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Photo bynice_yarrow8925

7歳の私へ〜元気になってごめんなさいと泣いた日〜

    古びた建物の病院。
    病室の無機質な天井を見つめる7歳の私。
    何の知識もない子どもの私は、この息苦しい毎日が、どういう形で終わりになるのかを考えたことすらなかった。

    小学校2年生だった私は、当時、猛威を奮っていた悪性の肺炎に罹患した。
    熱が下がらず、咳も止まらず、近くの内科を受診した時には即入院となった。
    医師が、小さな私に色々と配慮をしてくれて、2人部屋の病室は、私と泊まり込みで付き添いをしていた母のために使わせてくれた。
    今考えると、私の病状は、想像よりも厳しいものだったのかもしれない。

    病院は、通っていた小学校から近い場所にあり、学校の届け物に来てくれるクラスメイトや、お見舞いに来てくれるお友達と会える時間だけが楽しみだった。
    それ以外は、長い時間続く点滴と、病室の前をウロウロと歩くだけ。
    血管が細い私は、点滴の針をいつも手首や手の甲に刺されていたので、左手は目に見えて穴だらけになっていた。

    入院生活も長くなってくると、父が小さなテレビを買ってきて病室に置いてくれて、
    窮屈に感じていた入院生活に、楽しみができて嬉しかった。

    そのうち、あまり会ったことがない遠い親戚や、父の会社関係の方が、次々とお見舞いに来てくれるようになったのがとても不思議だった。
    皆さん、高価なお見舞いを持って訪れてくれる。
    かわいいBOXに入ったキャンディの詰め合わせや、なかなか購入することのない高級なクッキーなど。
    普段、味わうことのなかったたくさんのお菓子に囲まれて、単純に嬉しかった。


    それでも、入院生活が終わる気配はなく、
    「私はずっとこの病室にいなきゃいけないのかな…」
    そんなことを思っていた。
    無機質な天井を見つめながら、だんだんと「もう家に帰れないのではないか」と不安になっていた7歳の私だった。


    でも、そんな不安を口に出して言うことはできない。
    私にずっと付き添ったままの母の言葉が、いつも頭の中にあったから。
    「こうしてママが病院にいる間、お兄ちゃんは家でずっと我慢してる。かわいそうなんだよ」
    家のことは、祖母と姉が引き受けてくれていたらしく、3歳違いの兄も、確かにたくさんの我慢をし、気持ちの落ち着かない毎日だったのだろうと思う。
    母から何度も繰り返されるその言葉に、「私のせいなんだ」と責められている気持ちになったのも確かだった。
    だから、私が不安など口に出してはいけない。
    子どもだった私だけれど、心の中にはたくさんの不安を抱えたまま、無機質で変わることのない天井を、ただ見つめている毎日だった。

    それでも、日によって、上がったり下がったりを繰り返していた熱も落ち着いてきて、咳もだいぶ治ってきた。
    1日だけ、外出許可が出た。
    久しぶりに自宅に戻り、その後も発熱や体調の変化がなければ退院できることになった。

    そして、私はやっと退院できた。
    もう点滴をしなくてもいいんだ。
    お風呂にも入れる。
    学校でお友達にも会える。
    12月の風が冷たい日だったけれど、病院を出た私はワクワクしていた。
    医師も看護師さんも、食事を作ってくれていた女性も、皆さん優しかった。
    でも、やはりもう入院は2度としたくない。
    そんなことを考えながら、タクシーに乗って自宅に戻った。

    自宅に戻ってすぐ、母は持ち帰ってきた荷物を片付けながら、私にこう言った。

    「パパが、娘はもう家に戻ってこられないかもしれないなんて言いふらすから、みんな高価なお見舞いを持って来てくれて。お返しを用意するのは私だから大変なのに。元気になって戻ってきたなんて恥ずかしい」

    私の目から大粒の涙が溢れた。

    「元気になってごめんなさい」

    母はそう言った私の方を見てもいなかったし、気にも留めていなかった。

    私に買ってくれたテレビも、たくさんの方のお見舞いの品々も、みんな私が元気になることはないと思ってのことなんだ。
    元気になることを願ってはくれなかったのだと思うと、悲しかった。

    退院したとはいえ、急に元通りに元気になれるわけではない。
    時々、肺のあたりが痛んで、息をするのが苦しくなることがあった。
    でも、それを誰にも言えずに我慢した。
    元気になった私が悪いから。

    あれから50年以上の月日が経った。
    それでもあの時のことは、今も鮮明に覚えている。
    何でも思ったことを口に出す母。
    自分を賢い人間だと自負している人だった。
    だから、いつも自分が正義。
    そんな母は、自分の言葉や行動が、子どもを傷つけているなどとは考えたこともないのだ。

    病気をしたせいもあるのか、それ以降、両親の私への言葉は、傷つけるものばかりだった。
    心配ゆえでは?
    人からそう言われたこともあるけれど、私は今も、私という人間を思い通りにしたかっただけ…そう感じている。

    「この子、バカなのよ。何も知らないの」人前で1番多く言われた言葉だ。

    「アナタはバカなんだから。最初から無理。やめておきなさい」
    「やってみなさい」と応援されたことは1度もなかった。

    「アナタは依頼心のかたまりなんだから、言われた通りにすればいいの」
    私の希望を聞いてくれたり、選択させてくれたことは決してなかった。
    50代半ばで、縁を切るまで1度も。

    何もできない。
    わからない。
    それは、そうでしょう。
    私の経験を、すべて奪ってきたのだから。
    経験して、学ぶことをさせなかったのだから。
    依頼心のかたまりに育てたのだから。

    それは、私が結婚して、母となってからも変わることはなかった。
    決めるのは、いつも両親。
    私の気持ちを確かめてくれたことはない。
    3人きょうだいの中でも、長いこと、私ひとりに世話も介護も当然のようにさせてきた。

    そして、自分の家庭よりも、両親中心の生活をしてきたある日、私は決定的に傷つくことをされた。
    病気をしていた母を、病院に連れて行き、診察室での医師に向かって…
    連日、寝ずに看病を続けていた私の目の前で、母は自分の息子をよく思わせるための嘘をついた。
    その嘘は、私を貶めて、兄を庇うもの。

    私の中ですべてが崩れた。
    子どもの頃から、何度、傷つけられてきただろう。
    私は決しておとなしい、内気な性格ではない。
    末っ子の気ままさを持ち、わがままでもあった。
    それは傷ついた心も、平気だと思い込むために、自分なりにわざとそうしてきた。
    「苦しい。やめたい」
    押し殺した気持ちの、精一杯の反抗で、苦しいのだと気づいてほしかった。
    最後まで届くことはなかったけれど、ずっと届いてほしいと期待をしていた、
    そんな期待は無駄なものでしかなかったのに。
    期待していた私は、なんて悲しい人間なんだろうと、今さらながら思う。

    憔悴した私は、夫からの「もうやめなさい」の言葉通りに、すべてをやめた。

    「私が親もきょうだいも捨てるんだ」

    兄は、親が望むことが1番だからと、何年も私ひとりに介護をさせた。
    お願いをされたこともなく、お金も手も出さず、いつも口だけ出して、暇な時にだけ現れて両親のご機嫌を取る都合のいい人。
    私の人生において、1番嫌いな人だ。
    両親にとっては、いつも優しい自慢の息子。
    それがいつも許せなかった。

    離れてみると、人生が違って見えた。
    自分の時間は自分のためにあるのを知った。
    好きなことをしても邪魔されない。
    自分を後回しにしなくてもいい。
    自分の家族だけで楽しい時間を過ごせる。
    自分の家族まで巻き込んで、たくさん犠牲にしてきた。
    どうして早くこうしなかったのかな。

    絶縁しても、揉め事は調停などで続いている。
    でも、私は絶縁して色々なことに気づいてしまった。
    絶縁する50代半ばまで、私は健康診断を受けたことがなかった。
    私が健康だと、母が困るから。
    子どもの頃に、回復して元気になったせいで、恥ずかしい思いをさせたから。
    だから、私だけが両親の世話をし、他のきょうだいは何もしなくていいんだ。
    私が入院している間、我慢を強いられてかわいそうだった兄は、特別扱いされても仕方ないんだ。
    私の心は、長いことそんな気持ちに支配されてきた。
    それが私をがんじがらめにしてきたのだと、気づいてしまった。

    10年以上前から、私はストレスが原因で、自律神経失調症になった。
    突然にパニック発作が起きて、息ができなくなり、このまま死ぬのかと思う。

    「そんな人たちのこと、思い出してあげる必要はないよ。早く忘れなよ」
    そう言ってくれる友人たちがいる。
    もちろん、そう。
    考えるのもイヤなんだから。
    でも、長すぎたの。
    忘れようとすることは、意識してること。
    何年もの間、忘れようと思ってきたけれど、簡単に忘れることなんてできなかった。

    やっと、わかってきた。
    心に折り合いをつけるには、向き合うしかないのだ。
    忘れてなんてやるものか。
    絶対に許すことはない。
    恨んでいるし、憎んでもいる。
    調停などで関わると、一気に体調を崩すのは、恐れているからなんかじゃない。
    心の底から大嫌いな人たちが、今も存在しているんだと認識してしまうから。
    もう、綺麗事は一切言わない。
    こんな自分を、私は自分で認めることにした。
    元気になって、生きてることを、申し訳ないと思った7歳の私のために。

    優しい夫と愛する息子たちに恵まれて、50数年後の私は、やっと本当の幸せな人生を生きてる。
    私の人生は、私のものだったんだ。
    傷つけられた記憶を、思い出すことさえ許せなかった私が、こうして文字にして書けるようになった。
    過去を忘れてなんてやるもんか!と、決めてから、少しだけ、何かを超えた気がする。
    まだまだ関わらなければいけない状況は続いていくけれど、今の私は自分で選択をして、進んでいる。

    7歳の私へ。
    私は生きて、ちゃんと幸せになったよ。
    自分で選択して、自分で決めて、楽しい時間を過ごせているの。
    今の私は自由に生きているから安心してね。
    私は、自分の家族が元気でいてくれるだけで幸せって思えているよ。
    これからも、丁寧にちゃんと生きていくからね。
    頑張って元気になってくれてありがとう。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門

     
     
    3人きょうだいの末っ子。 長いことひとりで両親の介護をした私を待っていたのは、法的なもめごとだった。 毒親と毒きょうだいから解放されたと思ったのに、まだまだ先は見えない毎日。それをお伝えすることと、平凡な私の時間や出来事も少しずつ… どなたかのお目にお会いできれば幸いです。

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