたびに次の順番待ちに並ばざるを得ない。次第に彼女のストレスは大きくなり、夜になるとどうしたら自由に泳げるかということばかりを考えるようになっていた。そして思いついたのが予備校を休んでプールに行くことだった。酔って火照った顔で自分でも感心するほどの名案を思いついたことに顔を赤らめながら満足していた。
     気分が良くて深夜まで飲んでいた知花は、翌日予備校に行くふりをすると水泳の準備をしてプールに出かけた。予想したとおり平日の日中はレーンに空きがあり自由に泳げる環境が整っていた。知花は水に浸かるとゆっくりと腕を伸ばしながらクロールをはじめた。しかし、あまりゆっくり泳いでいれば、『ゆっくりさん』が泳ぐレーンだと思われ、ゆっくり泳ぐ人が同じレーンに入ってきてしまう。彼女は次第にスピードを上げて泳ぎ始めた。タイムロスのないきれいなクイックターンを決めながら泳いでいたとき、隣のレーンの波が知花の呼吸の邪魔をした。普段どおり顔の右半分を水面から出して口から空気を吸う瞬間、波が顔を塞いで水が肺に入った。むせ返りながら体勢を整えようとしたが咳き込んだはずみでプールの真ん中で嘔吐した。
     ピー~~~~~ッ
     監視員のホイッスルが鳴り響き、全員プールから上がるように指示された。知花もすぐにプールから上がると採暖室に連れて行かれて介抱された。機械が操作されてプールの水の循環が開始されると同時に監視員たちが目の細かい捕蝶器のような網を手に持って嘔吐物をすくい始めた。
    「ゴホン、ゴホン… ご、ごめんなさい、い、息継ぎに失敗して…」
    「大丈夫ですか? あんまり無理しないで… ん! 何だ、このニオイ! まさか、君… 酒を飲んで来たんじゃ?」
     監視員たちが数人やってきて知花のニオイを嗅ぎ始めると、介抱するように接していた彼らの態度が変わった。酒を飲んでプールの中で嘔吐したことは、プール管理者にとって由々しき問題だった。警察こそ呼ばれなかったものの、彼女はこってりと絞られた。
     知花は自宅に帰るとベッドに入って眠った。プールで起きた出来事の疲れと深夜まで酒を飲んでいたこともあり、そのままぐっすりと朝まで眠った。
    翌朝、雨音に起こされるように目覚めると、妙に静まり返っている家の様子に気づいて一階へと降りた。電気が点いたリビングのカーテンは閉められたままになっていて、ソファには両親が疲れた表情をして座り込んでいた。特に母の顔色は蒼白だった。そして、違和感を覚えた視線の先にはたくさんのウィスキーの空瓶が詰め込まれたゴミ袋が、知花のイタリア製ラウンドテーブルの上に無造作に置かれていた。
    「知花、病院へ行くんだ」
     父が知花に気づくと、唐突に突き刺すような言葉を投げた。
    昨日プールから自宅にクレームの電話が入ったようで、母がプールに謝罪に行き、そこで聞かされたのが知花の酒臭さだった。母は知花の部屋の押入れを開けて、そこに並べられていた大量の酒の空瓶を発見した。そして父と相談して知花をアルコール依存症専門病院へ入院させることに決めたのだった。知花は両親のあまりにも悲しそうな顔に、何も反論することはできなかった。
     
    病院で一連の診断結果が出ると、知花には約二ヶ月の入院とその後約二年間定期的にアルコール外来に通う治療プログラムが必要だと提示された。
    入院して数日が経った頃、治療プログラムの一環でAA(アルコホリック・アノニマス)と呼ばれるアルコール依存症の自助グループのミーティングに出席することになった。
    自助グループとは『依存症』という括りで同じ依存症の問題を抱える人々が集まり、相互理解や相互支援をするグループのことで、例えば交通事故被害者や犯罪被害者、何らかの依存症に陥っている人たちが自発的に結びつき、専門家などにその運営を任せずにあくまで当事者同士が独立してお互いを支え合うグループのことをいう。
    病院には知花と同じ時期に入院した患者が何名かいたが、知花にとってその場所は違和感しかなく、週一回のペースで行われるこの自助グループのミーティングで出席者が話すアルコール依存症のリアルすぎる話に、まったく付いていけないと思っていた。そして毎回自分の順番になると頭痛に近い倦怠感に襲われて話すのを『パス』していた。しかし、ミーティングで何も語らないことが入院を引き伸ばす可能性があると病院のカウンセラーに指摘されたことで、彼女は初めて自助グループで発言する決心をしたのだった。
     
    「…以上が、い、いま私がここにいる、り、理由です」
    「…はい、よく話してくれましたね」
     知花の左隣に座る五〇代の男性が、彼女を見て優しく慰めるように声をかけた。
    依存症の種類は薬物(NA)、ギャンブル(GA)、アルコール(AA)、ゲーム(いくつかの種類がある)、浪費(DA)、クレプトマニア‐窃盗症(KA)、摂食障害(OA)など多数あり、ぞれぞれの依存症の英語表記を頭文字として使い、その後に続くAはアノニマス、つまり参加者の匿名制を表している。
    数ある依存症の中でも日本では特にAAの自助グループが多数ある。また、オープンミーティングと記載があればどの依存症であっても、また依存症だけではなく心配事や悩みを抱えている方であれば誰でも参加が可能だ。ミーティングに参加するのに参加費用を支払う必要はないが寄付金を求められるので、支払える金額を収めればよい。
     
    入院したことで知花が訴えた頭痛はCTスキャンなどで詳細に検査されたが、頭の中に異常は検知されず、頭部以外の検査もされたが今のところ頭痛の直接的な原因は不明のままだった。しかしここで処方してもらった漢方の処方箋が思いのほか効果を発揮した。この時点で彼女はアルコールとの縁は完全に切れたと考えていた。
    知花に優しく声をかけてくれた隣に座る男性が自分に起きた出来事を語り始めた。
    「私の場合、二〇代の頃、その~ さいたま市の当時の大宮界隈で手に入れたいろいろな脱法ドラッグを使っていたんです。当然家族や友人は私の異常さに困惑していましたが、私は自分が無敵だと思っていたので、結果的には周囲を苦しませていたんです…」
    男性の声が聞こえてきたが、知花はその男性の話を聞くのを拒絶するように俯いたまま握りしめた拳を見つめていた。
    「…懲役したことで矯正プログラムが私の生活からすべての自由を奪いました。強制力で自由を奪い、その代わりに与えられた決められた時間割りの生活に従う以外なすすべはなく、私にとってそれは単なる我慢比べのようなものでした。当時は脱法ドラッグからより幻覚作用がある覚醒剤へシフトしていたので、出所後は、覚醒剤に手を出さなければいい、覚醒剤さえ手を出さなければ捕まらない、そう考えていたんです…」
     
     病院から車で連れて来られたこのミーティング会場にはオープンと記載されていて、様々な依存症の人が参加することを許可していた。知花のようにアルコール依存症以外の依存症だった人もここに参加してかつての自分の姿を発表していた。
    しかし彼女にはこの発言者たちの言葉をどうしても自分の事として受け止められず、話を聞きながら始まる頭痛に悩まされていた。昔から時々あるこの頭痛にどんな意味があるのかと思考することさえできずに、不快な症状が過ぎ去るのをじっと耐えるように待つ以外に方法はなかった。頭痛が始まれば他人の話など聞くことはできない。知花は処方箋を飲み込んで苦痛に耐えていた。
    ミーティングではひとことだけしか喋らない人も、まったく喋らない人もいた。知花もこのプログラムに参加して三回目までは一言も話さなかった。話をするのはすでに依存症から脱し、自分の体験談を発言しに来る人ばかりだった。彼女には発言者が『アルコールを飲まないことを続けましょう』と伝えようとすればするほど自分とは違うと感じていた。
     
    「私の場合は… 朝、いつもだいたい八時半に起きるのですが、すぐに冷蔵庫を開いて中にあるビールやチューハイを飲みます。朝から飲む酒はうまいと、本当にそう思っていたんです。朝食はそれ用のつまみです。適当なものをフライパンに入れて作ります。それを食べながら二缶目を開けます。その後は眠くなって二度寝しますが、起きれば寝起きの一杯を冷蔵庫の中に探します。そうしながらユーチューブや映画などを見ています。映画の途中にまた寝ちゃうんですが、そうしているうちに一八時くらいになって、また冷蔵庫の中を漁ります。酒がなくなればコンビニに出かけて買ってきます。寝るのはだいたいいつも二一時くらいですね。これが私の毎日のルーティーンでした…」
     
    「私は四〇代の主婦です。私は料理が好きで、料理を作りながら缶ビールを飲んでいました。料理というよりもつまみ作りですね。飲んでもなかなか酔わないのですが、七杯目くらいから少しいい気分になります。結局いつも十数本飲んでいました…」
     
    「私は二日酔いをアルコールで治すタイプでした。起きて二日酔いを感じる前に一杯飲んでいました。酒はもっぱらウィスキーです。自分でもびっくりしたんですが、そのうち手が震えだしたんです。ゆで卵も剥けなくなって… ずっとこんな生活を続けていたんですが、姉に連れられてここに来ました…」
     
     入院生活ではプログラムに従い毎朝のカウンセリングから始まり、アルコール依存症を描いた映画のようなものを何時間も見せられた。しかし内容などまったく頭に入らず、いつもこの場所への強い反感と、不自由なことで思い出す入院前の生活が恋しくて仕方なかった。知花はどうにかしてこの場所から逃げ出したいと考えていた。
     
     やがて入院生活が一ヶ月を経過するころに初めて面会が許可された。
    「あのね、お母さん。病院のプログラムに自助グループでのミーティングというのがあって、そこではかつてアルコール依存症だった人たちが集まって体験談を話すの。もう何度もミーティングに参加したんだけど、そこでいくつか気づいたことがあったわ。アルコール依存症の人は、アルコールで自分の過去や現状を忘れようとしていることが大半で、アルコールが抜けると現実に戻されてしまう。これが怖くてアルコールを飲み続けているの。確かにお母さんは私の押入れの中にあった酒瓶の多さにびっくりしたかもしれないけど、あのゴミ袋に入った十数本の酒瓶は、一年半で飲んだ酒の量よ。一年半よ」
    「知花、お母さんはあの時… 押入れの中を見たときは… 言葉が出なかったわ… しばらくあの場に立ち尽くしていた…」
    「ご、ごめんなさい。でも、私は単に頭痛薬が効かないからその代用でお酒を飲んでいただけなの。それが原因で、あの日プールで吐いたんだけど…」
    「私たちも病院で何時間もカウンセリングを受けたのよ。あなたが入院して一週間ここに通って毎回三時間のケアカンファレンスを受け続けたのよ。あなたはアルコール依存症だって、お父さんが言ったとき、私は信じてなかった。でもインターネットで調べると、私も少しだけその可能性があると思った。それでも病院で検査結果が出るまで、私はあなたがアルコール依存症なんかじゃないと、本当に祈っていたけど… 検査結果が出て、お医者さんがはっきりそう言ったし… 私も今ではそれを受け入れているわ。だから…」
    「でも…」
    「それから、新しく処方してもらった頭痛薬がとても良く効くって聞いたけど、良かったじゃない。これからは頭痛に苦しまないで済むんだから」
    「…ウン…」
     両親に訴えたい言葉がうまく出てこなかった。何を話してもアルコール依存症の治療という方向になった。酒を一滴も飲めない両親にとって、一般の人が飲む酒の量など計算できないことだった。知花はそれ以上両親に話す言葉が見つからず、大人しく病院の玄関の内側から両親に手を振った。
     
     病院の日課はいつものようにカウンセリングから始まり血液検査やその日の治療プログラムが開始された。知花は先日自助グループで話せたことがきっかけで、主治医にも積極的に話せるようになっていた。主治医も知花が明るくなったことや積極性が出てきたことを高く評価していた。
    「あの~ 先生、少し話してもいいですか?」
    「いいよ、どうぞ」
    「母にも話したんですが、先日私、自助グループのミーティングで初めて話したんです」
    「うん、報告は受けているよ。すごいじゃないか」
    「そこでひとつ気になることがあって」
    「何? 何が気になった?」
    「実は、私… 他の人たちと少しケースが違うんじゃないかって、そう思ったんです」
    「それは~ 皆それぞれケースは違うし、ん~ どうだろう… 君の言うケースって?」
    「うまく話せないですが、その~ 私の場合… 私がお酒を飲んだのは頭痛が原因だったんです。高校の勉強や大学受験の勉強にも、頭痛になるとまったく集中できなくなって… 市販薬じゃ全然効かなかったので、ある日お酒を飲んだら頭痛が消えたんです。だから…」
    「それだよ、それ。それが君の場合の、つまり君のケースなんだよ。他の人とは違うあなたのケースだ。まずそこにたどり着かなければ、この病院からは卒業できないよ」
    「実は私、もうここを卒業したいんです。一ヶ月以上も入院していて、家族の負担を考えると…」
    「家族の気持ちを考えれば、君がしっかりと治療プログラムを終えて、両親を安心させることなんじゃないのかな? 君の気持ちはわからないこともないけど、今この時期は、しっかりとプログラムに取り組んで、治療するしかないんだよ。それに、退院しても、二年から三年は外来に通うことになるんだからね」
    「本当に… そんなに通うんですか?」
    「通常、それくらい通って、アルコール依存症を治していくんだよ」
     医者の言葉を聞いた時、知花の頭に自助グループで話していた方々の顔が浮かんできた。二〇年や三〇年ずっと依存症だった人が依存症から抜け出すためには相応の時間をかけて治療しなければならないと実感する事ができたが、入院して学習したことで、自分がアルコール依存症ではないという思いは確信になっていた。医師にその事を話したが取り合ってもらえず、面会に来てくれた両親も知花はアルコール依存症だと信じていた。
     
    知花は受付に行くと現金を持っていないことを理由に自宅に電話を繋いでもらい、母と話をした。自宅にある知花の読みかけの本と手帳や財布を持ってきてほしいと言って、面接に来てくれるように頼み込んだ。その週の土曜日、両親が再び面会に訪れた。
     彼女は両親との会話の中で、早々に退院させてもらうため受験勉強の再開がしたいなど理由をつけながら訴えかえるように話したが、両親は怪訝そうに表情を曇らせて彼女の話を聞く振りをしていただけだった。
    「あのね、私、もう入院する必要がないような気がしているの。だって、どう見ても一緒にミーティングしている人と私は違うもの」
    「でも現に医者が知花のケースもアルコール依存症のケースだって。そう言っただろう?」
    「それはそうだけど、でも私、お酒を飲んでいた時、どうして二人とも私がお酒を飲んでいたことに気付かなかったの? ミーティングで話す人はみんな、家族が止めてもお酒を隠してもだめだったって、そう話しているわ。でも私はそうじゃないでしょ? あの自助グループのミーティングで話せたことで私の中にあった弱々しい気分が晴れたのは確かだけど… でもそれからは話を聞くのが苦痛になったの。それは多分、私はみんなとは違うって気づいたからだと思う。それに、そんなところでこれ以上時間を使いたくないの。だからお願い。もうここから出してほしいの」
     
     知花の再三に渡る懇願も虚しく、医者も両親も知花の言い分に耳を貸すことはなかった。彼女はがっくりと肩を落として病室へと戻った。手には両親が持ってきてくれた本や手帳や財布の入ったデイバッグが握られていた。財布を開けて中を覗くと二万五千円が入っていた。

              2
     
     翌日の日曜日の午後、知花はいつもの着古したスウェット姿でデイバッグを手にぶら下げてロビーに立っていた。
    「あら渡辺さん、こんなところで何しているの?」
    「両親がもうすぐ面会に来る予定なんですが、早く受け取りたいものがあって…」
     知花はロビーを行き来する看護師にそう聞かれるたびに同じセリフを繰り返した。
     病院の外から内側に入る自動ドアは一般的に自動反応したが、内側から外に出るには受付のボタン操作が必要だった。面会に訪れるほとんどの方は自家用車でやってきた。何人もの面会人が病院の中に入ってきても彼女はロビーに突っ立っていた。やがて一台のタクシーがスロープを上ってやって来ると、彼女はバッグを握りしめた。そして来訪者が自動ドアの前に立ったとき、猛ダッシュで玄関を掛け抜けると、そのままスロープを下っていくタクシーを追いかけた。
     ドンドンドン
     ボディを叩かれたタクシーの運転主は驚いて急ブレーキをかけると、音の鳴った左後方に顔を向けた。
    「すいませ~ん。乗せてくださ~い」
     知花はタクシーに乗り込むと運転席の後ろ側に素早く移動して身をかがめながら言った。
    「東京の中野方面に向かって出してください。すぐに行き先を言います」
     彼女は持ってきたバッグを広げると後部座席のフロアにかがみ込んで着替えを始めた。スウェットを脱いで入院するときに穿いていたデニムパンツ、そしてストライプの入ったグリーンのコットンシャツを素早く着た。そしてバッグの底からコンバースのスニーカーを取り出すと、脱いだスウェットと内履きを丸めてバッグの中にねじ込んだ。そして一息つきながら後部座席に座り直し、手帳を捲りながら住所録を開いた。
    「すいません、運転手さん、今から言う場所までお願いしたいんですが、場所は中野区…」
     
     ピンポ~ン
    「あらまあ、知花ちゃんじゃないの…」
     玄関から出てきた祖母は目を丸くして驚いた。
    「来るなら電話のひとつもかけてくれたら、あんたの好きなもの作って待っていたのよ~ 今日は買い物には行かなかったし~ そうだわ、豚肉があるからそれで生姜焼きでも作りましょうかね」
     祖母は急な孫娘の訪問に驚きつつも、理由などは訊かずに暖かく出迎えてくれた。知花はリビングの隅にデイバッグを置くとダイニングに立つ祖母を後ろからぼんやりと眺めながめていた。
    「キャベツの千切り、やったことある?」
     祖母は振り向いてそう言うとボウルの中に水を入れた。キャベツの軸を上に向けて一番外側を巻いている葉の芯に包丁を入れてキャベツの葉を二枚外すと、芯を取り除くように葉を半分にして、四枚一緒にくるくると丸めて包丁で細く刻んだ。それをボウルの中に入れると、今度は知花をまな板の前に立たせた。知花は祖母の手順通りにもう一枚の葉を千切りにしてボウルの中に入れた。
    「味噌汁の具は何がいいかしら?」
    「何でもいいわ。おまかせします」
     彼女の返事を聞いてニコッと笑った祖母は、冷蔵庫から薄揚げと長ねぎを取り出すと適当な大きさに切りそろえた。そして雪平鍋に水を入れてコンロに火を点けると、沸騰する頃合いを見てだしの素を振った。
    「今は便利ね~ これ、でもほんとに美味しいのよね~」
     そう笑いながら薄揚げを鍋の中に放って味噌を溶かし入れた。
    「あんたの家ではどんな味噌を使っているの? 赤? それとも白?」
     知花は祖母の質問に腕を組んで考え始めた。
    「いやだ、あんた、なに真剣に考え込んでいるのさ?」
    「だって、家のお味噌汁が赤か白かなんて、思い出せなくて」
    「アハハハ… そんなのどっちでもいいわ。でも覚えておきなさい、味噌は酒精の入っていないのを買いなさいな」
     祖母は呆れたように笑うと鍋の中にネギを入れて火を止めた。そしてスーパーの豚薄切り肉の入ったプラスチックトレーのラップを外し、上から生姜をすり下してその上からみりんと醤油を垂らした。
    「でもあんたも大きくなったわね~ お父さんと同じくらいになったんじゃない?」
    「…ウン、そうかもしれない」
     口籠るように答えると電子ジャーからご飯の炊けたことを知らせる電子音が鳴った。祖母は待ち構えていたかのようにしゃもじを水で湿らせて、炊きあがったばかりのご飯をかき混ぜた。そしてフライパンをコンロに乗せて火を点けると、サラダ油を垂らしてプラスチックトレーの中のものを一気にプライパンの中に投入した。ジュワーッという肉が焼ける音と生姜と醤油の焦げる匂いが立ち込めてきた。祖母はそのまま二、三分ほどで生姜焼きを完成させると、お皿に付け合わせておいた千切りキャベツの隣に生姜焼きを盛り付けた。
     
    「さあ、今日はこれしかないけど、いただきましょうかねえ」
    知花は小さな声で「いただきます」と言って手を合わせて箸を持ち、味噌汁の椀を手にとって口をつけると、味噌のいい香りと薄揚げの風味、そして火が通りきっていないネギのシャキッとしたアクセントにホッとした癒しを感じた。次にご飯茶碗を手に持ち、生姜焼きを一度ご飯に乗せてから肉でご飯を包んで一緒に口の中に入れると、自然に笑みがこぼれてきた。祖母の切り揃えられた千切りキャベツの中に混ざった知花の切った太めのキャベツが、見た目にも口の中でも存在感を主張した。
    『こんなにおいしいご飯を食べたのはいつぶりだろう?』
     そう思った瞬間、目から涙がこぼれ落ちた。それでも食べる手を止めることなくしばらく動かしていた。しかし次第に唇が震えだすと食事を噛むことができなくなり、とうとう声を上げて泣きはじめた。
    「おやおや、いったいどうしたの?」
    「おばあちゃん、あのね、わたし、きょう、病院から逃げてきたの… わたし、ずっと、ずう~っと一ヶ月以上も入院させられていたの」
    「えっ? 入院って… いったいどうして? 病気にでもなったのかい?」
     知花は手に持った茶碗を置くと首を振った。そして泣きながら、頭痛のことで始まった飲酒とたくさんの空瓶を見た両親がアルコール依存症だと信じたことで入院させられていたことを祖母に打ち明けた。
    「…だからわたしは、アルコール依存症なんかじゃないの~ ねえ、おばあちゃん、信じてよ~」
     祖母は椅子から腰を上げて知花の傍に立ち、彼女の頭と背中を擦るように撫でた。
    「そうかい、そうかい。そんなことがあったんだね~ 大丈夫、大丈夫。しばらくここにいるといいよ。あんたを病院になんか戻さないからね。そうだ、明日お洋服でも買いに出かけようか。ついでにその髪の毛もきれいにしましょうかね」
     
     知花は二階の一部屋を借りてそこでしばらく生活させてもらうことになった。祖母は、彼女の不安定な精神状態を感じたようで、彼女から事情を聞いたあとすぐに両親に連絡してしばらく一緒に生活することを伝えた。
    翌日、さいたま市の自宅から知花の衣類やスマートフォン、そして勉強道具一式が段ボール箱に入れられて送られてきた。
     
     祖母はかつて保険会社の外交員として働き祖父と出会い結婚、五人の子供を設けた。祖父は結婚後のバブル期に起業して求人情報誌を作る会社を経営していたが、不慮の事故で亡くなった。その後祖母が会社を引き継いだが事業はライバル会社に押されて業績が落ち込んだ。そこで一大決心した祖母は、事業内容を大きく変更した。持っていた知識を活かし、社員を再教育して法人向けの資産形成をアドバイスするコンサルタント会社に切り替えた。やがて事業を法人から個人へと拡大し、全国に数か所の拠点を作った。会社が軌道に乗り始めると子どもたち五人全員を集めて、リニューアルした『株式会社ワタナベ・ワークス』に入社させた。末っ子の父もまた彼女の下で知識や資格を取得した。昨年祖母から経営を引き継いだ長男が現在の代表取締役となっていた。
     
    「ねえ、知花ちゃん。あんたは将来自分が何をしたいのか、そんなこと、端然(ちゃん)と考えているかしら?」
     祖母は質問に答えられないままでいる知花を見ると、彼女がダンボールの中身を整理するのを待ちながらお茶の準備を始めた。そしてダンボールの中身を部屋の中に入れて整理を終えると祖母の待つダイニングへとやってきた。
    「知花ちゃん、あんたの両親とも少し話しをして、あんたを見ていて思ったんだけど、あんたには少し自分の見識を広げるための勉強が必要だと思うの。大学へ行くための予備校とは別にもっと積極的に自分から動く必要があるわ。大学へ行く手段としての勉強っていうのは、実はとても偏っているの。一つのことを考えるにしても、多方面から見る事が必要だわ。そしてあんたにはそれができる。特にこれからの時代は今までとは違った視点でものを考えることが必要なことよ。でもそれができるには人と同じことをしていてはダメ。人と同じ一方方向でしか物事を見られないようでは成長できないわ」
     知花は祖母の話がうまく理解できず、祖母の淹れてくれたコーヒーに無言で口をつけた。
    「あんたが受験に失敗した大日女学院大学だけど、そこに行きたいと思った理由は何?」
    「高校の先生と、一緒に協議して、両親もそこがいいと言ってくれたから…」
    「なるほど。これはあたしを信じて聞いてほしいんだけど、もっとランクを落としても、あんたの将来に影響することは何もないって思うわ。それよりも、大学で何をしたいのかという事の方がずっと大事よ。あんたみたいな浪人生は毎年何人いると思っているの?」
    「…さあ、考えたこともないけど…」
    「フフフ… 一四万人よ。みんな同じ事を考えてみんな同じ行動をしているのよ。ちょっと想像してみなよ、なんか変じゃない? みんなそうするもんだって、思い込んじゃっているのよ。就職活動にしても同じ。あんたたちが商品なのに、どうしてみんな同じ格好しているのかしら? もしも世の中のチョコレートのパッケージかみんな同じだったら、裏に書いてあることを読まなきゃ何もわからないなんておかしいと思わない? これからは、その考え方の集団から少し離れて物事を考えてみない?」
     知花は相変わらず祖母の話す内容に頭が追いつかない様子で、何度も座り直すような落ち着きのない仕草をしていた。
    「じゃあ、あたしから具体的な提案を言うわね」
     祖母は子供がクイズを出すようにニコニコしながら話を繋げていった。
    「予備校は週一回で十分です。志望校も見直していいわ。それで空いた時間で自動車教習所に通って自動車の運転免許を取りなさい。行動範囲が広がれば視野も広がる。私がいいところを紹介するから、そこなら最短で二〇日間で卒業できるわ。でもこうして急に言われてもピンとこないだろうから、今度の土曜日、経済団体のパーティがあるんだけど、そこにその界隈では有名な歴史作家が講演に来ることになっているから、あんたも来なさい。面白い話が聞けるかもしれないよ。きっといい刺激になるわ。自宅からあんたのスーツを送ってもらうように言っておくわね」
     
     知花は祖母に連れられて都営三田線の御成門駅の側に建つ大きなホテルにやってきた。そこにはパリッとしたスーツを身に着けたビジネスマンが大勢集まっていて、祖母は受付を済ませると講演会場へ進んだ。パーティなのに会場には料理などはなく、一面に並べられた椅子には糊の利いた真っ白のチェアカバーが掛けてあった。五〇〇脚はあると思われる椅子には既に三〇〇人程度のビジネスマンが腰掛けていた。知花は祖母の後について前から五列目の席に腰かけた。
    「おばあちゃん、パーティなのにどうしてこんな感じで椅子が並んでいるの?」
    「ハハハ、今からここで少しだけ硬い話があって、その後で講演会が始まるのよ。それが終われば、別会場に移動してパーティが始まるわ」
    「移動するんだ」
    「そう、でも実際パーティ会場に移動する人はこの中の三分の一以下ね」
    「どうして?」
    「経済団体はその組織力とお金で通常では呼べないような人をお招きするの。だから関係者には~ 例えばあんたのような人が『ぜひ話を聞きたい』と言って付いて来るの。それはもちろん大歓迎だけど、パーティは主催者側のみで行われるのよ」
    「主催者のみ?」
    「そう」
    「じゃあ、どうしておばあちゃんはパーティに参加しないの?」
    「私はもう第一線を退いたからね。私の代わりに祐太郎が出席しているはずだけど、この中で探すのは大変ね」
     
     講演会が始まると知花は話の面白さに釘付けになった。メモするノートを一枚捲り、また一枚捲った。ほとんどの人が夢中になって話を聞いていたが、彼女のように真剣にメモをとる人は少ない。祖母は彼女の真剣なようすに微笑みながら講演者の興味深い話に耳を傾けていた。
     
    講演会が終わり二人は会場を出てロビーまで降りると、ラウンジに入ってコーヒーを注文した。
    「何を書いているんだい?」
    「さっき聞いたことをもう一度メモを見ながら思い出して、メモに追記しているの」
    「ずいぶん真面目な聴講者だわね。そんなにあんたの興味を惹きつけたのは何だったの?」
    「ん~、正直言うと…、あの話は面白かったけれど、でも、自分が今後取り組みたい何かのヒントにはならなかったわ」
    「それは残念だったわね、ハハハ。そう簡単に、自分のやりたいことには巡り合わないか」
    「でもこうして書くことで記憶にインプットされて、知識が蓄積されれば… これぞ、というものに出会ったときに… 動きやすくなるのかな~ なんて… あ~ でもなんだか雲をつかむよう… 自信なくなってきちゃったな~」
    「なんだい、一回でギブアップするのかい?」
     知花は祖母の顔を睨むとメモを続けた。祖母は運ばれてきたコーヒーを啜りながらホテルの広いロビーラウンジのシックで落ち着いた雰囲気を味わっていた。知花はノートに書いたメモを一通り見直すと、祖母に買ってもらった黄色のなめし革のトートバッグにノートを仕舞い、ようやくコーヒーに口をつけた。
    「もう冷めてしまっているでしょ、取り替えてもらいなよ」
     祖母がウェイターに視線を送るとすぐにウェイターがやってきて知花のコーヒーを取り替えてくれた。
    「あっちっ」
     交換してもらったコーヒーの熱さに思わず顔をしかめると祖母が笑った。
    「いやね~ そんなに熱かった?」
     祖母は知花の様子を見て、カップに三分の一のコーヒーを残したままお代わりを注いでもらった。
    「経済団体の講演会では刺激のある話がウケるのよ。出席者の多くが社長や取締役で、当然最先端の情報を持っているからありきたりの話じゃ面白くない。そうかと言って政治の話みたいなことを聞かされてもしらけるだけでしょ。今回のように、歴史的にまったく非常識な話を取り上げ、講演者が主張する根拠を示してしっかりしたロジックで話してくれたから、説得力があったわね。『面白い、これは本当かもしれない』ってね。でも、あの話があんたの将来に繋がるかどうかって言われると、確かに、そうなるとは思えないわね。フフフ…」
    「そうね、基本的に、あの歴史作家の話したことに興味は惹かれたけれど、だからあの話が自分の今後の役に立つとは思えないわね」
    「でも、役に立つとか立たないって一刀両断にしては考え方に偏りができてしまうわよ」
     祖母はそう言うとコーヒーカップを口に運んだ。
    「ねえ知花ちゃん、あたしの方からひとつ宿題を出していい?」
    「なに? おばあちゃん」
    「あの歴史作家が話した明治天皇入れ替え説というとんでもない説は、最初みんな奇異の目をして聞いていたけども、いくつかの証拠や史実に残る事実関係と総理大臣が誕生した理由、そして最初の東京オリンピックのときにした宮内庁の対応を説明されたときには、もうみんな真剣な目で話を聞いていたわよね? さっきも話したように、話そのものの面白さもあるけれど彼の話し方は営業にも応用が利く。嘘のようなキャッチコピーで集客して、論理的な説明で顧客の心をつかむ。つまり今までの商品やサービスの持っていたイメージや常識をひっくり返すのよ。この講演を聞いたビジネスマンが、商品を販売したりサービスを提供したりするために必要なプロセスやキャッチコピーをあの歴史作家の話のロジックから考えつくことができれば、相当価値の高い講演だったということになるわ。その意味では、今回の話の内容はともかく、ビジネスマンたちにとってはとても勉強になったでしょうね」
    「おばあちゃん、そんなふうに講演を聞いていたの?」
    「驚いた? そこで宿題です。彼の講演を聞いてあたしがあたしの立場で話を受け取ったように、あんたもあの講演から自分が参考にできることは何か、考えてみて」
     
     部屋へ戻った知花はさっそく祖母からの宿題に取り掛かった。トートバッグからノートを取り出すと講演会のメモを読み始めた。
    「講演会場にいたどこかの会社の社長たちはあの話を聞いて自分たちの仕事に結びつけて考えていたのか… 同じことを私の立場から再度考察して学んだことを報告しろ… ふーっ… もしあの話が本当なら日本はひっくり返るだろうな~ 誰も受け入れられないのは当然だ。だから今のところはあの人の勝手な意見だ… しかし、点と点をつなぐと… それにあの人『ここでは見せることのできない写真がこの本に載っています』とも話していたな… 確かに興味はあるけど、それが私とどんな関係があるんだろう…」
     知花はぶつぶつと呟きながらノートを読んで講演会の様子を思い出していた。
    『…坂本龍馬という人物は武士の階級でも貧しく、禄(ろく)も与えられなかった。禄とは給与のことで、つまり今で言えば彼はニートです。その誰にも知られていない一人のニートが片田舎の高知から東京にやってきて、いきなり自民党の党首と掛け合って、また公明党の党首とも掛け合ってこの二つの政党をひとつにしたなんてことが起こりうるでしょうか?…』
    「…おばあちゃんが言ったことと照らし合わせて考えると… 主流となる説が存在し、それとはまったく違う説が現れる… どっちが正しいかは、おそらく民間でできるレベルの調査じゃ無理… でも… ん~ そうか! 今まで疑いもせずに信じ切っていた歴史にまったく違った説が登場する。本当のところはどうなのかなんて、実際には誰にもわかるはずはないんじゃないかな? つまり、ニュースでも新聞でも、鵜呑みにはできないという事だわ! 高校の授業で習ったけど、歴史とは勝者の歴史よ。黒く塗りつぶしている箇所も、なかったことを付け加えることも多々あったはず。少し考えればわかることだ。その黒い部分が出てきたからと言って驚くことはないのかもしれない。そうだ、どんな話でも鵜呑みにしないこと。そして一度立ち止まって考えてみることがあの講演で学んだことだわ」
     
    「なるほど~ 知花の学んだことがこれね」
     祖母はノートに書いた内容を確認すると満足そうな笑顔を浮かべながら掛けていた老眼鏡を外した。
    「なるほど、悪くはないわね。つまり講演会を聞いたことは無駄ではなかったということね。インターネットで調べるといろいろな講演会の情報が載っているよ。知花も自分で調べて参加してみればいいわ。意識的に選択することは自分が何を求めているかわかる手がかりになる。詰め込み式の勉強では何も選べないからね。それから、智則(とものり)から毎月仕送りがくることになったわ。でもそのお金、自分のために使うのよ。生活費をあたしに払おうなんて考えなくていいからね」
     知花は祖母から『悪くない』という評価をもらった。頂いた評価は微妙だったが、受験勉強の合間に最先端の話しを聞きに出かけるのは面白いと思った。インターネットで調べてみると全国各地で開催されている様々な講演会があった。
     
     数日後の朝八時過ぎ、知花はJR中野駅から総武線に乗って飯田橋駅で東京メトロ有楽町線に乗り換えると麹町駅の近くにある会場までやってきた。
     彼女が選んだ講演会は、定期的に開催されているビジネススクールのような形式をとっていて、毎回自由に参加できるものだった。ホームページには『アメリカ人講師マイルズ・ケリーによる日本人への提言』と記載されていた。
     
    「このビルの五階か」
    麹町の一角にある古いビルの一室が講義会場だった。会場となっている五階はパティションを外すことでフロア全部がひとつの会場として使用可能な造りになっていて、入り口には会議用テーブルが置かれ、A4版のコピー用紙に「受付」とあり、その受付にはスタッフの男性が一人座っていた。
    「き、今日の講義は、ご、合計四コマあります。各講義は二千円で、会場の中にいるスタッフに受講券を渡してください。し、失礼ですが、今回初めてでしょうか?」
    「あぁ、は、はい」
    「そ、それではここに、お名前とメールアドレスを記載してください。えーっと、今回は最初の講義のみ受講されますか?」
    「と、とりあえずは、そ、そうさせてください」
     受付の男性の緊張した話し方が感染(うつ)ってしまいそうで、知花は苦手を感じたときに出る吃った話し方をしてしまった。人前では出したくない癖が出ると、なんとも言えない気まずさを覚えた。
    会場に入ると中にいたスタッフに受講券を渡して奥へと進んだ。受講生が座る椅子はスタッキング収納ができる鮮やかなイエローのミーティングチェアで、それが半円状に三〇脚ほど並べられていた。会場の中心にはぽっかりとした空間が作られており、その奥には演台とデスクとその上にラップトップが開いた状態で置かれていた。演台の左脇にはホワイトボード、そして右側には五〇インチほどある大型モニターが天井から吊るしてあった。
    講義の五分前になるとスタッフが機材のチェックのために会場にはいってきた。その後を追うようにこのスクールの講師と思しきがっちりとした体つきの白人男性が現れた。
    白人男性はラップトップの資料をモニターに映し出す設定を終えると会場内をウロウロする受講者やスタッフの状況を確認するように見渡していた。その表情は事務的かつ無表情で、神経質な緊張感が漂っていた。
     
    「皆さん、おはようございます。さあ本日最初の講義ですが、おっと、何人か初めての方もいらっしゃいますから、自己紹介します。まず私の名前はマイルズ・ケリーです。アメリカ合衆国からやってきました。私は外人として、外人の目から日本という国を一五、六年見てきました。日本は、他の国と違い、独特の素晴らしい文化を持っています。その一方で、日本人ほど英語が喋れない民族もなかなかいません。そこで私は、ひとりの、一般的な外人として、外人が日本をどう見ているのか、そして、日本や日本人に対して、もっと世界の水準で物事を考えてほしいと、そのいくつか例を挙げて皆様にご紹介しながら、そして私と一緒に考えましょうということで、このようなスクールを開催しています。月一回開催しますこのマイルズ・スクールの一日の講義は四コマ、それぞれ一時間二〇分です。テーマは事前にお知らせしますが、直前に変更する場合もございます。さて今日の最初の講義ですが、今日の講義のテーマ、高田さん。今回の講義のテーマは何ですか?」
    「え~っと、確か…」
     不意に指名された常連と思しき参加者が慌てながらバッグから資料を取り出した。
    「え~っと…、今回のテーマは『思考のトレーニング』です」
     参加者の慌てふためく様子をニヤニヤと見ていたマイルズは、演台へ進むと五〇インチモニターにラップトップの画面を投影させた。
    「はい、そのとおりです。今日のテーマは『思考のトレーニング』です」
     マイルズはラップトップを操作して、思考のトレーニングの講義内容に関する構成図を映し出した。構成図はマインドマップのようになっていて、メインテーマとそれに繋がる提案の抽出、そして提案の中で何を話すかという詳細な項目が英語で記載されていた。
    「さて皆さん、皆さんの学校ではいったい何を教えてくれますか? 小学校、中学校、高校、大学と、皆さんたくさん、た~くさん勉強してきたと思いますが、皆さんはそこでいったい何を勉強してきましたか?」
     ノートにメモを書き始めた知花の手が止まった。
    『何を勉強した? 何って、何? どういう意味?』
     マイルズがニタニタと笑いながら演台から降りてくると受講生たちの前にやってきた。演台と受講生の座る間に妙な空間が取ってあるが、これはマイルズが動き回れるように作られたスペースのようだった。歩きながら喋り、考え、体を使ってパフォーマンスするのは欧米人たちの特徴だ。日本語を駆使して動き回るマイルズも外国人特有の自然体で違和感はなかったが、流暢な日本語の中に日本人的な曖昧な表現が混ざると、彼のニュアンスをどのように解釈すればいいのか戸惑いを感じた。
    「誰かわかる人?」
     マイルズは受講者のすぐ手前まで来て誰かに答えてくれとジェスチャーしたものの、この一風変わった聞き慣れない問いかけに誰もが戸惑っていた。
    「難しい? 難しいかな? そうね、これを答えられたらもうこの講義、いらないけどね。それでは答えを言います。それは、特に日本の学校では、小学校から大学まで、生徒たちに、単に情報を与えるだけで、『物事を考えさせる』ということはほとんど教えないんです…」
     
     マイルズの一時間二〇分の講義はあっという間に終了した。知花はトイレに行ってから次の講義の受講料を支払うつもりでいたが、席を立ったときしばらく起きていなかったあの頭痛が始まる予兆が現れた。彼女は急いでトイレに駆け込むと胃に重くのしかかる錘の感覚と全身を襲う倦怠感に必死になって堪えた。そしてあの頭痛が襲ってきた。深い悲しみの中に落とされそうになる不快さを払拭するために急いで処方箋を飲み込んだ。以前頼っていたアルコールには即効性があったが、頭痛薬は効果が出るまで少し時間が必要だった。彼女はしばらくの間トイレに蹲りながら処方箋の効果を待った。
     頭痛は数分で収まったが、動けるようになるまでしばらく時間がかかった。
    トイレから出るとマイルズの講義は既に始まっており、受付にもスタッフはいなかった。彼女は仕方なくエレベータに乗って一階まで降りると、そこにあった喫茶店でメモを追記することにした。三コマ目は一三時三〇分から始まるので、それまで時間を有効利用することにした。
     喫茶店の外壁はビルの色と同じく黒が色褪せたような濃いねずみ色をしており色気も可愛さもなかったが、ドアを開けて中に入れば、内壁と天井は木を張り合わせたデザインになっていて外観から想像するイメージとはまるで異なっていた。出入り口の壁には手作り感のある本棚が天井まで一面に組み上げられていて、本のほかにはオーナーのコレクションだと思われる貝や魚の化石や雑貨などが並べられていた。テーブル席のほとんどは二人がけで、外が見える窓ガラスの奥の席はすべてカウンター席になっていた。
     知花は入り口に一番近いテーブル席に腰掛け、トートバッグからA罫ノートと淡い水彩画のような花模様が描かれたペンケースを取り出した。
    「お決まりですか?」
    「コーヒーを」
    「種類は…?」
     慌ててメニューを見ながらたくさんある珈琲の種類の中から「アメリカン」を注文した。ちらっと見えた『ランチメニュー』には『日替わりランチ』しか書かれていなかった。知花はメニューを戻すとノートを開いてマイルズの講義内容の記憶をたどり始めた。
     
     日本人も旅行で諸外国に訪れればそこの風土や文化の違いや面白さに気づくが、マイルズも同じで日本に来て日本の特殊性に気づき、日本人に言いたいことがたくさんあると話していた。彼の最初の言葉が印象的だった。
    『日本では、小学校から大学まで物事を考えるということを教えないですね~。そして、物事を理解するためには、それだけを理解してもあまり役には立ちません。学問でも、ひとつの分野だけを極めようとしても、あまり意味がないんです…』
     この言葉だけではピンとくるものがなかったが、次に続く例を挙げられたとき、日本人がどれだけ一方方向の教育のみを受け続けてきたのかがわかった気がした。知花はマイルズが話した言葉を思い出しながら自分の言葉に置き換えてメモの追記作業を開始した。
     
     それはオーストラリアの小学校の授業の話だった。教師が生徒たちに質問した。
    『あなた方に毎日五ドルあげます。この提案に賛成の人は手を上げて』
     当然クラスの子供達全員が手を上げた。そこで教師は生徒たちに再確認した。
    『先生の提案に本当に賛成できるのかどうか、明日もう一度聞きますので、本当にそれでいいのか明日までにもう一度考えてきてください』
     これが小学生に対する教師の質問だった。マイルズは彼の講義を聞く私たちに訪ねた。
    『翌日、小学生たちは先生の提案にどう答えたでしょうか?』
     講義の参加者の中で誰ひとりマイルズの質問に回答した人はいなかった。
    彼の話によると、小学生たちは先生からの提案を一晩自分で考えた。学校で毎日五ドルもらえることに対して、それがどのように自分の生活に変化を起こすのかを自分の頭で考えた。男子の半分以上は『毎日学校で五ドルもらうことで金遣いが荒くなり、それを見た不良たちが金をせびりに来る。毎日五ドルもらうので、毎日絡まれることになる。絶対嫌だ。だから僕はいらない』
     またその他の多くの生徒は『そのお金を一人ひとりに配らないで隣町の恵まれない人が集まっている施設に寄付すればいい』と答えた。結局先生の出した提案に、翌日賛成と回答した生徒は誰もいなかった。
    『これは自分で物事を考えて出した答えですね。自分で物事を考えたから答えが出た。あるひとつの案、その案の良し悪し、つまりプラスの面、そしてマイナスの面、五ドルもらうメリットとデメリットの両方を考えて、自分はこう思うという意見が生まれる。そしてそもそも、この五ドルあげるという発想があって初めてこのような結果が生まれたのです』
     
     とても印象的な話だった。マイルズは『できるだけ客観的に考えること。あることに対する意見や案に対し、このようにプラスマイナスの両局面を考えた上でどう思うのかを漠然と思うのではなく、自分自身で考えてその答えを明確にすることが日本人には必要だ』と話した。
     ノートのメモに追記した知花は、ノートを広げたままカップを手に取りコ―ヒーを一口飲んだ。少しぬるくなったコーヒーの湯気を鼻先で感じながら苦味のある味が喉の奥へと流れ込んだ。鼻に抜けたコーヒーの香りが良くて、もう一度カップに口をつけた。頭痛はもう完全に消えていた。コーヒーカップをソーサーに戻して再びボールペンを手に取り、彼女はマイルズの講義を思い出す作業を続けた。
     
    「いらっしゃいませ~」
     お昼になると近所の会社に勤めるサラリーマンたちが続々とお店の中に入ってきた。
    「日替わりランチ」
     お客たちは皆ウエイトレスに合言葉のように注文をした後で席に着いていた。一二時一〇分になる頃にはほぼ満席となった。知花もタイミングを見てランチを注文しようと考えていた。しばらくするとウエイトレスと目が合い軽く右手を上げて彼女を呼んだ。
    「日替わりランチ」
    「あっ、すいません、ランチ二つお願いします」
    「日替わりランチ二つですね~」
    ウエイトレスへの注文に割り込むように一人の男性が知花のいるテーブル席に腰掛けた。
    「こ、こんにちは、ここ、いいですか?」
     知花は突然相席されたことで思考が固まり言葉も出なかった。テーブル席に厚かましく座った男性は、彼女を見ながら図々しく話し始めた。
    「ご、ごめんなさい。さっ、さっき、マイルズの講義を受けていた方ですよね? ぼ、僕は受付にいた高橋、高橋(たかはし)雄大(ゆうだい)といいます。急に相席なんかお願いして、ごめんなさい。じ、実はこの後、すぐに戻って、き、機材を全部交換しなきゃいけなくなって…」
     知花は図々しくもたどたどしい男性の様子を見ながら、受付で緊張しながら案内していた人だと思い出し、ようやく「…ど、どうぞ」と答えることができた。知花は突然現れた高橋が気になり、集中することができなくなった。仕方なくノートをバッグの中に仕舞うとため息交じりにふーっと息を吐いてコーヒーカップに口をつけた。
    「ご、ごめんさない。何か作業していたんだね」
    「だ、大丈夫です」
     知花は心のなかで『落ち着け、落ち着け』と繰り返していた。緊張してたどたどしく話す彼の様子に、小学校時代の知花自身の雰囲気が重ね合わさるようだった。
    『吃りが感染ってしまう~』
     彼女は突然男性と一緒に食事をするという状況になったことで、汗が吹き出しそうになっていた。
    「おまたせしました~ どうぞ」
    ウエイトレスが隣の席に運んできた日替わりランチは、丸い木製プレートの中に厚みのある大きなトンテキが盛られ、その上にケチャップベースのソースが掛かっていた。トンテキの周りにはライスとグリーンサラダ、ポテトサラダが盛られていた。半分ほどのお客が一人客で、また二人で来る客も同僚どうしのようで、誰にも気兼ねすることなくこの大振りな肉片にかぶりついていた。
     知花はいままで一度も男性と二人きりで食事をしたことがなかった。目の前の状況を考察すると、実際には二人で一緒に食事をすることにはならないのかもしれないが、同じテーブルに向かい合って食事することは、どう考えても一緒に食べるということだ。気を紛らわせようともう一度ノートを取り出してみたものの一切集中できず、頭に浮かぶのが受付で見た彼の吃りとそれが感染った自分の姿だった。ドラマや小説で相席のシーンを見たことはあったが、実際に体験してみると他人同士が同じテーブルに付くことがこれほど窮屈なことだとは思いもしなかった。しかし、彼をまったく知らないわけではない。名前も聞いた。受付で話した。この微妙な関係があることで居心地の悪さが倍増していた。
    「わ、渡辺さん、だったよね?」
     目の前にいる高橋と名乗る男性も居心地が悪いようで、この状況を持て余しているようだった。
    「は、はい。わ、渡辺です」
     返事をするのが精一杯だった。まるで小学校のときに先生に当てられて下を俯くばかりだった頃に戻ったようだった。唇を内側に折り曲げて固く閉じ、俯いている自分自身の姿を思い浮かべるといたたまれなくなった。彼の顔も見ることなく答えていた。
    「わ、渡辺さんは、マイルズのような勉強会とか講演会に興味あるんですか?」
    「は、はい」
    「い、いつも一人で来るんですか? それとも、ふ、普段は友達とかと一緒に来るんですか?」
    「い、一度だけ、祖母と、祖母と一緒に、い、行ったことが…」
    「で、でも渡辺さは大変几帳面な方なんですね。会場でもメモを怠らず、ここでもメモの見直しなんて、なかなかいないですよ、そんな方」
    「そ、そうですか…」
     
     たどたどしく始まった会話はすぐに途切れた。高橋は知花の様子をじっと覗うようにしていたが、彼女は正面に座る彼の胸から下しか見ることができなかった。やがて彼は、腰掛けていた椅子に軽く座り直すと足を組んだ。知花は俯きながら彼の視線を感じていた。
    「どうでした? マイルズの講義は?」
    「まあ、お、面白かったです」
    「そうだよね~ 今日の最初の講義は、初めて聞く講義としては良いテーマだったと思うよ」
    「そ、そうですか…」
    「おまたせしました。日替わりランチです」
    「おっと、ようやく来ました」
    「食後の珈琲は?」
    「あっ、一個だけ今すぐ持ってきて」
     高橋は籐で編まれたカトラリーケースに手を伸ばして箸を掴むと、ケースを知花の前に差し出した。
    「ごめんね。急いでいるから先に食べちゃうね」
     彼は箸でトンテキの右端の一切れをつまむとそのままパクっと口の中に放り込んだ。そしてプレートを手前に引き寄せるとライスやポテトサラダを次々に口の中へ入れた。知花は彼のプレートの中を見ながら、大学の学食を想像した。大学の学食では長細いテーブル席に各々適当に腰掛けてランチを食べている写真を見たことがあった。
    『大学へ行けば毎日こんな姿をお互いに見せ合うようになるんだろうなあ』
     知花がナイフとフォークを手に持ってトンテキの一切れを半分に切って口の中に入れたとき、彼のランチプレートは既に半分しか残っていなかった。やがて全部食べ終えた彼は口元を拭って丸めたナプキンをプレートの中にポンと投げるとプレートを持ち上げて店内を忙しなく動き回るウエイトレスに手渡した。
    「渡辺さん、このあとの講義には出席するの?」
     彼女はたった今口の中に入れたトンテキを咀嚼しながら大きく頷いた。
    「そうか、それは良かった!」
     高橋がコーヒーを飲む音がゴクリと聞こえてきた。
    「僕はマイルズのスタッフとしてボランティアをしているんだけど、マイルズの話す内容について誰か話し相手がほしいと思っていたんだ。確かにマイルズが言うように自分で考える必要があるのはわかるけど、それをアウトプットする場はなかなかないからね。結局それは各々に委ねられている。おっと、もう行かなきゃ。それでお願いしたいんだけど、四コマ目が終わったあと、またここで君と話しをしたいんだ。もちろん講義内容についてのディスカッションだ。もし君に時間があればだけど。どう?」
     知花は少し考え込む仕草を見せた。どのみちメモの追記を兼ねてここに立ち寄ろうと考えていた。高橋が急にスムーズに喋りだしたことで彼の勢いに押されていた。
    「じゃあ、申し訳ないけど、断りにくくします」
     時間のない彼は、知花の返事を聞く前に立ち上がって伝票を手にすると「これが君へのバイト代だ」と言ってカフェから出ていった。まだ半分も食べ終わっていない彼女は高橋の立ち去る姿を見送るとフーっと大きく息を吐いてナイフとフォークを持ち直した。
     
     年上だと思われる彼は、どこにでもいそうな目立つところのない顔立ちだった。人の好みはそれぞれだが、顔に関して言えばおそらく今どきのかっこいいタイプとは違うだろう。身長も一六五センチほどで知花と差はなく、ボランティアという言葉と襟の付いた半袖シャツという無難な服装からは大学生とも思えなかった。この微妙な違和感の基底にあるのが彼の頭の大きさで、成長途中の中学生を思わせる体型バランスがお笑い芸人のようで、それが返って彼の魅力になるのかなと勝手に連想をした。こんな場所でボランティアするほど暇なのか、普段は何をしているのかなどいくつか疑問が浮かんだ。知花は彼の質問に「はい」とも「いいえ」とも返事をしなかったが、もう一度ここで彼とお茶を飲むのが断れない状況になったことについて考えると、祖母の言うとおりいつもと違う行動をしたことで起きたハプニングに不思議な感じがした。ほんの二週間前にはアルコール依存症で入院していたことを考えるとますます不思議だった。
     
     一三時一五分に喫茶店を出た知花は、そのままエレベータで五階まで上がった。午後から参加する人もいるようで受付には数人の列ができていた。受付には高橋がいたが、もう慣れたのか、今朝知花に案内したときのような吃りはなく、簡潔明瞭に来訪者を案内していた。
    「ああ、渡辺さん、先程はどうも」
    「いえ、こちらこそごちそうさまでした」
    「では?」
    「はい、構いません。だ、大丈夫です」
    「ありがとうございます。助かります」
     
     講義の始まる五分前になるとマイルズが登壇してラップトップの準備を始めた。ホワイトボードには二コマ目の講義で使用したと思われる文字や絵が描いてあった。英語の文章は文字に癖があり読み取れなかったが、ホワイトボードに大きく書かれた単語をスマートフォンで検索してみた。『Conspiracy』これを翻訳すると『陰謀』という言葉が表示された。スタッフがボードの文字を消していないということはその続きが始まるのかもしれないと考えていたら、マイルズがピンマイクを付けてマイクテストを兼ねながら話し始めた。
    「皆さん、さっきの話は盛り上がりましたね~ 機材のトラブルもあって私が話したかったことの半分も話せなかったので、三コマ目の講義では続きを話したいと思います。三コマ目からの受講者もいらっしゃいますので、まずその復習から始めたいと思います」
     知花は膝の上においたノートを広げてメモの準備をした。マイルズは真ん中の空間を行ったり来たりしながら、受講者の視線を前後左右に振るようにして喋り続けた。彼の話は面白くメモを取る手が止まらなかった。
    そしてあっという間に一時間二〇分が経過した。知花は一旦外に出ると高橋から受講券を購入してすぐに会場に戻りメモを見ながら講義の詳細を思い出して追記作業を開始した。
     
    『皆さん、ホワイトボードに書いた「Conspiracy」とは日本語で、陰謀ということになります。この語源を考えると、このコンスピラシーというのは、静けさの中で一緒に呼吸するという意味を持っています。お互い同じ呼吸数に合わせるという意味です。さて、世の中には様々な陰謀論がありますが、我々はどうして情報のトップにアクセスできないのでしょうか? ケネディ大統領を殺したのはいったい誰?』
     マイルズは得意そうに満面の笑みを浮かべながら受講者たちを見渡していた。
    『陰謀論で有名なのが、ケネディ大統領の暗殺事件ですね。これには全世界が注目して様々な説が流れ、TVショーや新聞、雑誌、書籍まで幅広く広がったんです。そう、儲け話になったのです。陰謀論は面白い。ストーリーが面白いから儲かる。世界一の陰謀論者はデビット・アイクですが、欧米ではかなりの人が彼のことをバカにしています。でも非常に売れている。それは、人々がそれを聞いて納得するからです。陰謀論は人々の腑に落ちるんです…』
     それからマイルズはホワイトボードの前に行くと、大きく『FRB』と書いた。
    『二コマ目の講義の復習はここまでです。さて、今から言うのは陰謀論なんかじゃありません。皆さん、皆さんが家を買いたいとき、銀行の審査が通って、お金は? 貸してくれるはずのお金はどこ? どこにもないよね。通帳に数字を書くだけ。一九一三年以前の米国はまだ金本位制で、お金を借りるときには、目の前には、端然とお金があった…』
     マイルズの口調が次第に熱くなり、聞いている知花の表情も次第に険しくなった。
    『FRBは、監査されたことがないから税金を支払ったことがない。だから誰も儲けた金額がわからない。このシステムは世界中の中央銀行でコピーされた。我々はローンで大変なのに彼らは空中からお金を生み出したことを考えれば、これはちょっとおかしいということになるはずだ。これが許されるシステムならば、納得できる関係した情報があるはずだ。経済学者はこれについて訳のわからない用語を使って説明しようとするが、FRBは税金を支払ったことがあるかないか? 「YES」「NO」どっち? 答えは、NOです。FRB以外の中央銀行について、私は調べてはいませんが、おそらくどこの国も同じです。イギリスBBC放送では、リーマンショックの後経済が元に戻るまで六年かかったと伝えていましたが、その間どれだけの人がローンを支払えずに家と土地を奪われたのか? 膨大な数に登る。人も死んだ。このシステムの所為(せい)で。しかし、一九一三年以前の米国はそんな国ではなかった。ごく一般的な労働者が銀行でお金を借りることなく家を買い、子供五人を育てる事ができた。いままでローンを借りたことがない人いますか? 銀行使ったことのない人は? 税金を払ったことのない人は?…』
     
    「ごめん、待たせたね」
     書く手を止めて顔を上げれば、少しばかりお笑い芸人の雰囲気のある高橋が額に汗を滲ませながら正面の椅子に腰掛けた。
    「少しだけ、待ってもらってもいいかしら?」
     知花は喫茶店にやってきた雄大を待たせると、マイルズの言葉を思い出しながらメモの追記作業を再開した。
    『まず陰謀論を知ること。陰謀論の中心、その本質は経済論だということ。この経済論がわからなければすべての陰謀論の意味はなくなる。すべてはお金に関係し、マネーゲームの話である。だからそのマネーゲームを知れば、全世界の政府のやり方を理解しやすくなる。そしてぜひ反論しなければならない。このような世界であってはならないのだ。全員税金を払わされているのに、一番儲けている中央銀行が税金を支払わなくていいはずがない。負債金額は誰に対して支払わねばならないのか? 日本の赤字は誰に対して支払わなければならないのか? 日本人もこれを主体的に調査することが必要です。陰謀論を唱えれば唱えるほど、精神的に、心理的にすべてが陰謀論になってしまうよ。どんな出来事があっても、陰謀論的に解釈しようとする自分がいれば、プラス、マイナス、ニュートラルスタンスはできなくなり、すべて陰謀論に陥ってしまいます…』
     
    高橋は注文したコーヒーを口に運びながらチラチラと知花の様子を覗うように待っていた。彼女はノートを一通り読み直すと何度か頷いてノートを閉じ、バッグに仕舞った。
    「ごめんなさい、お待たせして」
    「ううん、こっちこそ付きわせちゃって… それにしても熱心にメモするんだね。意外だよ」
    「意外?」
    「いやあ、ごめん、ごめん。そうじゃなくて、普通はあの場で書いて終わりっていうのがほとんどだろうって思っていたから、それで…」
     知花は彼の言った言葉の意味を捉えきれず目をキョロキョロさせながら落ち着かなくなった。またついさっきまでは男性と一緒にテーブルを囲んだこともなく、デートしたこともなければ一対一で話したこともなかった。お昼に起きた出来事が再び目の前に展開されると、知花は彼の顔を見て話す事ができず、俯き加減の視線を彼のみぞおちあたりに投げながら返事をするのが精一杯だった。
    彼のお笑い芸人のような雰囲気を想像してみても、至近距離で彼の顔を見ながら話すことに抵抗感があった。受付で初めて彼を見たときは何も感じなかったが、その時は彼のほうが説明するのがたどたどしくまだ慣れてないアルバイトのようだった。しかし一度話せば次の瞬間には男性上位の言葉遣いになるのが男性というものなのだろうか? 若干年上だから仕方がないとするべきなのか? 彼の身の変わり方に合わせられず、また彼の言った『意外』という言葉の意味を問い質したかったが、聞き返すタイミングも既に逃していた。
    「勉強熱心な…、大学生だよね? どこの大学なの? 聞いていい?」
    「だ、大日女学院大学です…」
    「へ~ もしかして、テニサー?」
    「へっ?」
    「…ハハ、違ったか…」
     知花の苦手なことが自己紹介だった。そして見ず知らずの男性に『私は浪人生です』というのにどれだけの勇気が必要なのかわかるはずもない。この言葉が出て来ると、今度は頭痛とアルコール依存症という罪状のような言葉が浮かんできた。
    『私はアルコール依存症で一ヶ月ほど入院していました。そんな決して言えない言葉を、私はいつか誰かに言う日が来るのだろうか?』
     知花は咄嗟についた嘘に対し、心のなかで言い訳を重ねた。同時に高橋の依頼に同意したことに自己嫌悪した。
     
    「ごめん、余計なこと聞いて」
     知花の様子を察したのか高橋が謝った。彼女は何も考えないように努めた。そして頭の中では四コマ目の講義を思い返していた。
    『…イギリス人の一〇代の女の子がしている瞑想法をご紹介します。彼女は、自分の頭の中でぐるぐる廻っているネガティブな思考をバスに例えます。そして彼女はバス停に立っています。そうしてこのぐるぐると堂々巡りする具体的な思考、例えば心配事、誰かがまた私の悪口を言っているという思考、つまり頭の中で次々とやってくるそのネガティブな思考であるバスがやってきてバス停に停まります。バスの行き先案内表示にはそのネガティブな言葉が書かれています。女の子はそのバスの運転手に言います。「私はこのバスには乗らない」これが思考のトレーニングのひとつです。自分のネガティブな思考パターンに騙されないようにすること、その思考にコントロールされないようにすること。そして、本当の自分を生きること…』
     
     知花の癖のひとつがこのマイルズが指摘した堂々巡りを繰り返すネガティブな思考だった。何かの出来事によって心にネガティブなものを感じると、昇華されていない過去の出来事が思い浮かんだ。一度思い始めると次々にネガティブに感じた過去の出来事が連鎖し始めた。もしマイルズの講義を受ける前に高橋とこのやり取りをしていたら席を立っていただろう。彼女は意識的に頭の中でこの作業をしながら気分を落ち着かせていた。
     
    「渡辺さんはどうしてマイルズの講義に参加しようと思ったの?」
     知花はフーっと大きく息を吐くと視線を高橋の喉の当たりまで上げて答えた。
    「そ、祖母と一緒に行った講演会が面白くて… だから自分自身の見識をもっと広げたい… そう思ったんです」
    「へ~…」
     彼は本当に意外そうな表情を浮かべながらコーヒーを一口啜った。そしてゆっくりカップをソーサーに戻すと店の中をぐるりと見渡しながらまったく別の話を始めた。
    「ここのカフェ、カフェというのかもしかしたら喫茶店なのかもしれないけど、意外に人気なんだよ。ほとんどがリピーターだと思うんだ。ランチは日替わりしかないけど、ボリューミーで美味しいのが人気の理由だね」
    「そ、そうですね。最初入るのを一瞬ためらうほどこのビルと同化した外観が気になって、でも店に入るとすごくおしゃれで… ただ、外を歩く人はあまりここに入りたいとは思わないでしょうね」
    「ハハハ、僕もそう思うよ。でもみんなここを知ってしまえば、お昼時は混むだろうな~」
    「ご飯食べるの、早いんですね」
    「そうかな~ 僕よりも食べるのが早いサラリーマンはたくさんいるような気がするけど」
    「そういえば、高橋さん、でしたよね?」
    「うん、高橋雄大です。そしてあなたは、渡辺知花さん、知花さんと呼んでいい?」
    「えっ? あ、はい。高橋… 雄大さんは何をされている方なんですか?」
    「じゃあ、僕が何をしているか当ててみて」
     知花は思わず『お笑い芸人』と口を滑らしそうになったが、雄大の雰囲気から察するとサラリーマンには思えず、公務員とも考えにくかった。
    「全然わからないわ。まさか大学生じゃないですよね?」
    「うう~ん、違うけども、少し惜しい、かな」
    「じゃあ、大学院生?」
    「ピンポ~ン、正解です。と言いたいところですが、少し違います。大学院は今年の春に卒業しました。僕は、いま准教授になる準備をしている大学の研究員です」
    「まあ。じゃあ、どうしてマイルズさんのスタッフの仕事をしているんですか?」
    「実は大学の研究室というのは閉塞感のある環境で、息が詰まるんだ。論文のテーマも難しくて… そんなとき出会ったのがこのマイルズ・スクールだったというわけ。彼の話は面白くて、日本語が上手だから聞きやすい。今まで一方向でしか見ていなかったものが、多方向から考えることができるようになって、何度か講義に出席していたらマイルズからスタッフのボランティアをしてくれないかって頼まれたんだ。それに、手伝ってくれれば受講料は無料にしてくれるというから手伝っているんだ」
    「へ~ そうだったんですね。では、マイルズさんの話す内容について誰かと話したいというのはどういう意味だったんですか?」
    「実はそこなんだ。せっかく彼の話を聞いても基本的にその内容を誰かと共有したりしないから、どんどん忘れてしまうような気がしていたんだ。誰かとお互いに講義の内容についてトークできれば、それがある種の経験となって自分の中に残るんじゃないかと思ったんだ」
    「そうだったんですね。それじゃあ…、話し合うには何か、今日の講義で具体的な…何か…」
    「それもそうだね。それじゃあ聞くけど、今回初めて講義を聞いて意味がわからなかったことがあった?」
    「今日の講義で書き取った内容から意味がわからなかった部分というのはなかったんですが、私にはまだ質問できるほどマイルズさんの意見を落とし込めていないので… わからなかったところを見つけて、また次の機会に質問できればいいんですが」
    「そうか~ 家に帰ってもう一度考えて、もしかすればそこで質問が出てくる。そうなれば次の機会にマイルズに質問すればいいね。でもそんな真面目な人はなかなかいないと思うけど。因みに、今後もどこかの講演会に行く予定はあるの?」
    「まだ具体的には決めていません。都内で開催される面白そうな講演会があればそこに行きたいのですが、もう少しマイルズさんの講義を受講したい気もあります」
    「それはよかった」
    「それと、逆にお尋ねしますが、大学の研究って、いったい何を研究されているんですか?」
    「心理学」
    「心理学?」
    「うん、それも犯罪心理学。話せば長くなるし難しいからアレだけど、研究すればするほど思うのが、心理っていうのは占いみたいにいくつかのカテゴリに分けることはできるけど、人間の心理は複雑で、しかも絶えず変化する。赤の他人が犯罪者の心理を研究してもそこから得られたものは本当に正しいのかなって考えると、息が詰まりそうになるんだ」
     雄大はため息を付きながらカップの底に残ったコーヒーを飲み干した。
    「でも、大学でも心理学を専攻したんですよね?」
    「もちろん…」
     雄大は言葉を切ると知花を見つめた。彼女は一瞬彼と目が合うと慌てて目を逸らした。
    彼はしばらく黙って何かを考えているようだったが、怪談話をするように声をひそめて話し始めた。
    「実は少し前に、ある出来事があったんだ。マイルズが英会話教室を始めたいと言うんで、僕が彼の代わりに安い賃貸物件を探したんだ。ところがそこに通っていた一四歳の女の子が行方不明になっているんだよ。当時は英会話教室の日じゃなかったんだけど、警察が捜査に来て、英会話教室の物件を探して手続きしたのが僕だとわかると、僕の自宅まで捜査するんだぜ~ 参ったよ。当然何も出ないからすぐに引き上げたけど… 警察では事件と言うよりも家庭環境から家出したという見方をしているみたいだね。しかし、犯罪心理学の研究者がそんなことに巻き込まれるなんて気持ちが悪くて… 日本では二〇歳未満の行方不明者が毎年一万八千人もいるんだ。その数も異常だけど、実際に犯罪が絡んでいるかどうかもわからない時点では、犯罪心理学って何も役に立たないんだなあって痛感したよ…」
     
     知花は雄大の言った『事件』という言葉の響きに胸騒ぎがした。不快なそれはいつものあの頭痛の予兆と似ていた。
     あれは確かまださいたま市に来る前のことだった。知花の頭にかすかに残る記憶が、当時近所で起きた事件だった。それは渡辺家をも巻き込んだ。今ではもう断片的な記憶しか残っていないが、おそらくそれがきっかけでさいたま市へ引っ越してきたのだと記憶している。日本も世界でも毎日恐ろしい事件が起きているが、事件に巻き込まれて体も心も傷ついた人は皆その場所を離れるのだろうか?『事件』という言葉はどこかで起きた特殊な出来事で、ほとんどの人は遠くの他人に起きた出来事だと思っているかもしれないが、誰にも何も言えないままひっそりと隠れるように暮らしている人もいるに違いない。
     知花は、そんなことを考えている自分は、あの事件をどのように思っているのかと問いかけてみた。今ではもう断片的にしか思い出せないが、『事件』という言葉を聞くと非常に気分が重くなった。そして頭痛のときに見える断片化した映像は、思い出したいときには決まって思い出せないのがもどかしかった。
     
    「…心のなかにアンテナのようなものがあって、それはたぶん誰にもあるもので、それまでに影響を受けたことがアンテナの周波数に感知されるんだと思う。進学先や就職先などを決める際にこのアンテナに何かが引っかかるんだ。僕の場合、それが犯罪心理学だった。さっきも言ったけど、奥が深く厄介な学問だ」
     雄大はそこまで喋ると「は~っ」と大きく息を吐いた。
    知花は彼の話があまり耳に入らず、思い出せない断片化された映像にやきもきしていた。
     
    「もしよければ、次のマイルズの講義も受講しに来ないか?」
    「ええ、もちろん。…ちなみに、マイルズさんの専門分野って何ですか?」
    「専門というのは特にないんだと思う。マイルズはいろんな専門家と意見を交換してジャンルには関係なく幅広く物事を捉えようって考えている人なんだ。専門家は専門外の知識に乏しいけど、マイルズは自分で足りないと感じた知識は徹底的に勉強して自分のものにしていくからね。関連事項の触りだけ聞いてもとても勉強になる」
    「それは私も感じました」
    「そうだ、次回のマイルズの予定はまだ決まっていないけど、決まれば連絡するよ」
    「ありがとうございます。それはとてもうれしいですけど、今日の講義のディスカッションというのは…」
     雄大は俯き加減でコーヒーカップを両手で触る知花の仕草を見ながら、彼女の質問に対する答えを探しているように腕を組んで考える仕草を見せた。
    「そうだね。じゃあ、本題に入ろうか。マイルズの講義だけど、どの部分が一番面白かった?」
    「まだマイルズさんの考え方に慣れていないのかもしれませんが、彼はすべて科学的に解決するタイプではないことが、その~、私たちが存在を感じる… 『心』というのか、説明できないことに関する持論のようなものを展開することで、一般的な講義や講演とは違ったものに感じました。『思考のトレーニング』については非常に面白くて理解できましたが、FRBの話が脱線してワールドバンクのトップにいる人の話になった時、『サピエンスではない存在、つまりは人間でないもの』が登場しましたよね。そうなると私には『これは一体何の話なんだろう?』って思ったんです。ついていけなくなってしまって」
    「ハハハ、そうだよね。気持ちはわかる。彼の話はあちこち脱線しながら我々が聞いたこともない話を取り上げて、それに陰謀論を否定しながらそれと似たことを話すから、全体的に違和感が残るんだよね」
    「ワールドバンクのトップの人が、ペルーやエジプトで発掘された細長い頭を持った、人類とは違う遺伝子構造を持つ生物がなっているなんて、急にそう言われても、『へえ~、そうなんですか』とはなかなか受け入れられないんですが」
    「君の意見はわかる。多分誰もがそう思うよね。その証言者がワールドバンクにいた信用できる人物だからというのが彼の根拠だった。おそらく彼が確信したことだから話したんだろうけど、実際我々には確認しようもないことだね。マイルズがよく『自分で調べろ』と言うんだけど、調べられないことを言うのは、ん~、確かに君の言うとおりだね。マイルズの陰謀論に関する話はたくさんあって、聞く機会は何度もあると思う。その場合は、疑問を持って聞くことだね」
    「それでもとても面白かったので、私もまた是非参加したいと思います。でも別の講演会にも行ってみたいと考えています」
    「わかった。次回の日程が決まればメールで連絡するよ。受付で書いたアドレスで構わないかな? それと、これはスタッフとしてではないけど、マイルズの講義以外の件で、君に連絡をしてもいいかな? 普段は研究室に入り浸っていてたまに外に出てもマイルズ・スクールで出会う参加者は、四、五〇代ばかりなんだ、スタッフも含めてね。近い年代の話し相手がいるのは嬉しいからね」
    「それは、構いませんけど…」
     知花は俯き加減のままソワソワした落ち着かない様子で答えた。
    「ありがとう」
     雄大が愛嬌のある笑顔を作った。
     
     翌日雄大からメールが届いた。メールには場所と日時が書いてあり、彼の決めたテーマについてディスカッションしたいと書いてあった。
     知花はマイルズの講義の内容よりも久しぶりに誰かと会話したことが強い印象に残っていた。准教授を目指して研究員になっているということは、大学を卒業後に大学院を出て修士課程を取りその後の博士課程にいるということなのだろう。それにしてはあまりそれらしくは見えず普通の大学生くらいに感じた。それでも雄大の気さくな雰囲気には悪いイメージは感じなかった。
     
              3
     
     祖母に言われて通うことになった自動車教習所だったが、車を運転したいと思ったことがなかった知花にとってはまさに右も左も分からない事ばかりだった。学科教習は新しい教科のようなものだったので教本を読めば内容は理解できたが、技能教習は大きなストレスに見舞われた。両親が運転する車に乗るときには気にもしていなかったが、こんなに大きなものを操って道路を走るということを自分に言い聞かせるのに時間がかかった。祖母の口利きで一日二時間の技能教習が組み込まれたが、一日目が終了したときには二、三キロ痩せたのではないかと思ったほど精神的な疲労を感じた。そんな知花だったが、三日目の技能教習では思った以上に車を運転する感覚が身についていた。家に戻ると祖母も知花の教習所のことが気になっていたようで、夕食を食べながら技能教習の話で盛り上がった。
     
    「知花ちゃん、教習所はどう? うまくいっているかしら?」
    「ええ、おかげさまで何とか今のところは無事故で乗っているわ。でも、もし教習所の中に人が歩いていたら、もう四、五回は轢いていると思うけどね。それでも今日の三日目でようやく運転する感覚がわかって… 少しだけホッとしたわ。こんな私でも運転できるみたいだわ。でも毎日教習所に通うとストレスになりそうだから、少しゆっくり目のスケジュールに変更してもらっちゃった」
    「ハハハ、それでいいんだよ。免許証をもらったら車庫にある私の車を運転してもいいわよ。でももうすぐ車検だから、整備したあとの方が安心ね」
     
    知花は祖母のアドバイスでファッションにも気を遣うようになっていた。
    この日は首元が広めに開いた茶色い薄手のニットにネイビーのフレアスカート姿で、雄大とディスカッションするために東京駅丸の内の南口にやってきた。待ち合わせ時間は一五時だったが一〇分前には駅の外に出ていた。知花は指定されたカフェレストランの前まで来ると、重厚な外観を見上げながら石造りの階段を上り、躊躇いながら緊張気味にドアを開けた。外見と同じように建物の中も重厚な空間が広がっていて、一階と二階のフロアを取り除いたように広がる高い天井とギリシャ神殿を想像させる太い柱が数本立ち並び、まるで西洋のお城の中を思わせた。
    「いらっしゃいませ。お一人様でしょうか?」
    「い、いえ、ま、待ち合わせ…」
    「どうぞこちらへ」
     案内された席につく前に周囲を見渡しながら雄大の姿を探したが、薄暗いこともあってそれらしき人物は見当たらず、慣れない雰囲気に少しそわそわしながら彼の到着を待つことにした。
    「ホットコーヒー」
     かすれるような声で注文すると、巨大な空間を見上げながらまた周囲をキョロキョロして雄大の姿を探した。運ばれてきたコーヒーに口をつけるとトートバッグからノートとペンケースを取り出した。ペンケースを開けていつもの臙脂(えんじ)色のボールペンを握って落ち着こうと努めたが、漂ってくる重厚な雰囲気に顔を上げると、広い空間の中に吸い込まれるような感じがした。指定された日時をスマートフォンのメールで再確認してみた。待ち合わせの時間はすでに数分経過していた。カフェの座席は七割ほど埋まっていてスタッフが忙しそうに動き回っていた。
     
    「よっ! ごめんね、お待たせして」
     急に湧いたように背後から雄大が現れた。知花はびっくりして胸に手を当てながら彼を見つめ、そして胸を撫で下ろすと同時に大きく息を吐いた。
    「そんなにびっくりさせたかな?」
     彼はストライプの入った白い半袖シャツとジーンズ姿で、肩にかけたネイビーブルーのボディバッグの中からスマートフォンを取り出して時間を確認した。
    「ごめんね。一〇分近くも待たせたみたいだね」
     彼はまだ不安な表情が抜けない知花の顔をちらりと見ながら席に着くと、店員を呼んでアイスコーヒーを注文した。
    「このお店どう?」
     知花は中学の水泳部の同級生たちと学校帰りや土日にドーナツショップに出かけた記憶はあったが、高校生になると友人との付き合いはなくなっていた。友だちと呼べるほどのクラスメートがいたこともなく、誰かと一緒に出かけることもなかった知花にとって、一人でこんな豪華なお店に入るのはかなりの勇気が必要だった。一五時五分前にはこのお店に入ったが、雄大はもう既に到着しているものと信じてドアを開けた。吸い込まれそうなほど高い天井と広い空間は、知花の普段の生活にはない別世界だった。この広いお城の空間に一人でいることがひどく心細く感じていた。
    「あまりに広くて… 私…」
     雄大は満足そうな笑顔で知花の顔を覗き込むようにした。知花はすぐに目をそらし、テーブルの上のノートの端を握りしめた。
    「今日はここで一緒にディスカッションしたいと思う」
     彼は運ばれてきたアイスコーヒーのストローの包装紙を破ると、脚付きの底の丸いグラスの中に突き立てるように差し込んだ
    「さて、今日は話をする前に少しだけ僕の質問に答えてほしいんだ。少し変な質問をいくつかするけど、それによってこれから僕が考えるテーマの絞り込みに役立てたいと思うんだ。興味のないテーマでもそれを追求すれば普遍的な部分に突き当たるけど、そこに至るには時間が必要だし、僕らは、今はまだ普遍的なものを発見することを主としていない。それよりも興味ある研究を聞いて今持っている見識を広げたいと思っている。おそらく君も。大丈夫? それであっているよね?」
    「ええ、そんなにはっきりと思っていたわけじゃないけど、基本的にはあっていると思うわ。大丈夫よ、その方向で」
    「それではいくつか質問します。まず学習面の質問ですが、高校までの授業の教科で、極端に苦手なものはあった?」
    「数学は非常に苦手だったわ。赤点を取らないように必死だったの」
    「じゃあ、次の質問です。図形を書くのは苦手?」
     彼の質問は学習面についての質問をいくつかしたあと、コミュニケーションの面に関する質問をいくつかした。その後には行動面、対人関係の質問をした後、しばらく知花の表情を見つめた。彼女は彼と目があうとすぐに下を向いた。彼はしばらく考えこむようにして何かをノートに書き込んでいた。
    「ありがとう、以上で質問は終了です。つまらない質問ばかりでごめんね。次回はこれを元にテーマを決めてくるから」
    「今日はもうこれ以上話はしないんですか?」
    「…ううん。それじゃあ、君が興味あるテーマをひとつ挙げてくれないか?」
    「テーマではないんですが、マイルズさんの講義でメモしきれなかった事があったんです。自宅に帰って見直そうと思ったんですが、もう頭の中から消えてしまっていました。もし雄大さんが覚えていれば嬉しいんですけど」
    「ええーっ、そんなの覚えているかな~ どんな話だったっけ?」
    「えーっと、確か、ん~ 『私たちは生まれてきたときからもうこの世の中はあって、だからこんな世の中になっているのは自分の所為ではない…』ん~、『自分は、この世の中に遅刻してきたんだ』この話をサッカーに例えて~ 『ルールも知らないでいきなり試合に出場させられた』とか、ん~ その後が思い出せなくって、覚えていますか、この話?」
    「まったく聞いてなかったとは言わないけど、記憶が相当遠くに行ってしまっているなあ~」
    「そうなんですよ~ せっかくあの喫茶店で一緒にお話しながらぽつりぽつりと蘇っていた記憶が… 一時間くらいかけて自宅へ帰ればこんな事にならずにって、ずっとそう思っていました」
    「ずっと?」
    「ずっと」
    「…あれから?…」
    「あれから今まで」
     雄大は「ほうー」と口を尖らすような表情で知花を見つめた。彼女は彼と目が合うとすぐに視線を落とした。
    『またダメな癖が出てる~』
    知花は強く意識しなければすぐに出てしまう自分の嫌いな癖に唇を噛んだ。そしてテーブルの上に乗せたノートの上に手をおいて黙ってしまった。彼はしばらく椅子の背に体重を預けていたが、やがて彼女に近寄るようにすっと上半身を起こした。 
    「少しだけ思い出した。思い出したけど… 多分あのときマイルズはいくつか別の話をしたんじゃなかったかな~ 話のスタートは興味を惹かれたけど、結論が曖昧だったんだ。だから中途半端なメモしかできなかった。聞いている僕自身が理解していないからね。君の質問の結末は、正直聞いていてよくわからなかったから覚えていない。でも普段我々が認識していることは、脳科学の世界では違うってことを話していたよね。確か~ 『…我々は自分の意志で物事を決めたというふうに思っているが、実際にはわからない。脳科学で言えば意識は後追いだ。自分がそうしたと思い込んでいる選択についても。『自分がそうしたいから、そうした』と誰もが言うが、脳波を計測すれば疑問が残る。モーセの十戒はすべてが禁止要項で、〇〇してはいけないとある。そうすると我々が意識的にできるのは、実は禁止事項だけではないのか、という考え方が生まれる。欲求によって動くのは仕方ない。どうしてもある程度欲望のまま動くが、脳科学的に『選択すること』について考えるとかなりの疑問が残る』そんな感じの話だったよね。でも、結論がはっきりしない話だったんで、僕もこれ以上思い出せないな、ハハハ」
    「でも雄大さんはすごいですね。さすがです」
    「普段から似たような講義ばかり受けていれば… でも君は本当に勉強熱心だね」
    「そういうわけでもないんですが、講演会に参加して初めて『知る』とか『考える』とかが面白いって思ったんです。今までは受験勉強でつまらない詰め込みの勉強ばっかりで、だから頭痛が酷いのかもしれない…」
     知花は唇を内側に折り込むようにして小さく呟いた。彼はその様子を見ながらまたノートに何かメモしていた。
    「雄大さんは今まで聞いたマイルズの講義で一番おもしろかった話はなんですか?」
    「そうだな~ マイルズの話で~ いま頭に浮かんだのは、やっぱりこの前のFRBの話かな。一九一三年にできたFRB連邦準備制度の中央銀行システムが全世界の国々にそっくりそのままに作られたことというのが」
    「私もあの話は驚きました。でも私はそれを聞きながら『私は、何も知らない』と思ったんです」
    「えっ?」
    「それがわかったの。こんなことは決して学校の授業では教えてくれないことだわ」
    「そ、そうだね。学校もだけど、テレビや新聞でも取り上げないね」
    「どうしてかしら? 知られないようにされているのかしら?」
    「ん~、そんなふうに追求すると、世界には支配者という誰か謎の人物が存在して、それは人間ではないエイリアンで、だからつまりそれは、陰謀論になってしまうよ」
    「陰謀論… ですか…」
     囁くように言った知花の顔をちらっと見た雄大は、グラスをテーブルの上のコースターに戻すと喉の奥に溜まったコーヒーを飲み込んだ。彼の喉仏が上下に動く様子が見え、ゴクリと音が聞こえてきた。知花も彼に合わせるようにコーヒーを一口飲んだ。
    「いま不意に… 陰謀論のことを話したマイルズさんの言葉を思い出したの。彼の言った『コンスピラシーというのは、静けさの中で一緒に呼吸するという意味を持っています』という言葉が、今度は思考のトレーニングで話した『本当の自分を生きること』と言った言葉に変わったの。その瞬間、『私っていったい誰だろう』って、そんな変な声がたった今この瞬間、頭の中で聞こえたんです。あんまり大きな声で言うと、頭がおかしいと思われるから小さな声で言うけど、心で思ったんじゃなくて、思考の中で誰かが語りかけてくるみたいに、確かにいま、頭の中で言われた気がしたの」
    「ハハハ、それ、本当? もしかしたらそれは、君自身の声だよ。たまに聞く『セルフ』というやつじゃないかな」
    「セルフ?」
    「でもこの話は僕らが求めている知見を広げるためのテーマの枠外じゃないかな」
    「そ、そのセルフというのは、どんな枠になるの?」
    「え~と… た、たぶんスピリチュアル系というやつだと思うけど」
    「スピリチュアル?…」
    「よそう、この話は。ある特定に人にしか感じられない… 何か自然、超自然的なスピリットとの邂逅のようなもので、神の声が聞こえたとか、神を見たとか… ん~ 昔のインディアンというのかシャーマンというのか、はたまた呪術師というのか。とにかく科学的な証明は一切ない『誰かがそれを見たと言って疑わない』類のものだ。陰謀論と同じだよ。人は一般的にそう仮定することですべての謎が腑に落ちるんだ。何でもそれの所為にすれば済む。そうすれば人間は考える必要はなくなって、文明は発達しなくなるだろうね」
    「それじゃあ、雄大さんは、いわゆる唯物論者ですか?」
     雄大は知花の質問にしばらくの間半分口を開いたままだった。やがて下を向くと残ったアイスコーヒーの氷が小さくなるのを観察するようにストローでかき混ぜ始めた。知花は黙ったまま答えてくれない彼に何か悪いことを言ったのかなと一瞬思ったが、すぐに『自己嫌悪』という目的地に向かうバスを思い浮かべた。そして彼女はバス停でバスの運転手に、『私はこのバスには乗りません』とはっきりと言った。やがて彼が質問に答えるための言葉が見つからないんだという雰囲気のようなものが伝わってくるのに気がついた。
    『この不思議な感覚をどのようにして留めておく事ができるだろう』
    知花はいまこの瞬間に起きたことをどこかに閉じ込めておきたいと必死になって追いかけたが、一瞬感じたそれは、もうどこかへ消えていた。
    「…まいったな~ 君のその質問にどう答えたらいいかわからないよ… 実際僕も科学的に物事を考える論理的思考で研究をしているからね… でもマイルズの講義はそれとは少し違った見方をする。だから君の質問に対する答えは『はい』であり、同時に『いいえ』だ。ただ君からのその質問を受けたとき浮かんできたのが、立場や場合によって分けられるものなのかという疑問だったんだ」
     雄大は、知花とどこか遠くを重ね合わせるように見つめた。彼女も彼から目を逸らすことはなかった。やがて彼は何度か瞬きをしながら視線を外すと、力なく呟いた。
    「実は、……っているんだ………」
    「えっ?」
    彼は擦り切れそうな声で何かを話したが、巨大な空間の雑音(ノイズ)が彼の声を吸い取り、知花は彼から流れてくる寂しさのような感覚に、アルコール依存症で入院していた自分の姿が重なった。彼は視線を上に向け、仰ぐように遠い窓から差し込む光を見つめた。
    しばらくすると店内に広がるコーヒーの香りに混ざって、香ばしく焼かれたガーリックの匂いが漂ってきた。
    「行こうか」
    「ええ」
     知花は、立ち上がってもまだはるか遠くにある天井と広い空間に、一瞬立ち眩みを起こすような不安を感じた。彼の後ろを歩きながらカフェのドアを潜り抜けると、眩しさと蒸し暑い都会の空気に包まれた。雄大は優しく知花の右側を歩いた。目の前に建つ東京駅とカフェの雰囲気が重なって、二人だけどこか見知らぬ外国にいるように感じた。
    「またメールする。さっきのカフェでテーマにしようとしていたことが、もしかしたら見当違いなんじゃないかって、そう思えてきたんだ。二、三日中に連絡するよ」
     彼と別れて中央線に乗り込んだ時、急に日常に戻った感じがした。知花は電車に揺られながら、聞き取れなかった彼の声を探してみようと目を閉じた。
    唯物論者という言葉が雄大の心を揺さぶったのは間違いないような気がした。彼が話したように、研究者はすべて科学的であり論理的思考でなければならない。しかし彼がスタッフを務めるマイルズの講義では、瞑想法や陰謀論、そして精神や心に関する内容に踏み込んだものが多くある。これは唯物論から外れた概念になるが、そこには科学では証明できない真理が隠されているのではないかというマイルズの考えがあった。雄大は科学的でなければならない彼の研究と、マイルズの多角的視点から見える別の世界観の狭間で揺れ動いているのかもしれない。
    知花は祖母と行った講演会と自分で選んで参加したマイルズの講義から、自分が少しだけ成長した気がした。意識して考え、意識して選択し、意識して行動することでずっと止まったままだった自分自身が動き出しているように感じた。
     
    『高橋雄大 様
     先日はいろいろとお話させていただき、ありがとうございました。
     メールにあった帝国大学の博士たちの講演会ですが、是非参加したいと思いますので、よろしくお願いします。
     また、先日のカフェもごちそうさまでした。
     それでは来週の土曜日の一二時三〇分に新宿駅の小田急線の改札口前で待っています』
     
     メールを書き終えてエンターキーを打ち込んだ時、胸に電気が走るような痛みを感じた。
    『できることなら、彼に付いた嘘を削除してしまいたい…』
     雄大の顔が浮かび、マイルズの顔が浮かぶと再び胃に錘がのしかかり、一気に地の底に落ち込むような気分に襲われた。
    「またか」
     知花は処方箋の袋から包装シートのカプセルを親指で押し出すとゴクリと飲み込んでベッドに横たわった。これが知花に不可欠な薬だったが、いつもこのようなものを服用しなければならないと考えると更に胸が押されるようだった。
    『事件』
     その言葉を遣った時の雄大の顔が浮かんだ。
    『本当は、あの日、私は、何をしていたんだろう?』
     頭痛によってフラッシュバックのように映し出されるいつもの映像には、たくさんの大人たちに囲まれた幼い知花がいた。そして大人たちに何かを言われているところに母が現れた。眠りに落ちる直前に見えたその映像が、夢なのかそれとも実際の記憶なのか、区別は付かなかった。
     
              4
     
     まだ暑さの残る九月中旬の土曜日、知花は祖母に買ってもらった中で一番お気に入りのコーデを選んだ。それは黒色のガーリーなカギ編みレースのトップスとベージュ色のたっぷりとした太めのワイドパンツ、そして踵の付いた黒のサンダル姿で、新宿駅の小田急線改札口で雄大を持っていた。
    「おはよう」
     元気よく知花に声をかける高橋は、マイルズスタッフとして着ているコーデと同じで、薄いブルーの半袖ボタンダウンシャツとチノパンに茶色の革のスニーカースタイルで現れた。
    男性の服装はスーツのように決まりきっている。色や柄などでシーンに合わせるのだろうが、色を抜けばみんな同じに見える。男性は会う相手も同じ服装なのでそれに合わせることが必要だと聞いたことがあるが、彼のいつもの襟付きの半袖シャツと紐靴は、社会人としての心構えなのか、毎日似たようなスタイルの方がいちいち考えなくてもいいと考えているからか、少し不思議に思えた。男性に比べて女性の服装選びは非常に面倒だ。しかしそれを楽しむことができるのが女性としての喜びだと祖母から教わり、知花はファッションに気を遣うようになった。混み合う電車の中では雄大と会話らしい会話をすることがなかった知花は、勝手な妄想をしながら楽しんでいた。
    田町駅に着くと、二人は講演会の会場に向かって歩き始めた。
     
    「雄大さん、大学では、具体的にはどんなことをしているんですか?」
    「どんなことって、研究のこと?」
    「そ、そうです。大学の研究というのが今ひとつイメージできなくて」
    「そうだな~ 一口に研究といっても、説明するのは難しいんだけど… 犯罪心理学と聞けば、犯人の心の中を言い当てるような研究をしていると思われるんだけど、理論に基づいた仮説と定量的データから、犯罪に関する一般傾向の抽出を探っているんだ。そして、そこから何故犯罪や非行のような反社会的行動が生じるのか、そして、そうした行動にはどのような意味があるのかということを考察する。かなり大雑把な言い方だけど」
    「なんだか難しそうですね」
    「そ、そうだね。確かに気が滅入るよ。ところで知花さんの専攻は何?」
    「け、経営学部です」
     最近は祖母から会社経営に関するいろいろな話を聞いていたので、経営やマネジメントに興味があったのは事実だが、咄嗟に答える必要があったので嘘に嘘を重ねてしまった。そして次はこの嘘を隠すために話題を変えざるを得なくなった。
    「雄大さんは研究とマイルズのお手伝いのほかは何をしているんですか? 趣味とか、ないんですか?」
    「最近はあまり行っていないんだけど、スキューバダイビングで、伊豆あたりで潜っているんだ」
    「ダイビングですか? すご~い。なんか、羨ましいです」
     雄大は照れたように笑った。
    「数年前にはサイパンにも行ったんだ」
    「サイパンって、あのグアム・サイパンのサイパンですか?」
    「そう。地図で見ると小さなあの島だ。空き地が空港になっているような場所で、森やジャングルはあるけど高い山はない。観光地として整備されているガラパンという地区とススペという地区には大きなホテルが立ち並んでいる。大きなホテルの他にはショッピングセンターもあって、施設内だけでも一日中楽しめる。海は抜群にきれいで、日本の伊豆諸島とは違い遠浅で、五〇メートル位沖に行っても水深は股下程度だったりするんだ。所々に太平洋戦争の名残の戦車が海から頭をのぞかせているんだけど、それを見ると、どこか現実離れしていて違和感を覚えるんだ。でもその違和感が美しいものの中にある変なものというよりも、美しいのが当たり前だと思ってやって来た僕の無知というのか、そこにかつての戦場を思い描けない平和ボケした方がおかしいのかもしれないけどね。海の中から頭を覗かせる戦車以外の風景は自然そのものなのに… サイパンは小さな島にある自然にリゾート地が売りの観光地なんだけど、一旦海に潜ればそこはまったくの別世界なんだ。浅瀬に広がるサンゴ礁とカラフルな無数の熱帯魚たち、入り組んだ崖のようなダイナミックな地形の奥に果てしないグランブルーの海が沈み込んでいる。谷の間を遊覧しているかのように泳ぐホワイトチップシャークやトビエイ、その大パノラマの中にいる自分を考えてしまうと、ぽつんと水の中に浮かんでいる小さなプランクトンのように感じて、とてつもなく恐ろしくなるんだ」
     雄大は目を細めながらサイパンで見たことを知花に話した。ぱっと明るくなったように話した彼の横顔が印象的だった。思わず付いた嘘をうまくごまかせたと同時に、彼の豊かな経験に距離感を覚えて、寂しさのような冷たい風が頭に描いたサイパンの景色の中に吹いたようだった。
    「どうしてダイビングを始めたんですか?」
     彼は一瞬固まったように手で頭をかきながら「従兄に、誘われたんだ」と呟くように答えた。知花は彼の話の続きをしばらく待ったが、彼はそれ以上喋らずに沈黙した。
    「君の、その、大学だけど…」
    「雄大さん、私もっとダイビングの話を聞きたいんですけど。サイパンは何日間行っていたんですか?」
    「え、え~っと~ 六日間だったかな。潜らない人は二泊三日程度で行くのが一般的みたいだよね。ガラパンに泊まって遊んで、ススペに足を伸ばしてどこかのショッピングセンターで買い物すれば、充実した三日間を過ごせるからね。東京までは三時間半だから、あまり疲れることもない。でも、海に潜る予定の人は、有名なポイントを回るのに二日じゃ足りない。そう、ダイビングするときは空気タンクを背負うんだけど、中に入っているのが圧搾した空気だ。その空気の七〇パーセントが窒素で、この窒素分子というのは酸素に比べてとても大きいんだ。空気タンクから呼吸するというのは、水深によって異なった圧力を体に受けながら呼吸することになる。潜っているときには何も感じないんだけど、耳だけは水圧を敏感に感知するんだ。君も聞いたことがあると思うんだけど、耳に圧力を感じると耳が痛くなる。鼻を摘んで両耳から空気を押し出すことで、外側からの水圧と耳の内側の圧力がイーブンになって耳の痛みが消える。これが耳抜というやつだ」
    「え~、なんだか怖そう」
    「大丈夫。それで、水中で呼吸するというのは体が水圧を受けることになるから、実際には体が水圧で小さくなっているんだ。耳以外は感じないけどね。同じように、吸う空気の体積も圧縮される。ダイビングではこうして小さくなった窒素も血中に溶け込んでしまうんだ。水の中から出ると血中に溶けている窒素分子が膨れるんだ。これは時間が経てば自然に体から抜けるんだけど、飛行機に乗れば気圧が下がる。そうなれば血中に溶けている窒素も膨れる。機内に持ち込んだポテトチップスの袋が破裂するほどパンパンになっている映像を見たことがあると思うけど、それと同じ。だからディープダイブといって、四〇メートルを超える水深に一定時間以上ダイビングした日に飛行機に乗ることは禁止されているんだ。血管が窒素の泡だらけになって、血液が流れなくなる『潜水病』になるからね。もし飛行機の中でそうなれば、死んでしまうんだ」
    「やっぱり怖いじゃないですか、それ~」
    「何が危険かをわかった上で楽しんでいるんだよ。それはスキーも水泳も、柔道、剣道などのスポーツもみんなそうだよ。君がそう思うのは、スキューバダイビングをする機会がなかったからそれに関する知識を得ることもなかった。それだけさ」
    「じゃあ、サイパンでは、ダイビングばかりしていたんですか?」
    「そうだね。ずっと潜っていたような気がする」
    「羨ましいなあ、自由で」
    「でも僕だってさっき話したように、普段は気の滅入ってしまいそうな研究と格闘しているし、サイパンに行って以来、どの海にも潜っていないんだよね~ 実は卒業旅行を兼ねて行ったんだ。でも、仮にそのまま普通のサラリーマンになっていたとしても、どこかに潜りに出かける機会はなかっただろうな~」
     ちらっと横目に入った雄大の横顔が少し寂しそうに見えた。
    「ダイビングって、確か免許が…」
    「そうだね。『オープンウォーター』というライセンスを取得する必要がある。それがないと現地でタンクを貸してもらえない。ツアーに参加しても現地ガイドは必ずこのライセンスを確認するからね。君も興味があればチャレンジしたほうがいいよ。やりたいことを躊躇っていると、何もできないまま年だけ取ることになるよ」
     
     二人は講演会の会場に到着すると、雄大は受付でチケットを購入して講演会のチラシを受け取リ、一部を知花に渡すとロビーのソファに腰掛けた。
    「ようやくエアコンが効いた場所にたどり着いたね。九月になって少し涼しくなってきたと思ったけど、まだまだ暑いね。一五分も歩けば汗が引くのにも時間がかかるよ。君は長袖だけど大丈夫? 暑くないの?」
    「これはシースルーでたくさん隙間があるからとても涼しいの。歩くと隙間から空気が流れるように入ってきてとても涼しく感じるのよ。半袖よりも気持ちいいわ」
    「へ~。ところで、今回の講演会は脳科学や分子生物学とかいう僕らの専攻とはちょっと違う分野だけど、何が聞けるか楽しみだね」
    「ええ、初めて行った講演会も、まったく興味のなかった歴史の話だったけど、かなり面白かった。だから今回も期待します。でも、マイルズさんの脳科学の話につながる感じがして面白そうですね。よくこの講演会を見つけましたね」
     雄大は知花の質問にすぐに反応せず、少し間を開けて答えた。
    「…ああ、僕もこの講演会を見つけたときは不思議な感じがしたんだ。確かに、聞きたい話を狙い撃ちのように聞けるというのはなかなか難しい。興味ある講演者でも興味のある話をしてくれるとは限らないし、逆にまったく興味のない演題から面白い話が聞けることもある。そう考えれば、行ける場所や日時に合わせて講演会を選択するのも有りだと思ったんだ。今回も基本的にはそうして選んだんだけど、まさかマイルズの講義で聞いた脳科学のことについて僕らが話し合って、そしてこの講演会… 本当に、そんなことがあるんだな~」
     
     今まで脳科学にも生物学にも興味のなかった二人だったが、全国各地から講演依頼される博士たちの巧みな話術によって、今まで常識だと思い込んでいたことがひっくり返されて、そこから驚きと感動が溢れると、否応なく博士たちの研究に興味が湧いてきた。
     そして、つい先日出会ったばかりの雄大のことは、大学の犯罪心理学の研究者だということ以外何も知らなかったが、一緒に聞いた講演会の内容とその感想を交換するうちにお互いの考えが共鳴して距離が近くなった気がした。そして今回、博士たちの話す内容がかなり興味深かっただけに、想像の粋が広がると帰り道の会話は止まらなくなっていた。
    「あの博士たちの講演には驚いてしまったわ」
    「そうだね。生物はすべてその細胞が日々入れ替わっていることは知っていたけど」
    「そう、『私』という概念。すべてが入れ替わるのになぜ、『私という概念』はそのまま存在しうるのか? 生命とは動的平衡… 科学はいまもまだ生物を機械的に考えているけど『食事をする』という生物にとっての根本的な行為さえ、従来の学説では説明できなくなっている。研究を重ねても機械的代謝などは、観察されることはなかった」
    「そうそう。食べ物を取り込んだネズミ、そのネズミの体を作っている細胞が食べ物の代わりに抜け出ていったということがわかり、つまりそれは、どんどん生まれ変わっていく細胞、いままで個体と思って疑わなかったこの体は、実は『流体』で、まるで気体のようにガス状のものが緩く淀んでいるに過ぎない。まるで量子力学の世界だ」
    「食事を通して絶え間なく他の生命体の生命を取り入れて、役目を終えて自分から抜け出していった細胞はまた別の生命体に引き渡され、それはあるときには生命体ではない鍾乳洞のようなものになったり、また海の藻のようなものになったりするけど、地球全体としての質量はそれほど変わらずに、それがぐるぐる廻っている」
    「その回しているひとつひとつの力が…」
    「『生命現象!』」
     二人で合唱するように講演会で聞いた話を口に出すと、知花の顔は笑顔が咲いたように輝いた。雄大も一緒に笑った。
    「あー 僕らはいったい、どれだけ無知なんだろう」
     そう呟いた雄大の言葉が、知花の耳にこだまするようにリフレインした。
    「忘れないうちに講演会で聞いたことを詳細にメモしたいわ」
    雄大は知花のために田町駅の直ぐ側にある喫茶店に入った。
     
    二人は広いスペースにあるゆったりとしたソファに腰を沈めた。ウェイターが水の入ったタンブラーとおしぼりを運んできた。
    「何にする?」
    「私はホットコーヒー」
    「すいません。ホットとアイス」
     雄大は袋に入ったおしぼりを取り出すとそれを広げて顔を拭いた。知花は見慣れない所作に戸惑いながらもトートバッグの中からノートとペンケースを取り出すと、臙脂色のボールペンを手に取った。彼は額にかいた汗を拭うと、ひんやりとした涼しい空調にシャツの胸元をパタパタさせて涼んでいた。
    「いつもノートなの?」
    「えっ?」
    「君はノート派?」
     知花は彼の話した言葉の意味がわからないというように首を傾げた。
    「学内で講義を受けるときに、いわゆるノートを使う人がほとんどいなくなったって思っていたんだけど…」
    「じゃあ、何に書くの?」
    「ん? みんなルーズリーフ使っていない? そうか、君はまだ一年生だからかなあ」
     雄大は独り言のように呟くとタンブラーの水をゴクリと飲み込んだ。
     知花はルーズリーフという言葉が妙に頭の中に引っかかり、ノートの端の方に無意識に小さくルーズリーフとメモをしていた。
     講演会で書いたメモを見ながら博士たちの言葉を思い出そうとしたが、彼の言ったルーズリーフという言葉が頭の中で渦巻いていた。
    『…DNAの二重螺旋構造というものが明らかになって、生命というものはどんどん機械的に解釈され、DNAとは自己複製する機械のようなものだと定義されていく…』
     無理やりノートに書いた文字を読んでも、あの博士の語った次の言葉が思い出せなかった。
    「おまたせしました。ホットコーヒーの方は?」
     雄大は、右手を知花に向けてウェイターに合図した。ウェイターは二つのコーヒーをテーブルの上にそっと置いた。まだ火照りが修まらない様子の彼は再びおしぼりを広げて額の汗を拭った。知花は思い出すのを諦めたようにノートを閉じてテーブルの上に置くと、コーヒーカップのソーサーを手前に引いてカップを持ち上げた。
     雄大が湯気の立ち上がるコーヒーを見てフーっと大きく息を吐くのが目に入ると、彼の頭の中には講演会で聞いた話の興味が既に消えているように感じ、知花は講演内容の質問をしようとした言葉を飲み込んだ。
     小さなテーブルを挟んで腰掛けている雄大との距離はすごく近かったが、スタンドコーヒーショップでたまたま隣合わせになった見ず知らずの人のようにも感じた。
    「ルーズリーフ…」
     無意識に口をついた言葉に、ストローでアイスコーヒーを吸う雄大の目だけがギョロッと反応して知花を捉えた。
    「…教科ごとにノートを持っているとバッグが重くなる。でもルーズリーフを一冊持っていれば、自宅に帰ってから整理できるし、勉強の途中に書き込みたいときに便利でしょ? だからうちの大学ではほとんどがルーズリーフなんだよね~ それにノートだと、全部使い切らないでしょ」
     コーヒーカップを持ったまま雄大の言葉を想像してみた。そこにはまだ経験していない大学生のリアルな実情というものがあるのを感じた。そして、簡単についてしまった嘘を埋め合わせるのは至難の業のような気がした。思い出そうとした講義は、頭の中で始まったお喋りの所為で、脳に穴があいてそこから記憶がダダ漏れしながら流れ落ちているように感じた。知花はスーッと落ちるようにソファに背中を沈めた。
    「暑いから頭も回らないよ。真面目なんだな、君は。慌てないで、自宅に戻ってからゆっくりと思い出せばいいさ」
     
     この喫茶店では一杯のコーヒーだけで長時間居続けられるようで、大抵のお客は一時間程滞在する。隣席との距離も十分にあり居心地は良かった。知花は同じようにソファに深く背を預けてリラックスしている雄大を見ながら、深く腰掛ければお互いの距離が倍以上に感じるのを、ただ感じていた。この場所に入る前まではあれほど楽しく話していたのに、中に入ってからは講演会での会話は一切していない。思い出したくても、あの高ぶった気分がどこかに消えてしまった。
    『ルーズリーフ』
     代わりに、この言葉が知花の頭に付き刺さっていた。
    隣の席の客が立ち上がってレジに行った。別の席にいた客も立ち上がってレジに行った。
    ようやく暑さが落ち着いた様子の雄大は、真剣な顔で何かを考えているようだった。知花はソファから背中を離すと手前に座り直してさっきのノートを広げた。挟んであったボールペンを掴むと、もう一度ノートに書いたメモを読み始めた。
    『…GP2遺伝子を削除したノックアウトマウスはどうしてGP2遺伝子がないにもかかわらず普通のマウスと同様に平衡を保てるのか? それは私たちを構成している分子や原子が単にそこにはめ込まれているのではなく、互いに絶え間なく関係性を保ちながら入れ替わっているからだ。それはちょうどジグソーパズルのピースのようなもので、真ん中のピースが失われても周囲のピースがあれば、欠けた場所のピースの場所と意味が補われる…』
     知花は同じ箇所を何度か読んでみたが、その後に続く博士の言葉を思い出せずにいた。ふと顔を上げると雄大と目が合った。
    「どうしたの? 難しい顔して」
    「書き取れなかった博士の言葉がどうしても思い出せなくて」
    「ちょっと見せて」
     彼が知花のノートを取り上げると、書かれたメモを読み始めた。
    「なるほど、なるほど~ このあとは確か~ 『マウスは通常のマウス同様に生き続けた。生命というのをもっともっと長い時間軸で考える必要がある…』」
     記憶をたどりながら調子が出てきた雄大はフニャフニャのおしぼりをマイクに見立てて博士を物真似するように話し始めた。
    「『…生命には部分的なものはない。生命というのは、長い時間軸の流れだ。他の生物すべてが地球環境を共有しようとしているのに、人間だけが占有しようとしている。人間はその場のことしか考えないし、部分を取り出そうとするし、ダムや有明海の堤防のように常に流れを堰き止めて、そこに、ある種の効率だけを求めようとしている』と、まあ、こんな感じだったかな」
    「すご~い」
     知花は大げさに手を叩く仕草を見せた。
    「よく覚えていますね」
     彼は照れたように笑い、知花も一緒に笑った。
    知花はほんの僅かな時間の中で浮き沈みする自分自身の気分に辟易しながらも、今日を明るく乗り切れそうなことに安堵感を覚えた。タンブラーの水が空になった頃、再びウェイターがやってきて水を注いでくれた。
    「さっきの講演会でいろいろと参考になる話が聞けましたけど、雄大さんの意見を聞かせてほしいんです」
    「ん~ 今でも生命に対する科学的概念は機械的なもので、遺伝子や体の構造を機械や工場のように考えている。それはつまり、すべてが独立して、部分的機能が存在して… ん~ その遺伝子という設計図があって、必要に応じて複製されていく… そういうような機械的な生命観が主流なんだろうけど、でも博士たちは、生命とは長い時間軸の中で成長して交換して変化していくにもかかわらず、全体として一定のバランス、つまり恒常性が保たれるという生命現象を一九〇〇年代のなんとかという学者が既に提唱していたことを話していた…。ここで僕が思うのは、これはひとりの研究者の勝手な説とみなされて、一九〇〇年当時は相当馬鹿げた話と思われていた。最近になって、実はそれが正しかったんだと見直され始めたに過ぎない。最近盛んに言われるようになった量子力学も、アインシュタインは死ぬまでありえないと認めなかった。現在ではそれが明らかになりつつあるよね。でも、世の中で常識になっている主流と言われる説とは別の説が常にあって、新しい説を証明することができれば、常識がひっくり返るということになるはずだ。ところが大きな問題がある。それは、主流派学説を唱えるグループがそれを許さないことだ。少々新しいことが証明されてもそれを馬鹿にしてあざ笑い、もう少し強く出てくればそれを猛烈にバッシングし、誰の目にもそれが明らかだと浸透するころになればあたかも自分たちもそう思っていたかのように振る舞う」
     彼はそう言うと難しい顔をした。
    「でも、こうして君と話していると、勝手な思い込みによって聞き間違えることも、せっかく聞いた内容を忘れてしまうことも減るので助かるよ。マイルズの講義は一ヶ月に一度の割合であるけど、僕は君と意見交換できる状況に非常に満足しているんだ。君の勉強の邪魔はしないから、今後もテーマを決めて意見交換できる場を持ちたいんだけど、どうかな?」
    「わ、私は構いませんけど、私、そんなにいろんな知識は持っていませんが…」
    「知識は関係ない、大切なのは考え方と、聞いて学んで実践することだよ。聞いたことを頭に入れたあとでそれを口に出して誰かと話すことで、ようやく実践につながっていくような気がするんだ、こんなふうに自由に話し合えることがとてもいいと思うんだ。場所はまた後で考えて… それでよければ、またメールしてもいいかな?」
    「え、ええ、もちろん」
    「それと、今度研究室のゼミでミーティングとパーティを兼ねたことをする予定なんだ。ぜひ君にも参加してほしいと考えているんだ。みんな大歓迎だよ」
     知花は少し悩みながらも中途半端に頷いていた。知らないメンバーの中に入り込むことに抵抗感があったが、彼の誘いをすぐに断ることも出来なかった。
    「大丈夫、みんなとてもフレンドリーだ。メンバーは全員ゼミの四年生だ。場所は僕の住んでいるマンションだから、何ひとつ気を遣うことはない。それに、今後の君の大学生活の役に立つかもしれない」
     知花は黙ったまま頷く素振りを見せたものの、内心は不安が先行していた。気づけばまたきょろきょろオドオドする悪い癖が出ていた。
     
     彼と別れた後、中央線に乗り換えるために新宿駅の構内を歩きながら、大学生だと嘘をついたことが独り歩きし始めているという実感に囚われた。
    『嘘』
     知花は雄大に付いた嘘について考えてみた。
    『初めて会った人との些細な会話で付いた嘘だった。大学生かと訊かれれば「ハイ」と言うしかなかった。初めて会う人に「私は浪人生です。少し前まではアルコール依存症で入院していました」と言うことはできない。ただそれだけだった。そのはずなのに… 彼と会うたび、付いた嘘も一緒に付いて来る』
    そう思った途端、錘が胃の中に沈み込むような感覚を覚え、同時に深い底の中に引き摺り込まれるような倦怠感が襲ってきた。倒れ込むように中央線のホームのベンチに腰掛けて処方箋を飲み込んだ。
    ゆっくりと薬が効いて頭痛が軽くなると、頭の片隅に残る『嘘』という文字が薄れていくように感じた。痛みが消えると同時に、嘘に対する罪悪感も柔らかくなった。ぼーっと薄い灰色をした空の雲が、そのまま心にも浮かんでいるようだった。
     
     中野駅からの帰り道、薄い雲が濃い色になったかと思ったら大粒の雨が降り出してきた。急いで祖母宅まで戻った知花は、玄関に入るとフーっと大きく息を吐いた。本降りの雨には遭わなかったものの、お気に入りのカギ編みレースのトップスは湿っぽくなって、ワイドパンツの裾には泥跳ねが付いていた。
    「は~っ…」
     知花はため息のように舌打ちをしながら、着ていた衣服を丸めてクリーニング用の袋に詰め込んだ。ルームウェアに着替えてベッドに横になると雄大の愛嬌のある顔が浮かんできた。出かけた疲労感の他に特別感じるものはなかったが、涙が溢れてきた。知花はその涙を感じながらそれを言葉にはしないでじっと涙に焦点を当ててみた。頭の中には突然相席を申し込んできた雄大と受付でしどろもどろに説明する雄大、そして駅までたくさんの話をして歩いたことと『ルーズリーフ』という実体験のないモノの形が現れ、それが雲に姿を変えて浮かんでいた。
    「知花ちゃ~ん、夕食の準備、始めるわよ~」
     一階から祖母の声が聞こえてきた。知花はベッドから起き上がって涙を拭くと「は~い」と大きな声で返事をした。
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
              5
     
     予備校の日、知花は教室の中を見渡してルーズリーフを使っている人を探した。すると予備校生のなかにもルーズリーフを使っている人たちが何人かいた。しかしほとんどの予備校生は普通のノートを使っていた。彼女はノートがルーズリーフに置き換わる感覚がうまく想像できないままだった。
    『今度あの新しくできたお店に行って、お好み焼き食べよう』
     授業中に頭に浮かんできた中学生時代の映像の中に雄大の姿が現れた。誰かと一緒に出かけることがこんなにも心をときめかせることが不思議に思われた。そして言葉を遣わずに、湧き上がるその気持ちをじっくりとそのまま感じてみた。
    『部室に集まる同級生たちの顔、一緒に歩く帰り道、最近できたお好み焼き屋の話題… そして雄大の顔、会話が止まることなく一緒に歩いた道… とても楽しかった』
    『楽しかった…』
    最後に感情を言葉で表現した途端、実体験は単なる文字に置き換えられ、映像が挟み込まれるように隠されて、頭の隅へと消えていった。同時にあの脳科学博士の言葉が蘇ってきた。
     
    『…人間は言葉によってカテゴリ分けをする特殊な生き物です。例えば「お茶」という言葉は、お茶とそれ以外のものとを区別します。しかしその一方で、お茶とお茶を区別しない。どれもこれもお茶であればみんなお茶ということになりますね。でも動物には人間のようにカテゴリ分けをする概念がないんです。今ここに集まっている大勢の方々がいますが、我々人間から見ればそれはすべて人間であり、お客様であり、聴講者です。しかしここに犬を一匹連れてくれば、この犬は皆さん方を見て非常に怖がります。それはなぜかと言うと、犬にはみんなそれぞれの人が違って見えるからです。そして犬にはその違いがひと目でわかるんです。動物はカテゴリ分けをすることなく、すべてのすべてを絶対音感のように区別します。しかし人間だけが違うんですね。人間というのは、個々それぞれから感じるこの感覚の違いを無視することによって混乱することから逃げた生物とも言えるわけです。人間は目で見ているこの世界を自動的にカテゴリ分類して、相当いい加減に見ています。犬や猫が見ている世界と比較すれば、我々が見ている世界はモザイクみたいなものでしょう。そして犬や猫が喋らないことを馬鹿だと考えています。彼らに向かってお前ら動物は進化していないと言うわけです。しかし私は思うんですが、人間こそが犬や猫に自分がしていることを説明できない。人間のほうがよっぽど馬鹿なんじゃじゃないのかと…』
     あの時、ペンを持つ手が止まっていた。博士の言葉に本当に耳を傾けていた自分がいた。メモなど不要だった。今もその言葉どおりに思い出せるのが不思議だった。
    言葉はカテゴリ分けをして、だからその瞬間にリアリティすべてが失われてしまう。特に感情を言葉にすれば、自分自身のリアルな感情が、言葉にしにくい感情が『見出し』のようなものに置き換わる。その瞬間伝えたいことのほんの僅かな情報を相手に伝えることはできるが、本物はその瞬間に消えてしまう。
    ワインのテイスティングでは、様々な表現を使ってその香りや味を表現するが、それがまさにリアリティを究極に表現したいとする思いの現れなのかもしれない。香りを果実や花にたとえ、藁や草やときには猫の小便など、意外性を用いて例える映像を見たことがある。いくつかのルールを作ってお互いに表現し合って楽しむ世界が、人間社会にもまだ残っているのかもしれない。
    『でも感情を説明するのは難しい。ワインのように同じものを共有できないから』
     
    予備校から家に戻ってからも勉強の合間に様々なことが頭をよぎった。講演者たちの研究内容や観察眼は鋭く、またとても純粋なものに思えた。そして逆の立場にいる自分の映像が浮かんでくると心のなかに不甲斐なさとなって現れてきた。
    『嘘』
    『もしあの水泳部の仲間たちに、私が何か嘘を付いていたとしたら、あの日あんなに楽しくお好み焼き屋に行けただろうか?』
    『嘘』
     彼とお互いこのまま二度と会わなければ、あんな嘘などどうでもいいことだ。このまま友達のように一年、二年と会う機会を作ってしまえば、その期間が長くなるほど心の負担は大きくなるに違いない。
    『嘘…、嘘…』
     両親に隠れて酒を飲んでいたことが頭に浮かんだ。
    『あれは、ただの、頭痛薬… 黙っていたのは…』
     また胃に錘がぶら下がってきた。襲いかかるように降ってくる倦怠感と、その後には頭痛が襲ってきた。知花は急いで処方箋を飲み込むとベッドに横になった。
    『何なの? 私の、私の何がいけないの? どうして、どうして私だけがこんなに辛い思いをしなければならないの?』
     
    数日後に届いた雄大からのメールには次回の待ち合わせ場所の日時だけが記載されていた。
    そしてその日知花が太めのグレンチェックのパンツにボーダー柄のカットソー姿で待ち合わせ場所に立っていたのは、祖母宅から歩いて一〇分の場所にある中野区役所前のけやき通りだった。
     ビッビッ
     短いクラクションに振り返ると、ソフトトップを開放した白いスポーツカーに乗って手を振る雄大の姿が目に入った。
    「おはよう。待った?」
    「ううん、いま来たところ」
    「さあ、乗って」
     彼は付けていたシートベルトを外すと運転席に乗ったまま助手席のドアを押し開けて知花に乗り込むように促した。
    「雄大さん、こんなに派手な車に乗っていたんですね」
    「ハハハ。従兄から借りてきたんだ。マツダのロードスターだよ。コンパクトでレスポンスもいい。今日はこれで出かけよう」
     彼は知花を乗せると中野駅を背に、南に向かって走り出した。いつも自動車教習所で運転するAT車とは違い、教本で見ただけのマニュアル車を器用に運転する彼の左手首に視線が向いた。
    「この場所でオープンカーはちょっと恥ずかしいな」
    道路を歩行者のようにゆっくりと進む車の列が止まるタイミングで、彼は座席の後ろにあるノブを押し上げ、飛び出してきたソフトトップの先端を引き上げると、それをフロントガラスの上部に装着してロックレバーをかけた。知花はその様子を見ながら「ベビーカーのカバーみたいで面白いですね」と笑った。彼はその言葉を聞くとお笑い芸人がずっこけるようなリアクションを取った。
    「じゅ、渋滞中のオープンカーは変に目立つし、排気ガスのニオイがするから、渋滞から抜けたらまたオープンにしよう」 
     彼の話したように大久保通りも山手通りも渋滞していた。カーナビゲーションにも渋滞を表示する赤いラインが続いていた。車は大久保通りから山手通りに入り池尻大橋に向かった。
     
    しばらく走るとカーオーディオから流れてくる曲に気持ちが惹き込まれた。心のなかに浸透するような曲は透明感があり、旋律には黄金律が秘められているかのようだった。今まで何度も聞いたことのあるこの旋律が知花の心のなかに染み込むように響いて、うっとりするような声に酔いしれるような感覚を覚えたのだが、歌手の名前を思い出せないでいた。
    「この曲…」
    「そう、『Imagine』だよ」
     口角を上げて反応した彼の顔から、とても好きなんだろうと思った。
    「すごく素敵な声よね。歌っている人、誰だったかしら?」
    「ジョン・レノンだよ」
    「ジョン・レノン…」
    「えっ? 知らないわけないよね?」
    「ええ。でも、名前が出てこなかった… ずいぶん、懐かしい感じがするわ。古いって言いたいわけじゃなく、この曲のことを、ずっと長い間、忘れていたような気がする」
    「ハハハ… 僕も古いって感じたことはないな~ 街なかでもよく流れているからかな。これは多分従兄の達也さんの親父さんが好きだったんじゃないかな~ 生産限定盤のCDボックスを持っていたから、達也さんがそこからSDカードに音源を入れたんだと思う。確かに懐かしい。当時はまだレコードの時代だからね」
     ゆったりとした音楽は今のような多重スピーカーで表現できるほど多くのマイクで集音したわけではないので、耳に届く音も一般的なステレオだったが、遠くにある懐かしさが漂っていた。
     
     初台南出入り口にたどり着くとそこから首都高速に入った。それでもまだ渋滞は続いていて、大橋ジャンクションから東名川崎インターチェンジのゲートをくぐり東名高速道路に入ったところでようやく渋滞から開放された。雄大は三速のままアクセルを踏み込むとスピードメーターが一気に一〇〇キロを超えた。そのまま四速、そして五速とギアを上げ六速にシフトチェンジするとクラッチペダルから足を離してフーっと息を吐いた。
    「そういえばメールに書いた今日の勉強会だけど… 今日は僕が講義したいと考えているんだ」
    「雄大さんが?」
    「そう。そして今日のディスカッションの場所は、江ノ島海岸だ」
    「江ノ島?」
    「もう九月の終わりだから人も少なくて、ちょうどいい感じかな」
    「ふ~ん。そこで何の講義をするんですか?」
    「少し枠を超えた心理学についてだ。心理学を少し別の視点から考えてみたいと思っているんだ。大学の研究ではなくマイルズや他の講義で得た知識を君に話してみたいと思う。今まで聞いてきた話の上手な先生とは違って、僕のにわか知識を披露することがいいのかどうかわからないけど、前みたいにまた君といろんな話ができればいいと思っている。運転中は意識が飛び飛びになってしまうから、詳細についてはまた後で話すよ」
     東名高速に入ってわずか二五分で藤沢インターチェンジに到着した。
    「あと二〇分くらいで目的地に到着するけど、どうして海に来たかと言うと… テーマを決めて話すだけなら公園でもいいしホテルのロビーでもいい。この前のようなカフェでもいい。でも田町での講演会の帰り道のように、誰にも邪魔されずに話していられる場所が欲しくて、あの時歩きながら話したときは猛烈な勢いで頭が回転していたような気がして…、なんとかその再現を試みたいって思ったんだ。カフェもロビーもどうしても周りの人に気を遣うし、雰囲気に慣れるまで時間もかかる。車の中だったらって思ったんだけど、実際運転してみれば、どうしても運転に意識がいってしまう事がわかったよ。特にこのマニュアル車じゃ… ハハハ」
    「その従兄の方は、この車がなくて、大丈夫なんですか?」
    「実は、不動産会社を経営していて何台も車を持っているんだけど、僕が車貸してって言ったら、達也さんが今日はこれを貸してくれたんだ。いつもは借りるときに荷物を運んだりするとかなんとか理由を言って借りているんだけど、今回は理由を言わずに貸してって言ったもんだから… 今朝この車を見て僕も少し驚いたんだ。でも、今日はこの車で何か問題があることはないから素直にありがとうって… 乗ってしばらくしてから、あれっ、これマニュアルじゃんって、気づいたんだ。これじゃあどうしても運転に集中してしまうよ」
     雄大はそう言いながら忙しそうにシフトチェンジを繰り返していた。知花はAT専用免許を選択して本当に良かったと思った。
     
     程なく前方に海が見えてきた。海岸線を暫く走ると駐車場があり、そこに入るとようやく車を停めてエンジンを切った。
    「やっぱり気持ちいな~ 海だ、海だよ」
     嬉しそうにはしゃぐ雄大の声を聞きながら知花も車から降りた。
    「ソフトトップ開けるの、すっかり忘れていたな~」
     エアコンの効いた車内から外に出ると、海風のじっとりした空気に包まれたが、久しぶりに見た海が気分を開放してくれた。二人は車から降りると海岸に向かって歩き出した。
    「もうこの時間は誰もいないか… この辺りに吹く海からの風は決まって早朝に吹くんだ。海風がないと波が立たない。だから出勤前に波乗りする健康的なサーファーが多いんだ。穏やかな日でも早朝だけは波が来るんだ」
     雄大は目を細めながら海にいる人を数えるように見渡した。
     ふたりは海岸線に沿って舗装された歩道を歩いた。歩道の法面(のりめん)は階段状に設置されたコンクリートブロックになっていて、階段を降りれば砂浜が広がっている。雄大は階段状に広がるコンクリートブロックのひとつに腰掛けた。知花は彼より少し下に降りると、手で眉の上をかざしながら海を見つめた。
    「それで、今日の講義は何ですか?」
     知花は振り返って雄大の傍に行くと彼の隣に腰を下した。彼はすぐには答えずに目を細めながら海を見つめていた。
    「達也さんに勧められて始めたサーフィンだったけど、僕は勘違いしていたんだ」
     彼からは質問とはまったく違う言葉が返ってきた。知花は黙って海を見ていた。
    「サーフィンをしている人は、好きだから、単純に、サーフィンが好きだからしているんだ。そんなことが、ずっとわからなかったんだ。いつか話したスキューバダイビングも、実は同じ理由で始めたんだ。こっちのほうも試してみようって… 結局続かなくて… だから、いまはもう両方ともしてない」
     彼は途切れながら話し始めたが、言葉に力はなく、意味もよくわからなかった。
    「自分に自信がないんだ。ハハハ… これはもちろん講義のテーマじゃないよ。でも海に来ると、海を見ていたら、人は感傷的になるのかもしれない…」
     彼はとぎれとぎれに話を続けた。
    「何故だか、ここに来たかった」
    雄大は過去を話しているようだったが、知花には彼の過去に興味はなく、なかなか始まらない講義に、黙って海を見ながら待っていた。
    「ここに来て、まさか感傷的になるとは思ってもみなかったけど、でも…」
     知花は静かに海を見ていると、遠い昔、まだ幼いころに両親と行った海の光景がぼんやりと浮かんできた。
    『あれは、どこの海だったんだろう』
     海水浴に来ている人は多かったが、海岸から離れれば車も渋滞しないような片側一車線の道路で、その先には広い田んぼの風景がどこまでも続いていた。
     
    みゃー みゃー
    「ほら、お前も早く海が見たいのかい?」
     バッグ型のペットキャリーを肩に担いだ老婆が、知花たちの近くまでやってきてペットキャリーをコンクリートブロックの上においた。老婆がファスナーを開けると中から白地に薄茶色のブチ模様の猫が顔を出した。老婆はファスナーを開けてバッグをテントのように変形させて風通しを良くしながら猫に話しかけた。
    「ほら、ミミ、海だよ~」
     猫はバッグから顔を出したが外に出ようとはしなかった。臆病なのか海よりも私たちがすぐ近くにいることを警戒しているのかもしれなかった。
    『…そうだ。確か、海で捨て猫を拾ったことがあった…』
    突然知花の脳裏に、いつか海で拾った猫の姿が浮かび、その猫を父が自宅に連れて帰ってくれた出来事が浮かんできた。あの猫も白と薄茶色のブチ模様だった。
    『そう言えばあの猫、どこへ行ったんだろう?』
     遠い昔、両親と一緒にでかけた海で猫を拾った。そんなかすかな記憶が知花の脳裏に浮かび上がった。
     老婆がバッグの中に腕を入れてそっと猫を抱きかかえると、彼女の腕に爪を立ててしがみついた猫の下半身がブランと力なく揺れた。彼女は猫の下半身を腕の中に包み込むように抱き直すとコンクリートブロックの上に腰掛けた。
    「はあ~ 気持ちいいわね~ ミミ」
     老婆はゆっくりと背中をコンクリートに預けながらお腹の上に猫を乗せた。バランスを取るために両腕を広げた猫の下半身はやはりダラリとしていた。彼女はその様子を見ている知花に説明するように話し始めた。
    「この子は交通事故でこうなったんよ。私が飼っていたわけじゃなかったんだけど、事故を見たものだから… 私が引き取ることにしたのよ~ こんなふうになってしまえば、ひとりで生きていけないからね~」
     知花は返事をする代わりに立ち上がって猫の傍に行くと、頭を撫でた。
     びゃ~~~~ びゃ~~~~
    「大丈夫よ、ミミ。そんなに怯えないで~ よしよし…」
    「そう… あなた、そうだったの…」
     知花は猫に話しかけながら頭を撫でたが、猫は老婆以外には懐かないようで、彼女への警戒心を露骨に表した。
     
    雄大は海を見て感傷的な気持ちを解きほぐすように何度か大きく呼吸した。
    「ダイビングに行けなくなったんじゃなく、行かなくなったの?」
     雄大の傍に座り直した知花は、感傷的になっている彼に話しかけてみた。彼は何度か短く頷いた。
    「そんなことを思い出すとは思わなかったけど… こうして喋ってしまえば不思議なくらい落ち着くもんだな」
    「他に言いたいことがあったら、聞きますよ」
     彼は知花を見て「フッ」と鼻で笑うように息を吐いた。彼女はバカにされたと思い彼から顔を背けると、彼は慌てて取り繕うように言い訳した。
    「そんなつもりじゃなかったんだ。ごめん… ありがとうって言いたかったんだけど、それに近い言葉が見つからなかったんだ… 怒らないでね。おかげで気分が落ち着いたよ」
    「それは良かったですね」
     知花は少しツンとして答えた。彼は浮かない顔のまま話し始めた。
    「行かなくなった… ますますよくわからなくなって、行けなくなった」
     彼はそういいながら何度か短く頷くと、どうしても開けたくない箱を開けざるを得ないようなもったいぶった緊張感を漂わせながら話し始めた。
    「僕は~ は~… そうだな~ 中学生くらいから自分の容姿にコンプレックスがあったんだ。ふ~… でも実際にはそれは些細なことだった。大学ではサークルや合コンで出会いの機会はたくさんあるけど、改めてモテない自分に気づいたんだ。そうなればどうにかしたいと思うのが男で、だから友人たちを見返したくて達也さんにサーフィンやダイビングを教えてもらったんだ」
     知花は趣旨のよくわからない話を聞かされながらも気持ちは老婆と猫に向いていた。
    『彼には自分の容姿にコンプレックスがある』
    それだけは理解できたと頭の中で整理した。彼の言うとおり、感傷的になっている所為なのだろうと思い、しばらく黙っていることにした。
    「『当たって砕けろ』って言うけど、僕はこう見えても基本的には積極的なんだ。でも女子ウケしたことはなかった。全敗だ。ダイビングでは必ず二人一組で潜る事になっている。僕は達也さんと潜る以外はいつも一人で参加していたから、同じように一人で参加する女の子とバディを組みたかったんだけど、二〇本近く潜って女の子とバディを組んだことが一度もない。一緒に潜ると同じ魚影を見るから、海から上がった後の会話はバディ同士で盛り上がるんだ。ボートの上で初めて出会った男女がカップルになっていくのを何度か目撃したこともあった。そんなこと、すっかり忘れていたんだけど、何故か急に思い出して…」
     
     みゃー みゃー みゃー
     ウミネコというだけあって、ウミネコもミャーミャーと鳴いていた。
    雄大の声は耳には届いていたが、話は頭の中には入ってこなかった。彼は勝手に海に来て、勝手に傷心的になって、勝手に自分のモテないことを話し始めた。
    知花は男性と付き合ったことはなく、片思いに悩んだ記憶もなかった。避けてきたわけではなく、彼と同じく出会いがなかっただけだった。しかし彼のようにそれを望んだことは、今まで一度もなかった。
    『私にはその資格がない』
     不意に、そんな言葉が浮かび上がった。 
    『大日女学院大学です』
    嘘は過去のことだったが、今日もまた、その嘘を一緒に持って来ていた。雄大とは違い恋愛などに悩むほど幸せな青春を過ごしてきた訳ではなく、加えてあの嘘がべったりと背中に張り付いていた。
    『喋ってしまえば不思議なくらい落ち着くもんだな』
    彼の言葉は正しいと思えたが、知花の口には固く閉じた貝のように『沈黙』という得体のしれないものがぶら下がっていた。
    『私には、重くて暗くて… 自分でもわかっていない何かがある』
     あの猫を見て、消え去ったように忘れていた出来事があったことを思い出した。
    『幼いときの記憶というのはそんなに簡単に綺麗サッパリと忘れてしまうものなのだろうか? 一五年前の記憶が抜けていくなら、私が三五歳になれば、今日のこともほとんど思い出せなくなってしまうのだろうか?』
     
    『あなた、チコはどうするの? 連れていけるの?』
    『いや、だめだ。関東圏の社宅は全部ペット禁止なんだ。置いていくしかない。大丈夫だよ、猫は一匹でも生きていける』
    「チコ…」
     飼っていた猫の名前さえも忘れてしまっていた。そのチコを、捨ててきたことさえも。
    『どうして私は抵抗しなかったんだろう? 何も、覚えていない…』
     
    「…ということで僕はサーフィンやダイビングを始めた。いまではもうそんなことさえもすっかり忘れるほど、当時強く抱いていたコンプレックスは、いまはもうない、と思う。まさかこんな場所でそんなどうでもいいことを思い出すなんて、まったく想像もしなかった。でも、おかげでスッキリしたよ。腹減ったな~ どこかで飯でも食べようか」
     雄大の話はほとんど耳に届いていなかったが、知花は黙って腰を上げた。そしてまた老婆の腹の上で横たわる猫に「バイバイ」と挨拶した。
    「えっ、知っているの?」
     彼が知花の様子を見てトンチンカンなことを言ったので思わず笑ってしまった。
    車まで戻ると日光で熱くなった車内に彼が思わずソフトトップを開放した。
    「すごく熱くなっている。さあて、どこに行こうか?」
    雄大はそう言いながらカーナビゲーションで近所にあるレストランを探した。
    「今日はパスタが食べたいな」独り言のように言いながら行き先をセティングすると、『目的地まで三〇〇メートル、約一分で到着します』と案内が流れた。
    「…歩こうか」
     彼は再びソフトトップを閉めるとエンジンを切ってドアをロックした。
     
     全国各地にチェーン展開しているこのイタリア料理レストランはお手頃価格でパスタやピザを食べられる。二人は大きな漁師風パスタのラージサイズをひとつ注文すると、それを二人でシェアすることにした。店を出た知花は男性と一緒に食事をするのが二回目になったと、頭の中に『2』という数字を思い浮かべて、新しく始まった東京での記憶を忘れないようにしっかりと焼き付けるようにした。
     
    「雄大さんは昔の記憶、どこまでありますか?」
    「昔の記憶? そうだな~ 小学校までは割とよく覚えているかな、結構断片的だけど。どうして?」
    「私は~ 幼稚園の頃の記憶はほとんど無いんです。小学校もかなり断片的で…」
    「ふ~ん、それが、どうしたの?」
    「みんなどれだけ記憶を遡ることができるのか、ちょっと、気になっただけです」
    「小学校の記憶が断片的って言ったけど、小学校か幼稚園の時に、何かショックな出来事とか、あったわけ?」
     知花の足が止まった。
    「ど、どうして、そう思うんですか?」
    「えっ、ん~ そういうのって、大抵過去にショックな事があったときに~ 何というのか、自分で自分の記憶を消すことがあるんだよ。その際すっぽり消してしまうこともあるから、その時期の記憶がなかったりするんだ」
    「それって、どうやったら思い出すことができるんですか?」
    「それは~ そんな専門的な機関はないんだよ。よく聞くのが後退催眠療法で、催眠術で過去を思い出すという方法もあるらしいけど… 君は、自分がそうだと思うの?」
    「わからないの。でも家にいると急に自分自身ことがわからなくなって、私、頭痛持ちで、でも多分一般的なものではなくて、どう言えばいいのか、重くて鈍くて、覆いかぶさってくるような倦怠感に襲われるの。鬱状態のようになってひどく落ち込む。そうなってしまえば頭痛が始まる。重くて鈍い痛みが脳にズーンと響き渡る感じで…」
    「…そうなんだ。薬か何か飲むの?」
    「ええ、一応毎日処方箋は持ち歩いているわ」
     知花は頭痛と関連があるかもしれない消えた記憶の事について、それ以上雄大にうまく説明できず、二人は駐車場まで戻ってきた。
    雄大は気を利かせたつもりで「場所、変えてみようか?」と言ったが、知花は「もしよければさっきと同じ場所で話すことはできるかしら」と答えた。ふたりはそのまま歩道を歩いて午前中にいた場所に着くと、既にあの猫と老婆の姿はなかった。
    「雄大さんはこの場所で大丈夫ですか?」
    「うん、大丈夫。さっきのことは忘れてよ」
    「ええ、全然気にしてないです。でも海って不思議ですね」
    「…そうだよね~」
     知花は猫と海のかすかな思い出を感じながらコンクリートブロックの上に腰を下ろした。海は穏やかで波際を歩く人の姿が見えた。猫はいなくなっていたがウミネコの鳴き声が聞こえていた。彼に意識を傾けると午前中のような感傷的な感じはなく、静かに知花の準備が整うのを待っているようだった。知花は彼が言った『ショックな出来事』という言葉を聞いて、自分自身が消し去った思い出がある気がしてならなくなっていた。その手がかりになるのが、猫と海かもしれない。
    『でも… 今は、もうこれ以上深く辿ることはできないだろう…』
     
    「ごめんなさい。も、もう、大丈夫です」
    「そう? それでは、僕の講義、行きますか?」
    「ハイ、お願いします」
    「それでは講義のテーマを発表します。テーマは、『シンクロニシティ』についてです」
    「シンクロニシティ…?」
    「一般的にシンクロニシティといえば、ユングが提唱した概念で、『意味のある偶然の一致』を指し、日本語では主に『共時性』とか『同時性』もしくは『同時発生』と訳される場合もある。因果関係がない二つの事象が、類似性と近接性を持つことだ。例えば… ネットで注文したブルーのドレスが届いて箱を開けた時、色はブルーではなくブラックだった。その夜葬式に出る夢を見て、翌日に親戚の訃報が届いた。これはシンクロニシティが起きたと考えるべきなんだ。ユングはこれを「非因果的連関の原理」と呼んだ。さて知花さん、あなたの記憶にあるシンクロニシティを挙げてその経験を話してください」
     知花は、予想外のテーマと普段気に留めたこともない概念に何も答えられずにいた。雄大はそれを予想していたかのようにシンクロニシティについて語り始めた。
    「いいかい、これは僕が本や雑誌で読んだことだけど、とても面白かったので記憶に残っているんだ。まず僕の話を聞いて、何か思うことがあれば意見を述べてほしい」
     海を見るように座っていた雄大は、知花の正面に座り直した。知花は一瞬彼の視線から目を逸らしそうになったが、奥歯をぐっと噛んで意識的に彼の顔を見た。雄大は知花にフォーカスされたことを確認するとゆっくりと話し始めた。
    「実はシンクロニシティには二面性がある。良いことばかり起こることをシンクロニシティとして表現することが多いけど、自分の意識が敏感になればどんなことも具現化してしまうのがシンクロニシティだ。例えばこんな考え方がある。この世には客観的な世界などなく、全ては自分の思考が創造した産物だ。実際客観的な世界が存在する可能性は概念のみが独り歩きしていて常識のように思われているけど、科学的には一切確認されていないし、基本的にその確率はゼロだと言われている。この世界のすべては人間の五感が捉えたものを脳に投影させ、自分勝手な認識を与えているに過ぎない。誰もが、それぞれに」
     雄大は、知花が話について来ているか確認するように一旦話を止めた。知花は頭の中で彼の話を噛み砕くのに一生懸命だった。シンクロニシティの序文とも取れる彼の前置きは難しく聞こえたが、構成する文脈は理解できた。彼女はあえて何も喋ることなく、軽く頷いて彼に話の続きを促した。
    「じゃあ行くよ。人間がいない世界は存在しうるのだろうか? 誰もこの世界を認識できない世界は、あり得るのだろうか? 誰も認識できないのに、そこに、何らかの世界があるというSFのような客観世界は、本当に存在するのだろうか? 誰もいない森の巨木が倒れるとき、音はするのだろうか? 音は人間が勝手に感知する発想とも捉えることができる。ハエに音が聞こえているのかは確認されていないし、猫が耳で捉える周波数は人間と同じ音とは限らない。つまり、結論を言えば倒木の音はしないことになる。存在というのは、認知されることで初めて実証される。誰にも認知されないものは存在し得ないんだ。音というのはいまのところ人間だけに確認されている現象なんだ。この事をよくよく思考すればとんでもない話になるんだ。この世に誰もいなければ、宇宙が存在するかどうかなど確認しようがない。三島由紀夫の言葉『俺が死んだら宇宙は消える』というのは、実は正しかったんじゃないのか? そしてこの問いは、すべての人の人生に非常に深く関係していると考えるべきなんだ。君がどこで、誰に会い、そしてどうなるかというのは、その時々の出来事によって大きく変わってしまう。シンクロニシティとは偶然の一致などではなく自分の心の働き、意識の動きだという極論のことを言っているんだ。まさにこの考えは唯物論の真逆の『唯心論』だよ。心しかないんだよ、この世界は。アインシュタイン曰く『物質などない。物質は単にエネルギーの変化のスピードが遅くなっている過程のことだ。だから時間も空間も存在しない』…ではいったい何があるのか? 先日聞いた博士らの話も、人間の体は個体ではなく流体だと話していた。そしてマイルズ曰く、日本人は心で思ったことはすべて具現化するということを知った民族だ。だからこそ感情を他人に見せないようにしたと考えられる。自己管理をして悪い考えを浮かばないようにした。だから成功したいなら謙虚になり、トイレ掃除とか他人のために嫌な仕事をすればいいという日本人独特の考え方になる。日本以外どこの世界にもない文化だ。『individuality(インディヴィデュアリティ)』つまり個性化という言葉があるけど、これは本当の個人になるという意味で、心理的プロセスを意味する。単に年をとって大人になるという意味ではなく、通過儀礼があり大人になる。本当の自分になろうと思う人は必ずシンクロニシティとのバトルが発生する。『私の人生は偶然ではない』という壁にぶつかる。でも、個性化しようと思わない人はたくさんいる。大人になろうとしない。自分の頭で考えようとしない。そのような人は間違いなくシンクロニシティについて何もわからないまま死んでいく。このような人が大半を占めている現代だから、この世界は全部偶然だということに決めつけられてしまっているんだよ!」
     雄大の熱弁が終わった後、知花の口は半開き状態だった。物事というのか世界観というのか、正確な言葉は見つからなかったが、雄大の話は半分詭弁に聞こえた。
    「シンクロニシティの世界観ではそういうことになるって、そう言いたいんですね?」
    「マイルズが言っていたんだけど、シンクロニシティに気づかなければ、心がこの世界を作り出しているということに気づかなければ、とてつもなく恐ろしい。これが世界の問題だって。だからそういう考え方を君は受け入れることができるかという、僕からの問いかけだよ」
     知花はあまりに突拍子もないテーマに、しばらく何も答えることができないままだった。
    「ん~ そのテーマを出したのは、以前私が雄大さんに『あなたは唯物論者ですか?』と聞いたからですか?」
     彼はしばらく腕を組みながら考え込むような仕草で下を向いていた。
    「マイルズの講義で、僕が最も考えさせられた部分だったんだ。だから誰かとこの話を共有したかった。あのときは、うまく言葉にできなかった。だから少しでも表現できるように勉強し直してきたんだけど…」
    「私、いきなりそう言われても、ナンセンスにしか聞こえませんでした。今の話の前後に何かないんですか? それだけ言われても『はいそうですか』って、なかなか言えないと思うんですが」
    「そうだよね…」
     彼は頑張って話したことが空振りしたというショックで再び海の方を向いてため息を付いた。
    「君は、嘘のがん治療薬の話を聞いたことがあるかい?」
    「いいえ、何ですか、それ?」
    「実際にあった話なんだ… ユングによって唱えられたプラシーボ効果というのがあるんだけど、これは日本語で言えば気休め効果で、例えば、『これは効果がある薬です』そう言われれば、効果の成分がなくても効果が出てしまうというものなんだ。シンクロニシティもこれに関係する」
     知花は雄大の横顔を見ながら軽く顎を上下させた。
    「ある実験で、『これは最近開発されたばかりの癌の特効薬です』そう言って、ただの食塩水を患者に点滴投与したところ、癌が治ったという報告があったんだ。実験は更に続けられた。ほぼ完治したその患者に医者はこう話した。『先日から行っていた新薬ですが、実はあれ、製薬会社のデタラメだったことがわかりました。ただの食塩水を販売していたんです』そう告白したところ、この患者は再び癌になった。そしてどんどん癌が転移した。医者は患者にまた同じ話をしたんだ。『今度こそ間違いない治療薬が開発されました』って。そうしたらこの患者の癌がまた治っていったんだ。これを繰り返しているうちに患者は亡くなったんだ」
    「それは、本当のこと?」
    「本当だ。一九〇〇年代は日本も含め、あらゆる国々で人体実験が行われていたから。でもこのプラシーボ効果の話だけど、これは欧米ではもはや常識になっているけど日本の医学界ではこれを一切認めていないんだ。実際欧米では薬の効果の七〇パーセントはプラシーボ効果だって言われている。つまり、どこまで自分の思いが物質世界につながっているのか、少なくともつながっているんじゃないかって、暗に示しているんじゃないかと思うんだ。その患者のように、心と物質は一つの現象の二つの側面に過ぎなくて、両者はまったく別々のものではないということだ。君は心というものがどこにあるのか説明できるかい?」
    「心がどこに? どこにあるのかって…」
    「そう、誰も説明できないんだ。脳だったら? 脳のどの部分? 心臓だったら? 心臓のどこ? ユングが言うシンクロニシティの定義は、外の現象界における出来事と自分の心にある状態が偶然にマッチングしてしまって、そこで意味を成すことを意味しているんだ。意味のある偶然の一致、その偶然の一致に対し、そこに意味があるとわかった瞬間… 何か感じることがある。それは、それを感じたときにすーっと自分の中に何かを理解したモノが入ってくるような… そんな、体験…」
     かすれて消えるように口を閉じる彼を見ながら、知花には話の核心がわからないままだった。少しだけ考えてみたが理解できなかった。彼もそれ以上説明できなくなったようでがっくりと肩を落としていた。
    「最近特にこのシンクロニシティが気になっていたんで、マイルズに聞いたり自分で調べたりしていたんだ。自分では整理できたつもりだったんだけど、人に聞かせるにはまだまだ勉強不足だったな~」
    「それって、格好つけたということですか?」
    「ハハハ… そ、そうなのかな? …そうかもね。そういうことにしておいてくれ…」
     知花は彼の真面目な冗談に本気で付き合ってしまったことが少しだけおかしかった。そして少し笑ったらいつの間にか暗い気分が消えていた。
    『確かに、体の不調は心の不調の現れなのかもかもしれない。私も気づかないうちに普段から心と物質の関係をたくさん体験しているのかもしれない』
     知花は忘れている何かを思い出したくて、しばらく海を見ていたが、雄大は溜まった思いを流し出すように遠くの海を見つめているように見えた。
     
    「これは僕が勝手に考えていることだけど…」
     しばらく黙っていた雄大は、そこまで言うと一呼吸するように口を閉じた。さっきの話の失敗から言葉を選んでいるのか、再び話し出すまでに時間がかかった。
    「今の科学は… いまの科学は唯物論科学で、科学者のほとんどが『意識』とか『心』というものすべてが脳神経において起きるものだと断言しているんだ。当然僕にはその真相はわからないけど、ほんの少し前まで僕もそう思っていた。でもいつか君と話をしたときには、スピリチュアルを否定したけど… 本当のことを言うと、スピリチュアルは真理の重要な要素だと思っているんだ。もし科学者の言うのが正しい場合、シンクロニシティはあり得ないことになる。そうなればすべてが分離しているということになる。でも、物質の世界と心の世界を科学しようとしないことこそ、いまの科学の盲信じゃないのかなって思うんだ」
    「あの~ ひとつ聞いてもいいですか?」
    「どうぞ」
    「前にも質問しましたけど、研究室ではそんな非科学的な研究もしているんですか?」
    「なるほど… こんな話をされれば、そう思うよね。なんかそうするとますますシンクロニシティを感じるなあ…」
     彼は知花に振り向くと儚い笑みを浮かべてしばらく笑っていた。
    「午前中に僕が急に傷心的になったけど、実は、というか、まさかこの話を誰かにすることになるなんて… まったく、考えてもみなかった…」
     彼は一旦話を切ると、かなり深刻そうな顔で話し出すタイミングを探すようにしていた。彼はさっきの箱の中に、さらにもう一つ別の箱を隠しているようだった。そしてゴクリと唾を飲み込むと大きく息をフーっと吐いてゆっくりとその箱を開け始めた。
    「僕のいる犯罪心理学の研究室は、少年犯罪に特化した研究室なんだ。そこで少し前から指摘され始めたのが発達障害という概念なんだ。これは完全に先天性の病気で、生まれつき脳の働き方の違いによって幼児の頃からその行動面や情緒面に、ある種の特徴が見られるんだ。特徴は様々で、例えば… ある人は、集団行動が苦手で勝手気ままでわがままだと診断される。一九八〇年代頃から少年による恐ろしい犯罪がいくつも起きているけど、近年これが発達障害と関係していることがわかってきたんだ。法務省の下には矯正局というのがあるんだけど、少年鑑別所はその配下にある。矯正局では、罪を犯した少年がどのような家庭環境でそのような性格になったのか、それがどうして犯罪に結びついたのかを分析して、社会復帰させるための矯正教育のプログラムを作成しているんだ。二〇〇〇年くらいまではそこには発達障害という概念はなくて、犯罪との因果関係も無視されてきた。しかしその後、そういった少年たちの中には、認識され始めた発達障害だと正式に診断されたケースもあった。でも少年の凶悪事件では発達障害という言葉は使われずに、意図的に愛着障害とか行為障害という言葉が使われてきた。発達障害は先天的なものだけど、愛着障害や行為障害は後天性で、二つは一緒じゃない。対応の仕方を間違えれば、矯正教育は無意味になる。発達障害は脳機能の障害で、根本的な治療方法はないんだけど、障害の出方や程度を軽くすることは可能なんだ」
    「……なんだかとっても難しそうね」
    「それはまあ、そうなんだけど… 僕らにはその矯正施設に研究者として訪れて、実際に矯正プログラムを受けている少年たちを見学する機会があるんだ…」
     彼はまた海に顔を向けると、遠くを見ながらその続きを話し始めた。
    「先天性の脳機能障害者の中で、特定の分野に突出した能力を発揮する人のことをサヴァン症候群と呼んだりする。例えば、膨大な数の数字を瞬時に暗記できたり、一瞬見ただけの写真を細部まで描き写せたり、並外れた計算ができる者もいれば、語学の天才で数か国語を自由に操ることができる者もいる。自閉症の人のうち、約一〇人に一人がサヴァン症候群だと言われているんだ。ほら、有名人ではエジソンやモーツアルトなんかがそうだったと言われているよね。実は、施設にいる少年たちの発達障害者の中には、それ以外の、説明できない… 不思議な能力を持った少年もいるんだ……」
     
    「え~っと、高橋くん、ちょっと来てよ」
     研究室に顔を出した教授に呼ばれた高橋雄大は、書類整理をしている手を止めて教授の後を追いかけた。
    「今からゼミ室へ行くんだけど、卒論の関係でゼミの四年生の何人かを矯正医療センターに連れて行って欲しんだ。本当は私が付き添うはずだったんだけど、国際会議で論文を発表することになったもんで、英語版を作る作業に追われていて、悪いんだけどさ~」
     教授はゼミの学生たちに予定変更について説明をすると、参加希望者を確認して訪問日程の調整を始めた。雄大は教授の代理として学生たちに付き添うことになった。犯罪心理学を専攻する大学でのテーマに欠かせないのが犯罪を繰り返さない方法を研究することだが、そのためには現在の更生プログラムを知った上で、現場を見て理解することも必要だった。実際に矯正プログラムを受けている少年たちを見て会話する機会が与えられれば、よりリアリティのある研究材料になる。
     その日雄大は、学生五名を引率して立川駅北口からバスに乗って矯正医療センターへ向かった。この場所は最近作られた施設で、関東地区にあったいくつかの医療刑務所と少年鑑別所が統合合併された施設だった。受付で来訪申請を確認後、身分証や学生証を提示すると持ってきたスマートフォンや電子機器のたぐいはすべて受付のコンテナケースの中に預けて、渡された白衣を着用して腕には来訪者と書かれた腕章を付けた。そしてノートとペンだけを持って集合すると、法務教官から見学するにあたっての諸注意と施設の説明を受けた。施設内における医師の人数や少年一人に対して主治医と担当看護師及び担当教官の三名が連携して治療と教育にあたっていることなどが説明されると、学生たちは一斉にメモを取り始めた。
     広大な敷地内には矯正医療センターの他に国連アジア極東犯罪防止研修所、法務総合研究所などが入っている。雄大たちは矯正医療センターに案内されて、廊下から少年たちが受ける更生プログラムを見学した。一般的な矯正教育は、生活指導、教科指導、職業指導、体育指導、特別活動指導の五つのプログラムがある。雄大たちは矯正教育の中の職業指導を見学した。この職業指導の目的は、勤労意欲の喚起と職業上有効な技能の習得だった。少年院では私語を禁止しており、教官が見守る中、皆黙々と作業に取り組んでいた。
    歩きながらしばらく黙って作業の様子を見ていたゼミ長が法務教官に手を上げて質問した。
    「ひとつ質問があるのですが」
    「静かな声でお願いします」
    「すいません。ここでは私語禁止ということですが、法務教官殿(どの)を通して彼らに質問するのは可能でしょうか?」
    「まあ、犯した事件のことや個人的な質問でなければ、許可しますよ」
     ゼミ生たちは前もって考えてきた質問を書いたメモを取り出すと法務教官を通して少年たちに質問を始めた。彼らはリーダー的に質問するゼミ長と案内人の法務教官を取り囲むように集まった。雄大は一番後方でその様子をうかがいながら周囲をウロウロしていたとき、直ぐ傍で作業していたひとりの少年の肩に触れてしまった。
    「おっと、ごめんなさい」
    雄大は、作業する少年の手を止めたことをすぐに謝った。少年は無視するように何も答えず作業を再開し、雄大もゼミ生たちのいる場所に行こうとした瞬間、少年は周囲には聞こえない小さな声で独り言のように話し始めた。
    「…クククッ… なんだ、お前。好きだった女の子が忘れられないんだな。それでその娘、弄ばれて殺されんだ~ それがきっかけでこんな研究はじめたのか… でも道を間違えたな。犯人は捕まんないし、研究すればするほど、憎しみだけが増す。俺もお前も、基本的には同じ。違いは、行動した俺と何もできないお前。とりあえず満足した俺、不満足なままのお前。クククッ…」
     雄大はゆっくりと振り返りながらその少年を見た。作業台で黙々と作業する少年は、無表情のまま雄大を一瞥した。
    「…高橋さん、高橋さん! 次に行きますよ。こっち、こっち」
     雄大は何度か法務教官に促されてようやく我に返り、足が動いた。あの声が本当にその少年が話したものかどうか、それとも幻聴だったのか、確認する方法はなかったが、シャツは汗でべっとりと濡れていた。
     
     雄大はうつろな眼差しであの日の出来事を話した。当時の状況がそのまま映し出されるように雄大の首筋は汗で光っていた。知花は何も言わずに彼の話を想像していた。この江ノ島海岸が、まるで雄大の人生を発表するステージのように思えた。
    「実は昔、ある事件があったんだ。あの少年が言い当てたのが僕の従妹に起きた事件だ。その事件は全国ニュースでも大きく取り上げられたんだ。もうずいぶん昔のことだけどね。僕は毎日その事件の犯人が逮捕されるのを待っていた。事件が迷宮入りしてくると、僕は犯人逮捕の役に立ちたいと思った。でもそれはもう、叶わぬ夢に終わっていることは、頭では理解していた。それでも、なんとかしたい気持ちがあって、犯罪心理学という分野に足を踏み入れた。でもいつの間にかどこかに流されているんだ。そのひとつがさっき話したコンプレックスなんだけど、同時に犯罪心理学の研究は、僕の中で行き詰まっていたんだ。難しい話になるから詳しくは言わないけど、司法と法務省とが持つそれぞれの見解が、犯罪心理学を研究することにはまったく意味がないとしか聞こえなくなったんだ。加えて同じ時期に、あの少年に、あんなことを言い当てられ、自分に感じていた無能感が、行き場を失ったようにくるくると回転し始めた… そんなときに出会ったのがマイルズ・スクールだった。今日のこの場所は、自分で決めておいてアレだけど、シンクロニシティは、実はこのことなのかな~って、いまこうしていると、不思議で、とても怖い気がする」
    「…雄大さんも、深い悩みがあるんですね」
    「ああ。でも本当に、シンクロニシティだったよ。これほど笑える話もないよね。見識を広げるという目的で君とこのテーマを話し合うために江ノ島までやってきた。でも… 自分が今までしてきたこと全部、忘れていたんだ。研究しても、雑念ばかりで… 動(やや)もすれば、犯人に対する憎しみしか浮かんでこないんだ。あの少年に言い当てられたことで、人生すべてが空回りしていると思ったんだ」
     知花には彼に掛ける言葉が見つからなかった。ただ落ち着くのを待つ以外ないと思われた。そして彼から意識を外すと、静かに海を見た。シンクロニシティに対する興味はそれほど感じなかったが、頭の中には『猫と海』の映像が漂っていた。
     
     
     
     
              6
     
    透き通るような江ノ島の気持ち良い景色と、雄大の傷心的な姿に触れた不思議な光景が、その後数日間に渡って知花の中で彷徨っていた。江ノ島海岸で出会ったあの猫が、知花のはるか遠い記憶の一部を蘇らせたことで、あれ以来、猫とどこかの海の記憶を探し続けていた。しかしあの海の側にあった公園で見つけた箱の中の捨て猫を父が連れて帰ってくれた記憶のほかは何も思い出せずにいた。さいたま市に住む両親に問い合わせればわかると思われたが、病院から脱走して以来両親とは一度も連絡していないままだった。
    「ねえ、おばあちゃん。一つ教えてほしいんだけど、私の自宅はさいたま市にあるけど、その前のことはよく覚えていないの」
    「あら、それはいったいどういうこと?」
    「大したことじゃないんだけど、先日海を見たの。そうしたら昔家族で行った海を思い出しちゃって、でもそこがどこの海だったか覚えてなくって…」
    「あ~あ、そうだったの。それは多分北海道の海だよ」
    「北海道?」
    「おやおや、あんたの生まれたのも札幌。それから何年間かそこにいて、それからさいたま市に行ったのよ」
     祖母からの回答は意外だった。北海道で生まれ育ったのはもちろん知っているが、頭に浮かんだ海とは違う気がしていたからだ。札幌から日帰りで海水浴へ行ったのだろうか。インターネットを使って検索してみると、札幌市内から高速道路に乗って一時間ほどでおたるドリームビーチ海水浴場というのがあった。その辺りを航空写真で見ると、海の雰囲気は似ている気はしたが、周囲には記憶のない森が広がっていて、また一面に広がっているはずの田園風景もなかった。しばらく北海道の海水浴場を見ていたがやはり記憶のイメージとは異なっているように思えた。それから部屋に籠もって猫と海の事を考えたがやはりそれ以上のことは思い出せなかった。やがて雄大の話した医療少年院での話が蘇ってくると、海を見て感傷的になった彼の悲しそうな顔が目に浮かんできた。
    『あの日は、きっと彼のために彼自身が創造したシンクロニシティだったんだ』
     
     その日の夕方、雄大からメールが届いた。
    『渡辺知花 様
    先日の江ノ島での件、誠にありがとうございました。
    さて、来週の金曜日にマイルズ・スクールが開講されます。
     現在の予定ですが、以下のようになっております。
     一コマ目 進化論と現代科学
     二コマ目 究極の敵
     三コマ目 善人と悪人を操るゲーム
     四コマ目 先端科学と心の叡智
     以上ですが、例によってお昼と四コマ後のお茶にお付き合いしていただければ講義の受講券を差し上げますので、お付き合いよろしくお願いします。
     また、先日話しました我が研究室のミーティング及びパーティの開催の案内をしたいと思います。
     場所は私のマンションです。(添付の地図を参照願います)物がない広々さと数人でのミーティングに丁度いいという理由から、昨年よりうちが会場となっています。フードデリバリーや各人の持ち込みで必要なものはすべて計画して準備しますので、一切お気遣いなく手ぶらでいらしてください。ゼミ生共々渡辺様とお話できるのを楽しみにお待ちしております。
     なお、添付にて正式な案内状を送付しますので、よろしくお願いします。
                                      高橋雄大』
     
     パーティに出席するのはあまり気乗りしなかったが、初めて自分で行動を起こしたことで知見と見識が広がっていることを実感していた。何もしないで部屋に閉じこもっていることもできたが、それでは何一つ前には進めない。それに、病院から抜け出して祖母の自宅へと転がり込んだことによって講演会というものの存在を知った。祖母の話したとおり、自分の意志で行動することが唯一自分を導くことなのかもしれない。
     知花はしばらくメールを見ていたが、雄大のメールに返事を返した。気乗りはしなかったが現役大学生の先輩がどんな物の考え方をしているのか興味があった。
     
     マイルズ・スクールの開講日、麹町のビルの一階にある喫茶店の扉が開いた状態になっていて、従業員が開店の準備を始めていた。知花は色褪せたビルの色と喫茶店の中のコントラストが気になり、開いたドアから見える品のある木目の内装をチラ見しながらエレベータのボタンを押した。
    「おはようございます」
     知花が受付で名前を書くと雄大がポケットから受講券をそっと手渡してくれた。
    「こんにちは~」
     少し離れたところから聞こえてきた声に振り向くと一人の女性が知花を見ていた。
    「こ、こんにちは…」
     前回来ていた人だったのか顔を見てもよくわからず、あたふたしながら挨拶を返した。
    「渡辺さん、こちらは同じ研究室のゼミ生の神崎萌(かんざきも)絵(え)さん。神崎さん、こちらが渡辺知花さんだ」
    「よろしく」
    「あっ… よ、よろしくお願いします…」
    「神崎さんは予定があるから午前中の二コマ目までしかいないけど、今度のパーティで顔を合わせることになるよ」
     ボートネックが特徴の幅広のボーダーカットソーにカーキ色のパンツスタイルの神崎はとても明るい感じの女性で、ショートボブが明るさに加えて行動力も持ち合わせた雰囲気を醸し出していた。雄大の後輩のゼミ生ならば知花よりも三、四歳年上で、キリッとしたメイクも大人の女性を感じさせた。
    知花は知らない人と出会うたびに、どこかで止まってしまった自分の成長との差を感じざるを得ないと思う癖があった。他人との比較が卑しさに似た劣等感を生じさせ、それに気づくと自己嫌悪が始まった。同時におどおどするような仕草が現れ、それがまた自己嫌悪感を助長させるのだ。
    会場の適当な場所に腰掛けると神崎が隣に着席した。知花は彼女に意識が向きながらも話しかけることもできずに静かに目を閉じて講義が始まるのを待った。
     
    「おはよーございます。今日は最初に、現在の進化論と現在の科学について、私の知識をまず皆様に提示して、現時点で進化論がどのように考えられているのかを話し、それから私の個人的な意見をお話しします…」
     講義が始まると、知花はマイルズの話に集中してメモを取り続けた。隣にはスラリとした足を組んで腰掛ける神崎がマイルズの話を聞きながら時折メモを取っていた。
     
    「すごい集中力ね。よく一時間以上も集中してメモし続けていられるわ」
    「こ、こういう話ってなかなか聞けませんから」
     講義が終わると彼女が話しかけてきた。社交的ではない知花は、話しかけられれば返事は返すが、自分から人に話しかけることはほとんどない。神崎とは講義の前に自己紹介したので知らないわけではなかったが、こういったシチュエーションに慣れない自分の不器用さにため息が漏れそうになった。これ以上このことについて考え始めると次々に自分の嫌いな部分を際限なく挙げてしまいそうになる。知花は何も考えないことに意識を集中させた。目を閉じて背筋を伸ばして大きく息を吐き、深く息を吸うのを何度か繰り返した。しばらくするとようやく気分が落ち着き、ゆっくりと目を開けた。
    「そうだ、受講券を出さないと…」
     椅子から腰を上げて会場の出入り口にいるスタッフに受講券を手渡したとき、受付に座る雄大と神崎の楽しそうに笑う姿が見えた。雄大の表情はとてもリラックスしていて、シャープなイメージだった神崎の表情も背伸びをしていない普通の大学生の自然な表情だった。
    知花は一コマ目で座っていた場所を離れて最前列の椅子に腰掛け目を閉じた。そのまま何度か深呼吸して頭の中にある余計な思考を、吐く息に混ぜるようにして押し出した。
    『…バスの瞑想法…』
     
    「さあ、今日の二コマ目ですが、究極の敵についてお話したいと思います。さあ皆さん、究極の敵とはいったい誰のことでしょう?」
     講義が始まるとマイルズは受講者たちに質問を始めた。前列に座る人からひとりずつ「わかりますか?」と聞き始めた。
    「はい、それは自分自身ではないかと思います」
     神崎の声が聞こえたので横を振りむくと神崎は知花のすぐ右斜め後ろの席に座っていた。
    「いいですね~ 自分自身~ でも惜しい」
     マイルズは神崎の手前にいた知花にも同じ質問をした。
    「心、思考?…」
    「何ですか? もう少し大きな声で」
     マイルズはそう言いながら聞き耳を立てる仕草で知花を促した。
    「こ、心とか、し、思考とか…」
    「非常に惜しい~ 日本語は似た言葉がたくさんあって、難しいね~」
     マイルズはホワイトボードの前に移動するとホワイトボードに大きく『ego』と書いた。
    「これ、何ですか?」
     マイルズはホワイトボードに書いた文字を指差して受講者の発言を促すように尋ねた。
    「エゴ。自我」
     誰かの声を拾ったマイルズは大きく何度か頷いて満足そうな笑みを浮かべた。
    「そう、日本語で、自我と言います。英語ではエゴですね~ ダジャレではありませ~ん」
     マイルズは自我というテーマで興味深い内容をいくつか話した。知花は話に引き込まれるようにメモを取り続けた。
     
    「すごい頑張りね~ 傍にいて圧力を感じるくらいだったわ」
    「そ、そんなことないと…」
    「今度のパーティ楽しみね。楽しい会話になりそうだわ。私は午後からバイトがあるから、今日はこれで帰るわね。じゃあ、またパーティでお会いしましょう」
     神崎は明るい笑顔で手を振りながら帰っていった。
     
    「ふ~ 相変わらず今日も満席だね」
    知花が到着してから五分ほど遅れて雄大が喫茶店に駆け込んできた。注文は日替わりランチしかないので雄大は店員と目を合わせるとピースサインを出して数を伝えた。
    「同じランチでも顧客の種類によってビジネスモデルを変えることは、重要なことだね」
     彼はいつものように言うと、知花の意見を聞きたいという素振りを見せた。
    「確かに日替わりランチ一種類というのは、選べないつまらなさはあるかもしれないけど、想像を上回るボリュームはお客にとっては嬉しいでしょうね。日替わりだから飽きることもないし、一種類しかないから食品ロスも少なくて済むから、この喫茶店のランチのビジネスモデルは成功していると考えられますね」
     彼は知花と意見を交わす呼吸のようなものを感じながら満足そうな笑顔を浮かべて聞いていた。彼女もまた雄大と意見を交わす呼吸が合ってきたことを感じていた。
    「税込み千円という価格設定もいいけど、大盛りがないのはなぜだろう?」
    「ん~ 全部一緒にすることでオーダーミスをなくせるし効率が上がるから?」
    「おまちどおさま~」
    「今日は早いな~ さあて、それでは食べながら行きますか~ 今日の最初の講義ですが、いかがでしたか?」
    「その前に、雄大さんが江ノ島で出したテーマのシンクロニシティですが、私はそのテーマに関して考えたこともなかったので、あのときは何も話せませんでした。でも、家で少し考えました。マイルズさんが一つの分野だけ研究してもダメと言ったとき、まさにシンクロニシティが起きたと感じたのを思い出しました。私も祖母に同じことを言われて、自分でもそう考えて積極的に講演会に足を運ぼうと決めたんですから」
     彼は鶏ムネ肉のフライをナイフで切りとるとフォークで刺して口の中に入れ、知花の話を聞きながらしばらく肉を噛んでいた。
    「そのシンクロニシティがどんなものなのかを体感すればこのテーマはどんどん面白くなるね、きっと。継続的なテーマだね、これは」
    「シンクロニシティという現象が自分の意識によって創り出されるのであれば、マイルズさんの発言は私が創ったのかしら? そこまで考えると、少し信じられなくなるんですけど…」
    「二〇一六年にNTTとイリノイ大学がすごいことを実証したんだ。江ノ島で僕は『誰もいない森の巨木が倒れるとき、音はするのだろうか?』と訊いたけど、それはこの世のモノは認識されるまでは存在しないという『非実在性』についての概念だった。これは量子力学レベルでは実証されているけど、彼らはもう少し大きな対象で実験して成功させたんだ。簡単に言えば、日常の物質世界で当然のように見えている実在性は、量子力学で記述される微視的世界では否定されてきたけど、彼らは量子よりも大きな世界の非実在性を実験して、そしてそれを実証したんだ」
    「それはつまり… 客観世界は存在しないということを証明した… ということ?」
    「そう、でもまだ言い切れるまでにはいかないんだろうけどね。彼らはレゲットガーク不等式というのを使って実在性を満たすための実験をしたんだ。量子力学という言葉は聞いたことがあると思うけど、最近では量子脳理論というのがあって、これはいくつかの流派があって、まだまだまだ考え方が分かれている分野なんだけど、意識というものを考えるときに量子力学的なことが深く関わっているとする考え方なんだ」
    「なんだかまた難しそうですね~」
    「ハハハ、ごめんね。でも僕も心理学に携わるものとして、意識という分野にも興味があるから調べたことがあったんだけど、その流派のひとつにペンローズ・ハメロフ・アプローチというのがある。この説の面白いのが臨死体験を説明する下りで、簡単に言えば、『脳で生まれる意識、つまり脳細胞の中にある微小管の伸び縮みに対する量子計算は、宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質で、重力や空間や時間にとらわれない性質を持つんだ。そのため、通常は脳に収まっているけど、体験者の心臓が止まると意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合、意識はそれがまた脳に戻り、蘇生しなければ意識情報は宇宙にあり続ける。あるいは別の生命体と結びついて生まれ変わるのかもしれない』と言うんだ…」
     
     食後のコーヒーが運ばれてきた。
    知花は雄大の話を聞きながら『非実在性』とか『量子脳理論』という言葉をメモしたが、最後の話はまったく頭に入ってこなかった。雄大は期待していた知花からの反応がなかったためか、無表情でコーヒーカップを手に取った。
    「意識って言葉が出ましたけど、さっきの講義の自我というテーマも普段考えてないからついていくのが大変…」
     知花は気遣うように言葉を投げたが、彼はぼんやりとコーヒーカップを持っていた。知花には江ノ島で感傷的に陥った彼の顔が再び浮かんできた。今日はマイルズ・スクールのスタッフとして働いているが、彼には研究という仕事があるはずだ。論文なのか更生プログラムなのかはわからないがそれが彼の仕事のはずだ。彼は矯正施設の少年に言われた言葉が直撃したことで自分が何をしたいのかがわからなくなった。もしかしたら、今もまだ身動きの取れない状況に陥っているのかもしれない。彼は誰かとこんなふうに話しをすることで自分自身を探そうとしているのかもしれない。知花は彼からぼんやりと漂ってくる行き詰まりのような閉塞した雰囲気を感じ取った。
     
    「さあ、自我について君が思うことを教えてよ」
     視線を戻した雄大はいつものように澄ました表情で知花に質問した。
    「自我という言葉はもちろん知っているけど、私は普段それをエゴと表現して、そのエゴを利己的と置き換えて使っているような気がします。だから自我を純粋なる自己意識として考えたことはなかった。つまりエゴを利己的思考と解釈していたの。正直このテーマも私には概念の変更を余儀なくされたので…」
     雄大が話を聞きながら失笑気味な表情を作ったことで知花は話を止め、そのタイミングで彼は自分の意見を述べ始めた。
    「言葉は違うけど、シンクロニシティも自我も進化も思考のトレーニングもすべて意識に関係することだと思うんだ。少なくとも僕はそう解釈している。マイルズのいう自我はその中でも非常に根源的な部分に属している。デカルトの言った『我思う故に我あり』という有名な言葉は、意識と自我を混同するのに都合がいい。ほとんどの人が勘違いしているけど、意識と自我は似て非なるものだ。僕らはこれに気付く必要がある。マイルズが言った意識とは自我に対する真我という意味だ。自我こそが自分だという考え方の根本にあるのが『人間だから誤ったことをするのは仕方ない』という概念で、だから性善説や性悪説という考え方が生まれて、そう… それは、不平不満というエゴから発生するものを認めてしまう概念だと思う。人間の意識イコール自我という誤った発想だ。でも君もそういう普段認識している自我とは別に、もうひとりの自分がいるという感覚を感じたことはないかな? ほら、君が前に話していた『私っていったい誰だろう』つまり、それが真我になると思うんだけど、僕が自我についてディスカッションしたいのがその点なんだ」
     知花は話の腰を折られたことで取り澄ましていたが、彼の言ったもうひとりの自分という言葉に心がざわつき始めた。
    「もうひとり、別の自分…」
    「そう。どう?」
    「ちょ、ちょっと待って…」
     知花は言葉を探した。頭の中にある語彙と記憶を必死に探していた。
    「僕らがよくやる頭の中の勝手なお喋りは、いったい誰が喋っているんだろうね? その誰かを見ている別の誰かを感じたりしない? ほら、いろんな不平不満を考えているとき、そう考えている自分にハッとなるときってあるよね? それって誰? 絶えず不平不満を言って自分を正当化しているのはいったい誰で、それを見ているのは誰なんだろう?」
     知花が毎晩眠りに落ちる直前まで考えているのがアルコール依存症を頑固に否定し、入院したことを悔やみ続けていることだった。雄大に付いた嘘を弁明している姿もあった。そして頭痛に苦しみながら、何故自分だけがこんな目に合うのかという呪いにも似た激しい怒りと絶望を繰り返していることだった。
     カップを手にとってゆっくりとコーヒーを啜る雄大が、落ち着きながら知花の返事を待っていた。知花は毎晩ベッドの中で考えている思考の主体が、自我というエゴの思考によってコントロールされていると考えると、怖くて仕方なかった。彼女はやがてゆっくりと視線を彼に移すと、いま頭の中で見た光景について話し始めた。
    「これは自分でもはっきりと認識しているものではないんですけど、普段何かのことについて思考するときは割と客観的に考えるようにしていると思っていますが、おそらく絶えず自分を正当化しています。そして、どちらかといえばネガティブな思考になる場合、別のネガティブな出来事を思い出して、その感情に輪をかけていくことがあるような気がします。これが始まると… その出来事から自分を守るために必死になって自分を正当化している自分がいます。そうなると、この堂々巡りの思考を何とかしたいと思うことさえ思いつきません」
    「なるほど。これは僕が前に大学の講義で聞いたことなんだけど、そういうのは『自動思考』という。つまり頭の中のお喋り。お喋りをするのはエゴだ。エゴは自分とモノとを同一化することで強力になろうとする。人間の本能的な欲望は『手に入れる』ためのメカニズムであり、その起源は自己承認欲求なんだ。エゴはモノを使って自己であるアイデンティティを強化したいんだ。ほら、高級車やブランド品とかを持つことで優越感に浸ったり、肩書や能力でそれを感じたりして、人は誰であれ自己肯定感を埋め合わせしようとする。自尊心がモノと結びついて、そのモノが失われると自分も失われてしまうという恐怖を感じる。そして君の言ったとおり、自我というエゴの正体を守るために勝手な妄想で不平不満を作り出し、それを正当化するための言葉やストーリーを作り出す。勝手に頭の中で喋る自我に気づくことはとても重要なことだ」
    「でも今まで私はそんな事、考えもしなかったし気づきもしなかった… こうして何も気づかないでいるって、なんだか、とっても怖い…」
    「まったくの同感だ。いろんなストーカー事件も、どこかの放火事件も、事故を起こした煽り運転も、加害者のおかしな言い分をニュースで聞くよね。それはおそらく自分自身の習慣化されたエゴの思考について理解していないから起きたとも考えられる。いつもの癖となっている思考によって、自分自身が乗っ取られてコントロールされているんだ。その正体がエゴ、つまり自我だ。これこそがマイルズがさっきの講義で話したことの、僕なりの解釈だ」
     
     お昼休憩を終えて雄大から受講券を受け取ると三コマ目の講義の席に着いた。四コマすべてを受講する人は少ないようで、会場にいる人も午前中の顔ぶれとはだいぶ違って見えた。
    講義前に聞こえてくる受講者たちのお喋りに混ざり、子供の声が聞こえたので出入り口に顔を向けると小学生の女の子が母親に連れられて会場に入ってきた。母親は邪魔にならないように気を遣い、一番後ろの座席に腰掛けた。程なくマイルズも会場に入ってきてラップトップの準備を始めた。やがて講義開始の時間が迫ると、いつものようにマイルズが会場を見渡して受講者の準備ができているか確認した。
    「お~ 今日はずいぶんと可愛らしい受講者さんが来ていますよ~ お名前聞いてもいいかしら」
     マイルズは演台を降りると受講者の座る席を横切って奥まで行き、聞き耳を立てるようなポーズを取って女の子の名前を聞いた。
    「よしのゆきなです」
    「ゆきなちゃん? かわいいですね~ ニックネームは何?」
     少女にはニックネームがなかったようで、首を傾げながら回答に困っている様子だった。
    「それではあなたに素敵なニックネームを付けましょう」
     マイルズは少女の名前の漢字を教えてもらうとホワイトボードに『雪菜=Crystal of snow』と書いた。
    「この意味分かる人? 誰も答えないね~ これは雪の結晶という意味です。雪菜ちゃんのニックネームは、『クリスタル』ちゃんです。彼女にピッタリでとっても素敵なニックネームですね~ 因みに外人の名前でよくあるクリスさんは、クリスチャンの通称です」
     少女は格好いいニックネームをもらい、はにかむような笑顔を見せた。マイルズは少女とハイタッチをした。彼は満面の笑みを浮かべながら中央まで戻ってくると講義とは関係ない話を始めた。
    「アメリカでは~ 今のように健康的なスキンシップを取ることをグッドタッチといいます。反対に暴力を振うために相手と接触することをバッドタッチといいます。そして、秘密にするときに使われるシークレットタッチというのもあります。これはお互いにハンドサインを決めてするんですが、この背後には……、 おっと、もうこんな時間になっていましたよ、皆さん。お喋りはまた今度にして、講義に入りたいと思います。今日の三コマ目は『善人と悪人を操るゲーム』というテーマで話したいと思います…」
     マイルズの講義がスタートしたにもかかわらず、知花の脳はフリーズしたようにまったく彼の声が耳に届かなくなっていた。
    やがて頭の中に一人の少女の映像と名前が浮かび上がってきた。
    『心(こ)春(はる)お姉ちゃん』
     思わず後ろを振り返って女の子の顔を見た。
    「違う」
     頭の中に浮かんだ女の子は彼女ではなかった。
    『あの子は誰?』
     自分自身に問いかけても何の返事も返ってこなかった。
    『返ってこなかった… かえってこなかった… 帰ってこなかった…』
     自分の思った言葉が頭の中でリフレインした。言いようのない恐怖に包まれた知花は、あの頭痛が始まる予感がした。ノートとボールペンをトートバッグに突っ込むと椅子から立ち上がって急いでトイレに駆け込んだ。
     トイレのドアを締めるとバッグを開けて処方箋の包装シートを押し開けてカプセルを飲み込んだ。薬を飲み込めた安堵感も束の間で、あの倦怠感と深く重たい頭痛が襲ってきた。
    しばらくしてようやく頭痛から開放されてきたとき、様々な映像と声がフラッシュバックのように次々に現れ始めた。
    『かえってこなかった… 帰ってこなかった… 心春お姉ちゃん… ランドセル… 小学校… 心春お姉ちゃん…』
    『知花、良かったわね~ 近所にこんないいお姉さんがいてくれて。心春ちゃん、知花をよろしくお願いしますね。引っ越してきたばかりで、場所も何もわからないもので…』
    『あのね、おめさん、おめさんが最後に見たこと、教えてくれ。なしてそう~ いちがいこきなの? わたしら心春ちゃんのこと、きゃーわりしとんのよ~』
     
     トイレの中で知花はパニックになっていた。映像に加えてはっきりとした声が頭の中で雷鳴のように響いていた。
    しばらくするとようやく幻聴が収まってきた。これだけはっきりとフラッシュバックが見えたのは初めてのことだった。知花はバッグの中からノートとボールペンを取り出すと見たことと聞こえてきた内容を書き取った。
    「私には、私には昔、私の人生にとって何か重大な出来事があった。それが、この頭痛の原因だ」
     知花はよろよろと立ち上がるとトイレを出た。受付の机の上に雄大への書き置きでも残そうかと考えたが、それもうまくできそうになかったのでそのままエレベータで一階まで降りた。
    『シークレットタッチ…』
     マイルズの話した言葉がよぎると、また何か不吉な予感がした。知花は駅までの道のりを悪寒に震えながら歩いた。
     
    祖母の家にたどり着くとしばらくベッドの上で横たわり静かに目を閉じていた。トイレの中で浮かんできた映像がとても恐ろしく感じられた。雄大に四コマ目の後のディスカッションをすっぽかしたことを謝らなければいけないと思っていたが、頭も体も痺れるように重かった。
    「知花ちゃ~ん、夕食の支度、手伝ってくれる~」
    祖母の声が『北海道』と言ったあの声と重なって聞こえると自然に体が起き上がった。
     
    「ねえ、おばあちゃん。前に聞いた北海道だけど、北海道からさいたま市に来る前にもう一箇所どこかに住んでいたような気がするの」
     じゃがいもの皮を剥く祖母の手が一瞬止まったように見えた。祖母はじゃがいもの皮を剥き終わるとちらっと知花を見た。知花は祖母と目が合うともう一度同じことを尋ねた。
    「ん~ 海の話よね。北海道のどこかの海へ行ったことを覚えているんじゃないの?」
    「違う」
     知花はいつになくよく通る声で否定した。祖母は手に持ったピーラーを流し台の洗い桶の中に入れると知花の目を見た。
    「あんたたちは、ほんの数ヶ月間だけ、新潟にいたことがあったわ。でもほんの短い期間だったから、海になんか行けたのかしら」
    「新潟? 新潟のどこにいたの?」
    「新潟市よ」
     
     食事を終え後片付けを済ませて部屋に戻ると、ノートを取り出して『新潟市』と書いた。スマートフォンからメールの着信音が鳴ったが知花はメールを開かずにスマートフォンを机の上に置いた。そして自分自身に起きた新潟での出来事が何だったのかを必死に思い出そうとしていた。しかし新しく思い出すことは何もなく、麹町のビルのトイレで見えたことが頭の中をぐるぐると回っていた。やがて思い出すのを諦めた知花は、雄大からのメールに、気分が悪くなって帰ったこととカフェに付き合えなくてごめんなさいという謝罪文を書いて返信した。
     
     
     
              7
     
     自動車教習所に通い初めて一ヶ月半、教習所が作成したスケジュールから金土日の三日間を除いてもらい余裕のある調整をしたため大幅に時間がかかってしまったが、ようやく卒業検定に合格した。祖母にお礼と報告するために急いで帰ってくると、既に教習所から連絡が届いていたようで、祖母が玄関先でニコニコして待っていた。
    「なんだ、せっかく驚いてもらおうとしたのにな~」
     知花は半分がっかりしたように口を尖らせた。
    「合格、おめでとう。良かったわね。それと、実家から荷物が届いているわよ」
    荷物は両親からだったが、祖母宅に逃げ込んだ後に勉強道具や衣類などがダンボールに詰められて送られてきたので身の回りのものに不自由していたわけではなく、何が届いたのかと訝しげに小さなダンボール箱を開けてみた。
    「あっ、スイムウェア…」
     さいたま市のプールで嘔吐して依頼、プールに行くことなど考えてもみなかった。
    「人って、何か嫌なことがあると、何でも忘れてしまうのかな」
     スイムウィアを手にとって独り言を呟いたとき、祖母の見ているテレビからピアノを弾く男性と『赤い靴はいてた女の子』を歌う歌手の映像が流れてきた。すると、頭の中で歌手の歌に合わせて弾く鍵盤のイメージが現れた。
    「ピアノ?」
    「おばあちゃん、私って昔、ピアノ習ってた?」
    「さあね。あたしは何も聞いていませんけど、今からピアノを習いたいわけ? 何でも挑戦するのはいいことよ。娘が昔弾いていたピアノなら奥の部屋にあるけど…」
     祖母に案内されてピアノのある部屋を覗くと、部屋の隅には良美おばさんが昔使っていたアップライトピアノが置かれていた。
    「ず~っと何年も調律されてないから、正確な音は出ないわよ」
     知花は椅子に腰掛けて鍵盤蓋を開けてみたが、手はまったく動かなかった。
    「あんたがもし習いたいのなら、調律師を呼ぶけど」
    「ううん、昔ピアノを習っていたような気がして… ピアノの前に座れば、何か曲とか思い出すかなって思ったんだけど… 私の勘違いかな~」
     そう思って鍵盤蓋を締めたとき、スマートフォンのメール着信音が鳴った。画面を見ると、雄大からのメールだった。メールを開くといつもの硬いビジネスメールのような文面で、知花の体調についていろいろと心配していることが書かれてあった。知花は体調が良くなったという報告と、少し頭を軽くしたいので水泳でも始めようと思っていることを記載して返信した。
     
     その後知花は中野区にあるプールへ出かけた。ここのプールは水深二メートルもあり、泳ぎが得意でない人は腰までの深さの場所で歩くことになる。泳いでいるのは泳ぎに自身のあるスイマーたちで、トンとクイックターンを決めながら何度もレーンを往復していた。採暖室は熱いミストサウナになっていて五分も中に入っていれば泳いでなくても汗を掻く事ができた。知花は久しぶりの水泳をたっぷりと楽しんだあと、熱いミストサウナに入って体中から吹き出す汗を感じていた。
    『お母さんはどうしてスイムウェアを送ってきたんだろう?』
     プールの中で嘔吐したときは、母はかなり叱られたに違いない。監視員も知花に酒臭いと言って詰め寄ってきた。母は昔から知花を庇ってくれていた。父は時々剣幕で怒る事があったが、母はいかなる時も知花を庇ってくれた。
    『いいのよ、知花。悪いのは、あなたじゃないわ。お父さんがあんなところに置いたからあなたが触ってひっくり返ったのよ。あなたも知花を一方的に叱らないで! 大事なものなら端然とした場所に仕舞えばいいのよ』
     こんな母の言葉を何度聞いたことだろう。そんな母の期待に応えることができず、裏切り続けている自分自身が情けなくなってきた。
    『一九歳の娘をアルコール依存症で入院させると父が決めた時、母は何て言ったんだろう?』
     そう考えると涙が溢れてきた。そしてその病院からも脱走してきたのだ。どうしようもない自分の姿を思い浮かべると、今度は反対に笑いがこみ上げてきた。
    『でも、私はアルコール依存症じゃないからね、お母さん』
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
             8
     
    『電車は事故防止のため、やむを得ず急停車することがあります。お立ちのお客様は吊革や手すりにおつかまりください』
     混み合う中央線の電車に揺られながら、知花は雄大の住むマンションへ向かっていた。知らない人と会うこと、しかも相手は現役の大学生でそのパーティの中に大日女学院大学の経営学部という嘘の肩書を持って入っていく抵抗感は、雄大のマンションに近づくほど強くなっていった。
     何も持ってこなくていいと念を押されていたが、気持ちを落ち着かせるために花を携えることにした。月島駅を降りて花屋を探すと、店員任せで適当な花をブーケにして包んでもらった。
    雄大の住むマンションは監視カメラもオートロックもなく誰でも部屋の出入り口まで行ける古いタイプだったが、駅から徒歩二分という好立地の場所にあり、周辺では一番高い建物としてのランドマーク的な存在だった。エレベータに乗って部屋の前まで行くと中からにぎやかな声が聞こえてきた。ためらいがちにドアホンを押すと中から雄大が現れた。
    「やあ、知花さんようこそ。遅いから心配したよ。いま電話したところだったんだ。さあ、どうぞ中に入って」
     彼に促されて玄関を上がってリビングに足を踏み入れると、六名の大学生たちの姿が見えた。彼らは大きなダイニングテーブルに着いてミーティングの準備をしていた。
    「いらっしゃい」
    「こんにちは」
     雄大が大学生を集合させるとメンバーを一人ひとり紹介した。
    「はじめまして。わ、渡辺知花と申します。よ、よろしくお願いします。これは、今日のパーティにと思って買ってきました。手ぶらでいいと言われたんですが、花でもと思って…」
     
     パーティでは学生たちと雄大との親しい関係性が感じられた。研究員の雄大は、教授の補助役として学生たちの面倒を見る機会が度々あるようだった。雄大は准教授を目指して論文を執筆しているということだったが、ゼミの学生たちも卒業論文に追われているようだった。このようにみんなで集まってパーティができるのも残り僅かということもあり、楽しめるときに楽しんでおきたいというのがゼミのミーティングを兼ねたパーティの趣旨のようだった。
    『ねえ、渡辺さんはどこの大学に行っているの?』
     知花は学生たちの話を聞きながらそんな質問が飛んでくるのを警戒していたが、知花へ個人的な質問が飛ぶことはなく、学生たちによる全体的な勉強会のようにゼミに関する話題がほとんどを占めていた。また、卒論の情報交換会の話が出ると研究員の雄大に対して研究についての質問が飛び交った。
    卒論に関する情報交換の話が尽きてくると、話題の中心が就職先に変わった。犯罪心理学科を卒業してどこに就職するのか知花も興味があり、隣に座った人と会話をしながら聞き耳を立てていた。どうやらゼミ生六名のうち六名全員が公務員を目指していて、うち二名が教職員を目指しているようだった。
    「でも雄大先輩みたいに、助教授になって教授を目指す方法もありかなって、最近思うんですけど」
    「実際どうなんですか? 毎日研究する生活って?」
     知花は彼らの会話を聞きながら、雄大が江ノ島で傷心的になった場面を思い出した。
    「研究は~ 確かに君たちの思うように、思うようにはいかない。でも、犯罪心理学の研究からその先にあるのが必ずしも犯罪者の更生方法論的な概念だけではなく、犯罪者にさせない取り組みやプログラムというものもあると思う。そこを目指せば行き詰まりを感じずに済む。目標を更生プログラムから先天性の障害者に対する人とのコミュニケーション方法の指導方法のようなものに変更していくことで、その効果が期待されるものを目指せばいいんじゃないかな」
    「なるほど~ 今後僕らの後輩たちにも新しいビジョンを提供することにもなりますよね」
    「でも、仮に生まれつきコミュニケーション能力に問題がある人も、それが軽度のものであれば病名は付きませんよね? それでも重大事件を起こした少年少女がいます。そもそも論ですが、障害があっても見過ごされてしまうケースがかなりあるんじゃないでしょうか? その場合、結局誰が誰に対してその指導方法を提供できるんでしょうか?」
    「仰るとおり。だからこそ、その傾向のある人の『トリセツ』、それも一般向けのものがあればいいんじゃないかな」
     
     気づくとテーブルの奥の男性が話を聞きながらメモを書いているのが見えた。知花にはその行為が、他愛もない会話の中でも心理学に関係する些細な気づきも見逃さないようにしているのだと思った。
    「雄大先輩から聞いたんだけど、渡辺さんはよく講演会に出かけるの?」
     隣に座るゼミ生の男性が知花に質問した。
    「実は、先日たまたま祖母と一緒に出かけたんです。そこで初めて歴史作家という方の講演会を聞きました。今まで学校の先生の話しか聞くことがなかったので、新説を出すとか、研究するとかってすごいんだなって。それでとにかくジャンルを決めないで何でもいいから勉強になる話を聞きたいと思ったんです」
    「なるほど、そうして出かけたマイルズ・スクールに雄大先輩がスタッフとして働いていたということか~」
    「私も一度マイルズ・スクールで渡辺さんとお話したことがあるのよ」
     男性の隣に座る神崎が爽やかな笑顔で言った。
    真面目な話とお互いの就職先の心配をしながら講演会の話題で全体が和んでくると、ゼミ生の一人が冷蔵庫を開けて中から缶ビールを出してきた。
    「いかがでしょうか皆さん、少々不安な我々の将来ではありますが、情報交換会はこれくらいにして、少し気分を変えながら楽しみませんか?」
     みんなに配られたのはノンアルコール飲料だった。乾杯の後、隣に座る女性が知花に話しかけた。
    「自宅に戻っても、みんな卒論か就職先について考えるのよ。だから、ノンアルで乾杯よ。これがこの時期の大学四年生の切実なところなのよね。さっきはみんなお堅い線で公務員とか言っていたけど、大手企業では最近犯罪心理学を活用した商品やサービスを展開しているから、本当はみんな密かに狙っているの。給料が違うからね」
    知花も『〇,〇〇%』の表示を見て安心して缶に口をつけた。知花がパーティに呼ばれた理由はまったく不明だったが、乾杯の後では、一人で暇にならないようにメンバーが交替しながら知花の隣に座って犯罪心理学の話や個人的な趣味の話などをして気を遣ってくれた。
     不思議なもので、アルコールは入っていないはずなのに雰囲気に酔うというのか、学生たちは学生らしい冗談を言い合って笑い転げていた。それはテレビで見たことのある居酒屋の風景そのものだった。雄大も最初は知花の隣の席に腰掛けていたが、会が盛り上がると席を移動しながらお喋りを楽しんでいた。知花の隣には絶えず誰かが座って話の相手をしてくれた。
    知花も至って普通に話せるようになっていたが、交替で席を替わる学生たちから受ける質問には東京駅側のカフェで雄大に質問されたことと似ていることに気がついた。はじめのうちは犯罪心理学を研究する学生たちの話題が似ているからかと思っていたが、何かのテストのように発展性のない質問に答えることに不快感が出てきた。そしてテーブルの上の食べ物に手を伸ばしたとき、二、三人が知花を見ているような感じがした。それもまた気の所為だろうと思っていたが、何人かの手にはメモ帳があり、お互いに会話しながらメモをとっている姿が見えると、気にしないように努めていたことが違和感になっていった。
    「じゃあ知花ちゃんに質問するけど…」
     席を代わって隣にやってきた男子学生がまた同じような質問をしようとした。
    「ごめんなさい… ちょっとトイレに…」
    「雄大先輩、ノンアルなくなったんですが」
    「あっそう、それじゃあ、今買ってくるから少し待っていて」
     雄大が財布を持って玄関から飛び出していくと、知花はリビングを出て玄関脇にあるトイレに入った。
    知花が立ち上がった瞬間もゼミ生たちに見られているように感じた。
    『みんなチラチラと私を見ている。やっぱり、何か変だわ』
    トイレの中からリビングルームに聞き耳を立てると、大きな声で騒いでいた声が一切聞こえてこなくなった。シーンと人気が消えたように物音がしてこない。知花がトイレの水を流すと、再び話し声が聞こえ始めた。
    『何だ、やっぱりみんないるんだ』
     そのまましばらくトイレの中にいたが、今度は水を流さずにそっとトイレから出ると廊下に立ったままリビングの様子を覗った。
     
    「萌絵はどう思うの?」
    「そうねえ~ 基本的に雄大先輩の所見は正しいような気もするけど… 先天性かどうかなんてわかる訳ないわ。准教授へのテーマとしてはそこが明確化されなければ根拠にはならないわね、きっと」
    「でもこのケースは、私たちの卒論にはいいかもね」
    「その線でいこうよ。雄大先輩の持ってきたサンプルは、俺たちが使わせていただきましょう」
    「そうね、とっても貴重な機会だわ」
    「テーマの要(かなめ)だしな、発達障害と犯罪心理学は」
    「ああ、犯罪とは関係なくても、一般的な傾向を探る上での価値はある。医療少年院で共通性や違いを探して、一般人との違いも抽出すれば卒論にも記載できる。数年間かけて定量となるデータを貯めれば、今後の素晴らしい研究材料にもなる。我々はそのスターターの役割を担える」
    「とにかく観察を続けよう」
     ガチャン 
    「ただいま… あれっ?」
     雄大が買い物から帰ってきた。
    知花は廊下にぽつんと立って学生たちの話を立ち聞きしていた。雄大は目の前に立っている知花が何をしているのかわからずに玄関に立ったまま彼女を見ていた。知花は彼の姿を横目で見ると大急ぎでリビングからトートバッグを取ってくると、靴を履いて何も言わずに玄関を飛び出した。
    「あれっ? 知花ちゃん… あれっ… いま玄関から出ていったけど…」
     
    マンションから駅まで走ったが、頭の中ではあの大学生たちの笑い声がこだましていた。走って逃げても笑い声は駅の構内まで追いかけてきた。電車がトンネルに入るとガラスに映し出された乗客の姿があの大学生たちに見えてきた。吊り革に掴まって固く目を閉じると玄関先で見た雄大の唖然とした顔が浮かんできた。 
     彼が学生たちに『発達障害の女を研究しよう』と言ったのかと思うと、今まで講演会に通って勉強してきたことすべてが嘘と幻のように思えた。
    『隠れて飲酒をして両親を裏切り、病院を脱走した罰なのか… それとも、これが私の求めたシンクロニシティのもう一つの側面なのか? どうして、どうしてここまで貶められなければならないの…』
     閉塞された病院から抜け出し、ようやく歩き始めようと二ヶ月前に乗り込んだ電車のなかで感じたワクワクした期待は、砂の城が波で砕けるように崩れ落ちた。
    『論文に使うサンプル…』
     それが、雄大が知花と会っていた理由だった。彼らのパーティの目的は、彼女を観察しながら発達障害者の特徴をリストアップすることだった。
    「私は、サンプル… か…」
     
    マンションを飛び出してから、気づけば祖母宅の近くにあるコンビニエンスストアの前まで来ていた。コンビニエンスストアに入り、飲み物のショーケースの中にあったノンアルコール飲料がちらっと目に留まると、その前の棚にある『Jim Beam』と書いたラベルのウィスキーに手が伸びた。コンビニエンスストアから出ると、歩きながらウィスキーのキャップをひねってラッパ飲みした。そのまま祖母宅の玄関先まで来ると、ボトルをトートバッグの中に仕舞って玄関を開けた。
    ガラガラ…
    「知花!」
     玄関扉を開けるとそこには両親の姿があった。母は振り返ると知花の首に抱きついた。
    「知花、元気だったの? 心配していたのよ~ …知花… あ、あなた、まさか…」
    「さあ、三人とも中に入って」
     急に両親が訪ねてきた理由はわからなかったが、祖母は知花がタイミングよく帰ってきたことで両親を居間に上げたのではないかと思った。しかしあのマンションで起きた出来事にショックを受け、心の中も頭の中もポッカリと穴が空いたようで、思考することも感情を感じることもできない状態だった。
    「知花ちゃん、お茶を入れて頂戴」
    「…はい」
     細い声で返事をした知花は、台所へ行くと肩に掛けていたトートバッグをダイニングチェアに置いた。そして自動マシンのように手際よくケトルに水を入れてコンロに火を点けると、コーヒーサーバとドリッパーを棚から取り出し、ペーパーフィルターを折り曲げてその中に中挽きのコーヒー粉を入れた。そして白磁にきれいなブルーのラインが入ったノリタケのコーヒーカップを三つ用意するとティートレーの中に入れてスタンバイさせた。
    『ショックは… そこにあるはずのダイレクトな感情と思考を制御するのか…』
     マンションでのショックと突然の両親の訪問が、知花の本来感じるべき感情と思考の流れを堰き止めているようだった。ケトルの蓋がカタカタと音をたて、口から勢いよく蒸気が吹き始めると、ようやく火を消す自分の姿を客観的に認識できたような気がした。同時に居間にいる三人の話し声が耳に届いてきた。
    「…お義母様も知花が病院から抜け出してきたのはご存知でしょう… あの子は今もまだ治ってはいません」
    「いいえ、あの子はここに来てからお酒を飲んだことは一度もありません」
    「だって私、さっき…」
    「あなた方は知花を閉じ込め過ぎです。だからあんなことになったのよ。もっとあの子を信じて自由にさせなさい。現にあの子は、一人で物事を考えて歩き始めたところよ」
    「でもあの子はまだ一九歳の子供だ。なんでも自由にさせるには、まだ早すぎる。それに、母さんも知ってのとおり、私はまもなく北九州市に異動します。知花がここにいるので少しは安心ですが、それは私たちがこうしてすぐに来られるからじゃないですか。北九州からでは…」
    「それは知花のことじゃなくて、あなた方の勝手じゃない。今日も知花があなた方を呼んだわけではないでしょ」
    「それはそうだけど…」
     スーッと襖を開けて知花がお茶を持って現れた。三人は一斉に話を中断した。
    「三人ともコーヒーで良かったわよね」 
     知花はピンクの花柄模様のティートレーを一旦テーブルの隅に置き、重ねたソーサーの上にコーヒーの入ったカップを乗せるとスティックシュガーとクリーム、スプーンを添えて両手で父に差し出した。同じように母と祖母にも差し出した。両親は知花が大切なお客様をもてなすような見慣れない所作をするのを目で追いかけていた。
    「知花、私さっき、あなたの…」
     知花は母の言葉を遮るように立ち上がると、キッチンに置いてきたトートバッグを持ってきた。
    「これのことね」
     知花はトートバッグの中からウィスキーのボトルを取り出すと、それを見た三人の顔色が変わった。
    「知花、お前、やっぱり…」
    「あの時も何度も話したと思うけど、私はアルコール依存症ではないわ。頭痛がひどくて、キャビネットの中にあったお父さんのウィスキーを飲んだら頭痛が消えた。私は毎日頭痛に悩まされていたからそうせざるを得なかっただけ。町医者でもらった処方箋も効かなかったから。だから私は依存症なんかじゃない。それなのに二人とも私の話を一切聞いてくれなかった。強制的に入院させられて、私、とっても苦痛だったの、だから、我慢できなくて…」
    「でもその酒は何だ? それこそアルコール依存症の証拠じゃないのか?」
    「これはさっき、帰ってくる途中で、コンビニで買ったのよ。これについては… 今は言いたくないの… だけど、わかってほしい…」
    「やっぱりお前は、まだ、アルコール依存症なんだ」
    「ちょっと待って、待ちなさい」
     父が知花を責め始めると、母の表情がゴミ袋に詰められたウィスキーの空瓶を前にしたときの悲しい顔に変わった。知花は母の顔を見ると反論しようとした言葉を飲み込んだ。代わりに祖母が三人の中に割って入った。
    「だめね。話し合いになんかならないわ。連絡もせず急に来てこの騒ぎ? あなた達はいったい何の目的で来たのかしら! それをまず話してちょうだい」
    興奮気味の父だったが、祖母にたしなめられると唇を噛みしめるように俯いて座り直し、姿勢をテーブルの正面に座る祖母へと向けた。
    「さっきも言いましたが、昨日会社から異動辞令が来ました。まあ、北九州の本部長が急逝されて、体制の組み換えの件で私も本社会議に出席していましたので『ああ、私に来るな』とは思ったんですが… まあ、そういうことで、少し中途半端なタイミングになるんですが、北九州へ行くことになったわけです。知花の大学も東京でなきゃいけないわけでもないですし、新しい環境というのもいいのかなって、それに… 病院を逃げ出してここにずっといるわけにもいかないだろうし、知花にとってもいい機会になるのかなって、急な異動辞令で時間もないことだったんで、話はすぐにと思い… 確かに、急だったんですが…」
    「なるほど、そういうことね。落ち着いて話せばなんのことはないわね。ねえ、知花、その頭痛って今でもあるの?」
     祖母は優しく訪ねた。
    「うん。でも、病院でもらった処方箋が良く効くから」
    「じゃあ、どうしてまたお酒なんか~」
    「…それは、今は… 話したくない」
    「まあまあ、直子さんも少しわかってあげたら?」
    「でも」
    「あなた方の話はわかったわ。でも今日は知花のタイミングが悪かったみたいね。大丈夫。私が端然と責任を持つから。今日はこれで帰ってちょうだい。知花にも北九州へ行くのかどうか考える時間というのが必要だしね」
     両親は祖母に言われると納得したとも諦めたとも取れる大きなため息を「フーッ」と吐いた。やがてお互いに顔を見合わせると腰を上げた。祖母も二人の様子を見てテーブルに両手をついて立ち上がろうとした。
    「ちょ、ちょっと待って! ねえ、お母さん、ひとつ聞きたいことがあるの」
     腰を上げた母が硬い表情のまま知花の方を向いた。
    「新潟で何があったのか、それを教えてほしいの」
     知花の質問に三人の顔が硬直したのがわかった。
    「新潟にいたとき、近所で何かの事件があったのは私も知っているわ。でも、その事件と私がどう関係しているのか知りたいの」
    「あなたはあの事件とは何の関係もありません」
     母がピシャリと言い切った。父もそれに続いて口を開いた。
    「そ、そうだとも。知花はたまたま行方不明になった女の子と同じ集団登校のグループにいただけだ」
    「私もそう聞いています。知花はまだ小学校に入ったばっかりだったからよく覚えていないかもしれないけど、あなたは事件とは何も関係していないのよ。関係するはずがないじゃない」
     祖母までが同じことを言った。三人が声をそろえたので一瞬納得しそうになったが、視線の先にはピアノが置いてある奥の部屋が見えた。
    「お母さん、私、新潟でピアノ教室に通ってなかった?」
    「えっ? ええ、そ、そうだったわね…」
    「やっぱり。どこ? そのピアノ教室、どこにあったの?」
    「そんなのここでどう説明できるの? 住所や名前ももう覚えていないわよ」
     知花はスマートフォンを取り出すと新潟市の地図を開いて母にピアノ教室のあった場所を指すようにお願いした。母は父と一緒になってスマートフォンを覗き込んでピアノ教室の場所を探していた。
    「あ~、このあたりね。確かにここだわ」
     しばらくして母がようやくその場所を指で指し示した。知花はその場所と自分自身の記憶を照らし合わせながら「ここで間違いないわ」と呟いた。そしてその場所を地図上に『マーカー』した。
    「当時住んでいた家の場所も教えてほしいの」
    「…ありがとう」
    「でも、そんなこと知って、どうするの?」
    「何かしたい訳ではないの。でも、あの事件が私の頭痛と関係しているような気がしてならないから」
    「知花! いい加減にしなさい! いつまで訳のわからないことを言っているんだ」
     我慢できなくなった父が大きな声を出した。母は半分涙目になり祖母はため息を付いた。
    祖母が改めて二人に帰るように促した。両親もこれ以上混乱するのを避けるために腰を上げた。知花も祖母の後から玄関先まで見送りに出てきた。
    「この前は、荷物送ってくれてありがとう」
     両親は黙って頷いた。
    「久しぶりに水泳ができて、とても嬉しかった」
     母はまだ少し涙目になっているようだった。二人は車に乗るとさいたま市の自宅へと帰っていった。
     
    家の中に戻ると知花はコーヒーカップを片付け始めた。
    「ごめんなさいおばあちゃん。わたし、今日ちょっと、いろいろなことがあって… どうしてもお酒を飲まずにはいられなかったの。誰でもあるよね、そんなこと。単に、それだけのことなの。だから、今日だけは、許してほしいの」
     ブ~~~ ブ~~~ ブ~~~
     着信音を切っていたスマートフォンが唸っていた。知花はそれを無視して部屋に行き、机の上にバッグを置いて中からウィスキーボトルを取り出すと直接ボトルに口を付けた。
     ショックで硬直していた感情が両親の突然の訪問に反応して、興奮することなく佇んでいたようだった。そこにウィスキーの芳香が鼻から抜け胃に届くと、体の中が熱くなった。同時にパーティの様子が目に浮かぶと抑え込んでいた感情が溢れ出すように涙が頬を伝った。机の上に置いたウィスキーボトルを見ながら雄大の顔を思い浮かべると、またゆっくりと涙が頬を伝った。頭に浮かぶパーティで見た雄大の表情が、江ノ島で見た表情に変わり、喫茶店で相席を依頼してきた表情へと切り換わっていった。
    『大日女学院大学です… 経営学部です…』
    「…そうか… これは、私が嘘を付いた、罰だったのか…」
    自分を納得させるように呟きながらもう一口ウィスキーを口につけると、スイッチが切り替わるように両親に尋ねたあの事件のことが浮かんできた。
     
     頭痛のときに走るフラッシュバックの映像は、知花を取り囲んでいる大人たちの様子だった。映像は二種類あり、一つが制服を着た警察官で、もう一つが一般の服装をした三〇歳から八〇歳くらいのたくさんの人たちだった。みんな知花を問い詰めていた。小さな知花は首を横に振っている。何を聞かれても首を横に振っていた。時間は夜の九時を回っていた。警察署にいたのは三〇分から四〇分程度で、そんなに長くはなかった。そして公民館には学校から帰ってこない心春ちゃんの行方を探して大勢の人が集まっていた。知花は公民館の真ん中に連れていかれ集まった人々から質問を受けていた。やがて公民館の中に母が土足で入ってきた。
    「どきなさい! どきなさい!」
     母は叫びながら公民館の中に集まっている人たちを蹴散らすように入ってきて知花を抱きかかえた。
    「この子が、どうして事件に関係あるんですか! 心春ちゃんと一緒に帰ったけど途中で別れたって、どうして何度もおんなじことを聞くんですか! まだこんなに小さな子に… 大人たちが寄ってたかって…」
    「だけども、その子が何にも喋らないから、何にも見たこと教えないもんだから、俺たちも聞くしかないんだ」
     母はそう話した年配の男性を睨みつけた。
    「さあ、知花。このおじさんに言ってあげなさい。私は心春ちゃんと途中で別れたって、それ以後心春ちゃんを見ていませんって。ねえ、そうでしょう?」
     知花は母の言葉に大きく頷いた。すると母はもう一度知花に向かって言った。
    「知花、この人たちに、『私は何も見ていません』と言って!」
     知花は母に言われたとおりに話した。
    「わ、わたしは、な、なにも、み、みていません………」
    「さあ、帰りましょう」
     母は知花を抱きかかえながら公民館に集まる人をかき分けて外に出ると、知花を車に乗せて家に向かった。
     断片的だったフラッシュバックの映像が繋がり始めていた。思い出すことが少しずつ繋がりを見せ始めた。そして、またボトルに手が伸びた。
     
     知花は事件についてインターネットで調べた。インターネットの記事によれば、佐藤心春ちゃん行方不明事件は、渡辺一家が北海道から引っ越してきた新潟市で発生し、未だに彼女の行方がわからない未解決事件だった。『…警察では行方不明の連絡を受けてから捜索本部を設置して捜査員を増強、最大約三〇〇人体制と多数のボランティアが協力した捜索活動は一五日間続けられた。心春ちゃんが消えた場所とされる地点から四方八方に捜査の手を広げたが、捜査当初から有力な手がかりになるような目撃情報は乏しく、彼女の持ち物などの物的証拠も発見されなかった。近所周辺と空き家のみならず、普段は人が立ち入らない山林なども虱潰(しらみつぶ)しに捜索されたが心春ちゃんは発見されなかった。新潟県警は周辺にいる可能性は低いと判断し、現地の指揮本部を解散して捜索活動を打ち切った。記者会見で話した県警本部長は心春ちゃん行方不明事件を、以後は特異行方不明者として全国に情報提供を求め、事件に巻き込まれた可能性も含めて捜査を続けると発表した』と書かれていた。
     
     渡辺家が新潟市に引っ越して来た日に、近所に住む佐藤さんが心春ちゃんを連れてやってきた。
    「バタバタしていて、こちらから挨拶に伺わなきゃいけないのに。もうてんやわんやで、ご近所様への挨拶も後回しにして… 本当に申し訳ございません」
     母はそう言ってうやうやしく佐藤さんに頭を下げていた映像が浮かんできた。
    「お子さんはお一人かしら?」
    「ええ、知花といいます。ほら知花、お姉ちゃんよ」
    「学校は明日から? うちの心春は五年生ですが、集団登校の班長なんです。朝七時三〇分に呼びに行かせますわ」
    「まあ、ありがとうございます。実はいろんな手続きが遅れていて、知花は月曜日から学校に行かせる予定なんです」
    「まあ、そうでしたか。聞いておいてよかったわ」
    「申し訳ございません。こちらから言わなくてはならないことなのに。本当にありがとうございます。月曜日からよろしくお願いします。心春ちゃん、よろしくね」
    「はい。じゃあね、知花ちゃん。あ、そうだ、今から家に遊びにおいでよ」
    「そうね、そうしなさい。その方が片付けもしやすいでしょうし。五時頃にお返ししますね」
     母が本当に申し訳なさそうに頭を下げていたのを思い出した。
     それから半年くらいが経ったころだった。ある日の下校時に心春ちゃんと一緒になった時があった。
    「知花ちゃん、一緒に帰ろう」
     知花は帰り道を心春と一緒にお喋りしながら帰った。
     
    知花は再びウィスキーを手に取って一口ゴクリと飲んだ。頭の中にあの日の小学校の生徒昇降口が見え、心春ちゃんが知花に声をかける場面が見えてきた。
    「知花ちゃん、一緒に帰ろう」
     しかし、その後はどのように一緒に帰ったのかは思い出せなかった。何度も繰り返し思い出そうとしてみたが、その次の記憶は警察署の中だった。それがやがて公民館へと切り換わった。
     ブ~~~ ブ~~~ ブ~~~
     スマートフォンのバイブレーションが机の上で響いた。知花はため息が出るように大きく息を吐くとスマートフォンの電源を切り、もう一度記憶を遡った。
     近所で仲良くしてくれた心春ちゃんが学校からの帰り道で突然行方不明になり、警察と近所の自治会や消防団によって捜索が開始された。警察に寄せられた目撃情報から、その直前まで一緒に歩いていたのが知花だったことがわかった。知花は警察署に連れて行かれて事情を聞かれたが何も答えなかった。自宅では母が同じことを質問したが、知花はそれを訊かれるとラウンドテーブルの下に潜って口をつぐんだ。母はやがて彼女に言い聞かせるように話した。
    「あのね~ 知花。あなたがそんなふうに黙っちゃうから、みんな知花が何か知っているんじゃないかって思うのよ。あなたは何も見ていないし、何も知らないの。いい? あなたは心春ちゃんと一緒に帰ったけど、心春ちゃんと途中で別れたのよね? その理由は心春ちゃんが『じゃあね、バイバイ』って言ったからよね? あなたはその場所から一人で家まで帰ってきたんでしょ? だから、そう言えばいいだけなのよ。『わたしは心春ちゃんと別れたあと、心春ちゃんがどこへ行ったのか知らないし、心春ちゃんも行き先は言わなかった』次に誰かに聞かれたら、それだけ話せばいいのよ。わかったわね」
     心春ちゃんが行方不明になってからは、街では自治会や消防団が中心となって探し回った。父も会社を休んで手伝っていたが、手がかりがまったくなく、そうなると手がかりを求める矛先が再び知花に向けられた。自治会では隙きを見て無理やり知花を公民館まで連れ出して何か思い出さないかと問い詰めることまで発生した。そこに母がやってきて公民館に踏み込むと、知花を抱き上げて知花が何も見てないことを強調した。公民館から出るとき、誰かが知花の髪の毛を引っ張った。知花が大声で泣き始めたことで、自治会の中で意見が対立した。
    「北海道から引っ越してきてすぐの、小学校へ上がったばかりの子供が、仮に何かを見たとしても、それが何だったのか、それに、何かわからないものをどうやって大人に説明できるのか? もう散々聞いただろうが~」
    そうして心春ちゃんの手がかりを知花に求める声は小さくなっていった。
     心春ちゃんが姿を消して一五日が経っても依然として手がかりも不審人物の目撃証言もないままだった。父も連日のように捜索活動に参加していたが県警本部は捜索を打ち切った。それでも自治会と消防団とボランティアが集まって捜索は続けられた。しかし三ヶ月が経とうとしても何一つ手がかりがなく、次第に参加する人の数も減っていったが、人々の間に起きた疑心暗鬼が独り歩きするようになった。その一つが心春ちゃんに掛けられていた生命保険だった。通常子供が加入できる生命保険は一六歳からとなっているが、当時出始めた〇歳からの生命保険に佐藤家が加入していた。それは行方不明になるわずか二ヶ月前に親戚に頼まれて入ったものだったというが、この話が流出すると保険金目当ての自作自演だという噂が広がった。また、警察に対する初動措置の遅れがこのような事態を招いたというバッシングの声も大きく寄せられた。そして渡辺家には『あの子は絶対何か知っている』という噂が絶えることはなかった。
    「あなた、もうこんなところには居られない」
     憔悴し疲れ切った顔で切り出した母の言葉が、仕事最優先の父を動かした。父は東京本社に電話をかけると、当時社長だった祖母に異動願いを申し出た。
     そのわずか三日後、渡辺家はさいたま市へと引っ越した。疲れ切っていた両親は小学校にのみ転向を伝え、佐藤家にも自治会にも何も言わずに引っ越した。最短で依頼した引っ越し屋の手配が夜になったため、まさに夜逃げをするように新潟からさいたま市へと引っ越した。
     
     二年生になる少し前にさいたま市の小学校へ転向した知花には、簡単な学力試験と健康診断が行われた。保険の先生がその場所で、知花の視野が狭い事に気づいた。それは決して深刻なものではなく、視野狭窄という病名をつけるほどのことでもないようなものだったが、知花の視野が一般的な小学生の視野よりも狭いことがわかった。しかし緑内障や眼圧を感じるということがないことから、先天性緑内障または正常眼圧緑内障の疑いがあるということに留まった。さらに保険の先生が気づいたのが知花の落ち着きのない態度とソワソワキョロキョロする仕草、そして話す人の目を見ることができないことを発見した。保険の先生は母にこのことを話したが、母はその可能性があるということを理解した上で、知花が発達障害ではないと断言した。母はこの挙動はさいたま市に来て初めて家族が確認したものだと強く主張した。初めての場所での緊張が知花にそのような挙動を起こさせたと主張して保険の先生を納得させた。
     
     何度も繰り返し思い出すことで繋がり始めた記憶だったが、事件のことはそれ以上思い出すことはなく、さいたま市での小学生の思い出も高学年以降のことしか思い出せないままだった。
    「……だめだ… これ以上は… 思い出せない」
     
     わずか一時間程度の間にウィスキーが半分近くまで減っていた。スマートフォンの電源を入れるとパネルには雄大からの着信表示が見えた。
     ブ~~~ ブ~~~ ブ~~~
     雄大の謝りたい気持ちはわかるが、知花はそれを受ける気分ではなかった。彼らに腹が立たないわけではなかったが、これは自分の付いた嘘に対する罰だと受け止めることにした。ただ、ようやく進み始めたと思っていた人生が、実際には一歩も進んでいなかったという事実を受け入れるしかないと考えると、崩れ落ちそうになった。そして再びパーティのことが思い浮かぶと、ほのかに、ほんの少しだけあった雄大に対する憧れが、目覚めたときにスーッと消えてしまう夢のことのように感じた。
     ブ~~~ ブ~~~ ブ~~~
     何度もしつこくなり続けるスマートフォンを取り上げ「しつこいです」と言った途端、「こちらはラインです。お客様の認証番号は…」というアナウンスが聞こえてきた。履歴を見ると、ラインからの間違い電話が連続して何件も着信していた。一番古いのが、雄大のマンションに入る直前に着信していた彼からの電話だった。知花がマンションを飛び出してからは、雄大が追いかけてくることはなく、電話さえかけてきたわけではなかった。
     頭の隅にほんの少し引っ掛かっていた最後の、言葉にならない淡いものまでもが消え失せた。それを感じるとポッカリと胸に空いた穴に指を突っ込んで弄びたい衝動に駆られた。
    『…こういうのが… バッサリ斬り捨てられるって、いう… 感覚なの… かな』
     知花は電気を消すとベッドの上に倒れ込むように横たわった。
    人生の色んなシーンが頭を横切った。
    「…知花ちゃ~… …花ちゃ…」
     遠くから祖母が呼ぶ声が聞こえてきたが、そのまま深い眠りに落ちていった。夢の中の祖母に『今日は、お風呂には… 入らない』と伝えた。
     
     
              9
     
     翌朝の八時過ぎに目を覚ました知花は、机の上のウィスキーボトルがなくなっていることに気づいた。あたりを探してもボトルは見つからなかった。ひどくのどが渇いたので一階に降りて冷蔵庫の中のペットボトルの水をコップに二杯飲み干した。ダイニングテーブルの上には祖母が作ってくれた朝食と昨夜飲んでいたウィスキーボトルが置かれてあった。
    「そうか、今日はおばあちゃん、朝早くから、どこかへ出かけるって言っていたわね」
    ボトルの栓は粘着テープでぐるぐる巻きに封がしてあり、その上からマジックで『禁』の文字が書かれていた。知花はそのボトルを見て「ごめんなさい、おばあちゃん。ありがとう」と声に出した。そして風呂にお湯を入れた。
     
     風呂から上がると、朝食を食べながらスマートフォンをいじって免許センターで試験を受ける日を考えていた。
    「新宿運転免許センターでの最終試験は、明後日にしようかな…」
     ピ~ンポ~ン
     玄関チャイムが鳴った。知花はタオルを頭に巻いたままドアホンモニターを見ると、玄関先に立っていたのは雄大だった。モニターを見ながら『通話』ボタンに手をかけていたが、ボタンを押せずにいた。
    『どうしてここ、知っているの…』
     そう思ったとき、彼は知花が大学生ではないこともすでに見抜いていたのではないかと思った。だから学生たちもその質問はしなかったのだ。しばらくするとモニターの画面が消えた。知花はドアホンの履歴を確認し始めた。そこには今朝の八時と昨夜の一〇時に雄大の姿が写っていた。
    『そういえば、昨夜寝る前に祖母が私を呼んだ気が… そうか、だからウィスキーボトルもここにあるんだ』
    ピ~ンポ~ン
     もう一度ドアホンが鳴った。一時間前から家の前で待っているのだろう。知花はかなり逡巡したが、『通話』ボタンに触れていた指が動いた。
    「お、おはようございます~ あ、あの~ た、高橋と申しますが~」
     受話器から雄大の声が聞こえてきた。
    「三〇分待ってて!」
     知花は命令するように強く言うと、雄大の返事も聞かずに『終了』スイッチを押した。
     まさか彼がこの家を訪ねて来るとは思ってもみなかった。知花の頭の中には様々な思いが入り乱れ始めた。何もかもが過ぎ去った出来事にしたいと願ったが、嘘をついたことで複雑化した出来事に苦しむ自分の姿が浮かんできた。
     うえ~っ
     突然吐き気がして朝食を戻してしまった。食べ残りもすべてゴミ箱に入れた。しかしいつもやってくるあの重い倦怠感は襲ってこなかった。それでも口の中を濯いで処方箋を飲み込むと、蛇口をひねって水と一緒に流し込んだ。気持ち悪さが残る中で皿を洗い終えて二階へと上がった。そして適当に乾かした髪の毛を無理やりひとつに纏めて縛り上げると適当に服を着た。
     知花は、彼がここまで車で来たのではないかと思った。そして彼が何を言うのかはわからないが、謝罪のために来たのは間違いなかった。しかし知花には彼が騙したことなど、もうどうでもよくなっていた。知花も彼に大日女学院大学に通っていると嘘を付いていたのだ。そう考えると、彼がしたことに対して許すとか許さないとかいう問題にはならなかった。しかし、もし彼が車で来ているのであれば、どうしてもお願いしたいことがあった。
     
    「車で来たの?」
     知花は玄関から出てカギをかけながら、挨拶もせずに雄大に尋ねた。
    「えっ、あ、うん。」
     知花が歩き始めると彼はズボンのポケットに手を突っ込みながら付いてきた。家の敷地から出て路上駐車している白いロードスターを探していると、彼がスマートキーを取り出してボタンを押した。
     ピッピッ
     ドアロック開閉音と同時にウィンカーが点滅した。彼が乗ってきたのは白いロードスターではなくグレーに光るマツダの四ドアセダンだった。離れた場所から見るその車は、モノトーンのように色彩が抜けているように見えた。助手席に乗り込んだ知花を追いかけるようにして運転席に乗り込んだ彼に、知花が有無を言わさぬ口調で話した。
    「今日一日、私のために時間を割くつもりで来たんでしょ?」
     雄大は一言も発することなく覚悟を決めた表情で何度か首を上下に動かすと、エンジンスタートボタンを押した。
    「いまから、新潟に行ってほしいの」
    「新潟? 新潟って日本海にある、あの新潟?」
    「他にどこか新潟っていうのがあった?」
     彼は黙ってカーナビゲーションに新潟県と打ち込んだ。
    「新潟のどこ?」
    「新潟市なんだけど、燕市との境の国道一一六号線の~ このあたりを目指して」
     彼が運転する車は目白通りに入り、暫く進むと練馬インターチェンジから関越自動車道に入った。不案内な場所を抜けて高速道路に無事入った雄大は「フーっ」と一呼吸ついた。
     
    「もう遅いけど、私、雄大さんに謝らなければならないことがあるの」
     雄大は知花から謝るという言葉を聞いて驚いた表情を見せたが、口を挟むことなく黙って彼女が話し出すのを待っているようだった。
    「昨日あれから、家に帰ってからもいろいろなことがあったの。そして一人でいろいろなことを考えた。もうすべてがどうでもいいと思ったり、すべてに逃げたりしてきた自分を見つめていたの。私は小学校二年生になる少し前にいま両親が住んでいるさいたま市に引っ越してきた。今から向かう新潟市から…。私は、転校先のさいたま市の小学校で学力試験と健康診断を受けたんだけど、保険の先生が私の視野が狭いことに気づいた。そして簡単なテストをしたらやっぱり一般的な子どもと比較して視野範囲が狭いことがわかった。これは自分では概念がないから、だから気にもしなかったけど、先生は同時に私の、一言で言えば私の挙動不審な動きに気づいた。その日は母と一緒に学校に行ったので保険の先生は待っている母のところに行って私の健康診断で視野狭窄の疑いと発達障害の疑いがあるって話したわ。それは私にはそれまでまったく自覚のなかったことだった。新潟で起きた出来事が私の心身に影響を与えたんだと、母は当時そう思ったんだと思う」
     知花は一旦話を切ると、少し時間を掛けて言葉を探しながら言いたいことを整理していた。雄大はずっと走行車線を時速一〇〇キロくらいのスピードで走っていたが、彼女の話が中断すると追い越し車線に進路変更してアクセルを踏み込んでスピードを上げた。 
     
    「さいたま市に引っ越してからは、私は高学年になるまで引きこもっていた。よく覚えていないからそうとしか思えないんだけど、でも中学になれば嫌でも部活に入ることになるわ。何も決められない私を担任の先生が顧問を務める水泳部に入れた。でも私はそこで、ようやく自分らしさを取り戻すことができた。私が一番私らしかったのは、多分その時が最初で、それはたった三年間で終わってしまった。高校には水泳部がなかった。次第に私はクラスメートとも話さなくなった。理由はよくわからないけど、強いて例えるならば癌のような病気で、だんだん弱っていくような感じだった。同時にあの奇妙な頭痛が始まったの。それは胃の中に重い錘が沈み込んでくるような感覚で… その後大きな黒い布を頭から被せられるような倦怠感が襲ってきて、やがてその倦怠感が伴った頭痛が始まる。市販の頭痛薬はまったく効果がなくて、町医者がくれた処方箋も効かなかった。そうして迎えた受験勉強だったけど、この頭痛が怖くて全然勉強に集中できなくなっていた。たまたま自宅のキャビネットの中にあった父のウィスキーを一口飲んだときに痛みが収まったの。それから頭痛のたびにウィスキーを飲むようになった」
     知花は一旦話を切り上げ、そのタイミングを待っていたように彼が言った。
    「次のサービスエリアでガソリンを入れなきゃ。ついでにトイレと飲み物も買おう」
     
    「危なかった。気づくのが遅ければガス欠を起こすところだったよ」
     広い車内にはドリンクホルダーも標準装備され、知花は自動販売機で購入したお茶を一口飲んでからホルダーに入れた。車が加速しながら本線へ合流すると、彼はアクセルを踏み込んで一気に一二〇キロを超えるスピードを出し、大型トレーラーを連続して三台追い越すと走行車線に戻って少しだけ減速した。運転に集中する雄大の様子を見ながら知花は話の続きを始めた。
    「私は大学受験に失敗した。そう、雄大さん、本当は私が大学生じゃないって知っていたんじゃないの? どうして私が大学生じゃないってわかったの?」
    「ん~ 高校生から大学生になれば、一度に沢山の知らない人と出会う。特に東京の大学には地方出身者が大勢集まって来る。そこでは自分と他人との比較が始まるんだ。昔はそれが強くファッションに現れたけど、いまは他人のファッションなんて誰も気にしなくなった。でもトレンドはある。それが白いシャツと黒のスキニーパンツだけど、君にはそういう雰囲気がまったくなかった。テニサーって言葉も常識で、つまりテニスサークルってことだけど、多くの大学生に人気のサークルなんだ。それも君には通じなかった。そのいつもの黄色いトートバッグも、あまり重いもの、そう、教科書なんか入れたら型くずれしそうだし、教科書を入れているようにも見えなかった。でも、もしかしたらと思ったのは、『ルーズリーフ』だった」
    「やっぱり…」
    「でも特に疑って見ていたわけではないんだ。まあ、もしかしたらマイルズの講義を聞いていて自然に物事を鵜呑みにしないという習慣になったのかもしれないんだけどね」
    「そうなんだ。きっと、嘘つきの馬鹿女に見えたでしょうね」
    「そんなわけじゃ…」
    「まあいいわ。話の続き、していい?」
    「…ああ」
     彼が唇を噛む様子が横目に見えた。
    「受験に失敗して五月が過ぎようとしていた頃、毎日の頭痛とそれを緩和してくれるウィスキーによって私は朦朧としていた。そしてあの健康的だった中学時代を思い出すとどうしても水泳をしたくなったの。予備校帰りにスイムウェアを買ってプールに行ったけど、人が多すぎてとても泳げる状態ではなかった。そう思った翌日は土曜日で、予備校は休みだったからすぐにプールに出かけた。それでも人が多すぎて、二五メートル泳ぐ度に順番に並ぶ必要があったの。がっかりした私は、また夜に飲みながら、平日の日中であれば比較的空いていると思い付いて予備校を休んでプールに出かけた…」
     知花が話を止めたので運転している彼は彼女をちらっと見て「聞いているよ」と言った。
    「吐いたの」
    「えっ? 何て言った? よく聞こえなかった」
    「吐いたのよ。私、プールの中で」
    「えっ?」
     知花の胸は大きく深呼吸するように上下した。
    「子供水泳教室とかで子供が嘔吐するのはたまにあるようで、監視員たちも手慣れたように処理してくれたわ。でも私が酒臭いって気づいた。そして母が呼び出された。私は自宅に戻って、前日の夜もほとんど寝ていなかったからすぐにベッドに入って寝たわ。プールから帰ってきた母が私を起こそうとしたと思うんだけど私はぐっすり眠っていたので押入れを開けたのね。そうしたらウィスキーの空き瓶がたくさん出てきた。翌朝起きて一階に行くと、ゴミ袋の中に押し込まれた空き瓶を見せられたわ。父が突然『病院に行くぞ』そう言って私を車に乗せて、そして連れて行かれたのがアルコール依存症専門の病院だった。私は二ヶ月の予定で入院することになったけど、親にも病院の先生にも、何を話しても私がアルコール依存症だと信じて疑わなかった。でも私はアルコール依存症ではないわ。頭痛のことを話したら医者がいい処方箋をくれたの。私にはもうアルコールが必要なくなった。それなのに、機械的な治療プログラムが毎日続けられた。入院生活の二日目にはもう『私はアルコール依存症です』と大声で宣言させられるようになっていたわ。そうして一ヶ月が経ち、私はもう我慢できなくなった。両親を待っていると言いながら一階のロビーでずっとチャンスを伺っていた。三時間ほど待っていたら来訪者がタクシーから降りてきた。私は急いで走って自動ドアを潜り抜けると、病院を飛び出してタクシーに乗り込んだ。そして祖母の住む中野区まで行ったの」
     知花はドリンクホルダーからペットボトルを手に取り、お茶をゴグリと飲んだ。雄大もそれに呼応するように缶コーヒーを掴んでごくりと飲んだ。
    車は一二〇キロを超えるスピードで走り続け、やがて長岡ジャンクションを通過した。
    「亡くなった祖父が会社の前身を作ったの。祖父が亡くなったあと祖母が会社を継いだ。祖母はもともと保険の外交員をしていたのでそのノウハウを応用して法人向けの資産運用についてのコンサルタントを始めたの。やがて、法人から個人へと事業を拡大した。だから祖母は人を見る目や物事に対する考え方や取り組み方も心得ている。いまではもう第一線を退いて会長職に就いているけど… 祖母は私が入院していたことは父から聞いていなかったので私を見てとても驚いていた。私は祖母にすべてを話した。そしてしばらくの間両親に公認で祖母の自宅で暮らすことになったの。その祖母に連れられて出かけたのが経済団体の主催した講演会だった。日本の明治維新に関する歴史の話だった。この講演会の内容はいつか話したと思うけど」
     雄大はウンウンと頷いていた。
    「それで刺激を受けた君はもっと講演を聞きたいと思い、インターネットで検索してマイルズ・スクールにやって来たんだったね」
    「そう。だから雄大さんが思ったとおり、私は、女子大生ではなく浪人生でした。しかも、その前にいたのがアルコール依存症で入院する施設だった。どう? 私の経歴?」
     彼は、自分を卑下して自慢そうにピエロを気取る知花をチラリと一瞥したが、知花の質問には何も答えなかった。
    知花は何も言わない彼に少しイラっとした雰囲気を醸し出した。ペットボトルのお茶を口に含むと座り直すように足を組み、そして腕を組んで体をシートに沈めるようにした。車が走行車線を走る大型バスに追いつくとウィンカーを挙げて追い越し車線へ飛び出し、アクセルを踏み込んで一気に追い越した。助手席の知花は片足のままで左右に揺られながら不機嫌そうな表情を浮かべた。
     
    「…それで、新潟に行くのはどうして?」
    「わからない」
    「わからない? わからないって… どういう意味?」
    「わからないから、わからないの」
     知花は挑発するような言い方で雄大に答えた。彼は一瞬カチンと来た表情を浮かべたが、苛立ちを吐き出すように大きく息を吐いた。
    「ふーっ。それにしても、僕の方こそ、君に謝罪しなければならないよ。全部君の想像通りだよ。謝って済む事じゃないけど、ごめん」
     知花はツンとしながら視線を窓の外へ投げた。
    「大学で学ぶ犯罪心理学という専攻では、卒論のテーマはどうしても総説論文といって体系立ててまとめた論文になる事が多い。つまりそれは、その分野での外接や研究動向、今後の展望を示すだけで新しい事実や成果の発表にはならない。これに対して研究者の論文というのが原著論文というもので、これには著者のオリジナリティがある。そして未発表というのが原則だ。しかしこの原著論文を発表するのに欠かせないのが結論を導くための調査と実験だ。そして反証と言って実験の再現性も求められることになる。僕はこの研究を准教授へのステップアップだと考えていたんだ。世の中にはたくさんの犯罪が毎日のように起きているけど、犯罪者の一部が何故凶悪な犯行、異常な犯行をするのか、そこには必ず心理が関係する。昔からその研究が続いていたんだけど、服役者に対する更生プログラムは本当に正しいのかという問題は常にあるんだ。実際に、再犯や累犯者がどれだけ多いことか… 犯罪が凶悪化するように、罪を犯す人間の心理も単純なものじゃない。その中で近年注目を集め始めたのが『発達障害』なんだ。これは昔から確認されていたことなんだけど、従来はそれを個性の一つとして考えてきた経緯があったんだ。でも最近になってそれが先天的であることがわかってきた。だからといって発達障害者が必ず犯罪に走るわけではない。ほんの少しだけが、それも凶悪犯罪に走るんだ。実際に発達障害かどうかは詳細に検査しなければわからないんだ。従来、いや、今でもだけど、犯人の家庭環境などに何らかの原因があって、そのことが本人の犯した犯罪にどのように結びついたかという原因と結果という観点で考えてきた犯罪心理学は、少し前から言われ始めたこの発達障害という概念によって、罪を犯す根幹が『心』にあるのではなく『脳』にあるというのがわかってきたんだ」
    「脳?…」
    「そう、脳だ。しかしこれもまた大きな壁があってね… この先天的な障害は刑法でいう『責任能力の有無』に深く関わってしまう。つまりこれを認めてしまえば、犯人は罪に問われないことになる。だから司法は発達障害と診断することに対して非常に消極的な態度を見せているんだ。それに、一番の問題は…」
     彼は顔をしかめるように言葉を飲み込んだ。車が前を走る軽自動車に追いつくと、ウィンカーを右にあげて追い越し車線に入りアクセルを踏み込んだ。軽自動車をはるか後方に引き離してから再び走行車線へと戻った。
    「…その問題は、役人が… 法務省の役人が言ったんだけど… 『犯人に発達障害の診断をしてどうする? そんな必要はない。だって、そんな診断をしても先天性の脳障害には治療方法がないんだから、まったく無駄なことだ』って」
     雄大はスピードを緩めることなく走行車線を走っていたのですぐに前方を走る車に接近した。そしてまたウィンカーを挙げると追い越し車線に飛び出した。やがて前方に車が見えなくなるとようやく少しスピードを緩めて車線変更して走行車線に入った。
    「…それに従えば僕ら研究者の、研究する意味はなくなってしまう。脳機能障害による犯罪は、先天性であれば犯罪者を処罰できなくなる。事件には被害者やその家族がいる。戦後の日本では、犯罪者はやむを得ない事情の中で犯行を犯した存在として同情されてきた経緯がある。しかし、身勝手で異常な凶行に同情の余地はないと考えるのが一般的な傾向だ。その犯人が実は発達障害だったから無罪というのはでは… 被害者家族であれ国民であれ、誰も納得しないんだ。そしていまの時代は、弁護士も金や自分の名声のために動く。実際に起きた出来事の真実などどうでもよく、結果から考えてどうしたら罪が軽くなるのかということに焦点をおいて被告人と認識を合わせることが当たり前のようになっている。そう言う意味で僕は、異常者というのは犯罪者に留まらないと思っている。そんな奴らが平気な顔をしてどこにでもいる。こんな社会の中で僕らはどこへ向かえばいいのか? こういうのが僕の陥っている悩みの根幹なんだ。『その研究結果は治療法がないからが意味ないんです』そんな声がこの耳に聞こえてくるんだ…」
     言葉に詰まる彼に、知花は掛ける言葉を失っていた。
    「僕は最初に君を見たとき、そう、あの喫茶店で君と話したときにもしかしたらと思ったんだ。東京駅側のカフェでおかしな質問をしたけど、あれもそうだったんだ。発達障害のチェックリストを用意して確認したんだ… でも田町での講演会や江ノ島では君をそんなふうに見ていたわけじゃない… だけど、もうゼミの学生の間ではパーティの企画が進んでいた」
    「私の、何を調べたかったの?」
    「君を見つけてから、ゼミで君の話をしたら、毎年少しずつサンプルとなる発達障害者を見つけて定量となるまでデータを蓄積していくのはどうかって意見が上がったんだ。でも本当はその中でもアスペルガー症候群を発見したかったんだ。うまく仲良くなって、普段どんなテレビや映画を見ているのか、SNSやユーチューブなどの書き込みを教えてもらいそれをチェックする。これらを長期スパンでデータを集めて研究することを今後の目標に掲げたんだ。でも、もうやめることにした。教授には研究員を辞めるとメールで送信した。ゼミの黒板にもそう書いてきた。それから君の家に行った」
    「辞めるの?」
    「当然だよ。君を著しく傷つけてしまった。これが最大の理由であり、それはすべて僕の責任だ。研究方法にも問題があった。仮に数年かけて論文を書き上げても、第三者の専門家チームによって指摘されればそれでボツだろうね」
    「そう… それにしても、よく私の祖母の家まで…」
    「株式会社ワタナベ・ワークス。コンサルタント会社だけど当時の求人情報誌のままの屋号で経営している。ゼミの神崎さん、覚えているよね? 彼女のお父さんが勤務している会社がワタナベ・ワークスだよ。彼女はお父さんの会社で事務のアルバイトをしているんだ。君を見て会長の若い頃の写真にそっくりだって話していた。創業者が中野の大きな屋敷に住んでいるって聞いたんだよ。君が中野駅を利用していたから、もしかしてと思って当てずっぽうで行ってみたんだけど、すぐに分かったよ。夜中に行ったら会長さんが出てきて『もう寝たみたいだから明日の朝に来て』って」
     
     
     
     
     
              10
     
    「次の信号を過ぎたところで止まって」
     二人は、民家と商店が混ざり古く寂れたような新潟市の郊外にある町へとやってきた。知花は路上に車を停めてもらうとドアを開けて外に出た。
    「ここは?」
    「この街に住んでいたの。ちょっと待ってて…」
     知花は必死になって当時を思い出そうとしていた。雄大は「前にあるコンビニに車を駐めてくる」と言ってコンビニエンスストアに向かった。
    知花は当時住んでいた自宅を探してコンビニエンスストアの方に向かって歩き始めると、見覚えのあるオレンジ色の屋根が見えてきた。屋根の棟に沿って消雪パイプがあり、それは地下水を屋根に噴霧することで雪を溶かし、屋根の雪下ろしをしなくても済む新潟特有のシステムだった。当時父が自慢げに話していた光景が蘇ってきた。
    「変わった屋根だね」
     走って戻ってきた彼が知花の見ている屋根を見上げた。
    「この家に、昔住んでた」
    知花は記憶をたどりながら心春の自宅を目指して歩いたが、彼女の自宅のあった場所には新しく建て替えられた別の住宅が建っていて、『松山』と書いた表札が下げてあった。知花は何度か周囲を周ってその場所が彼女の自宅があった場所だったのは間違いないと確信した。そしてもう一度昔住んでいた家の前まで戻ると今度は小学校へ向かって歩き出した。雄大は黙って知花の後からついてきた。
     あれから一五年の年月が経っていた。新しい住宅、団地、そして道路が作られ、街の様子もずいぶんと変わって見えた。知花は小学校までの道のりをスマートフォンのナビゲーションシステムに表示させながら記憶をたどるように歩き始めた。そして一キロほど歩くとようやく小学校に到着した。周囲の道路が新しく広くなっていたが、小学校は当時のままのような気がした。
    「あっ、あそこ…」
    『生徒昇降口』と書かれた看板の先を見ると、あの日心春と帰りが一緒になった花壇が見えた。知花は校門の前に立つとその花壇をじっと見つめながら視線をゆっくりと動かし始めた。やがて視線が足元まで落ちるとクルッと半回転して小学校に背を向けた。手を上げて横断歩道を渡り道路の向こう側まで行くと、歩道に沿って緩やかな坂道を上った。右側に車一台が通り抜けられそうな細い小道があり、知花はその小道へ入った。車両通行止めの道路標識には『7―9』と表示があった。知花は心春と手をつないでいるように歩いた。雄大はその後ろ姿を見ながら黙って付いて来た。そのまま二百メートル程歩き、坂道を下ろうとしたところで知花の足が止まった。坂道の中腹には車がすれ違うための膨らんだ場所があった。
    「でぃ~っく」
     雄大は知花が突然発した言葉に眉間をしかめて聞き耳をたてるポーズを取った。知花は彼のポーズを見ると目をカッと見開いた。彼は知花の驚いた顔を見て驚くと、思わず両手を上げて『参った』のようなポーズを取った。
    「ごめん。邪魔するつもりじゃなかったんだ」
    「いまのそれ…」
     知花の言葉に彼は、申し訳ないような感じでもう一度両手を上げてみせた。
    「違う! その前の」
     雄大は少し考えたあと、聞き耳を立てるポーズを取った。
    「これ?」
    「それ!」
     知花はゆっくりと坂道の中腹にある道路が膨らんだその場所まで行くと、その場所に立ったまま動かなくなった。
     雄大はその様子を見ながらそっと彼女の傍に立った。
    知花は、いま見えた映像をゆっくりと話し始めた。
    「…ここから、お姉ちゃんが水色の車に乗ったの。…その前に、車に乗る前にわたしのところまできた。私、お姉ちゃんに、大好きだった心春お姉ちゃんに『車に乗るの誰にも言わないでね。秘密よ』そう言われたの。新潟に来て初めて仲良くなった心春お姉ちゃんとの約束は… 私にとって破るわけにはいかなかった… 水色の車… そうだ。雄大さん、車持ってきて」
    「こはる?… あ、あぁ… ちょ、ちょっと待ってて」
     知花はそう言った後で急に雄大を追いかけはじめた。車に乗り込もうとした彼は知花が追いかけてきたのを見ると彼女が来るのを待った。
    「すぐ向かったのに…」
    知花は少し息を弾ませながら車に乗り込むとスマートフォンを取り出してナビゲーションを開始した。そして表示された案内を見ながら息を整えた。
    「やっぱりいいわ、歩くわけじゃないし、次はここに行きましょう」
     そういうとスマートフォンを手に持って道案内を始めた。
    コンビニエンスストアから車で三分程走ると、道路に面して立ち並ぶ住宅の一角に広い間口があり、その先にはアスファルトが敷かれた広場があった。
    「あの広場に入って車を止めて」
    住宅街の背後に広がるこの広場の間口に三階建ての古い鉄骨でできた住宅があった。二人は車から降りると住宅の前まで行った。二人でその建物をぐるりと回って見たが人の住んでいる気配はなく、しばらく前から空き家になっているようだった。そして広場を向いている三階の大きな窓を指差した。
    「あの場所が、当時ピアノ教室があった場所」
    「ピアノ教室?」
    「そう。私がピアノを習いたいって言ったみたいで、両親が探してくれたの」
     その窓を見ながら、ゆっくりと後ろ向きに広場を横切るように進むと、アスファルトが途切れて泥がむき出す河の堤防に出た。堤防の下は信濃川の河川敷になっていて、だだっ広く平らに均された泥の中洲が広がっていた。
    「…もしかしたらここ、雪捨て場になっているんじゃないかな~」
    「雪捨て場?」
    「そう、日本海側では雪が降るだろ? 街なかで除雪された雪がダンプカーで河川敷まで運ばれてきて一時的に積み上げられるんだ。雪はいずれ溶けて水になって川に流れるから」
    「そうなんだ…」
     知花は興味なさそうな返事をしながら、ずっとピアノ教室のあった窓を見上げていた。
    「ピアノ教室にも何かあったの?」
     知花は見上げていた窓から足元に視線を移した。
    「あの窓からこの場所を見ていたの」
    「この場所?」
    「そう。あの日、心春お姉ちゃんが乗った車が、この場所にあったの」
    「それって、同じ車? どうして同じ車だってわかったの? この距離とあそこから見た角度じゃ、車のナンバープレートもよく見えないんじゃ?」
    「ただそう思っただけ。根拠はないけど、そう思ったの。ナンバープレートなんて、当然見えないし見てもいないわ。それに、一〇月の一八時過ぎよ。でも、あの日お姉ちゃんと約束した日、私は少しだけワクワクしたの。お姉ちゃんと二人だけの秘密があることに。ピアノ教室からあの車が見えた。でも乗っているのが誰かも、お姉ちゃんが乗っているのかも見えなかった。レッスンのあとには、もう車はなかったわ」
    「車は、ここにちょくちょく出入りする工事関係者の車じゃないの?」
    「そうではないと思う。この広場で遊ぶ子供はいるけど、犬の散歩とか… でも暗くなり始めた夕方に車が入って来る理由がないし、駐車だけならもっと道路側に止めるんじゃないかしら。河川敷には何もないから」
     何かを思い出そうとしている知花の視点は、ピアノ教室の窓と車が駐まっていたという二人の立っている場所とを行ったり来たりしていた。
    「だめね。これ以上思い出すことはないわ。でもずっと思い出せなかったことが思い出せてよかった。母のお迎えでピアノ教室から自宅へ戻るとすぐに警察官がやってきたの。そして『今日の学校の帰り、佐藤心春ちゃんと一緒だったかな?』そう聞かれたの。私はすぐに『ウン』と頷いた。そうしたら警察官が母と話し始めて、それですぐに警察署へ連れて行かれた…」
    「佐藤… 心春…」
     知花は話を途中で切って、ようやく繋がってきた記憶をもう一度たどるように頭の中で思い描いた。やがて、ずっと今まで断片的だった映像が、次第に一本のフィルムのように途切れることなくはっきりと目に浮かんできた。
    「…さっき歩いたあの坂道で、私は心春お姉ちゃんが水色の車に乗るのを見た。私は大好きだった心春お姉ちゃんとの約束を守りたかった。私は心春お姉ちゃんがいなくなったとかそういった具体的なことは何も聞かされないまま、『何を見たんだ? あなたが心春ちゃんと一緒にいて何も見てないはずがない』そう言って吊るし上げられるようにされたの。私はそれにも反抗していたのよ、たぶん。でもそれも限界にきていた。そんなとき母が私を助けてくれた。『この子は何も見ていません』そう大きな声で…。自宅でも両親から同じことを言われて、だから私は『何も見ていない』ことに決めたの。ようやく周りの人から責められなくなって、そうしたらやっと心春お姉ちゃんがどこかに行ってしまったことがどういうことなのか理解したわ。でもそのときはもう… 誰にも何も話さないまま、さいたま市に引っ越してた… これが、私が当時話さなければならなかったことだけど、もう遅いのよ… もう、もう心春お姉ちゃんは帰ってこない…」
    「佐藤心春行方不明事件…」
     雄大は一言呟くと、振り返って河川敷を覗き込んだ。河川敷の土手の下には所々に草が生えていて一番奥の一角には大きな茂みと一本の木が逞しく育っているのが見えた。彼はスマートフォンを取り出すとピアノ教室のあった建物の写真と広場の写真、そして河川敷の写真を撮影し始めた。
    「水色の… 車か~…」
     彼はため息のように呟くと、走って車に戻りスマートフォンでどこかに電話をかけていた。
     知花はすべての記憶がつながった後、その場所に立ち竦み懺悔をするように泣いた。
     
     雄大が運転する車が関越トンネルを抜けた。
    「ここでガソリンを入れるね」
     雄大は半分意識がないようにぼーっと半目状態をした知花に声をかけながらサービスエリアに入った。
    「トイレ休憩、しようか」
     知花が車に戻ってくると、カップホルダーのお茶が新しいものに交換されていた。彼女は「ありがとう」と言いかけたとき、雄大のスマートフォンが鳴りだして彼が車から降りた。知花は彼が「もしもし」と言いながらドアを締めると同時に、言いかけた「ありがとう」を呟きながらキャップをひねってお茶をゴク、ゴクッと飲んだ。乾いた体を潤すように水が体に浸透するのを感じると、その水が再び両目を潤すようにキラキラとした滴となって流れ落ちてきた。
    しばらくして彼が戻ってきた。
    「…はい、はい、蓑部(みのべ)建設。さすが地元名士、頼りになる~ 助かります。それじゃあ」
     彼が運転席に座りエンジンのスタートボタンを押した。
    「ガソリン、ガソリン…」
     独り言のように呟きながらガソリンスタンドに入った。知花はぼんやりとガソリンスタンドのスタッフが働く姿を見ていた。
    「あっ、お茶、ありがとうございます」
    「いいえ。おなかすいてない? 大丈夫?」
     知花は黙って首を振った。
    給油を終えて本線に合流すると、雄大はアクセルを踏み込み関越道を東京へと向かった。
    しばらくふたりとも黙ったままだったが、知花が静かに口を開いた。
    「今日一日、本当にありがとうございました。私、自宅がさいたま市なんですが、来月早々に父が北九州市に転勤します。母も一緒に行くんですが、私はどうしようかと………。行くと決めてしまえば、おそらくその時点で…、もう二度と新潟に行く機会は失われてしまう気がしたんです。だから、今日は本当にありがとうございました」
    「そう… もう、大丈夫?」
    「はい。スッキリしました。長い年月で溜まった澱が抜けたようで…」
    「そうか… なるほど… ふ~ん… それはそれは………」
     彼の話し方に微妙な含みを感じたが、泣いた後の清々しさが些細な心の違和感を消し飛ばした。
    車はずっと一二〇キロを超える速度で走り続けた。
    知花に訪れた静寂とは逆に、雄大は少し興奮しているように車を運転していた。知花は、長い間心の底に溜め隠していた汚泥の中に手を突っ込んで栓を抜くことができた心地よさを感じていた。でもそれは決して許されるわけではなく、取り返しようのないことだったが、同時に贖罪への道が開かれたようにも思われた。
    それからしばらくの間、お互い何も話さないまま車だけがゴ―ッとアスファルトを蹴りながら高速で疾走していた。
     
    やがて車が北関東に入り車線が増えた頃、雄大が重そうに口を開いた。
    「…それで、スッキリしたから、北九州へは、行くの?」
     彼の言葉には重さの中に寂しさのようなものが滲んでいたが、突き放したようには感じなかった。昨夜の出来事以来二人の間には裂け目のような溝ができていたが、知花はその溝を埋めようとする優しさを彼の言葉に感じ取った。
    「まだ決めてないんですが、でも私、両親と離れて東京で暮らそうかと思っています」
    「そう! そうか~ もし君がそうするというのであれば、僕は謝罪の意味も込めて君に最大限の協力ができるけど」
    「そう言っていただけるだけで心強いです。私は東京では他に友達もいないから… おばあちゃんが居てくれるのが支えだけど、他に誰も知らないなんて、そこだけが少し不安だったから、もし雄大さんがこれからも何かの相談に乗っていただけるのなら、私とっても心強いです」
    「少し勘違いしているな」
    「えっ?」
    「僕は最大限と言ったんだ。この意味、わかる?」
     知花はしばらく考えてみたが答えが見つからなかった。
    「僕の従兄の三石(みついし)達也(たつや)さん。彼の職業は何だったでしょうか?」
    「…不動産?」
    「つまり? もし君が一人暮らしをしたいと言うのであれば、君の住む場所、超低価格で提供できるってことだよ。僕の住んでいるマンション、あそこはいくらだと思う?」
    「わ、私、一人暮らしを考えたことはないので想像しにくいんですが、少し古いけど駅の直ぐ側だから… 安いということは、月一五万とか」
    「ハハハ、僕の安月給じゃ、そんな高いところに住めるわけ無いじゃん。想像もつかないようなので、答えを言います。実はあのマンションは、月三万円で貸してもらっています」
    「うそ~ あれが月三万円…」
     知花はひっくり返るように驚いていた。
    「好みとか条件を言わずに達也さんに任せておけば、こういうことが可能になります。いかがですか?」
    「でも私… 急に… そんな事… そ、その方も知りませんし…」
    「自社物件だから大丈夫。僕が責任持ってそうしてもらうから。でもそれには君のはっきりした返事が必要だよ。曖昧なまま人を動かすわけには行かないからね」
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
              11
     
     新潟から帰った翌朝、目が覚めると部屋が明るく感じられた。両腕を上げて背伸びしながら欠伸すると、指先まではっきりと見えた。視野狭窄の疑いがあると指摘されてから時折やっていた視野範囲の自己評価が初めて上がった。
     
    幼い知花は自分が見たことを話さずに、真実をすり替えてしまったことで事件の捜査が行き詰まった。成長するたびに耳から入ってくる痛ましい事件のニュースを、無意識の中で心春に起きたであろう出来事と重ね合わせて長い間苦しんできた。思い出せという頭痛とそれに激しく抵抗する自分がいた。そうやってずっと長い間責任の所在を自分の中で隠し続けてきた。フラッシュバックで流れた映像は事件に関する重要なヒントだった。ピアノ教室の窓から見えたあの水色の車が心春を乗せた車かどうかは今となってはわかるはずもないが、もし心春を乗せた水色の車の運転手が心春を連れ去った犯人ならば、あれからまもなく心春は殺害されたのかもしれない。しかし当時は誰もが必死になって何ヶ月間も彼女の捜索に奔走していたことを考えると、状況を理解していなかったにせよ自分が見たものを隠し続けた罪の意識は、とても拭えるものではなかった。
    さいたま市に来てからも自分が知っていることを話すべきだったと心の奥底で悩ながらも、それはどうしてもできなかった。記憶すべてを母の言葉とすり替えた。しかし罪悪感は彼女の中でうごめいていた。すり替えたはずの記憶は、他の似た事件の報道によって心のなかで燻り続けていた。やがてその罪悪感が体の不調となって現れた。
    しかし、本当に苦しかったのは心春だ。そして彼女の家族だ。彼女の浮かばれない悲痛な叫び声は、一五年の時が経っても消えることはない。これは時間が経ったからといって許されるものではない。仮にこのことを警察に話しても警察は捜査を開始するだろうか? 当時見たナンバーも車種もわからない単に水色の車という証言と、それに似た車をピアノ教室の窓から見たという証言から、警察はいったい何を探し出せるというのだろう? おそらく警察は動かず、過去の真実はどこにも繋がる場所を見つけられないだろう。
    「私の一五年目の告白は、自分自身への断罪以外、もう、何の意味も持たない」
     誰かにこれを告白しても、すべてはもうどうしようもないのだ。それは返って佐藤家を苦しめることになる。そして、今まで自分を守るための記憶のすり替えとたくさんの言い訳とこの開き直りが、いまの知花のありのままの姿だった。
    「あの時、素直に話していれば、もしかしたら解決の糸口になったかもしれない」
     知花はこの懺悔の言葉をしっかりと胸に刻みつけるように吐露した。それを時々思い出して悲しむことが贖罪となる。そしてその贖罪の第一歩が真実を思い出すことだったのかもしれない。
    『生きて、生きて、毎日心春を思い出そう。この贖罪は生きている限り続く。それでも、私のような人間でも、気にかけてくれる両親や祖母がいる。私がいい加減な人生を歩めば、彼らを不幸の中に巻き込んでしまう。私はそれを望まない!』
     
     新潟へ行った数日後、雄大は知花を連れて達也が経営する不動産会社を訪れるために待ち合わせ場所に立っていた。知花は白いシャツと黒いスキニーパンツ姿で現れた。雄大は知花の姿を見ると「大学生に見えるよ。ゼミ生にもいる」そう言って笑った。一〇月末でさいたま市から北九州へ引っ越す予定の両親には、一人暮らしをする許しを得ていた。両親は少しの間考え込んでいたが、最後は彼女の一人暮らしを応援すると言ってくれた。いまのところは大学を受験するつもりだったが、バイトでも就職でもいいと思っていた。
    『その時はまた、おばあちゃんに相談しよう』
    知花は祖母の家で寝泊まりしているので慌てて引っ越しする必要はなかったが、さいたま市の社宅には彼女のお気に入りのイタリア製アンティークのラウンドテーブルがあり、両親はそのテーブルを持て余していた。彼女が絶対に捨てないでというのでそのままにしてあったが、北九州へは持っていかないという。彼女はテーブルを守るために祖母の家に運び入れることをお願いしたが、スマートフォンで撮った写真を見た祖母は首を横に降った。つまりテーブルが処分されないためには彼女が新しく住む場所に置くしかない。円形のテーブルの直径は通常の四人がけテーブルと同じくらいあったが、日本のテーブルの高さと比較すると一〇数センチ程度高く、そしてその特殊なデザインのため、一般的な日本製のダイニングチェアとのセットでは見た目にも座ったときにも違和感があった。知花は雄大との待ち合わせでそんな話をしたところ、「引っ越し祝いで僕が用意するよ」と簡単に口にした。知花は先日行った新潟での経費などを考えると、何でも雄大に頼ることが憚(はばか)られたが、彼は軽く受け流した。
    「椅子なんて、安いもんじゃない。気にしないで。何脚必要なの? 二つ、それとも四つ?」
    「二脚あれば、十分なんですが…」
     知花は内心雄大が椅子の価格をわかっていないんじゃなかいと考えていた。彼の態度を見ているとあまり固辞するのも失礼に思い、「ありがとうございます」と言って期待しない事にした。
     
     雄大の従兄の達也は、雄大とは容姿も考え方もまったく似ていなかった。比較的ガッチリした体格の雄大に比べると達也ほっそりとしていて、濃い青系の生地に白のストライプの入った爽やかなスーツを着て、夏の名残を感じさせる褐色の肌をしていた。海風にさらされたように茶色く光る髪の毛には何の整髪料も付けてない自然さが光り、そのアンニュイなミディアムのヘアスタイルとノーネクタイが、縛られていない自由さを感じさせた。達也は雄大よりも八歳も年上のはずだったが、若手俳優のような童顔が年齢を感じさせなかった。
    「いらっしゃい、お待ちしていました。さあ、どうぞこちらへ」
     雄大は知花を紹介すると「今日、これからマイルズと打ち合わせがあるのでこれで失礼します。じゃあ、あとは、よろしくお願いします」そう言うと、さっさと事務所を出ていった。
     
    「あいつは面白いやつでしょ? 聞いていると思うんですが俺たち従兄弟なんですよ。全然似ていないでしょ? でも、だから気が合うのかもしれないですけどね」
    「昔から二人でよく遊んでいたんですか?」
    「いえいえ、俺は地方出身で地元の大学を卒業したあとで東京に出て来たんですが、彼はああ見えて東京生まれの東京育ちです。俺が東京に来た時だから… 一二、三年くらい前からですね。渡辺さんも、東京出身ですか?」
    「いえ、私の父が転勤族で、私は札幌で生まれて七年間そこにいました」
    「あ~ そうですか。あなたも雪国出身なんですね~ で、東京へはいつ?」
    「ちょっと複雑な事情があるんですが、両親はさいたま市にいて、私は半年前から祖母の住む中野区で暮らしています」
    「なるほど~ じゃあ、雄大とは、いったいどこで知り合ったんです?」
    「さっきマイルズさんのとこに行くって言っていましたが、そこでです」
     達也は左手を額に当てながら笑いを押し殺すようなしぐさを見せた。
    「何か、おかしかったですか?」
    「いえね、あいつ、大学で勉強ばかりしていた時期がありましてね、でも理由は知りませんが、何度も挫折したことがあったんですよ。あいつはそのたびに俺を頼ってくるもんで… でも口が堅いというのか、どうして悩んでいるのか訊いても話してくれないんですよ。まあ、それでも元気になれるようにサーフィンやらダイビングやらを雄大に教えたんです。勉強ばっかりしていてもダメだよって。それにあいつ、ここだけの話ですが、自分の容姿に結構コンプレックスを持っているんです。モテないのをその所為にしているんですよ」
     知花は、声のトーンを落として雄大の悪口を言い始めた達也の言葉に、どのように相槌を打てばいいのかわからず、落ち着かなくなっていた。
    「でも、結構いい人だと思うんですが… ゼミの後輩たちにも信頼あるようですし」
    「ハハハ… 渡辺さん。それでは聞きますが、あなたは好きな男性に好きですって告白できますか?」
    「…い、いえ、できないと思います」
    「でしょ? 世の中のほとんどの女性は『待っている』んです。男も待っているだけじゃ、出会いなんてないでしょ? あいつのもう一つのモテない理由が、あがり症です」
    「あがり症?」
    「そう。自分が興味ない人には至って普通に話せるんですが、美人や好きな人には全然話せなくなるんです。見ていて吹き出します」
     知花は、従兄弟だからといって雄大のことをひどく貶めるような達也の話し方に、困惑した表情を隠せなくなっていた。
    「さっきマイルズと聞いて笑ったのは、マイルズを紹介したのが俺だったからです。でも、今でも彼の子分みたいにしているのが、いかがなものかなって」
    「ど、どうしてですか? 私もマイルズさんの講義を聞いていて、とても面白いと思っているんですが」
    「当然です。彼は天才ですから。実は彼、昔、実家の近くに住んでいたんです」
     達也は腕を組んで当時のことを思い出そうとする様子でブツブツ何かを喋っていた。
    「…その時は確かまだ… そうだよな… ウンウン… 確かアレがあった後だったから… そうそう、間違いないな…」
     達也は組んでいた腕を解くと身を乗り出すようにした。
    「マイルズは俺の出た私立大学ではなかったんですが、国立大の特別講師としてアメリカから来ていたんですよ。親父がその大学の側で不動産会社をしていたので、大学から物件探しの依頼があって、親父がマイルズの世話をしたんです。その事もあってか、マイルズもしょっちゅう実家に出入りしていましたよ。当時から日本語が上手で、他にはスペイン語とフランス語、ドイツ語にそして当然英語も流暢に話せます」
    「本当にすごいんですね。私は彼の日本語しか聞いたことがありません」
    「語学だけじゃなく、様々な学問の分野にも精通しています。雄大も自分の専門であるはずの犯罪心理学の基本を彼から学んだって言っていましたからね。彼に何でもかんでも相談するようになるのは、わからないでもないですが… 俺には車貸してとか、地元の建設会社教えてとか、そんなのばっかりで… それにマイルズは、実家の空き部屋を使って子どもたちに英語を教えていたりもしたんですよ。子どもたちの英語の上達が早いって、親たちの評判も上々で… 芸術や運動のセンスはわかりませんが、マイルズは天才です。スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツの仲間みたいなものですね。大袈裟だけど。ハハハハ…」
     知花はマイルズの多才さを聞かされて舌を巻くようだった。
    「でも俺は、…あの男を信用していません」
    「えっ、どうしてですか?」
    「古い考え方だと言われるかもしれませんが、それは日本人との根本的な差を肌で感じるからです」
     知花が首をひねる素振りを見せると達也は話を続けた。
    「つまり、まあ、当時マイルズは私用で親父の車を借りることもよくあったんです。親父の車は左ハンドルだったから乗りやすかったんでしょうね。それである日、親父の車をどこかでぶつけてきたようで、廃車にしたんです。まあ大した車でもなかったので親父も気にしてはいなかったんですが、その後いつの間にかアメリカに帰国していたんです。普通だったらお世話になった人に挨拶くらいあって当然ですよね。英語塾の生徒たちには前もって通知していたみたいですが… それから~ 何年も経って俺が上京して、不動産会社を始めて… そうだな~ 三年くらい前だったかな~ 新宿駅で彼とばったり再会したんですよ」
    「つまり、また日本に来ていたんですね」
     達也はニコニコしながら「そうそう」と頷いたが、急に真剣な表情を見せた。
    「俺は彼を見てこう言いました。『よお、リチャード、リチャード・ヒルだよね~ どうしたの? いつまた日本に来たのよ?』 彼は苦笑いのような笑みを浮かべながら俺に名刺をくれたんです。そこに書いてあった名前が、『マイルズ・ケリー』でした。肩書にはマイルズ・スクール・ジャパン学校長と日本語で書かれていたんですよ」
    「…なるほど~ つまり、偽名ですか?」
    「いえ、俺もどれが本名なのか知りません。まだ他に名前があるのかもしれないし、毎回名前を変えるのかもしれないし、とにかくこの欧米スタイルというのか~ 俺にはそれがよく理解できない。これが、俺がどれだけ彼が天才でも信用できない理由です。渡辺さんも、あまり深入りしないほうがいいと思いますよ。雄大にも言っておいてください。なんてね。ハハハハ」
     彼は経営者だけあって自分の意見をしっかり持っていた。それはまるでマイルズが話していたことだった。知花は頭のいい人同士はお互いに干渉しない範囲で生きているのかもしれないと思った。
    達也とはその後もしばらく事務所内でお喋りをした。後で気づいたのだが、彼はいろいろな話を展開しながら知花の希望を探っていた。雄大が知花に話したように、今回は特別価格で住居を提供してもらう話になっていたが、それは知花の好きな場所をどこでもいいからというわけには行かない。当然それが可能な場所に限られる。達也は知花とお喋りしながら、今後の生活の拠点や趣味嗜好などをさり気なく聞き出していたのだ。
     
    「よ~し、そろそろ出かけましょうか。物件を見に」
     達也は雄大が新潟まで乗せてくれたモノトーンのように見えるマツダのグレーのセダンに知花を乗せて出発した。
    「三石さんは、マツダが好きなんですか?」
    「えっ、どうして?」
    「以前雄大さんに江ノ島に連れて行ってもらったときは白いロードスターだったので」
    「あ~ そうだったの? あの時雄大は君と出かけていたんだ~」
     達也が驚いたように大きな声を出した。
    「ごめんね。そうかそうか」
    「何ですか?」
    「ううん、大丈夫、ハハハ。雄大のやつ、うちをレンタカー屋だと思っているんだな~ まあ、使っていないときは、問題ないからいいけど」
    「ぜんぶマツダですか?」
    「ううん、この車は営業用で、でも俺が車を使うときは、ほとんどこれかな~ ロードスターはカミさんがよく乗るんだ。車好きで、時々マニュアル車に乗りたくなるみたいだね~ いつもは使い勝手のいいトヨタのアクアだよ。他にはトヨタのアルファードがある」
    「そんなにたくさん…」
    「アルファードはお客様を一度に運ぶ時に便利なんだ。ほら、学生さんなんか友達と一緒に来たりするから。ああ、勘違いしないで。アクア以外は全部会社の車だから。ハハハ」
    「うちの祖母も一応車を持ってはいますが、滅多に乗らないですね。つい先日車検だったんですが、しばらく乗っていなくてバッテリーが上がっていたみたいでした」
    「おばあさん、何乗っているの、車種は?」
    「BMWです。昔の。もう二〇年近くも乗っているって言ってました」
    「へ~ BMか~」
    「しかも赤色なんですよ。あの真っ赤な車を祖母が運転しているのを想像すると、少しおかしいんですけど」
    「BMはあの時代の憧れなのかもね~ そう言えば渡辺さん宅(ち)はあのワタナベ・ワークスの創業者なんだってね。雄大から聞いてびっくりしたよ、お嬢様じゃない。銀行の定例会でときたま見ますよ、話したことはないけど、ハハハ」
     知花は祖母と比較されたことで急に恥ずかしくなり、返事もそこそこに軽く頷いた。
     
     知花は達也に連れられて都内にある三つの物件を見学させてもらった。どれもとても三万円で貸してくれるとは想像もできない物件ばかりだった。知花は達也にどれも甲乙付け難いほど素晴らしい物件ばかりだったとお礼を述べた。
    「実は私、アパートとか借りるのが初めてで、三石さんだったらどこを選びますか?」
    「ん~ん。難しいな~ いま見た清瀬市の物件が一番新しくて、監視カメラもあってイチオシなんだけど、駅から徒歩二五分というのが難点と言えば難点かな… ん~ もしくは、駅から徒歩二分の雄大と同じ月島の古い物件か… 迷うところだよね~ 浦和市の物件もかなりおすすめなんだけど~ 渡辺さんの今後の行動範囲を考えると、やっぱり東京にこだわりがあるのかな~って、思わなくもないけどね。ハハハ…」
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
              12
     
    「よ~し、じゃあ、最後に… ふ~ これを、外に、出そうか」
     知花の父は、雄大と一緒に大きなイタリア製のラウンドテーブルを持ち上げて家の中から外に出した。そして達也から借りてきたアルファードに乗せた。
    「この車でもギリギリの大きさだな~」
    「いや~ ありがとう、高橋さん」
    「いえ、僕も手伝えるのは今日だけなんですよ。明日から出張で、しばらく大阪に居るので」
    「でも助かりました。うちの荷造りまでぜんぶ手伝ってもらって。今から業者が来てくれるんですが、結構荷物が多くて、荷造り間に合うのかなって、心配していたんです。ありがとうございました。きれいに全部片付いて、本当に助かりました」
    「高橋さん、本当にいろいろとありがとうございます。今後とも知花のことをよろしくお願いします」
    「お母さん! 何言ってるの。違うから」
     隙間のあった親子関係だったが、その後の話し合いもあったことで和やかに引っ越しの準備が進んだ。
     
    「よ~し、これが最後の大仕事だな」
     雄大はそういうとテーブルの太い脚を抱きかかえて知花の部屋に運び入れた。雄大はダイニングにぽつんと置いたテーブルを見ながら一息つくと、スマートフォンのメジャー・スケールアプリで床から天板までの高さを測定した。
     テケテッテンテッテンテッテンテン テンテケスッテケテッテンスッテンテン…
    「もしも~し、達也さん、どうしたの? えっ、今すぐ? わかりました。大至急戻ります」
     電話を切った雄大は知花を見ると両手を合わせて拝むように言った。
    「ごめん、今から達也さんに車を返しに行ってくる。お客が来たんだって。この車で椅子までは買いに行けなかったなあ。帰りに買ってくるから。今日はこのあと掃除でしょ?」
    「ええ、でもそこまでしてくれなくてもいいわ。もう十分…」
    「とにかく急いで行ってくる」
     
     達也に安く貸してもらったマンションの間取りは雄大の部屋と同じくらいの大きさだった。知花は広いのはいいが持て余すのと掃除が大変だと贅沢な悩みをこぼしそうになった。
    部屋が多くても置くものがない。テーブルの椅子さえまだない。
    「残念だけど、今日はまだ殺風景な雰囲気で、立ったままでするしかないかな~」
     
     ピンポ~ン
     二時間後、雄大が椅子を二脚抱えて戻ってきた。
    「ええ~っ! 本当に買ってきたんですか? いいって言ったのに~ 申し訳ないわ~」
    「豊洲駅前のイタリア家具店で閉店セールしていたのを知っていたから、買ってきた。今すぐ使うから運んでくれって言ったけど、いますぐ運ぶのは無理だっていうからその分強引に値引いてもらった。それに、駅まで運ぶのを手伝ってもらったから、僕は駅からここまで運んだだけ。二脚で一脚分の更に半額だった。そもそもいくら儲けているんだって言いたくなるな~ ハハハ。引っ越しの荷物が自宅から届くのは~ 明日だっけ?」
    「ええ、だから今日はもう一晩祖母の家で泊まるの。ところで雄大さん、今日は?」
    「今日? 今日も、この下の自分の部屋だけど」
    「よかった… 実は先日ケータリングサービスを頼んだの。新潟への往復も引っ越しの手伝いも、この椅子もテーブルも、そして何より三石さんにお願いしてこんなに安くて素晴らしい物件まで揃えてくれた雄大さんにお礼がしたかったの。そう言ってもこんなことしかできないけど… だから今晩このテーブルと買ってきてもらった椅子で一緒に夕食食べませんか?」
     
     電気が点くだけでカーテンさえない殺風景なリビング・ダイニングは、重厚なイタリア製のラウンドテーブルと雄大が買ってくれたイタリア製の素敵な椅子が不思議なほどマッチしていた。見た目も座り心地もよく、雄大のセンスの良さを再発見したような気がした。ラウンドテーブルにはケータリングサービスで注文したイタリア料理のフルコースをセッティングした。
    「すごい料理だね」
    「最近はこういうの、とっても充実しているみたい」
    「引っ越し祝いだ」
    「雄大さんが椅子を買ってくれたおかげで座ってゆっくり食べられるけど、計画では立って食べるつもりだったのよ」
    「でも、立って食べるのも良かったかもね。カーテンがないから、東京ベイエリアの夜景を見ながら食事ができる。まるで高級レストランで食事しているみたいだね」
     二人はビールとノンアルコール飲料で乾杯した。
     
    「明日の引っ越しは手伝えないけど、頑張ってね」
    「部屋が片付いたらまた改めて食事にご招待します」
     知花はゴミ袋にケータリングの空箱などを捨てると電気を消して鍵を締めた。二人で一緒にエレベータに乗り込み、ひとつ下の階で雄大が降りた。
    「今日は本当にありがとうございました。椅子まで頂いて…」
    「大丈夫、大丈夫、気にしないで。出張から帰ったら、また顔を出すよ」
    「ええ、気をつけていってらっしゃい」
    「ありがとう。それじゃあ、おやすみ」
     知花はゴミを捨てると駅に向かって歩き始めた。
    マンションから出ると、このマンションを飛び出してきたことが頭に浮かんだ。同時に病院を脱走してタクシーに乗り込み東京まで来たときのことも浮かんできた。そしてゼミ生たちの視線… ウィスキーを買って帰れば、そこに両親がいた。何もかもが行き場を失い八方塞がりになったと思った。すべてが閉じられてしまったと思ったとき、浮かび上がってきたものが、新潟に置き去りにしてきた真実だった。あれからずっと、ずっと事実を嘘とすり替えていた。もう言い訳はしない。嘘も付かない。でも、それはもう決して元には戻らない。
    『私は、私自身を取り戻した。だから、これからは自分の意志で歩き始めよう』
    私が歩き出せば周りも動き出し、周りに合わせて私も更にもう一歩踏み出すことができる。知花は少しだけ大人になったような気がした。あの日、一歩も動いてないと嘆いた人生が、本当に動き始めた気がした。自分が何もしないのに何かが動くことはないし、誰かが助けてくれることもない。そして、まだ何も、何一つ世の中を知らないという自分自身を、初めて理解できた。
     
     翌日の朝、知花は祖母に改まった挨拶をした。祖母は突然転がり込んできた孫娘が突然出ていく寂しさを隠せない様子だった。
    「まあ、今日はもう、向こうで泊まるのかい? 寂しいわね。あたしはあんたが大学に入学して卒業するまでは、この家にいたほうがいいと思っていたんだけどね。今更テーブルをこの家に置くのを許可しても、もう遅いわねぇ。どうしてあのテーブルが嫌だったんだろうね~」
    「結局いつかは出ていくんだから。でも、何から何まで、本当にお世話になりました。今日は車を借りて、時間はわからないけど、夕方には返しに来るからね。でもきっとまたしょっちゅう顔を出すと思うわ。ご飯食べにね、フフフ」
     
     引っ越し業者とは一一時に荷物を受け取る約束をしていた。知花は一〇時にマンションの鍵を開けて荷物を受け入れる準備を始めた。
     一一時になると引っ越し屋が部屋の中に次々とダンボールを入れ始めた。さいたま市の自室にあったものは全部このマンションに持ってきた。そして他にはマスカットキャビネットや食器類なども分けてもらった。また、リビングに鎮座していた多少古くなっていた革張りの五人掛けコーナーソファももらった。ダンボールを開梱し食器類をキャビネットに収めると、固く絞った雑巾で黒革のソファを拭いた。ダンボールの中身を確認しながら、ほとんど使わないものはダンボールの中に入れたまま一番奥の部屋へと運んだ。
    「この部屋は、物置にしましょうか… あっー、そうだった!」
     知花は駐車場まで降りると、車の中に積んであるダンボール箱を取りに行った。ダンボールは全部で四箱あった。一個ずつダンボールを持って部屋まで運び入れる。
    「これが最後の一個ね… ふーっ」
    ブツブツ独り言をいいながら車のドアをロックしてエレベータまで行きボタンを押すと、最上階からゆっくりとエレベータが降りてきた。
     チ~ン
     エレベータが開くと中からサングラスにマスク姿の大柄な男性が降りてきた。
     知花がエレベータに乗り込もうとしたとき、男性が振り向きながらサングラスとマスクを外して彼女を呼び止めた。
    「お~ これは奇遇ですね~ あなたは確か… トモカさんでしたね~ どうしてこんなところにいるのですか~?」
    「ま、マイルズさん? あなたこそどうしてここに?」
     マイルズはニコニコしながら知花を見ていた。知花も驚きを隠せない様子だった。
    やがてゆっくりとエレベータのドアが閉じた。
    「ま~ 本当に、こんなところで、驚きました~ トモカさん」
    「私、今日このマンションに引っ越してきたんですよ。いま丁度引っ越し作業中なんです」
    「お~ そうでしたか~ それは知らなかった~ それでそのカードボードボックス?」
    「ええ。でも、マイルズさん。あなたは確か今日、講演会で大阪へ行ったはずじゃ…?」
     マイルズは少し首をかしげるような仕草で知花を見下ろしている。
    「引っ越しの作業はまだまだありますか?」
    「ううん、この荷物を部屋に入れればもう荷物はないわ。あとはダンボールの中を出して部屋のレイアウトを整えるだけよ」
    「そうですか~ ん~ いま二時だけど、ちょっと休憩してお茶にしませんか? いろいろと楽しい話がしたいです」
    「そうねえ~ もうそんな時間なのね。ちょっとここで待っててもらえる? この荷物を置いてバッグを取ってくるから」
    「わかりました。ここで待っています」
     
     二人はマンション前の道路を渡ったところにあるカフェに入った。駅前の人気店だけに空いている時間帯だと思われる一四時だったが、半分ほどの席がお客で埋まっていた。二人は道路が見える窓側の席に腰掛けると、すぐにマイルズがコーヒーを二つ注文した。
    「トモカさんは、最近どうですか?」
     知花はマイルズの掴みどころのない日本人風の質問に、初めての講義で彼が言った『何を勉強してきましたか?』という言葉を思い出し、同時に江ノ島で雄大が話した『自分に感じた無能感が、行き場を失ったようにくるくると回転し始めた…』という声が耳の奥から聞こえてきた。
    「最近? ん~ 最近私は、実にたくさんのことがありました。うまく言葉にできないことばかりだけど…」
    「そうですか~ でも、それがどうであれ、結果的にいまはとてもバランスがいい状態に見えますね~」
    「そうねえ~ 確かにそうかも知れないわ~ ねえ、マイルズ・スクールの調子はどうですか? 受講者はたくさん集まっていますか?」
    「そうね~ あんまり変わんないね~ 日本人はもっともっと知るべきことがたくさんあるのにね~」
    「そう、そうだわ。それで、今日の講演会はどうなったんですか? 雄大さんは午前中から大阪へ出かけるって言っていましたけど…」
    「それよりトモカさんは、どうしてユーダイくんとお知り合いなんですか?」
    「ハハハ。あなたです、あなた」
    「私?」
     知花は首を大きく左右に振って「違う、違う」と答えた。
    「あなたのスクールです」
    「お~ 私のスクールで出会ったのですね」
    「でも講義ではなくて、その後に行ったあのビルの一階にある喫茶店です。お昼に満席だったんで雄大さんが私に相席させてくれって、突然同じ席に座ったんです」
    「な~るほど。そんな出会いがあったんですね。まさに、青春ですね~」
     顔を緩めて口角を上げながらコーヒーを飲むマイルズの表情には、幾分余計な想像が含まれているように感じたが、説明すればするほどわけがわからなくなりそうだったので、そのまま黙ってコーヒーカップに口をつけた。
    「それで、今日の大阪の講演会はどうなったんですか?」
    「今日の講演会は、残念ながら中止になったんです。私は、ユーダイくんに電話をかけたんですが、彼は電話に出ないんですよ~ だから自宅まで行った。でも留守だった。エレベータから降りると、あなたがいた」
    「何だ~ じゃあ雄大さんは今頃ひとりで大阪に向かってるんですね」
    「まあ、そのうち私の携帯が鳴るでしょう。ハハハ。ところでトモカさんは、ユーダイくんと同じマンションに引っ越してくるほど仲がいいのですか?」
    「まあ、それはどういう意味かしら? 今のところあなたの考えていることはないけど、彼の親戚が不動産会社をしていて、その方からあの物件をおすすめしていただいたのよ。雄大さんは仲介者なの」
    「ワォ! それは良いコネクションを手にいれましたね~」
    「フフフ、そうかもね。本当に助かるわ」
    「あなたは、それまではどこに住んでいたのですか?」
    「ん~、中野と言えばいいのか、両親はさいたま市よ。もっとも父が転勤族だから、私は今日ここへ引っ越してきたんだけど、両親は今日、さいたま市から北九州市へ引っ越したわ」
    「オゥ~ それは驚きです。今日一日で二箇所へ引っ越しですか? あなたはどうして北九州へ行かなかったの?」
    「ん~ 少しずつ親から独立したくなったんだと思う」
    「それはいい。でもそんなにいろいろと転勤したのですか? もしよければ、教えて下さい。今までに住んでいた場所を」
    「私が生まれたのは札幌市で、そこには七歳まで住んでいたの。それから半年だけ新潟市に住んで、その後はずっとさいたま市ね。さいたま市には一二年間もいたことになるわ。私は北九州へは行かなかったけど、両親はいったい何年間そこにいるのか~」
    「…そうですか~ 北九州も良かったんじゃないかな~」
    「北九州が両親にとっていい地になればいいけど、私にとって東京もきっといいところよ」
    マイルズはニッコリと微笑みながらコーヒーカップに口をつけた。知花もコーヒーカップを手に取るとマイルズにシンクロするようにコーヒーを一口啜った。
     
    ポッ ポッ
    カフェの窓ガラスに雨粒が落ちてきた。
    「今日はこれから雨ね。残念だけど天気予報は当たったようね。でも荷物を運び終わったから気が楽だわ。ねえ、マイルズさん、あなたはどこに住んでいるの? 私は今から中野区にある祖母の家に車を返しに行くんだけど、よかったら乗せていきましょうか?」
    「オゥ~ あなたはなんて優しい人でしょうか。まさかの出会い、まさかの雨、そしてまさかの送迎。ありがとう、大変助かります」
    マイルズは両手を広げながら両目を大きくすると、両手を組んで拝むように首を左右に振った。彼は二人分のコーヒー代を支払い、一緒にマンションへ向かって駆け出した。少し濡れながら車の中に滑り込むと雨は次第に強くなってきた。
    「ホゥ~ このBMW(ベンベ)。懐かしいですね~」
    「おばあちゃんのよ。ほとんど乗らないし大事にしているからきれいよね。これはもう二〇年くらい前の車らしいわ。自動車教習所でもスタートボタンだったのに、これは今どきキーを差し込んで回すタイプなのよ。誰かに見られたら笑われそうね」
     知花はキーを差し込むとイグニッションを回してエンジンを掛けた。ワイパーのスイッチを入れると車内にはワイパーの動作音と窓をシュッ、シュッとこする音が響いた。
    「雄大さん、雨に濡れなければいいな」
    「フゥーッ」
    マイルズは、知花の独り言を上から被せるように大きな息を吐きながら深々と助手席のシートに体を沈めた。同時に外国人特有の体臭が車内に立ち込めてきたので、彼女は無言でエアコンのスイッチを入れた。あまり使うことのない祖母の車からは、昔のニオイまでもが立ち込めてきそうだった。彼女はバッグの中からCD―Rを取り出すとカーオーディオに挿入した。ゆっくりと流れる『Imagine』の旋律が、周囲にある様々な雑音をまとめるようにしっとりとこの雰囲気を上質な演出に変えてくれるようだった。マイルズもこの曲が好きなようで、音に合わせて首を上下に動かしていた。
    一〇月に入った途端に季節がガラリと変わり、寒さを感じるくらいに涼しくなった。降り始めた雨は冷たく、秋の長雨という言葉があるように、これからしばらくの間雨が続くと今朝の天気予報が伝えていた。マイルズも寒いと感じているようで、黒いハーフコートのポケットから茶色い手袋が覗いていた。
    『この雨は、きっと冬の到来を教えてくれているんだろうな』
    寒さに震える雄大の姿が思い浮かぶと、知花は雄大へのお礼を込めて夕食に招待しようと思った。彼は待ちぼうけをして寂しい思いで帰ってくるに違いなく、雨に濡れれば寒いだろう。
    『どんなメニューにしようかな? 温かい料理がいいだろうな』
     一瞬、夏に祖母と一緒に作った生姜焼きに薄揚げとネギの入った味噌汁が浮かんだが、寒い今日は温かい煮込み料理がいいと思った。
    『パスタは昨日食べたから、リゾットにしよう。サラダはデパ地下で買ったほうが美味しいのがあるだろうな。何の煮込みにしようかな… ビーフでもいいし、ハンバーグもいいな…』
    知花はカーナビゲーションの代わりにスマートフォンを取り出してエアコンの通気口に付けているアタッチメントに装着しようとした。
    「オゥ、ルートは私が言いますから、それは帰りに使ってくだい。駐車場を出たら右に曲がってください…」
     本降りになる雨の中、知花は彼の指示に従い車を発進させた。マンションを出ると目の前の信号が赤になり、背後には信号待ちをする車の列ができ始めた。彼女は、そびえ立つように佇むマンションを運転席のサイドドアガラスからぼんやりと見上げた。 
    「…大阪も雨かな」
    呟くように漏れた言葉にマイルズが「フン」と笑った。
    「次の信号を、右に曲がってください」
     信号が青に変わると車を発進させて、次の交差点に近づくとウィンカーを上げて右折車線に入った。バックミラーには雨に霞むマンションの姿が映っていた。
     カッチ、カッチ、カッチ…
     信号待ちで聞こえてくるウィンカーの音が妙に耳障りな感じがした。知花はカーオーディオの音量を少し上げると、もう一度バックミラーに映るマンションを見ようとしたが、強くなった雨に霞んで、後ろの車以外は何も見えなくなっていた。やがて信号の右折矢印が点灯すると、次第に激しさを増した雨が無造作に路面を叩きつけ、跳ね返った雨粒が霧のように舞い上がりながらアスファルトに広がり、まるで雲の上にいるように見えた。
    『誰もいない森の巨木が倒れるとき、音はするのだろうか?』
     ハンドルを切りながら、不意に頭の中から聞こえてきた雄大の声に、知花はニッコリと微笑んだ。                   了                 
                                                                                           
     

     
    〈参考文献〉
    「竜馬の黒幕」加治将一(祥伝社文庫)
    「隣の少年少女A」草薙厚子(河出書房新社)
    「光のかけらが降り注ぐ地球」マイケル・ローズ著 大亀安美訳(知幻社)
    「エゴを抑える技術」ライアン・ホリディ著 金井啓太訳(パンローリング社)
     
    〈講演会聴講記録〉
    「思考のトレーニング」エハン塾 エハン・デラヴィ
    「陰謀論の使い方」エハン塾 エハン・デラヴィ
    「偶然の一致が生じるメカニズム」エハン塾 エハン・デラヴィ
    「究極の敵は自我」エハン塾 エハン・デラヴィ 
    「生命の神秘 私という動的平衡」分子生物学博士 福岡伸一 
    「動物より馬鹿な人の正体」医学博士 養老孟司
     
     
     

     

     


    #創作大賞2026 #ミステリー小説部門

     
     
     

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    映画レビューを書いています。 一旦レビューした下書きから、文学風のエッセイにして投稿しています。

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