
創作大賞2026 ミル 第3話
目覚ましより先に、強い光で目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む朝の白さが、いつもより眩しく感じるのは、今日という日のせいかもしれない。
(コーヒー淹れに行くって言っちゃったな)
布団の中で、美桜はもう一度その約束を胸より深い位置で反芻する。あの日、誕生日の高揚と、春瑠の澄んだ声と、カウンター越しの距離の近さに、気づいたら「はい」と答えていた。
普段なら多分のらない提案だろう。うかれていた、とはいえない複雑な感情に眩暈を覚える。
冷静になった今、安請け合いだったんじゃないか、という気がしてくる。
クローゼットを開けて、しばらく手が止まる。
何を着ればいいのか、というより、何を着ても今日は”見られる”日なんだ、という感覚が拭えない。品評される愛玩動物の気持ちだ。
服も、鞄も、靴も。 そして、コーヒーも。
支度をしながら、ふと洗面所の鏡に映る自分と目が合う。
(味の違いがわからないのに、淹れてる?)
その声は、もう三年も前のものなのに、こういう朝にだけ、鮮明に蘇る。
テキサス、乾いた風、専門学校の教室。 高卒で飛び込んだ異国での日々。祖父がコーヒーが好きで、父は「素月」というコーヒー専門店を開いている。生まれたときからコーヒーがある。自然に選んだ場所だった。
そこで出会った同じ留学生の彼は、テキサス大に通いながら、時々ドロップインで専門学校の講義にも顔を出していた。新しい豆に対して全く物おじしない彼のカッピングは、いつも周りを黙らせた。
「この酸味、青リンゴというより、もっと硬い、グリーンアップルの皮の内側みたいな渋さがある」
香りひとつ、味ひとつに、彼はいくつもの言葉を持っていた。まるで一杯のコーヒーの中に、小さな宇宙を見ているみたいに。
美桜には、それがなかった。
技術は褒められた。抽出のタイミング、湯温、湿度、挽き方、豆へのこだわり。手順は完璧だと、先生にも言われた。
でも、味の”違い”を、彼のようには語れなかった。
付き合い始めて半年が経った、
ある晩。彼の部屋で、彼が淹れたコーヒーを一緒に飲んでいた時、彼は、空気みたいに何の気無しに聞いてきた。
「ねえ、これとこの前ので、味、違うと思う?」
同じ農園の、違う精製方法の豆だった。答えは、わかっていたはずだった。何度も講義で習った。頭では、わかっていた。
けれど、口をついて出た言葉は、曖昧で、的外れで。
彼は少し黙ってから、静かに、でもはっきりと言った。
「もしかして、風味の違いがわからないのにコーヒー淹れてる?」
責めるつもりはなかったのかもしれない。ただの、素朴な疑問だったのかもしれない。 それでも、その一言は、美桜の中の何かを、音を立てて壊した。
その夜のうちに、荷物をまとめた。 理由を、ちゃんと話せないまま、日本に帰ってきた。
以来、美桜は”正しく”淹れることに徹してきた。手順を裏切らなければ、誰にも見抜かれない。誰も、傷つけない。傷つかない。毎朝店長にテイスティングしてもらってお墨付きをもらっている。
なのに。
(あの人は、宝石商の息子だって言った)
美しさの真贋が、美桜のコーヒーくらい身近にあった人。
そんな人の前で、コーヒーを淹れて、飲ませて。
もし、また同じことを言われたら。
指先が、少しだけ冷たくなる。
鞄の中身をもう一度確認して、鍵を持つ手が、一瞬止まった。 このまま、行かない、という選択肢も、まだある。
でも、玄関の鍵を閉める音は、いつもと同じ、静かな音だった。祖母の婚約指輪だった大粒のダイヤのクラシカルなリングが光る。
外は、朝目覚めた時の強烈な光が嘘みたいに、少しだけ雲が多い。
怖い、と思ったまま、美桜は駅へ向かって歩き出した。