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【小説】 KUROGO 第9章 見慣れた世界

    第9章 見慣れた世界

     黒衣となることで、世間から意識されなくなるとともに、被写体の前からも自分の存在を消すことができるようになった。いや、確信がある訳ではない。被写体は自分の存在を気にすることなく振る舞っているように見える。これは黒衣という役割を暗黙のうちに了承している結果なのだろうか。世間が示し合わせて、黒衣である僕を意識しないようにしているようだ。そんなことが、あり得るのだろうかと、僕自身信じきれない気持ちだ。皆で僕を担かつごうとしているのか。しかし、そんなことをして、何の得があるというのだろう。無意識化にある共通認識のなせる技なのか。黒衣という共通認識のない社会では、成り立ちえないことなのか。黒衣の姿になってから、被写体は、今まで僕を立ち入らせなかった場所にまで、入室許可を与えてくれた。もちろん、明確に許可を与えたのではなく、僕が立ち入っても拒絶することがなくなったというのが正しい。僕に気が付かない振りをしているのか、黒衣ごっこに一緒に参加しているのか、なぜ被写体がここまで態度を豹変させたのか、本当の理由が分からない。いい気になって、入浴中に浴室へ乗り込んだり、トイレの中までも入り込んだりしたら、どんな反応を示すのだろう。僕に誘いをかけ、足を踏み込んだとたんに、しっぺ返しでもする罠を仕掛けているのだろうか。男を寝室に招き入れたところへ、撮影に乗り込んだとしたら……。他人が覗いているなどという意識もなく、自然な表情で艶めかしい姿を晒してくれるのだろうか……。実際に、そんなことを企んでいる訳ではない。ただ、この状態のいくつ先がどこにあるのか、はなはだ予想がつかない。世間というものは、最初の内は違和感を持ったとしても、無害であることが分かり、見慣れてしまえば、その存在を気に掛けなくなるものなのかもしれない。時とともに、黒衣としての僕の存在が、世間から薄れていくようだ。世間から見れば、黒衣は見慣れた世界の一風景として取り込まれたようなものなのかもしれない……。

     黒衣の衣装を脱ぐのは自宅へ帰ってからになった。初めのうちは、被写体のマンションに到着してから、人気のない時を見計らって、エントランスの隅で頭巾を被るようにしていた。ところが最近は、自宅から黒衣の衣装を着たまま出かけるようになった。世間が黒衣の存在を気に留めなくなったからだ。しかも、黒衣の格好をする期間が増えている。被写体の撮影時間が伸びているのだ。黒衣の生活が馴染んできたのだろうか。なんだか、黒衣の方が楽な気がするのはなぜだろう。外界からの干渉が減ってきたからなのかもしれない。匿名としての存在が、気楽なのだろう。だからと言って、黒衣のままで居続ける訳にはいかない。僕にだって私生活というものがある。今は黒衣の仕事がメインになってきたが、通常のカメラマンとしての仕事だってこなしている。これでも、雑誌に掲載する写真だって注文を受けているし、広告写真だって撮影する。スチル写真だけではない。たまには、動画撮影だってこなしている。黒衣の仕事の割りがいいからといって、それだけで生活できる訳ではない。そもそも、この仕事だっていつまで続くのか分かったものではない。生活の安定のためには、複数の仕事をコンスタントにこなせる環境を作らなければならない。けっして安定している訳ではない。フリーのカメラマンは、浮き沈みが激しい。たまに、実入りのいい仕事が舞い込むこともあるが、その仕事が終わると、しばらく仕事が途絶えたりすることだってあるんだ。できれば、雑誌などの専属カメラマンにでもなれれば、少しは安定した生活ができるかもしれないが。そんな地位を獲得できるのは、ごく僅かだ。

     今日はマユミが訪ねてくる日だ。マユミとは、もう3年付き合っている。ときどき僕の家に泊まっていく。結婚を考えてもよさそうなものだが、僕の収入が安定しないこともあって、結婚に踏み切れないところがある。マユミが僕の収入を頼りにしているという訳ではない。彼女だって、自分一人で生活できるぐらいの収入は稼いでいる。むしろ僕よりは生活が安定している。僕のようなフリーランスとは違って、手堅く、中堅どころの企業の正社員だ。福利厚生も整っていて、経済的な将来設計も可能だろう。結婚しても仕事を続けるつもりでいるらしい。今のご時世では、自分で収入を確保しておかないと、将来が不安なものだ。夫の収入に頼っていても、いつ失職するか分からない。大企業の社員でも、会社そのものが永遠に存続できる訳ではないことが証明されてきた。一つの職業にだけ依存する生活はリスクが高い世の中になってしまった。だから、僕らフリーランスも、複数の収入源を持つようにしなければならない。破たんは、常に僕らの背後で、襲い掛かるタイミングを見計らっている……。

    「最近忙しそうね。いい仕事が入ったのかしら」
    「わりと、実入りのいい仕事だ。ただ、いつまで続けられるか分からないのが難点かな」
    「どんな仕事なの」
    「個人客の依頼でね。個人的な趣味の撮影だから、内容まで教えてあげられないんだ」
    「あら、怪しそうね。いやらしい撮影じゃないの」
    「そんなんじゃあないんだ。とにかく、時間的に拘束されてしまうんでね。家に戻るのは寝るときぐらいな状態だよ」
    「あら、今日は大丈夫なの」
    「君のために空けたのさ」
    「うそばっかり……」

     女と過ごす時間は、自分にとってどういう価値のあるものなのだろうか。トーキョーという都市では、性別に関係なく仕事をしなければ生活できない状態が進んでいる。将来の生活が国家レベルで保証できない状態なので、老後の生活資金は自分で残さなければならない。無責任な政治家や官僚は、高齢化社会を乗り切る政策を生み出せないまま、僕たちは自分たちの生活を、自分たちで守らなければならない状態に追い込まれてしまった。正規雇用が制限されてしまった状態では、僕たちはフリーランスとして生活費を稼がなければならない状態だ。結婚したとしても、共稼ぎは必須であり、子供を育てるような余裕を持つことができない。男女が一緒に暮らすということは、愛情の結果という側面はあるものの、それだけではなく、生活に必要な資質を、共有化することで出費を削減していくことも、目的となっている。

    「最近は自炊していないみたいね。仕事で遅くなるからなのかしら?」
    「そういえば、家で食事していないな」
    「外食ばかりじゃ、身体に悪いわよ。味付けも濃いし。材料も何を使っているか分からないしね。こんなこと言わなくても、分かってるのよね」
    「今日は、君の手料理が食べられるって訳だ。久しぶりに健康的な食事……」

     自分でも忘れていたが、僕は食事には気を使う方だった。外食はなるべく避け、自炊するようにしていた。体質的に、外食で調理された料理に使われている油や調味料の類が合わない。自炊にしても、加工品の類は、添加物の影響を受けることがある。輸入肉に使われているホルモン剤にも影響を受けるほど敏感なのだ。ワインの酸化防止剤も注意が必要だ。なかには、頭痛や湿疹を誘発してしまうものもある。だから、自分にとって安全な食材を調達して、自分で調理することが当たり前になっていた。ところが、ここ最近、黒衣に変身するようになってから、撮影に没頭するあまり、自炊に気が回らなくなってきたのかもしれない。マユミに指摘されて気が付いたのだが、食事をした記憶がない。僕は、いつどこで食事を摂っていたのだろう。自宅に帰ってからは、食事を摂っていない。それは、ごみが残っていないのを見ればわかる。黒衣のままで、どこかで食事をしたのだろうが、その記憶が残っていないのだ。考えてみれば、撮影以外の記憶が定かではないのだ。黒衣の衣装を解いたとたんに、撮影以外の記憶まで脱ぎ捨ててしまったかのようだ。これは、危険なことなのだろうか……。黒衣という存在は、世間から匿名性という権利を獲得する代わりに、何かを代償として失うものなのか。この時は、少し不安を覚えたものだが、そんな不安も、黒衣の衣装を着けた途端に忘れ去ってしまったようだ。黒衣になって見える世界は、どうやら普段見慣れた世界とは異なって映るものらしい。僕は二つの世界を渡り歩きながら、撮影と編集を繰り返していった。その二重生活が、僕を確実に腐食していった……。

     久しぶりに会ったマユミの笑顔を見ていて心が和んでいく。マユミとは、たまたま、仕事先で知り合った。僕はどちらかというと、人付き合いが苦手な方で、仕事以外の話題では、なかなか打ち解けることができないでいた。会話を途切らせては、手持無沙汰にカメラを操作する。早く休憩が終わって、仕事が再開しないかと、時計を見ては、また意味もなくカメラを覗きこむ。なにかに気が付いたふりをして、一人輪を離れ、窓の外を眺める振りをする。何か物思いに耽る仕草をしては、時計を眺め、ズームレンズの焦点距離を変えながら、ファインダーを覗きこむ。時間の速度が遅く感じられ、時間を潰すために、カメラバックから交換レンズを出しては、カメラに装着をしていく。それでも時間は遅々として進まない。僕は時間からも拒絶されているのかと思い、時計を外してカメラバックに仕舞い込む。そして、また輪の方へ戻り、みんなの会話に耳を傾ける。しかし、自分から言葉を発することができないのだ。そんな僕を見かねたのか、マユミから話しかけてくれた。彼女は人の壁を乗り越えるのに苦労しない部類に属する。その成功の一端は、彼女の笑顔かもしれない。マユミの笑顔は、僕の心を和ませ、自分で作り上げていた壁に、いとも簡単にマユミ専用の扉を作り上げてしまった。僕はすぐに彼女に夢中になった。彼女の魅力に取りつかれた男は、何人もいたのだが、彼女は何かと僕を気にかけてくれた。口下手な僕に母性本能を呼び覚まされたのかもしれない。しばらくすると、僕たちは恋人同士になっていた。都会で初めて掴んだ幸運だった。

     地方から都会へ出てきた者は、最初の一人暮らしに慣れるのに一苦労だ。都会の人間が冷たいからと思うかもしれないが、実はそんなことはない。壁を作ってしまうのは、都会に住んでいる人間ではなく、地方から出てきた方だ。どこか気遅れを感じて、自分から壁を作り、溶け込むことができない。友達でもできれば、その壁も乗り越えやすくなるが、友達作りに失敗した者は、自分が考えていた以上に、孤独な期間を過ごすことになる。都会を殺伐とさせるのは、実は地元の人間ではなく、地方から都会に出てきた人間たちの方だ。彼らの排他性が、地方から新たに出てきた者たちの前に立ちはだかる。僕も最初その壁に遮られた方だった。その壁を崩してくれたのがマユミだった。

     マユミと過ごす時間が、僕を見慣れた世界へと呼び戻してくれる。黒衣でいた時間が長すぎたのかもしれない。そのおかげで、普段の生活を忘れかけていたようだ。食事のことまで記憶に残っていないくらい、黒衣の世界に没頭していたらしい。今までとは異なる環境の変化に、混乱していたのかもしれない。しばらく離れ離れになっていた恋人に再開したかのような、強烈な感情の変化に押し流されそうになり踏みとどまろうとする。押し流されそうな自分に不安になりマユミの手を握る。マユミが手を握り返す。愛おしさが僕を引き寄せようとする。僕は、こんなにも彼女のことを愛していたのか……。自分でも驚くぐらい感情が高まっていく。優しい笑顔が僕を包んでいく。いつのまにか、かけがえのない存在になっている。

    『まだ、食事の準備が終わってないのよ』調理中のマユミの腰を後ろから抱き寄せる。『食事は後回しで構わないさ』マユミは火を止める。『お腹すいてないの?』マユミの耳元でささやく。『君の方が先さ』マユミが僕の腕に手を重ねる。僕たち二人は、そのまま寝室へ向かいながら、服を脱ぎだしていた。僕は現実の世界に戻り、忘れていた感触を取り戻そうとする。マユミの身体そのものが、僕に現実の世界を思い出させてくれる。僕に必要なのは、この感触であり、この温もりなのだ。僕は空腹だった。黒衣の間、僕は何も摂らなかったのだろう。僕は空腹を埋め合わせるために、マユミの身体を味わい尽くした。唇を、瞼を、耳たぶを、うなじを、肩やひじを、そして指先を、口に含んでは、舌でなめ、軽く噛んでその存在を確かめる。そして、胸へ、腹部へ、背中、臀部、太もも、膝、足首と足の指、すべてが、僕の空腹を満たすのに必要だった。そして、潤った蜜を味わい尽くす。

     結局食事にありついたのは真夜中だった。僕たちは、満腹感を二度味わった後、片づける気力もなく、そのままソファーに横たわり、照明をつけたまま二人して寝入ってしまった。ひと眠りした後、眼が覚めた僕は、まだ寝ているマユミの横顔を眺めた。その顔を無性に撮影したくなった。僕はカメラを取り出し、ファインダーを覗いた。マユミの自然な寝顔を期待した僕は、見知らぬ顔に驚くとともに、恐怖を感じてカメラから眼を離した。そこには、やはりマユミの見慣れた顔があった。寝ぼけていたのか……。もう一度ファインダーを覗くと、マユミの寝顔があった。やはり寝ぼけていたのだろう。何枚か写真を撮ったあと、マユミを抱き上げ、寝室へ運んだ。マユミは寝ぼけながら僕の首に抱きついてきたが、ベッドに降ろすと、すぐに寝息を立てていた……。

     実物を眼で直接見るのと、カメラのレンズを通して見るのとどこが違うのか。あなたがたには、お分かりだろうか。どちらも同じさ、いやいや、視野が異なるのだからとか、被写体が浮き上がって見えるから。などなど、素人のいい加減な発言や、ちょっとカメラをかじった知ったかぶりの意見やら、答えはいずれもありふれている。質問した僕が悪かった。初めから、詰まらない答えしか返ってこないことは分かっていたことだ。無駄な質問をしてしまったのは、ちょっと誰かと話をして見たかったからだ。レンズを通して見るのは、直接眼を合わせるのが苦手だからなのさ。どうしても、こちらの卑しい心根を見透かされているような気がして、実際に見透かされている訳ではないが、どうしても不安な気持ちになってしまう。それは、鏡に映し出された、卑しい心根を持っている自分の姿を、気恥しい気持ちで眺めているような気分になるからだ。だからレンズを覗き込んでしまう。レンズを通すことで、自分の卑しい心根を見透かされることを防いでいるのさ。そう、だからこそ、自分はこの仕事を引き受けたのかもしれない。

     僕は、見知らぬ女に恋をしてしまったかもしれない。恋なんて言葉を使ってしまった。なんて甘ったるい言葉なのだろう。適当な言葉が見当たらない。黒衣の世界には存在しない言葉。僕は言葉で表現するのが苦手だ。僕が引き寄せられるのは、現実の女ではなく、レンズを通して見た女だ。女の姿を追いかけるのが、無常の喜びに変わってしまった。それがなぜなのか、自分でもよく分からない。女の姿が、カメラのフレームから消えると、急に不安になる。女の姿をフレームに収めようと、その姿を追いかける。女の姿を再び捉えたときの安堵感と喜びが、自分の心臓の動きを、小刻みに震える動悸を、心地よいものに変えていく……。

    <次章へ続く>
    第10章 二回目の報告

     
     
     
    普通の初老のおじさんです。ヘッダー画像は2024年に撮影したアムステルダム国立美術館の資料室。本が好きなので本棚に資料が詰まった写真にしました。カメラを触ることが好きです。長編小説を趣味で書いています。ヨーロッパ旅行が好きです。プロフィール画像は数年前に息を引き取ったマルチーズ。

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